〜アルミサエル戦の3日後〜
 その日、シンジはいつものように朝食の準備をするべく、眠い目を擦りながらベッドから身を起こした。スリッパを履いて部屋のドアを開ける。
 (・・・眠いなあ・・・)
 目を擦りながら洗面所へ向かおうとするシンジ。その時、彼がドアのノックを忘れていた事を、責められる者はいない。本来、死徒であるシンジは夜型生活が基本。それが早朝に起きて朝食と弁当の準備を担当しているのだから。
 ドアを開けたシンジは、自身の体に何かがぶつかった事に気づいた。
 「・・・あれ?」
 まず飛び込んできたのは、紅茶色をした球体であった。その下に2つの青い宝石。少し下には2つの山が存在している。さらに下には・・・
 止まった時間は、瞬間的に解除された。
 「ご、ごめん、アスカ!」
 「この・・・馬鹿シンジ!エッチ!痴漢!変態!」
 まるで暴風のように暴れ狂う両腕の攻撃を、全て被弾するシンジ。そしてアスカの放ったトドメの蹴りは、見事にシンジの顔面を捉え
 ガッシャーン!
 ・・・シンジが住んでいる部屋の洗面所兼脱衣所には、大きな窓ガラス(曇りガラス)がある。ここからベランダに出て洗濯物を干すのだが、アスカの蹴りを食らったシンジは見事に窓ガラスを突き破っていた。
 そのままベランダの手すりで大きくバウンドするシンジ。
 「「え?」」
 ユニゾンする声。落下を始めるシンジ。ちなみにシンジの部屋は地上10階。ゆうに30メートルの高さがある。
 「うそおおおおおおおお・・・」
 「ちょ、シンジ!」
 慌ててベランダに飛び出すアスカ。彼女が見たのは、アスファルトに咲いた、赤い花であった。

 「・・・アスカ、もう一度説明してくれるかしら?」
 早朝からシンジの家へ呼び出されたリツコは、原因となったアスカへ詰問を開始した。
 「まず、あなたがお風呂に入ろうと、裸になった、と」
 コクン。
 「そしたら、寝ぼけたシンジ君が顔を洗いに洗面所へ入ってきた、と」
 コクン。
 「あなたは恥ずかしくなって、思わず手を出してしまった、と」
 コクン。
 「トドメの一撃で、シンジ君は地上10階から落下。見事に頭部を爆ぜた、と」
 「すごいわよね、使徒って。頭部が爆ぜても生きてるなんて!」
 「そんな所で感心するな!自分がやった事を反省しなさい!」
 リツコの雷に、アスカが首を竦める。
 「アスカ!幾らなんでも、やり過ぎでしょう!10階から落とすなんて、常識で物事を考えなさい!」
 「えっと・・・学校では習わなかったし・・・」
 「そう・・・それじゃあ、私が教えてあげましょうか?」
 幽鬼のように、ゆら〜っと立ち上がったリツコの手に、猫印の薬品が握られている事を確認したアスカが、慌てて謝罪する。
 「おーい、2人とも、シンジが目を覚ましたぞ」
 志貴の呼びかけに、2人が反応する。
 「ただ、ちょっと問題が」
 その言葉に、アスカのこめかみを冷や汗が伝った。



堕天使の帰還

番外編

V
いかりしんじ、さんさいです

presented by 紫雲様




 無邪気な自己紹介は、ときに荒んだ大人達の心に一服の清涼感を齎してくれる。それほどに、幼子の無邪気さというものは、心に染みわたるものだ。
 ・・・それが外見14歳の少年の口から出なければ。
 「・・・退行ね。今のシンジ君は、3歳の頃にまで戻っているのよ」
 頭部にでっかいタンコブを作った少年を、憐みの視線で見つめるリツコ。
 「さすがに、こういうのは初めて見るわね。魔導元帥や黒騎士の鍛練でも、ここまではならなかったのに」
 スミレが少し心配そうに、末弟を見つめる。
 「お兄ちゃん、可哀そう・・・やっぱり、アスカは赤鬼ね」
 シンジを優しく抱きしめるレイに嫉妬するアスカ。だが原因が原因である為、いつものように強くは出られない。ひたすら歯を食い縛って我慢している。
 渦中の人物であるシンジはと言えば、自分を優しく抱きしめるレイを、ジッと見つめていたのだが、
 「ママ、いいにおいがする」
 「「「「ママ!?」」」」
 そのままレイの胸に顔をグリグリと押しつけるシンジ。
 「くおら!この馬鹿シンジ!」
 「ダメ・・・お兄ちゃんは私のなの」
 ギュッと抱きしめてシンジを守るレイ。その顔は、かなり赤い。
 「この・・・」
 「赤鬼はどっか行って」
 「ぬぐぐぐぐ・・・」
 女の戦いを中断させたのは、無邪気な声であった。
 「ママ、かみのけのいろがおかしいよ?」
 レイの前髪を引っ張りながら、シンジが不思議そうに見つめている。
 「ねえ、ママだよね?・・・ちがうの?ママじゃないの?」
 両目に涙を湛えるシンジを見て、慌てるレイ。
 「大丈夫よ。私はママだから、安心してね」
 「ちょっと、レイ!」
 「・・・ふふ・・・」
 焦りから一転。勝ち誇ったように笑うレイ。その表情に、アスカの内圧がグングン上がっていく。
 「喧嘩はほどほどにしなさい。特にアスカ。レイまで10階から落とされたら困るわ」
 リツコの嫌味に、アスカが必死で爆発を堪える。
 「それはそうと、結局、シンジは治るのか?」
 「・・・正直、分からないわ。とにかく様子を見るしかないわね」
 
朝食―
 「さて、困った。朝からインスタントラーメンでも良いかな?」
 シーンと静まり返る一同。シンジ以外で、まともな食事を作れる者がいないのである。
 「あなた達、シンジ君がいなかったら飢え死にするんじゃないの?」
 リツコが溜息を吐きつつ、シンジのエプロンを身につける。冷蔵庫の中を確認し、手早くお味噌汁を作り上げる。
 だが問題はこれからであった。
 今のシンジは精神年齢が3歳。当然、食事のマナーも3歳相応の物に戻る。
 「おい、雑巾はどこだ?」
 「知らないわよ、雑巾なんて、どこにしまってあるのよ!」
 「スミレさん、お兄ちゃんの着替え、取って来て貰えますか?」
 「シンジの着替えって、どこだっけ?」
 案の定、味噌汁をこぼしたシンジ。汁で汚れたシャツの交換やら、床の汚れの後始末やらで、台所は違う意味で戦場と化していた。
 シンジが無力化した瞬間、崩壊してしまった『文明的な生活風景』を眺めながら、リツコが呟く。
 「・・・不憫な子ね、シンジ君」
 リツコの同情に、シンジが不思議そうに首を傾げていた。

午前中―
 朝食後、リツコはNERVへ出勤。
 志貴やスミレ達は、再び夢の中へ。
 アスカとレイは学校があったのだが、ここで問題が発生した。
 さすがにシンジを連れていく訳には行かないので、スミレ達にシンジを任せようとしたところ、レイと離れたシンジが、母親と別れると勘違いして泣きだしたのである。
 泣く子には勝てない。そのため、レイは子守を理由に学校を欠席。アスカもレイに負けるかとばかりに、同じく欠席していた。
 「それにしても、アンタって甘えん坊だったのね」
 やっと泣きやんだシンジの頬を、アスカがツンツンとつつく。
 当のシンジはと言えば、レイにしっかりとしがみついて、ウトウトしていた。
 「アスカ、お兄ちゃんを起こさないでね」
 「・・・どうせなら、アタシにしがみついてくれれば良かったのに・・・」
 アスカが不満気に頬を膨らます。ちょうどタイミングよく、シンジが目を覚ました。キョロキョロと周囲を見回す。
 「どうしたの?」
 「ママ、おしっこ」
 固まるアスカ。レイはしばらく考えた後、顔がカーッと赤くなった。
 「ちょ、ちょっと、どうすんのよ!」
 「ええ、こういう時は赤木博士に連絡を」
 「アンタ馬鹿ア!?こっち来る前に終わってるわよ!というか、アンタ冷静に見えて、本当は慌ててるでしょ!?」
 顔を赤らめながら論争する2人の間で、シンジが体をプルプルと震わせはじめる。
 「「待って―!」」
 「どうすればいいの?アスカ」
 「・・・ええい!女は度胸よ!こっちよ、シンジ!」
 シンジの手を引いて、トイレに連れていくアスカ。その後ろにレイが続く。
 トイレのドアが閉まり、やがて、ジャーと水が流れる。
 トイレから出てきた2人の少女の顔は、入る前よりも赤くなっていた。
 「こういう時は、どんな顔をすればいいの?」
 「・・・アタシに訊かないでよ」

午後―
 ドタバタした昼食終了後、シンジはお昼寝タイムへ。精神的に疲れ切ったアスカとレイも、シンジの側でウトウトしていた時だった。
 ピンポーン
 玄関のチャイムの音に、半ば眠りこけながら、アスカが応対のために立ち上がる。
 「よお、惣流。どうしたんや?そんな眠そうな顔して」
 「アスカ、一体、どうしたの?」
 「全くだ、寝不足か?」
 トウジ・ヒカリ・ケンスケの来訪に、アスカは無意識で対応していた。
 「ちょっと、疲れてね」
 「プリント届けに来ただけだから、すぐ帰るね」
 「いいわよ、お茶ぐらい出すから、上がりなさいよ」
 3人を引きつれてリビングへ戻るアスカ。そこにはお昼寝中のレイとシンジが、しっかりと抱き合って熟睡している。
 「「イヤーンな感じ」」
 それを見たトウジとケンスケが、互いの顔を見合わせる。
 そこで初めて、アスカの意識がはっきりとしてきた。
 (・・・ああああ・・・アタシは何やってんのよ・・・)
 自己嫌悪に陥るアスカ。
 「確かブリュンスタッド君と綾波さんは兄妹だとは聞いたけど・・・こんなに仲良かったの?アスカ」
 「・・・違う、違うの・・・」
 自分の行動で、どんどん首を絞めていくアスカ。そこへシンジがパッと目を覚ます。
 「よお、センセ。おはよーさん」
 「・・・おにいちゃん、だれ?」
 シンジの言葉に、トウジ達が凍りつく。
 「何、言うとんのや!ワイや、トウジや!」
 「このおにいちゃん、こわいよ、ママ」
 ユサユサとレイを揺さぶるシンジの姿に、トウジ達は目が点となり、アスカはますます縮こまる。
 「アスカ、ブリュンスタッド君に何があったの?」
 「・・・言っても、怒らない?」
 「うん、怒らないから言ってみて」
 慈母の如き優しい表情を浮かべる親友に、アスカが縋りつく。
 「シンジを10階から落としたら、3歳児に退行しちゃったの」
 「アーースーーカーー!!」
「ヒカリの嘘つき!怒らない、って言ったじゃない!」
 「幾らなんでも怒るわよ!どうしたら、そんな非常識な行動が取れるのよ!」
 慈母から一転、鬼子母神と化した親友の剣幕に、アスカが恐怖を感じて後ろへ下がる。
 「・・・センセ、よく生きてたな。普通は入院するんやないか?」
 「というか、よくタンコブだけで済んだな。強運というか悪運と言うか」
 少年2人の言葉に、アスカが引き攣ったような笑い顔をする。実は『頭が爆ぜてました』などとは口が裂けても言えない。
 「お兄ちゃんが生きてたのは、使徒だったからよ」
 「綾波さん、起こしちゃってゴメンね」
 「いいわよ。ほら、お兄ちゃん。こっちへおいで」
 ギュッと抱きしめられるシンジを、トウジとケンスケが羨ましそうに眺めている。
 「うう・・・羨ましすぎるで、センセ・・・」
 「すーずーはーらー」
 「なんで、委員長が怒んねん!」
 「・・・トウジも十分、羨ましいよ・・・」
 ケンスケの本音は、誰の耳にも届かなかった。

3人が帰宅後―
 アスカとレイは夕食の支度にとりかかろうとして、ピタッと止まっていた。
 「レイ、アンタ、何か作れる?」
 「・・・パンとビタミン剤?」
 「アンタ馬鹿ア!?そんなの夕食とは言わないわよ!」
 激発するアスカを、シンジが不思議そうに椅子に座って眺めている。
 「じゃあ、アスカは作れるの?」
 「とりあえずカレーで良いわよね?アンタは肉がダメだから、基本は野菜カレー。肉は別に炒めて、欲しい人は自分で入れれば良いでしょ」
 冷蔵庫から野菜を取り出し、多少危ない手つきで野菜をぶつ切りにしていく。
 「アスカ、カレーは作れるのね」
 「カレーぐらい作れるわよ!人聞きの悪い」
 「あとはご飯を炊いておかないとね」
 レイが米櫃から米を取り出す。
 「量は?」
 「さあ、適当で良いんじゃない?」
 「分かったわ、任せて」
 電子ジャーの釜、半分ほどにまで米を入れるレイ。
 「アスカ、水はどこまで入れればいいの?」
 「あのねえ、先に洗わなきゃいけないでしょうが」
 「そうなの・・・初めて知ったわ」
 アスカが水を入れ、米研ぎを始める。まるで腕力で米を押し潰すかのように、ゴリゴリと音を立てながら。
 「むう、いつまで経っても白いままねえ」
 「本当ね、きっと汚れが酷かったのね」
 「こういう時は洗剤よ!」
 この20分後、リツコはアスカとレイからSOSの電話を受ける事になる。
 曰く『電子ジャーから泡が噴き出てきて、漏電している、と』
 
夕食後―
 やっと起きてきたスミレ達と、スーパーで白飯を買ってきたリツコを交えて、夕食を済ませた後、更なる問題が勃発した。
 「そういえば、シンジのお風呂、どうする?」
 スミレの発言に、アスカとレイがギギギッと音を立てて顔を向ける。シオンはお茶を啜りつつ知らん振りをし、志貴は苦笑していた。
 「そ、それは恋人であるアタシが・・・」
 「ダメ、妹である私がするの」
 少女の間に火花が飛び散る。当のシンジはと言えば、キョトンとした顔で2人を見上げていた。
 「お風呂入るの?」
 「そうだから、ちょーっと待っててね、シンジ」
 「ママ、少しだけ忙しいの。少し待っててね」
 互いの両手をガッチリと掴みあい、正面から力勝負を始める2人。
 「おいおい、喧嘩するぐらいなら2人で入れてやればいいだろうが」
 志貴の言葉に、ハッとなるアスカとレイ。
 「「行くわよ!」」
 シンジの手を引っ張り、浴室へとダッシュする。
 その後、浴室から喧嘩する声が聞こえてきたのは御約束である。

就寝時―
 ぐっすりと眠るシンジを挟んで、2人の少女は睨みあっていた。
 「レイ、早く寝ないと、明日起きられないわよ?」
 「アスカ、あなたこそ早く寝ないとダメよ?」
 2人の目的はただ一つ。シンジを抱き枕にすることである。
 「・・・うー・・・」
 目を覚ましそうになるシンジに気づき、慌てて『シー』とジェスチャーする少女達。奇妙な所で息がピッタリであった。
 結局、ベランダから雀の鳴き声が聞こえてくるまで、彼女達はお互いに牽制しあい、寝不足に悩まされることになる。

翌日―
 電話の音に、アスカは眠い目を擦りながら、布団から這いだした。時間は朝の7時。受話器を取ると、かけてきたのはリツコであった。
 「アスカ、おはよう」
 「なんだ、リツコか・・・ふああああああ・・・」
 「随分、眠そうね。それはともかく、シンジ君の事だけど、学校へ連れて行って貰えないかしら?」
 リツコの発言に、アスカは眠気が瞬時に吹き飛んだ。
 「アンタ本気で言ってんの!?」
 「当たり前でしょ。記憶喪失の人間に、普段と同じ場所で生活させる事で、記憶を取り戻しやすくなるという治療方法があるけど、それと同じことよ」
 「まあ、確かに一理あるけどねえ」
 あまり乗り気ではないアスカに、リツコがからかうように続ける。
 「母性本能を刺激されるシンジ君を、クラスメートの女の子に見せたくないのかしら?」
 「・・・悪かったわね!ええ、そうですよ!その通りですよ!」
 「でもねえ、他に方法が無いのよ。いつ、使徒が来るかも分からないしね」
 「むう・・・分かったわよ、連れてけばいいのね?でも学校へは説明しておいてよ」
 乱暴に電話を切るアスカ。受話器が弾んで床に落ちる。そこでレイが目を覚ました。
 「おはよう、アスカ。誰から電話だったの?」
 「おはよう、レイ。リツコがシンジを学校へ連れて行け、ってさ。しょうがないから、支度をしましょう。時間ないから朝はトースト、お昼は購買で良いわね?」
 レイが頷いたのを確認すると、アスカは台所へ向かった。
 シンジのタオルケットをかけ直してあげたレイは、何気なく床に落ちていた受話器を戻そうとして、電話のナンバーディスプレイを見て首を傾げた。
 「・・・赤木博士からの電話じゃなかったのかしら?」
 ディスプレイにはウィリスと表示されていた。

第1中学校2年A組―
 シンジが退行を起こし、3歳児にまで精神年齢が下がってしまったという事実は、大きな波紋を起こしていた。
相変わらずレイの事を母親だと思い込んでいるシンジは、レイを『ママ』と呼び、それこそ母鳥のあとをついて回る雛鳥を彷彿させる。加えて目を覚ましていれば無差別に『天使の微笑み』を振りまき、寝ていれば寝顔と寝言で女子生徒を陥落させるのだ。当然、女子生徒からは歓声が上がっている。
そんなレイとシンジを眺めながら、ヒカリがポツリと呟いた。
「綾波さん、って母親似なのかしら、アスカ?」
「・・・リツコに聞いた限りじゃ、そっくりみたいよ?レイの髪の毛と目の色を栗色にすれば、まるで同じ顔だ、って言ってたわ」
ムスッとした顔で、つまらなそうにシンジを見ているアスカ。
「それにしても、ブリュンスタッド君って、小さい頃はお母さんベッタリだったんだね」
「・・・どうも、リツコがシンジと話してみた限りでは、今のシンジは、ママが亡くなった直後らしいわ。そのせいで、レイから離れたがらないのよ」
アスカの言葉に、ヒカリだけではなく、周囲にいた生徒達がシーンと静まり返る。このクラスにいる生徒達は、NERVの都合により、母親がいない者だけで構成されている。口にこそ出さないが、母親との記憶は掛け替えのない宝物なのだ。
「リツコが言ってたわ。退行が治ったら、その間の記憶、シンジは忘れちゃうかもしれないんだって」
「じゃあ、ブリュンスタッド君は・・・」
「きっと覚えていないでしょうね。アイツ、ママの顔も知らない、って聞いた事があるけど、折角、ママの事を思い出しても、治ったらそれで終わり。キレイさっぱり、消えちゃうのよ」
「なんや、納得でけへん話やな」
トウジが頭を掻きながら、悔しそうに呟く。ヒカリもハンカチで両目を抑えながら、必死で堪えていた。
「レイ、トイレは大丈夫?行ってくるなら、代わりに面倒みてるから」
「そうね、アスカお願い」
抱きついて眠っていたシンジを、レイがアスカに渡す。その瞬間、シンジが目を覚ました。
「起こしちゃった?」
プルプルと首を振るシンジ。
「あのね、ママ。ぼく、いかないといけないの」
「どういうこと?」
「あのね、ぼくのたいせつなひとがまってるの。なまえは・・・なんだっけ・・・」
シンジの発言に、クラス中の注目が集まる。
「えっと・・・あ・・・あ・・・あ・・・おもいだせない。なんてなまえだっけ?」
(((((ひょっとして、アスカか?×40)))))
ヒカリがアスカを肘でつつき、トウジとケンスケが『イヤーン』と唱和する。
「黙りなさい!この2馬鹿コンビ!」
上履きでスパンスパンと叩くアスカ。
「良かったじゃない、アスカ!ブリュンスタッド君、アスカの事・・・」
「うう・・・馬鹿シンジ、恥ずかしすぎるわよ・・・」
羞恥と歓喜で全身を真っ赤に染めるアスカ。
「おもいだしたよ、ママ!」
「何て言う子?」
 ・・・ゴク・・・
生徒達が固唾を呑んで見守る。
シンジは無邪気な笑顔とともに、元気よく叫んだ。
「えっとね・・・あやなみレイ!
硬直するアスカ。すでに正気を手放し、意識は遙か彼方へと飛び去っている。
「・・・なあ、センセ、なんで綾波やねん」
「あのね、ぼくのいもうとなんだよ。ぼくがまもらないといけないんだよ」
勇気を奮ったトウジを、シンジが不思議そうに見つめ返す。その顔は『当然でしょ?』という表情である。
「お、おい、トウジ、さがれ」
ケンスケの声に、トウジは顔を上げ、即座に恐怖で凍りついていた。
「シーンージー・・・」
「あれ?おねえちゃん、どうしたの?なんで、おこってるの?こわいよ・・・」
「お姉ちゃんは怒ってないわよ。うん、全く怒ってないわ」
両手を組み、バキバキと音を鳴らすアスカ。その顔は不自然な笑顔を作っている。
「おねえちゃんは、なんで、はをくいしばってるの?」
「それはね、食い縛りたいからよ」
「おねえちゃんにつのがみえる」
「これはね、インターフェイスって言うのよ。で・も・ね、角に見えて悪かったわね!
アスカの右ストレートがシンジの顔面を捉える。
ガシャン。
「あ」
窓ガラスを突き破り、ベランダを越えて落下を始めるシンジを見て、アスカが間抜けな声を上げる。
「お兄ちゃん!」
「アスカ!あなた、何やってんのよ!」
「お、おい、センセ!」
窓際に駆け寄った生徒達が見たのは、腐葉土を敷き詰めたばかりの花壇に、頭から突き刺さった、犬神家の一族なシンジの姿であった。

NERV―
 「・・・アスカ、もう一度説明してくれるかしら?」
 氷点下の声に、アスカは首を竦めた。
 「え、えっとね、リツコ。言い訳、してもいいかな?」
 「言ってみなさい」
 「2階から落としちゃいけない、って学校では習わなかったのよ・・・って、ゴメン!お願いだから、猫薬はやめてよ!」
 ふっふっふ、とマッド笑いを上げるリツコに、アスカが本気で恐怖を感じて後ずさる。
 「そうね、弐号機パイロットで命拾いしたわね、アスカ」
 「うう、リツコが怖い・・・」
 「冗談はともかく、アスカ、あなたもいい加減にしなさいよ?自分の手で、シンジ君を殺したいなら別だけどね」
 「もう2度としません・・・」
 ガックリと項垂れるアスカ。そこへ内線が入る。
 「先輩ですか?シンジ君が気が付きました」
 「そう、容体はどうなの?」
 「そ、それが・・・」
 アスカの頬を、冷や汗が伝わり落ちた。

 「あの・・・ここはどこなんでしょうか?」
 ガックリと崩れ落ちるアスカ。リツコは煙草に火を点けながら、明後日の方角へ目を向けている。
 「アスカ、言わなくても分かるわよね」
 「・・・アタシが悪かったわよ!でも、なんで記憶喪失になんかなるのよ!」
 アスカに同情する者は、一人もいなかった。

 その後、見かねたシオンがエーテライトで記憶を操作するまで、シンジの記憶喪失は続いたという。



Fin...
(2010.05.08 初版)


(あとがき)

 紫雲です。今回もお読みくださり、ありがとうございます。
 今回は番外編3ということで、最後の平和な日常風景に焦点を当ててみました。
 正直な話、最初は記憶喪失ネタで行くつもりだったのですが・・・結果はこんな感じになりました。もし楽しんでいただけたのなら幸いです。
 さて、次回ですが、ついに第17使徒タブリスこと、渚カヲルの登場となります。最終話まで、あと少しですので、もうしばらくの間、お付き合いください。
 それでは、また次回もよろしくお願いします。



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