番外編 Ⅱ
presented by 紫雲様
徐州陥落から1月後、建業―
「こ、困ったのです。一体、どうしたら良いのでしょうか」
孫呉の武官にして最高峰の密偵周泰幼平―真名・明命はすっかり困り果てていた。彼女の腕の中には、グッタリと弱り切り、か細く泣き声を上げる仔猫が抱かれていたのである。
事の起こりは、少し前。
久しぶりに休日を与えられた彼女は、彼女にとって至福の時を与えてくれる場所―野良猫の溜り場へと足を伸ばした。
そこで思う存分『お猫様』を愛でた彼女であったが、ふと視界の片隅に引っかかる物―元気の無い子猫に気付いたのである。
何らかの事情で親猫が居ない仔猫は、明らかに飢えに苦しんでいた。それを察した彼女は、すぐに助けに入ったのである。
だが問題は、仔猫に与える乳をどうするか?であった。
「どうしたら良いのでしょうか・・・そうだ!こういう時こそ穏様に相談しましょう!」
仔猫を抱いて、すぐさま王城へ向けて走り出す。障害物は身体能力と密偵としての体術に物を言わせて、いとも容易く乗り越えていく。
仔猫を助けたい一心で、穏の仕事場を目指す明鈴。だが彼女は不在らしく、室内には人影一つ無い。
ならば、と再び移動を再開。次に向かったのは―
「いましたあ!」
「あらあら、明命ちゃんじゃないですかあ」
彼女がいたのは軍議の間。呉王である雪蓮を筆頭に、筆頭軍師である冥琳、副軍師である穏、客将である仲達、宿将である黄蓋が顔を並べていた。
「む、緊急事態か?」
「はい!穏様!おっぱいを下さい!」
「・・・はい!?」
シーンと静まり返る一同。そんな中、冷静な声が響く。
「捥ぐのか?切り落とすのか?ねじ切るのか?どちらにしろ伯言殿が重傷を負うと思うのだが」
「ち、違います!人を猟奇殺人犯みたいに言わないで下さい!私は穏様なら母乳が出るかと思いまして!」
「・・・流石に私、妊娠経験は無いですから、母乳はちょっとお」
「と言うか落ち着きなさい。一体、何が有ったと言うのよ」
「こ、この子が!」
明命の腕の中で弱々しく泣き声を上げる仔猫に、事態を理解する一同。その視線が一斉にある人物を向く。
「何故、そこで儂を見る!?」
「いやあ、祭なら出産経験あるかなあ?と」
「幾ら儂でも無いわ!」
激怒する祭。遠回しに年増宣言されたも同然なのだから、怒るのは仕方ないのだが。
「明命。市場へ行って、牛の乳を買ってこい。とりあえずは、それで代用が利くだろう」
「ありがとうございます!冥琳様!すぐに市場へ」
「待て。牛の乳を与えるなら、常温の水で薄めてからにしろ。そうしないと仔猫が下痢を起こすぞ。最悪、脱水症状で死んでしまう」
シーンと静まり返る一同。その視線は、最高会議を終えて立ち去ろうと荷物を纏める仮面の軍師に向けられていた。
「確かに伝えたぞ。では先に失礼させて頂く」
「ちょ、ちょっと待って下さい!仲達様!」
「仔猫の方が優先順位は高いだろう。何か有るなら後で自宅へ来い。どうせ見張りを付けているのだから、場所は知っているだろう」
そのまま軍議の間から立ち去る仲達。その後に続くかのように、走り去る明命。そんな2人の後ろ姿を、残された者達は呆然と見送る事しか出来なかった。
建業、司馬仲達邸―
仔猫の飢死にという危機を乗り越える事が出来た明命は、すぐに仲達邸へと向かった。仲達に指摘された通り、見張りをつけている為、場所は彼女も知っている。その為、スンナリと目的地へ到着する事が出来た。
ただ彼女にとって予想外であったのは、同行者の存在である。副軍師である穏、友人である亞莎、上司(?)である思春が仲達邸の前で待ち構えていたのであった。
「あれ?どうしてこちらに?」
「あはは、まあ色々とありまして」
軍師である穏は、このタイミングで仲達が明命に対して害を及ぼしてもメリットが無いから、仲達が害を及ぼすとは微塵も考えてはいない。それでも足を伸ばしたのは、単に同行者2人の暴走を未然に食い止めようと言う考えがあったからである。と言うのも、亞莎と思春の2人は仲達に対する心象があまり良くなく、心配するあまり時間を割いて仲達邸へと足を向けたのであった。
「さて、では行くぞ。この先は敵地だ。何が起こるか分からんからな」
「あのお、ここって仲達さんのお家なんですけど」
「だからこそ用心すべきだ」
何故か愛剣である鈴音を抜き放ち、臨戦態勢の思春。脇に控える亞莎も、暗器をいつでも取り出せるように準備は万端である。
「おいおい、人の家で何を物騒な物構えてんだよ」
真後ろからの声に、慌てて振り向く一同。そこに居たのは赤い髪をポニーテールに纏めた、白馬に乗った少女―白蓮であった。
「こんにちは」
「ああ、久しぶりだな。伯言殿。徐州の引き渡しの時以来か」
「穏?知り合いなのか?」
「そういえば、思春さん達は初めてでしたね。こちらは元・幽州太守の公孫瓚将軍。あの白馬長刺と呼ばれた人ですよ。今は仲達さんの実働部隊を束ねる方です」
いきなりのVIP登場に、慌てて武器を仕舞う思春。祭から徐州攻防戦の顛末は訊いている為、彼女が孫呉の為に戦ってくれた事も知っていたからである。
「で、今日は何の用事なんだい?」
「あ、あの!仲達さんに用事が有るのは私なんです!申し遅れましたが、私は呉に仕える周泰幼平と申します!」
「私は公孫瓚。好きに呼んでくれ。それで用件って言うのは?」
「はい、この子の事で相談が有りまして」
腕の中で丸くなって、静かに寝息を立てる仔猫。これは流石に予想出来なかったのか、白蓮も目を丸くする。
「なら仲達に代わった方が良いだろう。今呼ぶから、少し待ってくれないか?」
「はい、お願い致します!」
「おーい、仲達!お客だぞ!」
白蓮が戸を開けて仲達を呼ぶ。するとしばらくして、中から件の人物が姿を現した。
最早見慣れた仮面に黒装束―薄暗い屋敷の中では、仮面だけ浮かび上がってちょっとしたホラーなのだが―に『こいつは家でもこうなのか』と呆れる思春。
だが―
「貴様、その恰好は何だ!?」
「何がおかしい。料理の際、汚れの付着を防ぐ為に、この様な前掛けは必須だろうが。それとも貴殿は、料理の際にその恰好のまま厨房に立つのか?それは少々非常識だと思うが」
「そうではない!何故、その様に可愛らしい物を着けているのだお前は!」
心底不思議そうに、エプロンを摘まむ仲達。その指先が摘まんだのは、ピンクの生地にフリルの付いた、とても可愛らしい逸品―新妻仕様である。
「どうせ身に着けるなら拘った物を身に着けるべきだ。良く人前でのみ衣装を整える者達がいるが、アレはいかん。人目につかぬ所でも細部まで拘るべきなのだ」
「お前は男に惚れた純情一途な乙女か!似合わんからやめろ!」
「無茶を言うな。今の私は料理の真っ最中。この前掛けを外す訳にはいかん」
「あのお・・・今、料理と言いましたか?」
割って入ったのは意外な事に亞莎。その吊り眼は、明らかに驚愕で大きく見開かれていた。
「そうだ。これでも4人家族の厨房を預かる身なのだよ」
グリンと一斉に4人が白蓮へと顔を向ける。その行動に得体のしれない不気味さを感じつつも、白蓮はゆっくりと口を開いた。
「そ、そうなんだよ。仲達は料理が上手くてな、下手に私達がやるより遥かに上手だから、つい甘えちゃってな」
「・・・料理が上手、なのですか?」
「当然だ。とりあえず家に上がれ。このまま外で立ち話では、先に進まん」
仲達の後ろに続くように家に上がる一行。すると、そこへドタドタと足音を立てて走り寄る影―
「仲達!」
「む、どうした美羽」
「勉強が終わったから一休みなのじゃ!む、後ろにいるのは」
美羽の視線が孫呉御一行様へと向けられる。美羽と面識のある穏や思春は『何故ここに』と思いつつも、祭からの徐州攻防戦の顛末を思い出して『居候か』と自分で答えを導き出した。
「美羽。もう少しで夕飯が出来る。少し休んでいろ」
「そうするのじゃ。それより仲達!何故、お主は家の中で仮面を被っておるのじゃ!家の中では仮面を取る!それが妾や七乃との約束じゃろう!」
「む、すまない。外すのを忘れていた」
アッサリ仮面を外す仲達。その下から現れた幼さを残す容貌に、後ろの少女達が小さく息を呑む。
「それでは皆さんは居間でお待ち下さい。あとでお茶をお持ち致しますから」
「・・・仲達?」
「はい。どうかしましたか?」
慇懃無礼な態度から一転、突如、礼儀正しくなった仲達の態度についていけない思春。残る3人も差は有れど、やはりついていけないのか目を丸くして硬直するばかり。
「美羽。悪いけど居間へ案内頼んでも良い?」
「うむ、任せるのじゃ!」
「ありがとう、美羽。それじゃあ頼むね」
「・・・は!?」
何の前触れもなく、思春は意識が覚醒した。
自分の身に何が起こっていたのか。その答えを得ようと、まずは身の回りの把握から始めようと周囲を見回す。
その結果、明らかに呆然自失状態の同行者3名と、4人分のお茶、昼寝中の仔猫の存在に気付く。
3人とも息をしている事を確認すると、次に自分が何をしていて、何処に居たのかを思い出そうとする。その結果、仲達の家に明命を心配して足を伸ばした事を思い出した。
「3人とも、目を覚ませ!」
「「「は!?」」」
「明命、亞莎。お前達衣服に乱れはないか?乱暴された形跡は?」
「思春さん?どうして私には心配の言葉が無いのでしょうか?」
「気のせいだ」
孫呉でも1・2を争う物体から視線を外しつつ、周囲の気配を探ろうとする思春。そこへガラガラと音を立てて、居間の入り口が開かれた。
「む、そこをどくのじゃ」
両手に湯気を立てた皿を持つ美羽。鼻孔を擽る、食欲を誘う香りに『ああ、すまない』と素直に横へ避ける思春。
「美羽様、もう少し横へずらして頂けますか?」
「うむ、これぐらいで良いかの?」
「はい、ありがとうございます」
美羽、七乃が持ってきたのはチンジャオロース、肉まん、野菜の煮物、果物のカットした物である。そこへ白蓮が買ってきた酒を更に持ち込み、最後に仲達が炊いたご飯をお櫃ごと持ち込んだ。
「お酒より御飯が良い人は?」
スッと手を挙げる亞莎と明命と美羽。
「はいはい。足りなかったら言ってね。まだご飯はあるから」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ食べようか。幼平さんの要件については、食べながら聞くよ」
早速伸ばされる無数の箸。その先が口に含まれた瞬間、ガックリ項垂れる影。
「・・・負けました」
「・・・同じです」
「・・・悔しいが、負けを認めざるを得ないな」
「・・・あうう・・・」
「七乃。こやつらはどうしたのじゃ?」
「そっとしておいてあげましょうね、美羽様」
女のプライドがズタズタな状況に、苦笑するしかない七乃。ただ1人だけ状況を理解出来ない主の頭を優しく撫でる事も忘れない。
「まあ良い。それより仲達、この肉まんを食べるのじゃ。妾も手伝ったのじゃぞ」
「うん、ありがとう・・・美味しい」
「そうかそうか!好きなだけ食べるのじゃ!」
心の底からの笑みを浮かべる美羽。そんな彼女の姿に、かつての彼女を知る穏と思春は内心では驚きを感じていた。
(・・・おい、穏。あれは本当に袁術なのか?)
(・・・その筈です。その筈なんですけど、どうやっても本人とは思えませんね)
(・・・全くだ。あの我儘蜂蜜娘が、他人の世話を焼くなど信じられん)
「そういえば」
突然の声に、内緒話を中断する2人。その声の持ち主は、そんな事には気付いていないらしく、そのまま続けた。
「今日は仔猫の事で来たんですか?」
「は、はい!それでですね、この子を預かって頂けないかと。私は任務で家を空けたままにする事が多いので、親を必要とするこの子の世話をしてあげられないのです」
「なるほど。そういう事か。どうする?」
「妾は賛成なのじゃ!」
元気よく手を挙げる美羽。
「まあ本人も望んでるし、家主としては了承するよ」
「あ、ありがとうございます!」
「良いのじゃ!では仔猫よ。これより妾を母と思うが良いぞ」
明命から手渡された仔猫を抱きながら、ご満悦な美羽。
「ところで、名前をどうするかのう。何ぞ良い名は無いか?仲達」
「そうだなあ・・・月か詠か叶と言った所かな」
「うむ、良い名じゃ。ならばお主はこれより叶と名乗るが良い」
うにゃあ、と一声鳴く仔猫。その可愛さに、頬擦りする美羽。
「あの、仲達さん。ありがとうございます!お礼代わりと言ってはなんですが、これより私の事は明命とお呼び下さい」
「真名呼ばせちゃっても良いの?僕、返せる真名を持っていないんだけど」
「そんなの関係ありません!お猫様に優しい人に、悪い人などいません!」
力説する明命に、思わず同意してしまう仲達。そこへ美羽の元気の良い声が響く。
「仲達!妾は叶と一緒にお風呂へ入って来るのじゃ!」
「はいはい。それじゃあ私も一緒に行ってきますね」
「・・・お風呂?お風呂があるんですか?」
「そりゃあお風呂ぐらいあるよ、毎日入らないと汗でべたついて気持ち悪いし・・・って、どうしたのさ!そんな驚いた顔して!」
「いや、驚くのは当然です!毎日お風呂って贅沢の極みじゃないですか!どれだけの燃料代がかかると思っているんですか!」
「燃料代?0だけど」
「「「は?」」」
目が点になる4人。そんな彼女達の困惑の理由に気付いたのか、白蓮が笑いながら割って入った。
「どうせだからお風呂も使って帰れよ。そうすれば、理由が分かるからさ」
翌日―
「仲達がそんな事を?」
「はい、考えもしませんでした。料理の際に竈へ石を入れておいて、それを水を張ったお風呂に入れておく。確かに燃料代はかかりません。それから、あの石鹸と言う見た事も無い道具。濡らした布で泡立てて体を擦るんですけど、汚い話ですが汚れが良く落ちるんですよ」
昨日の仔猫飢え死に騒ぎから始まった仲達邸での一件を聞いた雪蓮と冥琳は、仲達邸のお風呂に軽い驚きを覚えていた。
「それにしても祭様の仰っていた通りでした。明命ちゃんと亞莎ちゃん、転んじゃいましたね。2人とも真名を許しちゃったんですよ」
「え!?ちょっと本当なの!?」
「はい。仲達さん、仮面外すと可愛らしい顔立ちなんですよ。おまえに言葉使いも慇懃無礼じゃなくて、ちゃんと親に躾けられた感じの礼儀正しさを見せるんです。おまけに料理は完璧で、性格も優しいお兄ちゃん気質と来れば、かなりの優良物件ですよ。亞莎ちゃん男に免疫が無いですから、その反動が来ちゃったんじゃないでしょうか?明命ちゃんの場合は、仔猫への対応も理由でしょうけど」
『そうでなければ真名を許す訳がありませんからねえ』とあっけらかんと口にする穏。そう言っている彼女も、真名を許してしまったのだが。
そこへドタドタと足音も荒く入って来る人影。何事かと目を向ければ、そこにいたのは思春である。
「雪蓮様!仲達との決闘をお許しください!」
「はあ!?一体何が有ったのよ!」
「私が新兵の鍛錬をしていた所、仲達が通りかかり『何を効率の悪い鍛錬をしているのだ』と言ってきたのです!しかしながら私に言わせればあれ以上の鍛錬は考えられません!」
「・・・ふむ、仲達。どういう事だ?」
「何も知らぬ子供に武器を持たせるような物。そういう事だ」
思春の後ろで肩を竦めているのは仲達である。その仲達の言い分に思春の血圧が更に上昇するが、冥琳は仲達の言い分を理解出来たのか『なるほどな』と口にした。
「雪蓮。この揉め事、私が裁定しても良いか?」
「それは構わないけど」
「よし。ならば両名に命じる。2人に新兵100を与える。これより1月の時間を費やして、それぞれが考える鍛錬を施し、1月後にその成果を見定めさせて貰おう。何か質問はあるか?」
「ならば質問を。その鍛錬と成果は、今後の孫呉の軍事面に影響を与えると考えても良いのか?」
「良い結果を受け入れるのは当然の事だ」
「ならば必要な物がある。川のほとりに近い練兵場、あそこにある物置きを使わせて貰いたい。それから牝牛が必要だが、それの経費は私が勝った場合のみ実費請求と言う形を取って貰いたい」
「ふむ、良いだろう。それから亞莎を仲達に着けるぞ。丁度いい勉強の機会だ。あの子にもしっかりと学んで貰わないといけないからな」
1ヶ月後―
新兵鍛錬勝負。その結果を比べる日がやってきた。
「では、まずは思春からだ」
「は!こちらが私の鍛えた精鋭になります!」
思春の鍛えた新兵達は、将軍達から見ても感嘆の溜息が出るだけの結果を伴っていた。勿論、元は新兵なのだから実力はたかが知れている。だがその眼に宿る意思の光は、不屈の心を感じさせるだけの物が有った。
だが―
「確かに良い面構えだ。だが少々怪我が多いようだな。報告によれば、12名が現在、怪我の治療中という報告を受けている」
「は。その通りです。精鋭とする為、厳しい鍛錬を施したのですが、それについてこられなかった者達です」
「うむ、分かった。では次は仲達だ」
冥琳の言葉に、頷く仲達。その仲達が鍛えた兵は、思春の兵に比べて明らかに見劣りのする兵であった。
目に宿る意思の光は、明らかに思春の兵のそれと比べて見劣りするのである。
その事に気付いた者達は、誰もが仲達の負けだと確信し―
「仲達。落伍者0という点は評価に値するな。怪我も軽傷止まりか」
「まあな。詳細については、そちらに提出した報告書を見て貰いたい」
「うむ。すまないが祭、明命、こちらに来て貰いたい」
突然の呼びかけに、首を傾げながら冥琳へ近寄る2人。そんな2人だったが、冥琳から手渡された報告書へ目を通す内に、小さい唸り声を上げ始める。
「これは儂の考えが甘かったようじゃな。すまんな、思春。この勝負、儂は仲達の勝利とする」
「・・・申し訳ございません、思春様。私も祭様と同様です。これを見せられては、もう何も言えません」
「ど、どういう事だ!?」
誰もが状況を理解出来ずに困惑する。その空気を破ったのは冥琳であった。
「では説明しよう。だが、ここは敢えて亞莎に任せる。亞莎、この報告書は仲達の基本指示に従い、お前が作成したのだろう?皆に詳しく説明してやってくれ」
「は、はい。では説明させて頂きます。仲達殿は今回の新兵鍛錬において、精鋭を鍛えるつもりは最初から無かったのです」
いきなりの発言にシーンとなる一同。それは勝負相手である思春も同様であった。
「まず仲達殿はこう言われました。人には向き不向きがある。それは新兵も同様だ。ならば新兵が一般兵、細作、遊撃兵、精鋭のどれに対して適正があるのか?その者の将来性を調べた上で、基本的な鍛錬のみを施す。そうすれば、後は自分以上にその道に詳しい方が厳しく鍛え、その者の才能や素質を引き出してくれるだろう、と」
「・・・この報告書を見て下さい。私が受け取ったのは、細作として鍛えれば、それなりの実力を発揮出来るであろう者達の情報なのです。基本的には俊敏で、なおかつ頭の回転が早いと言う評価がされています」
「儂の場合は弓術に長けた者達じゃな。後は馬術に対しても、一定の成果を出せたと言う評価をされておる。儂の下で遊撃兵として鍛えれば、面白い事になるじゃろう」
全員の視線が、一斉に仲達へと向けられる。
「次に鍛錬方法ですが、先程も申し上げた通り、基本的な鍛錬を徹底しました。基礎体力の構築と、規律的な集団行動の2点を追求しております。熟練兵程ではありませんが、基本的な陣形であれば、この様に実演する事も可能です・・・仲達兵!方陣を取れ!」
亞莎の言葉に、仲達の鍛えた兵が一斉に方陣を取る。
「次は円陣!」
続いて円陣。
「最後!鶴翼の陣!」
一糸乱れぬ統率に、おお、と感嘆の声が上がる。
「集団行動は以上です。続いて基礎体力の構築ですが、基本的には筋力の向上と持久力の向上。その為に、荒地の開墾作業を行わせました」
「開墾作業?」
「はい。彼ら新兵は、元は大半が農家の出です。いきなり兵として鍛えようとしても、そう上手くは行きません。ならば彼らが馴染み深い作業を通して、基礎体力の向上に励ませようと考えたのです。その具体的な方法が開墾です」
「・・・のう、亞莎。開墾作業じゃが、そこまで良い鍛錬なのかの?」
祭の当然と言えば当然の質問に、周囲からも賛同の声が上がる。
「祭様の仰る通りです。しかしながら水路作成の為の岩石や土砂の運搬、鍬を振っての開墾、どれもが重労働です。更に今回は、敢えて開墾作業の際に後回しにされるような、不便な土地を優先して開墾したのです」
「ほう?それはまたどうしてじゃ?」
「理由は2つです。1つはきつい作業になる分、新兵の鍛錬成果が、通常よりも良い結果を見込めると言う点。2つ目は孫呉と言う国家視点から見た場合、国費を余分に払う必要が無い点。民を徴発してお金を払って開墾するなら、開墾に向かない土地よりも、簡単に開墾出来る土地を開墾すべきです。その方がより広い土地を耕作出来るからです。しかし兵を使うのであれば、費用は兵の給料のみ。それなら難しい土地を耕作出来る様にし、開墾が容易な土地は民を活用した方がより利益を生み出す事が出来ます」
「呉の軍師として言わせて貰えば、とても有り難い鍛錬と言える。税収が増えるのは、正直助かるのでな。ちなみに仲達の鍛錬による開墾により、30の農家が新たな土地で生活を始める事が出来るそうだ」
ざわめく一同。兵は基本的に金や兵糧を消耗するのが仕事だが、まさか兵が生産に寄与出来るとは誰も考え付かなかったのである。
「それから新兵の疲労回復にも目を向けています。具体的には食生活とお風呂の活用です」
亞莎の言葉に、目を丸くする孫呉メンバー達。確かに食生活は重要だが、何故、お風呂と言う贅沢品が出て来るのかサッパリであった。
「まずは食生活から。仲達殿に言われました。人間は何故、滋養のある食べ物を摂るのか?それは滋養のある食べ物は、すべからく人間の体を作り上げる材料となる物を多く含んでいるから、摂取する事が奨励されているそうです。仲達殿によれば、これは栄養学と呼ばれる学問だそうです」
「栄養学、ですか?」
「はい、詳しい事はまた後ほど説明致します。それからお風呂についてですが、これについては実際のお風呂をご覧になって頂きたいのです。川のほとりの練兵場まで、ご足労をお願い致します」
好奇心を擽られたのか、全員が素直に後へ続く。やがて到着したのは、倉庫として放置されていたボロ小屋―の筈であった建物。ただ今は外側全てが、まるでコーティングでもされているかのように土を塗られていた。
「これは何だ?」
「中の温度を上げる為の物です。仲達殿によれば、これはサウナと呼ばれるお風呂の1つだそうで、ここより遥か西方の地―羅馬の北方にある極寒の地で愛用されているお風呂だそうです。ではまずは仕組みをご説明いたします。足元に気を付けてお入りください」
先に中へ入った亞莎が、灯りを点ける。中は細かい隙間を土で覆われ、真っ暗である。唯一の光源である灯りに照らし出された小屋の中は、床の上に板が敷き詰められていた。
「仕組みはこちらです。こちらの鉄製の箱の中に、竈の熱で熱くなった石を放り込みます。その後、少しずつ水をかけ、湯気を発生させます。その湯気を小屋の中に貯めこみ、十分に暑くなった所で、兵達を四半刻中で我慢させました。これにより血の巡りを良くする事で疲労回復を図ります」
「これは良いな。実際に体験してみたい所だが・・・」
「そのつもりなら、ここは止めておけ。一応は男用なのでな」
「分かった。ならば後で適当な所で試してみるか・・・すまん、話を中断してしまったな。亞莎、続きを頼む」
師の言葉に、コクンと頷く亞莎。
「あとは汗だくになった所で、そこの河に飛び込ませて垢を擦り落とさせました。しかしこれだけでは、疲労は回復できますが、それで終わりです。そこで仲達殿は、先程出てきた栄養学と呼ばれる学問を活用したのです」
「滋養のある食事、じゃったな。具体的には?」
「兵に求められるのは頑健な体。すなわち頑丈な骨格と、強い筋肉、長時間の激務に耐えられる持久力です。それを強化してくれる食事を兵に摂らせました」
こちらへどうぞ、と亞莎が別の場所へ一同を案内する。その先に居たのは、雑草を食む一頭の牝牛である。
「まずは1日3回、この牝牛の乳を兵に飲ませました」
「ほう?効果はあるのか?」
「仲達殿によれば、牛の乳の効能は骨を太くし、筋肉を発達させ、病気に対する抵抗力も与えてくれるそうです。仲達殿の母国では、幼い子供を健康的に成長させる為に、毎日飲ませるのが当たり前だったそうです。仲達殿ご自身も、毎日飲んでいたと伺いました」
「・・・母国?仲達、貴方、司馬家の人間じゃないの?」
気付いたのは雪蓮である。仲達が洛陽出身だと聞いていた為、母国=漢でなければ矛盾が発生する。だが漢には牛の乳を飲む習慣は存在しない。となれば、仲達の母国は漢では無いと言う事になる。
「まさか気づいていなかったのか?司馬八達は八人姉妹だ。私が偽名を使っている事等、気付いていて雇っていると思っていたのだが」
「そこで開き直るな!」
「まあ気にするな。私が仲達を名乗る限り、私が仲達なのだから」
仲達の開き直り振りに、一同の後頭部に大きな汗粒がタラリと滴り落ちる。
「え、ええと続き、宜しいでしょうか?・・・では続きを。今度は食事です。骨を強化する為の青魚。これは鰯を中心とした、骨ごと食べられる魚を中心としています。次にお肉。これは筋肉の発達を促します。この2品を交互に食する事で、骨と筋肉の両方を効率よく成長させる事を狙っていました」
「亞莎の説明の補足だ。これは我が師から教わった知識でな、医食同源という考え方に基づいている。要は『治療させたい』『発達させたい』と考える部位と、同じ物を食べれば良いと言う物だ。例えば骨が弱い者であれば、骨を食べれば良い。そうすれば骨を構成する材料を体が吸収し、骨を成長させてくれる、と言う考えだ」
「なるほどな、確かに筋が通っている考え方だな」
「以上が仲達殿の鍛錬の内容になります。何かご質問は?」
「・・・1つ訊きたい。何故、その様な事をした?新兵は戦う為にいる。ならば、戦場で生き残れるように、厳しく鍛えるべきではないのか?」
思春の言葉に、頷く仲達。
「私はその為に厳しく鍛えた。それが間違っていたと言うのか!」
「いや。甘寧将軍の鍛錬は正しい。ただ鍛錬相手を間違えていただけだ。将軍の鍛錬は、新兵にとっては高度すぎる。故に精鋭を鍛えるには、これほど素晴らしい鍛錬は存在しないのだ。私はその為に兵を篩にかけただけ。後は、それこそ将軍の仕事だろう。私には精鋭兵を鍛える程の武は無いのでな」
「・・・そうか・・・済まなかったな、仲達」
To be continued...
(2015.07.04 初版)
(あとがき)
紫雲です。今回もお読み下さり、ありがとうございます。
今回は時間軸を戻して、孫呉でのドタバタ騒動という話にしました。
ちなみに今作における孫呉のヒロイン枠の1人である蓮華ですが、またもや出てきておりませんw多分、この頃は雪蓮の名代として会稽辺りにいる為だと思います。下手に上の役職に就いていると不遇になるんでしょうか?白蓮みたいにw
話は変わって次回です。
次回は本編に戻り、曹孫連合軍による許昌侵攻前に起きた事件になります。ゲームにおいて起きた孫呉の○○暗殺イベント(被害を被るのは○○ではありませんが)をネタとしてみました。彼女が孫呉のメインヒロインを張れるかどうかは、自作の出来次第だと思いますw
それではまた次回も宜しくお願い致します。
作者(紫雲様)へのご意見、ご感想は、または
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