そっと歩こう、彼女はこの雪の下にいる。
静かに話そう、彼女はひなぎくの芽生えを聞いている。

彼女の艶やかな髪は錆ついてしまった。
幼くも美しかった彼女は塵に帰った。

愛らしく育った彼女は、それでもなお
雪のように、白百合のように、無垢だった。

彼女の上に、棺の蓋、重い石。
彼女は眠る、私はひとり心を閉ざす。

平和を、平和を、その声は届かない。
竪琴もソネットも、彼女にはもう届かない。
埋められたのは私の命、私の全て。
上に土を山と盛れ。



            [オスカー・ワイルド/REQUIESCAT/意訳]






雨が降る。


黄色い雨、赤い雨、青い雨。
雨が降る。炎の雨が舞い降りる。
べとついた地下の湿気を吹き飛ばし爆音と共に降り注ぐ。

「明日の世界?」

轟音という雨音の中でさえ響く男の声。

「ふざけんな」

低く吐き捨てるその声は臓腑に染みて。

「此処は世界の果てだ」

黄色い閃光、赤い業火、青白い炎が男の横顔を照らす。

「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールドだ」

降り注ぐ破片と崩れ落ちる瓦礫と倒れ伏す鉄柱を避ける事無く佇む影。

「そうだろう?」

男の姿をした影が笑う。唇の端を歪ませて笑う。

「ジ・エンドなんだよ」

そう、御仕舞いだ、この馬鹿騒ぎも御終いだ。
歪んだ口元から隠す事無く露になる犬歯。


「貴方、あなたは、何て、なんて事を! 」


女が叫ぶ、張り上げた声は悲鳴にも似て。
その声を塞ぐ様に爆音、炸裂、閃光、業火、豪炎。
切り離された鉄柱、パージされたアブソーバー群が崩れ落ち黒き月を揺らす。

「今何をしているか解かっているの !? 」
「ああ、解かってるさ」
「なら止めて! このままじゃ月が」

崩れ落ちた巨大な鉄柱と岩の塊の下敷きとなり押し潰されて行く黒き球体達。

「ああ、ああっ! 」

振動という断末魔を上げ潰されていく子供達、一万余の球、一万余の世界。
その光景を前に前に成す術も無くただ叫ぶ女。佇む男の形をした影。

「世界が、みさとが、明日が」

眼に驚愕と憎悪を湛え女が、眼前で笑う男を睨む。

「解かっているの!? タージエは再構築出来ても、黒き月は!
 何の為のアブソーバーなのか解かっているの!? これを外してしまったらもう」

黒き月外殻に備わる復元力、それはヒトの穿った穴さえ閉ざす。
干渉を阻むように穿孔する度復元し開けては閉じより硬く強固に。
やがてそれは穿孔だけではなく外部からの振動でさえも反応を引き起こす。
己に対する微かな刺激すら反応、より強固な外殻を再構成し硬く閉ざそうと成長する黒き月。
その為の緩衝地帯、その為のアブソーバー群、振動を与えぬように、黒き月がこれ以上自閉しない様に。
そう、自閉なのだと誰かが言う、まるでこれは ―― 心の壁、そのものだと。

「まさか」

何かに気付き女が足元に眼を向けると、異質な地を這う振動と唸り声が直下から響き始める。
メキリ、メキリと何かが軋む音、それは瞬く間にバキバキと何かが折れる音へと変化し、やがて。
閉ざされる事無く封印された直下の大穴、その縮小を止める為の支柱が折れる、多層甲板が潰される。
ヒトの技術が限界を迎え、穴が ―― 消える。

「貴方の目的は」

外殻が波打ち脈動し小さな世界の群れを呑み込んで行く。
表面の黒き球、小さな月の子供達がその波に揺れうねりの中に姿を消す。

「コードA-17」

男の握り締めた拳が静かに開く。手の平から砕けた携帯の破片が堕ち、血が滴る。

「プロジェクトアルカ及びジオフロント破棄フェイズ」

天災、漏洩、バイオハザード等の緊急非常時に発令される一斉破棄展開コード、A-17。

「それを何故貴方が発動出来るのよ! あれは最高位のコマンドで、形だけの、誰も発令なんて!
 何よりもまずジオフロント管制を統括するMAGIによる遂行無くしては実現不可能な」

途切れた言葉、その瞬間女の脳裏に浮かぶもの。
頂点に君臨するMAGI - SYSTEMを支配下に置ける事の出来るのはMAGIのみ。
そう、MAGIだけだ、ならば。

「ダヌ」

DANU ―― ダヌ・システム。
アーキテクト・マギによる最上位命令系統の書き換え。それは確かに可能だ、しかし。
それを行う為に幾多の抜け道を、そして数多のブラックボックスを開封せねばならぬのか。
その術を女は知らない。それは製作者である赤木ナオコでしか、だが彼女亡き今となっては。
しかし思考が其処に辿りついた瞬間、女の脳裏に浮かぶ顔。

「とう、さん? 」

―― この中にはあんたが居る。
―― そしてこの中にはまだ、貴方が居るのね。

女の記憶に浮かぶもの。十五年前、夜の湖畔で対峙したナオコと彼が交わした会話。

「そうさ」

海老タカヒロ、魔女のゴーストビルダーと呼ばれた男。

「プログラムを組んだのはノブさんだがな」

自らの幻想に喰われた男、ノブ。嘘のプログラム、偽の人生。

「それを海老さんが本物にした」

嘘を真にしたのは幽霊。ただ一人の女、その妄執と共に生きた影。

「あとは、こいつでパスを流し」

加持の手から滴る血、潰された携帯の破片が落ちる。
キタから手渡されたメモ、アルファベット十三文字 ―― " cogito ergo sum "
コギト・エルゴ・スム、我考える故に我在り、それは隷属からの自立を促すコマンド。

「解除せず、接続を落とせば良い」

公安の監察官という肩書きを持つ加持に与えられた携帯。
この街であれば何処でも、例え地下であろうとも位置情報を常に発信する犬に付けられた首輪。
上と下の街、その淵を歩く物に与えられた命綱、故に常時接続を義務とし信号途絶は非常事態を意味する。

「街師の連中は此処を作る際にたった一つ仕掛けを施した。とても簡単な仕掛けを」

黒き月は誰にも破壊出来ない。アルカも街師も、それだけは出来ない。
例えそれを思いついた者が居たとしてもそれだけはどうしても出来ない。
それが設定、この月が作り出した世界のヒトである限り最後まで決して切る事の出来ない糸。

「スイッチを作ったのさ、自分達では押せない奴を」

アブソーバー内に仕込まれた炸薬は、それだけでは黒き月を破壊出来ない。
だが、それを発火させた場合どのような結果になるのかは自明の理、故に彼等はそのスイッチを押せない。

「その為に俺は生かされた」

昔、試算されたとある事象。曰く、建造時に与えすぎた刺激により外殻に蓄積されたストレスは飽和に近い。
もし、これ以上大きな刺激を、そう例えば黒き月の外殻へ向け同時に満遍なく振動を与えた場合
外殻の成長は二乗的に促進されやがて内部空洞は全て消失 ―― 完全に自閉した只の塊と化す。

「それがADAMの正体だ」

生まれる筈の無かった完全なイレギュラー。

「それが王の役割だ」

加持リョウジの名を与えキャストファイルに忍ばせた毒薬。

「ただ糸を切る事しか出来ない無力の王」

シナリオ・ブレイカー。

「それが俺ならば」

天井から昇る一際大きな火柱が男を包む。

「俺は仕事をするだけだ」

一瞬のまばたき。吹き荒れる業火が女の視界を塞ぐ。

「お前聞いたな、みさとに何かしたかと? 答えは否だ、俺は何もして居ない」

何もして居ねえんだよ、と声がする。眼を閉じてさえ瞼を焦がす炎の中から声がする。

「俺は、俺の仕事を果たす、それだけだ」

女が薄目を開ける ―― 居ない。
火柱も、炎も、男の姿も、消えた。

「どこ? 」

揺れる視界と肌を焼く熱風の中、消えた男の姿を探し女が叫ぶ。

「何処なの! 加持君!」

一瞬、視界の奥で四肢を持った影が動く。
崩れ落ちる景色の中、辛うじて巨大なリフトに支えられ佇む図書館、その中へ消える男の影。

「待って!」

女が駆け出す。男の影を追い揺れる建物の中へ、炎に照らされたホールを抜け閲覧室へ。
割れた天窓から降り落ちるガラスの雨の中、木張りの床を蹴り燃え上がる本棚を越え進むとそこに。

「なん、で」

車椅子に座り動かない、女が抜け殻と呼んだかつてリツコだったものを抱きかかえる男の姿。

「なに、を」

わななく唇が開く。

「何をしているの」

激情が喉を振るわせる。

「何をしているのよ! 」

何故なら抜け殻を抱く男の瞳は、とても優しくて。

「私が、リツコ、よ」

しかし、加持にその声は届かない。

「何故その抜け殻にこだわるの!? 私はここよ!」

声を枯らし女が叫ぶ。

「あなたのリツコはここよ!だから見て、私を見て! 」

もっと私を見て! 私だけを見て! ねえ見てよ!

「うるさいよ、お前」

静かに顔を上げる男。

「あの子が望んだ? 違うだろ。それはお前の望みだ」

その顔はもう、笑っていない。

「俺がお前の言う通りの存在なら、そういうモノなら。
 あの子が俺の子なら、何かの望みを叶えようと動く。お前はそれを利用した」

その瞳は何も見ていない。

「あの子は何も望んじゃいない、ただ与えられた役割を果たすだけだ。
 俺の写し身であるならば、望む誰かに創られた存在であるならば、それだけだ」

ただ、映している。

「俺の眼を見ろ」

反射する何かを、映している。

「お前は、誰だ? 」

男の瞳の中、瞼を見開く女の顔。
見えてしまった、離れている筈なのに見えてしまった。
男の瞳に映る己の姿が見えてしまった ―― 黒い髪、丸顔、童顔。

「違うッ! 」

女が眼を閉じ叫ぶ。違うこれは仮の姿だ、私はリツコだ。戻れ、早く戻れもどれもどれ。
冬月リツコだ赤木リツコだこの男が愛しこの男を愛した女だ、だからこれは違う間違いだ違う違う違う。

「違わねえよ」

男が静かに吐き捨てる。

「こいつは俺と約束した」
「だから何を」
「お前が知る訳無ぇだろう」

何故ならそれこそが加持とリツコ、唯一のアイデンティティ。

「俺達がこの世界に確かに居たという存在証明、アリバイだ」

こいつは、りっちゃんは、冬月リツコは。

「だから、お前はその約束を知らない。それだけは知らない」

その約束だけは渡さない、決して渡さない。

「なあお前は一体誰なんだ? 」
「だから私よ、私は」
「私とは誰だ」
「私は」

不意に女が口ごもる。わたしは、わたしは、その先が出ない。

「合わねえんだよ」
「何が」
「数だ」

女は言った“もったいないからもらった”と。
“キョウ”と“シン”、二つのハンドルネームを駆使した伊吹マヤというキャストを。

「藤木シンジが消失したあの日。犠牲者は三人」

ログに刻まれていた名前、シンジ・キョウ・シン。
同日同時刻の犠牲者は三人。一人は昏睡、二人は手遅れ。
その女がダブルアカウントならば犠牲者は二人だけの筈。

「伊吹マヤ? お前何ふざけてんだ? そんな女は存在しない」

そう、存在しない。エヴァンゲリオンという物語、それ以外には。

「お前がそう見えただけだ、何故ならこいつらは」

未決案件のレポートに記されていた名前、藤木シンジと、あと二人。

「イブキとマヤ」

双子の姉妹。同じ場所、同じ回線。二つの端末。

「お前にはそう見えたんだな、一人に」

イブキとマヤ、同一回線からのアクセス。そしてエヴァンゲリオンのキャスト。
二つの名前と同じ場所、吸収した情報に統合される知識、イブキ・マヤ、伊吹マヤ、
そして“それ”は手に入れる。短い黒髪、丸顔、童顔、もう一つの姿。
リターナー達が紡ぎ出したエヴァンゲリオン、そのキャストファイルから作り出された姿。
そう、作り出してしまったのだ。この世界には居ない、記号でしか無かった存在、伊吹マヤを。

「嘘、私は、そんな、違う!」

両手で顔を覆い戻れ戻れとそれは呟く。
そして“それ”に再び問う加持。

「なあ、お前は誰なんだ」

女の輪郭が歪む。

「私、わたし、あたしは」

童顔の丸顔がより幼く、栗色の瞳は青く、炎に照らされた金髪が赤く燃え。

「違うだろ」

少女の髪の毛が青に変わる、白い肌、赤い瞳。

「それも違う」

そして再び少女は女になる、黒く長い髪、大きな胸。

「それすら違う」

赤木リツコ、伊吹マヤ、惣流アスカ・ラングレー、綾波レイ、葛城ミサト、そして。

「お前は集め過ぎた、記号を刻み過ぎた、抱えすぎたんだ、情報を」

そして混ざる。金髪童顔、赤と青のオッドアイ、大きな胸。
何処かで見た、誰でもない誰かへ向け加持が言葉を吐き捨てる。

「あの子が望んだ? 」

ふざけんな、と吐き捨てる。

「それはお前の望みだ」

冬月リツコを、眼の前で朽ちて行く存在を、自分を産み出した女を。
30周期のリミッターを架せられ終わりつつある彼女を、衰弱して行く母親を見て“それ”は思う。

「望まれた存在が、望みを持っちゃいけねえな」

消えたく無い、と“それ”は思う。

「お前もあの子の一人だろ? 」

望まれた数だけ生まれる並行存在。

「それすら忘れやがって」

誰かが望む、その誰かを苗床に増殖する存在。

「お前は、こいつの“みさと”だった」

男が、胸元に抱くリツコへ視線を落とし呟く。

「こいつの為だけの、だがこいつはそれを拒んだ、違うか? 」

何故ならこいつには、俺がいる。

「だからお前はこいつになった。己の身を保つために」

情報を吸い取り“自分を望むリツコ”と成り切る事で己の存在を保つ。
輪を切り取り、ねじり、表と裏を繋げるメビウスの様に、終わりと始まりを繋ぐ蛇のように。

「まるでウロボロスの蛇じゃねえか」

尾を食む蛇、その伝説。循環と永続と始原と無限と完全を意味するという、しかし。

「知ってるか、その蛇は」

男の瞳、嫌悪も愛憎も無い透明な瞳。“それ”は理解する ―― これは、わにの眼だと。

「最後に消えるんだぜ」

透明な眼をした男が放つ。

「俺はお前なんか知らない」

最期の言葉を。

「失せろ」

手を伸ばす、男に向け手を伸ばす。
けれど何かを掴もうと伸ばした腕は既に無く。

「あはっ」

踏みとどまろうとした右足も、逃げ出そうとした左足も、爪先から消えて行く。

「あははははっ、あははっ、あはははははははははっ」

もう笑うしか無かった。

「おしまいなのね」

姿が、存在が、消えていく。何も無かったかのように消え落ちる。

「でも」

それでも私は、だからこそ伝えたい。

「貴方はまだ気付かない」

昼間、病院で見たあれは。

「私よりもっと、いえ、もっともおそろしいものが」

私ですら喰おうとしたあれは。

「それを知ったとき貴方は、どうなるのかしら」

あれは、わたしじゃない。

「余計なお世話だ」

しかし、男の言葉は最期までつれなくて。
貴方らしいわね、と声に出そうにも喉元すら既に無く。
笑う、“それ”が笑う。あきらめたように笑う。







そして、消えた。






おねえさんといっしょう

presented by グフ様







静かだった。
館内に燃え拡がった炎も、窓の外崩れ落ちる世界も。
爆炎も、轟音も、その音は遠く、とても遠く。
その耳には静寂だけが降りていた。


―― ねえ、約束して。


彼はただ、抱きしめる。


―― この先、何があろうとも。


足元に広がる炎の中、抱きしめる。


―― 私が、私でなくなっても。


髪は錆付き、痩せ細り、からからになった灰のような彼女を。


―― あなたは、あなたで居て。


変わり果て、それでもなお、変わらなかった唯一人の女を。

「ああ」

錆びた女の髪に顔を埋め、加持が呟く。

「この匂いだ」

鼻腔に広がるおんなの香りを、深く吸う。

―― す、け、べ。

その時、乾いた女の唇が震え、音を放つ。

「あのなあ」

男は顔を上げ、驚きもせず女の唇に自分を重ね。

「んっ」

微かな喘ぎ、口を離し乾いた女の唇を舐める。丹念に、丁寧に、濡らす。

「遅いわよ」

湿った唇から漏れ出た音が繋がり、言葉と成る。
抜け殻に宿る微かな生気、そして女が眼を開ける。

「悪かったな」
「ふふっ」

男と女、額を合わせ微笑む加持とリツコ。

「約束、守ってくれたのね」

リツコが笑う、その男が加持として自分の前に居る事、それだけが嬉しくて。

「あのね」
「ん? 」
「ごめんね」
「ばーか」

あの日の別れ。それは彼女が、彼に課した最後の通過儀礼。

―― 容赦しねえよ。

その言葉に彼女は安堵する。
大丈夫だ、この男はもう大丈夫だ。私が消えたとしても彼は彼だ。
例え私が私じゃ無くなったとしても、例え彼の前に立とうとも。
立ちふさがろうとも、この男はこの言葉通り容赦なく打ち倒す。

大丈夫だ。だから私は心おきなく ―― 狂おう。

そして彼女は背を向ける。自分がやるべき事を、最後にやらねばならぬ事を。
アルカに赴いたリツコは母から受け継いだスキル、アルファである自分、全てを差し出す。
立ちはだかる壁をなぎ払い打ち倒しまとわり付くものすら非情を以って斬り裂いて。
多くの代償を惜しげもなく払い彼女は中枢へ、その先へ、もっと奥へ、更に奥へ。
そして辿りついた深奥、MAGI - SYSTEM 生体基幹部、管理者でしか触れ得る事の出来ない領域。
辿りついた、やっと辿りついた、保存されていた受精卵、私の、私達の子供、しかし。

「喰われやがって」

それは既に、目覚めていた。

「うん」

目覚めていた“それ”は、けれどまだあやふやで。
自分が何か解からずに、薄紅い液体の中で身をよじりただ蠢く。
その姿を見て彼女の瞳から零れる涙。これはまるで、かつての私。

「聞こえたの」
「あの子のかい? 」
「ええ、だって」

わたしはなあに、わたしはなあに、わたしはだあれ、ここにいていいの? わるいの?
ねぇ、ねえおしえてよ、わたしはなに、わたしはだれ、いきるの? いきていいの? それともきえるの?
ねえ、おしえてよ、ねえ、ねえっ! ―― それは声にならない叫び、彼女にしか聞こえぬ声。

「私はその声を知っていた」

この子と同じだ、自分も同じだ、自分もかつてあやふやなものだった。
製作者にして母、赤木ナオコの妄執が生んだ産物、生まれるべきではなかったもの。

「生きるという意志が、どんなに凄まじいものか、知っていたのに」

血と肉片に塗れ絶望に沈んだあの夜、それでも彼女は願った ―― 生きたい、と。

「いえ、知っているからこそ」

彼女は願う、あの日のように。在れ、ここに在れ、愛しいものよ、ここに在れ。

「願わずにはいられなかった、けれど」

私と共に ―― しかし彼女はそれを願うことは出来なかった。
それだけは決して願ってはならなかった。何故ならあと数年、数周期でこの体は朽ちる、私は終わる。
私と共に在れ、それを願ってしまったらこの子は私と共に終わる、それだけは。

「だからこそ、ひとりで」

故にリツコは願う ―― あなたは、あなたとして在れ。
私が居なくとも、自分自身で立つものであれ、と。
それはかつてリツコが加持を自身の隷属から解き放つ為に渡した言葉。
共に居る為に二つになろう、傍らで寄り添い支え合おう。
いつかどちらかの命尽きるなら、残るものはその想いを継いで進もう。
渡されたのは命のバトン、いつか誰かに託すその日まで。

「でも、早過ぎた」
「当たり前だ」
「うん」

あなたは、あなたで。
しかし自立という意味を理解せぬ“それ”は思う ―― 要らないのだ、と。

「突き放されたと思うよな」

ああ、そうだ。わたしを生んだこのひとは、わたしを望んで無い。わたしは要らないのだ。
そして“それ”は自立する、親に捨てられたそれは、生きる為に親を喰い、為り変わる。
自分がリツコであると思い込み、挙句、彼女に為り変わる。全て食い尽くしたと。

「そんなつもりは」

無かったのに、と消え入りそうなリツコの声。
抜け殻は、それでもいいと思った。この子が私に為る事でその身を保つなら、それでも。
けれどひとつだけ、これだけは。唯一渡さなかったもの、それが約束。

「焦りすぎだ」

泣き出しそうな彼女の顔を、加持は胸に抱き寄せる。

「だって」

リツコの瞳が震え、つう、と零れる涙。

「あの子を連れ出したかった、一緒に行きたかった」

一度は諦めようとしたあの子、でも、それでも諦め切れなかった。

「あの子と共に、貴方の元へ」

一年でも一月でも一日でも一時間でも一分でも。
いいえ、それが例えこの体が崩れ落ちる刹那の一瞬でも構わない。
貴方の下へ、この子と、わたしと、貴方と、三人で一緒に。

「家族で、居たかった」

家族 ―― それはかつて、加持が願った唯一のもの。その為にこいつは。

「馬鹿野郎」

加持が唇を噛み締める。
なんて愚かな女だ、馬鹿野郎、この馬鹿野郎が。
なんて愚かで、なんて馬鹿で、そして、愛しい。
お前は愚かで馬鹿で、だからこそ愛しい、誰よりもいとおしい。
もしこいつを哂う奴が居るのなら俺の前に立て、噛み殺してやる。

「ばかやろう」

加持は抱く、鶏がらのような体を折らぬように優しく。
けれど思いを込めて抱きしめる。離さない、離したく無い、だから。

「なあ」

俺を ―― と言いかけた男の唇に添えられる指。

「駄目よ」

震える女の痩せ細った、けれど確かな意志を込めた指。

「何故、だよ」

加持が驚く。解かるのか、俺の言おうとしている事が、解かるのか、と。

「おねえさんは、何でも知っているのよ」

だから駄目、とリツコは笑う。残る力を口元に集め、微笑む。
何故、何故なんだよ、と加持が呟く。生きてくれ、その為に頼むから俺を ―― 俺を喰え。
お前なら出来る筈だ、俺を創ったのなら、それがお前の願いなら、もう一度ひとつになろう。
そう、かつてひとつだったあの頃に。だから俺を喰え、俺を喰らい尽くしお前はお前と為れ。
俺はお前の中で、片隅にでも置いてくれればそれでいい。それだけだ、たったそれだけのことだ、だから。

「俺を」

その瞬間、加持の眼が変化する。
まぶたの動きとは直角に、前方から後方へ瞬間的に広がっていく何か。
それはまるで、白く透明な膜のようで。それはまるで、わにが水中に潜る時に眼を覆う瞬膜。
そして音が響き出す。ぞぶ、ぞぶ、ぞるっ、ぞるっ、と何かが湧き這い出る音。
加持の形をした輪郭が歪む、徐々に黒く黒く覆う影。
十五周期に渡り保ってきた加持リョウジという記号を捨てようと ―― しかし。

「泣いて」

リツコの言葉で音が止まる。歪んだ輪郭は再び加持に戻り彼を覆う影が霧散する。

「わたしは、それでいい」

透明な膜が消えた加持の片目から、すう、と流れる一筋の涙。

「それだけで、いい」

ひとつでは出来ない事、誰かを思い流す涙、ふたつだからこそ出来る事。
静かに頷く加持。それがお前の願いなら、お前が残れというのなら、お前が生きろと言うのなら。
知っているだろう、俺はお前の願いを断る事なんて出来ない、それだけは出来ない、くそったれ。
流れる涙を拭おうともせず加持はただリツコを見つめる。震えるリツコの指がその涙を拾う。
暖かいその感触をいとおしむように濡れた頬を撫でる。
リツコは見つめる。加持の顔を、最期に見るもの、それを眼に焼きつけるように、やがて眼を閉じ。

「ありがとう」

そして。

ぱしゃっ、と水の弾ける音。
紅い水が加持の頬を胸を濡らし、彼女は消えた。













【第四話】クロコダイルドリーマー ―― Ⅷ ――













かつて、それはひとつだった。
たったひとつのものだった。

けれどそれは、ふたつになった。
ふたつになり、やがて二人になった。

そして今、一人になった。

ひとりぼっちの影が物言わず佇む。
始まりと終わりの場所で、自閉する黒き月の頂上で。
加持リョウジという名の記号を持つ男が立ち尽くす。

音がする、直下の月が閉じる音。
その自重に耐え切れず最期のアブソーバーが軋み、やがて。
焼け落ちた図書館その瓦礫の中、くすぶる炎の中で加持はただそれを聞いていた。

やがて迎える限界 ―― 黒き月が、沈む。

バキバキバキッ、と加持の立つ瓦礫の下に埋まる中央リフトと外殻を結ぶワイヤーが解ける。
程なくして解かれた中空から地の底へ沈んで行く巨大な黒球。

それはかつて黒き月と呼ばれた。

何処からかこの世界に打ち込まれ、舞台を造り、人形達を産み落とし、糸を廻らせ踊らせた。
しかし今、この世界の書割が落ちる。沈みゆくその音はきっと、誰かが叩く手の響き。
さあ終わりだ終わりだ御終いだ、祭りは終わりだ御仕舞いだ、還れ返れ家に帰れと叩く音。
男はただ、それを聞いていた。中空に辛うじて残ったリフトの残骸、その上で。
まるで帰り損ねた観客のように、終わった余韻に立つ事を忘れた子供のように。
加持はただ聞いていた、小さな世界の終焉を。

そして彼は世界を見下ろす。

先ほどまで立っていたそこを。
愛しいものと、愛しかったものとを見送った場所を。
瓦礫の下へと、その場所が今、沈んでいる。
加持リョウジは、そういう記号を持たされた彼は、ただそれを見下ろしていた。
月のゲートは、加持がそこを出た時からすでに閉じかけていたが、今ではすっかりと塞がれて。

まるでゆりかごのようで、そして棺のようで。

ああ、そうなのだろう。これは棺だ。ゆりかごを降ろし塞がれた棺。彼女の。彼女たちの。
ばきばきと、音を立てて中央リフトと外殻をつなぐワイヤーたちが解けていく。
黒く巨大な球形の棺は、まるで自ら張り巡らせた糸と共に消え行くように、ワイヤーたちを道連れに沈んで行く。

不意に、視線を上に向ける加持。

ゆらゆらと揺れる中空、天空から釣り下がるワイヤーと幾本の鉄柱の果て、天頂に開いた開口部。
彼方の穴から昇りきった月が見えた、ただそれだけの筈だった、なのに。

「誰だ」

加持が呟く。誰も居るはずの無いそこから、遠く地上から感じる視線。
何か居る、何かが俺を見ている ―― 加持が眼を凝らしたその瞬間。





「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」




落ちてくる、何かが落ちて来る。




「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」




得体の知れない何かが落ちて来る、得体の知れない叫び声を上げ凄い何かが落ちて来る。




「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」




黒い髪を振り乱し、半分涙目ヤケクソの雄叫び上げて落ちて来る。



「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」




腰にロープを巻き付かせ、ソバカスデコが落ちて来る ―― そして。




「っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」








ごすうっ。







酷く鈍い音。
たぶん、加持の額とあいつのデコが直撃した音。
なんかもう、いろいろと台無し、そんな音。
ぶらぶら揺れるリフトの上で、頭を抱え転げまわる男と宙刷りのまま悶える女。

「ってーなッ!この石頭!」

起き上がり加持が怒鳴る。

「何で真下に居るんスか! ってゆーかフツー避けるでしょこのエアヘッド!」

眼の前にいきなり現れた女、お約束のアオバ参上。

「ああっ、縄がっ、荒縄がっ、純真な乙女のカラダに食い込んでっ、ああっ、ああッ」

ぶらぶらぶらり中空で自分を縛る縄を解こうとじたばたもがく行き遅れ。

「ああんらめえっ!そんな所食い込んじゃらめえっ! たす、たすけて、センパぁはァィっ! 」

ふうっ、と大きく溜息をついて足元に散らばる破片、その一つを手に加持がロープを切る。
ぼすん、と埃を上げ尻餅をつくアオバ。

「てへっ」
「てへっ、じゃねーだろ! 何て無茶しやがんだてめえ! 」
「愛しいセンパイの為なら例え火の中水の中穴の中どこだって飛び込みますよバンジー!」
「何がバンジーだよ! この高さからそんなんやったら普通腰折るぞお前馬鹿だろうばかー!」
「楽しいのに! バンジー! 」
「うるせえよ!」

へへへー、と笑うソバカスデコに毒気を抜かれ半ば唖然とする男。

「ほら」

差し伸べられた加持の手を取りよろけながらも立ち上がるアオバ。

「いやー、センパイの携帯マークしてたんスけど、いきなり消えて足跡追って来たら
 ある筈の中央図書館が無くて、代わりになんか大穴開いてるし、煙吹いてるし、どっかんどっかん音するし。
 しゃーないんで、こんな事もあろうかと車に積んでおいたウインチ引っ張り出してロープ巻いて。
 んで何も考えないでつい飛び込んじまったッスよ」
「いや考えろよ、少し考えろよ、っていうか何でそんなもん積んでるんだよ」
「だからこんな事もあろうかと」
「ねえよ」

まあいいか、こいつはこんな奴だ、慣れた。
やれやれ、と首を振る加持。

「しかしまあ、派手にやりましたねえ。何なんスか、ここ」
「さあな」

ジト目のアオバ、何処拭く風の加持。

「まあいいッス、後で吐いてもらいます、とにかく」

ぶらり、とぶら下がるロープを手繰り寄せ再び体を縛るアオバ。

「なんかヤバそうなんで脱出しましょ」
「ん、ああ」

けれど、加持の返事はどこか曖昧で。

「俺は、大丈夫だ」

そして微笑む。初めて見る透明な笑顔。
吸い込まれそうなその顔を唖然と見つめる女。

「先、行っててくんねえかな」

しかし笑う男の顔は何処か儚くて。
まばたき一つで消えてしまいそうで。

「セン、パイ?」

アオバは直感する、このヒトは、こいつは。

「なに、かんがえてるんス、か」

わななく唇で男に問う。

「ん」

と返す男の顔は、とても、とても優しくて。
けれどひどくあやふやで、目を閉じれば本当に消えてしまいそうで。

「何考えてるんスかぁッ!」

その刹那、アオバが加持の胸倉を掴み叫ぶ。

「あんたはッ!」

叫び大きく頭を振りかぶり、強く激しく額を撃ち付ける。

「――ッ」

加持の鼻から拭き出す血。しかし胸倉を離さず容赦なくその額を何度も何度も。

「あんたはッ! あんたはッ! 貴方はッ!」

ゴスッ、ゴスッ、ゴスッ、と暗闇の中で鈍く響く連撃。

「何勝手に逝こうとしてるんスかぁッ! 」

視界に星を散らしアオバが叫ぶ。
ふざけんな、アタシをさんざ掻き乱しておいて、ふざけんな、アタシを置いてお前は。
逃がさない逃がすもんか、アタシを、わたしを、私を独りにするな。
ゴスッゴスッと音が響く、その音が痛みがこの男をここに繋ぎとめる唯一ならば。
痛い、痛い、何度でもやってやる、痛い、痛い、何度でも、痛い、痛い、大丈夫だ。
痛い、痛い、大丈夫だ、痛い、まだ痛い、大丈夫だ、まだ ―― この人はここに居る。

「アオバ、お前」
「うるさいッ!」

額から滲む血と瞳から撒き散る女の涙が加持の視界を覆う。

「離すもんか! 絶対、逃がすもんかぁっ!」

胸を強く抱きしめ、足で腹にしがみ付き女が泣く、泣き喚く。

「っく、ぜったい、離す、ひっく、もんかぁ」

醒めて行く、男の中で何かが。
痛みと涙と叫びその中で醒めて行く、静かにしかし確実に。
醒めて覚めて冷めて ―― 素に戻る。

「わかったよ」

まったく、お前は。

「わかったから、な? 」

ふうう、と大きく息を吐き男が呟く。
そして力を込めしがみ付く女を抱き止める。

「く、ひっく、い、いきまひゅよッ」

半ベソのアオバが手にしたリモコンのスイッチを押す。
やがて垂れたロープのテンションが徐々に上がり、二人の身体が宙に浮く。
その瞬間。

「あ」

泣き止んだアオバが思わず声を上げる。
役目を終えたとばかりに彼等の足元、リフトの残骸が崩れ奈落へと落ちていく。
巻き起こる最期の煙と微かに残る炎に照らされ、ゆっくりと地上へと昇って行く体。
二人と地上を結ぶ細い糸、まるでそれは蜘蛛の糸。
静かに、音を立てず、静かに、眠りに着いた子を起こさぬように。

「ディッス」

遠ざかる景色を眼に写し、加持の口から漏れる歌。

「ジエン、ド」

それは海老の鼻歌。
終わりの歌を、まるで子守唄のように口ずさむ。

「マイ、オンリィ、フレン」

加持の胸で、続きを囁くアオバ。

「ジ、エンド」

歌を止め、加持が呟く。






「そう、終わりだ」


























鍋に張られた水面に小さな波紋。
ひとつ、またひとつ。
浮かんでは消えまた浮かび、そして消える。
灯りの消えた店内に佇む男。

「王よ」

腕を組み目を伏せ。

「お気に召しましたか」

口元から呪詛を吐く。

「箱庭の積み木崩しは」

彼は問う。

「お気に召さぬなら」

虚空に向かい総主が問う。

「如何様にも作り造り創り直しましょう」

それが我等だ。

「いかようにも、いかさまにも」

これが我々だ。

「貴方様の御気に召すまで」

宵闇から薄明を渡り。

「幾度も幾度も幾度も」

落日と共に沸き夜通し動き夜明け前に消えよう。

「例え御気に召さぬとも」

故に我等裏方なり。

「なんてな」

ふっ、と軽く息を吐いたその時。
音を立てず裏口から白髪の青年が現れる。

「箱舟の総員、移送完了致しました」

目を開ける店主。

「お疲れさん」

和やかに笑う臥乱堂。

「どうした」

大仕事の余韻も無く何処か憂いを残すキタ。

「加持さん、ですが」
「あいつがどうした? 」
「知らない、ですよね」

彼が中央図書館を訪れる直前、速やかに執行されたアルカ人員総移管作業。
街師からの急報“外殻ニ変動有リ、月倒壊ノ兆候極メテ高シ”。
この通達により発動され僅か半時を以って完遂された強制退去命令。

「だろうなあ」
「それでもあの人はスイッチを」
「押したさ」

予想はしていただろう、しかし。
例えそれが間に合わなくとも、否、それすら行われなかったとしても。
圧縮し圧壊する黒き月に呑み込まれ消え逝く者達の命など微塵と思わず。
それでも、あの男は押しただろう。

「そうですよね」

夕方までのキタならばその無情に身震いひとつは起こしたかも知れない、だが。

「それが仕事ですからね」

今では微笑みすら浮かべて。

「嬉しいか? 仇が取れて」

ゆるり、と青年の眼球が男に向く。

「とても」

取り繕う事無く吐露するキタ。

「あの二人は、私にとっては」

あの姉妹は有能で、なにより素直で。
街師としての血さえ覚醒しなければ、今頃は日の当たる場所で笑い合えたかもしれない。
キタにとって彼女達は、最も信頼の置ける自分の両腕とも言える存在、いや、それ以上で。

「妹みたいなものでした」

双子の姉妹 ―― イブキとマヤ。
彼女達は命を受けると共に純粋な興味と好奇心でコンヴィクトに望み、そして喰われた。
キタは彼女達の弔いの為、己の全てを賭け激情を糧にみさとに対峙し、そして敗れた。
彼女達とキタを別けたものはたったひとつ、それは憎悪。

「だから呼んだのか」
「お見通し、でしたか」

敗北と死を悟りながらも彼はバトンを投げる。最期の気力を振り絞り打ち込んだ一行。
“こちらに頻繁に兄がお伺いさせて頂いていた様ですが、実は”

「やってくれたな」

笑う臥乱堂。

「ただ不思議なのは、私はそれが精一杯でしたのに」

その後を続けたのは誰か、それを通報したのは誰が。

「さあ。物好きはどこにでも居るもんさ」

そう、物好きは何処にでも居る。それが眼の前に居ても何ら不思議では無い。

「全くで」
「ふん」

鼻で軽く息を吐く総主。

「これから」
「ん」
「どうなるんでしょうか」

ふと漏らした青年の言葉。
黒き月という舞台装置を失くした人形達はこの先果たして。

「どうにもならんよ」

その問いに微笑みながら答える総主。

「その為の俺達だ」

その為の裏方だ、舞台が無いなら作ればいい。それだけだ、と。

「だが」

言葉を切り腕を組む臥乱堂。

「何か? 」
「いや」

彼が掴んでいたプログラム・タージエの全貌。
黒き月の外殻は、外部からの刺激を受け内側へ向け自閉する。
しかし、内側からの圧力を受けた場合はどうか。答えは逆、膨張が始まる。
収縮し圧壊するか膨張し破裂するか、月の維持は危ういバランスの上に成り立っていた、だが。
その特性を利用し、全体ではなく局所的に内部より圧力を加える事でさながら盲腸の如く一部外殻を隆起させる。
ある程度隆起させた後本体より切り離し、膨大な情報を流し込み肥大させ成長を促進させる。
つまりタージエとは、黒き月の増殖による“同一線上の並行世界構築計画”に他ならない。
かつて新世界創造を夢見た雄鶏達の夢の跡。それをリツコは、否、リツコであろうとした者は利用した、しかし。

「終わった事だ」

その言葉とは裏腹に彼は思う、本当に終わったのかと。
いや確かに終わったのだろう、しかしそれが ―― 潰えて終わったのでは無いとしたら。

「総主? 」

キタの声が臥乱堂を思考のループから引き戻す。
いけねえいけねえ先読みのし過ぎだ、この癖まったく困ったもんだ、と首を振る。

「ま、ともかく」

そして次期総主見習に向き直り、改めて指示を出す。

「埋め立てと封印施術は本日夜半より行う」
「了解しました。サニワには?」
「俺から伝えておく、ま、もっとも」

とうにお気づきだろうがな、と溜息ひとつ。

「私はまだお会いした事が無いのですが、新しいサニワもやはり」
「いや、先代ほどではねえよ」

彼の脳裏に浮かぶ笑い声、わはは、わはは、と笑う声。
あの笑い面は肉面だものな、と表には出さずとも身震いひとつ。

「そんなに恐ろしいものだったんですか」
「ま、腐っても審神者(サニワ)だ、恐ろしいもんには違いねえさ」

その点、今のサニワはまだ面被ってるしなあ。
だがあの恐ろしいお方が選んだお人だ、いずれは、と総主が苦笑する。

「とりあえずご苦労さん、少し休んどけ」
「はい」

頭を下げ店の隅に消えようとするキタ。

「おい」

自分の頬をとんとん、と叩く臥乱堂。

「拭いとけよ」

そのジェスチャーに気付き自らの頬を撫でるキタ。

「ああ」

彼の指先に付いたもの。未だ固まらぬ赤いぬめり。

「幾人か暴れまして、見せしめに少々」
「お前にゃ荒事はちと早い。気負うなよ」
「ははは」

それでは、と再び裏口へ消えるキタを見送る。

「まだ角はある、ある事はあるが」

加持と絡ませるにはちと賭けだったが、どうしてどうして。

「まあ及第点、って事で」

少し甘いかな、と総主は思う。

「さあて」

パン、と膝を叩き、小太り店主が立ち上がる。

「ん? 」

立ち上がるとカウンターの向こう、視界の隅で映える紅。

「忘れもんか」

傘立ての中で映える色鮮やかな赤い傘。
くすんだ店の中やけに目立つ原色を何故今迄気付かなかったのだろうか。

「加持の奴、洒落たもん差しやがって」

どれ、拡げて干しといてやるか、とカウンターを潜り近付けば。

「お」

それは跡形も無く消えていた。

「ふむ」

腕を組み、しばし見つめ、そして。

「そんな事もあらぁな」

この街じゃあ。
こんないかさまの世界じゃ、な。

























「フフフーン」

灯りを消した部屋の中、男の歌が闇に溶ける。

「フンフンフン、フーン、フフン」

地上七階の窓から広がる景色、瞳に映る箱庭の街、口からハナウタ。

「海老さん」

部屋の奥、闇の片隅から姿を現す坊主頭の男。両手に湯気立つマグカップ。
まだ居られたんですね、と片方を男に渡す。

「おう、サンキュー」
「その歌」
「ん? 」
「お好きなんですか?」

照れたように頭を掻く初老の男。

「うーん、好きって程じゃねえなあ」
「そうですか」
「万儀、おめえは? 」
「大っ嫌いです」
「じゃ、今度フルで聞かせてやんよ」
「勘弁して下さい」

そして彼はカップを啜る。旨くも無い泥水のような珈琲を。
一息つき、眼の前の男に問いかける海老。

「おめえは帰らねえのか? リエ坊待ってんじゃねえのか」
「だからですよ」

ふうっ、と心底疲れたように溜息を漏らす万儀。

「帰ったら、地獄ですから」
「ご愁傷様」

所帯なんか持つからだ、と海老が言う。
うらやましいでしょう、と万儀が毒づく。

「さっき、揺れましたね」
「ああ、一瞬な」
「下、ですかね」
「だろうな」

視線を眼下に移し、眠そうな瞳で海老が呟く。

「終わったんだろうよ」

何が、とは万儀は聞かない。
この人が終わったと言うのなら、何かが確実に終わったのだろう。
世界の終わりでさえこの人は、多分こんな風に、何処吹く風でただ一人、そんな人だ。

「で、本題は? 」

不意に海老が向き直り、万儀に問う。

「あの三人、ですが」
「アレック、苦炉、覇手、あいつらか」
「はい」

鳥篭を掲げよ地の底向けて。
もうその手は震えない、既に覚悟は決めてある。
今しか無いのだ。

「来週行おうと思います」

そっか、と眼を閉じ椅子に深く沈む海老。

「えらく早えな、半年先かと思ってたんだが」
「今か後か、どちらも同じですから」

言いながら万儀が白衣の袖から端末を取り出しボタンを押す。
それに応じてポン、と軽やかな音を立て海老の机上に開くウィンドウが三つ ―― STEM使用許諾書。
開いた三つの電子文書の上に片手をかざし、すうっ、と横に滑らせる海老。
その光跡をなぞる様に次々と灯る“認証”の文字。

「ありがとうございます」
「生き残るかな」
「さあ」

無機質に告げる万儀の顔を見て、ふん、と息を吐く海老。
あんな熱い眼をした小僧っ子が、いっぱしの顔をするようになりやがって、けどな。

「だから来週か」

瞬間、万儀の瞳が揺れる。

「親心が湧いたか」

その一瞬を海老は見逃がさず。

「確かに早ぇほうがいいわな、確率が上がる」

行うならば在籍の短い今の方がいい、それが万儀の出した結論だった。
何故なら第二研に長く籍を置く、という事はその分だけ様々なものを見る事になるからだ。
それは必ずしも良いものであるとは限らない、むしろ逆と言えよう。
いかに耐え気丈に振舞おうとも、否、耐えようとすればするほど何かが歪み、やがて。
いくら覆い隠そうとしてもSTEMは容易く曝け出す。彼等はそれをこれから見るのだ。

「てめえの持っている根っこにガチンコで向き合えなければココじゃやっていけねえ。
 少しでも目ェ背けようもんならそいつは、待ってましたとばかりに牙を剥く」
「だからこそ己を知れ、心の闇と向き合え、という訳ですか」
「闇? 笑わせんな」

にい、と海老の口元が歪む。

「本性さ」

STEMを自身で操作し、己の深奥を覗き見る。
活動を止めた死者の脳でさえフィルタを掛けねば常人が発狂するビジョン。
それが活動を続ける脳であれば、そしてそれが自分自身に蠢くものであるならば、それを見るものは果たして。
強い精神など要らない、そのようなものはいとも容易く折れる。必要なのは自身を受け入れ取り込み流す中庸。
これこそがセカンドワークス、第二研の門を叩く者に架せられたルール。
万儀も、リエも、此処に集う者達全てが、かつてカナリアと呼ばれ毒を吸い業火に焼かれそれでもなお飛び立った。
不死鳥は炎を浴びて蘇る。彼等をヒトは強靭では無く狂人と呼ぶのか。

「ま、あいつらじゃ無理だな」

己のプライドを唯一とし、他者を認めず故に視野を狭め、それがどれ程矮小な物かすら気付けない。

「それでも、私は」

無機質な目の奥、隠し切れない熱さを漏らし、拳を握る万儀。

「かつて自分がそうであったように」

膨張する眼球、破裂する毛細血管、瞳から鼻から噛み切った唇から血を滴らせ、それでも彼はやり遂げた。
赤く歪む視界の中、手を差し伸べ笑う一人の男 ―― よお、遅かったじゃねえか。

「けれど今、ここに立っていられるのは、だからこそ」

その時の男の顔を決して忘れる事など出来はしない。
彼は地獄の中でさえ、あんなにも透明であそこまで純粋に無垢な笑顔を浮かべて。
ああ、この人は本当に狂っているのだ。それに魅せられてしまった自分も既に。
だからこそ俺は、私は、この男を、この人を越えたい。その先へ行きたい。

「人は変われる筈です。どれ程矮小な殻に覆われていても。
 いえ、殻だからこそ打ち砕く価値があると、私は信じて」
「無理だな」

無下に切り捨てる海老。シンプルで簡単で、重過ぎる答え。
その言葉に怒りさえ覚えぬ自分は、今何処に居るのだろう。

「俺が俺であるように、お前はお前だ、つまり、あいつらもあいつらなのさ」

だから無理なんだよ、万儀。
此処では無い何処かを見つめ呟く海老。
そして、机の中から一通の書類を取り出し、現副長である彼の前に置く。

「この前、検診の結果出てな」

もうじきだってよ、と海老が笑う。

「だからさ、判子押しといてくれや」

献体 ―― その二文字が万儀を砕く。

「海老さん」
「第二研全てを呑み込んだ奴のデータだ。
 きっと極上のサンプルが取れるぜ。何だったらあいつら後回しにしてもいい。
 これを解析して、もっとニュートラルなシステムに仕上げ直してもいい」

ようやく弾けるんだなあ、あれを。と、男が笑う。

「そうすりゃいずれカナリアも必要無くなるだろうさ。
 もっとも質は半端無く落ちるだろうがな、けどさ、それでいいんだ。
 尖がった奴なんざ俺の代で終わりにしようぜ。これからはお前の時代だ、好きにやるがいいさ」
「貴方は、海老さん、あなたは」
「そうさ、俺は卑怯モンさ」

弾くぜ、弾きまくるぜフラットノイズ。と、心の底から男が笑う。

「俺ぁいつでもいい」

飛び込んでやる、あいつが待つ俺の中へ。
踊ってやる、踊り続けてやる、あいつと踊り続けてやる。
曖昧さえ許さない狂ったノイズの中で、俺とあいつ以外誰も居ない地獄で。
踊ってやる踊りまくってやる踊り続けてやる永遠に。


「頼んだぜ」


もう二度と離すものか。
そうだろう、ナオさん?



























幻想に生きるのは容易く無い。
いつだって現実が邪魔をする、だから。

「あふっ」

噛み殺せないあくびが漏れる。
照明が消えて久しいホーム、長椅子に座りコートから煙草を取り出し、咥える。
けれど、火を付ける気力すら今は無く、吸い口をただ噛み締める。

「やる気、無くすんだよなぁ」

日々書き換えられる彼のステータスが今日、停止した。
潮が引くように消える噂、剥がされたメッキ、現れた地金。
上げたレベルのデータが吹き飛び一瞬でゼロになったように、全てが消えた。
襲い来るかつて無い消失感、着の身着のままたまらずねぐらを飛び出して。
夜の街を彷徨い歩き気が付けば、街の出口、駅のホームに座っていた。

「なんだかんだ言って、俺は」

そう俺は、楽しかったんだ、とノブが笑う。
加持の話に、目の色変えて飛びついたのは俺の方だ。

「ああ、楽しかったなあ」

夢うつつの時、狂ったんじゃない狂いたかったんだ。
けれど夢は醒めるのだ。醒めるからこそ夢なのだ。
地金が出て初めて思い知る現実。
とどのつまり俺にはそう、何も無い。

「さあ、何処へ行こうか」

不意に灯る明り、プラットホームの蛍光灯がひとつ、またひとつ。
今日が始まる、現実、その第一日目が始まろうとしている。

「俺は、何処へ帰ろうか」

ポケットの奥で握り締めた切符。
何処だって行けるさ、何処だって帰れるさ。
やり直そうなんて思わない、逃げて逃げて、逃げてやる。

「はははっ」

何だかんだで無残な人生、されど極上なライフ。
素敵だ、嗚呼素晴らしきかな我が生涯。
変わればいい? ふざけんな。
どこまでも後ろ向きで全力疾走。これが俺だ。

「冬月リツコ、か」

彼女と出会ったあの湖畔、最初で最後の邂逅。

―― 俺から奪うな。この夢は、この妄想は俺だけのもんだ、誰にも渡すもんか。

あの時一瞬、彼女は俺を見た、俺の言葉を聴いていた。
今にして思えばあれが、そしてこれは、ああ、そうだったんだな。

「あんがとよ、お嬢ちゃん」

始発列車のライトを浴びながら彼は思う。
これは、彼女なりの礼だったのだと。





























窓の外、白みかけた空。
薄明かりに包まれた部屋の中、椅子にもたれ天井をただ見つめる二人。

「あ゛ー」
「あ゛あ゛ー」

額に冷えピタっぽい何かを貼った男と女の声が、がらんとした部屋にただ響く。

「これ、効くなあ」
「でしょー」

遠く聞こえるサイレンの音。
階下で慌しく動き回る足音。

「忙しくなりそうッスねえ、今日は」
「うーん、どうかなあ」

じろり、と横の加持を睨むアオバ。

「センパイ」
「あんだよ」
「アンタ、ばっくれる気ッスね」
「たりめーだ」

にい、と笑う加持。

「俺は、いや俺達は夕方からずっとココに詰めてカンズメ、違うか? 」

はああーっ、と深く溜息をつくアオバ。

「悪党め」
「誉めるなよ」

照れるじゃねえか、と笑う加持を見て再び溜息をつくアオバ。

「で、何があったんスか?」
「何も」

はいはいさいですか、さっきから何回聞いてもこれだ、とアオバがぶつくさこぼす。

「ま、いいスけどねー」
「何だ、やけに物分りいいな、お前」
「どーせまともに答える気なんかないんでしょ」
「まーねー」

呆けたように言葉を返す加持の眼が鈍く光る。

「で、アオバ」
「何スか? 」
「お前、何モンだ」

薄目から漏れる光、覗く瞳は鋼色。

「ふっふっふっ」

待ってました、とばかりにガバッと椅子から立ち上がるアオバ。

「宇宙警察フラタニティ!」
「やかましい」
「特務機関エネマ!」
「ふざけろ」
「んじゃ謎の超国家エデン!」
「うっせえ」
「じゃあどー言ったらいいんスかあっ!」
「知るか!」

むー、としかめ面したソバカスデコ。

「わかったわかりました実はアタシ向こうの世界でトラックに刎ねられ転生してきた読者で
 その時に超宇宙的な何かからスンゲーゴイスーでアタシTUEEEE!なパワアーもらってやって来た謎の女、
 未来を知り過去を越え山を越え谷を越え服部も越え光を超え時を超え恐竜戦隊コセイドン萌え飛んで来た
 福音を呼びし者、闇より落ちし者、あ、この“びし”とか“ちし”とか“し”がポイントっスあと“者”も。
 こんな恥ずかしい題名見た時にゃ十中八九地雷です間違いないッス格好イイと思うお前の思考を問い詰めたい。
 そんな事は置いといて要はスーパーシゲ略してスパシゲもひとつ略してスゲつまりはスゲー奴となって
 世界とか宇宙とか多元世界とか近所の八百屋とかも守る超絶絶倫絶対可憐存在であるアタシは」
「一部同意するが二文字でまとめてやる、馬鹿、もしくは厨乙」

うー、うー、と頭を抱え出すスゲ、じゃなくてシゲ。

「じゃじゃじゃじゃじゃあ、こーゆーのは」
「もういいわ」
「いやいやいやいや」

そして加持に向き直り。

「アタシは」

破顔一笑。

「あたしは、アオバです」

微笑む女。

「アタシは貴方のアオバです」

にぱっ、と笑うその顔に一瞬魅せられる加持。

「それでいいじゃないスか」

ふん、と息をつき加持も笑う。

「おあいこ、って事か」
「そーそー、おあいこッス」

アタシも貴方も、何かを抱くもの同士の似たもの同士。
おあいこでお似合いだと思いません? とでも言いたげな女の笑顔。
まあいいか、と加持は思う。この世界は何があっても不思議じゃない。
出鱈目なモノである俺すらこうやって存在する世界、だからどうした。
それに比べれば可愛いものだ。

「あ、センパイ」
「んあ?」
「夜、明けますよ」
「ああ」

窓の外、街の向こう、遠く山並みに射し始めた光の線。
昨日から今日へ変わる瞬間、明日だった日すら今日になる刹那。
ああ、夜が明けるのか、と加持は思う。

「屋上行きません?」
「何だよいきなり」
「いやあ、同じ朝を迎えた記念って事で」
「何そのロマンチスト」
「略して朝チュン記念」
「わけわかんねえよ、けど」

部屋に篭る空気、まとわり着いた昨日の残滓を飛ばすには。

「今日くらいは、な」

加持がはーどっこいしょー、と席を立つ。

「あ、飲みものオゴリって事でよろしくッス」

ちゃっかりしてやがんなあ、と小銭入れをポケットに突っ込む男。

「先行ってるッスよー」

と言い残しドアを開け鼻歌唄いながら駆けていく女。
わたしはアオバッ、あなたのアオバッ、炊事洗濯お料理セッ ―― あいつやっぱシメてやる、と加持が愚痴る。

「おっと」

デスクの引き出しを開け、私物の携帯を取り出す。
それを眺め、スイッチとして握り潰した支給品を思い自分の掌を見つめれば。

「ふん」

血だらけだった筈の掌にはもう、傷跡すら無く。

「ばけものが」

男は一人自嘲する。ばけものめ、この、ばけものめ、と嘲り笑う。
嗚呼、俺はもう笑っている、何事も無かったかのように笑っていやがる、くそったれ。
あの時感じたせつなさも悲しみも、狂おしいほどの愛しさも、化物にはただの餌、全て噛み切り腹の中。
所詮ばけものはばけものだ、人では無いひとでなし、ヒトの群れに混じり、そ知らぬ顔をしていても、いつか。
そう、いつかケリを付けなくてはならない。ヒトの皮を被って隣り合わせに生きていても獣がヒトになれる訳じゃない。

「何時か。それは一体、いつなんだろう、な」

そして電源を入れる。やがて浮かび上がる不在着信の表示。

「あ」


―― 明日にでも調べておこう。


表示された“冬月”の文字に加持は一昨日、恩師と交わした言葉を思い出す。
リダイヤルのボタンを押す前に時計を横目で見やり、ボタンから指を外す。

「早過ぎる、かな」

まだ未明、この時間は流石に、と思い直し携帯を胸ポケットに押し込み部屋を出る。
薄暗い古びた庁舎、ひんやりとした長い廊下を進み、蛍光灯が瞬く階段を降り、一階下の自販機へ。

「えーっと、イチゴオレは、と」

小銭を入れボタンを押す、やがてガコン、と落下音。

「おや、加持さんではないですか」

気配の無い声に驚き振り返る加持。

「徹夜ですかあ、職務旺盛ですなあ、結構結構、ふはは」

でっぷりと制服を着込んだ人懐っこい狸顔がそこに。

「あ、署長、おはようございます」
「はい、おはようございます。というかまた役職なんてえ他人行儀な。
 名前でいいと言ってるじゃあないですか、ナガサキさんでいいですよお」

傍若無人な加持にとってもこの庁舎で唯一苦手な人物がそこに。

「いっその事、ちゃん付けでもいいですよお」
「勘弁して下さい、ナガサキちゃん」
「ふははははは、このやろう」

隙だらけの外観とは裏腹に得体が知れぬ存在、全く気配の無い男。
世界の裏方を称ずる街師でさえ、ここまで消せるのは臥乱堂くらいか。

「というかナガサキさんこそ何故こんな時間に?」
「あー、実はですねえ」

かりかりと眠たげな目尻の下を掻きながら。

「中央図書館、知ってますよね」
「ええ」
「それがアナタ、夜半に謎の崩壊事故でバッバンスッドンテメズドンしまして」
「テメズドン、ですか」
「まあつまり消防やら警備部やら動員して色々やってるんですが。
 まあ綺麗さっぱりと崩れちまいやがりまして、朝もはよから叩き起こされまして。
 まあでもとりあえずひと段落したんで一足お先に戻って来たのですよ、ふはは」
「それはそれはご苦労様です、ははは」

ふはは、ははは、とやけに乾いた笑い声が廊下に響く。
加持は内心、こいつ何処まで知ってるんだよこの野郎と微かな動揺をひた隠し。
ひとしきり笑った後、何かに気付いた狸顔が加持の手に握られた物を指差す。

「ほう、ツカダのイチゴですか。もしかして甘党? 」
「いえ、これはツレが」
「ツレ? ほうほう中々艶っぽい話じゃあ無いですかぁ」

この、この、と肘で小突くナガサキにただ苦笑する加持。

「隅におけませんなあ、この女たらし」
「いやそんなんじゃ無いですって、アオバですよ、知ってるでしょ、あいつコレが」
「アオバ? 」

アオバ、アオバねえ、と宙を仰ぎ自問するナガサキ。

「まあいいいでしょう、ところで」

かくん、と首を向き直し加持に寄る狸顔。

「来月あの車、車検ですよ」
「あの車? 」
「またまたぁ、忘れちゃいかんですよォ、一応公僕なんですから。
 前回一通り消耗品は変えとりますがなんせ年式が年式。三十年モノですから。
 貴方に譲ったとはいえ、元はワタシの師匠から渡された宝物、頼みますよォ」

譲った? 俺に?

「サンクですよ、ルノー・サンク・ターボ、青い奴」

いやあれはアオバの ―― 言い掛けた加持が息を呑む。

「加持さん、大丈夫ですか?」

そうだ、あれは。

「顔色悪いですよ」

このおせっかいな署長から半ば強引に渡されたものだ。
要らない、と言ったのに、まあまあ狭い街ですが持ってて困るものでもないですよ、と。
あれは、あのフレンチブルーの2シーターは ―― 俺の、車。

「加持さん? 」
「あ、いえ、すいません」
「徹夜が堪えたんですかねえ、まあ早くお休みなさい、若いんですから直ぐ戻るでしょう」

ふははと笑う狸顔、しかし。

「そうそう」

次の瞬間、真顔に戻り。

「蕎麦屋さんからことづてです」

錆びた瞳で囁くナガサキ。

「犠牲者は居なかったらしいです、よかったですね」

一瞬で表情を崩し、それではー、と手を振り廊下の奥に消えて行く署長。
その意味を理解する余裕すらなく加持の体から抜ける力。

「どういう事だ」

俺の車を何故あいつが。力無く自販機に身を預ける加持。
俺は何時貸した? 何故俺はそれを覚えていない?
些細な事だ、大した事じゃない、だが何かが。
その瞬間、胸ポケットの中で振動。
取り出した携帯の画面に浮かぶ“冬月”の文字、その時。


出るな ―― と何かが耳元で囁く。


振り返る、誰も居ない、居る訳が無い、だが。


出るな、その電話に、出るな ―― 再び流れ込む何かの声。



「うるせえ」



その声に抗いボタンを押す加持。

『加持君、かね』
「先生」

連絡が遅れて申し訳、と言いかけた言葉を遮り。

『加持君、だね?』
「先生? 」

冬月の声に明らかな違和感を感じ取る。

「どうされました、先生」
『すまない』
「何がですか」
『昨日ワンコールで切ってしまって』

ああ、そうだったのか、そんな事か。
湧き上がる不安感を払拭しようと息を吐く加持、しかし。

『君は今、一人かね? 』
「はい、そうですが」
『周りに誰も? 』
「ええ、それが」
『一昨日、君が言っていた同僚、アオバ君も、居ないのだね? 』

加持が息を呑む。

『居るの、かね?』
「いえ、今は」

そして、沈黙。

「冬月先生? 」

やがて。

『すまない、君に伝えるべきか、迷ってしまった』

携帯の向こうから流れ出す焦燥。

『私は、わたしは』

そして、微かに震える声。

『見てしまった』

それは、隠し切れない恐怖。

『一昨日の夜、見てしまったのだよ』
「何を、何をですか、先生」
『君をだ』
「俺を?」


―― 誰か、見てる。


加持の記憶から不意に蘇る言葉。
一昨日の夜半、この胸を掴み呟いたあいつの言葉。


『たった一人で、傍らに向け何かと言葉を交わす君を、だ』


見ていたのは冬月。


『君以外誰も居なかった、何も見えなかった、だが』

差し入れにと贈答品のウイスキー片手に離れへと赴いた冬月は、見た。

『こんな私でも解かってしまったんだ』

いや見えなかった、そう、見えなどはしなかった、しかし。

『直ぐに私は家を出た、何故かは解からない、ただ、そこに居たく無かった。
 違う、正直に言おう、逃げたのだ。怖かった、この上無く恐ろしかった、何故なら』

全身から噴出す汗、止まらぬ鳥肌、そんな筈は無い、あれは、あれは。

『私は居ないはずのそれと、眼が合ったのだから』

彼は願った、そして祈った、そんなものが存在する筈は無い、しかしそれは ―― 打ち砕かれる。

『加持君』

冬月は調べる、R-14ファイルを、リターナー事例を、フェイズ2を、エヴァンゲリオンを。
青葉、その名前は有る、しかしシゲル、性別は男。しかしその名前は未だ ―― 出現していない。

『その女性は』

もし出現したのなら直ぐに対処が入る、そういう仕組みになっている。
しかし彼女、つまりは女、一文字違いのキャスト。たった一文字、それが何を意味するのか。

『君の同僚は』

調べる、調べて、調べぬく。アルカはもとより戸籍、出生記録、基本台帳、個人情報に至るまで。
合法・非合法の有無を問わず彼のコネクションで手に入るありとあらゆる記録を照合し、そして。

『アオバ・シゲという人物は』








導かれたのは残酷な真実(TRUTH)。








『何処にも存在しない』


























足が重い、鉛のように、重い。
けれど行かねばならない。あいつが待つというのなら。
ひきずるように押し上げながら一段、また一段と階段を昇る。
この足が腹が胸が腕が頭が、爪先から髪の毛に至るまで。
彼を形作る全てが、まるで今、その重さを思い出したかのように加持の意識に圧し掛かる。
あの声はもう聞こえない。代わりに浮かぶのはあいつの声。


―― あたし、本編見たんスけどね


そうだろう、お前は見たのだろう。


―― 本当に、可愛い


お前は奴らの憎悪でさえも糧に。
加持の記憶、その中で笑う彼女を浮かべ彼は思う。
いつだ、いつからだ、と自問する。


―― 何も聞こえんが、大丈夫かね?


冬月の言葉、あの歌は俺の耳にしか。


―― 藤木と申します。


加持と彼女が会釈した時、藤木の視線は何処を向いていたのか。


―― どうかされましたかあ?
―― 何かラップ音がしますなあ。


やはり。


―― “私達”ですかあ?


見えていなかったのだ。
見えるはずなどはなかったのだ。
あいつを認識したものは、見て触れ得たものは、俺と ―― 黒髪の童顔、居るはずの無いミスキャスト。
しーっ、と口に指を添え、微笑んだ看護師。伊吹マヤという記号を具現化した“それ”。


―― 私よりもっと、いえ、もっともおそろしいものが。


ああ、だからか。


―― 邪魔者は排除したデス! マイ・ドアノッカーで撃墜したデス!


“それ”ですら足元にも及ばない存在。


―― それを知ったとき貴方は、どうなるのかしら。


消え行く女の言葉を今更ながら思い知る。


「ふん、このザマさ」


そして加持は気付く。
雨の中、手渡された赤い傘、別れ際に聞いたあいつの言葉。
俺はあの時、何を言った?


―― 戻してやりてえな。


自らが吐いた言葉を思い出し加持が笑う。
“望まれた存在が、望みを持っちゃいけねえな”
馬鹿野郎、この馬鹿野郎が、偉そうに講釈垂れといて俺は。

「俺は、あいつに」

望んでしまった。あの少年の開放を、だから。


―― あなたが望むなら、何なりと。


だから手放したのか。


―― ねぇ、何をしたの?


俺があいつに願ったのか。

「くそったれ」

力なく階段の壁に手を付く加持。
鉛の足を押し上げ踊り場で息をつく。
冷えた壁に背を預け、力なくうずくまる。

「いつだ」

いつからなんだ、と再び加持は自問する。


―― 貴方も資格者の筈なんです。


白髪の青年、キタの声が脳裏に響く。


―― 何故、何も起きないのですか?


自分がまともじゃないからか、いや。


―― 何故、読破されたんですか。


エヴァンゲリオン二次創作コミュニティ、コンヴィクト。
汚泥のようなテキスト群、稚拙で腐った欲望のるつぼ。
一万余の物語、一万余の世界、一万余の贄、そして餌。
キタは言った、あのテキストは意志の群体だと。


―― ヒトのソースコードさえ容易に書き換える程のコマンドが隠されているとしたら?


俺も感じた筈だ、微かだが確かな圧力を、そして。

「俺はそれを読み終えた」

その時、何が起きた?









―― センパーイ、飯買って来ましたよー!








「くそっ」

力を振り絞り壁を叩く加持。
あの時だ、俺が読み終わった時、それが起きたのだ。
なんの事は無い、俺も、ああ俺も喰われていたんだ。

「ザマぁねえな」

何が化け物だ、何が獣だ。
おい、ひとでなし、おまえはそんな大層なもんじゃねえ。
加持リョウジ、お前はただの、まぬけだ。

「くくっ」

男の口から笑い声。歪んだ唇が己の顛末を笑う、笑う。
嘲り笑うその口元から顔を出す犬歯。ああそうかい、ならば。

「ケリ、つけてやる」

そう、いつかケリをつけなければならない。
それがいつかではなく、今なだけだ。

「つけてやるとも」

重い体、動く事を拒否し続ける手足、しかし。
鈍い光、鋼色の眼光を湛えその男が立ち上がる。
覗く犬歯と本性を隠そうともせず衝動のまま蹴り上がろうとした瞬間。




―― センパイにだけは



脳裏に響くあいつの声。落ちる夕日に照らされて、夢見るように笑う顔。




―― 覚えていて欲しいなあ




透明な笑顔だった。裏も無く意味も無く、ただ笑っていた。




―― 私は、アオバです




広いおでこのそばかすが笑う。




―― 私は貴方の、アオバです




何も無い笑顔で。




―― それでいいじゃないスか





ただ、そう思い、笑う。それだけが、あいつの。





「ああ」





不意に体が軽くなる。鉛の重さが霧散する。





「なるほど、な」





もう一度壁に背を預けふう、と大きく息を吐く。
やれやれ、と首を振りネクタイを緩め何気なしに微笑む男。

「本当に俺は、とんだマヌケ野郎だ」

再び壁から背を離し、階段に足を踏み出す。
足から腕から消える重さ。脳裏に浮かぶあいつの言葉。
浮かんでは消え、消えては浮かぶ水泡のような言葉達。
彼女の想いひとつひとつ。それが加持を軽くする。


―― あたしじゃ、駄目ですか?


「ばーか」


―― 一目惚れ、ッス


「だから行き送れんだよ」


―― ずっと見てたッス


「この純情生娘が」


―― ああ、この人は何て眼をするんだろう、って


「お前は見てたんだな、向こう側から」


―― あたしとおんなじだなあ、って


「ああ、そうだとも」


言葉を切り、加持が笑う。


「俺たちは」


昇りきった階段、曇り硝子から漏れる光が彼の顔を照らす。
真鍮のドアノブに添えられた手を握り、静かに回す。


「同じなんだよな、アオバ」




そして、扉を開ける。



赤かった、血のような、と例えるなら陳腐。でもやはり赤は赤で。
夕日のような朝日、茜色に燃える空。





「よう」





加持の声に彼女が笑う。
人懐っこい口元、広いおでこ、幼さを残す顔立ちと、そばかす。






「遅かったじゃないスか」







幼さを残す顔であいつが笑う。
けれど体の輪郭は曖昧で黒く歪み。
だから、そう見えたのかも知れない。











胸の大きな女が居た。















おねえさんといっしょう
第四話/クロコダイルドリーマー/Ⅷ/了


Can you follow?
Really?

All right.

Here We Go.
To the world that you hope.

but.

You can never come back.

Never.

OK, I will dance.

Let's dance.
In the world middle run away to nobody.
I will continue dancing.






To be continued...
(2009.05.23 初版)


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