「ねえ、何をしたの?」

金色の髪を揺らし、泣きぼくろの女が問いかける。

「贄は、あの子にとって唯一の糧」

微笑む真っ赤な唇。

「ありえない、それを自ら手放すなんて、在り得る筈がないのよ」

焦燥を笑みに押し隠し女の唇が歪む。

「反抗期なんじゃねえの? 」
「ふざけないで」

それに応え男の唇も笑う。

「ふざけてんのはお前だろ」

しかしその笑みは。

「何故こんな事をした」

獣が獲物を見据えた口元に似て。

「あの子が望んだから」
「望んだ?」
「自分の存在を固定する為に」
「存在を、固定? 」
「そうよ」

わたしはだあれ ―― あの子が呼んだ気がした。
そうだ、この愛しい子に名前をつけてやらなければならない。
その瞬間、私の脳裏に閃いた言葉 ―― "みさと"

「私はあの子の名を呼んだ、出来立ての名前を手に入れたあの子。
 とても嬉しそうに笑ったわ、モニターに拡大された受精卵が、まだ顔の無いあの子が笑った。
 楽しそうに嬉しそうに、確かに笑った。私だけに笑った」

そしてあの子は自らの存在を固定する為に検索する。
自身が深く食い込んだMAGIを手中に、己の存在を検索する。
みさと、ミサト、カツラギミサト、葛城ミサト。
これが記号、自分を固定する記号、自らの存在を示すアリバイ ―― 名前。

「分裂は一気に加速したわ。同時に成長と侵食も」

生まれたてのあの子はMAGIを喰らい己の血肉とし、ヘカトンケイレスで手足を伸ばし自分の欠片を貪欲に拾い集めた。
どこまでもどこまでも手を伸ばし名前を記号を蓄積し記憶を形成し自己を確立し肥大させて行く。
割り当てられたコップから水が零れる。移したタライからも溢れ出す。コップからタライそして一部屋やがて家全体に。
追いつかない割り当て領域、膨大なMAGIのフレームでさえ飽和させる自我。

「時間が無かったの、だから私は復活させた。私を生んだプロジェクトEから連なるもの。
 アルカを経て辿り着くべきもう一つのプログラムを」

封印された計画、プロジェクト・アルカのアップデート、仮想繁種実験、潰えた一つの夢。

「プログラム・タージエ」

不意にリツコが言葉を切る。その瞬間、地の底から低い音が部屋を緩やかに揺らす。
カコン、カコン、カコンとまるでレールを走る滑車の様な連続音が建物の四方から響き始め見上げれば窓の外、月が消える。
沈む、建物が沈む、中央図書館が沈む、地の底を目指し沈んでいく。

「こんな仕掛けが」

窓の外漆黒に落ちていく景色を眺めながら加持が素直に驚く。

「私たちが出会う以前から、ね」

朝を待つ雄鶏達がかつて潜んでいた場所よ、とリツコは囁く。
中央図書館は文字通り第三新東京市のほぼ中心に位置する。建設前、ゼロポイントと呼ばれていた場所に。
直下にはジオフロント中央部、アルカ管制部横の中央大垂直溝と呼ばれる大穴に至る。
かつてジオフロント急造時、数ある物資搬入路の中で最大の中央リフトがあった場所。
第七次建造終了時に役目を終えたリフトを覆い隠すように移築された中央図書館。

「あの頃、良くここで一緒に勉強したわね」
「部屋、エアコン付いてなかったもんなあ」
「皮肉なものね。知らずとは言えその真上で私達は」

第三新東京市直下に存在するジオフロント。その正体は黒き月と呼ばれる巨大な球形建造物である。
何時、誰が、何処でこの様なものを造り埋め込んだのか。それを知る者は少ない。
街師と呼ばれる者達、THE BUILDER、第一始祖民族の裔たる者、彼(か)の島、伝承でアトラスと呼ばれた島。
彼等の口伝。かつて空からこの世界に打ち込まれた二つの月、黒と白、それは種を積んだプラントであると。
その黒き月の表皮、外殻と地上とに張り巡らされた数多くの巨大な鉄柱群。
巨大な球の周囲を一度掘り起こし、地盤と外郭の間に隙間を作り
火山性微動の多いこの地においてその振動を相殺する為、設置された膨大なショックアブソーバー群。
地上と地下を結ぶ緩衝地帯へ建物が下降する。

「黒き月って何だと思う?」

外殻に降り行く景色を目に映しリツコが問う。

「さあて、ね」
「街師の伝承では、種を運ぶプラントらしいわね」

彼方より放たれこの世界に打ち込まれたとされる二つの月。その一つ、黒き月。
遠き昔、ここから放たれたヒト達。クムラン12Qで発見されたシナリオに導かれた彼等は再びここを掘り起こした。
しかし、その中には何もなかった。中身の無い巨大な空洞体、そこに建造されたジオフロント。

「プラント? 」
「それはきっと、そうなんでしょう、でもね」
「それだけじゃないのか」
「建造時の話、知ってる? 」

ジオフロント建造時、物資搬入の為、この月の外殻には数多くの穴が空けられた。
これ程までに巨大で外からの圧力に耐えうる外殻、その穿孔は難航すると思われた、しかし、そうではなかった。
意外と簡単に穴が開いたという。当時の技術者達は首を捻る、こんな脆い筈は無いと。
そう、脆くはなかった。問題はその後だった。簡単に開けられた穴、だがそれは目視可能な速度で消えて行く。
外殻に備わっていた驚異的な復元力。穴を開けるよりも塞がれない様にする事、これがジオフロント建造時最大の難関となった。
閉じられた穴はより強固となりて建造者の前に立ち塞がる。幾重にも渡る多層甲板で補強されて行く穴。
つまり、閉じないようにする事が重要だった。故にこの中央リフトも封印されこそすれ非常時を鑑みて残された。

「凄まじきは黒き月の復元力、いえ、治癒力と言った方がいいかしら」
「まるで、それじゃあ」
「そう、生きているの。これはただのプラントじゃない。己の使命を全うする為に意志を持って生き続けている」
「なら何故まだ生きているんだ。やり残している仕事でもあるのか」

正確にはやり残しているのではなく、これこそが、と女の目が鈍く光る。

「私は思うの。この月にはもう一つ役割が、いえ、これこそが本来の仕事なんじゃないのかって」
「本来の、仕事? 」
「ヒトには操り糸が仕組まれていた。エヴァンゲリオンという馬鹿げた劇を演ずる為の糸が。
 でも、もし。私たちはとんでもない勘違いをしていたとしたら」

かつて起こりそして終わった悲喜劇エヴァンゲリオン。こんなはずじゃなかった物語。

「何故それを繰り返さなければいけないのかしら」
「そんな風に設定されてんだろ」
「でも私たちはそれを破ろうとしている、何故かしら」
「完全なんてものは、この世には」
「そう、無いの。完全な物なんか無い。だから」
「何が言いたい」
「私ならこう思うわ」

次はもっとうまくやろう、って。

「次か。そんな物は」
「無いわね。それがこの世界の理。普通の世界なら、ね」
「違う、と? 」
「昨日がかつてあった、こんなはずじゃなかった世界で
 今日がそれを知った上でポイントを変える瞬間であるのなら
 明日はきっと、こうだったらよかった世界。バタフライエフェクトの成れの果て」

もし、操り糸がその為に仕組まれていたらどうかしら。
物語を改変すべくヒトが動くように設定されていたとしたら、その為だけに ―― だからこれは。

「二次創作だな、まるで」
「そう、本編から派生した物語」

かつて本体から切り離された外部ストレージ、黒き月。
そこには過去何処かで起こった物語がコンクされている。
ヒトとは、ベースとなった物語を改変すべく配置されたガジェット、ならば。

「つまりこれは、文字通りの二次創作なのよ。
 黒き月は、こんなはずじゃなかった物語を、こうだったらよかった物語に作り直す為の装置」

そして ―― 鈍い音と共に建物が静止する。

「見て」

女が指差す窓の外、暗闇の中、鉄柱群の根元、まるで星々のように瞬く光。

「みさとの創った世界」

目を凝らす。そして加持は言葉を失う。
巨大な外殻の上から湧き出るようにライトアップされた黒き球体。
それが、いくつもいくつもいくつも、彼方に楕円で歪む地下の地平線の向こうまで、数え切れない程の。

「これは」

口の奥で犬歯が軋む。

「現在の総数、解かるでしょ? 」

目に映るそれはまるで、黒き月の子供達。

「一万一千三百五十七、か」

その答えを聞き、満足そうに女が笑う。






 明日の世界へ、 The world of tomorrowようこそ」






おねえさんといっしょう

presented by グフ様







ロビーの戸を開け放ち外へと足を踏み出す。
べとついた地下の空気が肌に纏わりつくのも忘れ
外殻から生える数メートルはある無数の球体、その一つに寄る。
微かに脈動する表皮に顔をしかめる加持。

「この中に、ミサトが? 」
「いいえ」

加持の問いに微笑むリツコ。

「これら全てに」

数歩下がり周囲を見渡せば一万余の球体が丸く歪む地下の地平、その彼方迄をも埋め尽くし。

「贄有る限り果て無く増殖する並行存在」

一万余の球体、一万余の世界、一万余の物語、そして一万余の贄達。

「あんな腐った物語を」

コンヴィクト、加持の喉元に込上げる腐臭。

「知ってる? 腐った土ほど良い堆肥になるの」
「それが憎悪でもか。奴らの身勝手な願望や欲望に晒されて」
「晒されてあの子は、輝く」

罵られ、蔑まれ、刺され、刻まれ、幾度も殺され。

「あの腐った物語の数々は、みさと無しには成立しない」

しかし彼等は、彼女を決して手放そうとはしない。

「あの子の存在無くしては有り得ない世界」

そうだこいつはわるいやつなんだ。わるいやつだからなにをしたっていいんだ。

「その欲望、正義の仮面の下で蠢く醜い笑い、歪みながらも精錬されていく悪意」

そう、何をしたって良いんだ。普段出来ない事を、決して出来ない事をこいつになら。
さあ思う存分犯そう、思いの丈を込め切り刻もう、殺して殺して死んだらまた生き返らせてまた殺そう。
何度も何度も何度も ―― 僕が俺が私が我等が飽きるまで、何度も。

「それこそがあの子の糧、腐った土を食み根を伸ばし吸い取り成長を続ける」

何故だ、加持は問う。

「何故憎悪なんだ、何故悪意なんだ。何故慈愛じゃ無いんだ、何故善意じゃ駄目なんだ」
「慈しむ気持ち愛する心は弱すぎるから。そうでしょう? 最期まで残るのは、憎しみだもの」

加持は吐き捨てる。くそったれ、と。

「怒りと憎悪がヒトの成長と進化を促進させて来た。だからそれを喰うの」

でもね、とリツコは続ける。

「その力をヒトは持て余す。あの子の苗床、コンヴィクトを見て御覧なさい。
 あそこで綴られた物語のほとんどが途中で放り投げられている、大き過ぎるその力で空回り、無様ね」

ほとんど。リツコのニュアンスで加持は思い出す。
ほとんど、それは全てを指す言葉では無い。確かに加持の読んだ膨大なコンヴィクト掲載作品の中には
途中で終わっている物が多いが、完結しているものも決して少なくは無い。
けれど、それらは何故か曖昧で、まるで途中で投げ出されたかのような終わり方ばかり。
しかしその中で唯一、ほぼ完璧に終わっているものがひとつ、そう一作だけ存在した。
短絡で稚拙で歪みながらも、純粋な欲望と悪意に満ちた物語、まるで思春期の鬱積した鋭利な感情のようで。
確かペンネームは ――“牧神(パン)”。

「あれが、藤木シンジの」
「ご名答」

よくできました、と女は笑う。

「彼だけがあの中で唯一、隠す事無く身に宿った憎悪を叩きつけ、その力を以って物語を完結する事が出来た」

だからあの子に選ばれたの、そして私は選んだの。

「見なさい」

彼女が腕を上げる、人差し指が示す先に、黒き群れの中、一際巨大な球体。

「あの子のお気に入り、リターナーの血を色濃く残し、シンジの名を持つ少年。だから私はあの子を」

目に宿る狂気を隠そうともせず女は笑う ―― 碇シンジにしてあげたの、と。

「この娘もそうだったんだけど」

胸に手を置くリツコ。その瞬間、顔の輪郭が霞み最初に見た伊吹マヤの顔に切り替わる。

「この娘のハンドルネームは“キョウ”」

マヤの顔をしたリツコが微笑む。

「同時に“シン”とも名乗っていたわね」

二つのアカウントを駆使するほどコンヴィクトにのめり込んだ彼女。

「せっかくTRUTH(真実)まで辿り着いたのに、この娘はそれに耐え切れなかった、けれど」

その童顔を白い手でなぞり、再びリツコの顔が現れる。

「もったいないから、もらっちゃった」

ぺろり、蛇のような赤い舌が唇を舐める。

「化物が」

加持が吐き捨てる。

「ばけもの? 」
「ああ、この化物め」
「ばけもの、バケモノ、化物、あはっ、あははははっ」

心底可笑しそうに笑う女。

「加持君、貴方にそう言われるなんて」
「何だと」
「そう、ばけもの。わたしは、あの女、赤木ナオコが生み出した執念。妄執の塊。
 あの女が唯一愛した男のDNAを取り込み生み出された化け物、でもフェイク。ばけもののフェイク」

ちろちろと赤い舌を出し女の唇が歪む。

「加持君、あなたこそが本当の化物、本物の、ばけもの」

ふざけるな。そう言い掛けた言葉が加持の喉元で止まる。

「ヒトに擬態したばけもの」

歪む、歪む、三日月の笑みを湛えて女の唇が歪む。

「貴方は常に適応する。どんな事があろうとも心が大きく振れようとも直ぐに中庸に戻る。
 全てに慣れて馴れて行く。順応性? 適応力? 違う、そんな言葉じゃ説明出来ない。
 だって擬態なんだもの。貴方こそは完全かつ完璧に擬態した存在。ヒトの群れに、ね」

歪む唇が毒を吐く ―― つまりあなたは。

「ばけものであることを忘れてしまったひとなの」
「お前何を」
「聞きなさい」

今がその時よ。
リツコの声が加持を止める。抗うことの出来ない手が加持を抑える。

「父さんの若い頃の写真、見た事ある? 」
「エビ、さん、の? 」

そんなもの見た事など、と辛うじて喉から搾り出される声。

「あら残念、もし見れたのなら面白かったのに」

でも見る事は出来なかったでしょうね、と少し淋しそうにリツコが呟く。

「多分父さんは気付いた、だから貴方には決して、だって」

良く言われない? 貴方、父さんに似ている、って。
それは父さんがそう設定したからだけではないの。

「あなたが彼に似てるのはね」

その瞬間、加持の脳裏に浮かぶナオコの顔。
初めて会った時、加持に注がれた冬月ナオコの眼差し、蕩けたような瞳、あれは ―― おとこを見る眼。

「私があなたを受け入れた時に父さんを強く欲したからなの。だからその姿形になったの」

待て、それじゃまるで。
言葉にならない加持の声を汲み取り頷くリツコ。

「うん」

そして笑う。蕩けたように、笑う。






「私が貴方を造ったの」












【第四話】クロコダイルドリーマー ―― Ⅶ ――












「十五年前のあの日」

立ち竦む男の前で、女が語る。

「私は初めて妹達と会った」

この真下で、ジオフロントで、黒き月の中で。

「嬉しかった。抱き合って喜んだわ、私は一人じゃなかったんだ、って」

姉と似た面影をした十六人の妹達。ブルーブラッドの使徒と呼ばれた十七人。

「いつも何処かで違和感を感じていた。私は違う、他のヒトとは何かが確実に。
 でもその何かが解からない、不安と苛立ちを笑顔に隠し生きていた」

とても孤独だったわ、と女が呟く。

「でも私は一人じゃなかった、私と同一の存在がこんなにも。嬉しかった、本当に嬉しかった」

不意に顔を曇らせるリツコ。

「その夜」

脳幹MRIが、父さんの作った" STEM " が本当の私を曝け出した。

「奥深く眠っていた筈のわにが、囁いたの」

心の奥底から声がした。お前は誰だ、お前は何だ、お前はお前だ、お前しか居ない。

「目を開けると私は立っていた、同じ姿で妹達も立っていた。血の海の中で」

破壊され尽くした設備と事切れた雄鶏達の上で、何も無い顔で十七人が立ち尽くす。

「みんな笑っていた、返り血を浴びながら嬉しそうに、もちろん私も」

とても愉快だった。そうだ、私はこういうものだ、私は私だ、他の誰でも無い、唯一の物だ。

「そして、あいつがまた、囁いたの」

お前は誰だ、お前は何だ、お前はお前だ、お前しか居ない。ならば ―― 隣で笑うお前は何だ。

「巡り逢えた歓喜はそのままで、笑いながら私達は」

憎かった訳じゃない、嫌だった訳じゃない、ただ、許せなかった。
私と同じものが存在する、その事が許せなかった。
私は私、誰でも無い、私だけがわたし、たったひとつのもの。

「気がついたら、全てが終わっていた」

片目が開かなかった、潰れていたから。
立つことが出来なかった、噛み千切られていたから。
腕が上がらなかった、無かったから。
声が出なかった、ひゅうひゅうと喉に刻まれた歯型から漏れる息だけが。

「うずくまりながら、妹達の亡骸を暗闇の中ただ、見ていたわ」

それでも、これでやっと、私は私だけになった、なのに。

「唯一残った片目から、ほんの少しだけ残っていた涙が零れた」

何でこんな事をしているんだろう、何てことを私は。心の奥底の声の赴くまま行った結果がこれだ。

「ああ、終わりなんだ、全て終わるんだ、そう思ったら涙が止まらなかった」

この涙も直ぐに枯れる、その瞬間私は終わる。たった十五周期の生、そして迎える死。

「本当に私なのか、私は姉なのか、アルファなのか、リツコなのか。
 それとも私は妹の一人で姉であった彼女は実はあの亡骸の中のひとつで。
 何もかもが解からなくなった。もうどうでも良くなった、でも」

残る力を振り絞り、芋虫の様に亡骸の群れに寄り添う。

「かつて私であった肉片と血溜まりに浸かりながら思ったの、でも生きたい、って」

そう、もう少しだけ生きたかった、だって。

「まだ、恋すらしていない」

誰かを好きになった事も無く、求めた事すら無く、それすら知らぬまま消えたく無い。

「そのとき、動いたの」

腹の奥が、止まりつつある内臓が、たぶん、子宮が、ごろり、と動いた。
それに応えるように眼の前の亡骸の山が、ぞぶり、と蠢いた。

「私は見た、亡骸から流れ出す何かを」

血では無い何か、形容出来ない何か ―― それはただ、黒かった。

「十六体の亡骸から流れ出す黒いものは、私の目の前で溢れ泡立った」

ぞぶぞぶ、ぞるぞると湧き上がり立ち上がろうとしてまた、形を失い、そしてまた立ち上がる。

「何度も何度も立ち上がろうとして潰れるそれを見て私は、目を閉じ強く願った。在れ、為れ、と」

在れ、私の為に在れ。
為れ、私の愛しきものと為れ。
私が愛すものと為れ、私を愛すものと成れ。
そして有れ、この世界に有れ ―― そして、音が止む。

「目を開けると貴方が居た」

私を見つめ微笑む少年、その微笑みは。
幼い頃盗み見た資料の中、ただ一枚だけ有った父らしき男、その顔に似ていた。

「貴方に私は願ったの」

いとしいあなたに。私の願いから産まれたあなたに。かつて私だったあなたに。

「ひとつになろう」

もう一度、ひとつになろう。

「私達は、求め合った」

昼も夜も解らない闇の中で。腐臭漂う血溜まりの中で。
私達は激しく求め合った。初めて貫かれる痛み、それすら心地良い。
湧き上がる情欲が心を溶かす。身体も心も熔けていく。どちらがどちらなどもう解らない。
その中でいとしい貴方を抱く為の腕が、貴方に絡む為の足が、貴方を見る為の眼が生まれた。
塞がった喉から再び出た初めての音は、初めての快楽に喘ぐ声。
ひとつになろう、もっとひとつになろう。
わたしはあなた、あなたはわたし。その瞬間、私達はたったひとつのものだった。

「その時、私は手に入れた」

言葉を切り、左手を静かに下腹部に添えるリツコ。

「みさとを」

右手を、立ち尽くす加持の頬に添え。

「そして、貴方を」

動かぬ男を顔を静かに撫でる女の手。
蕩ける瞳と赤い舌、濡れた唇から熱い吐息が男の鼻先に掛かり、そして。

「そぉい! 」
「え? 」

不意に視界から消える男の頭。
それが大きく振りかぶった加持の額だと気付いたと同時にガンッ! と鈍い音を立てリツコの視界に星が飛ぶ。

「っ!? 」

鋼のデコを持つ女、アオバ直伝の頭突き、通称ドアノッカー炸裂。
声にならない悲鳴と共にへたり込むリツコ。






「うっせえボケ」




















「何をするのよ! 」
「何するのよじゃねえよこのトンチキ! 」
「トンチキ言うな! 」

頭を抱え立ち上がるリツコを見てふんっ、と荒く声を吐く加持。

「さっきから黙って聞いてりゃ一人で悦に入りやがって。ばーーっかじゃねえの!? 」
「なっ、なっ、なっ! 」
「ナルシスト? 」
「違うっ! 」

あまりの言われ様に言葉が出ないリツコ。

「何で、何で動けるのよ! 」
「さーねー」

驚くリツコを尻目にニヤリ、と笑う加持、そして。

「俺は俺だ、お前が何と言おうとな」

その言葉を前にリツコの瞳に憎悪が篭る。

「へえ、いい眼するじゃねえか」
「貴方は」
「あん?」
「貴方はっ! 」

暗闇に響く女の叫び。

「貴方は私のものなのに! 」

叫びに呼応するかの様に微かな振動が響き出す。
黒い球体から放たれるウェイブ、それが重なり地鳴りとなって緩衝地帯に響き出す。

「止めなさい! みさと!」

声を張り上げる。しかし、振動は止まらない。

「ほーら、やっぱ反抗期だ」
「五月蝿いわよ! 」

茫洋と他人事のような加持に苛立ちを隠そうともせずリツコが問い詰める。

「言いなさい、何をしたの。あの子に何を吹き込んだの」
「そっちが先だ」
「何が? 」
「タージエとは何だ」

不意に振動が止む。
突然舞い降りた沈黙、微かな耳鳴りと共に。

「ふん、聞き耳立ててやがる」

球体の群れを一瞥しリツコに向き直る。

「言えよ」

笑う唇笑わぬ瞳、加持が再びリツコに問う。

「アルカのアップデートよ」
「だからそれは何だ」
「アルカとは何? 」
「糸を切る作業だろ」

ヒト種特定遺伝子修正プログラム、プロジェクト・アルカ。
張り巡らされた糸を切り、定められた終末を回避する為のプロジェクト。

「糸が切れるなら、紡ぐ事だって出来る、そう思わない?」

加持の口元から笑みが消える。

「新しい物語を作る事が出来る、そうは思わない? 」

その笑みを盗むように再びリツコが微笑む。

「何処の誰かも知らない者達から繰り糸を奪い取り、私が再び紡ぎ直すの、明日の世界を」

そして腕を大きく拡げ、瞳に映る球体の群れを包むように声を放つ。

「これは糸巻きなのよ。一度巻き直し再び物語を紡ぐための、その為の黒き月、その為の、みさと」
「そんな事の為にお前は」

使ったんだな、使ってしまったんだな。
俺とお前の、かけがいの無い存在になり得たかもしれない者をお前は。
俺達の子供を、お前は。

「そんな事? 」

ゆらり、と金髪をなびかせ振り返るリツコ。

「そんな事、って言った? 」

笑みを消し無機質に加持を見据える二つの眼。

「貴方は何を勘違いしているの? これは貴方の夢なのよ」

笑うでも怒るでもなく、ただ透明な顔。

「貴方、言ったわよね。あの日、あの朝、あの庭で」



―― 加持くん。


二人が共に迎えた朝、彼女が呟いた声。
加持の脳裏に蘇る優しく潤んだ声。


―― あなたの夢は、なに?


俺はあの時。



「家族」


その呟きを聞き、無機質な顔に笑顔が満ちる。
リツコの瞳に海が満ちる、輝き、潤み、心底嬉しそうに笑う。


「そう、その為にもう一度世界を」

そのためのみさと、そのためのミサト達。

「この小さな黒き月に内包されている世界は、みさとと共にまだまだ大きくなる」

彼女は言う、コンヴィクトは皮切りに過ぎない、と。

「でもあの子はいつも、おなかがすいているの。だって、あの子の胃袋は果てしなく大きいから」

この黒き月のように、いえ、この月ですら満たせない。
近い将来、これらは外殻全てを覆いそして本体をも喰らい尽くす。

「エヴァンゲリオンのラストは、何だったかしら」
「サード・インパクト」
「そうね」

かつてこの世界に打ち込まれた二つの月、黒と白。
白き月は私達、使徒の元となった第七素体を開放し役目を終えた。
でも、まだ黒き月は生きている。再び物語を作り直すプラントはその時を待っている、ならば。

「みさとは、あなたの特徴を色濃く受け継いだ」

数多の欲望を受け入れ葛城ミサトであろうとした。

「やがて、みさとは黒き月すら飲み込む、その時」

私達は願えばいい。

「こんな筈じゃなかった物語を、こうであって欲しい物語へ、願うの」

そう、もう一度私達はやり直す。
平凡な男と凡庸な女として再び出会い、恋をする。

「また愛し合いましょう、そして子供を作りましょう、みさとを。
 今度こそこの腕に抱ける、頬擦り出来るあの子を、ささやかだけど、とても幸せな物語を今度こそ」

その言葉に応えるかのように、再び振動を始める球体の群れ。

「ほら見て、みさともあんなに喜んでいるわ」

振動する一万余の球体が共鳴し緩衝地帯を大きく揺らす。

「違う」

加持が歯を食いしばり漏らした言葉。

「え? 」
「違うって言ってんだッ! 」

リツコが振り返る。信じられないものを見るような瞳で。

「お前は、これが笑い声に聞こえるのか! 」

振動と共鳴の轟音の中、加持は叫ぶ。

「そう、そうなのね。貴方はまだわからないのね」
「解からないのはお前の方だ」

その言葉を聴き、再び無表情の仮面を被る女。

「そう、仕方ないわね」

ふう、と溜息をつき言葉を紡ぐ。

「とりあえずそこに跪(ひざまず)いてくれない?」
「お前、何を」
「跪け」

瞬間、足首から力が抜け膝が落ちる。

「く、かっ」

急激な脱力感が加持から言葉を奪う。

「いつだってこう出来たのよ、加持君」

膝を突きうずくまる加持を見下ろす感情の無い瞳。

「だって貴方は、私の願いから生まれた存在だもの」

それはまるで、壊れた人形でも見ているような。

「そうやって見ていなさい、これはお願いじゃなくて命令、解かるわね? 」
「調子、に、乗る、んじゃ、ね」
「あら、まだ動けるの、流石ね」

そして体を屈め、加持の耳元で囁く。

「さあ教えて、何をしたの? あの子に」

優しく、諭すように、感情の篭らぬ声で。

「や、く、そく」

奥歯を噛み締め、加持の口元から搾り出された言葉。

「約束? 」
「おれ、は、やくそ、く、した」

ひとつになったあの夜、彼女と交わした約束は、二つ。


―― ありがと、もう一つはね。
―― まだあるのか。
―― もうひとつだけ。
―― 言ってみな。


ひとつは髪を染める事、もうひとつは。


―― いい?
―― いいよ。


「約束って、なに? 」

何も覚えていないかのような口振りでリツコが問う。

「さあ答えて、あの子に何を」
「そ、う、か」

そして加持が。

「知らないんだな、お前は」

立ち上がる。

「な、何で、そんなッ! 」

無表情の仮面を破り眼を見開く女。

「やっぱりお前は、ただのお前だ」

腕と足に再び満ちる力、そして笑う、犬歯を覗かせて、哂う。

「りっちゃんじゃ無い、ただの名無しだ」

上着に手を入れ、携帯を取り出し。

「覚えてないんじゃない、知らないんだな、あの約束を」

片手で握り潰す。

「貴方一体何を! 」

その瞬間、振動と共鳴が止む ―― そして。





天井から突如舞い降りる轟音。




「第1アブソーバー、パージ」



そして、火花。暗闇を吹き飛ばし。



「第7アブソーバー、パージ」



次々と巻き起こる爆発音。



「第12から第24アブソーバー、パージ」



加持の言葉と共に、爆発音、そして火花が、炎の雨と共に降り注ぐ。



「加持君! あなた、貴方いったい何をッ! 」
「これが俺のカードだ」

降り注ぐ火花の中、赤く照らされた男の顔を見て、女の顔が大きく歪む。

「お前はあの約束を知らない、でもこの言葉は覚えているよな」

俺達が別れる時、俺は何と言ったか覚えているよな。
そう言う男の唇は、心底楽しそうに笑っていた。








「言った筈だ、容赦しないと」

































おねえさんといっしょう
第四話/クロコダイルドリーマー/Ⅶ/了


Can you follow?
Really?

All right.

Here We Go.
To the world that you hope.

but.

You can never come back.



Never.



OK, I will dance.






To be continued...
(2009.04.25 初版)


作者(グフ様)へのご意見、ご感想は、メール または 感想掲示板 まで