記憶は人を裏切らない。
それが唯の幻想でしか無い事は既に誰もが知っている。
つまり記憶は、人を容易く裏切る。

ならば、と老人は思う。

人は記憶を裏切る事が出来るのだろううか。
記憶を騙しきる事を、果たして。




「おじいさま、おてがみ! 」


ドアから飛び込んできた声で老人は思索を中断する。

「ありがとう、マリイ」

好々爺の笑みで孫娘が持って来た手紙を受け取り、彼女の髪を優しく撫でる。

「えへへ」

そして何かを思い出し顔を上げる娘。

「あ、おじいさま、お茶が入ったって」
「そうか。この手紙を読んだら行くから先に頂いておいで」
「うん、まってるね、おじいさま! 」

部屋のドアを開け廊下を駆けて行く音を聞きながら老人は目を細める。

「さて」

そして老人は頭を振り手の中にある現実へと。
銀のペーパーナイフが切手も消印も無い封を切り、一枚の紙片を取り出す。
遠く極東の街、彼等の悲願である象徴、第三新東京市よりの報告。
現総主より発せられたそれは幾人からの伝達を経て一刻もかからずに彼の手に。
二つ折りの紙片を開く。記された羅列、たった一行の文章。


―― 親愛なるオールドマン。王は鍵を手にされました。


先代総主(オールドマン)、キール・ローレンツは目を閉じる。
目尻に皺、皺の奥に深い闇。椅子に深く腰を沈め声を出す。

「宜しい。その為に造られた街だ」

溜息を吐くような呟きが午後の部屋に溶けて行く。

「プロジェクト“E”、Evangel、 福音」

アルカ発足前夜、極秘裏に遂行されたプロジェクト“E”。
操り糸を持たぬ或る素体から製造された子供達、全17体の使徒。

「誰も彼もが模索していた、さながら暗闇で明かりを灯そうと手を伸ばすように」

彼等の目的は唯一つ。ヒトに組み込まれたプログラムを書き換える為のワーム。
物語の爆心地とも言えるこの街に放たれた子等。用意された名前、戸籍、養父母。
それがいずれ物語を内側から食い破り芽を出す事を信じて。

「狂っていたのなら救いはあった」

しかし、いくら極秘裏とはいえ生命倫理を全く考慮しない“E”は各方面からの反動を受けプロジェクトは解散の憂き目を見る。
その混乱の最中、突如“E”に関わる全てが跡形も無く消失。隠蔽工作、対立組織による破壊工作、様々な憶測が流れるが原因は不明。
データ、設備、人員、一切合財全て。結果、成果である使徒達、雛形1体と試験体16体の所在は特定が困難となり全ては振り出しに。

「悲しい程に正気だった、そして誰もが皆、狂いきれず泣いていた。
 それが痛いほど理解できたからこそお前達の消失に手を貸した、なのに」

時を経て全ヒト遺伝情報改変プログラム、プロジェクト・アルカが発足。
ジオフロント完成、準備段階を経て第二フェイズへと移行、サブリミナルプログラム「エヴァンゲリオン」開始。
やがて予想通り物語の爆心地である第三新東京市からは多数のリターナーが出現。
擬似記憶発症者、リターナー、しかし真実は。
近い将来刷り込まれた行動特性遺伝子により自らがエヴァンゲリオンの物語へと進む可能性の最も高い者達を示す。
彼等をまず最優先で観察・第一次DNAワクチン投与の対象とする事で一時的危機を越えると共に
その治療の裏で行われた臨床試験を元により精度の高い治療法の確立を目指した、しかし。

「お前達は囚われた」

続々と現れるリターナーの中から偶然発見された17体の使徒達。
そして目覚めた雄鶏が矯正を上げる。彼等こそ姿と経歴を改竄しアルカ内に潜んだ“E”の残滓。
十余年の時を経て目を醒ます福音の子等と狂信者達。
“E”とアルカ、それを知るごく一部と、それを知らない他大勢。この二つの構図はアルカ内に深刻な対立を起こす。
今がその時だと強硬論を唱える雄鶏(オンドリ)派、それに対し慎重論を唱える梟(フクロウ)派。
多数を占める梟達に対し、主導を握ろうと画策する雄鶏派は自己の正当性を示す為、一つの賭けに走る。

「愚かなお前達は囚われた、我等と同じく」

使徒達に対し新皮質から旧皮質に至るまで脳幹MRI"STEM"で徹底的に解析を行い
これら14歳の子供達が真に物語に縛られない存在である事を証明し復権を遂げようと目論む。
この手法こそが、“E”こそが人々を操り糸から解き放つ最良の道であると。
しかし、それは予想だにしない劇症を生む。

「触れえざる者、その禁忌に」

脳の最深奥、旧皮質に隠されていたスイッチが押される。
自分達が何であるのか、如何なる存在であるのか、それを知ってしまう。
湧き上る本能が情動を揺るがし理性という薄い皮を引き裂き、そして。
検証を行っていた雄鶏派主要メンバーを塵殺し、設備を破壊し尽くした後ジオフロントへ消えた彼ら。

「唯一の種“The One”、それは常にひとつ、コギトエルゴスム、ならば結果も一つ」

翌日、発見されたもの。
原型を止めぬ程破壊された15体の遺体と、その中心で絡み合う少年と少女。

「だが、何故」

そう、いつもここだ、とキールは気付く。繰り返し重ねてきた回巡メソッド、しかしいつもここで。
一つ一つが完成された種である彼等は同一種を仲間と認めない、むしろ自分を脅かす敵として排除を。
なのに何故、二つ残る? つがい? 否、彼等は群体となる事を捨て永遠を選ぶ種だ、進まずに留まる道を。
なのに何故、王は、ADAMは残した? 彼女を生かした? 何故だ。

「そう、何故」

彼女。生き残った片割れ。“E”シリーズ全ての雛形。試験体アルファ。
このハーメルン・ケースと呼ばれる事件が元で、御輿として担ぎ出された赤木ナオコを含む雄鶏派の生き残りは更迭。
少女は幾度にも渡る精査の後、差異の無い完全なヒトと確認される。そして記憶封印施術を受けた後、解放される事となる。
受入れ先はアルカ創設の功労者であるOB、冬月コウゾウが手を挙げる。妻がナオコである事から反対の意を唱える者も居たが、
冬月の功績、ナオコ自体も功労者であるに関わらず雄鶏派に担ぎ上げられた御輿に過ぎなかった事への同情論。
既に夫妻共々アルカを離れている事、そして、製作者である本人の元ならばメンテナンスケアの面で効率の良いこと。
これらの条件を満たす類は他に無く、最終的に少女の受け入れ先としては最適と判断され
彼女は製作者である旧姓赤木ナオコと、彼女の夫でありアルカ創設の功労者でもある冬月コウゾウの元へ。
事件より12ヵ月後を経て冬月リツコとして新たなる生活を始める。


「それよりも、何故」


―― じっさん。あいつ、本当に何も無いんだわ。


キールの脳裏に浮かぶ男の声。
あいつ。男があいつと呼ぶモノ。それはリツコと同じくヒトと確認されるが、記憶そのものが存在しなかった。
雨の中ずぶ濡れになったサテンのジャンパーが黒く沈む。

―― 傷に障るぞ、タカヒロ。

左腕に巻いた包帯から滲む赤い染み。肩を落とし、前髪から垂れる水滴を拭おうともせず淡々と。

―― 鼻、へし折られたよ。俺ってつくづく天狗だったんだなあ、ってよ。

何も無かった、そう何も無かったんだ、と力なく笑うずぶ濡れの男。
開け放たれたドアから流れ込む湿気、その向こう、麓に拡がる箱庭、霧雨に煙る街。

―― なら、お前はどうしたいのだ、タカヒロ。

湯気が立ち昇るケトルの火を止めポットに移す。傍らに置いたドリッパーに満遍なく湯を通し捨てる。
暖めたフィルターに挽きたての豆を入れ、軽く湯を注げばふわり、と膨らむ黒い粉。立ち上る琥珀の香り。

―― せめて、ヒトらしくしてやりてえ。甘いかな、俺ぁ。

そして、蒸らした粉の上に再び注がれる湯。鼻腔をくすぐる匂いが薄暗い店内を包み込む。

―― 甘いな、甘過ぎる。だが。

ランプの灯りに照らされたカウンター、置かれたカップに注がれる珈琲。

―― それが、お前だ。

砂糖は? と老人が促せば男は指を三本立てる。
本当にお前は甘いな、苦笑する老人にうるせえよ、と毒づきカップを手に取る男。

―― なら、さ。

濡れた前髪の奥、ずぶ濡れの犬のような瞳で男は問う。老人は沈黙する。答えなど当に出ている。
後は首を縦に振れば良い、だが蒸らしが必要だ、珈琲と同じだ、良い豆なら特に。
立ち昇る香りと共に薄暗い店内に静寂が満ちる。静かな雨の夕暮れ。窓の向こう、さわさわと霧雨。

―― 何も無い獣よりも。

沈黙という名の蒸らし終えた老人が口を開く。

―― 人と為せれば我等の法に沿うだろう。要は効率の問題だ。

口に含むコーヒーの甘さに男の口が緩む。

―― じっさんも大概だよな。

俺は確かに大甘だが、あんたも相当な甘党だ、と笑う男。

―― それが、我々だ。

夕闇に包まれた店、第三新東京市を見下ろす山間の小さな喫茶店。
ここで行われた街師総主と第二研実質トップの会合は、その少年の進む先を変えた。
やがてアルカ最大のバックボーンである街師(THE BUILDER)の首魁、キール・ローレンツは、
己の進退と引き換えに少年の身柄に対し「せめてヒトらしく」扱うよう進言を行う。
ヒトの記憶を植え付けヒトの群れに放ちヒトの法に縛る事こそ彼を制御する最も効率の良い手段だと。
アルカよりの依頼を受け、当時第二研主任技術者であった海老タカヒロはSTEMシステムを応用し
海老自身の記憶から複時的擬似記憶を作成、少年はエヴァンゲリオンの登場人物より
加持リョウジの名を与えられリツコより半年遅い18ヶ月後に解放される。
受け入れ先は冬月コウゾウが再び手を上げる。これに関しては反対意見が多数を占めたが
冬月の人望、ナオコの責任、そして事が起きた場合は街師が総力を挙げ処理するという
時期宗主臥乱堂と、彼に対し施術を施し冬月と共に後見人となった海老の圧力に押され
“二人に何があろうともアルカは干渉せずまた責任も負わず”との確約を経て冬月の下に身を寄せる事となる。


「いつお戻りになられるのですか? 」
「明晩ですな」
「寂しくなりますね」
「私もですよ、冬月先生」

年下の友人へ最後のコーヒーを。
湯気と香りが、白いシーツに覆われた店の中を静かに包む。

「これがもう飲めなくなるとは」
「生きてさえおれば何時でも」
「世は全て事も無し、ですか」
「左様。天に神が居らずとも」

笑う二人がカップを手に取り、挽きたての香りと味を楽しむ。
途切れた会話。窓の向こうは晴天。午後の陽の下、静かに佇む約束の街。

「冬月先生」

不意にキールが口を開く。
街師 ―― THE BUILDER 総主の座を後任に譲り、この街を離れる今だからこそ聞ける事がある。
敢えて問えなかった事、答えを聞くことが出来なかった事、それは。

「ヒトとは一体、何なのでしょう」

かつての青年、クムラン第拾弐洞窟 "12Q" で、"それ" を目にしたキールが問う。
壁面を覆うように刻まれた記号。ヒトのDNA、その隙間を埋めるジャンクコード。
積み重ねられた歴史、培って来た知識、膨大な犠牲を払い築かれた叡智。それら全てを吹き飛ばす“シナリオ”。

「ヒトが特別な存在、と思うのは我等ゆえの傲慢なのでしょうか」

プロジェクト・アルカ提唱者にして自身もSTEM第一献体、ファーストリターナーであるキール・ローレンツが問う。

「ヒトとサルを分かつものをご存知ですか? 」

その問いに、アルカ基礎理論構築のベースとなった"冬月レポート"制作者、冬月コウゾウが応える。

「ヒトに最も近縁なものであるチンパンジーのゲノム配列は、ヒトと98パーセント同一です。
 ですがこの様な僅かな差で何故ヒトとチンパンジーにこれほどの差異が現れるのでしょう」
「比較する場所を間違っていた、という事でしょうか」

その通りです、と頷く冬月。

「これまではタンパクをコード(規定)する遺伝子の差異のみが調べられて来ました。
 ですがここではヒトがヒトたる特徴はほとんど見つかりません。
 それもその筈です、タンパクコード遺伝子以外のゲノム領域を見逃していたのですから」
「ジャンクDNA、その呼び名は過去のものですかな? 」
「はい。以前はその役割が不明としてジャンクと称されてきたncRNA、ノンコーディングRNA。
 タンパク質を規定(コード)しないと思われていたRNA遺伝子の中に発見されたもの。
 サルに比べ加速度的に進化している領域を含むHAR1Fという機能性ncRNA。この118塩基の領域は
 ヒトとチンパンジーでは18塩基も異なるのに対し、チンパンジーとニワトリでは2塩基しか違いません。
 このRNA遺伝子は安定な二次構造を作り、ジャンクどころか多くの重要な機能を持つと考えられます。
 そしてこれらは胎児脳が発達する段階で新皮質のニューロンに発現することが解明され、
 ヒトとしての特徴的な6層構造を形成するのに重要な機能を持つらしいことが」

そこで不意に言葉が切れる。

「いけない、またやってしまいました」

妄言学者の悪い癖です、と、ばつの悪い顔をする冬月に微笑み返すキール。

「鍵はがらくたの中に、とは皮肉なものですな」
「同感です。一番重要な物をがらくたと定義した者の端くれとして情け無い限りです」
「しかし冬月先生、貴方は其処から宝物を掘り当てた」
「今となっては、それこそが大きな間違いでは無かったのか、と」

その様な事を、と言い掛けたキールが口を止める。
慰めは要らない、同じ想いを持つ者同士なら尚更。

「最初は軽い思考実験のつもりでした、戯れだったのです」

形而下とは、形而上とは 。
形而下とは見て触れて感じる事、形而上とは心の中で感じる事。
脳の奥底で産声を上げた存在、その発生のメカニズム。我等と彼等は何処から来て何処へ行くのか。
例えば天使、例えば悪魔。ヒトの想像から生まれた形而上存在は果たして現出する事が可能か否か。
形而上存在である彼等を形而下の我等が見て触れて感じる事は出来るのか。

「むしろ戯れだったからこそ、熱くなれたのかも知れません」

かつて、神も悪魔をも計算すると畏怖された男、冬月コウゾウ。
今まで哲学的考察止まりであった形而上生命に対し、初の実証的研究へとシフトさせ形而上生物学という新たな世界を切り開く。
量子コンピュータでシミュレートされた架空の環境内で進化する仮想生物の研究は、やがて人間の進化の可能性にまで手を伸ばす。

「しかし、その戯れに様々なものが集まってしまいました」

冬月コウゾウ、赤木ナオコ、海老タカヒロ、六文儀ゲンドウ、碇ユイ、惣流キョウコ、マリイ・ビンセンス。
世界初の量子コンピュータ"アーキテクト・マギ"DANUシステム。脳幹MRIスキャナ先行試作型STEM。
人材が集まり道具が揃う、ばらばらだったものが一つになる。まるで床一面に散らばったパズルのピースをはめ込む様に。

「全てが揃ってしまいました」

やがて浮かび上がる“糸”の存在。特定された行動遺伝子。
可能性が否定されたヒト。オメガポイント、全てはそう、行き止まり。
記憶野に蓄積される擬似記憶、浮かび上がるもう一つの物語 ―― " Evangelion "
鮮明に浮かび上がるもう一つの世界、起こり得る物語。そこで負う役割、キャストファイル。
その正体に彼等は言葉を失う。我等こそ引き金を引く存在、そのものなのだと。

「解っているのだろう? ほら、これが答えだ。と言わんばかりに」

突きつけられた事実。

「ヒトとは何か。この世界に生きる私が持つ答えは、たった一つ」

冬月は呟く ―― 小道具(ガジェット)、と。

「エヴァンゲリオンという物語を紡ぎ終わらせる、その為だけのガジェット、これが我々です」

その為の私、冬月コウゾウ。その為の貴方、キール・ローレンツ。
小道具に振られた名前、名前と言う記号。記号に縛られた我等ヒト。

「今回の事件、ハーメルンケースも起こるべくして起こったのでは無いでしょうか」

"シナリオ" ―― クムラン12Q、劣化の無い黒曜石のような壁面に刻まれた膨大な記号群。通称クムランテクスト。
1Qより11Qを表とするならば此れは裏、故に名付けられた名前、裏死海文書。その中で発見されたもの。
二重螺旋が幾重にも重なり絡み合う紋様。それはヒトが未だ知り得ないゲノムコードを示していた。
さあ見るがいい、答えはお前達の中に眠っている、ほら、ここだ。
示された道標、ヒトを形作る記号、遺伝子、隠された物が目を覚ます。そして抽出された培養体。
Seven - Cadinal - Sins ―― ヒトが背負う七つの業を持たぬ純粋にして無垢なるもの、操り糸から解かれた存在。
第七素体 ―― 使徒達は、彼等は、彼女は、そして彼は、此れより産まれた。

「彼が目を醒ました時、その顔に浮かんだ笑みを、私は決して忘れる事が出来ません」

ベッドの上、眠りから醒めた彼。目が合った瞬間に浮かぶ微笑み。

「私たちは彼に加持リョウジという名前を与えました、その記号で縛りました、ですが」

無邪気? 否。無垢? 否。何も無い、吸い込まれそうな顔、空っぽの微笑。

「海老君をモデルとした擬似記憶がプリインストールされているとは言え、あの順応性は異常です」

何も無い彼に与えられた記憶、そして記号。
自ら食物を摂る事さえままならなかった彼は、それを手に入れてから僅か7日間で、驚くべき速度で適応を遂げた。
言葉、知能、容姿と同年代の者の平均を上回る学力、軽い冗談で周囲を和ませるコミュニケーション能力ですら。
あの彼が、そう、あの夜、血塗れで我々を嘲笑っていた獣が。
殺し合いの果て屍の山に立った者。彼が全て殺し屠った、と彼女は言った ―― しかし。
彼女は、リツコは果たして真相を述べたのだろうか。もし彼女しか知らない真実があるとすれば。

「彼は一体、何なのでしょう」

そして、冬月の細い瞳が静かに開く。

「何故、貴方達は雄鶏に第七素体を渡したのですか? 」

カウンターを挟み静かに睨みあう二人。

「私には、この忌むべき事件が貴方達にとって、予定された通過儀礼の一つとしか思えてならないのです」
「冬月先生」

老人の口が開く。

「アルカで本当に糸が切れるとお思いですか? 」

息を呑む冬月。

「私は思うのです。どの様な改変を続けても結局、この物語から抜け出す事は出来ないのでは、と」
「だから、あなた方は」
「許しを請おうとは思っておりません」

錆びた瞳でキールは答える。

「ですが、何をしようともシナリオは打ち破らねばなりません」
「その為の "王" ですか」
「左様です、冬月先生」
「どれほど犠牲を重ねれば終わるのでしょうか」

冬月の脳裏によぎる顔。六分儀ゲンドウの顔、泣き出しそうな笑顔。
STEM被験者として、物語を知ってしまった者として、自らに課せられた糸を必死に切ろうともがいていたあの頃。

―― 冬月先生、僕に出来る一番簡単で、効率的な方法が、これです。

止めろ、と声を張り上げ叫ぶ。落ちようとする後姿に手を伸ばし彼の白衣を掴む。

―― 先生、後を頼みます。

けれど掴んだはずのそれはとても軽く、ただ白い布が暮れかかる赤い空の下で風になびく。
直後、バンッ、とまるで水風船の破裂したかのような音が足下から響く。
夕陽に赤く染まる屋上で膝を付き、ただ、ただ立ち尽くす。
最期の笑顔が、解き放たれた安堵の表情が、泣き笑いの顔が、焼き付いて離れない。

―― 生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になるのに、そう思いませんか、先生。

葬儀の夜、取り次がれた電話口から細く途切れそうな声が流れる。

―― 私はあの人を軽蔑します。諦め逃げた挙句に自ら進んで地獄に堕ちたあの人を。

無機質な声、感情の篭らない声。碇ユイの声。

―― きっとあの人、今頃泣いていますわ。強面の癖に実は小心者で繊細なあの人。

でも、本当はとっても可愛いあの人。と電話口の向こうからくすり、と笑うユイの声。

―― だから。

今何処に居るんだユイ君、皆君を探している、何を考えて居る冷静になるんだ。と、震えを隠し勤めて冷静に諭す冬月、しかし。

―― 叱りに行って来ますね、先生。

その声は、彼女には届かなかった。


「誰もが狂いきれずに死んで行きました」


私とナオコ、そして海老君。愛憎で繋がれた者だけが生き残った、かろうじて。皮肉なものです、と冬月が首を振る。

「貴方のご息女も」
「先生」

カウンター越しから冬月を制すキール。

「それでもやらねば為りません」

あの日、青年は叫んだ。ふざけるな、と。

「知ってしまった私達は、やらねば為らぬのです」

ふざけるな。固く閉じられた拳から血が滲む。
ふざけるな。運命、天命、宿命、我等を導くその全ては繰り糸だというのか。
ふざけるな。この得体の知れない設計図が我等のアリバイだというのか。
ふざけるな。笑顔も憎悪も涙も愛も昨日も今日も明日も過去も未来すらこの物語の為の小道具だというのか。
ふざけるな、ふざけるんじゃない。
我等はただお前達に喰われる為の豚では無い、お前達の物語を彩る為のガジェットでは無い。
我等を人形と蔑むのならばすればいい。操主無しでは何も出来ない哀れな人形と哂うがいい。
だが我等は糸を切る。切れた先から血が滴ろうが構わない。反吐を吐き無残な屍を晒そうが構わない。
そう我等は立上がる。己の手でこの繰り糸を引き千切り、物語をこの手に、必ずやこの手に取り戻す。
あの日の叫びは未だ耳に響いている。あの日の誓いは、老いた体の奥底に未だ刻まれている。

「それは使命感でしょうか、それとも願望でしょうか」

不意に冬月が漏らした言葉。

「願望、ですと? 」
「どうしても拭いきれない疑念があるのです」

それは一体、とキールが耳を傾ける。

「遺伝子の本質は情報です、情報を受け渡し変化するもの、DNAはその媒介に過ぎません」
「それが、何か」
「先程私がお話しましたノンコーディングRNAですが」
「ジャンクと呼ばれた宝物、タンパク質をコードしない遺伝子、ですか」
「それらの中に欲望や願望、つまり何かを強く願う欲求の情報をコードし、転写していくものがあるとすれば。
 もしそれが、人の願いが、それこそが形而上存在を現出させるものだとすれば、だとすれば。
 私達が糸と呼ぶ行動特性遺伝子、それすら生ぬるいとすら思えるものが未だ眠っているとすれば。
 例えるならば形而上特性遺伝子、その様な物が私達のプログラムに組み込まれているとすれば」

そんな事がありえるのですか? とキールは問う。

「いえ、ありえません」

しかし冬月は否定する。そう、そんな事はありえないのだと。

「ですが、ありえない事がありえてしまう、私たちはそのような世界に生きています。
 居ないと言われていたブラックスワンを仮定した瞬間、それが目の前を飛んでいる理不尽な世界、そう、つまり」

冬月の細い瞳から漏れる眼光。




―― 私たちは未だ、物語の中に居るのです。




そして、オールドマンは目を開ける。

「物語の中、か」

先代総主、キール・ローレンツが呟く。

「ありえない事が在り得てしまう黒鳥の世界」

そして、手の中に一枚の紙片。

「加持リョウジ」

―― 彼は一体、何なのでしょう。

ヒトの存在を容易くガジェットと言い切り、かつて神も悪魔も計算すると揶揄された冬月コウゾウを以ってすら
解らない、と言わしめた存在、加持リョウジ。ハーメルンケースという蟲毒の壷から這い上がった最強の呪詛。
糸を切る者、我等が王、その筈だ、しかし。

―― あいつ、本当に何も無いんだわ。

海老の声が再び響く。彼は何を以って何も無い、と言ったのか。
何も見て居ないからこそ何も無いと言ったのか、それとも、何かを見てしまったのか。
加持リョウジ、その名は与えられたものだ、彼をヒトとして縛り付ける為に我々が与えた記号。
では、その前は一体。

「それを知る術は、既に」

そう、何も無い。
あの日、記録は全て破壊された、いくつかのバックアップは残ったが肝心の容姿を特定する数値や画像データが失われた。
つまり、彼に屠られたと思われる15体の性別や容姿、与えられていたであろう名前や戸籍。
彼と彼等が以前あの街の何処に隠され暮らしていた履歴など一切合財。
何もかもが残っていない。残ったのは事実、生き残った二人。17体の内たった二人、しかし二人。
そう、いつもここだ、いつもここで何かが引っ掛かる。
何故、王は、ADAMは残した? 彼女を生かした? 何故だ。

「ありえない」

そう、ありえない。
情報が全て消え去るなどありえない。例え資料がデータが全て消え去ろうと残った当事者達の記憶にそれは残る筈だ。
だが、誰も知らないという。否、私自身一度目を通した筈だ。だが何故覚えていないのだ、何故。

―― その顔に浮かんだ笑みを、私は決して忘れる事が出来ません。

「まさ、か」

―― それは使命感でしょうか、それとも願望でしょうか。

「そんな、その様な事が」

―― 例えるならば形而上特性遺伝子。

「書き換えられたのか、記憶が、その様な事が、まさか! 」

―― その顔に浮かんだ笑みを

「彼を見た者は、ヒトである限り」

そうだ、私は目を通した筈だ。17体の使徒達、試験体アルファと後に続く16体。
その容姿を、“E”シリーズ全てを目に通した筈だ、差異の無い容姿、姉と妹達。

「なん、だと」

そうだ、彼では無く彼女だ、彼女達だ。同じ顔をした17人の少女達。

「だから居る筈は無い、“彼”が居る筈は、そして」

“18人目”が生まれる事など決して。

「我々は、そのような物に名を、記号を与えてしまった」

加持リョウジという記号。何も無い訳だ、何故なら彼こそは。

「そう、彼こそは、彼女の」

彼女、冬月リツコ、第七素体より生まれた試験体アルファ。

―― 彼女の門は死への門であり、その家の玄関を彼女は冥界へと向かわせる。

その時、不意に脳裏を過ぎる一節。死海文書4Q184、第四洞窟184番テクスト、LILITHの項。

―― そこに行く者はだれも戻って来ない。彼女に取り憑かれた者は穴へと落ち込む。

我々は、まんまと穴に落ちてしまったのか。
彼女の、否、彼女を未だ操っているであろう糸に。



―― あなたのご息女も。



「おじいさま、お茶が冷めちゃうよ! 」




ああ、思い出してしまった。




「おじいさまぁ! 」




記憶の中で娘が微笑む。お父様、素敵な名前ありがとう。マリイって名前、私大好き。
もし私に子供が生まれたら、きっと同じ名前付けちゃうわ、マリイとクラインマリイ、素敵でしょ?
マリイ・ビンセンス。旧姓マリイ・ローレンツ。



「ねえ、おじいさまぁ! 」



ごめんなさいお父様、と消え入りそうな笑顔で娘は呟く。何故謝るのかね、と父は返す。
だって、私の可愛いクラインマリイをお父様の手に抱いて頂く事が出来なかったのですもの。
意識の混濁が始まった彼女の手を優しく握り、いいんだよ、と優しく諭す。
そして彼女は眠る。二度と目を覚まさぬ眠りに。



「ああ、今行くよ、マリイ」



そして老人は席を立つ。
生まれる事の無かった愛しい声に誘われるまま、誰も居ないであろうリビングへ。
握り締めた手に紙片、それを無造作に屑篭に放り込む。


―― 王は鍵を手にされました。


あの日、約束を課せられた場所、クムラン12Q。
もし、それすらも予定調和の一つに過ぎなかったのならば。


「よかろう」


キール・ローレンツが深く頷く。



―― その程度で糸が切れるものか。



何かが脳裏で囁く。誰かがあざ笑う。



「それもまた良し、だ」


人は、容易く記憶に裏切られるというのに。
お前達は決して裏切りを許さない、そういう事なのだな。
よかろう、それもまた良し、だが。




この物語の結末は、お前達も知らないのだろう?






おねえさんといっしょう

presented by グフ様






「赤い糸って知ってる?」

久しぶりに会った彼女は、妙に大人びて。

「糸? あの小指についてるっていう、あれか? 」

それは何かを覚悟した顔のようで。

「そう。運命の二人を結びつける赤い糸」

夕暮れの湖畔、あの場所。腕を組み歩く二人。

「運命、ねえ」

小指と小指が絡みつく。

「もし、その赤い糸がたった二人だけじゃなく、もっと大勢の人達の中で結ばれ絡みあっていたとしたら? 」

リツコの小指がきゅっ、と締まる。

「ありえねえよ、もしそうなら、それは操り糸だ」

それに答え、加持の小指に力が篭る。

「あやつりいと? 」

女の小指はまるで、離さないで、と泣いているようで。

「そうさ、意地悪な神様の繰り糸。絡んで絡んで絡み合って。踊って踊って踊りまくって、そして、ぷつん、だ」

男の小指はまるで、離すものか、と叫んでいるようで。

「いじわるな神様。ふふっ、確かにね」
「それが君の仕事かい? 」

ああ、そうなのか。やはり君は選んでしまったのか ―― 加持が絡めた小指を離す。

「そうよ。遺伝特性による行動原理、仕組まれた運命、赤い糸。人々を結び操る繰り糸、それを解きほぐすのが、私の」

ごめんなさい。どうしてもやらなければいけない事があるの ―― 目を伏せ、離した小指を胸に抱くリツコ。

「つまり、それが」
「そう、プロジェクト・アルカ」

そして再び強く加持の腕を引き、その胸に顔を埋める。
沈黙。夕凪の湖畔。水面に映る影が一つに重なり ―― やがて。

別れましょう。

リツコの呟きに、解ったよ、と返す加持。
冷めた訳では無い、むしろより一層お互いを求める気持ちが深く強く。
そう、強くなり過ぎた。だから傷付けた、だから傷付いた。
お互いを求める欲望が相手を突き刺す針だというのなら、俺たちはヤマアラシだ。
貫き刺し合いながら決してお互いを離そうとしない血塗れの針鼠。
昔、彼女は湖面に映る合わせ鏡のような街の灯を見て、私達みたい、と言った。
その通りだ。俺たちは本当に良く似ている。もう一人の自分のようで。
だから解ってしまった。顔を見た瞬間に解ってしまった。
そうだろう? 俺は君の望みを断った事は無い。


「ねえ、加持君。私達の糸、切れたかな? 」
「そんな軟い糸じゃ無いだろう?俺達は」
「それならまた、会えるわね」
「そうだな、その時は」
「見逃してくれる? 」

君はそれを望まないだろう?

「容赦しねえよ」

だからその時こそ。

「楽しみね。それじゃ、バイバイ」
「ああ、さよならだ、りっちゃん」


そう、その時こそ。
あの約束を果たそう。















【第四話】クロコダイルドリーマー ――Ⅵ――
















「ねえ、何で解ったの? 」

天窓から注ぐ月の光に照らされる白い肌。

「何となく、かな」

男の答えを聞き、再び赤い唇が笑う。

「驚かないの? 」
「何を? 」
「今、起きた事」

目の前でその姿を変えた女。

「別に」

それをただ肩を竦め淡々と返す男。
そう、今更驚かない。何故なら加持は朝、少年の病室で“あれ”を見てしまった。
迫力、そして圧力。全てが段違いだ。ミサト。本物のばけもの。あれに比べたら。

「二番煎じだよな」

その言葉に一瞬、眉をひそめるリツコ。しかし直ぐに表情を直しふうっ、と溜息を付く。

「今の私に出来るのは、ここまで」

そして、足元にうずくまる鶏がら女の体をコッコッ、とヒールの先で突付く。
爪先が触れる度にひゅっ、ひゅっ、とやせ細った口元から漏れる吐息。

「止めろ」
「うん? 」

加持の声に顔を上げた瞬間。

「きゃっ」

突如眼前に現われた加持に驚き身を引くリツコ。

「何よ、いきなり」

その声に応える事無く加持が膝を付き、うずくまるやせ細ったかつてリツコだったものを抱き上げる。

「ねえ、聞いてるの? 」

そして、倒れた車椅子を拾い起こし、優しく女を座らせる。
ひゅう、ひゅうと口元から吐息を漏らす何も映さない瞳。
鶏がらの身体が車椅子に落ち着くのを見届けた後、静かに加持が立ち上がる。

「抜け殻なんか放って」
「五月蝿いよ、お前」

お前、と言われたリツコが唇を噛む。
感情を隠そうともせず、嫉妬と憎悪を滾らせた瞳で加持を睨む。

「何でお前って言うの、何故りっちゃんって呼んでくれないの」
「悪いか? お前ってのが気に入らないのなら、あんた、とでも呼んでやろうか」
「貴方にとってはそっちのトリガラが、抜け殻が大切なの? 笑っちゃうわね」

ふっ、と鼻息荒く笑うリツコ。

「知ってる? もともとそれは30周期で朽ちるように設定されていたの。
 故に試験体、故にアルファ、笑っちゃうわね。その程度の枷で私達を縛った気でいたんですもの」
「ふうん、そんじゃ俺ももうじきにお陀仏、って事か」
「そんな訳無いじゃない」

あなたまだ解らないの? とでも言いたげに薄ら笑いを浮かべるリツコ。

「貴方は特別。ヒトでも使徒でも無い、唯一の存在」
「特別な存在? なら飴玉でもくれるのか」
「そして私は貴方に相応しいものに生まれ変わったの」
「なんだお前も飴玉が欲しいのか、クリーミィな奴」
「茶化さないで」

リツコの顔から笑みが消える。

「ねえ、何をしたの? 」
「何をって? 」
「誤魔化さないで。あの子が贄を手放すなんてありえない」

贄。あの少年を贄と呼ぶのか、やはり差し出したのはお前か。
出掛けにアオバから聞いた言葉 ―― シンジ君の戸籍直ってます、藤木シンジに。
だがあの仕掛けはそれをやる為のものじゃない。いや、それよりも。

「あの子、ね」

その言葉を使ったな。加持の中で何かが囁く。

「ええ、あの子よ。もう知ってるんでしょ? 」

昨夜、冬月から聞いた言葉。今朝、目にした姿が加持の脳裏に浮かび上がる。

「母さんが隠し、守ってくれた、あの子」

夜の湖畔で、ナオコがリツコの手のひらに爪で刻んだ記号 ―― "M"

「MAGIの生体基幹部、その奥に隠されていた、あの子」

とてもとても小さなあの子。

「私が見つけたときにはもう、分裂を始めていたわ」

無いはずの目が見つめていたような、そんな気がした。

「それどころか中枢に侵食すら始めていたの」

ほら見て、わたしを見て。もっとわたしを見て。

「そう、あの子はとても貪欲で、いつもおなかがすいているの」

なんでも与えてあげる、あなたが望むもの全て。

「貴方にそっくり」

愛しい、愛しいわたしの。

「だから使ったのか」

徐々に目が蕩けていくリツコに加持が問う。

「ええ」

その答えを聞き、胸の奥、小さな火が灯るのを加持は感じる。

「とても良い子よ」

小さな火はやがて、青く蒼くその色を変える。

「あの子は」

リツコの言葉一つ一つを糧に、温度を上げる炎。

「みさとは」

燃え上がる青きフランム、その姿はまるで口を開けたワニのようで。





「私達の子供は、ね」






炎の中でワニが囁く。
もういいだろう、燃やし尽くそう。
みんな、みいんな、たいらげよう、と。















おねえさんといっしょう
第四話/クロコダイルドリーマー/Ⅵ/了


Can you follow?
Really?

All right.

Here We Go.

To the world that you hope.


but.


You can never come back.




Never.






To be continued...
(2009.03.21 初版)


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