少年と少女を乗せ遠ざかる排気音。
白い遮光布をすり抜けた声が部屋の中に反射する。
椅子に座り女はただそれを聞いていた。

「あなたは選んだのね」

血の気の無い顔、紫色の唇から不意に漏れる声。

「それがあなたの選択なの?」

カーテンから流れ込む光、暮れかかる陽を眺めそこに居ない誰かに問う。

「もう戻れないのよ、それでも」

狂おしい程愛した男の残滓を拾い繋ぎこの身を借腹として創り上げた彼女の。

「いいの? 」

母神も三賢者ですら色褪せる全身全霊を込め創造した最高傑作。

「いいのね、リツコ」

愛娘、もう一人の自分。

「ならば私は最後の仕事をしましょう」

手に入れたこの平穏を棄ててでも伝えなければいけない事がある。

「科学者でなく、女でなく、母親としての」

かりそめの安穏はこれで終わり。


―― わからないのか、あんたは。


かつて狂おしい程欲した男。
鼓膜から滲み出すその声に女が耳を傾ける。


わからないのか、あいつらは他を認めない、他の自分を認めない。
わかってるだろ、あいつらはひとり、常にたったひとつの種、The One だ。
わからないはず、ないだろう、あれはあんたと俺が捨てた仔、なのにだ。

何だこれは答えろ。此れは何だと聞いている応えろ。

プロジェクト・アルカは最低でも三世代以上かけ慎重且つ確実に糸を切る作業だ。
緩やかな世代交代を経て行う物語の修復と復権だ。

だがこれは何だ、俺に隠れて十四年前あんた何を。答えろ、“ E ”とは何だ。

一世代内で塗り替えを遂行するなどとそんなたわけた世迷言を。
間違いなく劇症が起きる。改変など行わなければ良かったと思うほどの劇症が。
あんた言ったよな、アルカのアップデートは進言しないと。

ならば何故、なぜ使った、クムランテクストを、培養体を、第七素体を。

それを使わないという約束だったから、だからこそあんたに力を貸した。
そんな物には決して頼らないと、だからこそ。
DANUをMAGIを、そしてSTEMを。なのにあんたは。

狂ってる、お前らは狂っている。

俺達も狂ってはいるが、あんたらには敵わない。
何故いつもヒトは神様の首に手をかけようとするんだ。

わからないのか、いや、わかっているんだろう?
わかっているからこそ、あんたは。



―― ナオコさん、あんた何て事を。



「ごめんね、海老君」

貴方を繋ぎ止めたかった。貴方を棄て切れなかった。

「何故貴方は“海老”なの? 何故“六文儀”では無いの? 」

物語の通りなら、貴方がその名ならば憎みきれたのに、心の底から殺せたのに。
ばあさんと蔑み、利用し、捨てる、それが貴方に出来たなら、物語の端役に過ぎないわたしなら。
なのに貴方は正面からわたしを見据え、全身でわたしに挑み、全霊を傾けわたしを。

「だからこそ私はあなたを、あなたを、あなたを」

駄目だ、その先が出ない。
その言葉を吐くには年を取り過ぎた。
でもリツコ、貴女なら、狂おしい程想いを込めた言葉を思いの丈に吐けるのでしょう?
だって貴女は選んだのだから、今日、選んでしまったのだから。





行きなさい、もう一人のわたし。
踏み越えなさい、この屍を。






おねえさんといっしょう

presented by グフ様






街の外れ湖へと向う途中。
両脇を草に覆われた一本道、ぽつんと取り残された自販機の前で止まるバイク。
逃げおおせた安堵感で加持の上半身からぷっしゅう、と抜ける力。

「だあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ」

ハンドルにもたれ掛かり大きく息を吐く。
疲れた、すげえ疲れた、ここ最近の中で一番疲れた。
ぜーはーぜーはーと息切らす加持を見てふうっ、と溜息を吐くリツコ。

「だらしないわね、男の子のくせに」

ギギギと首を回し恨めしそうな眼差しで無言の抗議を送る加持。
それを尻目にさらりと流し自販機の前で仁王立ちするリツコ。
ど・れ・に・し・よ・う・か・な・か・み・さ・ま・の、えいっ、と白い指がボタン連打。
ガコンガコンと立て続けに落ちてくる黒の缶と黄色い缶。

「どっちがいい? ブラックとマックス」
「もちろんブラックに決まって」

満面の笑顔で差し出される真っ黄色な缶。

「はい、マックス」

なら聞くな、とツッコむ気すら起きずプルを空け口に注ぎ。

「ぶほぁッ!」

吐く。

「なんだよこれは! この濃縮砂糖液コーヒー風味は! 」
「あらもったいない」
「だったら代えろ、今すぐ代えろ」
「いやよ、ヒトの飲み物じゃないもの」
「あんた地味な嫌がらせするなぁ」
「嫌がらせなんかじゃないわ」
「じゃあ何だよ」
「好意」
「は?」
「好きって事よ」

はいぃ? と手から握力が抜け落ちそうになる黄色い缶。
それを即座に奪い取り腰に手を当て一気に飲み干すリツコ。
ぷはぁっ、と息を吐き口を拭い心底嫌そうな顔で一言。

「甘い」

あんた、お年頃なら間接キスとかそういうのとかね、あのね。
ぱくぱくと金魚のように言葉にならない加持を見てリツコが俯く。

「ずっと見てた」

呟く唇、吐き出される言葉。

「ずっとあなたを見てた」

そして顔を上げる。その瞳が彼を映す。

「ずっと見てたのに!」

加持は気づく、この眼だ、と。
あの日の眼、初めて会った日に見た感情の読めない揺れる眼。
こいつはずっとこんな眼で俺を見ていたのか。
あの隙間から、夜な夜な現れる黒い線から。

「ひょっとして、あんた」

加持の脳裏に浮かぶ一つの可能性。

「前に俺と会ったこと、あるのか? 」

記憶の欠落、空白の一年半。

「なあ、おい。そうなのか」

何故、その可能性に気付かなかったのか。
何故、今迄それを深く考えなかったのか。

「おい! 」

加持が踏み込んだその瞬間。

「―― ッ!? 」

少女の唇が彼の言葉を塞ぐ。

「甘い」

唇を離し、リツコの口から言葉が漏れる。

「着いたら教えてあげる」
「やっぱり、あんた」

舌に残るカラメルの香りとおんなの湿り。

「あの日何があったのかを」
「あの日? 」

怪訝そうな顔で目の前の白い顔を見つめる加持。

「あなたの記憶が何故欠けているかを、いえ」

言葉を切り、眼を伏せる。

「何故それをいままで平然と受け入れてたのかを」

まるで加持の心を見透かすかのような言葉。

「あなたが本当に望むなら」

それとね、とリツコが言葉を切る。
まだ何かあるのか、と加持が睨む。

「あんた、って言うの止めてくれない? 」

より真剣な眼で訴えるリツコ。

「そうゆうの気にするんだ、あんた」

緩む加持の眼。

「だからあんたって言うの止め」
「りっちゃん」
「はい? 」

一瞬、目を丸くするリツコ。

「だから、りっちゃん」

ささやかな復讐を果たしたとばかりに微笑む加持。

「な、何よ! いきなりそんな馴れ馴れしい呼び方」
「可愛いじゃねえか、りっちゃん」
「だからリツコでいいわよ! リツコで!」
「うれせえお前なんかりっちゃんだ」

ぷっくう、と頬膨らませながらリツコは思う。

―― ほら、もう慣れた。

告白も真実も、瞬間いくら振れようと直ぐに貴方の心は中庸に戻る。
中庸、それは凡庸では決して無く、その時その場で最適な状態に為れるという事。
肩を揺さぶる衝突も胸を貫く衝撃もあなたの心を揺らさない。あなたは全てを噛み砕く。
まるで凪の海に投げ込まれた小石の様に、一瞬の波紋はさざ波の果て消える。
恐ろしい迄の順応性、否、適応力。それが意味する所 ―― やはり、あなたは。

「ほら、乗れよ」

ふんっ、と鼻息荒くどかっとタンデムシートに腰を降ろすリツコ。

「行こうか、りっちゃん」

意外と心地良いその呼び名に答えず、ただ加持の腰に腕を回し抱きしめる。
背中に顔を埋め今にも泣き出しそうな自分を抑え、ただ抱き締める。
一瞬の振動、足元から排気音、二人を乗せ駆け出すカブ、流れ出す地上1メートルの景色。
山間に落ちる夕暮れ、赤、オレンジ、ブルー、その上に瞬く星。
街を抜け湖畔へと続く道、水気を孕む空気、薄茶色の髪を撫でる風。
抱き締めた手、押し付けた頬から伝わる熱、狂おしい程求めた男の熱。
願えるのなら時間よ止まれ。叫びたい、今この一瞬よ永遠に、と。

「何か言ったか !? 」

風の中、不意に加持が首を後に向け叫ぶ。

「何も! 」

その頬をよりいっそう力を込め背中に押し付けながらリツコが叫ぶ。
そして目を閉じる、この景色を焼き付けながら目を閉じる。
閉じた瞼から流れ込むオレンジの光。薄闇の中で彼女は想う。
でも貴方は、この一瞬ですら噛み砕き、また微笑むのでしょう?





あなたはまるで夜の海。
何もかも飲み込むのね。










【第四話】クロコダイルドリーマー ――Ⅴ――









陽の落ちた湖畔は凪いでいた。
遠く街の灯をまるで鏡に映すように真逆に落とし。
その景色を草むらに座りただ眺める二人。

「ねえ」

沈黙を破る少女の声。

「聞かないの? 」
「聞かなきゃ言えないのか? 」

正直もうどうでもいい、と加持は思い始めていた。
何故だろう、あの時不意に湧いた渇望は直ぐに消えた。
記憶の事、自分がここに居る事、隣に座るリツコとの過去。
真実を知ることが果たして自分の望みなのか。
心の奥底で何かが叫ぶ、平穏を、平穏を。
見るがいい、お前が望んだ景色を、世界はこんなにも。

「綺麗だ」
「え? 」
「街の灯、綺麗だな」
「そうね」

対岸に街の灯、黒い水面に映る合わせ鏡の街。

「私達みたい」

一瞬、風が吹く。
街を越え水面を走り草を揺らす風。
冷えた空気を浴び袖の無い肩口を抱くリツコ。微かに震える肌。

「ほら」

加持が腰に縛ったスカジャンを解きリツコの肩へ。

「ありがとう、でも」
「ん? 」
「煙草臭い」
「ははっ」

昼間、渡されたサテンのジャンパー。

「バイト先で常連のおっさんがくれたんだけど、嫌か? 」
「ううん」

軽く首を振り肩に掛けられたジャンパーを引き寄せるリツコ。

「不思議ね。この匂い、なんか落ち着く」

そして、加持に身を寄せるリツコ。

「この世の果て、か」

言い得て妙だな、と加持は思う。
遠く浮かぶ向こう岸が世界ならば、ここはきっと果てなんだろう。

「あそこでは話したくなかったの」
「何を? 」
「真実を」

遠く街の灯を眺めながらリツコが呟く。

「あの街からは逃げられない」

加持の肩口で声がする。

「誰もこの世界からは逃げられない」

呟く言葉、囁く呪詛。

「決して、逃げられない」

ここに居る男に、此処に居ない誰かに。

「貴方の言う通りよ。私たちが初めて出会ったのは一年半前」

促すでも無く促されるでも無く言葉を紡ぎ始めるリツコ。
あの街の地下、ジオフロントで私たちは出会ったと。

「ジオフロント?」
「あの街の本体。そんなものがあるのよ」
「そこで何を」
「世界を破局から守る研究」
「は? 」
「笑っちゃうでしょ? 日曜朝のヒーロー番組みたいで」
「何と戦ってんだよ何と」
「自分自身と」
「へ? 」

その研究の為に街の居住者全員からDNAサンプルを接収した事があったの、とリツコは続ける。
もちろん公にはそんな事言えないから全市一斉予防接種、という名目を作ってね。
その中でヒトの遺伝子とは明らかに差異が認められる子供達が見つかったの。
人間個々にある遺伝子の相違を差引いても確実に0.11%違う子供達が。

「調査の為集まれられた子供達、その中に私とあなたも居た。
 99.89%の子供達、ブルーブラッド、使徒とも呼ばれていたらしいわ」
「それが俺達、なのか? 」
「そうよ」
「何のために」

何の為に生まれた、何の為に集められた、何の為の研究だ。

「ある物語を起こさない為に」
「どんな物語だよ」
「終末の物語、エヴァンゲリオン」

この世界に住むヒトはみんな人形。
エヴァンゲリオンという物語を作り出す為だけに用意された操り人形。
その中心となる舞台はあの街。物語の結末は、滅び。

「信じられないかも知れないけど」

それに気付いたヒト達は自らに張られた糸を切ろうと必死にもがいた。
どうやったら糸が切れるのかを。どうやったら物語を自分達の手に取り戻せるのかを。
その中で幾つかの試みが行われた。そう、私達はその試みの中の一つ、つまり。

「つくりものだったのよ、私達は」

ブルーブラッドの使徒達、操り糸を持たない種、一つの希望。

「でもね」

そこで言葉を切りリツコが微笑む。
その顔を目に映し加持が息を呑む。
吸い込まれそうな笑顔、何も無い笑顔、まるで。

「その結果、どうなったと思う? 」

聞くな、と何かが囁く。耳を塞げと誰かが囁く ―― しかし。

「どう、なったんだ」

ああ、捕らわれた。囚われてしまった。それを見透かしたようにリツコは呟く。

「私達以外はみんな死んだ」

言うな、と何かが叫ぶ。口を閉ざせと何かが叫ぶ ―― けれど。

「何故、なんだ」

静かに歪むリツコの唇。





「殺し合ったの」





生き残ったのはふたり。
そう、私たちが殺したの。






















じわり、と口元に広がる匂い。
まただ、と加持は思う。

両親が事故に遭い自分だけが助かった、と聞いていた。
その事故が切っ掛けで記憶の空白が出来てしまった、とも聞いた。
だから両親が居た位しか覚えて無く、名前も顔も曖昧なのはそれが原因だ、とも。

じわり、と口の中に広がる味。
まただ、と加持は思う。

身寄りの無い自分にかりそめとは言え安息の場所を与えてくれた人達。
両親が生前世話になった恩師、その姿が例え偽りだったとしても。
だとしても構わない、それがどうした。
霧で見えない昨日を越え欺瞞で固められた今日を踏み台に陽の差す明日へ。
それでいいじゃないか、その方が至極真っ当なんじゃないのか、けれど。

じわり、と口元に広がる匂い。
じわり、と口の中に広がる味。
これだ、と加持は思う。
そうだ、あの味だ、口元一杯に満ちる、錆びた鉄に似た血の味。
ごくり、と喉が鳴る。

ああ、なんてこった。
俺は過去を噛み殺していたんだ。何度も、何度も。

この女の告白に俺はさしたる感慨すら起こらない。
口元に広がる血の味で頭の裏が冷めていく。
殺しあった? 生き残った? だからどうした。
そんな事を考える自分はつまりまともじゃないんだろう。
だからどうした。

「やっぱり、ね」

加持が呑み込んだ言葉を見通した様にリツコが呟く。

「貴方はまた、元に戻る」

何もかも見通すような何も無い瞳で。

「何でお前はそこまで」
「知ってるわ、貴方の事なら何でも」

それならば、と加持が問う。

「知りたい? 」

あたりまえだ。

「本当に? 」

本当に知りたいの?

「本当だ」

それを本当に貴方は望むの?

「りっちゃん」
「何? 」
「意地悪だな」

にい、と、まるでチェシャ猫の様な三日月の唇でリツコが笑う。

「今日はここまでにしましょ」
「おい」
「ふふっ」
「教えてくれるんじゃないのか」
「あなたが本当に望むなら、とも言ったわ」
「俺を弄んで楽しいか? 」
「楽しいわ、すっごく楽しい」
「てめえ」

その瞬間ぽふっ、と加持の胸に顔を埋めるリツコ。

「待ってたのよ、ずっと貴方を」

じわり、胸元に熱いものが染み出す、微かな嗚咽と共に。

「泣いてる、のか? 」

その問いには答えず、胸に顔を埋めたままリツコが呟く。

「大丈夫、いつか貴方は必ず答えを手に入れる」
「それはいつだ、今じゃ駄目なのか」
「うん」
「なんでだよ」
「貴方はまだ、知りたくないんでしょう? 」

加持の奥底を見透かすようなリツコの言葉。

「本当に望む時、答えは貴方の前に現れる」

まるで預言者が迷い子に諭すような声色で。

「だから大丈夫、ゆっくりやりましょ」
「ゆっくりした結果がこれだよ」
「ふふっ」

加持の胸から顔を上げるリツコ。

「あー、その顔」

潤んだ瞳と濡れた頬と垂れた鼻水。

「ひでえなあ」
「うるさい」

と再び加持の胸に顔を埋めぐりぐりと顔を拭くリツコ。

「ちょ、おまっ」
「ふんっ」
「ハンカチ使えハンカチ! 」
「忘れた」
「だったら俺の」
「持ってないでしょ? 」
「何で知ってんだよ! 」

パッパッ、と膝に付いた草を払いながら立ち上がり、加持を見下ろし笑うリツコ。

「おねえさんは、何でも知ってるのよ」

同い年だろうが、とフテながらも一瞬、その顔に見とれる加持。

「ん?」
「なんでもねえよ」

そしてリツコが差し出した手を握り。

「帰りましょ」
「ん」

立ち上がろうとした、その時。

「あ」

湖に目を向けたリツコの顔が固まる。

「おい」

どうした、と言葉を続けようとした加持が息を呑む。
リツコの視線、その先、暗い湖、逆さまに映る対岸の夜景がゆらあり、と揺れ、そして。

「何だ、あれ」

その刹那、突如巻き起こる轟音、甲高い金属音、ジェットエンジンの爆音が静寂を破る。
同時に巻き起こる突風が草を切り湖岸の葦を吹き飛ばし大粒の雨を撒き散らす。

「きゃっ! 」

巻き起こる突風に煽られリツコの肩に掛けたスカジャンが宙に舞う。

「ジャンパーが! 」
「ほっとけ! 」

弾けるバネのように飛び起き、ぐらりと倒れそうな彼女を引き寄せ抱きしめる加持。

その眼前に迫るもの。

視界を覆う黒い機体、半分に断ち切られた大きな翼、飛行機の出来損無い。
シュモクザメのように機首左右に並ぶ計八機のジェットエンジンが咆哮を上げる。
二人は知らない、知ろう筈も無い。地面効果翼機、WIG機、エクラノプラン、タイプKM、
それがかつてカスピアンモンスターと呼ばれた冷戦時代の遺物である事を。
立ちすくむ二人を前に化物のような黒い巨躯が轟音と共に眼前の湖岸に乗り上げ静止する。
巻き起こる風、強風、突風、爆風、それら全てが映る景色を歪ませる。
リツコを強く胸に抱き、吹き飛ばされないように腰を落とし足を踏みしめる加持。
抱き合いながら固く目を閉じる二人。やがて消える音、不意に止む風 ―― そして。


「うちの門限は七時じゃなかったかしら? リツコ、 加持君」


聞き覚えのある声に二人が目を開けるとそこに。
白衣を風になびかせ髪を揺らし、背後から無数のライトに照らされた逆光に浮かぶ女の輪郭。
唯一見えたのは口元。紫色で笑う唇。






「母さん、なぜ」






















「不良娘とボーイフレンドを叱りに来た、なんてね」

女の姿をした人影が軽く軽く、けらけらと笑う。

「ナオコさん? 」
「はい、ナオコさんですよ」

光に慣れた加持の目が女の顔を認識する。

「なんなんですか、一体」
「あんまり遅いから迎えに来ちゃった」
「へ? 」
「先生には内緒よ」

夫である冬月コウゾウを先生と呼び、口に指を沿え微笑む女、冬月ナオコ。

「母さん」

ナオコを前に言葉を搾り出すリツコ。

「何しに来たの? 」

睨む、刺すような視線、腹の底から吐かれる言葉。
それをけらけらと笑いながら、娘からの殺意を受け流しナオコが笑う。

「言わなかったかしら? 迎えに来たって 」

機体が放つライトの影から水面を蹴る無数の足音が夜の闇に響く。
やがて現れる十を超える人影、ナオコの両翼に広がり各々が手にした小銃を構える。

「何のつもりよ」

小銃の先端から伸びる光、加持とリツコ、二人の手足に記される無数の赤い点。

「貴女が選んだから私も選んだ、それだけよ」

あくまでも茫洋に、あくまでも軽やかに、そう、悪魔でも。

「母さんはアルカから離れたんじゃないの? 」

更迭された筈よ雄鶏(おんどり)派は、と娘が目で訴えれば。

「そうね、でも籍が抜けた訳じゃないの」

梟(ふくろう)派にも私のシンパは居るのよ、と母が目で笑う。

「先生は知ってるの? 」
「まさか。来週まで返って来ないわ」
「何で」
「ん? 」
「何でよっ! 規約違反じゃないの!? 私たちに手を出すなんて」
「干渉せずまた責任も負わず、だったかしら」
「解かっているなら何故こんな馬鹿な事を」
「でもねリツコ」

紫色の唇が釣りあがる。

「自発的に、ならどうかしら」
「そんな事あるわけないじゃない! 」
「加持君」

優しい瞳で加持を誘う。

「知りたく無い? 貴方が一体何なのか」

目を逸らさずに応える加持。

「全っ然ないです」
「あらあら」

困った素振り見せつつも何処か楽しげなナオコ。

「もうリツコに手綱を握られちゃったの? 」
「母さん! 」

ナオコの瞳、優しい眼差し、蕩けた目。
加持の背筋につう、と嫌な汗が流れる。

「しょうがない子達ねぇ」

笑う視線が加持を離さない。

「それじゃあリツコ、貴女は? 」
「は? 」
「貴女の記憶は戻したけど、たった一つだけ教えて無い事があるの。知りたく無い? 」

加持の胸元でシャツを掴むリツコの手に力が篭る。

「知りたくない、もう何も知りたくなんかないわ」
「嘘おっしゃいな、アルファ」
「わたしをその名で呼ばないで! この人の前で呼ばないで!」
「この人、このヒト、そうね、そうよね、あはっ、あはははっ」

笑う、哂う。笑い上げ哂い立てナオコの顔が歪む。

「貴女はアルファ、私のたからもの」

そして、と加持を見詰めとろん、と呆けた瞳で微笑む女。

「貴方はオメガ。糸を持たぬ唯一の存在」

謡うように言葉を紡ぐナオコを前に加持は思う。
この女は本当に、心の底から笑っているのだと。

「選ばれた子供達は皆崖から落ちた、落ちてただの土くれになった。
 パイドパイパーは言った。君、立ちたまえ、どうした、お腹が空いて立てないのか。
 ごはんなら有る、ほら周りの土くれだ、お腹一杯食らうがいい、ほら立てた」

知ってる? 土くれをヘブライの言葉でアダマーと言うの。
笑いながら娘を崖の淵に導く母の声。

「アダマーから生まれし存在。唯一のヒト、ADAM」

人形の世界に顕在せし操主、我等が王、糸を手繰るもの、その雛形。

「アルファ、いえリツコ。愛しい私のたからもの、LILITHとなったもう一人の私」

ゆるり、とナオコの腕が上がる。

「さあ」

くいっ、と掌を上げ。

「おいで」

その言葉を合図にナオコの両翼から消える影達。加持が身構える間も無く突如視界を覆う黒。
ヘルメット、ゴーグル、ボディアーマー、小銃、全てを黒く染めた者達が加持を草むらに組み伏せる。

「加持くんっ! 」

手を伸ばすリツコ、しかしその腕をナオコが掴む。

「りっちゃん! 」

ナオコに抱きしめられながらも抗うリツコに向け加持が叫ぶ、しかしそれを組み伏せる多勢。
夜露に濡れた草が頬を濡らす、頭に冷たい鉄の感触、物言わぬ影達の圧力。
無数の銃口を押し付けられながら、なおも頭を上げリツコの姿を追う加持。
その姿を見てナオコが笑う、そして、もがく娘の耳元に唇を触れるほど近づけ、そっと囁く。



―― あなたの ―― は、



「えっ」



―― あなたたち、の ―― は、



「そん、な」



―― わかるわね?




「あ、あああ、あ」




囁かれた言葉、笑う母、固まる娘。
抗うリツコの腕から力が抜ける。だらり、と力なく垂れる手。
そして、笑う、その唇が笑う。その瞳が歪む、涙で歪む。
泣きながら笑いながら力無く崩れ落ちる少女。
震えるその唇が彼の名を呼ぶ。




「かじ、く、ん」




あいつが呼んでいる。何も無い笑顔であいつが。
あいつが呼んでいる。俺を呼んでいる。笑いながら、泣きながら。
止めろ、そんな顔をするんじゃない。止めろ、そんな顔をさせるんじゃない。
りっちゃんを離せ、彼女を放せ、そいつを離せ、離せ、ハナセ、はなせ。

おい離せよ、その女を離せよ、そいつを放せよ、でないと。

加持の脳裏が溶けて行く、白く、白く溶けて行く。
白い霧の中で何かがごろり、と寝返りをうつ。心の奥底、脳の深奥、浅い眠りの端っこで。
夢うつつの何かが、まどろみながら、ふと、目を開ける。

なにをしている、そのおんなは、そいつは、それは ―― おれのものだ。






喰うぞ。







「がぁッ! 」

その瞬間。
加持を組み伏せていた黒い影、物言わぬ筈の一人が悲鳴を上げる。
激痛、腕が、自分の腕が曲がっている、ありえない方向に曲がっている。
反射的に身を引く、引けない、曲がった腕の先を掴む手、少年の腕、否、少年だったものの手。

「―ッ! 」

異変に気付いた隣の影が加持に向けトリガーを引く。
サプレッサーからポシュポシュと小さな音。急所を外した制動射撃、しかし。

「ぐっ! 」

その弾丸は命中した、少年では無く、腕を捻られた同僚に。

「早い! 」

早すぎる。一瞬で同僚の腕を捻り外し引き寄せそして盾に。
崩れ落ちる黒装束、瞬時に思考を切り替えその背後から現れるであろう頭に照準を定めようとしたその時。

「上 ―― ッ! 」

隣から叫ぶ別の声に顔を上げた瞬間、夜の空から降ってくる赤い目 ―― 意識が途絶える。

「散ッ! 」

倒れ伏した二つには目もくれず指揮を執る別の影が叫ぶ。瞬時に動く部下達。
一度投網を開き慎重に引き寄せ確実に囲む、これはそう、獣狩りだ、しかし。
油断をしていた訳では無い。こういうものだと聞いていた。こういう恐れのある物だと。
セレクタをシングルからスリーショットに弾きトリガーを引く、プシュシュシュと抜けた音を放つ銃口。
少年が居る場所へ、居るであろう場所へ、引きながら流す、しかし早い、速過ぎる、予測位置すら飛び越える動き。
極力撃つな、必要な場合は急所を外せという指示、冗談じゃない、そんな余裕は無い、見るがいいまた姿が消え

「がッ! 」

三人目が草むらに倒される ―― そして。

「かッ、かはっ、ッ」

息を呑む。
ひゅうひゅうと息を漏らす三人目の喉元を咥え立ち上がるその姿。
ライトに照らされた目が赤く反射し、血の滴る口元から覗く犬歯。
何よりも装備含めた成人男子を咥えたまま平然と立つその力。

「くそっ」

マスク下で舌を打つ。
こういうものだと? こういう恐れのあるものだと?
ふざけるな、これは違う、それ以上だ。
獣狩り? 否、狩られてるのは我々だ。
獣? けもの? 否、否、断じて違う。
これはケモノなんかじゃない、バケモノだ。




どさり。





不意に眼前の化物、その口元が緩み地に堕ちる躯。
血塗れた口、せり上がり犬歯を露出させ歪む唇、笑っているような顔。
それを目にし、今、自分の膝を撃ち抜けたらどんなに楽だろう、と男は思う。
ケプラーを編み込んだ黒衣の下で膝が笑う、股下から力が抜ける、この屈辱、そして恐怖。
どれ程に訓練を積もうが山の様な修羅場を潜ろうがこれは、これは駄目だ。
本能が逃げろと告げている、理性が逃げるなと叫んでいる。その狭間で軋む体。
震える指でレバーを弾く、フルショットバースト、でも足りない。
この人数、これだけの銃口、そう、これだけ、たったこれだけ、この程度では殺せない。
全てを撃ち込めたとしてもこいつは、こいつは俺達を余裕で食い殺す。ばけものめ、このばけものめ。
不意に感じる銃の重さに男の心が折れる瞬間。




「あきらめんなよ! できる! やればできる! 」




突如化物の背後、草むらの向こうから叫び声。
いつか何処かで聞いた様な熱い台詞が化物の背後から響く―― そして。





ふしゅっ。




どさっ。






気の抜けた音と同時に倒れ伏す化物、いや化物だったもの。

「あんまおっちゃんに気ぃ使わせんなよ、加持」

声の方向へ目を向ける。
そこに居たのは男、手にガラス棒のようなものを持った中年男。

「加持くんっ! 」

我に返ったリツコが母の手を振り解き、立ち尽くす黒衣の脇を抜け加持に駆け寄る。
少年を抱き寄せ、名を呼びながら頬を撫でる。
鼻からすぅすぅと寝息、安心したリツコから力が抜ける。

「大丈夫、素敵な魔法で眠らせた」

ガラス棒のようなものを投げ捨て、その男が笑う。

「ま、まほう? 」
「うん、宇宙魔術っぽい奴」

と言いながら倒れた加持の尻に突き刺さる吹き矢っぽい赤い羽根の付いた注射器を引っこ抜く。

「大丈夫、なの? 」
「このカシオGショックをかけてもいい」

と何処かの獣医学部教授のような口ぶりで腕時計をリツコに見せる男。
リツコは気付く、腕時計の先、抉れた傷跡、そして掴まれたスカジャン。

「そのジャンパー」
「ん? 」
「拾って、くれたの? 」
「ああ。向こうに落ちてたんでな」

と笑いながらスカジャンを手馴れた様子で裏返し風切り羽織る中年男。

「っていうか、これ俺んだ」

背中に龍、胸元に目付きの悪い兎の刺繍。

「いいだろ? リバーシブルなんだぜ」

煙草の匂いが香る声、何処かで見た顔、リツコの胸に込み上がる懐かしい感覚。

「おー、ギリギリ頚動脈切れてねえわ、いいなあこのネックアーマー」

別の方角から聞こえた声にリツコと黒装束達が振り向くともう一人。
先程喰い付かれ倒された黒衣の喉元に白いテープを貼り止血しながらぶつくさ呟くアロハ中年。

「こいつはチョッキに助けられアバラ数本と腕一本、んでこっちは頚椎捻挫と、運いいなあお前ら」

更に別の声、忙しくそちらへと振り返れば三人目。
マッハ軒と書かれた前掛けをし、うずくまる他二人を見下ろし心底退屈そうに愚痴る垂れ目の中年。

「あなた達は、一体」

突如現れた中年三人組にリツコが問う。
待ってました、とばかりにビシッっとポーズをつける男達。

「俺はリーダーのジョン・スミス大佐。通称ハンニバル。奇襲戦法と変装の名人。
 俺のような天才策略家でなければ、百戦錬磨のつわものどものリーダーは務まらん」

スカジャン中年がサムズアップ。

「よぉ、お待ちどう! 俺様こそマードック。通称クレイジーモンキー。
 パイロットとしての腕は天下一品!奇人?変人?だから何! 」

アロハ中年もサムズアップ。

「B・A・バラカス、通称コング。メカの天才だ。
 大統領でもぶんなぐってみせらあ。でも、飛行機だけは勘弁な!」

垂れ目店主でさえサムズアップ。

「「「俺達は道理の通らぬ世の中に敢えて挑戦する! 頼りになる? 神出鬼没の最低野郎Aチート!」」」

たーたたったー、たたったー、と日曜夜の洋画劇場で散々聞いたようなテーマソングを口ずさみ
決まった、とばかりにサムズアップを決めまくる中年三人組。
いきなりであんまりな登場と展開に半ば呆然自失なリツコと黒衣の皆さん。
その時、加持は。


―― おれはー、てんぷるとんーべっくー、ふぇいすまーん、だってヴぁー


寝ていた。
意味不明の寝言を吐きながら。
それを聞きながら、あー、Aチームって確か四人だったわね、と
ネタを何故か解ってしまう自分を褒めたいような蹴りたいようなリツコ。

「ふふっ」

そして、背後から笑う声。

「あははははははっ! 」

我に返り振り向けばそこに。
手を口に当て楽しそうに笑うナオコ。

「あははっ、久しぶり、本当に久しぶり」

その声が変質するのをリツコは感じる。
徐々に混じり込む感情、怨嗟、そして愛憎。
嘲笑、それは相手に向けてなのか、それとも。



「ねえ、海老君」



海老タカヒロ、この人が。その名を聞き目を見開くリツコ。
お互い口元に笑いを湛え、眼は相手を見据え対峙する二人。




「よお、ナオさん」






















「いつも、貴方は」

立ち塞がるわよね。

「そうかい? 」

お互い様だろ?

「何しに来たの? 」

止めに来たの?

「あんたこそ何やってんだ」

危ない橋渡るんじゃねえよ。

「迎えに来たのよ」
「協定、忘れた訳じゃねえだろ」
「ええ」
「んじゃ引けや、今なら昔のよしみで黙っててやらあ」
「あらあら」

微笑みながら緩やかに手を上げるナオコ。
それに応え、残りの影達が再び銃を上げる。

「貴方達こそ引いてくれない? たった三人で何を」

その言葉を聴き、くく、くくくと笑う海老、ノブ、そして臥乱堂。

「何が可笑し」

そこでナオコの言葉が途切れ、笑みが消える。
自分の胸元に集まる無数の赤い光点、それに気付き左右を向けば両翼で銃を構える黒衣達にも同様に。
額に胸に腹に腿に膝に両腕に次々と浮かぶレーザーサイトの赤い光、明確な示威行為。
黒衣達が息を呑む、笑う三人組の背後、草むらに次々と灯る赤い灯、数え切れない程の光、まるで蛍の群勢。

「一応自重しろたあ言っとりますが、保証はできゃしません」

にい、と笑う臥乱堂。そしてパンッと手を叩く、それを合図に消える光点。

「なあんだ、準備万端なのね」

ふう、と息を吐き肩を落とすナオコ。

「俺達ぁ臆病もんなんで。すいませんねえ、ナオコさん」

照れくさそうに笑うアロハ男。

「あらノブさん、おひさー」
「おひさですー、相変わらずお美しい」
「まだ叶わない夢ばかり見てるの? 」
「たはは」

照れるように頭を掻くノブ。

「ねえ、ノブさん」

無邪気な笑みを浮かべナオコが誘う。

「あなたの夢、叶えたくはない? 」
「へ? んな事出来るんですかい? 」
「もしかしたら叶うかもね。妄想は偉大よ、それこそが夢を具現化する力を生むわ」
「そうそう、そうですよね、よく解ってらっしゃる! 」

うんうん、と深く頷くノブ。

「アルカにはその可能性があるの。新しい物語を紡ぐ、貴方が望む世界を作る力が。
 夢が、貴方の妄想が、幻の世界に手が届くかも知れないの。ね? 素晴らしいでしょ? 」
「素晴らしい! 」

感嘆の声を上げ手を叩き、深く、深く頷く。

「本当に、素晴らしい」
「でしょ? だから」

そして、顔を上げ。

「お断りです」

満面の笑顔で拒絶する。

「あんた妄想を舐めてる、夢を甘く見てるよ、ナオコさん」
「あらあら、それは何故? 」
「夢の中じゃ俺はヒーローでクールな二枚目ナイスガイ、とびきりイカした女房と可愛い娘。世界を飛び回る冒険譚。
 だがねナオコさん。それは叶わぬ夢なんだ所詮ただの妄想なんだ。でもそれこそが小汚ねえ俺の唯一の糧。
 だから生きていける。血反吐とゲロと泥まみれの日常って川を渡り明日って彼岸に辿りつける」
「ならその夢を私たちと共に、一緒に叶えましょう、ね? 」
「叶ったらそれは夢じゃねえ。触れられたらそれは妄想じゃねえ。
 いくら掴んでもすり抜ける、手を伸ばしても届かない、だから何度も何度も手を伸ばす、千切れんばかりに腕を振る。
 その想いが、せつなさが力を生むんだ、明日へと辿り付ける力を。それをあんた達と共に? 一緒に? ふざけんな」

笑いながら吐き捨てる。

「俺から奪うな。この夢は、この妄想は俺だけのもんだ、誰にも渡すもんか」

微かに震えるノブの肩をぽんぽん、と海老が叩く。

「カッコいいけどよ、ノブ」
「あんだよ」
「人としては終わってんぞ、多分」

うんうん、と横で頷く臥乱堂。

「海老さん、あんただけにゃ言われたくねえなあ」
「そうそうアレだ、目くそ鼻くそって奴」
「お前ら、覚えてやがれ」

海老の傍らでその様子をただ見つめるリツコ。
そして再びナオコへと目を向ける海老。

「ナオさん」
「なあに? 」
「お互い手の内知ったもん同士、腹芸無しにしようや」

それに応える女。

「何しに来たの? 今更」
「変な動きしてるって夏前から報せ受けてさ、へばりついてたんだわ。知ってただろう?
 ていうか管(クダ)にそれをリークして、俺達呼び寄せたのは、多分あんただ」

肩をすくめるナオコ。

「俺達は楔(くさび)だからよ、箱舟の船底に刺さった楔」
「浮かすも沈めるも胸先三寸? 」
「一蓮托生、と言って欲しいね」
「ならば止める? この私を」

ふぅ、と深く溜息をつく男、そして。

「その手にゃのらねえよ」

女の顔から消える微笑。

「あんた、ここで死ぬ気だったろ? 」

ぎりっ、と紫色の唇、その奥で歯が軋む。

「あんたの目的は加持に眠るADAMの覚醒だ、それを利用しようとした。
 こいつを目覚めさせ自分を殺させ、この娘が抱える妄執を、奴から解き放つ」

その言葉に驚き、顔を上げるリツコ。

「もう一つはアルカ内に再び芽生え始めた雄鶏達の封殺、違うかい?」

雄鶏(おんどり)。
この名はアルカ発足当時、存在していた或る派閥を揶揄した名称である。
当時プロジェクトを慎重に進めていた大勢の中、ごく一部に早期決着を目指す強行論を唱える一派が存在した。
三世代以上を経て慎重に改変を進める作業を良しとせず、一世代内で改変を終わらせようと画策する一派。
未だ世界は真夜中だ、と息を潜め粛々と事を進めようとする大勢を梟(フクロウ)に例え、
その真逆、今こそ夜明けだと日の出を告げ鳴く鳥から取られた名称、雄鶏。
二年近く前、ハーメルンケースと呼ばれる惨事を引き起こした責を問われ完全に更迭された彼等、しかし。

「何を言っているの? 雄鶏達はとうの昔に全て狩られて」
「知ってるよ。フクロウ達の中に狩りきれなかった雄鶏達がまだ息を潜めている事も、な」

愛娘の決断と共にナオコは思った。過ちは二度と戻らない、償える筈も無い、でも。

「そいつらが近い将来、この子等を御輿に担ぎ出すかも知れない。かつて御輿に上げられたあんたならそう思う筈だ」

でも、あの娘が選んだ先に待つのが地獄と解っていているのなら、自分には何が出来るのか。

「あんたが犯した過ちを再び、そうならないように、だから動いたんだろ?」

これは償いでは無い、ただ道を示すだけだ。流れた血で、行く先を記すだけだ。

「全ては先走った自分のせいにして、雄鶏達を道連れに。娘の妄執も晴れてまさに一石二鳥、違うかい? 」
「五月蝿い」
「後は俺達が後処理すれば、少なくとも手出したのはそっちだからこの子等にはお咎め無し、だろ? 」
「本当に、本っ当に、いまいましい男よね、貴方は」
「そりゃ光栄至極」

トントン、と自分のこめかみを叩きながら海老が言う。

「この中には、あんたが居る」

ふう、と力を抜き、海老の仕草を真似るように自分のこめかみに手を添えるナオコ。

「そしてこの中にはまだ、貴方が居るのね」

そういうこった、と笑う海老。

「返したほうがいいかい? 」
「いらないわ、墓場まで持っていきなさい、私もそうするから」

それだけが私の。
声に出せない想いを喉の奥に留め俯く女。

「母さん」

不意にリツコが声を出す。
海老の傍らで、眠る加持を膝に乗せながら。

「それでも私は、この人を選ぶわ」

その言葉を噛み締め、淋しそうに笑うナオコ。

「その先は、地獄よ」

静かに、深く、頷くリツコ。

「因果なものね」

リツコ、そして傍らに立つ海老を見てナオコは思う。
かつて私がこの男に狂ったように、貴女もそこで寝息を立てる彼に狂うのね、と。
子が出来ない体である事は知っていた。それを大した事とは思わなかった、でも。
この人を繋ぎ止めたい、という気持ち。いつまでも繋がっていたい、という想い。
そして私は狂った。狂っているのを理解しつつも止まらなかった。
物語の端役である私と、物語に名を連ね無いこの男、二人のDNAを掛け合わせ生まれた最初の“E”。
後に続くEシリーズ全ての雛形であるアルファ。もうひとりのわたし。独りよがりの愛、その結晶。
リツコ、貴女と加持君は姉と弟、否、それ以上、もうひとりの自分、なのに。

「貴女はもう、止まらないのね」
「ごめんなさい、お母さん」

その気持ちが痛いほど解ってしまう自分は、ああ、まだ醒めていないのだ。

「リツコ、手を出して」

言われるままに手を上げるリツコ。
それを取り、手の平の中、ゆっくりと一つの文字を爪で書く。

「これ、は? 」
「さっき話した事、覚えているわね?」

―― あなたの ―― は、
―― あなたたちの ―― は、

「あの話は、本当なの? 」
「ええ」

そう、と顔を曇らせまた俯くリツコ。
膝で眠る加持の髪を静かに撫でながら。

「知っているのは私と貴女だけ」

その言葉に再び顔を上げる。見開く瞳が何かを問う。

「上げたり下げたり忙しい子ねえ」
「そ、それじゃ 」
「隠したわ。場所はあなたの手の中に」

そしてもう一度、指で先程の記号を丁寧に書きなぞるナオコ。

「いつか貴女が、本当にそれを必要とするなら、開けなさい」

こくり、と頷くリツコ。

「何の話してんだ、お前ら」

海老の顔を見て、口に人差し指を当て微笑む二人。

「あんだよ」

いぶかしむ顔の海老、その時。

「う、うぇあ? 」

もぞもぞ、とリツコの膝の上で加持がうわ言を吐く。

「っと早ぇえな。まだ時間半分だぞ」
「海老君」
「ん? 」
「さっき打ったの、ひょっとしてR-LCL ?」
「いや、スペースマジカル」
「冗談は顔だけに」
「すいません」
「もしそうなら、あれ吸収早い分、排出も早い筈よ」
「マジかよ」

唖然とする海老の横、リツコの膝上、うっうー、うっうー、と寝言を吐く加持。

「何かムカつくな、こいつ」
「ほんとに」

自然と会話を交わす二人を見て、目を細めるナオコ。
その横に控える黒衣の部下に、撤収を、と声を掛ける。
再び息を吹き返すジェットエンジン、運び込まれる三つの担架。

「それじゃ、海老君」
「どっちへ帰るんだ? 」
「決まってるでしょ、リツコ!」

轟音の中、娘の名を呼ぶ。

「今日はカレーだから! あんまり遅くなるんじゃないわよ!」

と言い放ち、影に守られるように歩を進める女。

「ナオコ! 」

海老がを叫ぶ、かつて一度だけ呼んだその名を。
一瞬歩を止め、振り返りまた、踵を返す女。
そして、黒い機体に飲み込まれ、消えた。

「無事帰れるかな」

遠ざかるエクラノプランを見送りながら呟く海老。

「あー、それなら大丈夫だわ」

その隣でのほほんと呟く臥乱堂。

「手ぇ打っといたから」
「流石、新総主はやり手だなあ」
「いやいや」
「あーいいなあ、カスピ海の怪物、妄想コレクションに追加、と」
「ノブ、涎垂れてっぞ」
「おっと」

そして、何気なく臥乱堂が腕を上げた瞬間、ざざざざざっ、と草むらに一陣の風が吹く。
お疲れさん、と誰に聞こえるでもなく声を宵闇に溶かす街師の総主。

「なあ」

と傍らに座る少女に声を掛ける海老。

「お前、こいつの正体、知ってんだろ」
「うん」
「本当の正体も、知ってんだろ? 」

その意味に気付き、目を見開くリツコ。

「きっとナオさんは、思い違いしているなあ」
「あなたは」

知っているの? 私しか、いや、私でしか知りようが無い真実を。

「俺か?」

リツコの問いに目を閉じ、深く溜息を吐く海老。

「知ろうと思えば出来たんだが、止めた」

STEMで覗いた少年の世界、何も無い闇。

「こいつには何も無かった、何も」

そして行われたSTEMの逆接続。

「だから俺の頭ん中少し分けてやったんだ、記憶の欠片、そのコピーをな」

だからかな、なーんか俺に似ちまったよなあ、と左腕を摩りながら笑う男、そして。

「っていうか起きろ」

ゴスッ、と踵で加持の頭を蹴る。

「ちょべらばっ! 」

嬌声を上げ跳ね起きる少年。

「来いやぁザイジューダ! って、あれ? 」
「お前、どんな夢見てんだよ」
「何で海老さん居んの? あれ、臥さん? 」
「よお坊ン、おはー」
「君達の敵は中年エンジェル・ラブリースリーが倒したぞ! 」
「何やってんのノブさん」
「俺をノブと言うな、俺の名はヘイター飛鳥! 二度とは言わ 」
「うるせえよ」
「加持くんっ!」
「おわっ」

突如抱きつかれて少しパニくる加持。

「よかった、よかったあ!」
「ちょっ、入ってる、頚動脈入ってる、ちょっ」

草むらで変形チョークスリーパーなゴロゴロ転がり青春している淫行高校生カップルを見下ろしながら
あー、にくしみでひとをころせないかなー、と、やさぐれ中年三人組がうらみ念法っぽい何かを無言で送る。

「帰るか」
「なんだろう、このやるせなさ」
「んじゃ、お前らも早く帰れよー」

立ち去ろうとした三人、海老の後ろ姿に向けリツコが叫ぶ。

「と、とうさッ」

最後の一文字を放つ瞬間、彼女の視界を覆う鮮やかなサテンの布地。

「やるよ」

海老が脱ぎ捨てたスカジャンを胸に抱き止めるリツコ。

「じゃあな」

そう言い放ち、後ろ手を振り草むらに消える海老。
言えなかった言葉、それをリツコは喉の奥で何度も何度も繰り返す。





ありがとう。
ありがとう、父さん。






















きぃー、きぃー、と少し錆びたチェーンから軋む音。
街へと続く道、細々と続く街灯の下バイクを引く彼と、彼のシャツの裾を掴み無言で続く彼女。

「なあ」

だぶだぶのジャンパーを羽織る彼女に言葉をかける。

「乗ってもいいんだぜ? 」
「いい」
「そっか」

少し歩かない? と言ったのは彼女だった。
それもしょうがないだろう、と彼は思った。
途中から意識が飛んだものの、全ては覚えていないが、とにかく色々あった。
後ろで自分の裾を引く彼女が、自分とはただならぬ関係であった事も知った。
色々あった、色々知った、だから少し覚まそう、夜風を受けながら。

「ごめんね」

どれくらいそうしていただろう。

「貴方が来た日から、ずっと迷ってた」

彼の裾を引きながら。

「このままやりすごせるのなら」

彼女が言葉を紡ぎだす。

「お互いの為なのかも、って」

少しだけ、震える声。

「でも駄目だった」

吐き出される想い。

「体が貴方を求めるの」

その声に満ちていく湿気。

「止まらないの」

湿る言葉が満ちていく。

「ねえ、わたし」

堰を切って流れ出す。

「駄目なのかなあ、狂ってるのかなあ」

裾を離しだぶだぶの袖で顔を覆う。
目元を覆う赤いサテン生地に沁みて行く黒。

まるで幼子のようだ、と彼は思う。

スタンドを降ろし、泣きじゃくる彼女の肩に手を置く。
鼻をすすり、ぐしょぐしょになった顔が上がり、そして。






「しょぱい、な」


「ばか」


「ゆっくりやるんだろ、な?」


「うん」






再び重なる二つの影。
通り過ぎる車のライトが二人を照らし、また消える。









「青春ですねえ、いやあ眼福眼福」

二人の横を通り過ぎた青い車の助手席で、わはは、と男が笑う。

「帰りは安全運転でお願いしますよお、って大丈夫ですね、アナタなら」

運転席でハンドルを握り、表情を固くする男。

「イシタツさん」
「はいはいなんでしょう」
「あれが」
「はい? 」
「あれが世界ですか、自分の知らない世界なんですか」

後部座席の奥から唸りを上げるエンジンと前席とのわずかな隙間からカチャカチャと音がする。
暗視スコープ、双眼鏡、集音機、某京レ製隠れ蓑、乱雑に重ねられたエトセトラ。

「その一部です、淵の淵ですけどね、わはは」

相変わらずの顔でイシタツが笑う。

「なんで」
「はい」
「なんで連れて行ってくれたんですか、自分なんかを」
「あなただからですよ、長崎君? 」

笑う、笑う。にやあり、と笑う。

「偉くてエライあなたにささやかながらのご褒美です」
「自分はっ! 」

ハンドルを握る手に篭る力。

「自分は、自分は全然エラくなんか、無いです」
「ほう」

ウインカーを上げ、路肩に寄せ、やがて止まる青い車。

「醒めてしまったんです、俺」

余所行きの“自分”から“俺”に変え、心の底を吐き出す長崎。

「Ⅰ種受かってキャリアだぞ俺様って天狗になって、でもその後急に冷めちまって。
 何か小さな世界で天下取ったつもりで居た自分自身に、なんていうか、嫌気が差してしまいまして。
 実直なんかじゃなくて融通利かないんじゃなくて、それはきっと」
「冷めました、か」
「偉い偉いとおだてられ、ちやほやされる度にどんどん冷めていって、というか素に戻ってしまったんです。
 上に行く気が起こらなくなりまして。現場主義とかカッコいい事いってますがとどのつまり、面倒臭くなりまして」
「だから実直で融通利かないフリを、ですか」

ターボタイマーが切れ、やがてエンジンの火が落ちる。騒々しかった車内、不意に落ちる静寂。

「何知ったフリしてたんでしょう、何偉くなったつもりでいたんでしょう。
 表皮だけさらりと見ただけで全て知ったつもりで。この街はこんなにも深くて、世界はまだ底すら見えないと言うのに」

ぎしり、ハンドルが軋む。

「で、それを知ったアナタは?」

灯の落ちた小さな闇の中で、笑い仮面が囁く。

「教えてくれませんか」
「何をでしょうか」
「淵に立つ方法を」

わはは、と返すその声は相変わらず軽やかで。
しかし、それはとてもとても、おそろしくて。

「この穴に今更飛び込む勇気なんかありません。でも淵に立って見たいんです。立ち続けてみたいんです」
「つらいかも知れませんよ、とても」
「解ります」
「いいえアナタは解っていません」

そのおそろしい口が、ほんの少しだけ開くのを長崎は感じる。

「今ワタシつらいかもですよと言いました、アナタ解りましたと言いました。それ解ってない証拠です。
 つらいと思ったらもう駄目です。お穴にハマってさあ大変すってんころりんまっさかさまにどすんです。
 その姿をワタシ、ただ笑いながら見てました。何もしないで落ち行く様を見てました。何度も何度もなんども。
 解りますか? 解りませんよねえ。アナタはやっぱり真面目なんです、だから面倒臭がるんです」

真面目なあなたは何かをしようと手を差し伸べるでしょう。
その本当の恐ろしさを知らないあなたはそうするでしょう。
そして、あなたは落ちる。何もしない淵から、何かをしなければならない地獄へ。

「じゃあどうすれば」
「笑いなさい」

わはは。大きく口を開けイシタツが笑う。

「笑いなさい。何も出来ないでは無く、何もしない、という辺獄(リンボ)で。
 曖昧に笑いなさい、面白く無くても笑いなさい、薄ら笑いを浮かべなさい、笑い続けなさい」

そうすればこんな顔になりますよ、わはは。

「ま、今日の事は軽い息抜きだと思って忘れなさい、綺麗さっぱりすっからかんで」
「明日」
「はい? 」
「明日、申請出してみます。一度向こうに戻り、定石を踏んでケジメ付けてから戻ります。
 この年ではギリギリですが必ず戻って来ます、この街に」
「いいんですか? 」
「はい、いいんです。は、ははは」

頬の肉を引きつらせ精一杯笑う男。
その姿を見てイシタツも笑う。
まあ、ギリギリ及第点、とりあえず後継者ゲットですか。

―― 忘れなさい。
―― はいそうします。

もし、その誘いに乗ったなら。
まあ、明日なんか来なかったんですけどね、わはは。


「あ、長崎君」
「は、はい」
「かくれて、かくれてっ」

シートに深く沈みこむイシタツと長崎。
ドアの向こうからきぃー、きぃーと錆びた音。
加持とリツコが青い車の横を通り過ぎ、そして街灯の果てに消えていく。
それをそっと見ながらのそり、と体を起こす二人。

「ほら見なさい、明日の世界のアダムとリリスですよ」
「アダムとイブ、じゃないんですか? 」
「荒野の獣はジャッカルに出会い、山羊の魔神はその友を呼び、夜の魔女はそこに休息を求め休む所を見つける」
「はい? 」
「イザヤ書です」
「はいい? 」

そう、イブじゃないんです。素敵ですよね、わはは。

「彼女の門は死への門であり、その家の玄関を彼女は冥界へと向かわせる。
 そこに行く者はだれも戻って来ない。彼女に取り憑かれた者は穴へと落ち込む」
「それ、は? 」
「ないしょです」
「は、はいい? 」

明日の世界が夜に向かうならば。
願わくば人の夜が、その闇が、せめて暖かく香る闇でありますように。
なんてね、わはは。






















潤む瞳に少年を映す。
暗い部屋に注ぎ込む青白い光。
少女は不意に俯き、おもむろに胸元を開く。
か細い体、露になった白い肌、月の光に照らされて。

少年はただ、それを見つめている。

やがて少女が声を出す。
震える唇が放つ微かな音。
聞き取れない程の小さな言葉。
しかし、確かな意志を込め彼女は放つ。





抱いて、と。






















むかし。
わたしたちはひとつだった。
でも、神様の悪戯で分かれてしまった。
だから、お互いを求めるのはあたりまえなのだ。
たったひとつのものであったあの頃がいとおしくて。
いつだって雄と雌は、おとことおんなは、お互いを求めるのだ。

だから、ひとつになろう。



「ねえ」
「ん?」
「なんでもない」
「何だよ」
「起きてたか聞いただけ」

加持の胸に顔を埋め、リツコが笑う。
障子戸の外、白み始める未明の空。
青から白へ、今日から明日へ。

「なんか、さ」
「うん? 」
「初めての筈なのに、さ」
「うん」
「懐かしくて」
「泣きそうになった? 」
「誰が」
「意地っ張り」
「うるせえよ」

汗の引いた肌をなぞる指。
残り香と体温、その熱さを愛しみ、足を、そして腕を絡める。

「ひっつきすぎじゃねえか」
「いやなの? 」
「べつに」

あてどもない会話。
笑うふたつのくちびる。
一瞬、途切れる言葉。
どちらが求めるのでもなく重なる唇。

「すけべ」
「あのなあ」

いとおしい。
いとおしくて狂いそうになる。
いとおしくて泣きそうになる。
この存在を、目の前にいるこのおとこを離したくない。
足りない、まだ足りない。何度昇りつめようが息を切らし果てようが足りない。
一瞬はすぐ過去へ。時間が無い。だからこの瞬間が、いとしい。

「ほくろ」
「ん?」

唇を離し、左目斜め下の黒子をなぞる指。

「涙の通り道、か」
「幸せになれないのかな?」

指でなぞった跡に、唇を当てる加持。

「迷信だろ? 」
「そうね」

あの日。

昼も夜も解らない闇の中で。
腐臭漂う血溜まりの中で。
私達は激しく求め合った。
貫かれる痛みすら心地良い。
湧き上がる情欲が心を溶かす。
そして、身体も熔けていく。
どちらがどちらなどもう解らない。

ひとつになろう、もっとひとつになろう。

わたしはあなた、あなたはわたし。
その瞬間、私達はたったひとつのものだった。


「髪」
「どうした? 」
「染めよっかな」

薄茶色の毛先を指で回しリツコが呟く。

「なんでまた」
「なんとなく」

決して嫌いな訳ではない、けれど。
あのひとと同じ色、母さんの色。
行く先が同じ地獄ならば、せめてわたしらしく。

「ねえ、お願いがあるの」
「なんだい? 」

あの日。
私達はひとつだった。
でも、神様の思惑で分かれてしまった。
だから、お互いを求めるのはあたりまえなのだ。
たったひとつのものであったあの日がいとおしくて。
いつだってわたしとあなたは、お互いを求めるのだ。

「なんだ、そんなことか」
「お願い出来る? 」
「いいよ」
「ありがと、もう一つはね」
「まだあるのか」
「もうひとつだけ」
「言ってみな」


それが、たとえ。
お互いを喰らい合う蛇の本能だとしても。





「いい? 」
「いいよ」






















夜が明けて。
加持の棲家、離れの軒先からがさごそと響く騒がしい音。

「いいのか? 」

ビニールの手袋を手にはめながら加持が聞く。

「やっちゃって」

ビニール袋をすっぽり被り、頭にシャンプーハットっぽい何かを被った女。
フランシスコザビエルてるてる仕立てな姿をしたリツコが応える。

「うりゃ! 」

ぷちゅ、と朝の庭に立ち上る鼻を突く染料の匂い。

「冷たっ! もう、ゆっくりやってよ」
「こーゆーのは豪快なほうがいんだよ」
「ふーん、やった事あるの? 」
「いや、まったく」

そして豪快にリツコの髪を掻き揚げる加持の手。
そのくせ痛くなく、程よい心地よさをリツコは感じる。
わしゃわしゃ、わしゃわしゃと響くリズムが心の隅まで沁みて行く。

「ああ、夢がひとつ叶ったなあ」

呆けたようにリツコが呟く。

「どんな夢? 」
「惚れたおとこに髪を染めてもらう、って夢」
「なんだそりゃ」
「ふふっ」

わしゃわしゃ、わしゃわしゃと優しい手が髪を掬う。

「加持くん」
「ん? 」
「あなたの夢は、なに」
「夢ねえ」

一瞬、手が止まる。

「考えた事、無かったな」

何気ないその言葉がリツコの胸を締め付ける。

「手がお留守よ」
「おっと」

再びわしゃわしゃと繰り返す優しい音。

「でも、そうだな」

今ならあるかな、と加持が笑う。
それはなあに、とはやる気持ちを抑えリツコは問う。








「家族、かな」








駄目だ、とリツコは思う。
駄目だ、もうこらえきれない。
視界が滲む、風景が歪む、溢れかえった涙。
世界が水面に落ちていく。



「おい、目に入ったか? 」
「違う、違うの」
「ちょっと待て今説明書読むから」
「だから違うって、ばかっ! 」




あわてて取り繕うリツコ。
涙を拭いながら彼女は誓う。




その願い、かなえてあげる。
おねえさんが、かなえてあげる。






















そして今。
目の前に居る女は。

「なんとまあ」

車椅子に座る鶏がらの様な女と
その横で笑う黒髪ショートカットの女。

「変わり果てた姿に」

その唇が笑ったような気がした。
その目が微笑んだように見えた。

「なあ、りっちゃん」

しかし、加持の視線は。

「おまえだよ」

車椅子の傍らに立つ女に向けて。
そう、目線の下では無く、文字通り目の前にいる女。







「あはっ」








その瞬間。
ガシャン、と倒される車椅子。
放り投げられた青白い手足が軽い音を立て板張りの床に倒れる。
からから、からからからと回る車輪。
倒れた女の喉からひゅうひゅう、と抜けていく空気。
しかし、それを気に留める事無く加持の眼はそこに立つ女を凝視する。






「あははははははははははははははっ」







笑う笑う、その女が笑う。
こみ上げる感情を隠そうともせずただ笑う。
笑う女の口元が歪む。
丸みを帯びた輪郭が徐々に歪む。
エッジのかかった顎にその形を変える。
静かに伸びて行く髪の毛が肩口まで伸びる。
黒髪が褪せて行く、茶色、そして金髪へ。
褐色の肌から抜け落ちていく色、そして。

左目斜め下に浮かび上がる、黒子(ほくろ)。








「あはっ、あはっ」








そして、笑いが止まる。
やがて、真顔になった女が囁く。











「ねぇ、何で解ったの? 」















おねえさんといっしょう
第四話/クロコダイルドリーマー/Ⅴ/了


Can you follow?
Really?

All right.

Here We Go.

To the world that you hope.


but.


You can never come back.




Never.






To be continued...
(2009.02.21 初版)
(2009.02.21 改訂一版)


作者(グフ様)へのご意見、ご感想は、メール または 感想掲示板 まで