泣き止んだ空。
山の向こうへ沈んで行く夕陽。
まるで涙で腫れた目の様に真っ赤に染まる空。
その上に拡がる群青と月。
もう夜の領分だな、と加持は思う。

「満月、か」

古びた天窓を見上げ一人呟く。
木の香り、擦れたインクの匂い、紙の香り、そこに混じる微かな埃。
変わらない空気、変わる筈も無い景色、変わったのは中央図書館旧館という名称。

「あのぉ~」

背後からの声に振り向く加持。そこに立つ司書らしき女。

「申し訳無いのですが、もう閉館ですよ」

軽く会釈し微笑む加持。

「すいません、待ち合わせをしておりまして」
「待ち合わせ、ですか? 」

身分証を提示すると一瞬、女の顔が強張る。

「警察の方、ですか。捜査か何か」
「あ、いえいえ、あくまでも個人的なもので」

そうなんですか、と彼女が表情を崩す。
短い黒髪、薄い化粧に覆われた幼さの残る顔が微笑み返す。

「困りましたね、わたし何も聞いておりませんもので」
「あれ、それはおかしいなあ」

加持の言葉に少し困惑した表情を見せる女。

「ご存知の筈でしょう、伊吹さん? 」

無精髭が歪む。女の胸元にある名札を指しながら。

「今日、あなたとは三度目ですし」

朝、病院入り口エントランスで口元に指を当てた女。
昼、病院受付のホールで担架に載せられ運ばれた女。
今、眼の前にいる女。

「病院と兼業ですか? 」

瞬間、女の顔から消える表情。

「私に似た方が?」
「いえ、全然」
「なら何故そう思われたのですか」
「姿は違いますが二つだけ共通点がありまして」
「それは?」
「一つは女であるという事、もう一つは気配」
「気配? 」
「それが全く無いんです、貴方には」

この女のようなものは病院で、そして今此処にいきなり。
そう、何の気配も感じさせず周りの空気さえも動かさずに突然現れた。
一度ならば偶然。だが二度三度なら。それが一日の内に起これば必然。

「あとはハッタリです」

男が笑う。

「まあ」

女も笑う。

「わたしったら。まだ慣れて無いのかしら」

妖艶な笑みを薄い口紅に浮かべて。



―― マ、ヤ。



その時、蛍光灯の届かぬ書架の奥から懐かしい声。



―― おあそびは、そこまで、よ。おねがい、できる?



「はい、お姉さま」



失礼、と加持の横を通り過ぎ薄暗闇へと消える女。
気配の無い女、匂いの無い女、横を過ぎる時も空気が流れない女 ―― そして。




きぃぃ。




軋む音。




きぃぃ、きぃぃ。




擦れた音。



きぃ。




その音が止まる。男の眼前で。





―― ひさし、ぶり、ね。




俯きながらあいつの唇が微かに笑う。
車椅子に座る膝掛けから覗く青白い棒のようなあいつの足。
座った膝に力なく置かれた血管の浮いたあいつの腕。
やせ細り頬扱こけたあいつの頬。
色褪せたあいつの髪。
光を映さぬあいつの瞳。
変わり果てた、あいつ。



そう、あいつがそこに居た。



冬月リツコが。






おねえさんといっしょう

presented by グフ様






潤む瞳に少年を映す。
暗い部屋に注ぎ込む青白い光。
少女は不意に俯き、おもむろに胸元を開く。
か細い体、露になった白い肌、月の光に照らされて。

少年はただ、それを見つめている。

やがて少女が声を出す。
震える唇が放つ微かな音。
聞き取れない程の小さな言葉。
しかし、確かな意志を込め彼女は放つ。










抱いて、と。















【第四話】クロコダイルドリーマー ――Ⅳ――















じわりと額から汗が流れる。
気温がいい感じに上がってきた昼前、軒先からシュッシュッと金属音の単調なリズム。

「あちい」

首にかけた手ぬぐいで汗を拭い、再びワイヤーブラシでプラグ先端をシュッ、と擦る。

「こんなもん、かな」

フッ、と先端に残るカーボンを吹き小さな横型エンジンに差しプラグレンチを被せ回す。
キシキシと錆びた音を立て締め込まれるプラグ。締めすぎ注意やりすぎ注意と呪文を唱え。
ギッと最後の一押し、プラグキャップを押し込みパンッ、と手を合わす。

「頼むぜぇ」

キーを回し軽くチョークを引きスロットルを開け戻し足に力を込めキックを二度三度踏み降ろす。
スポポッ、スポポッと背後から気の抜けた音、やがてスココココココッとマフラーが息を吹く。

「よっしゃあ! 」

汗を飛ばしガッツポーズを取る少年。腕で汗を拭いふうっ、とため息ひとつ。
チョークを戻しアクセルを軽く明けるとブインブインと小気味の良い音。
それを確認しエンジンの火を落とす。ブラシとレンチを工具箱に仕舞い顔を上げる。
剪定された木々から漏れる夏の光、邪魔な音が消えたとばかりに再び始まる蝉の合唱。
広い庭、小さな池とその向こうに母屋。元旅館で平屋、趣の或る数奇屋造り、そして。
母屋を挟んだ対面に此処と同じあつらえをしたもう一つの離れ。
此処と向こう、かつて双子庵と呼ばれていたとかいないとか。

「居ないのか」

瓜二つな離れを目に写し少年がバイクに腰掛ける。
彼は感じる、居ない、そこに棲む少女が居ない、と。
あの気配が無い。ここに来てから日々こちらに注がれる視線。
薄く開いた障子戸から彼女はいつも。それが今は無い、つまり、あいつは居ない。

―― 紹介しよう加持君、娘のリツコだ。

数ヶ月前この家に来た初日、保護者となった冬月コウゾウから紹介された一人の少女。
誕生日の違いこそあれ数え年は一緒で同じ高校の同学年、確か入学式で見かけたかな、彼の認識はその程度、だが。

―― どうしたんだねリツコ、入りなさい。

部屋の入り口で立ち止まり、押し黙ったままじっと眼前の少年、加持リョウジを見詰める少女、冬月リツコ。
見詰める? 否。凝視? 否。その眼光は爛々と輝き、その瞼は大きく開かれ、その唇をきつく噛み締め。
睨みつける、と言う表現が最も近い。しかしその瞳に宿る感情を読み取る事は出来ない。彼はまだ若すぎた。

―― 何してるの、りっちゃん。早くご挨拶なさい。

冬月の隣に座る母親、ナオコの言葉に応える事無く、ぷいっと踵を返し立ち去るリツコ。
うわいきなりガン付けてきやがったよこいつ、まいったなあ、と言葉に出せる訳も無く加持が一人苦笑する。

―― ごめんなさいね、あとできつく言っておくから。

心底すまなそうな顔をするナオコに、いえいえそんな事は、と笑う加持。

―― ありがとう、あなたはとてもいい子ね、とても、とても。

とろん、と潤む女の瞳に少しとまどいを覚える少年。何故か背筋に軽い悪寒。

―― 加持君、君はいつからそんな笑顔を。

冬月の細い瞼から覗く眼光。

―― 一年半前の君は、そんな。

あなた、と静かに強い口調で夫を制するナオコ。

―― すまん、忘れてくれ。

はあ、と曖昧な笑みを返しながらも加持はリツコの顔を思い出す。
だがまあ、そうだよな。同じ年の野郎がいきなり同居する事になったんだ。そりゃ嫌だろうさ。
何せこちとら居候、厄介者の身分としては、やはりここはアレだ、いつも通り平身低頭愛想笑いで切り抜けよう。
聞けば用意してくれた部屋は庭にある離れ。一つ屋根の下で寝る訳で無し、学校でも組が同じ訳で無し。
唯一の接触は朝飯夕飯の食事時、それさえやりすごせば何とかなる、そうとも世は全て事も無し。
ちょっかい出すなどもっての外だ、などと笑顔の下でそんな事を考えていた、しかし。

「なんなんだよ、ったく」

その夜、寝つきの良さが自慢の筈なのに何故か真夜中に目を覚ます。
初めての部屋だから? 為れない環境だから?
いやいや違う、病院だろうが何処だろうが今迄こんな事は無かった。
寝床から抜け気分転換に庭でも、と縁側の障子戸を開ける。
そこで初めて加持は寝付けぬ違和感の正体に気付く。
広い庭、母屋を挟んだ反対側にあるもう一つの離れ。
同じ造りで向かい合う双子庵、閉じられた障子戸、否、閉じきられて居ない隙間。
まるで縦に伸びた一本の黒い線の様な隙間、その中心に爛々と光る眼 ―― 見ている、あいつが。

縁側に裸足で飛び出た瞬間、黒い線はするりと閉じられ、消えた。

その日以来、あの黒い線が夜な夜な向こう側の離れに現れては消える、その繰り返し。
しかし母屋で会う時も学校で横を通り過ぎる時も彼女は決まって無視。
最初こそ戸惑ったものの慣れというのは恐ろしく。
いつしか、ああ、また見てやがんな程度の認識しか加持は持たなくなった。
彼はまだ気づいていなかった。彼女の気持ちと、自身の異常とも言える順応性に。

「まあ、いっか」

手拭いで汗を拭きふと腕時計を見ると十時四十五分。
やばい、バイト十一時からじゃねえか、とあわてて部屋に飛び込みシャツを羽織る。
そしてバイクを引き小走りで門へと駆ける、しかし其処に。


―― あ。


あいつが居た。

門のひさしの下、後ろ手を組みこちらを見るでもなく空を見上げる少女。
色の薄い茶色がかった髪、白い肌に泣きぼくろ、冬月リツコが。

「ども」

軽く会釈をするも返さずに門に寄りかかったまま空を眺めるリツコ。
ま、いいけどね。ちと前を通りますよ、失礼、と彼がバイクを引き前を過ぎようとしたその時。

「ねぇ」

初めて彼女の声を聞いたような気がする。

「あ、はい」
「何処行くの」

ああ、こんな声なんだ、こいつはこんな声を出すんだ、と加持は思う。

「えっと、バイト」
「そう」

と、そのまま途切れる会話。
俯く少女とハンドルを握り立ち尽くす少年。
じわり、と手とアクセルゴムの間に汗が滲む。

「それじゃ」

再び腕に力を込め止まった車輪を動かそうとしたその時。

「帰りは何時?」

加持は一瞬自分の耳を疑う。今、こいつは何と言った?

「え?」
「バイト、何時に終わるの?」

振り返ると頬を紅潮させたまま俯くリツコの顔。

「あ、えと、三時くらい、かな」
「待ってる」

いま待っているといったかこいつは。なに? 何を待つって、俺かあ?

「う、ええ?」

舌が上手く回らない。何故だろう、今迄こんな事はなかった筈なんだが。
自分の意識が感情に潰される。唐突なカウンターに戸惑う加持を見て不意にリツコが顔を上げる。

「連れて行って欲しいところがあるの」

意志の篭った瞳、不安と期待が入り混じった虹彩。おんなになりかけの瞳が少年を映す。

「どこへ? 」
「この世の果て」

はいぃ? 何ですかそのメンヘラな場所は。
いきなりなお願いに声が出ない加持。

「待ってるから」

捨て台詞を放ちタタタッと門をくぐり庭の奥へ駆けていく少女。
その後姿を見つめたままバイクと共に立ち尽くす少年。

「不思議ちゃん、なのか? 」

ぶるぶると頭を振り思考を引き戻す。
帽子みたいなメットを被りキーを回しキックペダルを踏み込む。
スココココッと軽い音と共に再びマフラーが白い息を吐く。
ガチャッ、と遠心クラッチを踏み込み走り出す年代モノのカブ。狐につままれた少年を乗せて。
遠くなる家の門をバックミラーに映しながら加持は思う。



この世の果てって、何処よ。















「青春だねえ」
「まったくで」
「あまずっぺえ、甘酸っぺえなあ、おい! 」
「ちょい待てやオヤジども」

カウンターの向こうで蕎麦を啜る親父二人組と隣で新聞を開きながら苦笑いする垂れ目な店主。
中年トリオから冷やかしを受けながら、ああ、言うんじゃなかった、と激しく後悔する加持。

「この世の果てってのはあれか、今日がテメェの命日だ覚悟しろやオラァ、って事か」
「いやエビさん違うって、高校一年の夏休みつったらアレさ、大人の階段登ったりガラスの靴履いたシンデレラだったりして
 あなたにオンナノコで一番大切なモノあげちゃうアレでしょうが」
「ノブてめえ相変わらず夢見過ぎだ。呼び出しだ呼び出し、ケリつけようぜってタイマンのな。
 おおかた通販で買ったメリケンサック届いたんで使いたくてたまんねえんだろうよ。なあ臥の字そうだろう?」
「てめえと一緒にすんな、大体そういう時にゃ釘バットだろうが、ぐぎゅうだな」

駄目だ、こいつら色々と終わってやがる、と加持が深く溜息をつく。
夏休み前、不意に立ち寄った立喰蕎麦屋の張り紙に何故か惹かれてバイト入ったのはいいがなんでしょうココ。
店主は日がな一日新聞ばっか読んでるし、客つっても毎日来るこの二人組以外はあんま見かけないし。
確かに旨いよココ。でも免許無いって言ったら、高一でバイク乗れないとは何だ、っていう妙な理由で
ガッコに内緒で取りに行かされるわ、渡されたのは超ビンテージ物のカブだわ、挙句出前部長とか任命されるわ。
っていうか立喰蕎麦屋なのに出前あるってどうよ? まあそれは大目に見ても毎日ならともかく三日に一回位だし。
しかも数少ない割りに毎回得体の知れないトコ行かされて、うん謎だこの店。
まあその割りに時給いいし通勤にカブ貸してくれるし、でもなんだかなあ。

「ていうかあんたら仕事はいいのか、もう二時だぜ」

少年の突っ込みに肩を竦めるスカジャン中年。

「仕事っても、とりあえず夏中はこン街に居りゃいいだけの話だからなあ」

その隣でエビの言葉に相槌を打ち箸を置くアロハ中年。

「そそ、嫁から離れて単身赴任、淋しいねえ」
「おめえいつ嫁貰ったんだよ」
「あれ、エビさん知らなかったっけ」
「ノブ、脳内嫁も程々に」
「居るって! マイスイートハーツとマイプリティドウター居るって!
 写真だってここに、あれドコやったっけかな、あれ、あれえ? 臥さん知らない? 」
「知らねえよそんな不思議写真」

やれやれ、と首を振る垂れ目店主。

「居るって! おっとり美人で怒ると古武術使う巫女な嫁とアホ毛がチャーミーな極カワ娘居るって!
 今年は家族みんなでバカチンとかそこら辺で女王様に鞭打たれながらクリスマス過ごすって!」
「はいはい、はいはいはい」
「へいへい、へいへいほー」
「信じろよ!もっと信じろよ!」
「少年、こうはなるんじゃねえぞ」
「うん」
「ひでえ! ひでえよリョウちゃん」
「こうなったらお仕舞いだぜ坊ン、ところで」

加持を坊ンと呼ぶ店主、臥乱堂がくいくい、と店先に置かれたバイクを顎で指し。

「あれ、使うか? 」
「いや、悪いよ今日は」
「遠慮すんな。納屋に荷台に乗っけるタンデムシートあるから付けとけ」
「いやでもあれ、原付っしょ? 」
「坊ンは案外真面目だなあ。もしかしてケツの三角印気付いて無い? 」
「あれ飾りじゃないの? 」
「あー。それ二種の記号でな、アレC105つって排気54cc、つまりノープロブレム」

ちょっと待て。俺原付免許しか持ってねえぞ。そんなのに今まで、と軽く血の気が引く加持。

「坊ン、男がそんな細けえ事気にしちゃいけねえ、いけねえよ」

いやいやいや捕まるの俺だって。知ってて貸してたあんたも一蓮托生だって。

「要は捕まらなきゃいいんだ」
「そりゃそうだ」
「まったくで」

何だこのボーダレス中年共は。
うんうんと頷く垂れ目とスカジャンとアロハなオヤジ三人を見て溜息。

「あんだよ少年、タイマンだろうがキャキャウフフだろうが夕方には素敵イベント待ってるんだべ?
 そんな年喰ったようなクソ生意気な溜息つくんじゃねえよ」

夏の暑い盛りにスカジャン羽織り立喰い蕎麦啜る変わり者、エビを横目にふうっと溜息もうひとつ。

「あー、もうシケてンなぁこのガキは! 」
「だってよエビさんいきなりなんだぜいきなり! 無視決め込むわ口きかねえわ夜な夜なガン見するわ。
 それがいきなり、待ってる連れてってこの世の果てって、もう訳わかんねえよ!ったく」
「リョウちゃん、そりゃキミ」
「なんだよノブさん」
「デレ期だ」
「は? 」
「長いツンを経て遂にデレが来たんだよおめでとう!おめでグフッ」

その瞬間エビの肘鉄が鳩尾に食い込みカウンター下へ静かに沈むノブ。
それを見て新聞を畳み、パンパンと手を叩く店主。

「うし、ランチタイム営業終わりだ、さああんたら帰った帰った」
「何だよ、そんな小洒落た名前、俺ぁ初めて聞いたぞ」
「うっせえよ、なんせ今日は坊ンにとっちゃ男の門出だ、色々準備必要なんだよ」
「あー、そういう事な。おらノブ立て、行くぞ!」
「リョウちゃん、ひ、ヒニンは、しっかり」

アロハの襟を掴み引き摺り起こし出口へ進む二人を見て、あーこのヒト達また金払わねえよ、と加持は思う。
ツケとか前金とかあるんだろうか、というか客ってほぼ毎日こいつらだけじゃねえか。

「お、そうだ」

戸口で振り返るエビ。着ていたスカジャンを脱ぎ加持へと放る。

「餞別だ、もってけ」

反射的に掴んだ手の中にサテンのジャンパー。胸元に骸骨、背中に白虎の刺繍。

「いや、いいって」
「いいから持ってけ、俺のお気に入り一張羅、勝負着なんだぜ」

何を勝負すんだよ、と言いかけた加持が言葉を失う。
Tシャツ左裾から伸びた先、エビの左腕、大きく抉られた傷跡を目に映し。
その視線を感じ少しバツの悪い顔をしながら右手で傷跡を隠すエビ。

「じろじろ見んなよ、恥ずかしいじゃねえか」
「その傷、一体」

加持の問いかけに苦笑いで返すエビ。

「まぁ昔、ちょっちな」

昔、というにはやけに生々しい傷跡。

「エビさん!」

暖簾に手を掛け店から出ようとするエビに加持が叫ぶ。

「ありがとう」

礼に応えひらひらと手を振り店を出る後姿。
それを見送りながら加持が突如湧いた得体の知れない感覚に戸惑う。
何だあの傷、何故だ、たかが傷口を見ただけなのにやけに喉が鳴りやがる。
熱い、とても熱い。そして口元に広がる鉄錆の匂い、これはまるで。



まるで、血の味じゃないか。
















腰に巻いたスカジャンがバタバタと風を巻き込み揺れる。
タンデムシートを荷台に付け、傾きかけた日差しの下カブが大通りを曲がる。
路地に入りあー、少し遅れたなあ、などと若干焦りつつアクセルを開ける少年。
やがてハンドルの先、視界の中徐々に姿を現す馴染みの門とそこに寄り掛かる少女。
うわ、さっきと服違うよ、うわ白いワンピースだよ、うわうわ頬っぺた膨らんでるよ。
あ、こっちに気付いた、あ、睨んでる睨んでるやべえ、と加持が首を竦めリツコの前にカブを止める。

「遅い」

いきなりかい。

「遅い」

繰り返しましたか、繰り返しましたね。
わかった、わかりました。確かに三十分ほど遅れたのは認めましょう。
だがそれはですねタンデムシートが中々見つからなかったり再びプラグが失火してですね。
ポイント調べたら案の定タイミングずれててしょーがねえからバイク屋行ったりしてですね。
いや別に途中でクラスメイトとかにも会わなかったしコンビニ前で約束忘れて長話したりなどは。
いや無いから決して無いから。だ、だだだ大体こちらの返事聞く前に勝手に約束押し付けたオマエに原因が。
だって俺行くなんていってねえじゃん! それを約三十、正確には四十五分程遅れたくらいでガタガタガタガタ!
あー、頭来た。 ガン無視の件といい夜な夜なストーキングの件といいこっちこそ言いたい事が沢山っ!
たぁぁああああっーくさんあるんだ! よし言ってやれ俺! この自分勝手メンヘラ女にガツンと言っちゃれ俺!

「遅いッ!」
「すいません」

駄目だ俺、ダメダメだ俺、と加持が軽く凹む。

「わかればいいのよ」

頬から息を抜き、随分とすっきりした顔でリツコが微笑む。
それを見て加持が思わずくくっ、と口元を緩ませる。

「な、なによ」
「いやアンタ、そんな顔も出来るんだ」
「悪かったわね、いつも膨れっ面で」
「悪くねえよ、そのツラは」
「なッ」

なによ、と言いかけ俯くリツコ。良く見りゃ頬っぺたまっかっか。
肩から力が抜け笑う加持を見てフンッと鼻息荒く小ぶりなタンデムシートにとすん、と座る。

「さ。いきましょ」

平静を装いながら声を掛けるリツコ。

「何処へ、いやその前にメットは、ってあれ? 」

見れば彼女の頭にいつのまにか帽子に似たヘルメット。
どこかで見たような形、ああそうか、これ色違いだ、俺のと。

「どしたの、それ」
「たまたまあったのよ、家に」

に、しては。やけにピカピカで。まるで先程封を開けたようで。

「ふうん」
「なによ」

とソッポを向き、あごヒモを弄りながら、あーもうっ! と悪戦苦闘するリツコ。

「ほら」

振り返り彼女の顎に手を伸ばしヒモを結わえる加持。

「こうやんだよ」

その手に抗う事無く、ただ頬を染めるリツコ。

「あ」
「うん?」

ありがとう、と彼女の口から消え入りそうな声。

「い、いや」

ポリポリと頭を掻きながらやべえ、マジで青春してるじゃねえか、と苦笑いする加持。
正直言いたいことは山ほどあったのだが、その筈なんだが、と彼はその時気づく。
ああそうか。言いたい事ではなくて話したい事だったのかもな。まあいっか。

「さてお嬢様、どちらふぇ? 」

噛んだ。
よりにもよってこのタイミングで、噛んだ。
余裕ぶっこいてちょっと気取った結果がこれだよ!
恥ずかしさのあまり加持の顔が見る見る赤く。

「ぷっ! 」

不意に吹き出すリツコ。

「あはははははっ! 」

さっきの仕返しとばかりに笑う。

「どちらふぇ、ふぇって、あはははははっ! 」

このアマ。こっちが本性か。今の今まで猫被ってやがったなくそったれ。
うるせえよこの野郎ッ!と声に出そうとした瞬間 ―― きゅっ、と加持の腰に手を回し抱きつく白い腕。

「スカイラインの麓まで。お願い出来るかしら? 」

ぽすん、と背中に寄り添う彼女のメット。

「お、おう」

ガチャン、とギアを踏み込みアクセルを開ける。
スコココココッ、とマフラーから気の抜けた音を吐き出しカブが動き始める。
少年と少女、二人を乗せて。

















―― 要は捕まらなきゃいいんだ。
―― そりゃそうだ。
―― まったくで。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!! 」


無責任中年ズの言葉が脳裏によぎる。
唸るエンジン震えるマフラー、前のめりでアクセル全開全力全壊、何故か半泣きの加持。

―― “止まりなさーい、そこの二人乗りバイク止まりなさーい”

背後から迫る拡声器の声とフォウフォウと鳴るサイレン。
迫りくる白黒パンダ模様な車。どう見てもパトカーですありがとうございました。

「べぇぇぇーっだ」

運転席でハンドルを握る警官の額に青筋がビキビキと浮かぶ。
眼の前の二人乗りバイク、少年にしがみつくワンピース少女が突然振り返りあっかんべぇと舌を。
握力120超えの力でギシギシとハンドルが軋む。軽い速度超過だから警告で済ませてやろうと思ったがそうかそうか。
なるほどなるほどこれが夏休みか青い果実の乱れた性か解かった解かりましたよおじさん良くわかっちゃたよ。

―― “おーう、いい度胸だぁそこの二人乗り淫行バカップル。止まりなさいって言うか止まれ。さもなくば死”

「ばーか、ばーか」
「おい! 何挑発してんだよおいッ!」
「見てあの警官! 顔真っ赤にして睨んでる! 楽しい!楽しいわたああのしぃい!」

それを聞きビキィ、と警官の頭から何かがブチ切れたような音が響く。
その横に座り同僚がやれやれ、と力なく首を振る。

―― “わかったよー、止まらなくていいよー、だから轢くよー、ガッツンガッツン轢きコロスよー”

「きゃー、こーろーさーれるー! たーすーけーてー、おまわりさーん!」

と笑いながら、今にもカブのリアフェンダーに触れそうなパトカーのボンネットをガンガン、と足で蹴るリツコ。

「きゃははははははははっ!」
「うるせえ何やってくれてんだよバカー! 」

しっかり掴まってろ!と加持が不意にアクセルを戻し軸足に力を込め路面を蹴り上げハンドルを切る。
その瞬間ぐりん、と車体が沈み鋭角に曲る前輪、同時にアクセルを開け後輪を滑らせながら狭い路地に突っ込む。
空き瓶やらビールケースやら鳥篭やらすっ飛ばしながら死に物狂いで走り去るカブ。
その直後に背後からズゴン!という鈍い音とかプッシューと煙拭く音とか、おぼえてやがれー!な叫び声。
あーあー聞こえない聞こえないなーんにも聞こえんなあー、と加持が独り言を念仏のように繰り返す。

「楽しかったわねっ、加持くんっ!」

ああ楽しかったな。
楽しかったともさ。


だがな。


一番楽しいのはおめえの頭だよっ!















「あんの餓鬼ども! 覚えてやがれっ!」

頭から湯気を出しガンガンとボンネットを叩く後輩を横目に
あぁ~ラジエターとか逝きそうですねえ、と呑気に笑う先輩警官。

「そうだイシタツさん! ナンバー! ナンバー照会は !? 」
「してませんよォ、そんなの」
「へっ? な、ななな何で」

飄々と笑う男を前に軽く毒気が抜ける後輩。

「そんなものしなくてもアナタ、あの原付二種はマッハ軒のヤツでしょうが」
「知ってるんですか! 」
「ええ知ってますよ、知ってますとも。良く、よおぉく、ね」

署の生き字引とまで崇めらる男の言葉、その奥に秘められた物に彼はまだ気付けない。

「流石イシタツさん! なら早くそこへ! 今からならまだ」
「長崎くん」
「はい? 」
「アナタはえらい! もう偉くてエラくてえらいです。
 キャリア組なら普通はこんな実務なんてちょちょいのぱっぱほいさっさ、なんでしょうが、
 アナタと来たら真面目一途一生懸命全力投球五体投地な働き振りでワタシ頭下がりますぺこり」
「あ、ありがとうございます」
「ですがねアナタ。虎穴に入らずんば何とやらという言葉勘違いしてませんか?
 それがもし虎穴では無く兄貴穴だったらどうすんですか、アナタ掘られまくりですよ。
 掘って掘られて飛んでイスタンブールですよ、挙句の果てにチャイナシンドロームですよ。
 グランチャイナでお気に入りのあの娘とランチタイムなんて夢のまた夢ですよ」
「え、えっと」
「ちょっと横道それましたね何となくソレスタルですねごめんなさい謝りますまたぺこり。
 まああなたの人生にビーイング的に介入したくは無いのですがね、まあ簡単に言えばこの街には沢山穴があるんです」
「穴、ですか」
「そうですよォ、怖くて怖くて落ちたら最後二度と戻れなぁい穴ですよお、怖いですよォ」
「イシタツさん、それがなんちゃら軒と何の関係が」
「解かりませんかァ? 」

一瞬、ほんの一瞬だけ男の飄々とした仮面、その隙間からどろり、と何か得体の知れないものが流れる。
ここに来てようやく彼は気づく。男が吐く言葉の洪水に取り囲まれ押さえられ身動きが出来ない自分に。

「アナタはね、今まさにこの街でも極上の大穴、その淵に立っているんですよ」

その得体の知れない何かを飲み込まないように口を閉めゴクリ、と唾を飲み込む。

「アナタ、死にたいんですか」

優しい、とても優しい声色が彼の耳に染みて行く。
柔らかい圧力が静かに、火照る身体から熱を奪う。
彼の脳裏に蘇る言葉。以前課長から聞いた話。
曰く、何か困ったらイシタツさんを頼れ。
曰く、決してイシタツさんには逆らうな。
そう、魔王には手を出すな。

「まあまあいいじゃありませんか、まだお若い二人のようですし。
 前途洋洋にして波高し、水を差しちゃいけませんよォ、なんてね。わはは」

課長にはワタシからちゃんと通しておきますから、わはは、と笑う男。
そう、彼だけが許された。この街に巣食う魑魅魍魎、いにしえびととの交渉を。
彼等に認められた唯一無二の存在。審神者(さにわ)とは誰が名付けたのだろうか。

「しかしまあ、なんといいますか」

不意にイシタツが目を閉じ先程の光景を思い出す。
半泣きでアクセル握る少年と、けたけた笑う少女。

「達者でやっておられるようですなァ」

あの日、彼が応援に駆けつけた現場で目にしたもの。

「なるほど、なるほど」

深く抉られた左腕から鮮血を撒き散らし蹲る男。
その先に化物、否、化物の姿をした少年。
全身を覆う赤、頭から爪先まで染まった紅、どす黒く浴び染まった返り血。
口元に毟り取った肉を咥え、向けられた幾つもの銃口へ爛々と眼光を放ち。
剥き出しの犬歯から低く、腹に沈み込む程低く唸る声が威嚇する。
その傍らに少女。何も映さない暗い目をした少女。
決して離さず両腕で少年の身体を固く抱き足を絡め、白い腿から流れ落ちるは一筋の赤い川。

「あの二人が、ねえ」

無数の殺意に晒されながらも絡み合う牡と雌、二匹の獣。

「変われば変わるものですねェ。いや、それとも」

まるで夏の日の幻でも見たかの様に目を細め、ぽつりと呟く。

我々は何処へ行くのかOù allons-nous?、我々は何者なのかQue sommes-nous?

溜息と共に吐き出される言葉が、暮れかかる空に溶けて行く。

「お。長崎君」
「は、はいっ」
「ほら、一番星ですよ」
「それが、何か」
「一番星見つけたら、誰かにそっと声掛けたくはなりませんか? 」
「え、まあ、はい」
「ささ、では急いで帰りましょう。
 窓灯す明かり一つまた一つ、ついてはまた暮れる、闇はまた闇へ、ですよ」
「はあ」

塵は塵へ、闇は闇へ。
全てが夜に喰われる前に帰りましょう。
彼らの気が変わらぬ内に、我等の気が触れぬ間に。

「変わったのは彼らか、我々か、世界か」

まあ、そんなものは解かりませんわなあ。
何処から来ようが何処へ行こうが何者だろうが。
昨日すらおぼつかず今日ですらあやふやなこの街じゃあ。







そう。明日の世界The world of tomorrowならば尚更、ね。











おねえさんといっしょう
第四話/クロコダイルドリーマー/Ⅳ/了


Can you follow?
Really?

All right.

Here We Go.

To the world that you hope.




but.





You can never come back.






To be continued...
(2009.01.31 初版)


作者(グフ様)へのご意見、ご感想は、メール または 感想掲示板 まで