南冥のハーキュリーズ

最終話 逢いたくていま

presented by HY様


 †第三次南極遠征(第三次サンダルフォン戦)V

 2036年のクリスマス・イブ。
 午前に有給を取ったミサトは、厚木基地から少し離れた山間にある戦略自衛隊の共同墓地を訪れていた。
 無数に並ぶ墓標の中に、次の銘がある。



   KIMIO YUGIRI  

    2006-2035



 遺体も埋められていない墓標の前で、ミサトは膝をつき、手を合わせた。

「夕霧君・・・あれからもう、一年も経つのね・・・。
 あなたに歳、一つ、追いついちゃった・・・。
 長生きしてると、すぐに、追い越しちゃうわね・・・。
 ごめんね、夕霧君・・・。あなたにもらった命、無駄遣いしてるみたいで・・・。」

 藍色の髪の美しい女性は、物言わぬ墓標の前で、肩を震わせて啜り泣いた。



 その日の夕刻、ネルフ発令所。
 ミサトは、一仕事終えて休憩をしていたマコトに声を掛けた。
「日向君、今晩なんだけどさ、ちょっち、私と付き合ってくれない?」
「え? 作戦本部長と、ですか?」
「うん。ボーナスも出たし、奢ってあげるからさ。」
「は、はい。分かりました。」
「じゃ、執務室にずっといるから、仕事終わったら、来て。」
「はい。」
 ミサトは踵を返したが、クリスマス・イブに食事に誘われたマコトは、顔を真っ赤にして俯いていた。当初、ミサトに反発していたマコトだが、ミサトと一緒に仕事をする中で、彼は、彼女の抜群の能力と人柄に次第に惹かれて行った。やがて彼はミサトに恋焦がれるようになり、後には恋敵である加持を守るために戦死するのだが、彼もそろそろ自分の中に芽生えて来た気持ちに気付き始めたのかも知れない。彼は、その夜、美しい上司から「デート」に誘われたことで、気持ちが乱れ、その後、ミサトのことばかり考えていたため、ほとんど仕事ができず、やがて仕事を諦めてミサトの執務室に向かった。


 ネルフを出たミサトとマコトは新銀座に向かった。二人はまず、マコトがお勧めと言うラーメン屋に行った。これは、翌年に行われた熾烈なマトリエル戦の後、ミサトが、加持及び家族でもあるチルドレン四名と行くことになるラーメン屋である。
 ラーメンを食べ終えた二人は、新銀座のバー、リスボンに行った。
 ミサトはセブン・ローゼス・ブラックのボトルを奮発してリスボンに入れていた。二人はロックグラスで乾杯すると、セブン・ローゼスを飲み始めた。
「日向君。ちょっち、昔話、聞いてくれない?」
「はい。どんなお話ですか?」
「私の、二度目の恋の話。」
「伺います、作戦本部長。」
 ミサトは、ロックグラスを振って氷の涼やかな音を立てると、南冥に散ったハーキュリーズの物語を、静かに語り始めた。

***

「マスター、お代わり頂戴。今晩、飲み切るわ。彼にも作ってあげて。」
 二時間近く経ったろうか、ミサトはマスターに5杯目のロックを注文した。もうボトルも残り少ない。
「かしこまりました。」
 マコトは、真剣な表情でミサトに尋ねた。
「それで・・・そのハーキュリーズは・・・?」
「・・・どうしたと、思う?」
「戦ったんですね・・・。故障したハーキュリーズで、使徒と・・・。死ぬって、分かってるのに・・・」
 ミサトは、ロックグラスを振って、涼やかに氷の音を立てながら、マコトのほうを見ないで言った。
「そ。つくづくバカなパイロットでしょ。そのまま逃げれば自分は助かるのにね。わざわざ戻ってきて、普通に考えて勝てっこないのに、使徒と戦ったのよね、真面目に・・・。私みたいな女を愛した、ばっかりにね・・・。」
「でも・・・その人が・・・倒したんですね? ・・・使徒を?」
「そう・・・。でも、ハーキュリーズじゃ・・・命を捨てなければ、サンダルフォンを倒せなかった・・・。あの、彼でもね・・・。」


**********flashback/S**********

 赤い海を離脱した艦隊をなおも襲うサンダルフォンの姿を見たキミオは、ハーキュリーズの操縦桿を握りながら、溜め息交じりに呟いた。
「おいおい、反則かよ・・・。やっぱり、青い海に入ったらすぐに引き返してくれるってほど、世の中、甘くないか。」
 キミオの目には、サンダルフォンの侵攻と共に、赤い海が青い海を浸食し始めているように映った。
「こうやって赤い海が広がって行くわけか・・・。葛城さんを守るためには、もう、あいつを倒すしかない。人の幸せを邪魔するなよな、もう・・・。世界一、幸せになるつもりだったのにさ・・・。」
 もしキミオが、今まさに全滅しようとする艦隊を見捨ててハーキュリーズで戦場を離脱していれば、彼は助かっただろう。だが、その艦隊には、彼の愛を受け入れてくれた、最愛の女性がいた。だから彼は、迷うことなく、自分の命を捨てるほうを選んだ。
 むしろ夕霧キミオが恐れていたのは、自分の命を捨てても使徒を倒すことができず、そのために愛する葛城ミサトの命を救えないことだった。


 真っ白なハーキュリーズは、美しく舞いながら、片方のポジトロン砲で、空母ジャン・ポール・サルトルに迫るサンダルフォンを攻撃した。究極の通常兵器による攻撃は、ATフィールドに弾かれはしないが、ただそれにめり込むと言った程度の戦果しか得られない。
 ちなみにハーキュリーズの装備していたポジトロン砲は、第三次南極遠征でその兵器としての可能性が確認されたことから、後に技術改良がされ、ポジトロン・ライフルの名でエヴァにより兵器として使用されることになる。またそれをさらに改良したポジトロン・スナイパー・ライフルは、後年の第七使徒戦で、葛城ミサトが立案・指揮したヤシマ作戦における主力兵器として採用され、ラミエルは、砲手とされた綾波レイの零号機により殲滅されることになる。
 したがって、ハーキュリーズによる攻撃はポジトロン・ライフルの原型によるものと言え、それはATフィールドを中和するのではなく、突き破る形を取るから、強固なATフィールドであれば到底破ることはできない。しかし、サンダルフォンのATフィールド展開強度は比較的低いから、使いようによっては戦いうる、キミオはそう考えた。

 キミオは今回の一連の使徒戦を冷静に観戦していて、使徒のATフィールドに展開周期があることに気付いていた。あの光の壁は常に一定の強度で展開されているわけではない。使徒も生命体である以上、バイオリズムのようなものがあるのであろう、ATフィールドの展開強度が弱まる瞬間があることに、キミオは気付いていた。
 また、キミオはこれまでのハーキュリーズ隊による攻撃を見ていて、遠方からの砲撃がほとんど効果を持たないことが分かっていた。もし使徒を倒すつもりなら、ATフィールドの展開周期の中で最も展開強度が弱まる瞬間に、ATフィールドに接近してポジトロン砲で一点を連射し、さらに各機に二発装着されているN1爆雷を撃ち込めば、計算上は、ATフィールドを突破できるはずだ。そして、使徒の口の中に見えるコアのような物を破壊すれば使徒を倒せるはずだ。だが、ポジトロン砲は故障で片方しか使えず、もう銃弾は残り少ないし、補給を受けている余裕もない。

 ATフィールドを突破するためにどれだけ接近する必要があるのか、キミオにも分からなかった。しかしいずれにしても、ATフィールドの一部だけを破壊してその内部に侵入した場合、その後突入口は再び閉じられるであろうし、周りがすべてATフィールドに覆われている以上、もはや外に出ることはできまい。つまり、突入すればもはや脱出ができない。だから、戦うのなら、生きては戻れない。それにポジトロン砲が撃てるのも、せいぜい片側あと20発程度だ。どうせ死ぬしかないのなら、コアに機体を激突させて、攻撃を確実に成功させるほうがいい。
 そうすれば、愛する葛城ミサトを守ることができるかも知れない。そうしなければ、彼女を生きて厚木に還すことはできまい。
 そして、この使徒の殲滅経験は、これから十八の使徒戦を勝ち抜かねばならない人類にとっての希望となるかも知れない。


 キミオは一旦、ハーキュリーズを上空に大きく旋回させた。
 ミサトは、一機の真っ白な特殊戦闘機が、広がりつつある赤い海の上、白い雲の浮かぶ青い空を、舞うように飛ぶ姿を見た。
 キミオは、腰に付けたヘリオトロープ色のフォルトゥーナを取り出して、それを開いた。待機画面に映るミサトの美しい微笑みを見ながら、キミオは戦闘データの転送準備をした。
 最後に使徒との戦闘データをミサトに送る。自分が最期の一瞬まで生き抜いて、そしてこの南冥に死んだ意味を、未来へ少しでも残せるのなら、自分の死は犬死にではない。ミサトと自分を生かすために死んで行った戦友たちの死も、犬死にではなくなる。
 葛城ミサトさえ生きてあれば、彼女が自分たちの死を生かしてくれるだろう。
 幸い、彼の計算によれば、このサンダルフォンのATフィールド展開周期からすると、1分24秒後に展開強度が最弱になる瞬間が来る。その時がチャンスだ。

 青年は、操縦席の脇に置いたフォルトゥーナに映るミサトの笑顔に優しく微笑むと、深呼吸をしてから、操縦桿を握り直した。


 ミサトは、真っ白なハーキュリーズが、南冥の青空に、二本の飛行機雲を作るのを見た。
 


 ミサトは、次々と撃沈されて行く艦隊の中で、ただ真っ白な戦闘機の姿を目で追っていた。彼女は、人類軍最後の戦闘機に乗っているパイロットがもう死ぬのなら、もう自分が生きていることに意味はないとまで思った。
 葛城ミサトは自分の死を前にして、いやむしろ夕霧キミオの死を目の前にして、初めて自分が、彼にどうしようもなく恋していたことに、ようやく気が付いた。

 狂おしいくらいの愛おしさと恋心が、ミサトの胸を奔流のように満たし、そして溢れ出た。


 葛城ミサトは、真っ白な蝶が、灰色の巨鯨を襲う姿を、間近で見た。


 右に大きく旋回したハーキュリーズがサンダルフォンに急接近してポジトロン砲を浴びせると、巨鯨はこれに反応して、小さな蝶に牙を剥き、その口を大きく開けた。


「あと19秒。行くか。・・・さよなら、葛城ミサトさん・・」


 使徒の口に向かって水平に体勢を整えた真っ白なハーキュリーズは、残されたポジトロン砲による攻撃を、ATフィールドのただ一点に集中させながらサンダルフォンの口に迫り、ポジトロン砲を十数発撃つと同時にN1爆雷を発射した。使徒のATフィールド展開周期を計算したキミオの正確な攻撃は、史上初めて使徒のATフィールドを破った。

 そして、サンダルフォンのATフィールド内に侵入したハーキュリーズは、残りのポジトロン砲をコアに向けて撃ち尽くす。

 そして、そのまま速度を落とさずに、使徒の口の中に見えるコアに向かって突入して行く。


 ミサトは、もはや手の届かない恋人が、使徒のATフィールド内に侵入し、サンダルフォンの口の中に吸い込まれるように突入する姿を間近で見ていた。




「夕霧君!!!」






 ミサトの目の前で、使徒の中に真っ白なハーキュリーズの姿が消え・・・







 しばしの間をおいて、第四使徒サンダルフォンは、爆発を起こし・・・・・・







 そして、消滅した。







 やがて、薄い琥珀色の光の壁も、静かに消えて行く・・・。





 静まり返った南冥の空は、まるで、そこで何事も起こらなかったかのように、ただ、悲しいくらいに、青く澄んでいた。




 葛城ミサトには、ただ、ジャン・ポール・サルトルが作る波音と、心地よい風の優しい音しか、聞こえなかった・・・。





「夕霧君! 夕霧君! うわああああ!」
 




 ミサトは激しく泣き叫んだ。



 それでも、青い海の上、青い空には、ただ、白い雲が浮かんでいるだけだった・・・。




 さっきまで凄惨を極めていた南冥は、もはや戦場ではなかった。




 その時、ミサトが腰に付けていたフォルトゥーナが振動した。




 彼女は真っ赤な携帯端末を開いた。




 Eメール着信、1件。

送信者:夕霧キミオ




 ミサトは涙の溢れる目で、今、自分の目の前で散った、儚い恋の相手からの最後のメッセージを夢中で開いた。


*************

 送信者:夕霧キミオ[kimio_yugiri@jssdf100.gov.jp]
 送信日時:2035/12/24(月)12:08
 宛先:葛城ミサト[misato_katsuragi@jssdf100.gov.jp]
 件名:生きて

 高度3千以上、とりあえず安全圏。ポジ、N1望みあり。
 ATF分析、戦闘データ、参考にして。
 約束守れなくてごめんね。悪いけど、使徒戦、君に任せる。
 でも僕は、ずっと君を守り続ける。光になり、風になり、雨になって。
 葛城ミサトさん、ありがとう。お幸せに。君のこと、ずっと

 添付ファイル:2

*************


「夕霧君!!!」

 ミサトは激しく泣きながら、何度も何度も、短い、でも涙が邪魔になって読みにくい、Eメールの文面を読み返した。時間がなかったのか、それとも恥ずかしくて最後まで打てなかったのか、その両方だったのかは知らない。でも、それが書かれていなくても、たとえ言葉にして直接に言われたことがなくても、途中で切れている彼の言葉の続きを、もちろんミサトは知っていた。
 でも彼女は、彼に言葉で言って欲しかった。あの優しい声で、自分に向かって、いつものように微笑みながら言って欲しかった。自分さえ心を開いていれば、これまで幾らでもそのような機会はあったはずだった。そして自分からも、彼を愛していたことを、心から愛していることを、はっきりと伝えたかった。
 でも、それを望むことはもう、できなかった。

 Eメールには、ハーキュリーズから送信されるまでの戦闘データとATフィールドの分析データを納めたファイルが添付されていた。この、人類による初めての使徒殲滅とそのデータは、その後の兵器開発に大きく寄与した。すでに述べたように、ポジトロン砲は後に改良されてポジトロン・ライフルとされたし、N1爆雷は改良を重ねてN2爆雷として完成された。後に日本重化学工業共同体により開発されるジェット・アローン(JA)は失敗作であったが、JAU、さらに後年の数次に渡る南極決戦においてキミオの甥、桜花トシの指揮のもと活躍したJAVは、ハーキュリーズに用いられた技術を改善、応用したものであった。使徒の支配する赤い海の上空約3千メートルが安全圏であることも、2年後にネルフ司令碇ゲンドウが指揮した第五次南極遠征において前提とされた情報である。



 空母ジャン・ポール・サルトルほか残艦船の艦長及び乗組員らも、使徒との絶望的な戦いの中で、自分たちの命を救って散った、一機のハーキュリーズの戦いを見ていた。もしそのパイロットがその命を捨てて使徒を殲滅しなければ、自分たちが全滅していたことは明らかだった。そして、自分たちを逃がすためにレムリア沖に踏みとどまって全滅した主力艦隊、震洋隊の絶望的な抗戦がなかったとしてもまた、全滅していたであろう。

 すでに艦隊は、使徒のいない安全な青い海を航行していた。

 この遠征に参加した約10万の将兵のうち、奇跡的に生き残った数千名の将兵は、甲板に整列すると、戦友たちが散った南冥に向かって一斉に敬礼し、黙祷を捧げた。

 葛城ミサトがその中にいたことは、言うまでもない。



 史上初めて使徒を殲滅した夕霧キミオは、その命を失ったが、愛する女性を守り、人類の歴史を繋ぐ可能性を後に残した。だからミサトは、彼の死が犬死にではないと信じたかった。そして、甚大な被害を出した第三次南極遠征も、決して失敗ではなかったのだと思いたかった。

 しかし、戦自遠征部隊のただ一人の生還者となった葛城ミサト一尉は、帰国後、必要な報告を済ませると、辞表を提出し、慰留にもかかわらず、静かに戦略自衛隊を去った。

**********flashback/E**********




 日向マコトは、静かに語り終えてカウンターのコースターにロックグラスを置いたミサトの美しい横顔を見た。その頬には涙が流れていたが、ミサトはその涙を拭おうともしなかった。
「それが・・・今日・・・だったんですね・・・。」
「そう・・・それはちょうど、去年のクリスマス・イブのことだった・・・。」
「・・・」
「日向君。あなたはずっと、E計画を信じてネルフで頑張って来た。あなたと違って、私たちはずっと、ハーキュリーズ構想を信じて戦ってきた。自分たちが人類を救うんだって、救えるんだって、信じたかった。私の恋人もハーキュリーズに乗って戦死した・・・。でも、私はエヴァンゲリオンで戦うって、決めたの。もう、それしか、人類を残す道がないって、分かったから。ハーキュリーズで使徒を倒した私の恋人が、それを教えてくれたから。」
「・・・」
「ネルフの作戦本部長には、本当は鳳雛ではなく、伏龍がなるはずだった・・・。彼があの時、私なんか守ろうとせずに、ハーキュリーズでそのまま撤退していたらね・・・。」
「・・・僕も一度、会ってみたかったです・・・その人に・・・」
「・・・」
 ミサトは、右手に持ったロックグラスの氷を涼やかに鳴らした。キミオの癖だ。別に珍しい癖でもないが。
「・・・・一言で言うと、どんな人・・・でしたか・・・?」
「・・・どこにでもいそうな・・・でも、絶対、他にはいない・・・人・・・」
「そう・・・ですか・・・。」
「日向君、あなたは私が着任した時、あの遠征で戦死した戦自兵は犬死にしたと言った・・・。だから、あなたには私の話を聞いて欲しかったの・・・。イブの大切な時間を取って、済まなかったわね・・・。あなたのお兄さんの命日でもあるのに・・・。」
「いえ、本当にすみません・・・。いつか、犬死にだって言ったのは、撤回します。犬死ににしないように、僕たちが使徒戦に勝たなきゃいけないってことですよね・・・。僕はまだ、僕から兄さんを奪った戦自を許せません。でも、戦自の伏龍と鳳雛は、本当に立派だった。二人とも、最高にカッコいいと思います、尊敬します。僕は・・・葛城さんの部下として戦えることを、誇りに思います。」
 マコトは初めて、上司のことを肩書ではなく、同僚がしているように、名前で呼んだ。そして彼は、この美しい女性上司に恋している自分にはっきりと気付いた。
 ミサトは涙を拭いもせず、自分が立案、指揮した作戦で、その兄を死なせた部下に、美しく微笑んだ。


 翌日、京都。
「おい、今日の三者協定の最終調印式だけどさ、あの葛城がネルフの代表で来るんだってよ。」
 統合幕僚本部の幕僚控室では、3名の将校が雑談していた。
「葛城? ウチの本部にいた、葛城ミサトか?」
「そう、あの裏切り者だよ。こっちの手の内、全部知ってるもんだから、細則の実務者協議じゃ、ウチも散々にやられたらしい。」
「まだ二十代で、元上司の万田さんと、新国連のウィッツなんかと対等って、わけか・・・。世の中、分からないもんだな。」
「ああ。ネルフも、本命は夕霧だったらしいからな。葛城の実戦経験は夕霧の3分の1もない。守りとロジ面は抜群で、セオリー通り手堅いが、それが使徒戦に通用するかどうか、怪しいもんだよ。」
「まあ、あの天才と比べたら、誰でも見劣りするけどな。」
「知ってるか? あの戦争バカ、葛城にぞっこんだったんだぜ。」
「へえ、俺、新国連にいたから知らなかったな。」
「なのに、葛城は相手にしなかったとよ。」
「哀れな奴だな、夕霧も・・・。」
 男女のことなど他人には分かるまい。しかし、彼ら戦自の幕僚も、翌年の第伍使徒戦で戦死することになる。


 ミサトは、三者協定の調印式に出席した後、戦自の万田最高司令長官に呼ばれ、長官室に出向いた。
 万田は、秘書官を下がらせると、ミサトに言った。
「しばらくだね、葛城君。」
「はい、長官。」
「君がネルフの代表としてここに現れるとは、複雑な気持ちだよ。」
「・・・私も、そうです。」
「この一年、戦自は遊んでいたわけではない。あの遠征で得られたデータをもとに、改良中のポジトロン砲をヘクトールとヘルメスに標準装備することを検討している。N2爆雷も完成間近だ。海中戦用のポセイドンも開発中だ。我々は第伍使徒戦に賭ける。」
 しかし、やがて戦自が第伍使徒サキエルの前に為す術もなく敗退することは、読者周知の事実である。戦自の敗退後、サキエルは、葛城ミサトの指揮の下、ネルフの碇シンジ及びゼーレの桜花トシが駆るエヴァ初号機及び伍号機の共闘によって殲滅される。
「彼は、自らの死をもってハーキュリーズ構想の転換を訴えました。でも、彼の思いは伝わらなかった、ということですね・・・?」
「皮肉なことだが、大衆には、使徒殲滅という成果だけが伝えられ、喧伝され、政治利用された。ハーキュリーズで使徒を殲滅するなど、彼にしかできない奇跡の芸当だったということは、現場の人間にしか分からない。だが、民主主義が決めたことなら、軍人としてその決定に従わねばならない。人類はまだ、民主主義以上の制度を見つけていないのだよ。それが深刻な欠陥のある制度だと分かっていてもね・・・。」
「・・・また、たくさんの将兵が・・・ただ、死ぬんですね・・・。」
「葛城君・・・君は君の道を行きたまえ。」
「そのつもりです。わがネルフは、協定及び細則のとおり、友軍として第伍使徒の迎撃に参加します。指揮権の移譲については、昨年の南冥における敗戦を踏まえて、適切に判断なさいますよう。それでは、失礼致します。」
 万田はくるりと背を向けた美しい元部下に言った。
「葛城君。我々は、あの遠征で、何者にも代えがたい、貴重な人材を失った。彼は私の腹心だった。これからの戦自と、この国と、そして世界を支えてもらうつもりだった。もちろん彼の死は無駄ではなかった。だが、君から大切な友人を奪ったことは間違いない。済まなかったと思っている。許して欲しい。」
 軍人は戦場で死ぬものである。それを最高司令官が元部下に詫びるというのは異例と言っていい。
 葛城ミサトは立ち止まり、元上司に背を向けたままで、静かに言った。誤解を一つだけ訂正しておきたいと思ったからだ。
「いえ、彼は、私の友人なんかじゃ、ありません・・・。」
「・・・」
 ミサトが振り向いた時、その藍色の美しく長い髪が浮き上がり、再びその肩にさらりと舞い降りた。
 南冥に散った青年が心から愛した女性は、その美しい瞳に、涙を浮かべながら元上司に言った。
「夕霧キミオは、私の、大切な恋人・・・婚約者・・・でした・・・。」
「・・・そうか・・・」
 それを聞いた万田は、俯き加減に小さく首を振った。


 その翌日、ミサトが執務室で頬杖をつきながらぼんやりとルービック・キューブを眺めていると、リツコが駆け込んできた。
「ミサト!」
 ミサトは頬杖をついたままで、リツコに尋ねた。
「どったの、リツコ? 何かいいこと、あった?」
 リツコは興奮した様子で、ミサトに言った。
「遂にやったのよ! ATフィールドの中和実験に成功したわ!」
「そう・・・」
「理論上の物に過ぎないけど、これはシンクロ率とも連動する成功よ。これでオーナインなんて、もう言わせない。」
「そう、おめでと・・・。」
 ミサトの不自然な作り笑いを見て、彼女にしては珍しい、満足そうな笑顔を急に引っ込めたリツコは言った。
「・・・気のない返事ね・・・。」
「・・・ごめん・・・頭では分かってんだけど・・・まだ、ちょっち・・・」
 リツコはついに切れた。
「もう、ちょっちはいいわよ! ミサト、ずーっと我慢してたんだけど、言わせてもらっていいかしら! いったい、あなた、いつまで過去を引きずってるつもり?! 辛い思いをしているのが、あなただけだとでも思ってるの?! いつまでも思い出に浸ってんじゃないわよ! あなた今、どこにいるの?! ここは厚木なの?! もうあなたはネルフの人間でしょ! いい加減になさいよ! もうすぐ使徒が来るのよ!」
 ミサトはやおら立ち上がり、美しい顔を歪めて怒鳴り返した。
「あなたたちネルフの人間にッ、使徒と戦ったこともなければ、使徒に愛する人を殺されたこともない人間にッ、戦自にいた人間の苦しみが、分かってたまるもんですか?! ええ! 別にいいわよ! こんなとこ、いつでも辞めてやるわよ!」
 それを聞いたリツコはすかさずミサトの頬を張り倒した。
「見損なったわよ、ミサト! 情けないこと、言わないで!」
「・・・」
 ミサトはリツコに打たれた左頬を押さえながら、俯いていた。
「・・・」
「・・・」
「・・・ミサト、もちろん私たちに、あなたたちの苦しみは分からない。でも、あなたたちの戦いは決して無駄じゃなかった。あの戦いの決定的な敗北は、戦自のハーキュリーズ構想を修正・・」
「修正なんかしてないわ! だから私は絶望して戦自をやめたのよ! 震洋隊が全滅したからって、今ある3つの部隊を使徒戦に回すのよ! また、全滅するわ! 何にも変わってない!」
「それはそうかも知れない。変えるにはまだ犠牲が必要なのかも知れない。でも、あの遠征では、使徒を殲・・」
「分かってるわよ、そんなこと! どうでもいいのよ、そんなことは!」
「ミサト・・・」
「殲滅なんて・・・してもしなくてもどっちでも良かった・・・
 ただ・・・ただ、彼に生きて・・・生きて帰って来て欲しかったのよ!! 私は!!」


 叫んだミサトの頬に流れる涙を見たリツコは、静かに言った。
「ミサト、あなたは分かってない。そのパイロットは、ただ使徒を殲滅しただけじゃなかった。彼は、自分が死んだ後の未来を、自分の人生が終わる最後の1秒まで考えていた。彼は非常に貴重な戦闘データを私たちに遺してくれたわ。昔の戦自なら、諜報でも使わない限り、ネルフはそのデータを入手できなかった。でも、戦自はエヴァ開発のためにそのデータを向こうから提供してくれた。対外的にも、もう隠し切れなかったことだけど、当時ネルフはエヴァ開発に大きく行き詰まっていた。E計画は破綻したとまで言われて、実際に資金の引き上げも一部始まっていた。そのネルフにとって、これは、信じられないくらい大きな収穫だったの。神様がくれたんじゃないかって、思ったくらいよ。その戦闘データのお蔭で、遂に私たちはATフィールドの中和に道筋をつけられた。」
「・・・リツコ・・・本当に、エヴァでATフィールドを中和できるの?」
「できる。今なら、自信を持ってそう言えるわ。その戦闘データがすべてだった。あのお蔭で、私たちはそれまで採用していた理論的前提に致命的な間違いがあることに気が付いたの。この1年、あのデータを元に、ATフィールドの基礎的な解析理論が一から再構成されて、準備作業がすべて完了した。それが今日、実証された。あとは実戦の中で積み上げて行けばいいレベルになったわ。」
「そう・・・」
 リツコの言葉に、ミサトは感動したように、ただ涙を流していた。
 ミサトは、南冥に散ったあの青年が、あの、いつもの笑顔で、自分に、ネルフでエヴァと共に戦えと言っているような気がした。
 夕霧キミオの死は決して犬死にじゃない、自分が犬死ににしてはならない・・・
 ミサトは、そう、思った。そしてそれは、彼の恋人であった自分にしかできないことだと思った。
「それにしても物凄いパイロットね。通常兵器で使徒を倒すこと自体、奇跡的だけど、それだけじゃない。その戦闘の最中に、落ち着いてこんなデータを収集、分析して転送するなんて、天才的だわ。・・・ミサトも知ってたんでしょ、そのパイロット?」
 ミサトは美しく微笑みながら、そして心持ち胸を張って、リツコに言った。
「・・・ええ・・・とてもよく、知っていたわ・・・。約束は守ってくれなかったけど・・・最高にイケてる男だったわ。」
「そう・・・。」
 リツコは何も聞かなかったが、ミサトの頬を流れ続ける涙を見て、すべて分かったような気がした。
「ミサト、そのパイロットの死は、本当に意味のある死だった。決して犬死になんかじゃない。彼の死を生かせるのは、私たちしかいないわ。・・・実はかなり揉めてたんだけど、年明け早々には、いよいよサード・チルドレン、碇シンジ君がネルフに来る。あなたが迎えに行くんでしょ?」
「うん・・・。」
「ゼーレがフォース・チルドレンを出してくるなんていう未確認の噂もあるけど、これで、ネルフとしては、使徒戦に向けたキャスティングが完了したわ。ネルフの葛城ミサトさえ、揃えばね。」
「・・・そうね、リツコ。・・・私、どうかしてたわ・・・。ごめん・・・ありがとう、リツコ。もう、私、大丈夫だから。」
「戦自の鳳雛が、来年はいよいよネルフの鳳凰として羽ばたくのを、期待してるわ。」
「任せといて。それとリツコ、一つお願いがあるんだけど・・・。」
「何?」
「ペンペン、私に、くれない?」
「いいわ、あげる。」
「ありがと。週末にでも迎えに行くから。」
「うん。でも、大切にしてあげてね。」
「もちろんよ。話しかけたら、動くよね?」
「当たり前でしょ。」
「そうよね・・・」
 ミサトは、今はマリコが持っている、キミオが大切にしていたぬいぐるみのペンペンの事を思い出しながら、俯き加減に少し微笑んだ。


 ミサトは、リツコと共に執務室を出ると、旧友に背を向けたまま、言った。
「・・・リツコ、ごめんね。私、ここに来てからずっと、自分がここにいることが夢だったらいいのにって、思ってた。今、私がネルフの作戦本部長やってるなんてこと、全部夢だったらいいのにって、思ってた・・・。そして、あの遠征に行く前の戦自に戻りたい、戻れたらって、願ってた・・・。もしもその願いが叶うなら、もう何もいらないって、そう思ってた・・・。」
「ミサト・・・」
 ミサトは肩を震わせている。リツコは静かにミサトが続けるのを待った。
「何をしても、結局、運命は変えられなかったのかも知れない。何度あの時に戻ったとしても、私たちはやっぱりあの遠征に行って、そして、彼はあの南の海で、私を救うために命を捨てたんだと思う・・・。でも、もう一度あの頃に戻って、あの人にもっとはっきりと伝えたいことがあった・・・。」
「・・・ミサト・・・よくは知らない。そんな人間が口を挟むのはどうかと思うけど・・・。その人はあなたが伝えたいことをちゃんと分かっていたはずよ。そうでなければ、誰も生きる希望を持たなかった戦場で、そのパイロットはあのような奇跡を起こせなかった・・・。あなたを生きて還す奇跡なんて、起こせなかったはず・・・。そう、思うわ・・・。」
 ミサトは俯いていた顔を上げた。
「ありがとう、リツコ・・・。今日、いつもより早いけど、行く所があるから、これで、帰るわ。リツコ・・・私は今日限りで、戦自の葛城ミサトを本当にやめる。今日、ふっ切る。過去を捨てるんじゃない、忘れるんじゃない。過去を一切合財全部、背負い続けて行く覚悟ができたから。明日から私はもう、正真正銘、ネルフの葛城ミサトだから。きっと辛くて、また、泣くだろうけど、過去を振り返って、泣いたりしない・・・明日からは・・・。」
 リツコはミサトの背に向かって優しく微笑んだ。彼女も3年近く前に婚約者と死別していた。ミサトの気持ちはよく分かる。
「・・・ミサト。・・・車に置き傘、ある? 外、雨、降ってるわよ。」
 ミサトは黙って頷くと、執務室を出た。リツコは通路に立ち、肩を激しく震わせながら去っていくミサトの後ろ姿を優しく見つめた。



 ミサトは、青いプリサイトで新横須賀の波止場に向かった。何度かキミオと夕暮れを見た所だ。
 初めてここに来た時、彼は勇気を出してミサトの手を初めて握った。
 ミサトは、あの時から、ふたりは恋人だったのだと思っている。
 短い、恋だったけれど。

 雨が激しく振っている、それでも何人かの作業員が行き交う、夕暮れの波止場。

 ミサトは傘もささず、周りも気にせず、びしょ濡れになって、泣きながら、恋人の散った南冥の方角に向かって、声を限りに叫んだ。

「夕霧君! 夕霧君! 私、もう迷わない!
 あなたにもらった命で、戦う!
 あなたが来るはずだった新天地で・・・ネルフで、戦う!
 キミちゃん、寂しくないよね?
 岡田さんも、やっさんも、おやじさんも、みんなそっちにいるでしょ!
 だから、いつも・・・いつも私を、見守っていて!」



 そして年が明け、第伍使徒サキエルの襲来する約4カ月前。
 2037年1月初旬の昼下がり、人影まばらな第三新東京市環状第7号線の第三新東京市駅に一人の少年が降り立った。サード・チルドレン、エヴァンゲリオン初号機専属操縦者、碇シンジである。
 どこか寂しげなその表情は、彼が決して好んでこの街に来たのではないことを示していた。碇シンジの登場により、ネルフに新たな波乱が巻き起こることになる。



 その頃、ドイツ。ゼーレ本部、幹部用宿泊施設。
 どこか夕霧キミオの面影がある眼鏡の少年が、長髪で無精ひげの青年に問い返した。
「式波アスカ・ラングレー?」
「そうだ、トシ君。ところで君、まだ彼女、いないだろ?」
 夕霧キミオの甥、桜花トシは、右手で寝癖を直すように髪を弄りながら言った。
「勘弁してくださいよ、加持さん。ゼーレなんて周り大人ばっかりなんですから、どうやって彼女なんか、作るんですか?」
「じゃあ、ちょうどいい。」
 加持リョウジは、左の胸ポケットから、人差し指と中指で1枚の写真を取り出すと、少年に手渡した。
「ほら、すごい美少女だろ? いずれ君と一緒に使徒戦を戦うことになるセカンド・チルドレンさ。アスカ暗殺を阻止して、サード・インパクトを目論むMSHPの復活を食い止める、それが俺たち諜報部6人に与えられたミッションだ。」
 少年は、栗色の髪に青い瞳の美しい少女が写っている写真を眺めながら、微かに頬を赤らめて、言った。
「・・・確かに、とてもきれいな、女(ひと)ですね。会ってみたいな・・・。でも、会えないんですよね、加持さん?」
 後に彼は、自分たちがこの時に守り抜いた、この美しい少女と愛し合うことになるのだが、そのことはまだ知らない。
「ああ。フォース・チルドレンとエヴァ伍号機はゼーレの機密事項だからな。君のことはまだ誰も知らない。でも、いずれ会えるさ。俺たちがアスカを守り抜けばな。」
「僕なんて、機密にしてもらうほど、大したヤツじゃないんですけどねぇ。」
「大人の世界は、色々難しいんだよ。俺が教えた中で君ほど出来る奴はいなかった。他の四人もそれぞれ特技を持った最高のメンツが揃ってる。ミッションに必要なものは全部こっちで準備するが、使い慣れてるイリスだけ持って来てくれ。君が守るのは、その美少女だ。それなら、やってもいいだろ?」
 少年は、コーヒーを飲み干してカップを置くと、5本目のたばこの煙を燻らせている師匠に、いつものように、笑顔で言った。
「分かりましたよ。じゃあ、ピアノの練習でもしてきます。」
「射撃の間違いじゃないのかい?」
「多少練習したくらいで、腕前、変わりませんよ。」
「まあいい。出発は明後日の朝4時。俺はこれからパリだ。だから俺じゃなくて、マリアっていうイタリア人の美女が迎えに行くから、そのつもりで。向こうで落ち合おう。」
「はい。でも僕、イタリア語なんて出来ませんし、英語も片言ですけど。」
「彼女は母親が日本人だから、日本語が出来る。」
「そうですか。じゃあ、楽しみにしてます。」
 いつものように笑顔で別れた二人だが、彼らは、とりあえず落ち合うことさえできなかった。どのような運命が彼らの行く先に待ち構えているのか、この時の二人はもちろんまだ何も知らない。



 いずれにせよ夕霧キミオの甥であり、ラクリモーサ本編の主人公であるフォース・チルドレン、桜花トシがゼーレからネルフに派遣され、第三新東京市に来るのは、これからさらに3カ月後、2037年4月上旬のことである。

(南冥のハーキュリーズ/完)




 ※最後までお読みくださりありがとうございました。
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Fin...
(2010.05.01 初版)


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