南冥のハーキュリーズ

第拾壱話 桜の園(後篇:ただ、ありがとう)

presented by HY様


†第三次南極遠征(第三次サンダルフォン戦)U

 ふたりの様子を見た岡田長官は、立ち上がると、ミサトとキミオに声を掛け、デッキの隅に連れて行った。
「夕霧君、葛城君。すべて、君たちの言った通りの展開だ。済まない。だが、君たちをここで死なせるわけには行かない。君たちには人類の未来を守ってもらいたい。司令長官用のヘルメスで逃げなさい。」
「長官!」
 その時、激しい衝撃が空母を襲い、三人は壁に体を強く打ちつけた。岡田は、痛めた左肩を右手で押えながら、言った。
「私は最高指揮官だ。艦隊と運命を共にする責任がある。早く逃げなさい。」
「岡田さん! 私にも筆頭幕僚としての責任があります!」
「これは命令だ。この敗戦の責任はすべて司令長官の私にある。私はあの世で皆に詫びる。君たちの発言はすべて議事録にとらせてある。この遠征の功罪は歴史が裁くだろう。いずれにせよ、これでハーキュリーズ構想は修正を迫られる。人類は再来年に迫った使徒迎撃をいよいよ真剣に考えざるを得まい。これで、いいんだ。」
 ミサトは目に涙を浮かべて叫んだ。
「岡田さん!」
 岡田は、ミサトを助け起こしたキミオに言った。
「夕霧君、早く連れて行け! 時間がない。君は葛城君を守るために戻ったんじゃないのか! わが戦自の誇る龍鳳が残れば、まだ人類に望みはある。」
 キミオは真剣な表情で岡田の目を見つめながら、言った。
「分かりました。ありがとうございます、岡田さん。」
「ふたりとも、幸せにな。」
「はい。」
 キミオはそう言うと、渋るミサトの腕を引っ張った。ミサトはキミオを見た。
 ミサトは、キミオの目に涙が溢れているのを見て、頷くと、涙を浮かべて岡田に言った。
「岡田さん、ありがとうございます。お世話になりました。」
 岡田が黙って頷くのを見たふたりは、急いでタラップを駆け降りた。


 沈みかけた空母の隅では、血まみれのおやじさんが、何やらヘルメスの修理をしていた。
「来たか、ふたりとも。岡田さんに言われとったんやけど、さっき、使徒が噛みつきおったやろ? そのせいでヘルメスのプロペラが2つ壊れてしもた。わしが、1つだけ、今、応急で直しといたから、しばらくは飛べる。キミちゃん、あんたやったら、飛べるやろ?」
「はい。ありがとうございます、おやじさん。」
「おやじさんは?!」
 そう言うと、おやじさんは欄干にもたれかかった。その腹からは大量の血が流れている。
「見たらわかるやろ? わしはもう助からへん。」
「おやじさん!」
 叫ぶミサトの右腕をキミオが掴んで引っ張った。
 ミサトがキミオを見ると、彼は静かに首を振った。
「ふたりとも、幸せになりや! わしくらい、長生きせえよ!」
「ありがとう、おやじさん!」
 ミサトは急いで、おやじさんの所に駆け寄ると、その頬に軽くキスをした。
 おやじさんはニッコリ笑って、言った。
「幸せにして貰いや、ミサちゃん。」
「うん・・・」
「葛城さん!」
「今行く!」
 ミサトが乗り込むと、すぐにヘルメスは浮上した。ふたりに手を振るおやじさんの姿は次第に小さくなって行った。


 ミサトの目からは勝手に涙が溢れ出た。でも、感傷に浸る余裕はない。サンダルフォンのATフィールドはすぐ間近に迫っていた。ハーキュリーズ隊は大半が撃墜され、残り30機余り、護衛艦は7隻、空母は旗艦のほか2隻しか、残っていない。
 ミサトが言った。
「キミちゃん、後ろ! やばい!」
「大丈夫、僕を信用してよ。」
 そう言いながらキミオはヘルメスを宙返りさせてうまくサンダルフォンの攻撃をかわした。
「さすがね、夕霧君。」
「総理大臣より1億倍も大事なVIPを乗せてるからね。死ぬわけにはいかないよ。」
 しかし戦闘機とは異なり、戦闘ヘリのヘルメスは高速ではない。なおもサンダルフォンが後ろに迫った。
 その時、サンダルフォンに対し、旗艦空母ヤタガラスから一斉に艦砲射撃がされた。使徒はヘルメスを捨てて身を翻し、自らに攻撃を加えた旗艦に向かった。圧倒的な強さを誇る生命体は、敵を口にくわえ込むと、そのまま海に潜り、撃沈させた。
 岡田司令長官は空母と共に赤い海に沈んだ。おやじさんも同様だ。
 しばらくして、再び海中から躍り出たサンダルフォンは、ヘルメスを襲った。キミオは左に旋回してこれを交わすが、ぎりぎりだ。もしかすると、知恵を持つ使徒は、後にネルフ作戦本部長として使徒との死闘を繰り広げることになる葛城ミサトの命を奪いたかったのかも知れない。だが歴史は、彼女から恋人を奪う代わりに、セカンド・インパクトのときと同様、この死線から葛城ミサトを人類のもとに再び生還させることになる。
 ヘルメスは必死で使徒から逃れ続けたが、使徒のATフィールドにより後部のプロペラが破損し、ヘルメスは煙を上げ始めた。
 飛行速度の落ちたヘルメスに何度目かの危機が迫った、その時。


 上空から急降下した1機の漆黒のハーキュリーズが、使徒をポジトロン砲で攻撃した。
 キミオとミサトは叫んだ。
「やっさん?!」
「おう、キミちゃんにミサちゃんか。楽園から落ち延びるアダムとイブって、感じだな。あんたたちは、万の軍勢を動かせる玉だ。ここで死んじゃいけねえ。俺が引き付けておくから、何とか生き延びな。」
「やっさん!」
 ミサトは自分たちを守るために戦場に残り、決して倒せない敵に向かっていく同僚の姿を見た。
「それと、ミサちゃん、そいつ、いいやつなんだ。悪いけど、幸せにしてやってくれ。ふたりで、使徒やっつけて、マナを守ってくれよな。じゃ。」
 そう言うと、漆黒の戦闘機は、使徒に攻撃を加えつつ、急上昇していく。サンダルフォンがそれを追う。やっさんは赤い海の奥へとハーキュリーズを駆り、甲使徒はそれを追い続けた。その間にヘルメスは戦場を離脱する。

 ハーキュリーズは逃げ、サンダルフォンは追う。

「やっさん!」

 ミサトが叫んだ時、ポジトロン砲とN1爆雷を撃ち尽くした漆黒のハーキュリーズは、最後に、サンダルフォンに特攻攻撃を仕掛けた。

 しかし黒い戦闘機は、ATフィールドを破ることができない。

 ハーキュリーズは光の壁に激突し、そして爆発した。

 ミサトが右横の操縦席を見ると、キミオは涙を流しながら操縦桿を握っていた。
 その横顔を見ながら、ミサトが尋ねた。泣き声だ。
「夕霧君・・・私たちに・・・守られる価値なんて、あるのかな・・・。」
「それは、僕たちのこれからの行動次第さ。僕たちは生かされた。僕たちを生かそうとして死んで行った人たちのために、僕たちは生き抜かなきゃいけない。そして勝たなきゃいけない。何があってもね。」
 やがて、ヘルメスは、煙を上げながら、EU艦隊の旗艦空母ジャン・ポール・サルトルに何とか着艦したが、ミサトとキミオが飛び降りると、やがて炎上した。
 空母の上には、護衛用か、弾薬補給のために戻っていたのか、ハーキュリーズが1機あるだけで、他には何もない。出撃したハーキュリーズ隊はほとんど撃墜されたのだろう。
 ミサトとキミオは友軍の艦長と将校らに挨拶をすると、自分たちを逃がすための、仲間たちの最後の奮闘を見ていた。戦自兵が長く戦えば戦うほど、友軍の逃げられる確率が高まる。
 ふたりは、決して勝つことのできない戦いで散っていく戦友たちの姿を目に焼き付けていた。


 ミサトは右隣りに立つキミオに言った。
「さっき聞いたら、ロシア・新国連艦隊は乙使徒の攻撃により全滅、その後、乙使徒は消息不明だって。」
「生き残れそうなのはこのEU艦隊だけか・・・。艦長の話では、あのハーキュリーズはポジトロン砲が1つ壊れたようだね。今、直すことはできないらしいけど。」
「夕霧君、やっぱりハーキュリーズじゃ、全然歯が立たなかった。完敗ね。これほどまで力の差があるとは思わなかったわ。」
「いや、今回の遠征を無駄にはしないよ。ATフィールドについて分かったことが幾つもある。ハーキュリーズでも、何とかあの使徒を倒すことはできるかも知れない。他の使徒は、知らないけどね。」
「え?!」
「僕が会議中によく君の隣で居眠りしてたのは、二日酔いの日もあるけど、大抵は徹夜でATフィールドの研究をしていたからだよ。」
 キミオは腰からフォルトゥーナを取り出すとそれを開いた。待機画面には、いつか波止場で撮影されたミサトの写真が用いられていた。それに気付いたミサトは、少し赤くなって言った。
「夕霧君、私の写真なんか、待機画面に使ってんの?」
「ごめん、許可なしで使わせてもらってた。肖像権侵害かな・・・。」
 そう言いながらもキミオは、何やら計算ソフトを使って複雑な計算をしていた。
「キミちゃん、あなた、戦闘中にそんなデータ取って、解析してたの?」
「作戦指揮は君に任せていたからね。」
「今更だけど、また、ちょっち、見直したな。」
「ありがとう。でも、さすがにもう、見直す余地、ないんじゃない?」
「・・・そうかも、ね・・・。」
「・・・うん、大体分かったよ。」
「何が?」
「使徒の倒し方さ。」
「ハーキュリーズで?」
「うん。もしコアってものを破壊することで使徒を殲滅できるっていう僕たちの仮定が、正しければね。もし違ってたら負けるけど。」
「あなた、まさかこれから行くんじゃないでしょうね?」
「行かないよ。せっかく助けてもらったんだから。でも、ハーキュリーズじゃ、やっぱり人類は救えない。」
「あなた、今、倒せるって、言ったばっかじゃない?」
「僕ぐらいの操縦ができて、しかもアクロバティックな方法でないと倒せないからね。そんな綱渡りは到底、続かないよ。」
 キミオは、ハーキュリーズで使徒を倒すためには、そのパイロットが命を捨てなければならないことについては言わなかった。
 彼は、遥か後方で自分たちを生還させるために死んで行く戦友たちの姿を見ながら、言った。
「葛城さん、裏死海文書とか言う予言書によれば、再来年には使徒が襲来する。あと1年余りで可能な技術革新は限られている。今日の戦闘で分かったことは、もう今となっては、もし人類に未来があるとすれば、戦自が捨てたE計画しか頼れるものはないって、ことさ。」
「ネルフね・・・。」
「うん。僕は、生きて帰って、この遠征で亡くなった戦友たちのために、新天地のネルフでリベンジする。葛城さんにも・・・一緒に、来て欲しいんだ。」
「夕霧君。・・・もしもE計画が正しかったのなら、ハーキュリーズ構想の意味は一体何だったの? 私たち戦自がやってきたことに何の意味があったって言うの? 今日、私たちを生かすために死んでいった、たくさんの仲間は、いったい何のために・・・」
 ミサトは涙で言葉を途切らせた。
「葛城さん。今はまだ分からないよ。でも、もし彼らに生かされた僕たちの力で人類を救うことが出来たら、誰もがきっと彼らに感謝するだろう。人類の未来を守ったのが彼らだと、そう、胸を張って言ってもらえるように、僕たちの力で歴史を繋がなければいけない。」
「・・・」
「葛城さん・・・」
 その真剣な表情を見たミサトは、キミオが言おうとしていることが分かった。
 しかし彼女はもう、止めたりはしなかった。
 彼の真剣な愛の言葉を聞きたかった。
 キミオはミサトを優しく見つめながら言った。
「僕には好きでたまらない女性がいる。知らないといけないから、一応言っておくと、その女(ひと)のイニシャルはM.K.だ。僕たちを生きて還すためにここで亡くなった戦友たちのためにも、僕は幸せになりたい。その女(ひと)を幸せにしたい。だから、生きて厚木に帰って、たとえその人が嫌だって言っても、僕は無理やりにでもその人と結婚して、家庭を持つ。来年の1月22日を迎える前にね。そして、家族を守り、人類を守るために僕は戦う。死んだ兄さんの分もね・・・。ネルフの碇司令は、君のことを買ってる。葛城さん、君にも一緒に、ネルフに来て欲しいんだ。」
 ミサトは恥ずかしそうに言った。
「・・・やだ・・・泣いてばっかりで、化粧、落ちてる・・・」
「葛城さん・・・。回りくどいことばっかり言ってるけど・・・岡田さんや、おやじさんや、やっさんが言ってたこと、勘違いじゃなかったらいいなって、思ってるんだ・・・。」
 ミサトは長い藍色の髪を右手でかき上げながら、頬を少し赤く染めて、恋する若者に言った。
「夕霧君・・・勘違いじゃないわ・・・。その女の人は嫌だって、言わないと思う・・・。だって、その人もきっと、あなたのことをずっと本気で好きだったと思うから・・・。でも、ネルフに行くのは、ちょっち、考えさせてあげて・・・。だってその人、ある人に会ってから、もう軍人やめて、家庭に入るのもいいかなって、思うようになったみたいだから・・・。料理も掃除も下手だけど・・・。何、食べさせられるか、分からないけど・・・ほんとに・・・そんなんで、いいのかしらね・・・。」
 ミサトは少し恥ずかしげに言うと、美しく微笑んで、若者の笑顔を見た。


「葛城さん・・・僕は・・」
 若者は弾けてしまうくらい嬉しそうに微笑んで何か言ったが、その声は、遥か彼方で起こった激しい爆音と空母ジャン・ポール・サルトルに鳴り響いた警報のためにかき消された。
 ふたりにはサンダルフォンが艦隊を猛追してくる姿が見えた。使徒は、戦場にとどまった戦自の艦隊を全滅させ、赤い海を離脱しようとする残りの侵入者を次の攻撃目標と定めたのだろう。
 迫って来る使徒の姿を見たキミオは、寂しげに言った。
「嬉しくて堪らないよ、葛城さん。もちろん何でも食べるさ。たとえ毒が入ってたって、その人が作ってくれた物なら・・・。人間、慣れれば大抵の物は食べられるからね。」
 しかし、キミオは溜め息混じりに、続けた。
「・・・でも、その、世界で一番幸せな奴に、最後に一仕事、割と厳しいのが、降って来たみたいだ。」
 ミサトは絶望して言った。
「・・・サンダルフォンの海から離脱するまで、あと15分・・・。」
「うん。葛城さん、このままじゃ、この艦隊も全滅する。全員が死ぬ。だけど、幸い、僕たちにはなけなしのハーキュリーズがまだ1機だけ残っている。」
「夕霧君?! ハーキュリーズじゃ使徒には勝てない! あなたでも無理よ! 分かってることでしょ?! 相手は使徒なのよ! どうやって、ATフィールドを破るつもり?! それにあれ、故障してるんでしょ?!」
 空母を飛び立ったハーキュリーズ隊約400機はたった二体のサンダルフォンの前にすべて撃墜された。やはり戦争などさせては貰えなかった。もう一機も空を飛んでいない。誰がやっても同じことではないか。
「さっき、ちらっと言ったよね。今日、気付いたことがある。ATフィールドの展開強度はいつも一定じゃない。展開を切り替えるような瞬間があるんだ。だから、僕なら、かなり頑張れば使徒を倒すことは可能だよ。」
「でも!」
「僕は死ぬつもりはないよ。幸せになりたいからね。あと15分くらいなら時間は稼げる。うまく上空に引きつければ、その間に艦隊は赤い海を離脱できるし、僕も逃げ切れる。ここで、みんなで死ぬのは、最悪だからね。まだ賭けてみる価値はあるさ。第二京都大学作戦科、最下位卒業の意地に賭けても、僕は葛城ミサトを守る。」
 もちろん、この若者にも、不可侵海域からの撤退に勝算があるわけではなかった。本当に使徒は青い海に入れば、もう追っては来ないのか。戦自では青い海に入れば使徒が引き返すという前提で作戦が立案されていたが、キミオはその前提に相当疑問を持っていた。だから、もし使徒が赤い海を越えて艦隊を追尾する場合には、使徒を殲滅する以外に助かる道はない。でもキミオは、その場合であっても、彼の計算通りなら、使徒を殲滅出来ると思った。自分が命を捨てさえすれば・・・。
 しかしいずれにせよ、ここで座して、恋する女性と共に絶望していても、死ぬことは明らかだ。出撃するしかない。夕霧キミオは、戦って葛城ミサトを守りたいと思った。そしてもしも許されるなら、自分も生きてミサトの元に戻りたいと思った。そして世界で一番幸せな男になりたいと思った。
「夕霧君、私も乗る。」
「あの狭いコクピットで君とピッタリくっついていられるのは、願ってもないことだけどね。あれ、一人乗りだし、二人乗ったら操縦なんてできないよ。」
 ミサトは真剣な表情でキミオに言った。
「夕霧君・・・じゃあ、一緒に・・」
 キミオは、寂しげな微笑みを浮かべながら、首を振った。
「だめだよ、葛城さん。僕、まだこの世に未練があるんでね。」


 しかし若者は、もう自分が最愛の女性のもとに生きては戻れないことを感じていたのかも知れない。きっと彼は、自分の長くはない人生がもうすぐ終わることを、覚悟していたのだろう。

 若者は、赤い海の上に広がる青い空と白い雲を見上げながら、静かに言った。

「南冥にたとえこの身は果つるとも、幾年(いくとせ)後の春を思えば。」

「・・・え?」
「僕の好きな、昔の戦士の辞世の句。今の僕の気持ちさ。もう日本に春はほとんどないけどね・・・。」
「夕霧君・・・」
 ミサトは涙を浮かべて若者を見た。ミサトには、出撃しようとする目の前の青年が生還できるとは思えなかった。その若者は、ただ自分を守るために死のうとしているように感じた。
「葛城さん・・・僕は、たとえ死んでも、君だけは守って見せる。」
 ミサトは叫ぶように言った。
「夕霧君。死んだら、一生、絶対許さないわよ!」
 ふたりは見つめ合った。
 最後の戦いに赴く若者は思わず、恋する女性を力強く抱き締めた。
 ミサトも、そうして欲しかった。そしてこのままずっと時が止まればいいと思った。この青年は明らかに自分に恋していた。出会った日からずっと自分に真剣に恋していた。大人だから、それくらい勿論分かる。でも恋愛恐怖症に苦しんでいたミサトが分かっていなかったのは、自分自身の気持ちだった。本当は自分も彼のことが好きでたまらなかった。彼女も彼に恋していた。いつしか本気で恋していた。彼女はそれを頭で認めていないだけだった。そのことがさっき、はっきりと分かった。
 キミオは、恋する女性の温かくて柔らかい体を、体全体で感じながら、その腕の中にしっかりと、でも優しく抱き締めながら、言った。

「葛城さん、君に会えて、良かった・・・。」

「私も・・・。」

 ミサトは、キミオの胸にその美しい顔を埋めていたが、やがて顔を上げた。

 そして、藍色の髪の美しい女性は、涙を流しながら優しく微笑んで、自分に顔を近づけて来る若者の唇に、自分の唇を重ね合わせた。

 最初で、そして最後となる、長い接吻が終わると、ミサトはキミオの大好きな微笑みを浮かべながら言った。

「夕霧君、必ず生きて帰ってきてね。・・・続きは、厚木でやりましょ。楽しみにしてて。」

「ありがとう、葛城さん。最高だよ。生還するための究極のインセンティブだね。」

「お願い、約束して、夕霧君。生きて帰って来るって・・・。
 もう私を、一人にしないで・・・。そして私を・・・幸せに、して・・・。」

「うん、約束するよ、葛城さん。意地でも、生きて帰るさ。」

「じゃ、待ってるわ、夕霧君。」

「じゃ。」
 


 キミオは、使徒の姿を見ようと甲板に出て来た艦長に事情を説明して了解を取り、白いヘルメットを借りて被ると、真っ白なハーキュリーズのコクピットに乗り込んだ。

 コクピットの中で、若者は、恋する女性に、軽く手を振った。

 それが、葛城ミサトが夕霧キミオの姿を見た、最後になった。

 戦略自衛隊の採用した対使徒戦用特殊戦闘機、ハーキュリーズ。

 その最後の一機が、赤い海に浮かぶ空母を飛び立った時、それを見送るミサトの藍色の長い髪が風になびいた。
 
 真っ白な戦闘機は優雅に舞うと、ジャン・ポール・サルトルの背後に迫って来た、巨大な生命体に向かった。やがて両者が遭遇すると、ハーキュリーズは砲撃を加えてから急上昇を始めた。サンダルフォンは、最後の無駄な抵抗を始めた小さな戦闘機に噛み付こうと、強固な光の壁を武器として、激しく空中を動き回った。

(さすが夕霧君ね、ギリギリのところで攻撃をかわして引き付けてる・・・。
 これなら、いけるわ。)

 キミオは追尾させたサンダルフォンを連れて高度をひたすら上げた。彼としては、上空に使徒を引きつけて、艦隊が赤い海を離脱した後に、自分も離脱して生還するつもりだったろう。キミオの思惑通り、使徒は小癪なハーキュリーズを猛追した。
 しかしやがて高度3000mを超えた辺りで、サンダルフォンはそれ以上浮上せず、素早く引き返した。キミオはそれを追いながら呟いた。

「一応、成功だ・・・。艦隊は赤い海をあと約5分で離脱できる。赤い海で引き返してくれればいいんだけどな・・・。」
 

 高速で不可侵海域を離脱しようとする遠征艦隊。
 ミサトの目に映る戦闘機と使徒の姿は次第に小さくなっていき、やがて見えなくなった。
 あと数分で赤い海を離脱できる。青い海に戻れば、もう使徒は追尾してこないはずだ。
 白いハーキュリーズが上空に使徒を引きつけて、艦隊から遠く離すのに成功すると、乗組員が歓声を上げて、誰が始めたのか、一斉に拍手を始めた。

 助かった・・・。

 残存艦隊の誰もがそう思った。

 やがて、艦隊が赤い海を離脱し、青い海に入ると、艦船の乗組員からは再び一斉に歓声が上がった。

 生き延びた・・・。生きて帰れる・・・。

 誰もがそう思い、死の恐怖から解放されて、笑顔で生の喜びを噛み締めていた。

 しかしミサトは緊張した面持ちで、ただ、青い海の上、千切れ雲の間から、あの白いハーキュリーズが戻って来る、その瞬間を待っていた。ハーキュリーズが撃墜された様子はなかったが、遠方であったために気付かなかった可能性は否定出来ない。

(夕霧君・・・お願い、無事に戻ってきて・・・。)

 しかしやがて、千切れ雲の間から姿を現したのは、ハーキュリーズではなく、灰色の生命体だった。サンダルフォンは、再び上空から飛来し、艦隊の後方から、逃走する艦隊を猛追し始めた。

「! もう青い海にいるのに・・・まさか・・・。夕霧君は・・・?」



 やがて使徒は赤い海を離脱したが、それでもなお、逃走する艦隊に追いすがった。

!!!

 追走する灰色の使徒の姿を見た誰もが驚愕し、絶望した。
 このままではさっきと状況は変わらない。艦隊が全滅する。
 ミサトはジャン・ポール・サルトルの欄干に立って、迫って来る生命体の姿を見た。護衛艦が必死で艦砲射撃を続けるが、サンダルフォンのATフィールドの前に無効化されていた。サンダルフォンは海中に潜ると、一隻の護衛艦を口にくわえて浮上し、噛み砕いて爆発させた。
 戦う術を持たない人類は、ただ、圧倒的な力の差の前に、為す術もなく命を奪われて行く。
 ミサトは静かにその様子を見ていた。ミサトは絶望していた。仮に生きて帰れたとしても、使徒が襲来したら、一体どうやって戦えばいいのか。2023年12月23日のセカンド・インパクトから14年の猶予を人類は与えられたが、その後12年の歳月を費やして完成された究極の通常兵器ハーキュリーズは、無残なまでに敗退した。


 サンダルフォンがミサトの乗る空母に目を付けたのか、その後を追い始めた時、真っ白な戦闘機が上空から急速に降下する姿が、彼女には見えた。

 ハーキュリーズだ。

「夕霧君・・・」

 ミサトは、半分、嬉しそうな、でも半分は悲しそうな微笑みを浮かべて、恋人の名を呟いた。

 彼女には、そのハーキュリーズが再び現れるであろうことが分かっていた。

 そして、その真っ白な戦闘機が、これから自分の目の前で、するであろうことも・・・。


**********flashback/E**********


 2036年12月初旬の昼下がり、人影まばらな第三新東京市環状第7号線の第三新東京市駅に一人の女性が降り立った。明日からネルフ看護師長となる八重山マリコである。彼女はゆったりと階段を下りて改札口を出ると、迎えを待った。
 彼女が降りて30分以上経った頃、青い乗用車が激しい音を立てて静かな駅前に止まった。運転席から飛び降りた美しい女性は言った。
「ごめんなさい、マリコさん! 遅れちゃって!」
「いえいえ。」
「さ、どうぞ。」
 ミサトはマリコを助手席に乗せて、ネルフに向かった。
「青いプリサイト。偶然ですか、葛城さん?」
「え? いえ、夕霧君が買うならこれだって、言ってたから・・・これにしたんです。」
「ふふふ・・・。あの人、まだ持ってなかったんですね。何年も前から、買いたいっていってたのに・・・。」
「私も・・・ローンですけどね。」


 一週間後、ネルフ。
 リツコがミサトの執務室に現れて言った。
「ミサト。本当にいい人を紹介してくれたわ。まだ一週間だけど、評価は抜群。上は信頼し、下からは頼られている。マリコさんなら、行ける。よくあんな人、いたわね。それによくウチなんかに来てくれた。いつ死ぬか分からないのに。」
「ある人が引き合わせてくれたの。・・・きっと、私がここで仕事をするために、必要な人だったから、かもね・・・。」
 ミサトは、机の上の使い古されたルービック・キューブを掌の上でクルクル回しながら、言った。


**********************
次回、最終話「逢いたくていま」

夕霧キミオ
「でも僕は、ずっと君を守り続ける。光になり、風になり、雨になって。」



To be continued...
(2010.04.17 初版)


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