南冥のハーキュリーズ

第拾話 桜の園(前篇:Picture Perfect)

presented by HY様


†第三次南極遠征(第三次サンダルフォン戦)T

 ある日、ネルフ。
 作戦本部定例会議。ミサトが議事進行をしていた。
「では、今日の最後の議題、人事部からの照会で、看護師長代理選任の件。ごめんなさい、この件、調べとくの忘れたんだけど、どんな継続案件?」
 ミサトが傍らのリツコに尋ねた。
「ああ、これね・・・。ネルフの職員数は現時点で3万人を超えているけど、使徒戦前の今でさえ医療体制に不安があるの。まさにネルフの鬼門の1つね。ウチで一番うまく行っていない1つが看護師なの。ウチは所詮、寄せ集めの新興組織。医師は優秀な人材を揃えた。その分、技術的レベルも高いし、要求水準が高いのよ。寄せ集めの看護師をうまく使いこなせるだけの人材がいない。板挟みに苦しんで、ネルフ発足後の六年で看護師長は十名近く交代になった。今後、使徒戦が始まれば、負傷者も急増するはず。由々しき事態なんだけど、人材がいないものはいないんだから、仕方ない。ずっと責任者不在のまま、棚晒しってわけ。」
 いつものポーズで座ったままのゲンドウの隣で、冬月が口を挟んだ。
「確かに、出自も様々な看護師たちを押さえながら、あの医師たちとの間に入って激務をこなすのは大変だ。この前の看護師長も過労で倒れて退職した。使徒戦が始まる前からこれじゃ、目も当てられんな。」
 リツコはため息をつきながら言った。
「看護師たちはだいたい若いし、激務だから、看護師長も若手で優秀な人、そして何よりも芯が強くて使命感を持った人、そんな人がいたら、いいんだけど・・・。」
 ゲンドウはいつものポーズのまま、ミサトに尋ねた。
「葛城三佐、待遇は戦自の倍、出そう。戦自から引き抜けないか?」
 ミサトはしばし考えていたが、やがて言った。
「心当たりがあります。」


 その週末の夕方、佐世保。
 ハンバーガー店パラダイス。
「マリコさん、お久し振りです。」
「葛城さん、お久し振り。お元気ですか?」
「ええ。」
「あの後、戦自をやめはったって、聞きましたけど・・・」
 マリコと呼ばれる女性は京都弁で話す。
「そう。でも、今は似たような職場にいるんです。」
「今日は、お仕事で来はったんですよね?」
「そう。実はマリコさんに、お願いがあって来たんです。」
「え? 私に?」
「そう。」
「私は、看護師しか、できませんけど・・・。」
「そう、あなたにしかできない仕事をして頂きたいの。マリコさん、夕霧君は・・・使徒という生命体との戦いで戦死しました。その使徒を倒して人類を救うための組織に私はいます。マリコさんに、第三新東京市で看護師長をやって頂きたいの。・・・使徒戦で死ぬかも、知れませんけど・・・。」
 マリコは少し驚いたような顔をしたが、それには直接答えなかった。
「・・・私、あの時、ペンペンだけ頂いて、厚木から帰りました。・・・キミオさんの最期のこと、知りたいんです・・・。話してくださいませんか・・・?」
 ミサトは寂しそうに微笑みながら言った。
「・・・分かりました。でも、場所を変えましょ。」
 ミサトは本当に失語症を克服できているかどうか、自信がなかった。戦自の上層部には仕事として文書で報告はしたが、三次遠征の真実については、まだ誰にも言葉で語ったことがなかった。それが自分にできるのか、ミサトには自信がなかった。でも、もし最初に語るべき者がいるとすれば、自分と同じ若者と恋をしたことのある、この女性しかいないと思った。
ミサトは、店を出ると、ハンドバッグに忍ばせたルービック・キューブを秘かに握り締めた。


 佐世保にあるバー・ハバスパイ。
 薄暗い店のカウンターの片隅で、隣り合う二人の女性。

***

「ごめんなさい・・・ちょっと、お化粧、直してきます。」
 ミサトが話し終えると、マリコはお手洗いに行くといって席を外した。ミサトはハンカチで涙を拭った。彼女は語り切った。彼女が、あの遠征の話を、あの南冥に散った青年の話を、他人にしたのは、これが初めてだった。あの青年の戦死と自分の思いを語るという行為は、ミサトの胸を改めて深く抉った。努めて平静を装っていたミサトも、マリコの啜り上げる姿を見て、話の途中で涙を流し始めた。ミサトはもう一度、涙を拭くと、顔を上げて、マスターに注文した。
「すみません、ソルティー・ベアー、下さい。」
 ミサトがカウンターに置かれたカクテル・グラスを口に運んで、コースターに静かに置いた時、マリコが戻った。
「葛城さん。・・・私がネルフに行くことは、キミオさんが望んでることですよね?」
「もちろん。だから、マリコさんに声を掛けたんです。」
「分かりました、葛城さん。ほな、私、第三新東京市に行きます。」
「ありがとう、マリコさん。」
 ミサトがマリコに手を差し出すと、マリコはその手を握り返した。二人の美しい女性は涙を浮かべたままの瞳で、微笑みあった。


 翌朝、長崎空港を飛び立った、第三新東京市に向かう帰りの飛行機の中。
 ミサトは、窓際の座席に腰掛けて、澄んだ蒼い空と白いちぎれ雲を見た。
 あの遠征の最後の日も、海は赤かったが、こんな空だった。遠征中でなければ心が弾むような空だった。ミサトは窓を見ながら、目から再び涙が溢れ出てくるのに気づいた。そして、マリコとの不思議な縁を思った。
 そう、ミサトが彼女と初めて会ったのは、キミオが新国連に一時派遣されたすぐ後だった。
 そして、第三次南極遠征が敢行されたのも、それから間もなくのことだった。


**********flashback/S**********


 キミオが震洋隊を去り、カシミールの新国連部隊に派遣されてから数日後の夕方、ミサトが仕事を早めに切り上げて寮に戻ってくると、キミオが住んでいた1107号室の前に、自分よりやや年上に見える長髪の女性が立っていた。女性は携帯用にしては大きめのスーツケースを持ち、丈の長い薄紫色のワンピースを着ていた。女性はミサトに気づいて、ミサトのほうを見た。ミサトよりも少し小柄だが、他人の空似と言おうか、ミサトはその女性が自分と少し似ていると思った。
「あの・・・すみません。私、八重山マリコと申します。夕霧キミオさんがここにいらっしゃるって聞いてきたんですけど、ご存じないでしょうか・・・?」
 マリコという女性は、必死と言っていいほどの真剣な表情で尋ねた。彼女の京都弁は柔らかく聞こえる。
「え? 私、夕霧君の同僚ですけど、彼、海外に一時、配属になって、先週、引っ越したんです。」
 戦自の規定で、三ヶ月以上不在とする場合には寮を引き払わねばならない。キミオは本などを実家に送り、酒やグラスなど身の回りの物をミサトに預けて行った。
「え?!」
 それを聞いた女性はひどく驚き、途方に暮れたような落胆の表情を浮かべた。ミサトは格別鋭いほうでもないが、普通に敏感である。その女性が、不在の青年と浅からぬ関係にあるであろうことは容易に理解できた。
「あの・・・キミオさんの連絡先、ご存じないでしょうか・・・?」
「詳しいこと言えないんですけど、彼、電波なんて届かない紛争地帯に派遣されたんです。軍の公式な連絡くらいしか出来ませんから、しばらく私信は無理だと思います。」
「・・・そう、ですか・・・」
「でも、彼、半年くらいで帰ってくると思いますけど。」
「・・・はい・・・」
 心優しい藍色の髪の女性は、初めて出会ったこの女性を気の毒に思った。
「私、葛城ミサトって言います。よかったら、これから一緒にお食事しません? 私、夕霧君の友達なんです。彼の話、あなたとしてみたいから。」
「え? は、はい・・・。」


 厚木の繁華街にある多国籍料理店アトランティスで、二人の美しい女性が向かい合っていた。
 マリコの話によると、京都出身の彼女は、佐世保の戦略自衛隊付属病院で看護師として勤務していたが、キミオが数年前に戦争で負傷して、リハビリを含めて二ヶ月ほど入院した時に彼を担当した看護師であった。マリコは、いつもにこやかに話し掛けてくる患者とごく身近に接しているうちに、いつの間にか彼と親しくなった。彼女は、5年以上交際した婚約者との結婚を半年後に控えていたが、そんな時、2つ年下のキミオと出会ってしまったのである。
 ちょうど遠距離恋愛の婚約者とうまく行っていなかった時期でもあり、彼女はキミオに魅かれてつい交際を始めてしまったのだが、婚約の破棄も含めて悩みに悩んだ末、結局、キミオと別れ、婚約者との結婚を選んだ。しかし幸せにはなれず、DVに苦しんだ挙句、別居して1年ほど前に離婚した。絶望に暮れていた彼女がいつも思い浮かべていたのが、数ヶ月の間だけだったが、かつて自分が一緒にいてとても幸せだと思った、あの優しい青年のことだった。彼女は、その青年の消息を尋ねて、この厚木に辿り着いた、というわけである。
「私・・・ほんまはキミオさんが好きやったのに・・・。結婚式の日もキミオさんのこと、考えてたんです。ほんまにこれで良かったんかなって・・・。キミオさんやったら絶対、私を大切にしてくれるって分かってたのに・・・。結婚してからもずっと・・・。でも、これでよかったんやって、いつも言い聞かせてたんです・・・。幸せな結婚やったら、そんなこと、なかったんでしょうけど・・・。でも、キミオさんに初めて会った時はもう、結婚式の日取りも決まってましたし、式場も予約して、案内状も送ってましたし・・・。」
「恋愛って、順番が大事ですよね・・・。私も夕霧君と会う前に失恋してなかったら、案外、夕霧君と恋人になってたかも知れない・・・。」
「葛城さんって、キミオさんの・・・」
「違うわよ。誤解してる人、多いんですけど、職場も寮も同じだから、一緒にいることが多かったっていうだけ。いい友達だとは思ってますけど。」
「・・・そうやったんですか・・・。実は私、1ヶ月ほど前に一回、厚木に来たことがあるんです。私、看護師の仕事に誇りを持ってるんです。キミオさんの時も一生懸命、仕事しました。そやから、仕事に打ち込んで、乗り越えよって思ってたんですけど、どうしても出来ひんで・・・。キミオさんにお会いするだけでも、何かあの笑顔で面白い冗談でもゆうてもろて、もしかして慰めてもろたら、もう一回元気、取り戻せるかなって・・・。それで、少しだけでもお話したい思て、寮の玄関で待ってたんですけど、キミオさんが葛城さんと楽しそうに帰って来はるん見て、てっきり葛城さんと・・・その・・・付き合ったはるんか思て・・・つい、隠れたんです・・・。ご迷惑かって思ったんですけど・・・でも、やっぱりどうしてもお会いしたあて、また来てみたんですけど・・・」
「大丈夫。彼は必ず生きて帰ってくるから。彼、そんな風に見えないでしょうけど、戦自史上最高の天才幕僚って、言われてるんですよ。」
「そうなんですか・・・。」
「私、実は彼に会うまで、自分に結構、自信があったんです。でも、一緒に仕事してて、分かったんです、自分は普通だって。」
「へーえ。」
「まあ、アイツが、タダモンじゃないだけってこともありますけど。常識を知らないっていうか、頭が柔らかいって言うか、まさに戦争するために生まれて来たようなヤツね。」
「虫も殺せない、あの人が?」
「ふふ、彼って、蚊がとまっても殺さないで追い払いますもんね。でも戦争は違います。だから・・・」
 ミサトは遠征に生かせなかった。でも彼女は、何も言わなかった。葛城ミサトは、夕霧キミオを人類の切り札として遺し、自らが捨て石になる覚悟だった。でも、それをキミオのかつての想い人に飲みの席で言ってみたところで、何も始まるまい。
 もうすでに、ミサトとキミオの関係を、マリコは感じ取っていたのかも知れない。彼女は言った。
「キミオさん、世界を救うとか大きなこと言うたはりましたけど、仕事の話なんて、ほとんどしいひんかったから、全然、知りませんでした。とっても優しいて、面白い人やってことしか、知りませんでした・・・。」
「彼・・・らしいわ・・・。」
 ミサトは優しく微笑んだ。


「ほな、今、キミオさんはどなたとも、お付き合いしたはらへんのですか?」
「彼女なんて、いない、いない。まあ、彼のプライベート、全部知ってるわけじゃないけど・・・」
 そう言いながら、ミサトにしてみれば、キミオが自分に恋していることは、彼がこの7月に配属されて以来、はっきり分かっていることだった。彼は忙しかったし、暇さえあればミサトと一緒にいたがり、実際にそうしていたから、交際している女性など、物理的にいるはずがない。
「ところで、もしかしてマリコさん、ペンペンって、知りません?」
 マリコは顔を真っ赤にして俯き加減で答えた。
「え? ペンペン? ・・・知ってます。キミオさんが佐世保にいはった頃、私とキミオさんが最後にデートした水族館で、キミオさんに私が買ってあげたぬいぐるみです・・・。」
「そう・・・」
 その後も、この二人の初対面の美しい女性は、キミオの話題を中心に話を続けた。二人とも、同じ若者が恋した女性であるためか、美しく、心もきれいな女性であることが共通していた。そのためか、二人は出会って短時間で、心を通い合わせることができた。


「葛城さんて、面白い人ですね・・・。あの、一つだけお聞きしても、いいですか?」
「どうぞぉ。」
「葛城さんって、私なんかより、よっぽどようキミオさんのこと、知ったはります。思ってあげてるような気がします・・・。葛城さん・・・ほんまはキミオさんのこと・・・好きなんや、ないですか・・・?」
「・・・え?!」
 ミサトは驚いたような顔をして、少し頬を赤らめると、俯き加減で、小さな声で言った。
「・・・そうかも・・・知れない・・・。もし・・・もし、そうだったら・・・ごめんなさい・・・マリコさん・・・。」
「いえ、お話、聞いてて、分かったんです・・・。キミオさん、葛城さんのこと、本気で好きなんやなって・・・。私と交際してた頃のキミオさんみたいやから・・・。でも、いいんです。あの人が昔のまま変わってへんって、分かりましたから・・・。そのことが何か、とても嬉しうて・・・。また、お会いできるって分かっただけで、それで・・・。」
 しかし、マリコは結局、キミオと再会することはできなかった。そして後に、この女性は、三次遠征から生還してネルフに入った葛城ミサトの願いを入れ、看護師長としてネルフの後方を支えることになるのだが、この時のミサトはもちろんそのことを知らない。


 それから数日後。
 遠征前最後の戦自・統合幕僚会議幹部会が行われる前、3人の将校が立ち話していた。
「聞いたか? 万田長官が緊急入院されたそうだ。人事不省らしい。」
「ああ、間違いなく過労だな。」
「それじゃ、遠征は?」
「友軍のことを考えても、この土壇場で今更、延期は無理だな。」
「じゃあ、司令長官はどうなる?」
「岡田さんしかいないだろう。」
「そうだろうな。万田さんは命拾いしたってわけか・・・まあ、戦自にとってはいいんだろうけどな・・・。」


 2035年12月1日、岡田タスク司令長官は、葛城ミサトを筆頭幕僚として、戦略自衛隊第百部隊・震洋隊を中心とする約5万人の戦自の艦隊を率い、新横須賀港を出港した。途中、約5万の兵を擁する米、中、露、EU、新国連の艦隊と合流し、約400機のハーキュリーズを搭載した40隻の空母と約80隻の護衛艦からなる日、米、露、中、EU、新国連の大連合艦隊は、使徒が支配して久しい赤い海へ三度目の侵攻を開始した。第一艦隊の旗艦は空母ヤタガラスである。
 連合艦隊は赤い海を前にして1週間の調査活動と偵察行動を取ったが、使徒は発見されず、作戦は第二フェーズへと移った。


 連合艦隊は遂に赤い海へと侵攻していく。
 ある日、ミサトは緊張した面持ちで、艦橋で指示していたが、岡田が言った。
「葛城君、ご苦労。昼まで休憩してくれ。」
「はい。」
 ミサトは、自室に戻ると、ベッドに仰向けになって天井を見た。
(夕霧君・・・今、どこで、何してんのかな・・・。
 いざ、そばにいなくなると・・・こんなに・・・こんなに、寂しいのね・・・。
 この半年くらい、いつも一緒にいたから・・・。
 夕霧君がいないってことが、こんなに寂しくて、辛いなんて・・・。
 ああぁ、使徒なんか放っといて、カッコつけずに、自分の幸せだけ、考えてれば良かったかな・・・。
 夕霧君が言ってたように、あの時、ふたりで除隊してたら・・・私、今頃、幸せだったかな・・・。
 不可侵海域に入って緊張の連続のはずが、考えてるのは夕霧君のことばっかり・・・。
 私、夕霧君のことが、やっぱり・・・好き・・・だったんだ・・・。
 死ぬ前にそんなことに気付くなんて・・・いい年して、ほんとにバカよね・・・。)
 第二フェーズ開始後、5日間を経過したが、遠征艦隊は使徒と遭遇しなかった。


 連合艦隊は使徒に遭遇しないまま、第二フェーズを終了しようとしていた。
「司令長官、二日後に作戦の第三フェーズに入ります。一旦、艦隊を青い海へ戻し、最後の補給を受ける必要があります。私が指揮してよろしいですか。」
「ああ、頼むよ、葛城君。君に任せれば間違いがないからな。」
「了解しました。」
 ミサトは各艦隊に対し、赤い海から離脱するための艦隊行動を指揮した。全艦隊が青い海へ完全に離脱するまで二日ほど掛かる。
 岡田は筆頭幕僚に少し小さめの声で尋ねた。
「葛城君、我々はなぜ使徒に遭遇しないのだ?」
 ミサトは上司の方を振り返って言った。
「今回の侵攻ルートを設定したのは、夕霧一尉です。」
「ふ、そうか・・・。伏龍の置き土産、我々は夕霧君に守られている、というわけか。彼も、相当使徒の研究をしていたが、ごく断片的な使徒の目撃情報などで、使徒と遭遇しにくい侵攻ルートを割り出すなど、さすがだな。」
「私が仕切ってる会議中も内職しまくってましたしね。とにかく、もっともらしい理由を付けては作戦を骨抜きにしようと苦心していましたから。」
「だが、使徒のジャミングで不可侵海域の状況など掴めないはずだが。」
「それを逆手に取ったんです。彼は、震洋隊に来る前に、これまで確認された176のジャミング例をすべて分析していました。でも、不可侵海域の奥深く侵攻する第3フェーズは、運がすべてだって、言ってましたけど。」
「敵を避ける遠征など、聞いたこともないが、この遠征は実施することに政治的意味がある。無駄に人を死なせる必要はない。すでに作戦は動き出した。変更する必要もなかろう。」
「はい。」


 空母ヤタガラスの甲板。
 赤い海を眺めているミサトのそばに、やっさんがやって来た。
「やあ、ミサちゃん。何で、海って赤いんだろうなって、考えてんのか?」
「・・・違うわ。」
「そうか・・・。あいつのこと、考えてたんだな・・・。」
「・・・」
 ミサトは答えずに軽いため息をついた。
「・・・結局、キミちゃん、戻って来れなかったな。カシミール戦線は、あいつが行ってから急展開したようだがな。たった一人の人間が行くだけで、世の中、大きく変わることもあるんだよな。まあ、あいつは、例外なんだろうけど・・・。でも、いくらキミちゃんでも無理なのかな・・・。」
「彼も神様じゃないわ。今孔明にもできないことはあるのよ。」
「それとも、あいつ、向こうでまた、恋に落ちたかな?」
「・・・」
 ミサトは黙って赤い海を見続けた。
「すまん、ミサちゃん。詰まらんことを言った。」
 ミサトは気にせず、赤い海に沈む夕日を見ながら、自分に言い聞かせるように言った。
「戻って来ないほうがいいのよ・・・もちろん・・・。」


 遠征艦隊は、紅い海を離脱し、青い海で補給艦隊から補給を受けていた。これより、連合艦隊はさらに南下し、使徒の大軍がいると考えられているレムリア海域の沖で作戦の第三フェーズを開始する。
 第三フェーズでは、これまでとは違い、使徒と遭遇する可能性が高い。いよいよ勝機のない使徒戦が開始されるだろう。ミサトは、補給活動の進む中、ヤタガラスの甲板に立ち、ひとり赤い南冥の海を眺めていた。
 絶望的な使徒戦。具体的なものとして迫ってくる死に、ミサトは恐怖を感じていた。
 逃げ出したかった。怖かった。寂しかった。泣き出したかった。
 加持のことを想った。キミオのことを想った。

 その時。

「やあ、葛城さん、ご無沙汰。」

 ミサトは驚いて、聞きなれた明るい声の主を振り返った。そこにはオリーブ色の軍服を着た、一人の青年将校がいつもの微笑みを浮かべて立っていた。

「! 夕霧君・・・」

 ミサトの胸には幾つもの想いがこみ上げて来た。彼女は、すぐには何も言えなかった。これから死にに行かねばならないというのなら、本当はこの若者にそばにいて欲しかった。本当は彼に縋りついて泣きたかった。嬉しくて堪らなかった。
 ミサトは再会に感動して、嬉しそうな顔をしながら、でも、その表情とは全くあべこべなことを、涙を浮かべながら、言った。
「何で戻ってきたのよ? バカね・・・。」
「このバカな作戦で、大切な人が死なないようにするためさ。」
「いよいよバカだわ。」
 キミオはにっこり笑うと、寝癖を直すように左手で髪をいじりながら、ミサトに言った。
「それでもいいよ。カシミールは何とか小康状態に持って行ったんだ。ホント、苦労したよ。ノーベル平和賞、最低3つくらい欲しいところだね。」
 キミオは、自分の詰まらない冗談に表情を変えず、自分を見つめているミサトに、いたずらっぽく、言った。
「でも貰っても、没収だろうね。というのも、補給艦隊だけど、派遣前の僕の最後の仕事で、うっかり者の僕の指示ミスなんだけどさ、補給物資の計算と段取りを間違えたんだ。だから、追加物資の補給に無駄に3日くら掛かるはずなんだ。こりゃ、懲戒もんだね。申し訳ない。厚木に戻ったら戦自辞めるけど、立つ鳥、後を濁すってね。」
「夕霧君! 3日も遅れれば、第三フェーズで、レムリア沖には辿りつけない。それで撤退するってこと?」
「ちょっち、わざとらしいミスだけど、作戦を無事に終わらせるために大事なミスをしておいたんだよ。でもおかしいなぁ。僕の顔、見たら、葛城さん、抱き付いてくれる筈だったんだけど。そっちのほうは、意外な計算違いだな。」
 約一ヶ月の別離を経て、ミサトの中ではキミオに生きて欲しいという気持ちよりも、一緒に死にたいという気持ちのほうが強くなっていた。
 ミサトは喜びを隠しきれない笑顔で言った。
「もちろん計算違いよ。」
 そう言いながら、ミサトが、キミオの腕の中に飛び込もうと思った時、やっさんが現れて、キミオの背中を思い切りどついた。
「キミちゃん、来たら殺すって、言っておいたはずだぜ!」
「やっさん! 実に気の利かない人だなぁ。今まさにこれから、葛城さんとのラブシーンだったのにさ・・・。」
「んなわきゃねえだろ。で、キミちゃん、浮気しないで、頑張ってたのか?」
「僕、戦争やってたんですよ。浮気なんてする余裕、ありませんでしたよ。」
「さ、今晩は青い海だ。飲もう。な、ミサちゃん。」
「ええ。」
 ミサトは美しく微笑んだ。
 その晩、久し振りの再会を祝して、ミサト、キミオ、やっさん、おやじさん、そして岡田長官が、長官室で飲んだ。ミサトはキミオの隣でずっとキミオの顔を見ていた。キミオは恋する女性の視線を感じ、いつ微笑み返した。ふたりは始終、幸せそうだった。ミサトは死を前にして、もう恋愛を恐れていない自分に気付き始めていた。
 ミサトの二度目の恋は、南冥でようやく花開こうとしていた。


 3日遅れで、第三フェーズが開始されたが、遠征艦隊はずっと使徒と遭遇しなかった。
「岡田長官、明後日に12月21日を迎えます。第三フェーズ終了に向けて、撤退行動を開始すべきと考えますが。」
 キミオはミサトにウィンクしながら岡田に進言した。
「分かった。赤い海の調査も終えたことだ。使徒とは遭遇しなかったがな。葛城君、全軍に撤退指示だ。」
「はい。」
 このままなら生還できる。誰もがそう、思った。
 全艦隊が撤退を開始してから約2時間後。
「長官! 松永統合幕僚本部長代行から緊急連絡です。」
「読みあげてくれ。」
「はい。・・・遠征艦隊は、希望のアカンサス作戦を3日間延長し、レムリア沖へ侵攻せよ。健闘を祈る。・・・以上です。」
 それを聞いたキミオは思わず天を仰ぎ、ミサトは溜め息をついた。
 岡田は表情を変えずに言った。
「皆、聞いての通りだ。予定を変更し、レムリア沖に侵攻する。」
 遠征艦隊が作戦計画に従い、撤退を開始して間もなく、作戦本部から3日間の作戦延長の指示が出された。全艦隊は方向転換を始めた。この延長が第三次南極遠征の命運を決することとなった。
「葛城さん、勘弁して欲しいね、全く。使徒に遭ったりしたらどうするんだよ? エライことになるよ。」
「まあ、不可侵海域にいて、よく3週間も逃げ切れたものよ。」
 使徒の殲滅が目的である遠征で、使徒との遭遇を避けようとする幕僚も幕僚だが、レムリア沖は使徒と遭遇する危険が高い。遭遇しなくても、使徒にその存在をはっきりと知られればいずれ襲撃を受ける恐れがないか。キミオは心配した。
「葛城さん、レムリア沖50kmに近付いたら、調査名目で航行速度を落とすんだ。目標海域に入ったらすぐに引き返す。頼むよ。」
「分かったわ。」


 翌日、昼。
 ミサトが言った。
「岡田長官、レムリア海域沖に到達しましたが、撤退に要する日数を入れれば、この辺りで撤退を開始すべきものと思料します。」
「分かった。撤退開始の指示を。」
「はい。」
 全艦隊はミサトの指示で180度方向転換し、一斉に赤い海からの離脱を目指した。



 そして、遂にその日は来た。
 作戦最終日の2035年12月24日。
 遠征艦隊は、順調に不可侵海域からの離脱に向けて航行していた。
「あと約1時間で第二艦隊が赤い海を離脱します。我が第一艦隊もあと2時間11分で青い海に入ります。」
「ここはまだ不可侵海域だ。我が艦隊も最後まで気を抜くな。」
「はい。」
 
 その頃、ヤタガラスの甲板。
 休憩中のミサトとキミオが赤い海を見つめていた。
「夕霧君、どうして使徒と戦うのが私たち・・・なのかな・・・?」
「誰かがしなければいけないんだ・・・。それがたまたま、僕たちだったというだけさ・・・。歴史って、そんなもんじゃないのかな・・・。」
「そう・・・」
 キミオはミサトに優しく微笑みながら言った。
「メリー・クリスマス、ミサちゃん。」
「え? め、メリー・クリスマス、キミちゃん・・・。」
「松永の野郎が、延長するなんて考えてなくてさ。何もプレゼント、用意してないんだ。本当なら今頃、厚木のアトランティスで君のイブを独占してやろうって、腹だったんだけどね。でも、これ、あげる。」
 そう言って、キミオは、使い古したルービック・キューブをミサトに渡した。
「これ・・・。」
「ごめん、手抜きで。でも、大事なものだから。」
「え? でも・・・」
 それはキミオにとって大事なものであるはずだ。どうして自分にそれをくれるのか。ミサトはキミオが真剣な話をしようとしていることに気付いた。そのためか、少し頓珍漢な応答をした。
「でも私・・・あげるものがないわ・・・。」
「あるよ・・・。君を、くれない?」
「え?!」
 ミサトは真っ赤になって驚いた。
「実は僕、怖いんだ・・・。これだけ赤い海を撹乱したんだ。使徒の群れのいるレムリアにあれほど接近した以上、使徒に気付かれたと考えるべきだ。使徒はいつ来てもおかしくない・・・。だから、いつ死んでも悔いのないようにしておこうかなって、ね・・・。それに青い海に無事に戻れたら、また勇気がなくなっちゃうかも知れないし・・・。」
 ミサトはあと少しで死から逃れられると思うと、恋愛に対する多少の恐れが戻って来たような気がして、また少し頓珍漢な応答をした。
「・・・夕霧君でも、怖いんだ・・・。」
「使徒の勉強、したからね。勝てない相手に襲われることほど、怖いことはないさ。で、君からもらうプレゼントの件だけど・・」
 キミオが俯き加減のミサトの美しい横顔を見ながら、いつものように微笑んで何かを言おうとした時。


 連合艦隊に緊急警報が鳴り響いた。
「長官! 分析パターン青! 間違いありません、使徒です!」
「どこだ?」
「だ、第一艦隊の直下です!」
「急浮上しています!」
「第二艦隊は無事か?」
「離脱まで後1時間余りですが、第二艦隊の前方10キロメートルにもサンダルフォンを発見! 第二艦隊に急接近しています!」
 前方とは青い海の方角だ。使徒がなぜそのような位置に現れ得たのか、人類には分からなかった。
 直ちにブリッジに戻ったミサトとキミオに、岡田は言った。
「葛城君、夕霧君。二体の使徒が発見された。場所はモニターのとおりだ。」
「はい。只今より作戦D−51を発令! 各艦船に緊急連絡!」
 使徒襲来を受けて、ミサトが直ちに指示を出した。
「ハーキュリーズ隊は迎撃用意! A隊ないしD隊は直下の甲使徒が海面上に現れた瞬間を攻撃! E隊及びF隊は乙使徒の迎撃を支援!」
 しばらくして、赤い深海から現れた第四使徒サンダルフォンは、1隻の護衛艦を口にくわえたまま浮上し、それを噛み砕いて爆発させた。すでに空中で迎撃体制に入っていたハーキュリーズ隊がサンダルフォンに対し、一斉にポジトロン砲とN1爆雷で攻撃を加えるが、その攻撃はATフィールドに多少めり込む位で、使徒本体には接触さえできない。かえって空中を縦横無尽に暴れまわる使徒のATフィールドのために、ハーキュリーズは次々と撃墜されていく。


 キミオは傍らのミサトに言った。
「葛城さん、G−17Sだね。」
「うん。」
 ミサトは、頷いて、直ちに指示を出した。
「甲使徒の展開するATフィールドへのポジトロン砲及びN1爆雷による攻撃を無効と判断! 作戦G−17Sを発動! 全軍直ちに、4方面に分かれて撤退開始! 本艦も北北西へ急進!」
 作戦Gシリーズは、ハーキュリーズによる攻撃が無効と分かった場合の全軍による撤退作戦シナリオであり、艦隊は幾つかの方面に分かれて撤退を試みる。第一艦隊の中央と、第二艦隊の前方から襲撃を受けたケースを想定したものがそのG−17であった。これは、当初想定されていなかったが、キミオの赴任後に彼の提案で入れられたものであり、文書の補遺(supplement)の部分に綴られているため、頭文字Sが作戦名の最後に付けられている。なお、使徒については発見順に、甲、乙、丙と呼ぶことが予定されていた。
「夕霧君が想定した、最悪のケースの1つね。」
「全くだよ。ほんの僅かでも生還できれば御の字っていう、絶望的な作戦さ。」
 そう言いながら、キミオはヘリオトロープ色のフォルトゥーナを腰から外すと、従軍している技官のそばに行って手渡しながら言った。
「ATフィールドの分析データを同時にこれにも下さいませんか。」
「分かりました。」
 その間も使徒による艦隊への猛攻は続いていた。
「ハーキュリーズC隊全滅!」
「護衛艦は?」
「すでに5隻が沈没しています!」
「こちらハーキュリーズA隊隊長、霧島。弾薬補給のため、着艦を希望。」
「了解、7番へ!」
「了解。」
 ミサトとキミオは、灰色の使徒を攻撃し続ける二百機余りのハーキュリーズの姿を見ていた。しかし、サンダルフォンの薄い琥珀色の壁は、白と黒の戦闘機による攻撃で撓んだり、めり込んだりすることはあるが、決して破られはしない。全方向からの攻撃が無効化されていた。


 岡田長官が尋ねた。
「友軍の撤退状況は?」
「乙使徒の攻撃を受けた米、中艦隊は全滅に近い状態です!」
「ロシア、新国連艦隊は、なお乙使徒の攻撃圏内です!」
「EU艦隊は追撃を受けず順調に戦線を離脱中!」
 その間も、サンダルフォンのATフィールドの前に、ハーキュリーズは次々と撃墜されて行った。護衛艦も沈没して行く。もはや艦隊に指揮系統など存在していなかった。使徒に対する有効な攻撃力を持たない人類は、撤退も出来ずに、ただ敗退していた。
 予期された事態とはいえ、余りに悲惨な戦況。ミサトは思わず目の前の惨状から目を逸らした。

 脇に立つキミオは、左手でミサトの肩をそっと抱き寄せて、優しく言った。

「葛城さん、ごめんね。カッコつけたのに、君を守れなくて・・・。でも、僕は最後まで、君と一緒だよ。」

「ありがとう、夕霧君。・・・死ぬ時にあなたと一緒にいられて・・・よかった・・・。」

 葛城ミサトは夕霧キミオの左肩に自分の頭を乗せた。

 ふたりは、死ぬ時に互いがそばにいること、それがただ、嬉しかった。
 そして、それでいいと思った。


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次回 「第拾壱話 桜の園(後篇)」

葛城ミサト
「夕霧君、必ず生きて帰ってきてね・・・続きは、厚木でやりましょ。楽しみにしてて。」



To be continued...
(2010.04.10 初版)


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