南冥のハーキュリーズ

第九話 アイシテル(後篇)

presented by HY様



 その日から間もなく、司令室に呼ばれたキミオは、岡田部隊長から出向の辞令書を渡された。
「夕霧君、短期出向の辞令だ。」
「カシミール?! 勘弁して下さいよ。昔から戦争ばっかやってるとこじゃないですか? そんな怖い所に・・・」
「当たり前だ。君は軍人だろう、安全な場所に君の仕事はない。」
 キミオは右手で寝癖を直すように髪の毛をいじりながら、多少、不貞腐れたように言った。
「カシミールじゃ、遠征に間に合わない・・・。」
「君の任務は、カシミール地方で新国連による軍事介入作戦を成功させることだ。同期の吉沢君が苦労していてな。どうしても君の才能が必要だから、一時派遣命令が出たのだよ。」
「うそばっかり。」
「半分は本当だよ。君を欲しがっている。それにこれは、君を死なせたくないという万田さんのご意向だ。無駄に命を捨てるな。」
「そんな危ない所に派遣しておいて、よく言いますよ。まあ勿論、結婚するまで死ぬつもりはありませんがね。すみませんが、僕にはどうしても守りたい人がいますんで。」
「実は、君のカシミール行きは、葛城君と万田さんが話して決まったことだ。戦自の未来を担う人材が二人とも死ぬ必要はないってな。」
「チェッ、あの人も賢い人だからなぁ・・・。」
「震洋隊は捨て石になる。ハーキュリーズ構想で使徒戦は戦えない。そのことを大衆にも政治家にも分かってもらうためには、それなりの犠牲が必要だ。」
「まあ、僕ができるだけ犠牲が出ないような作戦にはしてみましたがね。僕から皆さんへの置き土産ですよ。でも運次第ですから、うまく行きますかどうか。」
「ところで夕霧君、君はいずれネルフに移るそうだな。冬月さんから聞いたよ。」
「そんなこと、言ってました? まだ、はっきり返事してないんですけどね。」
「だが、ハーキュリーズ構想に望みがないことは、我々が一番良く知っている。政治家も大衆も皆、勘違いしているだけだ。ならば消去法で、E計画しかない。それも成功する確率は低いが、君がやってくれるなら、頼もしいことだ。私も妻子を残して出征する。夕霧君、済まんが、後は頼むよ。」
「僕も見くびられたもんですね。岡田さんも万田さんも葛城さんも、僕の力が分かってない。カシミールが何ですか、要は、遠征に間に合うように勝ちまくればいいんでしょ? 岡田さん、僕は戻ってきます、必ずね。」
「カシミール行きと聞いて、てっきり君が諦めると思っていたのだがね。」


 キミオの新国連への一時派遣の日の直前に、佐世保の戦自海軍との現地打ち合わせが入り、まだ現役幕僚であるキミオは、ミサトに同行した。
 会議を終えたふたりは、ニミッツ・パークを歩いた。ふたりはやがて、2軒並んだ佐世保バーガーの店を見つけた。
「葛城さん、ここに来た以上、一応、佐世保バーガー、食べない?」
「うん。」
 ふたりは、少しけばけばしい外装の店の階段を上がり、賑やかな店内に入ると、注文を済ませ、暮れなずむ街が見える窓際のカウンターに並んで陣取った。
「ちょっち、食欲、ないなぁ・・・。」
 そう言いながら、ミサトは大きな佐世保バーガー1個を平らげた。ポテトは種類があって、美味しい。ふたりは三種類のポテトを味わった。


 その後。佐世保のバー。ハバスパイ。
 キミオはいつものように、ロックグラスで氷の涼やかな音を立てながら、ミサトに言った。
「来週の今頃はもう、カシミールか・・・。」
「そうね・・・。」
「で、派遣前の最後の一仕事だけど、補給線の最後の調整、僕に担当させてくれないかな。」
「いいわ。細かい作業だけど、あなたなら安心だわ。よろしくね。」
「了解。」
 キミオは震洋隊を離れる。ミサトは南極遠征に赴く。
 半年前に出会ったふたりは、いつもそばにいたふたりは、違う道を歩み始めようとしていた。キミオはそれを回避しようとしたが、出来なかった。それは、キミオの意思に反して、ミサトが自ら選んだ道だった。
 ふたりは、この人生の大きな分岐点で、言葉には出さないが、時が止まってくれればいい、そう、思った。
 ミサトは、自分のロックグラスの丸い氷を眺めながら、隣で静かにロックグラスを軽く揺すっている若者に、静かに言った。
「こうやって、ふたりで飲むことも・・・もう、ないかな・・・。」
 若者は寂しそうに微笑んだが、彼は、ロックグラスを揺らすだけで、特に何も言わなかった。彼は恋する女性を守りたいと思っていた。でも、強い意思はあっても、その自信がなかった。
「・・・」
「・・・」
 やがて、キミオは、静かに言った。
「・・・葛城さん・・・僕、子どもの名前、決めてあるんだ・・・。男ならトシオ、女ならトシコにしようと思う。」
「へーえ。・・・なんで?」
 キミオは飲み干したロックグラスをコースターの上に置きながら言った。
「もう亡くなったけど、甥がトシって言ってね。素直で可愛くて賢くて、いい子だったんだ。自分の子どももあんな子だったらいいな、って思ってね。・・・もしかして生まれ変わってくれないかなって、思ってるんだけど・・・。」
 実際には、彼の甥である夕霧トシはその時ゼーレに所属し、桜花トシと変名させられて生存しており、後に葛城ミサトの指揮するネルフで対使徒戦の中核となり人類を救っていくのだが、勿論キミオはそのことを知らない。桜花トシが、その叔父に匹敵する軍事・戦闘の才を有していたことは、人類にとって幸運なことであった。
「そう・・・でも、結婚相手がいないじゃない?」
「そうかなぁ・・・。三十路に入る前に結婚するのが僕の夢なんだけど、来年の1月22日がタイムリミットなんだ。もう、時間がない。ミサちゃん、助けてくれない?」
「こればっかりはねぇ。」
 品の良さそうなマスターがキミオにたずねた。
「お客様、お作りしますか?」
「ああ、じゃあ、ソルティー・ベアー、ください。」
「かしこまりました。」
「キミちゃんって、ほんとソルティー・ベアー、好きよねぇ。」
「ああ、兄さんの真似なんだけどね。」
「そう・・・。じゃ、私ももう一杯、もらうわ。」
 時は止まったりしない。佐世保の夜は静かに暮れて行った。


「それでは夕霧キミオ君の無事を祈って、乾杯!」
 キミオがカシミールに派遣される二日前。
 土曜日の午後、キミオの壮行会が開かれていた。おやじさんが、長年の勤務の成果物として、厚木郊外に庭付きの戸建てを持っていたため、おやじさんの家がパーティー会場として半日、接収された。
 やっさんがバーベキュー・セットを持参し、庭で焼いている。参加者は、ミサトとキミオのほか、おやじさん夫妻、やっさん、やっさんの愛娘マナ、岡田部隊長夫妻だった。キミオは一時派遣という形だから、第三部隊の幕僚会議でも送別という扱いはしていない。だが、キミオにしてみれば、送り出してくれる側の命のほうがよほど心配だった。
 キミオは、ミサトのジョッキにホウオウの瓶ビールを注ぎながら言った。
「葛城さん、この戦いはいかに早く敗北を認めて、どれだけ生きて戻れるかだ。」
「分かってる。幕僚で本当に勝てるなんて思ってるお目出度い人、誰もいないわ。」
「カシミールなんて怖いし、戦自辞めようかなって考えてたんだけどね。まだやめずに、とりあえず行ってくるよ。今、やめたら、遠征に行けなくなるし。」
 ミサトはキミオのほうを見ずに、愛娘に焼けたトウモロコシを取ってあげているやっさんの姿を見ながら、言った。
「夕霧君、あなたはまだ死ぬべき人じゃない。私はこれで良かったって、今でも思ってる。」
 キミオはピンクのバンダナを額に巻いて、愛娘相手に頭をかいているやっさんと、その隣で談笑している岡田部隊長とおやじさんの姿を見ながら、言った。
「葛城さん・・・バカな作戦で死んでいい人なんて、一人もいないよ。それに僕は、遠征に参加するつもりだ。」
 ミサトはホウオウをキミオのジョッキに注ぎながら言った。
「無理よ、いくらあなたでも。相手がカシミールじゃね。」
「僕は君と一緒に遠征に行く。でも、僕はまだ死にたくない。僕はこの負け戦から生きて戻ってから、除隊する。これが戦自で最後のご奉公さ。」
「・・・そう・・・。ネルフに、行くのね?」
「うん。そう、決めたんだ。」
「あの怪しげな非公開組織か・・・。ネルフって、あなたのお兄さんの命を奪ったゼーレと繋がってるんでしょ?」
「そうなんだけどね、その辺りの事情も分かるかも知れない。ネルフはゼーレと繋がってるけど、一体っていうわけじゃないんだ。あすこで副司令やってる叔父さんから、これまでもしつこく誘われてきた。そろそろ温厚な叔父さんも怒り出しそうなんでね。」
「ああ、あの冬月さんって、人ね。交渉の時に会ったことあるわ。」
「うん。だから、僕はネルフに移る。使徒の殲滅は通常兵器じゃ、やっぱり無理だ。ハーキュリーズは、エヴァを補助する形なら成功するだろう。でも、使徒戦の中核たりうるものが、もしあるとすれば、それはエヴァしかない。使徒戦をやるなら、きちんとやりたいんだ。今回の遠征はこれまでの遠征でも最大規模になる。これで敗退すれば、戦自もハーキュリーズ路線の限界を改めて思い知るだろう。だけど、被害は最小限にしないとね。」


 ミサトはホウオウを飲み干してから、言った。
「夕霧君。悪いけど、使徒戦、後はあなたに任せるわ。」
「そうはさせないさ。・・・僕にとって・・・君は・・」
 真剣な表情のキミオを見たミサトは、すぐにその言葉を遮った。
「私は遠征艦隊10万の将兵の命を預かる筆頭幕僚。負ければ、生きて帰るつもりはないわ。」
「僕は政治判断として、延期が難しいだろうと思ってはいたんだ。僅かの可能性に賭けただけさ。葛城さん、僕は幕僚として、伊達に遠征計画を立ててないよ。生き残るための手はそれなりに打っておいた。この遠征、何とかみんなに生きて還ってきて欲しいんだ。」
「やっぱり、そうなのね・・・。あなたが立案した侵攻路の設定、ちょっち不自然な気もしてたけど・・・戦わずに還って来いって、ことね。」
「さすがだね。敵を欺くのに味方も欺いたつもりだったけど、君にはバレバレか。」
「でも、敵は使徒よ。使徒については分からないことが多過ぎる。あなたが前提にした情報も断片的なものだし、思うようには行かない。世の中、そんなに甘くないわ。仮にうまくいっても、四次遠征になるだけ。根本的な解決にはならない。」
「まあ、今回を凌げば時田さんもいる。N1爆雷の革命的な改良とか、技術開発で何とかできるかも知れない。とにかく作戦の第2フェーズまでは大丈夫だと思う。でも第3フェーズは危ない。艦船の故障とか何とかうまい理由を付けて第2フェーズで撤退できないかな。」
「あなたも私も、諜報じゃないし、そんな工作は難しいわ。それに、いつまでも逃げていたら、使徒の情報も入らないし、人類の未来も切り開けない。誰かが犠牲になってでも使徒のデータを入手することも必要よ。」
「最近の時田さんの話では、N1の後継のN2爆雷の開発も全く無理じゃないらしい。JAでデータを取りながら、もう少しこっちの兵器の攻撃力を上げれば作戦の立てようもあるさ。」


 宴が終わろうとする頃、やっさんが少し真面目な顔をして、言った。
「キミちゃん、分かってるだろうな・・・。帰って、くるなよ・・・。」
「それが、戦場へ送り出される人間に、言う言葉、ですかね?」
 生かすために送り出す、それがこの一時派遣の意味であった。このやりとりの意味を出席者は皆、分かっていた。
 おやじさんが、言った。
「さ、まだ酒がある。もっと、飲もう。」


 酒を飲まない岡田夫人の運転で、デウカリオンが寮の玄関に付けられた。ほろ酔い加減のキミオは、明らかに飲み過ぎたミサトを助けながら車を降り、寮の入口へとふらつきながら向かっていく。
「ありがとうございました、岡田さん。」
「葛城君は飲み過ぎたようだ、後は頼む。」
「はい。」
「キミちゃん、ごめん、飲み過ぎちゃったぁ〜。」
 キミオはミサトに肩を貸しながら、エレベーターに入った。
 キミオは恋する女性に、静かに言った。
「葛城さん・・・わざと飲み過ぎたろ?」
「ん? どういうイミ〜?」
「僕に、真面目な話をさせないために、ハイペースで飲みまくったってことさ。」
「そうぉ。・・・コクりたきゃ、コクればァ? 私、昔から、キミちゃん、大好きよォ〜。」
「ほら、11階だよ、葛城さん。」
「あぁ、ごめん・・・。」
 キミオは泥酔したミサトのハンドバッグから勝手にカードを取り出すと、扉を開けた。
「さ、葛城さん。家だよ。」
「あんがと〜。あとは、だいじょうぶだから・・・。」
 翌日、ミサトはひどい二日酔いで、買い物にも行けず、キミオに翌週分の日常生活品を買ってきてもらう始末だった。


 そして、キミオの転属の日の早朝、厚木基地。
 雲ひとつない、青空・・・。
 ミサトとキミオは並んで飛行場に立っていた。
「葛城さん・・・まだ言わないでおこうと思ってたことなんだけどさ・・」
「お願い。言わないで、夕霧君。」
 空を見つめたままのミサトに、キミオは寂しそうな顔をして、尋ねた。
「どうして・・・? 葛城さん?」
「ごめんなさい・・・。聞かなくても分かってるわ。それに万一、私が、あなたのことを本気で好きになったりしたら、困るから・・・。私はもうすぐ、死ぬ身だから。あなたをこれ以上・・・・・・まあ、とにかく、あなたを傷つけたくないし、私も傷つきたくないから・・・。」
 ミサトは思った。自分はこの遠征で必ず死ぬ。若者は別の戦地に赴く。ここでふたりの恋を確認したとして、それが何になるだろうか。ふたり一緒に死ぬ必要はないし、キミオには生き残って欲しい。死にゆく者が、生きて残る者に未練を持たせる意味がどこにある。
 キミオは真剣な表情で、自分にも言い聞かせるように、言った。
「・・・君は絶対に、死なせない。僕の命に代えても、死なせない。」
 でも、ミサトにも分かっていた。彼がいかに戦自史上最高と言われる天才幕僚でも、彼はヒトに過ぎない。たとえ彼が今回の遠征に参戦し得たとしても、ハーキュリーズで使徒戦に勝つことなど出来ないということを。いや、その当時の人類の技術で、使徒戦を互角に戦うことなど、およそ誰にも出来ないということを。
 ミサトは優しい微笑みを浮かべて、自分に夢中で恋している若者に言った。
「ありがとう、夕霧君。・・・お互い、悔いのないように戦いましょ。」
「うん。」
「さ、行くんでしょ?」
「うん。佐世保までやっさんに送ってもらう。でも必ず戻って来るよ。僕はきっと遠征艦隊に合流する。」
「いいえ、戻って来ないで、絶対に。死ぬのは私一人でいい。でも犬死にはしない。戦った証をあなたに遺して行くつもりよ。夕霧キミオさえ生きてあれば、人類はきっと使徒戦に勝てる。」
「葛城さん、人は大義だけでは生きられない。私情は大事だよ。それで人は強くもなれば弱くもなる。僕は、君がもういないなら、生きている理由があんまり見つからない。そんな奴に人類なんて守れないさ。だから僕は戻って来る。命令と個人的感情に従ってね。」
「カシミールは大昔から戦争をやっているわ。いくらあなたでも1カ月で解決なんてできるはずないでしょ?」
「相手は使徒じゃない。データもあれば、言葉の通じる人間でもある。停戦に持ち込めばいい。三次遠征から生きて戻るよりは簡単なことさ。」


 その時、やっさんが現れた。
「おい、キミちゃん、行くんだろ?」
「はい。」
「ふたりとも、お別れの挨拶はその程度かい?」
「それじゃ、葛城さん。」
 キミオは右手を差し出した。
 しかしミサトは、その手を取らなかった。
 藍色の髪の美しい女性は、去っていく青年に対して、微笑もうとしたがうまく出来ず、代わりにその目からは涙が溢れ出た。ミサトはそれを見られたくなかったのか、思わずキミオを抱き締めた。
「夕霧君・・・」
 キミオはミサトを優しく抱き締め返した。
「葛城さん・・・」
 ミサトは、これまでいつもそばにいてくれた大好きな若者の体を全身で感じていた。そして、あまり迷わずに、別の戦場に赴く青年の左頬に、優しく接吻をした。
 キミオは真っ赤になった。ミサトは、もう二度と会うことができないであろう若者の耳元で囁いた。
「いいわね、夕霧君。私のことを思ってくれるなら、戻って来ないで。」
 しかし、若者はいつもの笑顔で、恋する女性の願いをはっきりと拒絶した。
「いやだよ、葛城さん。最後にもう一度言っておくね。・・・僕は必ず、君を守る。僕は生きて、赤い海からこの厚木に、君と一緒に、帰って来るんだ。」
 神は、この若者の真摯な願いを半分だけ叶えた。絶望的な第三次南極遠征で、夕霧キミオは、葛城ミサトを守り抜いたが、自分が厚木に生還することは出来なかった。
「そろそろ行くぜ、キミちゃん。」
 ミサトは、やがて厚木基地を飛び立ったオリーブ色の軍用機の姿が雲の間に見えなくなった後も、その場に立ち尽くしたままだった。


**********flashback/E**********


「葛城さん、大丈夫ですかね・・・?」
 シゲルがコーヒーを啜りながら言った。

 やや不穏な雰囲気で始まりかけたホームパーティーだが、その後は、互いを労わり合う、楽しく心温まる会となった。ミサトが中心になって弾け、大いに盛り上がった。しかし宴を終えようとした頃、小さな事件が起こった。酔っ払ったシゲルが追加のつまみを食卓に運ぶ際、よろめいて、ミサトのヘリオトロープ色のハンドバッグを踏んでしまったのである。その時、プラスチックが外れるような鈍い音がした。
「あれ? あ、すみません、葛城さん。何か、踏んじゃったみたいで・・・」
 ミサトは一瞬で酔いでも醒めたように、シゲルを押しのけるようにしてハンドバッグを急いで開けると、中から使い古されたルービック・キューブを取り出した。
 すると、ミサトの手から一片のプラスチックが落ちて転がった。
 ミサトは真っ青になり、慌てて、その行方を追った。
 自分の足元に転がって来た断片を拾おうとしたシゲルの手は、ミサトに払いのけられた。
「触らないで!」
 ミサトの鋭い語気にシゲルは身を引いた。
「すみません・・・。」
 ミサトはプラスチックの断片を拾い上げると、それを本体に恐る恐るくっ付けてみた。

 カチリ。

 無事に接合されたルービック・キューブはきれいに六面が揃っていた。
 その様子を、リツコ、シゲル、マヤは、酔っ払いながらも静かに見ていた。
 しかし、その後のミサトの行動は、三人にとって、意外なものだった。
 ミサトは、酔っ払っていたこともあるのだろう、その豊かな胸に小さな玩具を抱き締めながら、涙を流して、言ったのだった。
「よかった・・・よかった・・・。」


 その後すぐにミサトは、飲み過ぎたと言って、一人で先に帰った。
 ミサトは、すぐには帰宅しなかった。そしてわざわざタクシーで、壺天という店に行った。昨年、キミオがぎっくり腰になった時、ふたりで食事した店だ。
 ミサトは、そこで一人で飲み直した。彼女は、ルービック・キューブを右手で握り締め、居酒屋の片隅で、泣きながら、飲んだ。

(何で、私・・・まだ、生きてるんだろ・・・
 夕霧君・・・生きてることが、辛いの・・・
 あなたがくれた命を、生き続けなきゃいけない・・・
 歴史を繋ぐために、まだ生きなきゃいけない・・・
 そう思って、今まで生きて来たけど・・・
 でも、ごめんね・・・もうあなたがいない、この世界を生きることが・・・
 辛くて、哀しくて・・・たまらないのよ・・・夕霧君・・・)

 ミサトは、カウンターの右隣の席に、ルービック・キューブをそっと置いた。

(あの時、あなたはここにいた・・・
 ぎっくり腰で痛そうだったけど・・・
 いつものように、私に微笑んでくれた・・・。
 ここで・・・思い出せないけど、何か冗談を言って私を笑わせようとしてた・・・。
 私・・・あの頃・・・幸せだったのね・・・
 夕霧君・・・あなたが遺してくれた記憶すべてが・・・
 幸せだった・・・幸せすぎて、気付かなかったのね・・・
 だから、泣いたって、どうしようもないのに・・・私、泣きたいのね・・・。
 あなたはあの南の海で・・・永遠に静かに・・・いつも私に微笑んでくれている・・・。
 私の瞳の奥には、いつもあなたの微笑みがある・・・。
 どうして・・・もう、あの時には戻れないの・・・。
 愛する人を守るために、自分の命を捨てること・・・
 それが、愛してるって、ことの意味だというのなら・・・
 それが、あなたが教えてくれたことだというのなら・・・
 私とあなたの恋は・・・いったい、何だったの・・・。
 それじゃ、あんまり・・・あんまり悲し過ぎるじゃない・・・。
 ごめん、夕霧君・・・今日は、泣かせて・・・
 私がもっと強かったら、いいんだけどね・・・
 ごめんね、キミちゃん・・・
 明日はまた、ちょっち、元気出すからさ・・・今日だけ、ごめんね・・・)
 

 シゲルはリツコが淹れてくれたコーヒーを啜りながら言った。
「あのルービック・キューブ・・・かなり使いこんでましたね・・・。」
「葛城さんがやってるって、わけじゃないですよね・・・。」
 マヤの言葉に、リツコは苦々しい表情を浮かべて、コーヒーカップを口に運びながら言った。
「ミサトは、いつもあれを持ってるわ・・・。誰にも話さない、話したくないんでしょうけど・・・きっと、形見でしょ。あの遠征で亡くなった、戦自時代の恋人の・・・。」
「?!」
「そうだったんですか・・・。葛城さん・・・まだ、あの遠征、吹っ切れてないんですね・・・。」
「あの遠征からの帰還兵の半分近くはPTSDになった、って話だよ・・・。目の前で、ただひたすら、仲間が殺されて行ったんだ・・・。マヤ、その場にいなかった俺たちには、何も言えないことさ・・・。」
「・・・やっぱり、あのルービック・キューブの呪縛から解かれるまで、葛城ミサトは使えない・・・。まだ、時間が掛かりそうだわ。使徒がもうすぐ来るって、言うのにね・・・。」
「先輩。私、葛城さん、好きです。あの人なら、何とかすると思います。」
「マヤ。ミサトも人間よ。・・・あの遠征の後、彼女が戦自を辞めてから、私がネルフに来てもらうために、彼女に会いに行った時・・・」
 言いかけて言葉を濁し、静かに首を振るリツコを、マヤが促した。
「何が・・・あったんですか・・・?」
「・・・ミサトは・・・あのルービック・キューブを握り締めたまま、何も言わなかった・・・。いえ・・・言えなかったの、何も・・・。」
「え?」
「失語症よ。彼女は昔、失語症になったことがある。それが再発していたの。彼女は、あの遠征を想起してしまうと、一切、何も話せなくなった・・・。私は、昔の明るい彼女と余りにも違う、変わり果てたミサトをただ抱き締めることしか、出来なかった・・・。」
「そう、だったんですか・・・。」
 リツコは飲み干したコーヒーカップを置きながら、言った。
「でも、立派だわ。この半年で、彼女は失語症を克服してきた。あの遠征について、彼女はもう言葉を失わずに話すことができる。後は、ミサトを襲った悲劇を、彼女がどう、自分の中で整理するか、ね・・・。私たちには見守ることしかできない。あれ以上の人材はもう、いない。ネルフが葛城ミサトの指揮で使徒戦を戦う以外に、人類の歴史を繋ぐ道はない。」
「どうして葛城さんにこだわるんですか? 他の人じゃ、ダメなんですか・・・?」
「きっと、ダメね・・・。」
「どうして、ですか・・・?」
 リツコは、コーヒーカップを見つめながら、俯き加減で言った。
「使徒戦は14歳の子どもたちを使って戦うことになる・・・。そんな子どもに戦争なんてできる? パイロットが長い使徒戦を戦い抜くためには、心身ともに傷ついて行く彼らを支えて、彼らと一緒に泣き、一緒に笑いながら、一緒に戦うことのできる人間が必要よ。私は、彼女こそが終焉のアカンサスじゃないかって、思ってる・・・。」
 マヤは尊敬する先輩の顔を見ながら、呟いた。
「終焉のアカンサス・・・」
 シゲルが話題を変えた。
「マコトのやつ、結局、来ませんでしたね・・・。」


**********************
次回「第拾話 桜の園(前篇:Picture Perfect)」

葛城ミサト
「ありがとう、夕霧君。・・・死ぬ時にあなたと一緒にいられて・・・よかった・・・。」



To be continued...
(2010.04.03 初版)


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