「……」
「どうしたの? 具合悪そうだけど」
 呼び出されたカイムはリツコの目には少々疲労がたまっているように見えた。纏う雰囲気一つとっても、十分に重々しさはあるがいまいち覇気に欠ける印象を受ける。目の下に小さく隈が浮かんでいるところを見ると睡眠不足なのだろう。
 実を言えば、彼の疲労はネルフお抱えのファーストチルドレン綾波レイのせいであった。
 なにしろカイムが根城と決めた廃墟は、偶然にも綾波レイの自宅の直下だったのである。そのため人間に比べて鋭敏すぎる感覚が使徒の気配を頭上に捉え続けたのだ、恐らく安全だとは分かっていても体は睡眠をなかなか許してくれなかった。
 ならば住まいを変えればよかっただけの話ではあるが、自分の行動を他人に決められている気がしてそれは何処と無く癪にさわった。蹴り飛ばしに行くことも考えたが面倒事になるのは目に見えていたし、一応後から住み着いた自分にその権利はあるまい。
「剣」
「長いのはまだ計画段階。プログナイフの改造は昨日完了したわ」
 問いを無視してカイムが言うと、リツコもまた深く追及することなく答えた。
 他のエヴァにも実装するかも、他人事のように話す。開発は科学者の仕事だが、その後の生産体制は経営者側の仕事である。
「プログナイフに両手持ちの柄と刃を追加…完全に近接戦闘装備ね。もうちょっとこう、なんというか、さあ」
 女の声だがリツコのそれではない。ここで口を挟んだのは意外も意外、カイムとは疎遠かと思われていた葛城ミサトであった。
「…」
「『銃がまだ満足に使えないのに片手持ちで戦うことの何処にメリットがある?』って言いたそうよ。私も飛び道具着けようにも無理だって言ったでしょう? 技術的にもパイロットの適正的にも。それに」
「わかったから二人とも睨まないで…」
 自分で冗談のつもりで言ったのだが、何を言っているんだというカイムの視線と呆れたようなリツコの視線を受けて許しを乞うた。本気ではないといえ(さらに言えばカイムは文字通り不調なのだが、それでも)この二人から受けるプレッシャーははっきり言って恐いのである。
 今でこそこうして話しかけられるが、最初から彼を対等に扱ったため信用を得ていたリツコと違い、ミサトの場合はこの状態に至るまで試行錯誤の繰り返しであった。
 個人的な復讐にしろ世界人類を守る公の目的にしろ、実際戦地に出ない自分が使徒と戦うにはミサトたち大人に代わる形で戦場に立つ『兵士』を知らなくてはならないと悟ったのがおよそ五日前のこと。それから唯一彼が口を開く対象であるリツコに教えを乞うことに始まり、訓練の時に作戦について現場の意見を彼に尋ね、自分の出向元たる戦略自衛隊の内規をもとに彼を一人前の、階級のほぼ同じ(実際チルドレンの階級はミサトとそう離れているわけではなく、特にサードチルドレンの場合は先の使徒戦の功績で他の二人よりも上になっていた)軍人として扱った。さらに自ら射撃の監督を買って出るなどの結構な努力を経て――カイムも作戦部トップとむざむざ軋轢を生むこともないと考えたのだろう、『返答はする』程度の一方通行気味のものではあるが一定レベルのコミュニケーションを取れるようになるのに至ったのだ。
(……それにしても)
 周囲を見回す。デスクにいた何人かのオペレーターと目が合い、途端に目を背けられた。一瞬垣間見た視線には驚きの他に、明らかな恐怖の色が混じっていた。背後で感じる視線は伊吹マヤのものだが、これには怯えの中に心配げな雰囲気が漂っている。これは敬愛するリツコを案じてのことであろう。予想通りだったが、誰一人碇シンジを恐れ以外の思いで見てなどいなかった。
「困ったものね」
 基本的に他人の視線を気にしない二人の前で、わざと聞こえるように呟いてみせた。融かすべき氷壁はジオフロントの装甲板並みに分厚いだろう。



Endless Voyage of an Avenger

第四章『接触』
第二節『何故』

presented by 木霊様




 発言はある意味当然だった。
 誰もが最初から疑問に思っていたことで、それでいて皆口にすることが出来なかったこと。それを解決する切っ掛けをはじめて真っ向から訊ねたのはリツコであり、
「それでね、その剣見せてほしいのよ。参考にしたいから」
言った瞬間、隣で聞いていたミサトはもとより離れた自席で聞き耳を立てていた者たちも顔を向けたのだった。
 まるでファンタジーの世界からそのまま出てきたような剣らしき物体。碇シンジが持っていたそれは作り物とは思えなかったが、かといって現代日本で、しかも子供が常時持ち歩くような物ではない。戦闘で見せた彼の様子からそれが真剣だというのは半ばネルフ職員内の定説になりつつあったのだが、真相は長い間謎のままであった。ついに今その真相が白日の下に晒されようというのだ、注目するなというのが無理な話である。
「…」
「エヴァの武装は計画段階のものが多いから、今からでも似せられるのよ。嫌なら構わないけど…」
 それでもカイムは黙して渋った。
 衆人環視の中だ。自分以外の持つ刃を見たことがないこともあってこの世界での扱いは未だに掴みがたいが、武器とは己の命を預ける物。みだりに他人に見せるつもりはないし、力を誇示するような愚か者ではない。何よりまだネルフという組織が信用に値すると確信してはいないのだ。
 しかし戦いが有利になるのなら可能な限り協力するのが、カイムの意思であるしネルフとの契約でもある。
「……………」
 長く渋った結果、最終的にカイムは後者を選ぶ。腰の鞘から剣を抜き、勝手にしろと言わんばかりにコンクリート造りの床に突き立てた。
 現れた本物の刀身に息を飲む気配を他所に、リツコは刃を観察し始める。エヴァ用の兵器開発のため世界中の武器は一通り目にしていたが、そのどれにも区分けできない剣であった。装飾などどこにもない武骨な剣身は相当使い込まれており、無駄の無い造りにはどこか不思議な印象すら覚える。
「いい剣ね。マヤ、マヤ!」
「はっ、はいっ?!」
「覗き見はいいけど、仕事よ。大至急メジャーとカメラお願い」
「す、すみません!」
 出歯亀を咎められたのが相当恥ずかしかったのか、マヤは顔を真っ赤にして発令所から出ていった。それを見た他の職員も凝視するのを止めて己の持ち場へと戻っていく。まったくと呟くリツコ。やれやれと溜め息を吐くミサト。まるで興味の無いカイム。
「あ、そうそう。あの二人釈放になったから」
 長剣の観察へと戻ったリツコの横でミサトが告げた。二人とは勿論、第四使徒戦でシェルターから脱走した鈴原トウジ、相田ケンスケ両名のことである。
 最近になってようやく精神状態が安定してきたための措置だ。以後の監視はネルフ職員である彼らの親に任せられると医師がやっと認めてくれたのだ。
「フォローお願いね。一応、クラスメイト…なんだし」
 言いはするが社交辞令のようなもので、そんなことは期待していない。ミサトが願うのは顔を合わせたときにトラブルにならないことだけであった。
 拘束された二人が、碇シンジの正体がエヴァンゲリオン搭乗者であると知っていたという事実を尋問にあたった保安部の人間から聞いていた。ようやく任から解放されると保安部から喜びの声が上がっているというのに、翌日学校で碇シンジと彼らが会って下手に刺激され、二人が手を出すようなことがあれば二度と戦闘の邪魔をせぬよう完膚無きまでに返り討ちにするくらいのことはやりかねない。そうなれば嫌がおうにも監視に人を割き直さねばならぬのだ。ミサトにとってまだ碇シンジは、そんな狂暴極まりない印象が拭えなかった。
「……」
 逆にカイムにその意志は無い。
 民間人が戦争に巻き込まれる光景など嫌というほど目にして来た。理不尽に虐げられ踏みつけられるのはいつだって弱者なのだ。万全の警備を怠ったネルフに失望こそすれ、被害者を責めるのは筋違いだというのがカイムの考えである。
 ただしそれも、やむを得ない場合に限ってのこと。
 興味本意とか撹乱目的とか、不可抗力でなく当人の責任が重い自業自得の事態については知ったことではないのだ。その確証があったなら、先の使徒戦でも二人が潰れようと木っ端微塵になろうと構わず戦いに専念したであろう。結局のところ、彼らの首は本当に紙一重だった。
「あ、いや、その、できれば、でいいわよ、うん」
 無言の少年にミサトは言う。他のネルフ職員より大分慣れたものの、彼の沈黙に背筋が冷たくなるのは変わらないのだ。
 そして彼が拒否しないので安心していたが、実は碇シンジが第二中において連続無断欠席の最高記録を更新中であるのを彼女は知らなかった。戦々恐々としながら話しかけたその勇気は、無駄だったのである。






「…………」
 捌いた野兎の肉を手に夕暮れる街を歩き、廃ビルの入り口辺りになるともう悟っていた。
 しかし事態の把握と感情とは全くの別物であり、そして自らの領域に無断で立ち入る者に寛容な人間はいない。懐に手を入れながらドアを蹴り、開くとともに投擲して歩み寄る。硬いコンクリートの床にナイフが深々と突き刺さった瞬間には既に見上げる紅の視線と見下す暗黒の瞳が交錯していた。
「……何」
「帰れ」
 感情そのものが薄い静かな声に、答えるのは感情を削ぎ落とした冷たい声。それでも少女はその場から立ち退くことはなく、見捨てられた部屋にかろうじて残っていたベッドに腰かけて残りの活字に視線を降ろす。
 ファーストチルドレン、綾波レイがそこにいた。カイムが見つけて寝床と決めた廃ビルに住んでいた、唯一の隣人である。
「……………」
 意味が分からない。前回のように灯りが見えて不思議に思ったのならわかるが、一週間経った今になってかの子供がこうしてわざわざ訪ねてくるなど想像だにしていなかった。さらに言えば彼女は話すことなど無いと言わんばかりに本の続きを追い始めており、何の用事もなさそうなそんな態度も混乱に拍車をかけた。
 突き刺さる視線を何とも感じないほど鈍感ではなかったらしく、見下ろしていると再び本から目を離して顔を上げる。だがそれも束の間、カイムが何も言わぬとみると表情一つ変えずに戻す。口を開くべきは勝手に上がり込んだ彼女の方なのだが。それとも単にわからないだけか。
「………」
 そのまま反応しなくなったのを見ると、諦めたカイムは無視を決めた。
 蹴り出すのも面倒だし、それに相手は操り人形。操り主以外の命令は聞かないのだろう。そもそもまともな精神が宿っているかも怪しい。
 適当に散らべた薪を前に抜剣し床すれすれを薙ぐ。高速の一振りが摩擦で火の粉を振り撒いた。羽虫の群れのように舞い上がる火炎を剣の魔力が包み、赤みを増して霧のように枯れ草へと降りる。かの少女の姿は目の前に在ったがどうでもよかった。どうせ魔法を持たぬ者、怪しまれたところで本質を理解できる訳がない。
 切り出した脚部を小刀に突き刺し、石造りの床に燃え始めた火にくべる。魔力を飲み込んだ炎がたちまち肉片を包んだ。
「……?」
 ふと視線を感じて顔を上げると、あの赤い瞳とかち合った。
 しかしそれはカイムの嫌う空虚なそれではなく、子供が見せる幼い好奇心のような印象を孕んでいた。人形のものならば無視しようと思っていたカイムも、不意に出会ったそれに僅かながら興味を覚える。
「ご飯…作れるの?」
 赤い目の少女は、長い沈黙の後そう問うた。
「……」
 カイムは俯いた。
 まともな物を食べたことがないのだろうと思った。同時に満足に食べられていないのか、とも。
 飢えの苦しみはよく知っている。『契約者』となる前無理な行軍で食料が尽きかけることは一度や二度となく経験したし、畑を荒らされた農村の惨状は筆舌に尽くしがたいものだった。頬の痩けた男達、骨と皮だけの子の死体を抱く女。
「………!」
 憐れみを感じて、無意識にカイムは焼けた肉の欠片を差し出していた。驚きの視線が向くのが分かる。本当に自分らしくないと内心呟きながら、戸惑う少女へぶっきらぼうに、早く取れと言わんばかりに肉をつき出す。
  
 小さく目を開いてひゅっと息を呑む位であるが、レイの驚きは半端でなかった。自分に善意を向ける相手はネルフの中でも少ないし、日常においてはほとんどいい。況してやそれが自分を人形と言った少年からもたらされるとは思ってもみなかったのである。人生で初めて嫌いになった少年の施しは、やはり体験したことのない奇妙な戸惑いを伴った。有り難く思う気持ちと受け取るまいとする気持ちとが、せめぎあう感覚。
 そもそもレイが此処を訪れたのは、前回とは違い偶然ではない。かの少年が自分にもたらした変化を確かめるためだった。一体彼の何が心をざわつかせるのか知りたかったのだ。
 『心の壁』を理解する彼女が、彼が必要最低限の他者の接触を避けていると気付くのに然程時間はかからなかった。ならばあの刺激を再び得るには己から近付くしかないと悟ったのが昨日のことだ。あまり喜ぶべき手段ではないのだけれども、心が何かを求める奇妙な感覚は彼に対する嫌悪を押さえ込んだ。
 少年に用があったのではなく、彼のもたらすモノが欲しかった。だから無視をしたのに、それなのに彼は自分に食べ物を恵もうというのだ――人が物をくれるのでさえ経験がないというのに、これ以上の驚きがあろうか。少年に抱いていた嫌悪も、少し晴れたように感じた。
「………お肉、」
 しかし、これだけは言わなければならない。
 ネルフの意向とは全く関係の無い、言わば初めての自己主張だ。己の持つ何かを他人に伝える行為、平坦な心に小さなさざ波が立つような感覚。波は波紋となって広がり、心が静かな刺激で満ちていくのが分かる。求めるようなこの感覚はなんだろう。
 心が欲しているのだとレイは思う。ただ一つの目的以外自分には何も無かった。その彼女に絆を与えてくれたのはかつて身を挺して己を救ったとある男だが、それでも彼との交流でレイが僅かなりとも目を見開いたことはない。彼への情は幼き子が親に抱くそれのように自然なものと受け入れられ、彼女の心に新鮮な何かをもたらしたわけではなかった。
 喜びならば知っている。唯一近付くを許す男との会話は絆を実感させ、微かに胸の内が温かくなるものだ。しかし彼女は負の感情を知らなかった。悲哀の涙と戦いの狂気、彼が見せたそれらはレイにとって全く経験のないものであった。さらに言えば彼は自分を木偶人形と言った疎ましい少年であるが、その悔しさや嫌悪ですら新しかった。
 そして結果どうだろう、他人に興味すら湧かなかった自分が、何と自ら意思を伝えようとしているではないか。
 希薄な心にも、それが嬉しさなのだとわかった。ずっと人間が羨ましかったのだ。受け身ではなく自発的に言葉を交わす人間の姿は憧れですらあった。ゲンドウやリツコを相手に試みてもできなかったそれが今、知って一月と経っていない少年によって叶えられようとしていた。ここに来て良かったと、嫌いな家主を抜きにしてレイは思った。
 しかしその、綾波レイ人生初の積極的行動は、
「……お肉、嫌い」
「出て行け」
滅多に見せない優しさを反故にされて表情から完全に色を消したカイムに、猫か何かのように襟首を掴まれ室内から放り出される結果となった。



「…碇の奴め」
 冬月が司令室へ入ってまず目にしたのは、デスクの上に積まれた資料の山であった。表紙にはどれも極秘の印が押されている。
 これが通常の職員なら機密保持の義務に反する行為であり大問題なのだが、ネルフ総司令碇ゲンドウの場合は事情が異なる。彼の職場である司令室へは特定の人間以外は許可がなければ常時立ち入ることは出来ないようにセキュリティがかかっているのだ。つまりここに許可なく入れるのは副司令である冬月だけであり、その目につくようにわざわざ書類を積んでおくというのは、
「仕事ばかり増やしよって。老人を労らんか」
全て目を通しておけという無言のメッセージに他ならないのであった。極秘の印をされていることから、読まずに済むものでないのは明白。
 しかし文句を言っていられないのが現状であった。二回目の使徒戦を皮切りに、ネルフの上部組織である人類補完委員会の、碇ゲンドウの呼び出しと訊問の回数は急増している。サードの異常とも言える戦闘能力から、その人格が計画に影響を与えるのを懸念してのことであろうか。
(…戦いそのものに言い知れぬ恐怖を抱いた、というのが本音かもしれんな)
 狂気染みたあの子供の戦いは老人の心臓に悪い。前線で指揮を執る決意を固めた冬月でさえそう思うのだから、安全な地でのうのうと暮らしている臆病者が恐れぬはずもないだろう。そう推し量りながら書類を手に取った。
 一組目は作戦部と印字されている。提出印は葛城とあった。題字は『チルドレン日常・ネルフ内行動の記録』とあるが、彼女らしくない几帳面な文字を見るとまた部下に仕事を任せたのだろう。恐らくは日向君か、アバウトな上司を持つと泣くのは部下である。
 随分と薄っぺらな二組目は『サードチルドレン行動記録』。表紙を捲ると先ず目に飛び込んできたのは「不明」の二文字であった。箇条書きにされた報告内容全てに少なくとも一度は目につく。こちらは少し大きめの丸文字であった。恐らくはミサト本人のもの。
「……」
 老人の眉が皺を寄せた。他の記録を見ても、サードについて書いてある情報は少ない。第三新東京市内でネルフが彼を捕捉している時間は、本部に彼が顔を見せている間を除けばほとんどないと言ってよかった。スーパーコンピューターMAGIを所有するこの市内で、である。ネルフから出る時には毎回発信機を荷物のどこかに取りつけているのだが、40分と経たぬうちにその全てが握りつぶされていた。おまけにそれまでの経路が毎回ランダムなものだから居場所の予想など付くはずもなく、尾行と護衛を兼ねて送り出した保安部はここのところ連日連夜サード捜索で疲労しきっているのだそうだ。
 サードの行動は問題である。それ以前に彼の行動と人格は報告書と余りに食い違っていた。声は少年とは思えぬほど低いし人の顔色をうかがう気配など微塵もない。第二新東京市で撮った写真と比べてみろ、人相などまるで別人ではないか。
 そう思い至った瞬間、次の資料から手がよどみなく動き始めていた。ここまで積んであった書類の内容から、そう遠くない位置に探し物があると踏んだためである。案の定、それは割合と早く見つかった。
 技術部の印。赤木リツコのサイン。『サード』の文字。
 表紙に目を通す必要はもうなかった。割と彼に接触する機会の多い赤木リツコに命じたサードの調査。DNAをはじめとして性格、能力、全てについて再確認させたものだ。その上でMAGIに彼の豹変の原因を推測させるものである。冬月もゲンドウもこれを待っていたのだ。
 早速表紙を捲る。運動能力や学力の変化などは読み飛ばし、最後から数枚でまとめられた結論の頁へ辿りついた。そこには考えられるいくつかの可能性が示唆してある。誘拐、洗脳、二重人格などの単語が目に入った。
 見ると既に他の組織に洗脳を受けていて、第二では影武者が演技していたという可能性はほとんどないとある。一番ありそうで、そして一番心配していたものであった懸念が否定されて冬月は小さくため息をつく。よくよく考えればネルフの監視の目をくぐってチルドレンの誘拐などと言う大それたことをできる組織など現実にあるとは考えにくいが、もし万が一と考えていたのでようやく安堵できた。
 しかしそうなると、サードのあの変わりようは一体どういうことか。
 さらに資料を読み進める。監視外での第三者の介入は否定されている。第三新東京市直前で別人と入れ替わった可能性はDNA検査によって絶対にあり得ないと書かれていた。第二での生活が全て演技であったというのは否定されていないが可能性は低いとされており、本人が書物か何かに影響されたとの推測はあり得たが人格にここまで急激な変化をもたらすとは考えにくい。
 その下にあった単語に冬月の目がとまる。そこには二重人格:中とあった。
 結局のところ、状況に矛盾しない案としてはそれくらいのものであった。つまりは第二から第三新東京市を訪れるまでの間に、それまで行動を支配していた人格が鳴りを潜めもう一つの人格が発現したというのである。
 ここで断定してしまうのは早計というものだが、これならば容姿の急激な変化にも頷けた。実際複数の人格を持つ者はそれぞれについて性格のみならず肉体も異なっていたという事例もある。ありとあらゆる可能性を考慮せねばならない現状としては、たとえ非現実的な考えであっても無視するわけにはいかない。むしろ現実的な答えが怪しい場合は、そちらの方を重視すべきとも言えるのだ。
 しかし二重人格ならば、ここまで第三新東京市を訪れてから今までずっとその人格が維持されていることになる。分裂してしまった人格が、果たしてそこまで安定するものだろうか――
「…今考えることではないな」
 目を閉じて一つ息をしてみる。ものごとをついつい深く考え込んでしまうのは教師時代からの悪い癖だ。昔は教え子たちに授業の続きをせがまれたものだなと懐かしく思いながら、思考の海から浮上した冬月は資料の終りに辿り着いた。
 やはり目ぼしい記載はなく、やれやれと肩をすくめた。あの男の選んだ道は決して易しいものではないなと実感しながら、それでもその行く末を見守っているのが自分である。こうして彼の補助をしてやるのも大変なものだが、それを選んだのは自分なのだ。老いぼれた身であるがこの命が尽きるまでは、ゲンドウが何を掴むのかを見届けるのが冬月の意志であった。
 最後の一行に人格崩壊の疑い、つまり第二で生活していた碇シンジの精神が既に死んでいるという可能性があった。これについては資料不足のため保留となっており、冬月もそれはなかろうと高をくくったのか、見るべき他の紙束を前にしてぱたんと閉じた。



「……」
 暫し茫然として、レイはドアの前に座り込んでいた。ぺたんと足を曲げた姿は傍から見れば子供のような姿であるが、その内心は反して穏やかではない。
 彼女からみた意志の伝達は人間が日常的に行うもので、そして長い間の渇望であった。ようやく実現できたというのに、なのに話した途端に追い出されるとはどういうことか。
 あれだけ頑張ったのに、あれが自分の精一杯だったのに。そう考えると胸の中から熱い何かがむかむかと沸き上がるのを感じた。改めかけていた少年への印象も元に戻っていく。
 そしてレイはぺたんと座ったまま、ドアを睨んで、
「………………キライ」
呟く。肉料理に対してでは勿論なかった。



To be continued...


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