第四十五話
presented by ミツ様
NERV本部・総司令官公務室
「まったく…毎度の事ながら、どうにかならんかね。これは…」
NERV本部の公務室に、冬月のため息混じりの声が聞こえる。
「来る日も来る日も同じ質問、同じ批判の繰り返し…よく飽きんものだ…」
そう言って、市議会に提出する『報告書』の束をゲンドウとリツコの前に投げ出した。
中身は使徒襲来に対する戦況経過と敵生命体の解析データ、破壊されたインフラ整備の状況・予算の折衝、はてには関係各所からの苦情の回答書などまであるが、その殆どすべてが黒のラインで塗り潰されている。
今回も議会の紛糾は必至だろう。冬月は居並ぶ市議員の顔を思い出して、疲労感にも似た感覚に捉われる。もっとも、正確なデータを開示したとして、支持率と選挙しか頭にない近視眼達には到底理解出来るとは思えないが…。
ゲンドウに殊更当てつけるようにして見せたのは、面倒事はすべて自分に押し付けおって…、という非難の意味が込められているが、この部屋の主にそんな嫌味が効くかどうかは甚だ疑問だった。もっとも冬月もその辺は心得ているらしく、すぐに話題は今後の計画の件へと移った。
「新たなチルドレン候補と、エヴァ3号機・4号機の搬送は委員会主導で行うそうだ」
ゲンドウは感情を押し殺したような声で淡々と語った。
「マルドゥック機関も通さずにか…?エヴァに関しても、我々には直前まで空路、海路の情報すらオミットとなると、弐号機の時のような小細工はできん、か…。では、『槍』の回収はどうする?」
「それもこちらでする必要はない。アレに手出しをしなければ老人達の懐疑の念も多少は晴れるだろう」
「だが…」
「我々のスケジュールを調整する為には避けられんことだ」
「だから、あえて彼らの手中に乗る、か…」
冬月がそう呟くと、ゲンドウは指の隙間から漏れくるような声で言った。
「それに小笠原の調査結果によっては、『槍』はむしろSEERE側にあった方がかえって都合が良い…」
「そうか…。では初号機の件はどうする?」
冬月は、今度は部屋の隅に影のように控えていたリツコに視線を送った。
「はい」
リツコは短い返事をすると、コンソールを操作した。司令室のディスプレイ上には、エヴァ各機の修理進捗状況が逐次表示されている。だが、その中でも初号機の復旧作業だけは著しく遅滞していた。
「現在、コアに微弱な反応は見られますが…破損が酷く、形態形成システムを総動員してもどれくらい復元するか…皆目見当もつかない、というのが原状です」
「拙いぞ、碇…。初号機は計画の要だ。これではシナリオそのものが崩壊してしまう」
予想以上の最悪な状況に、冬月が眉をひそめて耳元で囁いた。ゲンドウの思いは同じだとはおもうのだが、サングラス越しのその表情までは読み取ることは出来ない。
「可能な限り復元を目指せ…」
しばらくの沈黙の後、ゲンドウはリツコに機械的にそれだけを告げた。「わかりました…」とリツコは答えて退出しようとする。しかし、その背中を呼び止める者がいた。
「…待ちたまえ」
ゲンドウだった。訝しげに振り返ると、彼はおもむろに一枚の写真を差し出す。
「……これは?」
リツコの秀麗な瞳が一瞬細まった。それは、大分画質は乱れ確認が困難ではあったが、間違いなく彼女によって消去されたはずの使徒戦の映像だ。破壊されるプラグ内でシンジの身体の周辺が淡い光で包まれているのが辛うじて見て取れた。
「この現象についてキミの意見を聞きたい…」
余人ならその語調に危険な響きを感じ取っただろう。ゲンドウの視線を正面から受け止めたリツコは、背中に短剣を突き立てられたような錯覚を覚えた。
「……キミも知ってのとおり、プラグ内の機器は殆どが破壊されていてね、このメモリーだけが“奇跡的”に残った」
冬月がゲンドウの言葉の後を継ぐように尋ねた。彼もまた、表情を押し殺したような視線をリツコに送っている。
「驚かないようだね…」
「いえ…そのようなことは。ただ、予測されていた事態の一つではありましたので…」
「ほう…」
冬月が訝しげな声を上げる。ここでの虚偽の申告は身の破滅を意味している。リツコは早まる動悸を抑えて努めて平静に語り始めた。
「いくら新型のパイロットスーツを着用していたとはいえ、プラグの壊滅的損壊に対して、搭乗者の破損箇所は驚くほど“軽微”でした。この事態から推察するに、おそらく初号機が搭乗者を守る為、何らかの防御手段を講じたのではないかと考えるのが妥当です」
「するとあれは、エヴァの力とキミは考えているのかね…?」
「あるいは…、コアの意思です」
この言葉の意味は絶大だった。冬月の瞳が大きく開く。
「それは……事実かね?」
「詳しい調査をしなければ正確なところは…。ですが、可能性は高いと考えます」
リツコを挟み、ゲンドウと冬月の視線が素早く交差する。二人の男が何を考え、何を期待しているか、リツコには手に取るように分かっていたが、次の言葉が発せられるまでの間、冷たい瞳を一瞬たりとも動かすことはなかった。
「それは、EVA開発責任者としての見解と解釈していいのか…?」
長い沈黙を破り、ついにゲンドウが口を開く。
「そう取ってもらって構いません」
「…………」
その瞬間、ゲンドウの視線が再び圧力を増した。引き絞った弓弦のような緊張が二人を包む。だが、それも一瞬の事だった。
「…そうか、わかった。職場に戻りたまえ」
そう言うと、まるで玩具に興味を失った子供のような無関心さで視線を落とした。
リツコは無言で一礼をすると、そのまま司令室を後にした。
リツコが退出した後、いいのか、という表情で冬月がゲンドウを見やる。
「確証は得られていないが、何者かがMAGIに不正にアクセスした痕跡がある。どんな情報を盗まれたかまでは知らんが、お前直通の回線がなければ下手をしたらこれは闇に葬られていたかもしれんのだぞ」
知ってのとおり、第七世代の有機コンピュータであるMAGIのセキュリティー・システムは、想定されるあらゆる侵入に対して幾重もの防御手段が構築されており、これは間違いなく世界最高のものだ。
ハッカーが侵入して来ても、独立した3基からなるスーパーコンピュータの複数の“眼”によって重層的に監視しており、たとえ一つを奇跡的にすり抜けたとしても必ず他の“眼”に捉えられてしまう。
ほとんど外部からの侵入は考えられない。あるとしたら世界中に5機ある同種のMAGIか、あるいは内部からだ…。
職員の中にスパイがいる事は重々承知している。いちいち数え上げるのも馬鹿馬鹿しいほどだ。だが、MAGIに介入出来る程の能力のある者となる看過しえないし、そんな事態をリツコが認識していないはずはない。そして、もし仮にこの件に彼女が絡んでいたとなれば明らかに背信行為となる。冬月はこの場で糾弾るつもりでいた。
「極秘裏に調査は進めているが、いまだ発信元の特定には至っていない」
「MAGIに介入出来る者など世界中に数人もおらん。…それだけで彼女を疑うに十分だと思うが…」
「別に構わん…」
「だが…」
尚も言い募ろうとする冬月に、ゲンドウは冷厳と言い放った。
「利用価値がある間は使う…、それだけだ」
「…お前がそう言うなら、この件は任せるぞ」
冬月は、渋々ではあるがそれでこの話題を打ち切った。
彼としてもこの人手不足の状況でリツコほどの人材を失うのは痛手だ。憶測だけで軽々しく判断していい問題ではない。不満は残るが取り合えず棚に上げる事にし、別の資料の束を取り上げた。
「では、次の問題はこれか?日重の推し進めている謀り事らしいが……まったく厄介事ばかりが舞い込む……」
「所詮、人間の敵は人間だよ…」
ライトテーブルの上に無造作に置かれた黒塗りされていない資料や設計図、そこにはロボットの頭部と見られる巨大な人影も写っており、詳細な性能データも開示されている。
「で、どうする?赤木君があれでは、任せられる者がおらんぞ」
「うってつけのがいるだろう?」
その言葉で、ドイツから出向してきた一人の男の姿を思い出す。
「彼か…成る程な。しかし、あの男に“借り”を作るのは色々厄介だぞ」
「向こうもそれだのものは持っていく。…それに、今はまだヤツは裏切らんよ」
「お前の予測か?最近、俺の予測は外れてばかりだからな。他人のものも信用できんよ」
「…………」
ゲンドウは押し黙った。
最後の嫌味だけはかなり効いたようだ…。冬月は不毛と自覚しつつも、目の前に座る小憎らしい男に一矢報いたことに密かに満足した。
NERV本部・技術研究室
技術室に戻るまでリツコは誰とも目を合わせず、やや青褪めた表情で主任デスクに座り込むと深くため息を吐きながら煙草の先に火を点けた。
一気に肺まで吸い込み、そのまま吐き出す。それを数回繰り返し、ようやく胸の動悸が収まりかけてきた。
今回は冷や汗ものだった。だが上手くいった。薄氷を踏むような危うさだったが司令達は食いついてくれた。
プラグ内での現象はレイやアスカ、他のチルドレンでは起こりえない。予備としての認識しかされていないシンジだが、これで初号機に対する有用度は増しただろう。リスクは伴うが、監視の目はすなわち警護レベルの強化にも繋がる。
これから孤立無援の戦いを強いられる彼の、少しでも役に立てれば…。
司令直通の秘匿回線の事などとうに知っていた。…そう、リツコはシンジの特異性が露見しない程度に、自らに疑惑の目が及ぶ事も承知してあえてあの映像を残していたのだ。
もっともこれは危険な賭けだった。ヘタをしたらあの場で処分されていてもおかしくはなかったのだから。
ゲンドウは自分を見逃したのだろうか…それとも……。
あの昏き瞳の奥底にある真意までは計り知れない。
今も…。
これからも…。
「ホント、つくづく危ない遊びが好きね……我ながら度し難いわ」
自嘲気味の笑みを浮かべながら、リツコは煙草の煙をくゆらした。
紫煙は空間を漂いながら天井の浄化フィルターへ消えていった。
???
紅い光が世界を覆った。
サード・インパクト……、今まで信じていた摂理が次々に溶けて消えていく。
非常なる現実…その時、シンジは聞いた。世界の声を。
幾千、幾万、幾億の苦しみ、哀しみが、関をきったように押し寄せ、膨大な奔流となって脆弱な心の裡に流れ込んでくる。
抵抗など出来ようはずもない。世界の中心とされたその身は数知れぬ怨嗟の念に包まれ、欲望や憎悪が心をぼろぼろに引き裂き、発狂しても尚責め続けられる。
その辛苦たるや、経験した者でなければ一片すらも理解出来ないだろう。
少年は恐怖に怯え、心は乾いた闇の中へと沈んでいった。
そこには何も無かった。
夢も…。
希望も…。
絶望も…。
悲しみも…。
あるのはただの絶対的な喪失感だけだった。
…どれだけそこに漂っていただろう。
幾十年…幾百年…幾千年…あるいは、ほんの一瞬だったのかもしれない。
時間さえも意味を失ったはずの空間から、自分を見つめる気配を感じる。
意識を向けると、一人の女性らしき人影が立っていた。
少年の顔が再び恐怖で醜く歪む。
他人は敵だ。
傷つけ合う為にしか存在しえない。
咄嗟に伸ばした腕でその細首を握り締めた。
すると影は何の抵抗も無く、まるで糸人形のようにその場に崩れ落ちる。
それは人ではなかった。ただの土くれだった。
呆然と立ち竦む少年。
しかし、恐怖は止まない。いつまでもその空間に、虚空に張り付いたままシンジを見つめ続ける。
少年は我知らず辺りを見渡した。何も無かったはずの空間は、いつしか幾つもの恐怖の眼差しが怨嗟の念を纏って覆っていたのだ。
少年は叫んだ。どこにも逃げ場などない、絶望に彩られた叫びだ。
身体が熱い。抵抗できない力で、すべてを絞り取られるようだった。
シンジはその場に崩れ落ちた。
精神が壊れかけようとした瞬間、誰かがそっと肩に手を触れた。少年は我に返って背後を振り向く。
それは見知った顔のような気がした。
その名を呼ぼうとした瞬間………少年は眼を覚ました。
「ここは……」
意識が完全に覚醒するまでにさらに数秒を要した。
自分は何者で、何故ここにいるのか…?
突然、意識の底から記憶が泡のように浮かんできた。
自分は使徒と戦い…そして。
シンジは廻りを見渡した。
見覚えのある天井、壁…。以前運ばれた集中治療室の一室だろう。脳波や脈拍等を測定するアナライザー、音波画像システムなどの機器類で取り囲まれ、身体のあちこちにチューブが巻かれている。
「…………」
少年は深い嘆息と共に、もう一度瞳を閉じる。
決まって見るいつもの悪夢…。それはどんなに否定しても消える事のない過去の忌わしい記憶だった。
それにしても身体が重い…、まるで鉛のようだ。いまは指一本動かす気にもなれなかった。
「また、この天井か…」
少年の呟きは、染み一つない白い天井に静かに消えていった。
To be continued...
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