傷ついた体を癒すかのように、初号機はLCLにその体を浸していた。
紫の鬼。そう見えていた外見は、今は無い。第三新東京市に進行してきた三体目の使徒。ラミエルと呼称されることになった、青いクリスタル の様な使徒の持つ凶悪な加粒子砲により、見た目の元となっていた装甲を破壊されたからだ。
紫の装甲に隠れていた本当の姿。
――それは異様なモノだった。
包帯に巻かれある程度隠れてこそいたが、人ならば皮膚により表れることのない、生の筋肉。むき身の眼球。歯と歯茎。気の弱い者なら、 泣き出すか気を失っても可笑しくなさそうな代物だ。
それだけでは無い。人造人間と呼称される程の人との酷似性が、異様さを更に際だたせていた。
しかし、今の生身の姿は、同時に先の戦闘が激戦だったことの証とも言えた。
本来エヴァは、人造人間という呼称が示すように、人と同じく自然治癒能力を持っている。その能力は、多少の傷ならば、 LCLに浸していれば、装甲を付けていてもさほどの時を必要とせずに回復する程のもの。今回のように生身を晒すことは、 本来ならばまず無いはずなのだ。
先の戦闘で初号機が負った損害、傷とは、そんな想定を覆す程のものであった。
初号機がその傷を負った戦闘の最前線に立っていた少女、綾波レイ。今、彼女は、目の前の異形の生命体を見つめていた。
「――何故?」
作戦の前レイに縋り付き、命を落とすかも知れない恐怖に怯え泣き叫んでいた初号機のパイロットであるシンジを思いだし、呟いた。
レイにとって碇シンジとは、とても不思議な人物だった。
戦闘前、縋り付き泣いていたシンジの頭を自然と抱きしめたこと。何か訴えかけるように話すシンジに、隠しきれない動揺を 受けたこと。
何よりも、恐怖に飲まれていたシンジが、死ぬことに怯えていたシンジが、一度会話をしただけの自分を、命を懸け加粒子砲から守ったことが 一番の不思議だった。
「――何故?」
目の前のモノを操り、自分を守ってくれた人物を思い浮かべ呟く。再びその言葉を口にしたレイの目には、淡い期待の色が 浮かんでいた。
第肆話
presented by 剣牙虎様
ベッドの横に立つミサトは、険しい顔でベッドの少年を見つめる。
一定の間隔で鳴っていた電子音を掻き消し、ギリッ……! と歯を噛みしめた音が部屋中に響く。
耳障りなその音にも、ベッドに横たわる少年――碇シンジは反応を示さない。
ヤシマ作戦で初号機が受けた損傷を考えれば、奇跡としか言いようがないだろうが、見た目にはシンジは何処も怪我をした様子はない。
だが、それだけだった。
あの戦闘から六日。シンジは精神をどこかに置き忘れてきたかのように一向として意識を取り戻そうとはせず、意思のない濁った目を 天井に向けているだけだ。
シンジが心底憎んでいるだろう、ミサトやリツコが来ようとも、何の反応も見せず濁った目でただ天井を見つめているのみ。
今のところ訪れた誰にも反応を示した様子はなかった。
残るは、シンジの父でありネルフ司令でもある、碇ゲンドウぐらいしか反応を示しそうな人物はいない。
ミサトも僅かながらの可能性に縋り、シンジに会わせようとゲンドウに連絡を取ろうとするも、あの戦闘後から全く 取れなくなっていた。
医師も出来うる限りのことはしている。だが、現状で打つ手はなかった。
「――何故?」
どうしてこんな事になってしまったのだろう……。そう続けることは出来なかった。
両親、親類共に恵まれていない少年。そんな環境の中で見つけた大事な人達。彼にとって、自分の命よりも大事な者を脅迫の道具に使った 人間の言って良い言葉ではないのだから。
塵に等しい希望を抱き、自分の言葉を耳にしたシンジの顔を眺めた。
当然のように何も無い。
憎悪。諦観。恐怖。無意思。ミサトが知るシンジの顔は、そんな負の方面のものばかり。改めてろくな事をしていないものだと思うと、 口元が歪んだ。
眺めていたシンジの目に、ミサトの薄い笑みが映った。
その顔は、最近どこかで見たような気がした。
自虐に入り込んでいた思考から逃げるように、ふと思いついた事にミサトは没頭し始める。
考えること暫し。ふと、リツコの顔が思い浮かんだ。
今から五日前。あの作戦の次の日のこと。シンジの病状を聞きにリツコの下へ行った時だ。
あの日のリツコはいつもと違った。
使徒戦後に浮かべる疲れた顔とは違う、何か耐える事に疲れたような顔。そんな表情だった。
終始事務的に、ミサトへシンジの容態を話していたリツコ。
そんなリツコだったが、一度だけそのスタイルが崩れた時があった。ミサトにシンジを見せようと、手元の画面にシンジを写した時だ。
リツコはシンジを見た時、ほんの一瞬だが確かに笑みを浮かべていた。
あの時は、その意味が理解出来なかった。だが、今、自分の笑みを見たミサトは、その意味を完全に理解した。
自嘲と僅かばかりの憐憫。あれはそう言うたぐいのモノが、象ったものだった。
普段は感情を押し隠すリツコが浮かべた、生の表情。それの意味することに思いついたミサトは、自分ばかり落ち込んで られないと、今までとは違うしっかりとした足取りで病室を出て行った。
それから三日。病室にも、ベッドに横たわるシンジにも変わったことはなかった。
シンジはただ天井を見ているだけ。その様子は、戦闘時に見せた狂った笑い声が嘘だったようだ。
だが、リツコの手元の画面に映っている画像はそれを否定していた。
LCLに溶けるように体が崩れていくシンジ。皮膚が溶け、筋繊維が溶け、崩れた各部位が溶けていく様子。
あまりに生々しいその映像は、指揮車に映らなくなった後のもの。マギに保存されている、実際に起こったものだ。
「……どこからが同化の始まりなのかしら?」
エヴァとの同化。それはシンクロ率四〇〇%以上になった時に起こる現象。
戦闘後にわかったシンジのシンクロ率最高到達点は四〇〇%以上。
どこかでシンジはLCLと化しているはずなのだ。しかし、それがわからない。
シンジの体は少しずつ崩れていっている。そして何も無くなった後、暫くして突然完全な状態で現れるのだ。
前例として残っている、碇ユイ、惣流キョウコの事例とはあまりに違いすぎた。
この映像を見ていると、シンジが意識を取り戻さないのは、復元されたのが肉体だけで、意識上は死んでいるのではないかと 疑いたくなってくる。
一向にはかどらない作業にリツコは軽く溜め息をつくと、モニターの画像を他の物に変えた。
モニターに映ったのは、シンジの病室だった。
「…………」
シンジを眺めるリツコの目は、感情が複雑に入り交じっていた。
「……十一時半」
時間を確かめると、リツコは画面を変える。病院の廊下の様子が映る。そこには、ミサトに連れられた家族が映っていた。
ミサトと一緒にいる家族。彼らは、シンジをエヴァに乗せるための道具とした、霧島一家だった。
切迫した顔の父、タツマ。娘の手を握り勇気づけている母、ナツキ。泣きそうなのを必死で我慢している様子の娘、マナ。三者三様だが、 誰もがシンジを心配しているのは間違いないだろう。
ヤシマ作戦後、表に出てこなくなったゲンドウ。当然のことだが、シンジの下へは一度も訪れていない。実の父であるゲンドウと、彼らとの 違いに、リツコは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「シンジ!」
可愛らしい女の子の声が部屋に響いた。
「シンジ!」
シンジが起きないからだろう、何度も呼ぶうちに声が乱れはじめた。そして名前を呼ぶ声は徐々に言葉にならなくなり、泣き声に変わっ ていた。
強くて優しい彼女が泣いたことは数えるぐらいしかない。ほとんど聞いたことのない、だからこそ忘れることが絶対に出来ない泣き声。 原因が自分のこととなればなおさらだ。
もう二度と泣かせたくないと思っていた。彼女のように強くなって、泣く事がないように守りたかった。
――なのに。
「……マナ」
「シンジ!」
どれ程の喜びがこめられていたのだろうか? その声は、病室に立ちこめる陰鬱な空気を吹き飛ばしてしまった。
マナはシンジに抱きつくと、シンジ、シンジと泣きながら名前を呼び続けている。
後ろでは、ハラハラした顔のタツマと、満面の笑みを浮かべタツマの腕を押さえているナツキの姿。ほんの数日前までよく見ていた 光景だった。
もう二度と見ることがないと思っていた愛しい光景と、大事な人達。
鼓動が早まり、胸が高鳴る。気付けば、涙が溢れていた。
暫くすると、マナの泣き声も徐々に小さくなり、シンジの意識もハッキリし始めてきた。
そうなると、シンジは恥ずかしくて仕方がない。抱きつかれている子の両親は目の前にいるのだ。露出癖やら特殊な性癖を持っている 訳ではないシンジには、一転して勘弁して欲しい状況と化した。
「――もう満足したでしょ、マナ。いい加減、お父さんが拗ねるわよ」
泣きやんだ後もシンジから離れようとしないマナを、ナツキは笑いながらたしなめた。
顔を真っ赤にしていたシンジは、ナツキに目で軽く礼をする。ナツキもナツキで、シンジにニッコリと笑うと、マナを引きずるように して部屋の角まで連れていった。
「……何をしているんでしょう?」
「…………」
不思議そうに聞いてきたシンジに、タツマはヤケに達観した笑顔を浮かべ何度も肯く。
「……何事もほどほど……」
「なる……じゃあ、こういう……」
「それは……」
隅っこでボソボソっとした会話をしているナツキとマナと、目の前の父とも言える人のなんとも言えない表情を見比べていると、 名状しがたい戦慄がシンジにはしった。
「シンジ君、良いことを教えてあげよう」
「あ、あの……おじさん……」
「諦めが肝心だよ。……うん」
ハハッ……と、ヤケに虚ろに笑うタツマが目に痛かった。
楽しい時間というものはすぐに過ぎていく。反対にイヤな時間というものは、心に重圧を掛けながらなかなか過ぎていかない。 シンジはその事実を今、改めて認識していた。
目の前にいるのは、霧島親子ではなかった。初めからいた葛城ミサトと、彼らが帰った後、見ていたかのように時間を経ずに来た 赤木リツコと初老の男。
「久しぶり。――とでも言うべきかな、シンジ君」
シンジに話しかけてきた白髪の男は、大学で教鞭を振るってそうな好々爺とした外見とは裏腹に、目には強い光が灯っていた。
「初めてお会いしたと思いますが……」
「シンジ君とは、君がこんなに小さい頃会ったことがあるのだよ。――いや、君が覚えていないのも当然だ」
そう言い、男は柔らかく笑う。
「そうだったんですか」
「改めて、私は冬月コウゾウ。ネルフの副司令をやっている。まぁ、君の父、碇ゲンドウの雑務一般をやっているとでも思ってくれれば いい」
「碇シンジです」
目の前の初老の男、冬月が、自分で言っているような実務しかやっていないような人物にはシンジには見えなかった。
「シンジ君。この間の戦いだが、ネルフ副司令としてネルフを代表して礼を言う。本当にありがとう。どれだけ感謝をしても 足りないぐらいだ。
――勿論、一個人としても君には深い感謝の念を抱いているよ」
横たわるシンジの目線に会わすように片膝をつくと、シンジの手を握り、冬月は深く頭を下げ感謝の意を表した。
ゲンドウやミサト達とは違う冬月の態度に、シンジは疑念を抱く前に、得体の知れない物を前にした時と同じ不安と恐怖を感じた。
ゆっくりと顔を上げ、再び立ち上がる冬月。ミサト、リツコ、冬月、三人の視線がシンジに集まった。
「……では、私は戻るとするよ。碇の奴がため込んでいる書類もあることだしな――」
そう言うと冬月は踵を返し、部屋を出て行った。そんな冬月の行動を理解することが出来ず、シンジは軽い混乱に陥った。
「シンジ君。副司令も言っていたけど、私達は、ネルフは貴方に感謝しているわ」
リツコとミサトもシンジに礼を言い出しはじめた。
だがミサト達の行動にシンジは違和感を感じた。
違和感の原因をシンジは考える。とても解りづらいが、自分にとって大事なことだとも理解出来たため、考える。
冬月とミサト達の話を思い出した時、違和感の原因が解った。
それは、ミサト達は礼を言おうとも謝罪は口にしていないと言うこと。冬月もあの場にいなかったにしろ副司令という重職だ、 ゲンドウやミサト達のしたことを知らないはずがない。
シンジを脅迫したという事実が、彼らから、ネルフから消え去り無くなっているのだ。
――信用出来るはずがない。
ネルフの在りように、吐き気を催すような嫌悪と、殺意とも言える程の怒りを感じる。
だが、シンジは愚かではない。馬鹿なマネなど取れようがなかった。
刃向かって良い時と悪い時があるのはイヤという程知っている。大事な人達があちらの手に握られている以上、言葉を選び、 感情を殺して話す。
「……いえ。やらなければならないことやっただけです」
ミサト達への返答も、シンジには言葉通りの意味、だがミサト達には、真剣な表情を浮かべながら話すことで謙遜しているようにも 見せた。
それは霧島一家の知らないシンジの処世術。
幼い頃から親のことで虐められ、親類である叔父達からもいわれない差別を受け続けた、シンジの生きる術。
相手の持つ空気、雰囲気を全力持って出来うる限り読み取り、望んでいるだろう態度を取る。とり続ける。目的を達成するその瞬間まで、 自我を押さえ、自分をも欺き、演じ続ける。
誰一人として味方のいないシンジが自然と身につけた、いや、身につけざるを得なかった、抵抗と反撃の手段。
「シンジ君、一つお願いが在るの」
「……僕に出来ることでしたら」
ミサトの話に、シンジは真剣な表情で答えた。
その力強い返答に、ミサトの表情が僅かに明るくなった。
「エヴァにこれからも乗って欲しいの……」
「そ、それは……」
怯えたようにシンジはミサトから目を反らす。その様子に何かを思い出したかの如く、ミサトの表情は曇った。
落ち込むミサトの後を引き取るようにリツコが話し始める。
「近いうちにドイツからもう一人チルドレンが来るわ」
「なら!」
「それでもエヴァは二体。今回のように一体が動けなくなれば、使徒に使えるのは一体だけ。貴方が必要なことには全く関係がないわ」
僅かな希望に声を上げるシンジにもまるで動じず、リツコは淡々と語る。
「それに、新しく来るチルドレンもレイと同い年の女の子よ」
最後にそう言うと、リツコはシンジの目を見据えた。
断ることが出来ない立場と言うことは、最初にエヴァに乗ることを承知した、ネルフの脅迫を飲んだ時点で決まっているのだ。
だと言うのに、シンジの逃げ道をふさぐようにして同意を得ようとするネルフ。ならばそれを利用しようではないか。
「父に会わせて下さい」
父というのもおぞましい、本心では二度と会いたくはないが、そうも言ってられない。
「司令とは今連絡が取れないの……」
何処かすまなさそうな、ミサト。今のシンジにはそれすらも鼻につく。罵声を浴びせ掛けたくなってくる。
「これからもエヴァに乗るには、父に守ってならなくてはならないことがあるんです。……だから」
「今は無理ね」
「なら、僕も今は何も言えません」
「貴方がこれからもエヴァに乗るというなら、近いうちに司令と会わせることを約束するわ」
「話だけでもかまいません」
シンジはリツコを睨み付けるようにして言った。そんなシンジにリツコは軽く溜め息を吐いた。
「……わかったわ。ちょっと待っていなさい」
こめかみを揉むようにしていたリツコは、携帯を取り出すとどこかへかけた。
一言二言話すと、手にしていた携帯をシンジに渡す。シンジは黙ってそれを受け取った。
「……何のようだ、シンジ」
低い男の声。はらわたが煮えくり返る様なその声。携帯の向こうにいる相手に対し、絶え間なく湧き出る殺意を懸命に押し隠し、 シンジは話す。
「一つ約束して欲しいことがあるんだ」
「下らん……」
「エヴァに乗るにはどうしても必要なことなんだよ」
電源を切ろうとする相手へ、シンジは穏やかに言った。
「なんだ」
「最初にも言っていたよね……。チルドレンになると、本人だけではなく周りの人も危険に晒させるって。だからさ……僕が安心して エヴァに乗れるように、タツマおじさんを、ナツキおばさんを、マナを、守って欲しいんだ。かすり傷一つ負わないように、あらゆる事から 守って欲しいんだ」
父へ甘える子供のようなシンジ。それは今まであったシンジとゲンドウの出来事が嘘であるかのように、とても子供らしい声だった。
「……いいだろう」
僅かな間を空けゲンドウは答えた。
「ありがとう…………父さん」
そう言うと、シンジはリツコに携帯を返した。
「これからはよろしくお願いします、葛城さん、赤木さん」
その後、ミサトとリツコはいくつかこれからの事柄を話すと病室を出て行った。
シンジ以外、誰もいない病室。
天井を無表情に眺めていたシンジは、寝転がり俯せに枕に顔を埋める。
そのままシンジは何かに耐えるように小刻み震えていた。
To be continued...
(あとがき)
第肆話でした〜。
風邪を引いていた頃に書いていた場所がなんか妙な展開をみせています。まぁ、本人にしかわからないことなんですけど。
いろいろとテンション次第で細いとこの展開が変わること変わること。
毎度のことですが話を考えるのはむずいな〜。
では、第伍話でまた〜。
作者(剣牙虎様)へのご意見、ご感想は、または
まで