ようこそ、最終使徒戦争へ。

第三章

第二十話 奇跡の価値は

presented by SHOW2様


変化の胎動。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−






(使徒は…………本当に”前”と一緒なのかな…)




……何処とも知れない世界。


希望に満ちた世界… 絶望に支配された世界…

色が溶け合った白い世界… 色を飲み込んだ黒い世界…

人々の想いと感情が織りなす運命が混ざり合った混沌の世界…

『…ん。』

様々な事象を眺められる特殊な空間。

知覚できる時間という概念の流れさえ違うこの虚空に、第3新東京市がぽつんと浮かぶように映っている。

『目覚めたんだね、おはよう。』

『…。』

上空から俯瞰していたその映像が動き出すと、

 日が暮れたばかりの薄い星空の下に佇んでいる一本角の巨人のシルエットが大きくなった。

『…私…』

『やはり…』

『…え?』

『キミが目覚めたっていうことは、彼が気付き始めたってことだ。』

マトリエル戦を終えて草葉で蒼銀の少女に膝枕されている白銀の少年を静かに見ていた目が、ふっ…と笑う。

『…行くの?』

小さな声が空間を震わせた。

『ん。 …ちょうど頃合いだと思うんだ。』

『そうなの?』

それは仲睦まじい青と白のプラグスーツ姿の二人を見ながらの会話だった。

『うん。 …やっと彼、”違和感”を覚えたみたいだし…』

『そう…』

『やっぱり…こっちから挨拶しなきゃね。』

それは、とてもうれしそうでいて、どこか悪戯っぽい口調。

異空間に響いた会話は、それ以上続くことはなかった。



………第九の使徒戦後、その翌日。



巨大な採光ビルが太陽の強い光を取り込んで、地下深いジオフロントに地上と変わらぬ光を届けている。

そんな昼時。

3人のチルドレンと葛城ミサト、加持リョウジはNERV最高責任者に出頭を命じられていた。

”プシュ!”

センサーが反応すると高圧空気によって扉が勢い良く解放された。

「葛城ミサト一尉、出頭しましたっ!」

それはこの部屋に参集を命じられた最後の人物が、やっと現れたという事を示すものだった。

「やばっ やっぱ、もうみんないるじゃない…」

先ほどから耳に痛いほどの静寂と得も言われぬ圧迫感に苛まれていたアスカは、その声に噛み付いた。

「やば…じゃないわよ、ミサト! まったく待たされるこっちの身にもなってよね!」

「なによ〜 時間ぴったりじゃない。」

少女に答えたのは、包帯姿が痛々しい妙齢の女性。

「ハンッ! ミサトの時計、遅れてんじゃないの?」

「そんなこと無いわよ。 それよりアスカ、ずいぶんと不機嫌じゃない? なんかあったの?」


……単に総司令官執務室の居心地が悪かっただけだが、アスカはそれをミサトのせいだと決め付けた。


先日の潜入部隊との一件で怪我を負った彼女は、

 それでも生気に満ちた目をウインクさせて素早く列に並んだ。

「それでも元軍人なら最低5分前行動くらいしろっての… ったく、」

「…葛城ミサト一尉、加持リョウジ一尉。」

くだらない会話を一刀両断する声。

全員が揃ったところで口を開いたゲンドウに、紅茶色の髪の少女は慌てて口を閉じた。

「「ハッ!!」」

名を呼ばれた大人たちは反射的に一歩前に出ると、流れるように右腕を上げて敬礼する。

「先の第一種戦闘配置の発令に対して、職務放棄と同義である命令の不履行。

 …これは重大な過失と厳罰に値する。」


……し、ん。 広大なこの空間に、最高責任者である男の厳しい言葉以外の音はない。


「しかし、それはっ! ぅ…」

ミサトは弁明しようと口を動かしたが、ゲンドウの鋭い眼光を受けて言葉を続けることが出来なかった。

サングラスを掛け直したゲンドウは、ミサトの提出した書類を端末上に表示させた。

「葛城一尉、君からの報告は聞いている。」

「ハッ!」

ゲンドウは、顔を上げてミサトの反対側に立っている少年に目を向けた。

「…碇二佐。」

「はい。」

「保安部と特殊監査部の報告で、EVA独立中隊から提出された第一次報告書の確認は取れた。」

シンジの提出した報告書は、潜入部隊の発見と交戦、そしてその顛末や設備の状態など多岐に渡っていた。

「よって、今回の件では特例事項Cを適用し、葛城、加持両名について処分は行わない。」

最高責任者の寛大な裁量に、ミサトは自然と大きく胸を下ろした。

「…では、これより辞令交付を行う。」

ゲンドウは机から箱を取り出した。

「中央作戦本部所属、惣流・アスカ・ラングレー三尉。」

「は、はい。」

突然と自分の名が挙がったことに、慌てながら一歩前に出る少女。

「先の戦闘の功績を評価し、二尉とする。 君の一層の精励を期待する。」

アスカは、周囲に自分を認めてもらえたと瞳を少し大きくして背筋を伸ばすと、バッと勢いよく敬礼した。

「ハッ!」

「受け取りたまえ。」

ゲンドウは、箱の中から階級章を取り出して紅茶色の髪の少女に手渡す。

「エヴァンゲリオン独立中隊所属、綾波レイ三佐。」

”コッ…”

静かに踏み出したレイの靴音が小さく響いた。

「…改修後、再配備されたばかりの機体による初戦闘、ご苦労であった。

 規定に基づき特別賞与を支給する。」

「はい、ありがとうございます。」

「エヴァンゲリオン独立中隊隊長、碇シンジ二佐。」

「はい。」

「…潜入部隊の第一発見と迅速で適正な処置により本部の被害を最小限度に抑えることができた。

 そしてEVA初号機による使徒殲滅、ご苦労だったな。 綾波三佐と同様、特別賞与を支給する。」

「ハッ!」

父親は、挙手敬礼した息子に自然と柔らかな視線を向ける。

誰にも気付かれぬほどわずかな時間、父親の顔だった司令官は、

 直ぐに職務にふさわしい顔を取り戻すと、両手を組み直して机に肘をついた。

「…私からは以上だ。 下がりたまえ。」

シンジとレイは再度敬礼すると、そのまま部屋を後にした。



………洋上。



”ザザザァァァ…”

国連海軍の空母打撃群が昼とも夜とも取れないあいまいな空の下、海上を滑るように進んでいる。

大小様々な軍艦を擁するこの艦隊群は、

 オーバー・ザ・レインボーと同じ太平洋艦隊を構成する片翼、第三艦隊である。

これは国連軍の再編、再構築を終えてもセカンドインパクト前と変わらず同じ構成だった。

その歴史ある軍用艦のデッキ上で特殊な防護服に身を包んだ着艦誘導員が、

 ライトスティックを点灯させておもむろに大きく腕を振った。


”キュィィィ…!!”


彼が決められた手順を手慣れた様子で始めると、

 6機の護衛機を引き連れて上空で待機していたVIP用のVTOL機が徐々に高度を下げる。


……現在、国連軍の第三艦隊は極秘任務のため、封地され何人も接近を許されぬ南極へ航路を執っていた。


「碇司令閣下、お待ちしておりました。 こちらへお願いします。」

「…ご苦労。」

ゲンドウは空母のアイランドに向かいながら、数か月前から進めていたこの計画に思いを馳せた。



〜 闇 〜



使徒戦の報告とあらゆる計画の定期報告会も終了という時、碇ゲンドウの言葉に場の空気が変わった。

『…ロンギヌスの槍を、だと?』

老厳とした男の声が空間を震わせた。

その先にある白い手袋が、ライトの光を反射して浮かんでいるように見える。

「はい、そうです。」

それ以外は全て闇と思える空間で、発言を終えた男は静かに相手の出方を窺っていた。

サングラスの男を取り囲むように、ホログラムで投影された長方形が円陣を組んで浮かんでいる。

『ロンギヌス… 碇、それは…』

01を正面12時とすれば、正対する6時の方向に浮かぶモノリスの声には明らかな戸惑いの色があった。

ゲンドウは、許可が降りないという自分の予想どおりの言葉をあえて遮った。

「黒き月の地下に眠るリリス。 その復元状況についてのデータは、ご覧になっていると思いましたが?」

『ふむ。 …確かに、想定よりも早すぎる成長速度だということは、こちらも理解している。』


……ゼーレもゲンドウもジオフロントの白い巨人が、シンジの手によってアダムになっている事を知らない。


若干、顔を伏せ気味にしたままサングラスの男は説明を続けた。

「…このまま事態を放置しておけば、約束の時を待たず”我ら”のシナリオは破綻を迎えるでしょう。

 私の提言、この計画はその由由しき事態を防ぐために必要な措置だと、ご理解頂けると思っております。」

反射するメガネを残して、暗闇に長い沈黙が訪れた。

理解を示したモノリスたちは、自分たちの首魁であり責任者であるナンバー01の言葉を待っている。

視覚情報を直接脳に伝達しているバイザーの老人は、ゲンドウを見ながら自分の指すべき一手を考えていた。

(…ロンギヌス計画は既に解析を終え、再現へと進んでいる。 黄色人に渡すのは勿体ないが、

 ヤツの言うとおり約束の時を待たず、リリスが覚醒しては計画そのものが破綻してしまうだろう。

 …ふん、致し方あるまい。)

自分の格下の言いようのままに”事”が進むのは面白くないと思いながらも、

 彼は、最近さらに電子機械化が進んだ半身を使って通信をONにした。

『…よかろう。 許可する。』

審議室の中央に座っているゲンドウは、選民思想に取りつかれている老人の言葉に少しだけ顔を上げた。

「では…」

意趣返しではないが、口の端を上げたキールは日本人の発言を切り捨てた。

面白くない… 上げられた溜飲は少しでも下げねば…

『…人類補完委員会より国連軍に発掘、搬送の作業を行わせるが…その現場指揮は碇、おまえの仕事だ。』

闇に響いた命令にゲンドウの目が少しだけ細くなった。

「私に、南極で指揮を執れと?」

『左様。 何か問題でもあるのかね?』

議長の言葉に続いて、他のモノリスが口を開く。

『…碇、我々の計画における槍の重要度からすれば、これは妥当な命令だと思わないのかね?』

「もちろん理解しております。 …了解致しました。」

組んだ手に再び顔を沈めて答えた男の声に、感情の色はなかった。

『では、審議は以上だ。』

”ヴォォン…”



………そして、今。



第九の使徒、マトリエル戦から一週間が経ったある日。

現在、第3新東京市は天蓋都市部の復旧に全力を挙げていた。

これは、今までの使徒戦よりも大規模であり、また短期間で終わらせるために昼夜問わず集中的であった。

なぜなら、戦闘用の設備に被害が少なく、日常に必要な施設に大きな被害があったからだ。

そんな巨大クレーン車などの重機や特殊アームを装備した作業車が引っ切りなしに行き交う街中を、

 綾波レイは蒼銀に輝く髪を揺らし上機嫌な波動を振りまいて歩いていた。


……当然のように、彼女の右腕がシンジの左腕に絡まるように組まれているのはお約束だろう。


仲良く二人で肩を並べて歩くという状態をデートというのなら、

 市立第壱中学校への登下校やNERVへ向かう時でもデートと言えなくもないが、

  何はともあれ、今日は彼と使徒戦後にすると約束していた正式なデートであった。

(…久しぶりのお出かけ。)

レイの心は、常夏の青空に浮かぶ小さな雲のようにふわふわと高揚していた。

(真っ青なお空… 今日もいいお天気。)

少女は空を見上げて、彼の腕にぴとっとくっ付いた。

先日のバケモノとの戦闘影響を辛くも逃れられた繁華街は、逞しくも平常どおりの賑わいを見せている。

シンジたちはその雑踏に向けて足を進めていった。



………ブリッジ。


航空母艦の艦橋上部に併設させた控室は特殊強化ガラスで四方を張られていて、

 そこからは歪んだオーロラが人の目を惑わすように揺れているのが見られた。

”プシュ…”

「待たせたな、碇。 現地の作業状況を確認してきたぞ。」

扉から入ってきた男の声にゲンドウはちらと目だけ向けた。

「俺たちが現地に着く頃には、運搬に必要な養生作業は終わり、特殊楊重機の据え付けも完了する。」

「…そうか。」

レポートに目をやりながら報告したのは、ロマンスグレーの髪をオールバックに整えた初老の男性である。

「…それにしても第3への輸送、あの槍の運搬を直接俺たちで指揮しろとは…何ともイヤミな命令だな。」

使いに出した人間がどれほど忙しい身であるかは、雇い主の方がよく知っているだろうに…

「ふん、ただの嫌がらせだ。」

不満を目で語った冬月に、ゲンドウはメガネを左手の中指で掛け直しながら表情を変えずに答えた。



………カフェ、NERV本部。



「…ど、どうも。」

コーヒーの香りに包まれた空間に響いたのは、若干緊張したような硬い声音だった。

「?」

「あの、お隣…よろしいでしょうか?」

そんな言葉が、随分と遅いモーニングを摂っていた女性の耳に入る。

それは聞き覚えのある男性のモノではあったが、それほど頻繁に聞くものではない。

…? この組織で自分に、いや自分を知っているのであれば声をかけてくるのは、限られた人間だけのはず。

それ以外は遠巻きに見ているだけなのに… それを踏み越えてくるなんて、一体…誰かしら?


……朝方まで研究に費やしていた彼女の脳は、普段よりもかなり回転が遅かった。


自然と記憶に付けたインデックスを利用して人物を特定するリツコ。

記憶の辞書を引きながら彼女が視線を上げて見ると、その男性は土井マサルであった。

男が”だれ”なのか…

それを記憶と現実の映像で認識した彼女の瞳が少し大きくなって口が小さく、あ…と形作られる。

若干の動揺を内面に隠しながら返事をしたリツコの口調は、少し早口になってしまった。

「あ…ええ、どうぞ、土井さん。 朝食ですか? 少し遅いですわね。」


……もう昼前なのに。 しかし、そう言った女性も同じような状況である。


「ははは…気が付くと、いつもこんな時間です。 ところで、研究のテーマについて相談があるのですが…」

マサルはNERVに出向してからほとんど本部内で寝泊まりしていた。

それほど、NERVという組織が扱っている技術は刺激的で彼を夢中にさせていたのだ。

男は席に着くなり、アイスコーヒーにガムシロップを投入した。

ミルクは入れないのね…

リツコは、無意識に彼の嗜好を観察してしまう。

「…甘党ですの?」

「え? あ、いや、そうじゃないんですよ。 これは頭の栄養補給のためで、普段はブラックというか…」

マサルは子供っぽい処を見られた、と耳を若干赤くさせて否定した。

(私より年上なのに…)

そんな様子が、とても可愛い… 目を細めた金髪の女性は、慈愛深い笑みを零した。

「ふふっ…ブドウ糖は脳の活動に必要ですものね。」

それは普段の職場では聞けない柔らかな口調だった。

くすっと笑った白衣の女性の言葉に、男はまじめな顔で咳払いをする。

「え、ええ…その通りです。」

赤面状態のマサルは、努めて冷静にストローを口に含み、深く一飲みするとサンドイッチに手を伸ばした。

…温くなってしまったコーヒー。 でも、決して悪くない。 そんな雰囲気。 

リツコは彼を見て、言葉を紡いだ。

「…それで、研究テーマの相談とは?」

「え? …むぐっ!?」

ごほっ、ごほっ! と喉に引っかかったパンに、慌ててコーヒーを流し込む。

「大丈夫ですか?」

「え、ええ…大丈夫です、すみません。」

マサルは、リツコからティッシュを受け取り、口を拭う。

金髪の女性は、彼の言葉を待った。

「ふぅ、すみません。 …研究のテーマを、コントロールに決めたんです。」

リツコは、男の言葉に数回瞬きを繰り返した。

「…コントロール? 随分、曖昧と言うか、広義的なテーマですわね。」

「私は革新的な技術テーマだと考えています。」

先ほどとは別人のように話すマサルを見たリツコは、彼の瞳の輝きに見惚れてしまった。

「と、言いますと?」

「ブレインコントロールです。」

白衣の女性は、彼の言葉に自然な動作で周りを確認した。



………第3新東京市、歓楽街。



賑やかな音に溢れるゲームセンター。

UFOキャッチャーを慎重に操作しているのは、白銀の髪の少年。

「よし…ここだっ!」

珍しくもレイが気に入った小さな人形に向けてキャッチャーがするすると動き出す。

左のアームが目標を捉え、右のアームが同じように挟み込んだ。

そして、可愛らしくデフォルメされたホワイトカラーのウサギが宙に浮かぶ。

シンジが見守る中、三段に伸びていたキャッチャーのバーが縮むと、最後の衝撃でポトリと落ちてしまった。

「ッ! ああ、おしい…」

彼は、躊躇なく小銭を手にして再び投入する。

”力”を使ってしまっては彼女へのプレゼントの価値がない…そう思っているのでインチキは無しだ。

少年の後ろには、慎重にボタンを操作している彼の様子を静かに見詰める蒼銀の髪の少女が佇んでいた。

先ほど、何となく目に留まった人形に知らず足を止めてしまった自分がいけなかったのだろうか…



「どうしたの、綾波?」

「……」

ちらと視線を寄越したが、少女の深紅の瞳はまた正面に戻ってしまった。

その場から動かない彼女の視線を目で追うと、少年の瞳に小さな人形が映る。

「あのウサギの人形?」

「…ああいうの、可愛いって思う…」

小さな声で答えたレイを見たシンジは、ズボンのポケットに手を入れた。

「ちょっと待ってて。」

レイが振り返って彼を見ると、少年は財布からお札を取り出して両替機を操作していた。


そして……。


「もう少しなんだよなぁ… よし、もう一回!」

シンジが再び小銭を投入する姿を見て、少女は小さく肩を落とした。

たぶん、普通に買うよりもかなり高くついてしまった…

そう思ったレイは、申し訳なさそうな表情になってしまう。

そんな彼女を見ることなく、少年は目標に対して再度アタックを仕掛けていた。


……ある意味、使徒との戦いよりも白熱しているかもしれない。


少年は思わず声を上げて拳を握った。

「よしっ! こいっ!」

『パンパカパーン! やったね! おめでとう!!』

やけに甲高いマシンボイスが少年を祝福する。

シンジは、取り出した人形を彼女に見せて上げた。

「ほらっ 取れたよ、綾波。」

「ありがとう、碇君。 …でも、ごめんなさい…」

シュンとしている少女の言葉に、シンジは真紅の瞳を大きくした。

「えっ! この人形じゃなかったの!?」

「いいえ、確かにそれだけれど…」

フルフルとかぶりを振った少女に、シンジはホッと安堵の表情になる。

「なんだ…」

「でも、たぶん普通に買った方が安かったと思うわ。」

「はははっ、ごめん。 なかなか上手く取れなかったからね。 でも、これはそういうゲームだから。」

「でも…」

「綾波、無駄じゃないよ。 意外と僕も熱くなったし… 取れた時の達成感は、正直に嬉しかったし。

 それに普通に買ったプレゼントよりも僕たちの思い出に残るんじゃないかな…」

「思い出?」

「うん。」

「…そうかもしれない。」

真っ直ぐ向けられた少年の瞳に、レイは少しおずおずとした仕草でシンジの手から白い人形を受け取った。

「碇君…」

「ん?」

「ありがとう。」

「どういたしまして。 じゃ、他も見る?」

笑顔の少年に、レイも自然と笑みが零れた。

「ええ、そうね。」

このゲームセンターは、一階が体感型の大型ゲーム機やUFOキャッチャーなどがあり、

 二階は対戦型のビデオゲーム、三階は様々なコインゲームがあった。

シンジたちが階段を上がると、聞き知った声が耳に届いた。

「ふっふっふーん! アーイム、ナンバーワン!!」

それは、様々な音が氾濫しているフロアでも通りの良い少女の声だった。

シンジが足を止めてそっちを見ると、対戦専用の格闘ゲームで遊んでいるアスカがいた。

「くそー! またか!!」

「はんっ! へったくそねー 才能のカケラも感じられないなんて、惨めを通り越していっそ哀れね…」

少年の耳に、見るからに年上だろう男をさらに小馬鹿にした少女の声が聞こえる。

(…対戦相手は、知り合いじゃなさそうだけれど… それなのに相変わらず、随分と挑発的な態度だな。)

「はー、もー、ムダだって分かんないのかしらね〜 これ以上乱入してこないでほしーわー」

(あれは…ワザと相手に聞こえるように言っているんだね。)

『碇君…』

レイの波動に、シンジは小さく肩を竦めた。

『格闘訓練を受けているんだから、余程じゃなきゃ大丈夫だよ。 それを踏まえて、挑発しているんだろ…』

『ストレスの発散をしている、そういうこと?』

『どうかな… でも、ま…だとしても余り褒められた方法じゃない事は確かだね。』

”ガタッ!”

アスカの言葉に、髪の長い男が険しい表情で立ち上がった。

『あの人、カバンに手を入れたわ。』

『…ナイフか、特殊警棒か…』

(全く、しょうがないな…)

頭に血が上った男が紅茶色の髪の少女へ足を向けた瞬間、シンジは彼の座っていたイスを数cm動かした。

「舐めやがって! うぉっ!?」

”ズダンッ!!”

突然と転んだ男の手には、銀色に光る金属の輝きがあった。

「え? な、なに?」

派手に転んだ音に驚いたアスカが立ち上がると、彼女の背後から数人の黒服が何処からともなく現れた。

「…これで大丈夫だね。 外に出ようか?」

男を囲み、拘束具を手にした保安部員を見たシンジは、そう言って彼女の手を取る。

「ええ、そうしましょ。」

(なによ、この男! この私を襲うにしても…ダッサー! ん? あれは…)

シンジたちが階段を下りるのを、アスカは見逃さなかった。

「…惣流二尉、ここは我々が処理しますので…」

「あ…そう、サンキュー! じゃ、私はこの場から離れるから。」

「はい。 別班がすでに動いておりますので、警護態勢についてはご安心を。」

「そ、ありがと。」

アスカはポシェットを手にすると、同僚である二人がさっきまでいた階段を軽やかに駆け下りていった。



………第二実験場。



NERV本部の地下施設にある実験場。 

”プシュッ!”

その管制室のドアが開くと、自動的に照明が点る。

「あの、赤木博士?」

「…先ほどの話ですけれど、オープンなカフェでディスカッションする内容ではありませんわ。」

「それは、どういうことでしょうか?」

リツコに半ば強引に連れてこられた男は、少し困惑した表情だった。

「簡単に言うと、この部屋に余計な耳や目はない…と言えば私の無礼をご容赦していただけますか?」

白衣の女性を見る男の瞳が、彼女の言っている意味を理解して少し大きくなった。

「…この組織内で、諜報活動が行われている…と言うのですか?」

「情報の管理としては、ここ本部の特殊監査部、諜報部が主体となって行っています。」

「としては? ということは、それだけではないと?」

「…何事にも、表と裏があるものですわ。」

「NERV内にスパイが…」

「特に、今回出向してこられた方々の動向は、注目されていると思います。」

「なるほど… 我々戦自がどういう技術をここで得るのか、という情報も色々な価値があるわけですね…」

「ええ、そう捉えていただいて結構だと思います。」

リツコは、コンソールシートに腰を下ろすと、おもむろに端末に灯を入れた。

システムが起動して画面にMAGIとのリンクラインが浮かび上がると、コマンドを流れるように打ち込む。

マサルは、彼女の背からそのホログラムディスプレーを見た。

そこに表示されたのは、シンジたちチルドレンが使用しているヘッドセットとプラグスーツだった。

「詳しくはお話しできませんが、NERVが擁する決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオンの操縦、

 コントロールはヒトの思考を読み取って行っています。」

「こちらにある資料から、戦自研でもそう推察しています。」

戦自が独自にNERVの情報を集めている、というのはお互い知っているだろうが、

 それを簡単に言っていいものではない。

それをマサルは素直に言った。

そんな男に、リツコは顔を上げて言う。

「その技術をそのまま戦略自衛隊に提供する許可が下りることはないと思いますが、

 これらの設計データは提供できるかもしれません。」

しかし、マサルは金髪の女性の提案以上を要求した。

「…チルドレンと同じ訓練をさせていただけませんか?」


……技術部長である金髪の女性は、彼の言葉に驚きを隠せなかった。


「それは…シンクロテスト、ハーモニクステストなどを土井さんが行うということですか?」

「いえいえ、多分…私ではできないと思っていますから、私はしません。」

リツコは、そのまま黙って続きを促した。

「…少年少女がパイロットに選ばれているのですから、その理由…理論的根拠があるのでしょう。

 ですから許可が下りれば、霧島君にお願いしてみようと思っています。」

笑顔ではあるが、男のその顔は凛としたものが確かにあった。

それを感じたリツコは、一つ頷く。

「分かりました。 ではまず、稟議書を作成して、私に提出していただけますか?」

「ええ、分かりました。 では、さっそく取り掛かります。」

マサルはリツコと廊下で別れると、久方ぶりに地上へ向かった。



………コーヒーショップ。



オープンテラスのカフェは昼前という時間だからか、

 混み合っていて空いている席を見つけるのは少し骨が折れそうだった。

「ちょっと混んでいるね。」

「碇君…私、席を取っておくわ。」

「うん、先に座って待ってて。」

蒼銀の少女が空いている席を探す様子を見ていた少年に、カウンターの女性店員から声が掛けられた。

「はい、お客様、大変お待たせしました〜 アイスカフェラテ、アイスココアになります。」

「あ、はい。」

トレイを受け取った少年は、彼女の待つ席へ向かった。

「お待たせ、綾波。 はい、アイスココア。」

「ありがとう、碇君。」

「そろそろお昼だけれど、どこで摂ろうか?」

「そうね…」

「…そこの席、空いているかしら?」

カップルの会話に割り込む突然の声。

レイが見上げると、弐号機専属操縦者、セカンドチルドレン…惣流・アスカ・ラングレー嬢であった。

「はぁ〜あ、どっこいしょっと!」

許可を得るというより断る間もなく、彼女はイスを引いてシンジとレイの反対側へ腰を下ろした。

「こんにちわ、アスカ。 …どうしたの?」

シンジの声に、アスカはジト目で睨み返す。

「アンタら、さっきゲームセンターにいて私を見ていたでしょ?」

「…ええ。 それが?」

突然と現れたデートの邪魔者に、自然とレイの口調は冷淡と怒気が込められていく。

シンジの言うことならばレイは黙って従うだろうと踏んだアスカは、取り敢えず少年に釘を刺した。

「…アンタ、分かっていると思うけれど余計なこと、言うんじゃないわよ。」

「余計なことって… さっきのこと?」

「そうよ。 せっかくこの前昇進したばっかりなのに、処罰なんて受けたらカッコ悪いじゃん!」

「…口止め、その為に私たちを尾(つ)けてきたの?」

蒼銀の少女の深紅の瞳と抗議の言葉など、どこ吹く風とアスカは涼しい顔で見返す。

「何にせよ、分かったかしら?」

白銀の少年は、カフェラテのグラスをテーブルに置いた。

「別に僕らが言わなくても、警護の担当からすでに本部へ報告が上がっていると思うけど?」

「さっきミサトに電話しておいたから、そっちは平気よ。」

「そっちは?」

アスカはシンジにビシッと指さした。

「あんたらは司令と勝手に話できるでしょ!」

「そんなことで父さんと話なんてしないよ…」

「どうかしら?」

疑わしそうな青い瞳に少年は小さく肩を竦めた。

「…まぁ、いいけど。」

(エヴァに乗って認められた… ゼーレの精神誘導… それだけじゃないのかな…)

シンジはカフェラテを一口飲んで喉を潤すと、少しだけ観察するような瞳で紅茶色の髪の少女を見た。

「碇君…」

「ん?」

レイは、少年と同じように邪魔者である同僚を見ながら言葉を続けた。

「…お昼だけれど…」

「あ、うん。 何が食べたいか、決まった?」

「……」

レイは、ワザとらしくアスカの反応を待った。

「……ぅ はいはい! 別に付いてきゃしないわよっ!」

言いたい事が伝わった、とレイはシンジに視線を移した。

「ここで軽食を摂って、そのあと食材を買いに行きましょう?」

「食材? …あ、なるほど。 いいよ、久しぶりにみんなの夕飯を僕らで作ろうか。」

言葉少なくても自分を理解してくれる少年に、レイは二コリと笑顔になった。

「うん、ありがとう。」

「何作ろうか?」

「碇君の食べたいもの…」

愛する人の食べたいものを作るのは嬉しいし、楽しい。 ましてや一緒に作るのだったらなおのこと…

レイはシンジからPDAを借りてレシピ集を呼び出した。

「そうだね。 何がいいかな…」

少年も少女の手元の画面をのぞき込む。

「和食? 洋食? 中華?」

「う〜ん…」

「へぇ…」

何となくカップルの遣り取りを聞いていたアスカは、先ほどのレイの言葉に感心してしまった。

なんだろう… 何というか… 素直に賛辞を贈りたいような気持になったのだ。

あいつ、自然に笑って… ありがとうって言った…

笑顔でありがとうなんて、最近…私、ヒトに言ったことがあったっけ?

パッと思いつかないくらい、記憶にない…

そう、自分に一番遠い言葉だっていうのは、もちろん自覚している。

ヒトに、素直に謝辞を言うなんてコト…

私にはムリ…

この女は、私にとって一番難しい言葉を、いとも簡単に…

年齢以上に得た知識で自分の殻を強化して、色々誤魔化す自分に突き付けられたようなナチュラルな言葉。

カップルを見ていたアスカの瞳は自然と空に向いた。

そして、無意識に在りのままの”自分”を受け入れてくれる素敵なヒトをボンヤリと想像してしまう。

(エヴァとかNERVとか関係ない… ホントの私を見てくれる人がいる、そういう関係…)

「…いいな、レイ…」

それは呟くような小さな声で、無意識に口から出てしまった言葉だった。

「…え?」

初めて名前を呼ばれた少女の紅い瞳が、ほんの少しだけ驚いたよう大きくなって自分を見る。

その視線に、アスカは急速に自分を取り戻さなければいけないという現実を感じた。

(うそ…私、今…何て!? 羨ましいですって!? そんなわけないじゃん!!)

「ぅ…ハンッ! 何でもないわよ!」

顔を赤面させた少女は、慌てた様子でガタッとイスから立ち上がる。

「さーてと…」

「行くの?」

深紅の視線が青い瞳を射止める。

「…デートの邪魔して、悪かったわね。」

アスカは、レイに向けていた瞳をシンジに向けると、腰に手をやる。

「…ちょっとシンジ!?」

「え? 何?」

少年は、突然と発生した少女の剣幕に少し驚いて顔を上げた。

「アンタ、その馬鹿女を大事にしなさいよ!」

「へ?」

キョトンとした少年の後頭部に、ごすっという鈍い衝撃が襲う。

「いてっ!」

アスカは、鈍い音を立てた拳をそのまま振り抜くと、人差し指をビシッと少女に向けた。

「い〜い? アンタもこの馬鹿男に言いようにされてないで、ちゃんとアンタが主導権を握んなさいよ!」

「…え?」

「ふんっ」

レイが目をパチクリすると、アスカはそのまま通りをドスドスと歩いて行ってしまった。

「…てて、何だって言うんだ?」

少年の声に、レイは彼の様子を見るために少し慌てるように立ち上がった。

「あ、大丈夫? 碇君? 痛いところ、見せて。」

「うん、こんなの何てことは無いんだけれど。 あれ? アスカは?」

「もう歩いて行ってしまったわ。 一体、何だったのかしら?」

「う〜ん、よく分からないけれど… 取り敢えず、夕飯は作らないようにマユミさんへ連絡をしておくよ。」

携帯電話を取り出したシンジは、鈍い衝撃を受けた後頭部をさすりながら答えた。



………白い洋館。



日が沈んだリビングには、蒼い頭が二つと白銀の頭が一つ見えた。

白いソファーに座っているのは、シンジとレイ。 それとシンジの膝の上に幼女がちょこんと座っている。

この空間には、夕食を摂り終えてボンヤリとテレビを見ている和やかな時間がゆったりと流れていた。

「面白いねぇ、お兄ちゃん。」

「うん、そうだね。」

結局、シンジとレイは和洋折衷、というかマユミ以下メイドたちの好みに合わせた料理を振る舞った。

腕によりをかけた夕餉は大盛況であり、見る間に皆の胃袋に収められていった。

今、メイドたちは後片付けをしながら満足そうに感想を言っては、それをお互いに聞いている。

「あはははっ! ねぇ、見た? 今の… ぷっあはははっ!」

シンジを見上げるように振り返ったリリスは、バラエティ番組を見てコロコロと笑っていた。

(…それにしても、この”妹設定”はいつまでやるつもりなんだろう?)

リリスがその気になれば、どんな背格好にもなれる。

確かに人間社会では戸籍に登録したとおり綾波の妹なんだけれど、

 彼女にとって年齢などあってないようなものなのに…

あれ?

それは…ふとした切っ掛けだった。

シンジが、リリスについて考えたのは。

(そう言えば…)

いつからだっけ? 妹設定って? たしか…その前は”姉”設定だったし… だいたい設定ってなにさ?


……そもそもリリスって人類の始祖たる”あの”リリスなのだろうか? 


そんな思いに、シンジは遠い過去に意識を向けて、自然と瞳をつぶった。

脳裏に浮かぶ世界は、波の音しかない世界。

紅い世界にいるのは自分だけだと思っていた。 けれど、違っていた。

…背後からの突然の声。 それが彼女との出会いだった…

そう、リリスに会ったのは、何もかもが終わってしまった世界だった。

すぅ…と瞳を開ける。

少年の思考が薄いモヤがかかったようになると、PDAの画面がチカッと光った。

(ん?)

目の端に映った変化に、自然と視線が動く。

PDAの画面は、何も映していない。

その闇のような黒に漠然とした不安を感じた少年は、特に用はなかったが女性を呼んでみた。

「…ドーラ?」

いつもなら、一瞬も待たせずに現れる女性。

しかし、画面に現れたのは女性ではなく、文字だった。

《 システム…リロード 》

(?)

それは彼女と出会って以来、初めて見る状態であった。

「どうしたの?」

隣に座っているレイが、PDAを手にしたまま動かないシンジに小首を傾げる。

「あ、うん…」

少年がPDAの画面から少女の顔に視線を動かした瞬間、ドーラが現れた。

『…何かご用でございましょうか、マスター?』

「え?」

慌てて視線を戻すと、小さなモニターにはいつも通りキャラメル色の髪とエメラルドの瞳が映っている。

「いや、用じゃなくて……って言うより、どうしたの?」

問いの意味を計りかねた女性は、主人である少年を上目遣いで尋ねる。

『あの、何が…でございましょうか?』

「今、画面にシステムリロードって表示されていたんだよ?」

『あの…申し訳ございません。 そのようなコマンドはありませんが…』

「え? ドーラがしたんじゃないの?」

『私はシステムの一部です。 上位システムへの干渉権は持っておりません。』

「?」

少年とPDAのやり取りを不思議そうな顔で見つめていたレイが、おず…とシンジに声をかけた。

「碇君?」

「なんだろう…」

少女の深紅の瞳に映る少年の顔はどこか腑に落ちない、というものだった。



………マンション。



”ピピ…カシュン”

解錠を示すグリーンが点ると、少女の指が扉のボタンを押す。

”ガチャ”

「ただいまぁ… ってあれ?」

扉を開けて玄関に入ると、すでに電気が点いていた。

「…って事は帰ってるんだ、これは珍しい。 土井さーん?」

茶色の髪の少女は、靴を脱いで仕舞うとリビングに向かう。

「お、おお…マナ、お帰り。 どこかに出かけていたのか?」

キッチンから顔を覗かせた男性は、エプロンを着用し、フライパンを手にしていた。

「はい、第5ブロックにあるブティックがセールしていたんですよ〜 可愛いの一杯あったなぁ…」

あれも、これも…と脳内試着室へ入って行こうとする女の子に、マサルは構わず声を掛ける。

「今日の晩御飯は、肉たっぷりの野菜炒めだぞ。 手を洗って、皿を出してくれないか?」

庶民的な現実に引き戻された少女の表情が詰まらなそうに変化する。

「えー、肉野菜炒め?」

そんな言葉に構わず、男はフライパンを振りながら答える。

「ん。 何だ? 筑波じゃよく食べていたろ?」

ジャ、ジャッと具材を炒める音がリズミカルに聞こえる。

「それはそうですけど、土井さん、料理作れるんですか?」

「ふふふ…だてに独身じゃないぞ。」

「…それ言ってて空しくないですか?」

「ぐ…まぁ、ちょっとな。」

半眼の少女から皿を受け取った男は苦笑いした。

「さ、出来たぞ。 食べよう。 ほら、まず手を洗って…」

「はいはい、うがいもしますよ〜」

マサルが大皿に載せた四川風ピリ辛肉野菜炒めを運ぶと、マナは茶碗にご飯を盛る。

配膳が終わると、リビングのテーブルに向き合うように二人は座った。

「いっただっきまーす!」

育ち盛りの女の子は手を合わせると、さっさと箸を手にする。

(…ったく、文句を言った割には、よく食べるな。)

パクパクと食べる様を見て、マサルは自然と口の端が上がった。

「どうだ、美味いだろ?」

「そうですね〜 ピリ辛だけど、それがちょうどいい塩梅で… 肉も下味が確り付いているし…

 む〜 これ、筑波のより美味しいかも…」

「だろ!」

保護者である男は得意気な顔で箸を手にした。





幸福と不幸。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………雪。



(…月光に反射するは、雪ばかり。 白く美しい表の下は、如何ほど穢れていようが誰にも分かるまい。)

大惨事の爪痕を隠す雪景色が拡がる。

窓の外に目をやった老人は、歴史と絢爛を誇る屋敷の自室で、静かに物思いに耽っていた。

散り散りに舞う粉雪が窓枠に当たっては、暖められた部屋の熱ですっと透明な水になっていく。

空から止め処なく落ちてくるこの水の結晶は、もう1週間も前からしんしんと降り続いていた。

この地方はセカンドインパクト以来、冬将軍の支配する地となり季節が移ろうことはなくなってしまった。

ここドイツ、ベルリンは国連直属の非公開組織、特務機関NERV第4支部が配置されている。

その街の郊外、と言ってもほとんど人家のない街外れではあるが、

 老人の屋敷は、広大な土地を誇るように第1次世界大戦前から変わる事なくこの地に居を構えていた。

今は午前2時を回った頃であり、時折パチリと鳴く暖炉以外に物音を出すものは何一つとしてない。

老人は、この静かな時間を使って自分の率いる組織や世界情勢などの情報を整理していた。

バイザーに表示される情報を知覚しているのは、自身の目ではなく視神経と間脳である。

また、ほとんど機械化してしまった身体は疲労することなく淡々と仕事をこなしていく。

生身のままである脳細胞は、薬剤を適量使えば覚醒した状態を保つことができる。


……生き続けたいと切望するこの老人は、いつの間にか医学的な知識にも精通していた。


キール・ローレンツは、イスから立ち上がると窓辺から外を見た。

降り積もる雪を眺める自分が、窓に反射して薄らと映る。

その姿を見るたびに、キールは補完計画への渇望にも似た思いを募らせていく。

遠き昔に発症した病によって失ってしまった自分の身体が恋しい。

彼にとって、機械の身体など魂と自我たる精神をこの世に繋ぎ留めるだけの器にしか過ぎなかった。

だから、儀式を行うのだ。

この忌まわしい鎖のような身体から自身を昇華させ、

 魂と精神と肉体を以って新たな存在とならなければならない。

”ピッ!”

老人が考え事をしている間も、顔に装着した機械から止め処なく情報が流れている。

(うん? NERV本部に潜入、襲撃したテロ部隊について…)

ピックアップした情報に目をやる。

それは、ゼーレが黒き月の深部の調査と碇ゲンドウへの牽制の為に送った特殊部隊の顛末が報告されていた。

(…なお、テロ部隊はNERV保安部に取り囲まれたところ、自らの自爆装置を作動させ、

  一切を残すことなく果てた。

 結果…遺留品は発見されず、所属不明のままこれ以上の調査を断念し、本件に関する対応は終了とする…)

老人の脳裏に浮かび上がったサングラスの日本人が、いつもの通りメガネを掛け直すと白々しい顔になる。

(潜入させた部隊のレベル… 錬度は決して低くなかったはずだ。)

こちらの情報以上に、NERV本部の迎撃、要撃システムの能力が高いのかもしれない…

(後のために対人迎撃用の予算を削減させておく必要があるかも知れんな…)

”ピッ!”

バイザーに新たな情報が入ってきた。

その情報は東方の三賢者の一人、碇ユイをもってしても遅々として進まないS2機関の開発状況だった。

「我らの希望… 何たることだ… このままでは”我が時”に間に合わん。」

苦々しい表情になると、知らず口から愚痴が零れた。


……その時だった。


『…ならば、我が手を貸してやろう…』

脳に直接響くような男性の声が聞こえたのは。

数年ぶりではあったが、キールは”驚く”という感情が顔を覆った。

「ッ!!」

見上げるように顔を上げると、いつの間にか、窓に映る自分の先に黒い布があった。

雪降る虚空に浮かぶのは、世界と切り離されたかのように、静かに浮かぶ黒。

その不気味な影は、良く見ようと目を凝らせばフードがあり、マントを羽織った人影のようだった。

しかし、この窓の外に足場などはもちろん存在しないし、人影を繋ぐようなロープもない。


老人は、即座に屋敷の警戒システムを確認したが、異常はなく、また生体反応は一つとしてなかった。

「貴様は…」

窓は特殊防弾処理が施されており、

 更にキールの意志一つでAPFSDS弾を使用しても貫けない特殊積層装甲シャッターが瞬時に下りる。

キールは、相手を探るように慎重に身構える。

『警戒しないでいい。 我はおまえの望む存在と言える。』

「なんだと?」

『人類を裏から操るゼーレ。 その首魁たる人物。 それがキール・ローレンツ、おまえだな。』

窓の外にいる黒マントをキールは録画した。

(…あとで分析させねば。)

『やめておけ… 残念ながら、我は機械に記録されぬぞ?』

「!?」

見透かされた動揺を悟らせぬように、

 キールは静かに息を吸い、そして自分のペースを保つように肺に満たしたそれをゆっくりと吐き出した。

「…何が目的だ?」

防弾を施された窓を挟んで会話が出来ることなど、目の前で浮かんでいる存在に比べたら小さな疑問だ。

『お前の大事な人類補完計画は、決して順調とは言えない状況だな。』

歌うように言葉を並べた黒マントの男は、気が付けばキールの背後に立っていた。

そう…いつの間にか、部屋の中にいたのである。


……そんな不法侵入に驚いている暇はなかった。


『まあ、イスに掛けたまえ。』

黒の中から手が現れ、押すような動作をすると、触れられてもいないのに老人はイスに腰掛けてしまった。

歴史あるローレンツ家当主用のプレジデントチェアーに…

先ほどまで5mほど離れた場所にあったそれは、老人の重みを受け止めてギシッと小さくきしんだ。

『…さて、ひとつ窺おう。 我をどう思う?』

ふざけるような口調で問うフードが、楽しそうに小首を傾げる。

からかうような問いかけだったが、キールは、間違いなく自分が試されていると感じた。

だから、絶対的権力を空気のように纏う老人は相手を値踏みするように、言葉を選び不遜に答える。

「…ふん、面白いヤツだ。 利用価値はありそうだな…」

『ふふっ… そうか、そうか。 それは僥倖だったな。 結構、結構。』

老人の礼を欠いた言い草など気にも留めず、黒い人影は我が事を喜ぶように、うんうんと大げさに頷く。

「僥倖だと? キサマ何を言っている?」

『分からぬか? では、我との出会いがお前にとって幸運だと理解できるように… そうだな…』

黒マントは、再び白い手を影からゆるりと出した。

『よし、今から懸念材料の一つを消して見せよう。』

パチン、と指を鳴らした音が部屋に響くと、この部屋から人の気配が消え去った。



………湯。



”…ポチャン…”

もうもうと立ち昇っていく湯気は、呼吸に絡みつくように濃い。 

数滴ほど湯船に垂らした精油、サンダルウッドの豊かで甘くオリエンタルな香りが柔らかく鼻を擽っていく。

今日わざわざ”お湯”の浴槽を用意したのは、普段の温泉の力強い香りでこの優しい香りを壊させないため。

天井に溜まった水滴が集まると、万物に係る力…いわゆる万有引力の法則に則り、するりと湯船に落ちた。

”ポチャン…”

ゆらゆらと幾重にも輪を描いて揺れ伝わる波紋。

その微小で静かな波を肌で感じた少女は、しばらく閉じていた瞳を少し開けた。

「…ん…」

少年は、身じろぐような彼女の動きを肌で感じる。

「ねぇ、レイ。 …そろそろ上がろうよ?」

二人だけの時間。 それもこういった肌が触れ合うような時だけ、彼は自分のことをよく名前で呼ぶ。

白銀の少年の言葉を聞いた蒼銀の髪の少女は、彼の肩に預けていた頭を気怠げに持ち上げた。


……平時、彼が私を名前で呼ぶ時は、幸せに満ち満ちた二人だけの世界ということ。


だから、それを知っている私も喜びを込めて彼を名前で呼ぶ。

「…そうね、シンジ君。」

シンジは湯船から立ち上がって扉を開けると、手にした大きめのバスタオルをレイに手渡した。

少女はそれを体に巻くと、少年と同じように蒸した浴室から出る。

「ふー、いい湯だったね。」

腰にバスタオルを巻いた少年は、彼女を見ないように振り向かず言った。

「リラックス、できた?」

レイの目の前に立つ少年の背は、湯気立っていて薄いピンク色に染まっている。

「うん、優しい香りだったね…」

少女はやおら新しいバスタオルを手にすると、少年の背を優しく拭った。

「シンジ君は、普段…頑張りすぎるから…」

その柔らかな感触にシンジは身を委ねる。

「レイ…」

「なに?」

「気遣ってくれて、ありがとう。」

「……」

少年の感謝の言葉に、レイは胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。

(シンジ君…)

”…ぱさっ!”

微笑んだままの彼女は、少し背伸びをして彼の濡れた白銀の髪を優しく拭いてあげる。

少年は少しくすぐったそうに…しかし、彼女にされるがままであった。

レイは、彼の愛と幸せを感じるこの時間が大好きだった。



………NERV第4支部の大深度、シークレットラボ。



自宅から遠く離れた場所に、キールはいた。

まるで、テレビドラマの場面が変わったような、瞬く間もない一瞬の出来事だった。

「ここは…」

バイザーに映っているのは、ごく一部の人間しか知らない秘密の場所。

…とは言っても、自分は何度も訪れたことのある場所であったが…

大きなガラスの筒が中央に鎮座しており、天井にはヒトの脳髄を思わせる複雑に入り組んだ配管があった。

そして液体で満たされた筒の中には、小さなカケラが一つだけたゆたっている。


”ゴゥン… ゴゥン… ゴゥン… ゴゥン…”


パイプに満たされた液体を循環させるマシーンの定期的な駆動音が場を占める。

見れば、相対するように立っている黒マントは、自分の反応を観察しているのか…喋らず動かずだった。

キールは、ガラス管の向こうに佇む”影”に向かって口を開いた。

「…では、再び問おう。 正直に答えろ。 …おまえは、だれだ?」

『んん? さてさて今後に及んで、だれとは?』

「…何者だ?」

『ふふっ …協力者だと、さきほど告げたはずだが?』

「それに、ここは…」

『知らぬわけがあるまい。 プロジェクト・アダム… お前が望む人造使徒の研究所ではないか…』


……第4支部には何もない、と加持リョウジですら発見できなかった秘密の施設だった。


老人は、相手がどれだけ自分たちの秘密を握っているのか…と背中に冷たいものを感じた。

(それに、どうやって私をここへ運んだのだ?)

『…方法は問題ではない。』

「なに!?」

(こちらの思考を読んでいるのか?)

『ふむ…ヒトの思考を覗く趣味は持ち合わせていないが、今はな。 お前が余り喋らないのでしかたなく。』

仰々しく首(こうべ)を垂れる影。

「隠し事は出来ぬ、そういうことか…」

既に、相手のペースだ。

キールは黒マントの男の力に、抗えぬものを感じていた。

「なぜ、ワシをここに?」

『イマイチ物覚えが悪いな。 …我はお前の懸念材料の一つを消す、と言ったはずだ。』

”懸念材料”という言葉に、老人の視線は自然とガラスの筒へと移り、確認するように呟いた。

「…そうだ。 プロジェクト・アダム。 アダムを再生させる…

 若しくはアダムを由来とした使徒を創り出す… 私のシナリオに不可欠なファクターであるが、

 未だ成果を上げるに至ってはおらぬ。」

『…そのようだな。 …しかし、それは必要なのだろう?』

「言うに及ばず、無論だ。」

『…では、我と契約せよ。』

「契約、だと?」

『そう。 お前が望んでいるサードインパクトを必ず為すと。 其を誓うなら、我は必要な協力をしよう。』

(…約束の時、儀式を行うは我が悲願。 こやつが”何”かは分からんが役に立つなら望むところだ。)

そう結論付けたキールは、首を小さく縦に振った。

「いいだろう。 お前に誓うまでもない。 ワシは必ず計画を遂行する。」

こちらは大きく、また満足そうに頷く黒マント。

この男は、音もなくキールの横にいつの間にか立っていた。

『では、ここに契約のしるしを…』

その言葉と共に白い手が老人の右腕を無造作に掴むと、

 全てを覆う影のような黒色が這うようにキールの機械化した右手に忍び寄る。

「なにを!?」

『これは”現実”であるという印だ。 お前は物覚えが悪そうだからな…』

「な…ぐぉ!」

黒色が踊るように蠢くと右手の人工皮膚に模様を残していく。


……それは、黒い太陽のようであった。


老人は信じられないと、痛みを訴えた右手を左手で押さえた。

(…痛覚などないはずなのに… 本物の自分の手のように熱さを感じるとは…)

『その印は、お前の手が造り物だろうが関係ない。 我が必要な時はそこに向かって呼びかけるがいい…』

黒マントの男は、ガラスの筒に移動しながら言葉を続ける。

『…では、仕事を終わらせよう。』

そう言うや否や、片手を上げるとガラスに触れた。

キールは、男が何をするのか見ることしか出来ない。

『名をくれてやろう。 かの地にふさわしい名を …そうだな、カヲル、お前は渚カヲルだ。 覚醒せよ…』

死体のように血の気がない白い手が、黒い靄のようにあやふやに変化すると、ガラスの中の肉片を掴んだ。

そして、黒マントの男の手の周りの液体が虹色に震え始める。

”どくんっ!”

キールの耳に、生物的な鼓動音が聞こえた。

『これでいい。』

「どういうことだ?」

『このまま、でいい。 すでに”お前の計画どおり”となったのだ。』

黒マントの男の意図が読めない、とキールは訝しげにガラスの筒を見た。

「お前は人ではないな?」

『それは問題ではない。 それにお前にとって、それは何の価値もなかろう?』

「名は?」

『好きに呼べばいい…』

黒マントの男は、そういったことに興味がないようだった。

「…今一度、問う。 お前の目的は?」

『サードインパクトを望んでいるのは、お前だけではないということだ。』

「なに?」

『だから、協力してやる。』

答えた黒マントは、大きなガラスの筒にある小さな肉片を観察するようにフードを近付けている。

(こいつもサードインパクトを必要としている。 何のために?)

『その詮索は無用だ。』

自分に振り向いたフードの中の闇に睨まれたような気がして、キールは手を上げた。

「…分かった。 詮索はせぬ。 お前のことは黒マントとでも呼ぼう。 で、協力についてだが…」

『必要な時に呼べばいい。 だが、必要な時を選ぶのは我だ。』

「つまり、召喚に応じない場合があるというのか?」

『そう思っておけば間違いないだろう。』

そして、黒マントは再び指を鳴らした。



………不幸。



防ぎようのなかった事故…

現場に居合わせたのは、運がなかっただけ… 不幸な出来事だった…

そう言われてしまえば、多分それだけの事。

醜い大きな傷跡が腹を割っている…

姿見の大きな鏡に映る女性は、自分の腹部を見ていた目を上げた。

(…南極か。 もう十五年も前になるのね…)

遠い昔の記憶。

とても、あやふやな記憶。

普段は存在しないような、その領域に意識を向けると、瞳の色が濁るような気がする。

父はなぜ、私をあんな場所へ連れて行ったのだろうか…

良く思い出せない… 住んでいた家… ぼんやりと浮かび上がる扉を出ていく男の背中。

それは、研究、研究で家族の事なんて、これっぽっちも気に掛けることのなかった父の姿…

研究という自分の夢の中でしか生きられなかった男。

あれは、父なりの贖罪だったのかも知れない…

そして…

女性の脳裏にフラッシュバックした光景は、凄惨なモノだった。

(…くっ!)

脳の奥底が乱暴に掴まれたように、ずきりと痛む。

脳裏に映る白一色に弾けた世界。

顕現した巨大な光の柱… その周りに雨のように降り注ぐ光の矢。

それを思い出した女性は、その忌まわしい記憶を振り払うように軽く頭を横に振った。

混乱の極みの中… どうして、最後に自分を助けたのだろうか…

家族を顧みない男のままでいてくれたら、そのまま憎んでいられたのに。

自分は、やはり心のどこかで父が好きだったのだ。


……だから父を殺した使徒を殺す。 だから自分を傷付けた使徒を殺す。


指先で、ゆっくりと傷跡を撫ぜる。

(生き延びてやる…)

だって…これは、復讐。 自分に与えられた当然の権利。

”ピピッ!”

(…時間ね。)

手早く身支度を整えると、葛城ミサトは部屋を後にした。



………ベルリン。



気付けば、キールは寛いだ時間を過ごしていたかのように自室のイスにゆったりと身体を預けていた。

まるで今までの出来事は、ただの夢のようだった。

目の前に立つ黒マントがいなければ。

「…では、お前の仕事を確認させてもらおう。」

老人は、努めて平静を保った様子で通信回線を開いた。

「私だ。 研究所の監視用映像記録を確認したい。 データは3時間前から現在まででよい。」

キールは、机の端末から伸びているケーブルを慣れた手付きでバイザーと繋いだ。

「観察対象のA−02を詳細に調査しろ。 ああ。そうだ。 今すぐ全データを見直せ。」

『…我は次の地へ向かう。』

「なに?」

『お前の計画で障害となっているのは、今のところ2点。 その一つは今解決させた。』

黒マントは、ゆっくりとキールの机に近づいてくる。

「まさか、S2機関か…」

『楽しみにしているがいい。』

黒マントはそう言い残して消えていった。

残された老人は、マントが消えた場所を見ると無しに見て考えにふけた。

(そう言えば、ヤツは僥倖と言ったな… この一連の出来事を偶然に拾い上げた幸運とでもいうのか?)

”ピピッ!”

バイザーに極秘回線を使用した通信が入った。

「どうした?」

『サンプルに変化を認めました! 詳細なデータの解析はまだですが、間違いなく成長を始めております!』

(やはり…)

原因も分からない部下は興奮した口調で報告したが、キールの頭脳は反対に冷めていた。

『加速度的な変化です! これはすごい!』

「冷静になれ…」

『…ハッ、申し訳ございません。』

男は咳払いの後、スイッチを切り替えたように静かな口調で報告を続けた。

『では、このデータと合わせて、研究所内の記録映像を送信しますが、よろしいでしょうか?』

「うむ。」

老人は、音声通信が切られた後に送られてきた映像を早送りで確認した。

(…見事だ。 何も映っておらんとは。 私さえも…)

「くっ、くっ、く… それは、どうでもよいか… 事実は事実だ。」

間違いなく、右手の人工皮膚には黒い太陽が刻まれているのだ。

キールは、ヒトを超えた存在を味方にした事実に、久方ぶりの興奮と幸福感に包まれた。



………不幸。 



前史、綾波レイは不幸を自覚したことがなかった。

いや、正確には、不幸を感じることはなかったと言える。

なぜなら、幸福、幸せを感じた事がなかったから。

幸福感を覚えた事がなければ、自分がどのような境遇あっても、

 または、どんな処遇を受けていようが不幸だとは思わないだろう。


……あの時。


零号機を失う瞬間までファーストチルドレン、綾波レイはそう感じていた。

いや、感じようと自分を規定していた。

自分は、創られた存在なのだ。 リリスの魂を宿したヒトガタにすぎないと。 

だから、と言う訳ではないが、前史の自分は”モノ”に執着した記憶がない。

(あの人のメガネも、絆という繋がりの象徴であって…別にメガネでなくても何でもよかったと思う。)

ただ唯一、碇シンジという少年と共に居たい、彼の傍に居たい、という欲求があった事を知っただけだった。

それなのに、不完全な状態のまま彼を傷つけた三人目の自分。

そして、約束の時。

「…ぅ」

私は、鈍い感覚に思わず呻いた。

男の手が私の胸から下がり腹部をまさぐるように動いている。

それを見ている私にとって、瞳に映るものはまるで創り物か他人の身体のようだった…

これで、おしまい。

これで、いい。

これで、私の唯一の望みが叶えられる。

ハッキリしない頭でそう感じていた。


……”無”へ向かっていると。


あと少し…

この流れに身を任せれば、それは間もなく訪れる。

もうすぐ、望みが叶う。

ある種の安堵感を覚えた時、頭の中で”何か”がささやいた。

…傷ついている。

何?

私は知らず、それに意識を向けた。

…が苦しんでいる。

か細い、小さすぎると言うより…直ぐに消えてしまいそうな声。

でも、それは自分と同じ声だった。

苦しんでいる? 私は苦しんでない。

…あなたではないわ。 …碇君よ。

あなた、誰?

…碇君が…

いかりくん?

…そう…

碇くん? 

碇君が苦しんでいる…

碇君って?

…碇シンジよ…

その時、サードインパクトと呼ばれる儀式の中、綾波レイは碇シンジの絶叫を、少年の心の悲鳴を感じた。

碇君が…

あなた、だれ?

わたし…

あなた誰?

私は、わたし…

私は、私?

私は、あなたよ… 綾波レイ…

そして、その瞬間…碇シンジという少年を欲する心を、

 封じ込められていた感情が記憶と共に、魂の内側から噴き出すように一気に思い出した瞬間であった。


……そして、今。


レイは、動きを止めた右手をぼんやりと見ていた。

隣で仕込みをしているシホが手入れをした包丁は、蛍光灯の光を浴びて鈍く光っている。

そのシホは、リズミカルにまな板を叩いていた音が途切れたままだったので、

 どうしたのか、と振り返って少女の様子を見ていた。

しかし、レイはどこかぼぉっとしたまま、いつまでも動き出す気配がない。

長い黒髪をポニーテールに結っている女性は、遠慮がちに声を掛けてみた。

「あの、レイ様?」

「…え?」

「大丈夫ですか? お疲れなんじゃ…」

「…いいえ、大丈夫。 何でもないわ…」

(私…どうして、突然あの時のことを思い出したの?)

レイは過去を振り払うかのように、無意識に小さくかぶりを振った。

碇君と共にいる… この事実が私の幸せ。



………リビング。



風呂上がりの少女は、ホクホクと上気した頬を冷やすためにベランダに通じるガラス窓を開けた。

「はぁー、すっずしぃ〜」

夏とはいえ、夜になれば優しく吹く風はそれなりに涼しさを齎してくれる。

カラン、という氷の擦れる透明な音がマナの耳を擽った。

「ほれ、オレンジジュース。」

「ありがとうございます。 どうしたんですか? 今日は随分とサービスがいいですね?」

薄ピンク色の長袖シャツにハーフパンツ、濡れたままの髪にはまだバスタオルが巻かれている。

月明かりに照らされた少女はそういう格好だった。

「ああ、実はな…」

少女は反射的に胸を隠すようにする。

「…ダメですよ! 私、結婚までは清らかな身体でいたいんですから!」

「ちょ、そうじゃなくて!」

「ぷっ! 分かってますよ♪ 土井さんには、好きな人がちゃ〜んといますもんね〜」

からかう少女の視線から逃れるように、マサルは一つ息をして夜空に輝く星を見た。

風が頬を優しく撫ぜる先に、大きな月が見える。

「マナ…」

「…はい?」

「新しい実験に被験者として参加してもらいたいんだ。」

「いいですよ。」

「…おま、そんなに簡単に答えていいのか? 内容も聞かないで…」

驚いて少女を見ると、彼女は自分と同じように星空を見ていた。

「だって、土井さんの仕事で必要な実験なのでしょう?」

マナの根底には、セカンドインパクトで荒廃してしまった世界に対して何かを為したいという思いが強い。

生き残った人間として、何かしなければ…

そういう思いで狭い門をくぐりぬけ、トライフォースの隊員になった彼女である。

それに彼女は、土井マサルという人間がどういう人物であるか、十分に理解していた。

彼も霧島マナと同じように、自分の才を世のために役立てたいという人物である。

碇シンジは別格として、

 ”トラ”の隊員や世話になった国連関係者と同じく土井マサルは霧島マナの信頼を得るに十分な男だった。

そんな男が、それこそ非常識な、

 ましてやネジがぶっ飛んだマッドサイエンティストな実験など行うはずもない。

だからこそ、マサルが言う実験も内容を問わず、きっとこの世界にとって何か役に立つものなんだろう。


……であれば、自分に否やはない。


土井マサルは、そんな少女の真面目な顔と真摯な言葉に若干声のトーンを落として相槌を返した。

「…ああ、それはそうなんだが。」

「じゃ、いいですよ。」

「詳しくは明日にでも説明するよ。」

「はい…ぅ」

”くしゅっ”

「ちょっと、冷えちゃったみたい。 もう寝ますね。 お休みなさい、土井さん。」

「ああ、お休み、マナ。 それと、ありがとう。」

リビングへ戻る少女の背に掛けた男の言葉は、優しい夜風に流されていった。



………不幸。



それは、この物語で言えば少年が覚えていないことだろうか…

黒いマントとの邂逅を。

神であるはずの自分。 絶対的な力を持つ自分に対して、それを圧倒する力を見せた人物の事を。



その夜……シンジは、夢を見ていた。



彼は普段、夢を見ることは少ない。

それは、彼の脳が整理すべき経験を夢の中まで持ち込まずに処理できるから。

しかし、今夜の少年は、珍しくも夢を見ていた。



気が付けば、シンジは自分の手を見ていた。

右手を。 おもむろに開いた手の平を。 そこに描かれている手相をじぃ、と。

その手はオレンジ色だった。 それは、周りを満たしている光がオレンジ色だったから。


”グオォォン… ガタン、ゴトン …ガタン、ゴトン …ガタン、ゴトン…”


音と共に自分の座っているシートが揺れる。

その感覚に顔を上げると、どうやら自分は電車に乗っているようだ。

(…夢? あれ? この電車って…)

それは、過去幾度となく乗ったレトロな電車だった。 自分の心象風景とでも言えばいいのか…

(ここ、久しぶりだな…)


”……カンカンカンカン…”


シンジが車内の様子に目をやると、踏切を横切ったのか、

 古めかしい遮断機の警報音が聞こえては小さくなっていく。

(それにしても…僕って、こんな列車…実際に乗ったことないよな…)

まじまじと車内を見ていた目が自然と窓の外にいった。

ぼんやりと流れゆく風景の遠くには、太陽のない夕暮れと大きな山の影が見えた。

(必ず綾波が出てくるんだよね… 後は、子供時代の僕か… アスカやミサトさんは余りなかったな…)

過去を思い出して、自分が達観してそんなことを考えているのに気付いたシンジは、小さく笑った。

(…ああ、そっか。 ふふっ… 僕も大人になったって、そういうことなのかな?)

「はははっ いーや、違うと思うよ?」

その声は、少年の耳元だった。

「なっ!?」

驚いて振り向くと、誰もいない。

「…なんだ?」

キョロキョロと車内を見渡しても、相変わらず乗客は自分ひとり。

(…僕の思考に割り込んできた? 現実の僕は寝ているはずだから、この世界は僕の夢のはず…)

シンジは、周りを警戒しながら無意識に立ち上がった。

「まあ、座ってなよ…」

とん、と突然、手が現れて胸を押される。

シンジはその手を見詰めたまま、シートにどさっと身体を預けてしまった。

押された胸を右手で押さえながら、少年は白い手に向かって鋭く言う。

「誰だ!?」

その腕が、すう、と下されると何もない空間から黒が噴き出てきた。

「な!?」

シンジは目を大きくして、さらに警戒感を強める。

目の前に現れたのは顔を黒いフードで覆い、身体の全てを隠すようなマントを羽織った人物だった。

「やあ、碇シンジ君。」

シンジは油断のない瞳で相手を見た。

(僕の思考に直接、入ってきた…)

顔も見えないその人物の声は男性のもので、それは自分より少し年上くらいと思われる…そんな声だった。

すくっと立ち上がったシンジは、黒マントの男から距離をとった。


”…ガタン、ゴトン …ガタン、ゴトン …ガタン、ゴトン…”


相変わらず、何処に向かって進んでいるのか分からないが、この電車は走り続けている。

「あなたは、誰?」

「僕? …誰でもないよ。」

「? え? どういう意味?」

黒マントの男は、対峙するシンジの視線を流すように車窓の方へ身体を向けた。

「君は、…いわゆる… 神、かい?」

自分の正体を知っている? そう思ったが、少年は取り敢えず言葉を選んで答えた。

「…僕は、人間ではないけれど… 神でもない。」

「…そう、全く… そこが問題なんだ。」

呟くような男の言葉は、意味不明だった。

(訳が分からない… しょうがないな。)

手荒なことは嫌いなんだけれど、とシンジは手をマントの男に向けた。

その瞬間、マイペースな様子だったフードが、ぎゅん、とシンジを捉えた。

「負ける事を考えていない思考だね、それは。」

その言葉に、シンジは自然と無表情になって瞳に力を込めた。

神の力を使って相手の素性を探ろうというのだ。


……しかし、見えざる超常の力は、少年だけではないというのだろうか?


鏡映しのように、黒マントの男はシンジに向けて腕を伸ばした。

すると、ちょうど二人の中間地点に透明な壁が現れる。

(ッ!!!)

シンジは、この男が出現してから、驚かされっぱなしだった。

「驚いたかな?」

からかうような言葉に、シンジはさらに力を込める。

「無駄だよ。 だって、キミは僕に勝てない。」

(そんな…)

「さ、分かったら座って。」

男がそう言うと、シンジは知らぬ内に最初のシートに座っていた。

「まさか… そんな…」

少年は、自分の状態に目を大きくして驚く。

「さて、何処から話をすればいいのか…」

その声にシンジが瞳を上げると、いつの間にか黒マントの男は夕日を背に、少年の対面に座っていた。

「…枝の選択、剪定の刻って…最近あったかな?」

「え?」

何を言っているんだとシンジは黒マントの言葉に眉根を寄せた。

「つまり、ユグドラシルシステムは…」

「?」

「ちゃんと機能しているのかな?」

「!」

男の言葉にさらに瞳を大きくしたシンジは、初めてユグドラシルシステム…世界樹に意識を向けた。

ドーラは、以前、システムは自動更新機能によって維持していたと言っていたが、

 管理人と認識されたシンジが能動的にこのシステムにアクセスしたことは一度もなかったのだ。

「…あれ?」

何のイメージも喚起されない…

「アクセスは出来ないだろう? 中枢システムは、かなり前からこの僕が握っているからね。」

シンジの驚いた顔に向けて、男が言葉を続けた。

「…特に一番手間取ったのは、いつも君の側にいる自動介入因果律設定矛盾回避機能”改”…

 いや、ドーラシステムと言った方がいいかな… システムコアに一番近い複雑極まるソフト…

 ま、とにかく末端のシステムまで全てを掌握するのは、あと数分だ。」

それは決定事項を事務的に告げるような澱みのない口調だった。

「…何が目的なんだ?」

「僕の目的は、君と同じだよ。」

最初の質問と同じように、はぐらかされる。

「僕と同じって…」

黒マントは立ち上がってシンジに背を向けると、顔にあたるフードだけを少年に向けた。

「最終的な目的は一緒。 でも手段は…たぶん反対かな?」

「何を言って…」

そう言いかけて、ハッとしたシンジはゴクッと唾を呑んだ。

「まさか、サードインパクトを起こすつもりなのか?」

「…正解。」

「そんなの、絶対にダメだっ!」

男の背に向かって叫んだシンジは、黒マントを敵と定めて「{言 霊}」を唱えようとした。

「おっと、それは厄介。」

その相手である男は、くるりとマントを翻して少年と対峙すると、やおら手を翳した。

「そろそろ別れの時間だね。 名残惜しいけれど、今はおやすみ…シンジ君。」

「何を言って…」

少年は最後まで言葉を言えなかった。

「くっ…」

目の前のヒトガタだった黒マントが、突然と黒い霧のように拡がったから。


……シンジの世界は、纏わりつくような闇に覆われて次第に消えていった。



「…シンジ君、シンジ君…」

「ん…」

瞼を開けると、蒼銀の少女の心配そうな顔が映った。

「…あやなみ?」

「シンジ君、うなされていたわ。 大丈夫?」

「…うなされていた? 僕が?」

少女の言葉に、キョトンとした顔の少年。

「…ええ、そう。」

深紅の瞳がさらに心配そうになるのを見ると、シンジは前髪を掻き揚げながら答えた。

「う〜ん。 何か夢を見ていたのかな?」

「…覚えていないの?」

「うん。 身体に異常はないし…ま、大したことじゃないよ。」

少女を心配させないように、少年は二コッと笑った。

「そう… 私、何か飲み物を持ってくるわ。」

「ごめん、ありがとう。」

シンジは、飲み物を取りに行く少女の背を見ながら、彼女が言ったことを考えていた。

(何も、覚えていない… と言うより、ぽっかりと抜けている感じだ。 今までこんなことなかったのに…)

しばらくすると、

 レイは氷の入ったグラスとよく冷やされたジュースポット持ってきてベッドテーブルに載せた。

ポットを手にした少女はシンジの視線を感じて、ちらりと彼を見る。

少年の瞳はグラスに満たされる液体を見ているが、どこか焦点が合っていないようだった。

(どうしたの? シンジ君…)

レイは不安を表に出さぬよう努めて微笑みを浮かべた。

”カラン…”

「シンジ君… はい、レモン水。 さっぱりしたものがいいと思って。」

「ん? あ、ありがとう、レイ。」

白銀の少年は、少女の声に少し驚いたようにグラスを受け取ると、そのまま冷たい液体で喉を潤した。

ベッドに戻った少女は、枕元の窓を少し開ける。

外の空気が入ってくると、カーテンを小さく揺らした。

窓から注ぐ月の光が、シンジを照らす。

(だめだ… 何も覚えていないって… どうしてだろう?)

小さな骨が喉に刺さったような違和感。 それを探るように、さらに意識を自分の中に向ける。

そして、記憶の映像を再生する。 現在から過去へ。 時間を巻き戻すように…

(ん、リリスのことを考えた時… ドーラが…)


……そういえば。


どうして、リリスのことを考えたのだろう?


”カラン…”

時間の流れを告げるように、解けた氷がグラスを鳴らす。 シンジはそれを見るとなしに見ていた。

「リリス…」

彼の傍らで横たわっていた少女は、上半身だけ起こしている少年の言葉を静かに待つ。

「…」

動かぬ彼は、まるで月光に浮かぶ彫刻のような美しさがあった。

「彼女は、僕が創造した存在だ。」

レイはシーツから腕を出すと、シンジの左手を柔らかく握った。

「…紅の世界で消えようとした彼女を、碇君が助けたんじゃないの?」

シンジは、かぶりを横に小さく振った。

「そうじゃない。 今の彼女は…言葉は悪いけれどコピーなんだ。 マスターと全く同じではあるけどね。」

何が言いたいのか? レイは頭を起こして、体ごと彼に向いた。

「最初に会った時、彼女は一人目を基にしているリリス、と言ったんだ。」

「え?」

「一人目を基にして入ったって…」

「?」

「前史、リリスの魂は、綾波レイとして覚醒していた…」

「…ええ。 それが?」

少年は、紅い世界の記憶を辿るように瞳を閉じて言葉を繋げた。

「今の彼女は、間違いなく僕の因果律にある存在。 じゃ消えた前の彼女は、一体だれが創ったんだろう?」

シンジの言葉にレイは瞳を少し大きくした。





奇跡の価値は−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………南極。



かつて、大陸と呼ばれるほどの広大な土地面積を有したこの地域も、

 地軸を歪めるほどの大災害の結果、今となっては大小の島々が点在するだけの地域になっていた。

そして、深々と青かった海水は紅く変色し、塩の柱が至る所に点在している。

ここは海図を引き、航路を確保しなくてはならない船乗りにとって、

 非常に高い操船技術を要求する海域であった。

また、大気中に有害な物質が認められたため、

 南極海域でヒトが活動するためには、全身を防護する装備が必要であった。

だから、1ヶ月前よりここで極秘任務に従事している兵士は、

 国連から支給されたオレンジ色の特殊防護服に全身を包み、双眼鏡で周囲を警戒していた。

そのデジタル式の双眼鏡に映るのは、一面に広がる白色。

まさに南極という名にふさわしい白さではあったが、それは雪ではなく塩によるものだった。

”ガピッ!”

吹きすさぶ風の中、無線機から雑音混じりの指令が下る。

『作戦司令部よりシフトの変更を通達する。

 …D31班及びF29班はE12班とC09班と交代。 D31班はそのまま地下へ移動。』

「こちらD31了解。 E12班と交代し、そのままジオフロントへ降りる。」

兵士長は、無線機のスイッチを切って、目の前にそびえ立つ6機の巨大楊重機を見上げた。

4機は地上に据え付けが完了しており、

 隣接する海上には沈没した巨大タンカーなどを引き上げる世界最大クラスの起重機船が2隻停泊している。

兵士長は、班を構成する5人の部下に合図を出すと、先頭に立って地下へと移動していった。



………ジオフロント。



リツコは書類に目を落としていた。

ここは技術開発部長執務室。 応接用のテーブルには、コーヒーカップが4つ用意されている。

その一つを飲んでいた茶色の髪の少女が、音を立てぬように静かにカップをテーブルに戻した。

「ねぇ、マナちゃん、このお菓子食べてみて。 とっても美味しいわよ。」

「ありがとうございます、マヤさん。」

ショートカットの女性に勧められるまま、少女はクッキーの包みを開く。

その隣に座っているマサルは、静かに金髪の女性の反応を待っていた。

”パリ…”

一応…という手付きと遠慮がちな表情のマナが、2枚目のクッキーを食べる。

マヤもそろりとバスケットのお菓子に手を伸ばす。

「マヤ?」

「は、はいっ」

ビクッと慌てて手を引っ込める。

「私にそのウエハースを取ってくれる?」

「え? あ! は、はい。」

怒られるわけじゃないんだ…とマヤは自分の狙っていたチョコ菓子と先輩のための包みを手にした。

「どうぞ、センパイ。」

「ありがとう。」

リツコは目を通し終わった書類をテーブルに置くと、ウエハースの包みを開けて口に運ぶ。

「赤木博士、どうでしょうか?」

マサルは、コーヒーカップをテーブルに置いて金髪の女性の反応を待った。

「…結構ですわ。 全てに許可が下りるとは思いませんが、この書類のまま司令部へ提出しましょう。」

「そうですか。」

にこりと笑った白衣の女性に、マサルも同じように笑顔になる。

「では、霧島技官。」

「ふぁ…ふぁい!」

リツコに名前を呼ばれた女の子は、口をモゴモゴと忙しなく動かしていた。

「伊吹二尉と一緒に、技術部第5課へ行ってくれるかしら?」

少女は、金髪の女性と自分の上官の顔をキョロキョロと2、3度見ると、伏せ目がちになって言った。

「えっと、あの…やっぱり、私とマヤさん…お邪魔ですか?」

「「なっ!」」

リツコとマサルの顔が見る見る間に赤くなった。

「違うわよ! あ、あなたの身体を採寸するの。 霧島さん、あなたのプラグスーツを用意するためにね。」

金髪の女性は慌ただしく立ち上がると、赤面した顔を隠すように自分の机の端末を操作し始める。

「マヤ?」

「あ、はい!」

「採寸、お願いね。」

「了解です。」

「コーヒーご馳走様でした。 私も自分の執務室に戻ります。」

立ち上がった男の言葉に、高鳴っていた胸が急速に冷めていくのを感じる。

「あ、そうですか…」

(…折角、二人きりになれたのに…)

”プシュ…”

最後に出て行った男の背に、リツコは不条理な失望を感じてしまった。

(望んでいるのなら、自分からはっきり言えばいいだけのこと。

 あの人は悪くないのに…人の心は勝手なものね。)

男性経験、恋愛経験のない自分にどうするという術もないリツコは、

 理知的でない自分の感情を抑えつけるように、胸にやった手を握り締めた。

一人きりの部屋に、小さなため息だけが溶け込んでいった。



………2−A。



「起立っ!」

ヒカリの声が教室に響く。

第3新東京市立第壱中学校は、午前中最後の授業が始まったようだ。

教壇には、担任である老教師が立っている。

窓際の席に座っている蒼銀の少女は、窓の外を静かに見ていた。

その隣の席に座るシンジは、ケンスケの隣の空席に目を向ける。

(今日は、マナの実験の初日か…)

少年は、先日、姉と慕うリツコから聞かされた話をぼんやりと思い出した。



〜 アンビリカルブリッジ 〜



『エントリープラグ、排出されます。』

女性オペレーターの声と同時に紫色の装甲がスライドすると、白い筒がイジェクトされる。

今日はEVA独立中隊による実機でのシンクロテストが行われていた。

LCLの排水が終わると、インテリアの上部ハッチが大きく口を開く。

”バシュ!”

第7ケージの照明がダブルエントリー用のプラグ内部を照らした。

白銀の少年は、濡れた前髪を掻き揚げて後ろを振り向く。

「ふぅ、訓練終了だね。 …お疲れさま、綾波。」

「ええ、お疲れ様。 あ、碇君、赤木博士…」

少女の視線を追うと、金髪の女性がバインダーを手にケージに入ってきた所だった。

「え? あ、ほんとだ。 なんだろう?」

『エアクリーニング開始。』

頻繁に行っていないが、それでもかなりの回数をこなしている実験である。

このテストは、特段の用がなければC級職員がメインとなり、B級職員が責任者として行うような仕事だ。

そんな場に最高責任者が単身現れたのだ。 アンビリカルブリッジのスタッフが慌てて敬礼をしている。

『…エアクリーニング終了。 インテリアを移動します。 ご注意ください。』

LCLを吹き飛ばすためのエアブロウが止まった。

アームが自動的に伸び上がってインテリアを固定すると、白い筒からシンジたちを搭乗口へ運ぶ。

そして、彼が腰部のロックを外して降り立ったのとリツコが搭乗口に辿り着いたのはほぼ同時であった。

「御苦労さま、シンジ君。」

「珍しいですね、リツコ姉さん。 何かあったんですか?」

シンジは、レイに手を貸しながら訊いた。

「これを見てほしいの。」

白衣の女性は、右手に持っていたバインダーを少年に渡した。

「…マナが?」

「ええ。 司令部の承認待ちではあるけれど… ほぼ間違いなく許可は下りると思うわ。」

(詳しい実験の内容については触れていない…)

シンジの横に立つレイも書類に目をやった。

(リツコ姉さんがここに来た理由…)

少女は、金髪の女性の顔を見る。

「実験についての協力要請?」

少女の問いに、リツコは頷いた。

「ご明察。 お願いできるかしら?」

「分かりました。 では、僕らの執務室で打ち合わせをしましょう。」

シンジは、バインダーをリツコに返すと、レイに白色のポンチョを渡してから歩き出した。



〜 教室 〜



(…それで、マナの実験はEVAとのシンクロテストがメインになったんだよな…)

白銀の少年は、窓の外に目を移した。

そこに映る少女の姿と、窓の外には眩しい太陽の光。

(…疑似シンクロシステム…)

マサルとリツコが考えていた実験とは、

 エヴァのコアを模した疑似システムをMAGIで構築して、被験者と接触させる、というものだった。

つまり、機械と人間を取り持つシステムの確立が最終到達点と定められたプロジェクトである。

(…これは、前になかったことだな…)


”キーンコーンカーンコーン…”


「おや、時間ですね。 では、ここまでにしましょう。 洞木さん、お願いします。」

老教師が開いたまま放置していた教本を閉じると、お下げの少女が立ち上がった。

「はい。 起立!」

ヒカリの号令に、クラスメートが次々と立ち上がる。

シンジも意識を教室に戻して立ち上がった。



………NERV、コンソール。



昼時を告げる時刻といえども、特務機関NERVの職員が総じて休憩を取るということはない。

人類を滅ぼすと言われる脅威、

 使徒襲来を警戒する目や耳となる部隊や自動索敵レーダーなどから送信されるデータの量は、

  昼夜問わず変わらないし、無限に送られてくるような情報を交代で休みなく処理する職員たちにとって、

   一般の会社勤めのような12時から13時に取られる昼休み、という習慣は持ち合わせていなかった。

この組織の中核を成す第一発令所に常勤している職員も、職級のレベルは上位ではあるが他と同様であった。

その上位職層に位置するMAGI専属オペレーターである女性は、

 自身のタスクを終わらせるコマンドを流れるような手捌きで打ち込む。

”ピッ!”

ホログラムモニターに表示されたコマンドが実行されては、その結果が表示される。

人類の未来を左右する、と言われるこの組織の職員は、全て選りすぐりのエリートの集団である。

そして、NERV本部の中枢を握るこの特殊計算機一台に係るスタッフは、

 ソフト面で15人、ハード面で20人が常駐し運用からメンテナンスまでを行っていた。


……それが3セット。


同じ構成であるが、オペレーターに言わせると、”クセ”があり…なかなか一筋縄ではいかないようである。

まるで人間の性格にも似たこのクセは、同じ計算機でありながら見事に三者三様を呈していた。

「御苦労さま、カスパー。」

だからか、オペレーター達は、いつの間にか自分たちの使うMAGIを名前で呼ぶようになっていた。

”プシュ…”

「…お疲れ様です。」

振り向くと、ショートカットの技術系職員が書類の束を持って立っていた。

「あ、伊吹二尉、お疲れ様です。」

椅子を回転させて笑顔で迎えてくれたオペレーターに、書類の横から顔を出したマヤも自然と笑顔になった。

「これ、午後の実験の手順書です。 すみませんが、皆さんに配っておいて貰えますか?」

「ええ、分かりました。」

受け取った書類の表紙には、《 第一次疑似シンクロテスト 》と記載されていた。

「MAGIの調子はどうですか?」

「カスパーの機嫌、今日は特にいいみたいですよ。」

「そうですか、よかった。」

女性が言うように、MAGIをある程度操作したことのある職員が、口をそろえて言うことがあった。

それは、この第7世代のスパコンには機嫌という因子が存在するという説であった。

日々変動する処理性能は、どんなにチューニングを施しても治まらなかったのである。

カスパーはバルタザールやメルキオールよりも高い処理性能を誇っていたが、その分ムラが大きかった。

一番安定して稼働しているのはメルキオールであり、その次にバルタザールだった。

だから、マヤは午後に行われる試験を思って自然と胸を下ろした。

なぜならその実験は、市政をも司るMAGIにある程度負担を強いるものだったからだ。

重要度の高い低いに関わらず、初めて行う実験というものは、失敗という結果を考慮しなくてはならない。

まして今回の実験は、最初から予備試験もなしに子供を被験者とする実験である。

万全の態勢で臨みたい、と思うのは気の優しいマヤであれば当然であった。

「あ、そうそう。 伊吹二尉、よろしいですか?」

「はい、なんでしょう?」

マヤは、女性オペレーターと少しだけ雑談に興じる。

「今日の実験って、戦自から来た娘(こ)がやるんですよね?」

「ええ、霧島マナちゃんっていう娘で、シンジ君たちと同じ国連軍に所属していたって聞いています。」

「この前、自販機コーナーで少し喋ったんですけれど、とても明るくて良い娘ですよね。」

霧島マナは、明るく、快活な少女である。

そんな彼女を見たNERV職員たちは、年相応の振る舞いをする子供に温かな眼差しを注いでいた。

もちろん、子供は他にも所属しているが、

 EVA独立中隊の二人はとても落ち着いており、会話をすれば年齢よりもだいぶ大人であるし、

  何よりも階級に見合う実績が凄すぎて気軽に声はかけられない。 

一方の中央作戦本部所属の紅茶色の髪の少女は、

 積極的に大人たちと関わろうとはしないので、職員たちと打ち解け合うような仲には成れていない。

だから、階級に関わらず一技官として扱われている霧島マナは、NERV本部の大人受けが大変良かった。

「…伊吹二尉、これをどうぞ。」

気を利かせた男性オペレーターがコーヒーの差し入れをくれた。

「あ、すみません、ありがとうございます。」

平時のNERV本部に、穏やかな時間が流れていた。



………南極。



その頃。

ここ南極という極限の現場では、日本の緩んだ空気とは違い、ピンと張り詰めるものが場を支配していた。

「ダメです! 質量の変動が大き過ぎます!」

男性オペレーターは、警報を上げる端末を必死に操作しながら困惑した声で叫んだ。

「変動周期は?」

ロマンスグレーの髪が乱れるほどの勢いでオペレーターの方へ顔を向けたのは、冬月コウゾウであった。

「ハッ! 周期的ではありますが、依然、詳細は不明。 引き続き、調査中です。」

ロンギヌスの槍の搬出作業が始まって既に12時間が経過していた。

「おい、碇…」

横目で見れば、今回の一連の作業の指揮所として用意されたこの部屋の中心に座る男は、

 日本の本部に居る時と寸分違わず同じ姿だった。

ロンギヌスの槍を日本へ搬送するこの計画は、準備養生作業を除いて大まかに3つに分けて計画されていた。

まず、白き月と呼ばれる南極の地下空間、ジオフロントから地上への引き上げを行い、

 次に海上で待機している空母へ積み上げる。

そして、そのまま第三艦隊を引き連れて日本へ運ぶ予定であった。

その為、ゲンドウたちが母艦としている空母は、必要最低限度の人員と艦載機しか載せていない。

最初のフェーズであるジオフロントから地上への引き上げは、ほぼ予定どおり8時間で完了し順調であった。

変化が訪れたのは、槍が完全に地上に出現した瞬間からだった。

今まで何の変化もない吊り荷だったロンギヌスの槍の質量が増加、減少を繰り返すようになったのだ。

この現象のせいで、

 超巨大重機で吊りながら地上から海上まで移動させる作業が困難になってしまった。

ワイヤーの掛け替えのタイミングが取れないのである。

4時間経過しても結果の出ない現場に、ゲンドウは作業の指揮者に向かって命令を下した。

「これ以上の調査の必要はない。 …さっさと槍を海上へ運べ。」

「しかし…」

「変動する質量の軽減は無視しろ。 最大重量に耐えるワイヤーを使用し、対処すればいい。」

実際に、それですべてが対処出来るワケではないのは、ここにいる全ての人間が理解している。

山のように起立する巨大重機がバランスを失い倒壊すれば、全て終わりなのだ。

しかし、だからと言って、最高責任者の言葉に異を唱える作業員は誰一人としていなかった。

「…ハッ!」

作業が再開される様を見たゲンドウは、静かに瞼を閉じた。

そう…大事なのは、なぜ質量が変動するかではない。

この物体を日本まで運ぶことなのだ。

その目的のために、多少強引なやり方だが、このまま悪戯に時間を過ごすわけにはいかない。

責任者の決定を耳に入れたコウゾウは、モニターの情報を確認して槍に目をやった。

”ピィーーー”

作業開始の合図とともに、指揮所の目の前に横たわる300m級の巨大物体が僅かに移動し始める。

「エヴァでも持ってこられれば楽だったな…」

「ああ。」

副司令官のつぶやきに、総司令官が疲労を感じる目を指で押さえながら応じた。

「ま、そんな提案は委員会が了承せんか…」

「そうだな。」

予定を大幅に遅れてしまった作業状況に、眼鏡を掛け直したゲンドウは小さく肩を落とした。



………NERV本部。



”ピピッ”

通信を知らせるシグナルに、日向マコトは反射的と評して良いほどの速さで反応した。

技術開発部所属の伊吹マヤは疑似シンクロシステムの実験のため席を外しており、

 また、司令部所属の青葉シゲルも、そのサポートの為にここにいなかった。

(何だかんだ言ってシゲルの奴、マヤちゃんと仲いいよな… まだ付き合っているって感じじゃないけど…)

なので、第一発令所でルーチンワークと待機を命じられた彼は、どこか詰まらなそうな表情だった。

それでも仕事だと瞬時に気持ちを切り替えて、インカムのスイッチを操作する。

「はい、特務機関NERV本部、第一発令所、日向マコト二尉です。」

『…こちらNERV本部、特殊監査部の加持リョウジだ。』

通信で定められた型を破る男の声が耳を打つ。

「あ、加持一尉、お疲れ様です。」

マコトは、相手が加持リョウジと分かると若干顔の緊張を緩めた。

『…ああ、そっちもお疲れさん。 じゃ、さっそく定時報告だ。

 当初のタイムスケジュールに変更有。 現場作業が予定よりも少し遅れているようだ。』

「何かあったんですか? たしか昨日までは問題ないって…」

言いながら、マコトは発令所のメインスクリーンに表示されている時刻に目をやった。

スケジュールでは、既に海上搬送の最終確認を終える報告を受けるはずの時間である。

『確かにそう言った。 まぁ、今日の作業も”ヤリ”を地上に出すところまでは順調だったんだが…』

メインオペであるマコトは、

 司令と副司令が最近発見されたオーパーツのようなものを日本へ運ぶために、

  南極に向かったという情報を知らされていただけだったので、思わず質問してしまった。

「…ヤリ?」



〜 数刻前、疑似シンクロシステム実験場 〜



「どうですか?」

おろしたての晴れ着姿を見せるように茶色の髪の少女はにこやかな顔で、くるりと軽やかに回った。

「ええ、大丈夫よ。」

金髪の女性は、彼女が正しく実験用プラグスーツを着用している事を確認して答えた。

「では、予定どおり実験を開始します。 各員、準備状況の最終チェックを開始。」

実験管制室のスタッフは、責任者の声を聞きながら端末の操作を続けている。


『T−01エントリープラグ、移動開始。』


通常の訓練用プラグは、冷却用LCLに斜めに半分ほど浸かるように設置されているが、

 アナウンスと共に運ばれてきた白い筒は、LCLに浸かることなく鋼鉄製の床の上に静かに設置された。

「これに入るんですか?」

目の前の筒の高さはマナの3倍以上あった。

「ええ、そうよ。 これは今回の実験のために用意した疑似エントリー用の特殊テストプラグ。」


……マナの知っているエントリープラグより随分と径が大きく、それに反して全長が短い。


「えっと、これってカタチが違いますよね?」

少女の視線を受けたリツコは、実験用プラグに目をやって答えた。

「さっき言ったでしょ? これは今回の実験用に用意させたものだから、

 あなたの知っているエントリープラグとは造形が違うのは、当り前なのよ。」

技術部のスタッフが太鼓のような白い筒に様々な計測用のケーブルを接続している。

その準備作業の邪魔にならぬように気を付けながら、マナはキョロキョロとプラグに歩き寄った。

「この中、見てもいいですか?」

「ええ、いいわよ。 その赤いスイッチを押してみて頂戴。」

マナがスイッチを操作すると、後部のハッチがバクンと上に跳ね上がる。

興味しんしんの瞳で中を見てみれば、そこには何もなかった。

「ん?」

何度、目を動かしても、首を動かしてもプラグの中は見事にがらんどうであった。

「なんもない? あの…」

濃緑色のプラグスーツ姿の少女が振り向くと、いつの間にか背後にマサルが立っていた。

「どうだ? がらーんとして何にもないだろ?」

「土井さん、イスもないんですか?」

被験者に答えたのはリツコだった。

「ええ、そうね。 今の段階では必要ないわ。」

マサルは、その言葉に一つ頷いて言葉を続けた。

「最終的には、疑似的に用意したコアシステムにマナの意識を近付ける事になるが、

 今日は、一発目だ。 取り敢えずLCLに慣れることが最重要だからな。

 LCLの中で何かあって暴れても、これだったらケガのしようがないだろ?」

「はぁ…」

それにしても、スイッチの類すらないとは…

「それとも手足身体を縛り付けられる方が良かったか?」

「む、それは嫌です…」

正直な処、この実験で使用するためのインテリアが間に合わなかっただけだが…

大人はそういうことを表に出さないものだ。

「霧島さん、手順は頭に入っているわね?」

リツコの声に、マナは面持ちを直して頷いた。

「…結構。 では、実験開始までもう少し時間があるから、今日の内容、再度確認していてちょうだい。」

「はい、分かりました。」

そう言いながら、マナは頭の中に入っている実験要綱を確認した。

もちろん事前に何度も読んでいるから、確り頭の中でそらんじる事ができる。

これからインターフェースヘッドセットを頭に装着し、プラグの中に入る。

そしてLCLで満たされた後に、MAGIを介してソフトウェアで用意されたコアとのリンクを図るのだ。

たしか、気持ちをリラックスさせるのが重要、だったっけ…

その間にも白いプラグにLCLの循環パイプが接続される。

準備は最終段階に移っていったようだ。

「はい、マナちゃん。 これを着けて。」

いつの間にか隣に立ったマヤの手に、白いヘッドセットがあった。

「これって隊長のと…」

「あら良く分かるわね。 そう、シンジ君のと同型よ。」

リツコはバインダーの書類に目をやったままマナに答える。

茶色い髪の少女は、嬉々としてマヤから受け取ると、いそいそと頭に装着した。



〜 通信室 〜



『…日本に持ってくるオーパーツってヤリなんですか?』

(おっと、少し口が滑ったな…)

通信室の加持は、しまったと思わず顔を上げて腰にやっていた手を額に当てた。

(日本の一般職員には、最近発見されたオーパーツって言ってあったんだな…)

特殊監査部の上級職員が情報漏洩とは、ちょっと拙いじゃないか…

さて、どう誤魔化すか…

『あれ、加持一尉?』

急に無音になった通信を訝しげる若い男の声が耳元の通信機から聞こえると、

 いたずら少年のような顔になったリョウジは努めて明るい声で応えた。

「…ん。 あれ? おーい? …電波状況が悪いのか? NERV本部、聞こえるか?」

『え?』

通信機のレベル調節ダイヤルを乱暴にいじりながら、更に言葉を続ける。

「ザザッ こちら、加持…… ザッ…聞こえるか? ……ダメか……」

”ぶちっ!”

だらしなく伸ばした髪を後ろで結んだ男は、そう言うと一方的に通信を切った。

ポカンとした顔の国連軍通信兵と視線が合うと加持リョウジは、男くさいウインクする。

「…こういうのも、お茶目だろ?」

下士官の黒人兵は、上位階級の士官の顔を見ると、どう答えて良いものかと躊躇いがちに言葉を返した。

「…自分には良く分かりません。」

「ははは。 ま、こっちの事は気にせず、引き続き任務を全うしてくれ。」

「ハッ…」

通信兵の返事を耳に入れながら、ドアノブに手をやった男が振り向く。

「おっと…それと、日本から問い合わせがあったら適当に相手してやってくれ。」

「よろしいのですか?」

「ああ、問題ない。」

リョウジは笑いながら通信室を出て行った。



………ラグランジュポイント。



月と地球の重力が釣り合うポイント。

黒よりも濃い闇のスクリーンに数多の星の光が不規則に拡がる。

白く輝く月が右に、左には青い地球を眺めることが出来るこの空間に、ひっそりと紅が出現した。

それは有機的な艶やかさと滑らかさを持つ球体であったが、ここは生物が生身で存在できる場所ではない。

太陽風と呼ばれる極めて高温で電離した粒子が吹き荒れる、真空の空間なのだ。 

しかし、その紅色は、極限の空間において静かにあった。

空気もないため、音は伝搬しないはずであるが、

 この空間にもし人がいれば、その鼓膜を震わせただろう振動が一つだけ響いた。


”どくんっ”


まるで生命の誕生を現すかのような鼓動音であった。

太陽の光を受け紅く光っていた球体は、間を置かずその身を震わせ始める。

大きく、小さく。 脈動するように、伸びやかに。

元の球体がどれくらいの大きさかは測りようもなかったが、

 動き始めてからは間違いなく何百倍という大きさに膨れ上がっていった。

そして、中心から両側に大きく羽根状に伸びていくと、それは巨大な手を思わせる形状に発達していく。

色も徐々に変化を始める。 今では禍々しいようなくすんだ血の色からだんだんと橙色へ。

そのまま色彩が明るく変化していくとオレンジ色になった。

中心を形成する大きな円と、そこから短く伸びた太い手首、それ以上に大きな手。

第十使徒サハクィエルを文字で現すと、こんな単語が連なるだろうか。

そして、仕上げのように出現したのは、

 先に殲滅されたマトリエルにも存在した古代エジプトの壁画を連想させるような切れ長の瞳だった。

それは中心の本体だけではなく、

 大きな3つの指、おまけ程度の小さな2つの指が生えている不格好に広げられた両の掌にも現れた。

四肢、と言えばいいのか、使徒はその体躯を拡げる。

威風堂々とした巨体。

それは時が止まったかのように、ピタリと静止している。

また動くモノのない、静寂があたりを支配した。

ラグランジュポイントに出現したサハクィエルは、動かなかったのではない。

正確には、動けなかったのだ。

そう、釣り合いの取れたこの場所では、何らかの外力が働かなくてはモーメントが発生しない。

しばらくの時を経て、第十使徒は目標たる地球へ向かうために、ATフィールドを発生させた。

足場を蹴る、というか巨大な手でそれを押して青い惑星へと移動を開始する。

こうして、第十の刺客と言うべき人類の脅威が侵攻を開始した。

余談ではあるが。

第十使徒、サハクィエルが出現した宇宙空間は、奇しくもシンジがレイにプロポーズした場所でもあった。



………第一発令所。



さて、真面目な性分の男、日向マコトは先ほどリョウジとの通信が切れてしまった原因を調査していた。

(ネットワークに異常なし… 回線もグリーンだ。 あとは…)

単純な問題ではないのか? そう考えたメガネの男は、キーを叩く速度を上げていく。

(これも大丈夫… う〜ん。 何なんだ? …あっ! もしかしたら通信用衛星に不具合でも?)

しかし、MAGIの返事はNOだった。

「ん?」

そんな時、インド洋上空の第十八探査衛星のデータをMAGIバルタザールが提示した。

「何だ?」

それは1秒にも満たない微弱な反応であったが、あってはならない反応だった。

「まさか…」

マコトの瞳が大きくなる。

彼の見たディスプレーには、《 ブラッドパターンブルー 》と表示されていた。

瞬時に、提示されたデータについてMAGIメルキオールとMAGIカスパーが加わり審議状態になる。

マコトは、計測した衛星の位置を特定し、さらにデータを収集しようとコマンドを走らせた。

「…ん? 消えた?」

しかし、敵性体の反応は既に消えており、サーチ衛星からそれ以上の情報は得られなかった。

マコトが眉根を寄せていると、結審したMAGIの判断が下りる。

「…保留?」

つまり、戦闘待機と同義の決が採られたのだ。

MAGIは即座に対使徒戦へのシフトとなり自動的に索敵に特化したタスクの占有率が上がっていく。

マコトは、システムの状態を確認しつつ受話器に手を伸ばした。



………実験場。



”ピュイン”

『霧島さん、どうかしら?』

マナの目の前に、通信用ウィンドウが開く。

もちろん、彼女の前に映った画面はただの画面ではない。

それは、人体に影響のない電荷した液体に投射されているものだ。

その革新的な技術に瞳を大きくした少女は、特殊な液体に満たされた寸胴型の筒の中に立っていた。

(ほへぇ… 赤木博士が浮かんでいる…)

思わず、電荷されたLCLに現れたリツコに手をやった。

その手がモニターの四角に触れそうになると、ヴァーチャルスクリーンが滲むように揺らぐ。

しばらく待っても来ない返事に、画面のリツコが怪訝そうな表情になった。

『…霧島さん? 私の声、ちゃんと聞こえているかしら?』

(あ、いけない…)

「聞こえています。 すみません…」

『初めてのLCL、大丈夫だったかしら?』

「はい、大丈夫です。」

液体呼吸訓練の経験があるマナにとって、初めてのLCLは想像より大分マシであった。

(シンジ君から血の匂いがするって聞いていたけれど… これなら大丈夫…)

隊長からの情報で、少女は戦場で嗅いだようなドロリとした鉄の血生臭さを連想していたのだ。

その遣り取りを聞きながら、マヤは次のステップに移る準備を始めていた。

彼女が操作すると、ディスプレーに《 ヴァーチャルコアシステム 》と表示される。

「センパイ、ソフトの準備ができました。」

「では霧島さん、実験、始めるわよ。」

『了解です!』

気合の入ったマナの言葉に、リツコの号令が響く。

「では、実験スタート!」

マヤは尊敬する女性の号令とほぼ同時にエンターキーを押す。


……が。


”ビー! ビー! ビー!”


コマンドを実行し、実験の経過を示すはずのモニターは、命令を拒絶するかのように真っ赤に染まった。

「ッ! どうしたの!?」

「センパイ、ソフトに必要なリソースが不足しています! 実験用に確保しておいたシステム占有率低下!」

NERVの中核を担う処理装置の使用権は、技術開発部や中央作戦本部が優先とされていたが、

 それに拘らず、通常では予約制をとっており、今日の実験にしてもマヤが事前に予約処理をしていた。

後輩である部下のディスプレーに目をやりつつ、事態を想像しながらリツコは鋭く命令を飛ばす。

「割り込んだタスクを表示して頂戴!」

占有率低下という事態は、異常である。

常ではない… ということは、非常事態と言う事。

この組織において、何よりも優先されるべきタスクが生じた。

つまり、使徒に関係することだろう。

白衣の女性に応えたのは、一本の電話だった。

『こちら第一発令所の日向です。』

「あ、伊吹です。 何かあったんですか?」

『赤木博士に、使徒の反応をサーチ衛星が感知。

 現在、MAGIが第1種警戒態勢及び戦闘待機を決定したと伝えてくれ!』

マヤが振り返って伝えると、それを耳に入れたリツコの脳裏に弟の顔が浮かんだ。

「碇二佐に連絡を。 あと、葛城一尉にも連絡を入れて頂戴。」

「了解!」

青葉シゲルは、関係部署に連絡を取るために受話器に手を伸ばした。

リツコはマイクのスイッチを押した。

「…各位に通達。 予定されていた本日の実験は全て中止とします。

 現在、MAGIによる戦闘待機が発令されました。 各員は、その処理と待機を。」

リツコはスイッチを切換える。

「…霧島さん?」

『あ、はい。』

「聞いていたとおり、実験は延期。 LCLが抜けたらシャワーを浴びて待機、いいわね?」

『はい、了解です。』

リツコは振り返る。

「土井技官…」

マサルは、少しだけ肩をすくめた。

「使徒、ですか… 実験はまたの機会に持ち越しですね。」

「そうなりますわ。」

「…では、私は霧島と執務室で待機します。」

「ええ、そうして下さい。 ほかの戦自研の技官も各自待機願います。 …マヤ、碇二佐は?」

マヤは踊るようにキーを叩いていた手を止めた。

「繋がりません! 綾波三佐もです。 惣流二尉は、保安部員が接触しています。」

「…葛城一尉は?」

反射的にキーボードに指を走らせたマヤは、ディスプレーの情報を読み上げた。

「はい、中央作戦本部、作戦会議室で情報収集の指揮を執っているようです。」

あら珍しい… 予想外の言葉に、リツコは思わず一瞬の時間を浪費してしまった。

「…マヤ、引き続き、EVA独立中隊へ連絡。 保安部には彼らの現在位置を確認させて。

 それと、南極の碇司令に一報を。 取り敢えず、第一発令所に行くわよ!」

「はい、分かりました。」

ショートカットの女性は、若干慌てるように立ち上がって、金髪の女性に続いて廊下に向かった。



〜 公園 〜



個性を消すためのサングラスを常用とする男は、第壱中学校を見渡せる裏山に停めた自動車の中にいた。

中隊付きと下達されて以来、日中、ここが保安部に籍を置く彼の定位置だった。 

郊外に位置するこの公園の駐車場には、

 彼の乗るくたびれた営業車、といった風情のくすんだ白色のバンしかいない。

その車に設置された通信機が緊急を知らせたのは、

 後輩に遅めの弁当を買いに行かせて待っている、ごく日常の一コマであり緩慢な時刻のことだった。

『NERV本部より保安部01班、応答せよ。 こちらNERV本部、どうぞ。』

第一発令所からの直電。

何よりも優先されるそれに緩んだ時間が一気に引き締まる。

男は瞬時にマイクをひったくった。

「こちら保安部、セキュリティ01。 NERV本部、どうぞ!」

『戦闘待機が発令された。 現時刻を以ってチルドレンは本部待機となる。

 現状、NERV本部ではEVA独立中隊と連絡が取れない。 至急 チルドレンの状況を確認されたし。』

「了解!」

マイクを切ると男は素早くキーを捻ってエンジンに火を点した。

懐に手を突っ込んで携帯を取り出すと、短縮ダイヤルをかけながらギアをドライブにぶち込む。

公園の駐車場にいた唯一の車は、悲鳴のようなスキール音とゴムの焦げる臭いを残して走り去っていった。



〜 第壱中学校 〜



NERVから支給された携帯電話は常備が常とされていたが、

 残念ながら現在、シンジは身に付けていなかった。

正確には、身に付けられる状態ではなかった。

なぜなら、今、彼は学校指定のスクール水着、黒色の短パン姿という出で立ちだったからだ。

だから、連絡がつかないのは仕方のないことであろう。

「位置について!」

体育を受け持つ教師の声に合わせて、シンジは飛び込み台に足をかけた。

昼休みを終えた、午後一番の授業。

少年は、鍛え上げられた身体を前屈させて指先をつま先に合わせる。

一瞬だけ訪れる静寂。

”…ピッ!”

甲高い笛の音に、全身の筋肉がコンマ数秒も遅れずに反応する。

滑空する数瞬の後に指先が水面を引き裂くと、プールに満たされた水は抵抗なく少年の身体を受け入れた。

「いけいけ、碇くぅーん!!」

普段、彼を見る事が出来ない2−Bの女子たちが盛大に声援を送る。

本日は2−A、B組の合同水泳教室であった。

日焼けしないように大きなバスタオルを肩に下げたレイは、シンジの伸びやかなクロールに目をやった。

スタートして間もないが、既に身体2つ以上の差がついている。

「ホント、碇君ってすごいわね…」

そんな声にチラリと目をやると、洞木ヒカリが隣に腰を落とした。

「綾波さん、隣、いい?」

「ええ。」

「碇君って、何か苦手なことってあるのかしら?」

「…」

水の抵抗をいなし、クルリとターンを決めた少年を見て、レイは少し逡巡した。

「何でも出来るものね… 勉強も、運動も…」

どこか呆れたような色が入ったヒカリの言葉に、蒼銀の少女はポツリと答えた。

「碇君は…」

「え?」

「…昔、泳げなかったわ。」

「へぇ…」

わた飴を連想させるモクモクとした雲から太陽が覗くと、プールサイドのコンクリをじりと焙った。


……その頃、サングラスの男は普段、決して行わない行動をとった。


保護対象の少女の前に姿を現したのだ。

「…なによ?」

つっけんどんな態度と声にも一切構わず、男は無表情に口を開いた。

「惣琉二尉、先ほど戦闘待機が発令されました。 本部まで御同行を願います。」

「…はぁ、分かったわ。」

アスカが、体調が優れないと言って保健室に向かったのは、昼前だった。

そして、現在、彼女がいるのは第3新東京市の第7ブロック、自宅の目の前である。

一応、携帯電話の電源は切っておいたのに…

サボタージュしても特に咎めることもない大人を冷めた目で一瞥すると、道路わきに車が停まった。

”ガチャ…”

「どうぞ」

「はいはい…」

こうも自然に自由を奪われると、普段は思いつかないような事を感じてしまう。

(これじゃ…まるで籠の中の鳥ね。)

シートに腰を下ろすと、安全確認を終えた保安部員がアクセルペダルを踏み込んだ。

(逃れられない、現実…か。)

加速していく車内で、アスカは流れていく街を見ると無しに目をやっていた。



………作戦会議室。



各端末が起動すると、作戦を立案するための部屋に活気が宿った。

中央作戦本部付きの職員がそれぞれのシートに収まり、それぞれが指示を待つことなく情報収集を始める。

「どうなの?」

葛城ミサトは発令所から走ってきたマコトのシートに手を載せた。

「衛星軌道より外れた高度に突然反応が現れました。 探査衛星が捕えたデータがこちらです。」

トレンドグラフに記されているデータの少なさに、赤いジャケットの女性は嘆息した。

「う〜ん。 見事に一瞬だけね…」

「しかし、無視はできません。」

「当然だわ。」

メガネの男はさらにデータを表示させる。

「他の衛星の情報もチェックしていますが、反応はありません。」

「誤報、という可能性もあるわね。」

「…機械ですからね。 否定はできません。」

「取り敢えず、戦闘待機は継続。 引き続き情報収集、よろしく。」

「はい。」

「じゃ、私は発令所に行くわ。」



………フィールド。



領域、というか空間の狭間。

侵攻を開始したサンダルフォンは、先ほどと同じ宇宙にいながら違う次元、断層にいた。

「しばらく、ここにいてもらうよ。」

黒いマントの男の手の平に、第十使徒が居る。

切れ長の眼状模様、オレンジ色の体表。

スケールが違うその大きさも、黒マントにとっては関係がないらしい。

「さて、衛星の位置は…」

もう片方の手の平に、地球が現れる。

「地球を囲んでいるNERVのサーチ衛星は36個。 えーと…ATフィールドの発生間隔を…」



………NERV。



「ATフィールドの発生を確認!」

「第七衛星に反応! …いや、消えた!?」

オペレーターの男が周りの騒音にも似た喧騒に負けない驚きの声を出す。

「第十三、第九、第三も同様です!」

「衛星軌道上を移動しているのか? しかし、それにしちゃ速すぎる!」

地軸に沿うように使徒の反応が現れては、消えていく。

「反応、消失!」

「こりゃ、やっぱり誤報なんかじゃないぞ…」

日向マコトは、発令所へ回線を繋いだ。

それを受けたのは、伊吹マヤだった。

「…分かりました。 はい、葛城一尉に伝えます。 日向さん、こちらに戻ってきてください。」

『了解、第一発令所に戻ります。』

”プシュ”

「リツコ!」

「葛城一尉、今回の敵は…」

「ええ、宇宙に現れたみたいね。」

青葉シゲルは、目を大きくした。

「…あれ?」

その声に、金髪の女性と赤いジャケットの女性はそろって中央モニターに目をやった。


「どうしたの? 青葉君!?」

「目標を完全にロスト! 消えました… 突然…」

リツコは驚きに止まっているマヤを見た。

「マヤ、碇司令に連絡を!」



………洋上。



UNと記された飛行甲板に、黒い布で覆われた棒が固定されている。

棒、というよりは巨大な壁を思わせる建造物。

約300mの長さを誇る空母の滑走路を占有するそれは、先ほど積み込みが完了したロンギヌスの槍だった。

スケジュールの遅れを取り戻すべく、第三艦隊は最大戦速で日本を目指している。

アイランド、と呼ばれる空母の艦橋に併設された部屋に、二人の男が南極海を見るとなしに見ていた。

「…ようやく出発出来たな。」

「ああ。」

「スケジュールの遅延は、約16時間と言ったところか。」

「…問題ない。」

どこにいても変わらぬ男の言葉に、冬月は改めて自分のいる光景に目をやった。

「いかなる生命の存在も許さない死の世界、南極… いや、地獄と言うべきかな。」

「だが、我々人類はここに立っている。 生物として生きたままだ。」

コウゾウは、小さく肩を竦めた。

「科学の力で護られているからな。」

「科学はヒトの力だよ。」

被せるようなその言いようにロマンスグレーの男は、思わず過去この男を糾弾した時の顔になった。

「その傲慢が15年前の悲劇、セカンドインパクトを引き起こしたのだ。」

瞳に映る、紅い海。 崩れたオーロラ。

「…結果、この有様だ。 与えられた罰にしては余りに大きすぎる。 …まさに死海そのものだよ。」

言いながら、自分の立場を思い返し、コウゾウの声は再び小さくなっていった。

「だが、原罪の穢れ無き浄化された世界だ…」

「ふん… 俺は罪にまみれても、ヒトが生きている世界を望むよ。」

”ビィィーー”

コウゾウの言葉を切り捨てたのは、スピーカーの突然の警報音だった。

『NERV本部より入電、インド洋上空、衛星軌道上に使徒発見!』



………ブリーフィングルーム。



「以上が現在までの経緯。 以後、目標の消息は不明のまま。」

モニターを背にしたリツコの声に、制服姿の少女はやれやれと首を振った。

「はぁー、経過も何も… 結果、まだな〜んにも分かってないって、ただそれだけじゃない…」

「まぁまぁ、アスカ… そう言わないで。 今も引き続き全力で情報収集に当たっているわ。」

ミサトは苦笑しながら肩にかかった濃紺の長髪を後ろへ掻き上げた。

「…ところで、何でアスカだけ制服なの?」

シンジとレイはジャージ姿である。

校庭に乱入してきた保安部員に緊急事態を告げられ、

 取り敢えず水気を切った水着の上にジャージを羽織った、というのがEVA独立中隊の状態だった。

「そ、それは…」

「…惣琉二尉は、午後の体育の授業、受けなかったから。」

横目でぶつかった少女の紅い瞳を一睨みして、アスカは頭の後ろで手を組んだ。

「うっさいわね! …体調が悪かったんだから、しょうがないじゃん!」

「体調不良? それは大変。 …可及的速やかに精密検査をしなければいけないわね。」

金髪の女性のメガネがキラリと光る。

それはまるで、マッドサイエンティストのような雰囲気だった。

「あ、あ…リツコ、今は平気だから! ホント、うん! 大丈夫、もう、本当に!」

ゾクッと背筋に悪寒を覚えた紅茶色の髪の少女は、慌てて首と手を振った。

「で、どうするんですか?」

作戦課長は、白銀の少年に嘆息交じりに答えた。

そして、それは少年の予想通りの答えだった。

「取り敢えず、セカンドチルドレンは本部待機。 使徒戦に向けて即応できるように態勢を整えておく事。

 EVA独立中隊も同様にお願い。 どうかしら?」

「了解。 赤木博士、よろしいですか?」

「何かしら? 碇二佐。」

「解析前で構いませんから、随時データを送って下さい。」

「分かったわ。 各セクションに通達しておきます。」

立ち上がったファースト、サードチルドレンが廊下に出ると、セカンドチルドレンがついてくる。

曲がり角を右に、突き当りを左に、トコトコと…

「どうしたの?」

という少年の声と、少女の問いた気な瞳に、アスカは肩をすぼめた。

「あんたらの部屋に行くのよ。」

「どうして?」

「アンタばかぁ? 情報の共有は同一戦域で戦う上で重要じゃない。」

バカと言われた蒼銀の少女は、構わず歩く少年と目を合わせて、再び口を開いた。

「それはあなたの待機室でも出来ること。 わざわざ独立中隊の執務室に来る理由になっていないわ。」

「いーの! 面倒だから、いーのよ!」

「…そう。」

敵性体のデータは、戦闘に勝つためにも非常に重要である。

今までの謎の生命体との戦いでそれを骨身に染み込ませたアスカが、

 一騎当千の働きを誇るEVA独立中隊と同じデータを欲するのは当然の帰結だった。

しかし、先日昇進したとはいえ、

 彼らの階級に少しだけ及ばない自分がミサトやリツコに同じ事を願っても叶う可能性は少ない。

ならば、同席させてもらおう。


……それがアスカの考えだった。


『…確かに全ての情報が末端であるパイロットに伝わることはない。

 セカンドチルドレンは、それがイヤなのね…』

そう思い至ったレイは、シンジにしか分からない程度に落胆した。

(二人きりになれない…)

そんな蒼銀の少女の波動は漏れていたらしい。 白銀の少年はレイの手を握って波動で思惟を伝えてきた。

『綾波、たぶん暇つぶしだよ。 アスカはそこまで深く考えていないと思うよ。』

『…そうかしら。』

握られた少年の体温を感じながら、少女は無機質な廊下の先へ足を進めた。



………中央作戦本部。



第一発令所と同様に、作戦会議室にも世界からあらゆる情報がリアルタイムに送信されてくる。

使徒が発生してから通信系統にノイズのようなものが混じっているが、

 男はその中から必要なデータを川底から僅かな砂金を見付けるように、ピックアップしていった。

「ATフィールドを確認!」

「どこだ?」

「再び、インド洋上空、衛星軌道!!」

「サーチ衛星、移動開始!」

「そのまま消えないで、待っていてくれよ。」

『第六サーチ、軌道上に乗りました!』

『…接触まで、あと2分!』

「目標を映像で捕捉!」

「おお…」

作戦課の職員たちは、一様にどよめきの声を漏らした。

異形であり、シンメトリックなデザイン。

オレンジ色に、非生物的な眼状模様が浮き出るように見える。

サーチ衛星が敵性体の情報を収集していく。

測定された大きさに、男は口を開けたまま、言葉を失った。

「これは…」

その情報は、同時に第一発令所にも齎されていた。

作戦会議室の職員同様、発令所のスタッフも中央スクリーンに映る敵の画像に見入っていた。

「こりゃ、すごい…」

「常識を疑うわね…」

マコトとミサトが呆然と呟く一方、青葉シゲルはサーチ衛星に向けてコマンドを走らせていた。

「目標に接触します!」

使徒を挟むようにサーチ衛星が接近する。

『サーチスタート!』

『姿勢制御プログラム正常。』

『…データ送信、開始します。』

『受信確認!』

『解析開始…』

補助オペレーターの言葉と同時に、突然と映像信号が途切れた。

「ATフィールド?」

「新しい使い方ね…」

ミサトとリツコの声を聞きながらマヤはバックアップのサーチ衛星の画像に切り替える。

「使徒に変化!」

マヤの声と共に宇宙を背にしたオレンジ色が蕩けた。

まるで飴細工のように、使徒の右手の一部分がトロリと滴のように零れ落ちる。

「形が崩れた?」

ミサトの言葉に、リツコは敵の攻撃方法が脳裏に浮かぶ。

「まさか…」

「再びサーチ衛星からの通信が不安定になっています!」

オペレーターの声をバックに金髪の女性は目を大きくした。

「ミサト、これは…」

リツコは、地球上空を覆う探査衛星のマーカーが消えていくのを見て言葉を失った。

「サーチ衛星の通信に不具合が発生! ダメです! 情報収集に支障!」

マヤがコマンドを叩きながら報告を上げた。

「より強力なジャミングを始めたってこと?」

「…そうみたいね。 NERVは、ほとんどの目を失った事になるわ…」

ミサトは、発令所の巨大スクリーンを睨むように目を細めた。

「日向君、あらゆる手段を用いて情報の収集、いいわね?」

「はい!」

「作戦会議室に行きます。」

「葛城一尉、私も行くわ。」

赤いジャケットの女性と白衣の女性は揃って発令所を後にした。



………執務室。



「…あーもー、暇ねー」

紅茶色の髪の少女は、温くなったコーヒーをごくりと飲み干した。

「…まだ2時間も経っていないよ。」

「ねぇ、シンジ。 その後の情報はぁ?」

「僕の端末には、あれ以降、特にないな…」

「でもさー、宇宙の使徒なんて、どうやって殲滅するのかしら?」

「…それを考えるのが、葛城一尉の仕事。」

レイはそう言って、空になったコーヒーポッドを手に立ち上がった。

「ま、そうよねー」

「碇君、まだコーヒー、飲む?」

「あ、うん。」

「…グアテマラでいい?」

「はい、はぁーい! 私、今度はマンデリンがいい!」

シンジは、元気に手を挙げる少女に分からない程度、苦笑した。

「綾波、マンデリン産の豆、まだあったっけ?」

「ええ、あるけれど…碇君は?」

私は、碇君が飲みたいものを淹れるの…

それ以外の考えは全くない少女に、白銀の少年は別な意味で再び苦笑した。

「うん。 いいよ、マンデリンで。」

「分かったわ。」

「ありがとう、綾波。」

「…いい。」

自分の希望が叶った少女は、彼らにはもう興味を失い、先ほど見ていた雑誌に手を伸ばしていた。

そして、紅茶色の長い髪をくるくると弄りながら、特集記事に目を落とすのだった。


……暫くすると、先ほどとはまた違った芳醇ながらも爽やかなコーヒーの香りが立ってくる。


「そうだ。 …アスカ、チャンスじゃないか。」

「ん、何が?」

「この前、宇宙へ旅行に行ってみたいって言っていたじゃない。」

アスカは、休み時間の教室での他愛ない会話を思い出した。

「…それが?」

「葛城さんのことだから、今頃、アメリカかロシアにでもロケットを貸せって騒いでいるんじゃないかな?」

「?」

まだ要領を得ないアスカ。

「つまり、EVAを特殊なワイヤーか何かでロケットに縛って…」

紅茶色の髪の少女の脳裏に、真紅の愛機を縛り付けたロケットが浮かぶ。

「じょ、冗談じゃないわよ! エヴァで宇宙なんて! それに、電源切れたらどーすんのよ!」

にこにこ笑うミサトの指が、発射ボタンに伸ばされる…

そこは、重力のない真空の宇宙である。 会敵機動はどうするのか? そもそも戦いになるのか?

例え使徒に勝ったとして、一体どうやって地球に帰還しろと言うのか…

イヤー! と、頭をぶんぶん振るセカンドチルドレン。

そんな少女を少し冷たい視線で見るのは、コーヒーポッドを手にしたレイだった。

「…たぶん、赤木博士が止めるわ。」

その言葉に、ぴたっと動きが止まる。

「あ、そうか。 それもそうよねー」

蒼銀の少女の冷静な突っ込みに安心したアスカは、

 再び、ごろんとソファーに横になって茶菓子に手を伸ばした。



………その頃。



その大きさ、規模にミサトは目を細めた。

「大した破壊力ね。 さっすが、ATフィールド…」

バインダーに記録されたデータをマヤが報告する。

「落下のエネルギーをも利用しています。 使徒そのものが爆弾みたいなものですね…」

リツコは白いマグカップをスクリーンテーブルに置いた。

「取り敢えず初弾は太平洋に大外れ。 で、2時間後の第二射がそこ。 後は確実に誤差修正しているわ。」

陸地に穿たれた大きなクレーター。 それは日本の街が一つこの世界から消えた跡だった。

小さな欠片で、アレだけの被害…

「学習しているってことか…」

ミサトのつぶやきを聞きながら日向マコトは画面を操作した。

「碇司令の依頼を受けた、国連空軍のN2航空爆雷も効果ありません。」

「以後、使徒の消息は不明です。」

「南極の碇司令とは?」

「はい、断続的にジャミングを受けています。 通信可能時間は減少傾向。」

シゲルのファイルを見たリツコが、それをミサトに渡す。

「南極海域の第三艦隊と通信できるタイムリミットは、あと30分程度よ。」

「それまでに作戦を立案、か。 MAGIの予測による再攻撃は?」

スクリーンの光を黒縁メガネに反射させたマコトが答える。

「はい、使徒の出現パターンと軌道計算により、最短で110分後です。」

「…来るわね、たぶん。」

「次はここに本体ごと…ね。」

リツコを見るミサトの目が鋭くなる。

「ここに直撃した場合は?」

「…ジオイド震度マイナス9000までの被害がMAGIによって予想されているわ。」

マヤがバインダーの資料をミサトの前に提示する。

「あくまでも本部直撃の場合ですが、ジオフロントは壊滅、半径30km以上に壊滅的被害が予測されます。

 また、ジオフロントを外れた場合は、地表部被害半径がさらに20kmプラスされます。」

リツコが資料にペンを走らせる。

「つまり、ここに落ちればエネルギーの拡散をジオフロント外殻部である程度吸収できる、という事よ。」

友人の書いた図を見ながら、ミサトは乱暴に後頭部を掻いた。

「いずれにしても第3新東京市は壊滅、か…」

「そうなるわね。 それに…」

「それに?」

「使徒がATフィールドを使い、

 速度、位置をコントロールしている以上、正確な攻撃を予測するのは難しいわ。

 最短では日向二尉の報告の通り110分後、でもそのタイミングではないかも知れない…」

「MAGIの判断は?」

「全会一致で撤退を推奨しています。」

マヤの答えは、作戦課長の予想通りだった。

「う〜ん…よしっ」

何かを決意したように頷いたミサトが、目の前の白い電話機を手にした。

「南極の碇司令に繋いで。」

暫くすると、作戦会議室に碇ゲンドウの声が届いた。

『…私だ。』

音声のみの画面からサングラスの男がこちらを見ているような気がする。

”SOUND ONLY”という文字に目を固定したまま、赤いジャケットの女性は口を開いた。

「葛城ミサト一尉です。 碇司令、D−17を許可頂けないでしょうか?」

『D−17だと?』

副司令官である冬月コウゾウの声にミサトは大きく頷いた。

「はい、今回の敵はこれまでの行動から衛星軌道上より落下による直接攻撃を仕掛けてくると予想されます。

 第3新東京市の地上部のみならず、ジオフロントにも壊滅的被害が想定されています。

 地下シェルターへの避難では人的被害は免れません。」

『それで、D−17かね?』

「はい。」

『…認める。』

『うむ。 それについてはいいだろう。 …で、肝心の使徒殲滅については?』

ゲンドウに続いた副司令官の声に、ミサトは目を瞑った。

「ミサト?」

頭脳に描いた使徒殲滅作戦を確認するように大きく息を吸い、決意を込めた瞳を大きく開く。

そのまま、ミサトは受話器を握る手に力を込めた。

「碇司令、今回の敵に対する作戦は…」

しかし、次の言葉は青葉シゲルの声に潰された。

”ブツッ”

「通信限界です。 回線が切れました。」

会議室全員の視線を受けているミサトは、受話器を戻すと徐に立ち上がった。

「EVAの出撃準備を整備部に通達。」

「ミサト?」

「…EVAで受け止めるのよ。」

大地を穿つ、あの途方もない落下エネルギーを?

誰しもが作戦課長の言葉に驚きを隠せなかった。

ミサトは、キッとモニターを睨むと言葉を続ける。

「…日本政府各省に通達。 NERV権限における特別宣言D−17を発令。

 半径50km以内の全市民は直ちに避難を開始。 …松代にはMAGIのバックアップを頼んで。」

「ここを放棄するんですか?」

驚きの声を出したマコトにミサトは首を振る。

「いいえ、ただ…皆で危ない橋を渡ることはないわ。」



………30分後。



第3新東京市から飛び立った第2航空連隊の輸送ヘリが国連本部に向けて高度を上げる。

すれ違うヘリから聞こえる殺気立ったアナウンスが緊急と緊迫した事態を告げていた。

『政府による特別宣言D−17が発令されました。 市民の皆様は速やかに指定の場所に避難して下さい。』

「特別宣言、D−17か。 まさかこのような宣言が本当に発令される日が来るとはな…」

「NERVによれば、巨大隕石と同じ規模の破壊をもたらす使徒だとか…」

第一秘書の言葉に、

 国連事務総長であるクルト・ハマーショルドは公務で訪れていた眼下の都市に目をやった。

「既に数千人規模の被害が出ている。 確かに避難措置は必要だ。

 …が、その後NERVは、いや”彼”はどうやって戦うのだろうか…」


……常に、必要最低限のものを直ぐに持ち出せるように。


それがこの街に住む住人に課せられた義務だった。

家財道具一式を、などと言う時間も許されない。

それが第3新東京市。 将来、この国の首都になる事を約束された都市。

その大動脈、8車線の高速道路が全て解放され、全線下りとなる。

現在、笛を吹いて誘導を行っている全ての警察官も、最終的には戦略自衛隊により郊外へと避難する。

”ウゥゥゥゥゥゥ……”

そして、警告音と共に中心部の高層ビル群が地中へと沈みこむ。

『第6、第7ブロックを優先に各区長の指示に従い、移動を願います。』

『…市内における避難は全て完了。』

『部内警報Cによる非戦闘員、D級勤務者の退避、完了しました。』

各セクションの報告が飛び交うNERV本部、第一発令所は喧騒に包まれていた。


……そんな中。


「えー! 手で受け止めるぅ!?」

ソファーから立ちあがったアスカは自分の手の平を見ながら叫んだ。

EVA独立中隊執務室に技術開発部長と中央作戦本部作戦課長が来たのは、つい先ほどだった。

「そう。 落下予測地点にEVAを配置。 ATフィールド最大で直接使徒を受け止めるのよ。」

「その予測地点…ていうか、コースを外れたら?」

「その時はアウト。」

即答する赤いジャケットの女性にアスカが再び問う。

「機体が衝撃に耐えられなかったら?」

「その時もアウトね。」

説明するミサトの言葉にリツコが異論を挟まないのは、シンジから教えてもらった前史を知っているからだ。

「碇二佐。」

「はい。」

「どうかしら? MAGIにシミュレートさせた結果、成功確率は万分の一以下だったけれど。」

「マン分の一ぃ?」

紅茶色の髪を振り乱した青い瞳が大きくなる。

「…そうよ。」

「リツコ、他に方法はないの?」

「残念ながら、今現在、可能性があるのは、葛城一尉の説明した作戦のみよ。」

アスカが呆れたような声になる。

「そんな確率の方法しかないなんて… これで上手くいったらまさに奇跡ね。」

「奇跡ってのは起こしてこそ初めて価値が出るものよ。」

簡単に言ってくれるじゃない、とアスカがミサトを睨む。

「つまり、何とかして見せろっての?」

「済まないけど、これしか方法がないの。 この作戦は…」

「作戦って言えるの!? これが?」

「言えないわね。 でも…」

自嘲するようなミサトの口調に、自然と部屋の視線が集まる。

「これしか、ないの。 ATフィールドの可能性に賭けるしか、ね。」

ミサトは、持参していたバインダーから封筒を一通取り出した。

「だから、一応規則だと遺書を書くことになっているけれど、どうする?」

アスカに差し出されたのは、一枚の茶色の封筒。

「私だけ?」

「シンジ君たちは、国連軍の規則によるの。」

アスカの青い瞳が、目の前の少年を捉える。

シンジは、時間がないだろうと紅茶色の少女の視線に構わず話を進めるよう促した。

「…葛城一尉、詳細な作戦説明をお願いします。」

少年の声に、ミサトの指が動くとモニターに第3新東京市を中心とした航空写真が表示された。

「使徒のジャミングによって正確な位置は測定できなかったけれど、

 ロスト直前までのデータからMAGIが算出した落下予測地点がこれよ。」

その詳細な俯瞰図からモノクロの地図に切り替わり、都市を囲むように赤い線が描かれる。

落下の予測確率が高いところほど赤く、低いところは薄い色になっていた。

「こんなに範囲が広いの…」

思わずアスカの口をついて出た言葉が部屋の空気に溶けていく。

それが弱気と映るかも知れない、なんてことすら考えの埒外に追いやる今回の作戦範囲だった。

リツコはコーヒーカップをテーブルに置いて答えた。

「目標のATフィールドを以ってすれば、その何処に落下しても本部を根こそぎ抉ることができるわ。」

「ですから、エヴァ3機をこれら3か所に配置します。」

スクリーンに現れた3本の緑色の線が大きな円周を描く。

そして、その3つの円それぞれの中心に”EVA00””EVA01””EVA02”と表示された。

これが今次作戦の配置図である事は部屋にいる全員が理解するところであったが、

 その守備範囲を現す円の巨大さと言ったら…

蒼銀の髪を揺らしてミサトに顔を向けたレイが口を開く。

「この配置の根拠は?」

「カンよ。 女のカン!」

「なんたるアバウト… 益々奇跡ってのが遠くなっていくイメージね…」

アスカの言葉に、リツコは少し微笑んだ。

「それは、考え方次第だと思うわよ?」

「え?」

「シンジ君がここに来る前の初号機の起動確率、知っているかしら?」

「知らないわよ、そんなの…」

ドイツでは例外を除いて余計な情報は一切耳に入れてもらえなかった。


……その例外は、加持リョウジであったが。


「オーナインシステムって陰で呼ばれていたわ。」

「ゼロが9個?」

驚くアスカに、なぜかミサトが頷く。

「そうよ、アスカ。 今回の作戦、それより数値はいいんだから、とにかくがんばって頂戴!」

「EVA独立中隊、了解しました。 発進準備を願います。」

「うー」

立ち上がったシンジとレイを横目に、アスカは少し納得いかない顔のままだった。



………第3工廠。



リツコとミサトは、技術開発部第3課の兵器開発棟を訪れていた。

「これだけ色々なものを準備しているのに、使えないなんて。 使徒は人類の想像を超えるわね…」

キャットウォークから望めば、眼下にはスケールを間違えたと思ってしまう巨大な武器が鎮座していた。

敵がどのような方法で襲撃してくるかわからない為、EVAの武装に関してはかなりの幅を持たせている。

銃器、鈍器、刀剣… 枚挙に暇がないが、残念ながら今回の使徒に役に立つものは一切なかった。

ソレを見ながら、ミサトは隣の友人を探るような目で見た。

「この作戦、誰が見ても成功確率が低すぎるわ。 まず、エヴァが受け止められるかも分からない。

 仮に… いえ、奇跡的に受け止めたとして、

 その後はどうやってあれを殲滅するのかの方策も提示出来ない…

 リツコ、あなたなぜ、あの場で反対しなかったの?」

「…」

「シンジ君?」

「…」

「彼が反対しなかったから?」

「…」

「さっきの打合せで、レイの質問に私はワザと”女のカン”って答えたの。

 本当は、MAGIのシミュレーションで得た最善の答えだったけれど…」

「…」

友人は沈黙のまま話を聞いている。

「そんないい加減な答えで、あのシンジ君が反対しなかった理由は何?」

「…」

「誰が聞いてもアスカのように驚くのが普通よ。 でもシンジ君は当然のように眉一つ動かさなかった。」

ミサトはトーンを落とした。

「シンジ君は”なんなの”?」

リツコはようやくミサトを視界に入れた。

「どういう意味?」

「なんとなく、人間離れしているって思うのよ、最近…」

一歩踏み出して、白衣の女性に詰め寄る。

「リツコ、あなたはシンジ君と親しいわよね? 一体、彼の何を知っているの?」

「…」

しん、とする空間。 リツコの瞳は静かだった。

「エヴァだって、MAGIだって、あなたにとって失うなんて考えられないことでしょう?」

「ええ、もちろんよ。」

我が意を得たり、とミサトは畳み掛けた。

「…ということは、この作戦で確かな勝算があるって事ね?」

白衣の女性は、その問いに口を開いた。

「さっき…」

「え?」

「ATフィールドの可能性に賭けるって言ったあなたと同意見ってだけよ。 たぶん…シンジ君もね。」

「……そう。」

腑に落ちないという顔のミサトに、リツコは話を切り上げた。

「…時間がないわ。 発令所に行きましょう。」

「ええ、そうね。 …分かったわ、リツコ。」



”ミーンミンミンミンミン、ジィィィィ… ミーンミンミンミンミンミンミン、ジィィィイイ…”



使徒を待ち受けるべく、三ヶ所に分散して待機するエヴァンゲリオン。

エントリープラグの眼下には特殊電源車両が列車のように連なっている。

シンジは使徒の気配を探るように真っ青な空を見ていた。

MAGIが予測した攻撃予定時刻は、5分前に過ぎている。

前史を思い出しても、正確な落下時間は覚えていないし、また歴史が違うので参考にならない。

少年の視界に染みのような小さな黒い点が見えた。

(ん?)

自動的にホログラムウィンドウが開き、その中にレーダードームを背負った飛行機の機影を映し出す。

(国連空軍か…)

シンジは、使徒の放つジャミングによって監視装置の約8割が機能不全となってしまっているため、

 早期警戒管制機E−3セントリーが飛んでいたのを思い出した。

『碇君…』

愛しい少女の波動が飛んでくる。

『どうしたの?』

『サハクィエルの気配を感じないわ…』

『そうなんだよね。 僕も感じないんだ…』

そんな遣り取りをしていると、セカンドチルドレンのいら立った声がスピーカーを震わせた。

『あーもー! さっさとやられに来なさいよ!』

『作戦行動中よ、黙って集中して!』

口調からして第一発令所のミサトもいら立っているようだ。

『NERV本部よりE−3セントリー、レーダーに反応は?』

『こちらセントリー。 現在、測定可能範囲に反応なし。』

マコトと空軍兵士の無線を聞きながら、シンジは操縦桿のスイッチを押した。

「こちらEVA独立中隊、碇です。 赤木博士、いますか?」

『赤木です。』

「作戦開始から既に2時間が経とうとしています。 独立中隊はエヴァとのシンクロを中断し、

 待機所で待機していたいと考えます。」

リツコは各パイロットのバイタルデータを確認した。

(サード、ファーストに変化はないけれど、セカンドは休憩が必要ね。)

『…ハッ! なっさけないわねー もう休憩?』

シンジの気遣いを感じない少女。 リツコは小さく溜息を吐いた。

「ミサト、チルドレンたちを休ませるわ。」


……コンディションを維持しなければ作戦成功の確率が更に低下する。


「…そうね。 直ぐに乗り込める体制を維持しているなら問題ないわね。」

ミサトはマイクのスイッチを入れた。

「アスカ、シンクロを中断。 待機所で待機していて。」

『はいはい。 分かったわよ。』

ミサトの命令に先だってシンクロを中断した初号機、零号機からエントリープラグが半分ほど飛び出す。

「まったく、いつ落ちてくんのかしらね、敵さんは… リツコ?」

「現在、MAGIに再シミュレートさせているわ。」

マコトが振り返る。

「データが少なすぎてかなり困難です。 正確性に欠ける情報に意味はありません。」

「シミュレートの結果出ました。 使徒襲来予測時刻は2時間後です。」

マヤの報告はそのままチルドレンたちの耳にも入った。



………しかし。



結果、1週間経った現在もサハクィエルは落ちてこなかった…

ミサトの推言どおり初期配置どおり三か所で待機しているEVA。



”ミーンミンミンミンミン、ジィィィィ… ミーンミンミンミンミンミンミン、ジィィィイイ…”



24時間スクランブル状態で待機を命じられている紅茶色の髪のチルドレンは、疲労の限界を迎えていた。

エントリープラグから出て、待機所として設営された仮設テントのパイプ椅子に乱暴に座った少女は、

 クーラーボックスからパックジュースを取り出してストローを突き刺す。

”ズズゥー”

「…ったく、落ちてくるなら、さっさと落ちてきなさいよねー!」

憤慨する少女。 机に突っ伏すようにしたアスカの目の前に置いてある無線機から抑揚のない声が聞こえた。

『…赤木博士、使徒は?』

『綾波三佐。 …現在、監視衛星の78%が使徒のジャミングにより通信不能なの。

 この状況で有効なマーカーの範囲は地表比率で約27%しかカバーできていないわ。

 …索敵範囲が小さすぎるから何とも言えないの。 それにこのジャミングが存在しているということは、

 言外に使徒の存在を証明するわ。 …申し訳ないけれど、使徒襲来までこのまま待機続行になるわね。』

『了解…』

「あ〜あ…」

ぼやいたアスカの目の前の森、ひと塊の緑色が揺れる。

「ん?」

枝葉からハトだろうか、数十羽が勢いよく飛び立つのをボケっと見ていた時だった。


”ビィィィィイイ!!”


第一発令所のモニターが赤く染め上がった。

センサーが警報を鳴らし、人類の敵を感知したことを知らせる。

「使徒と思われる巨大物体を捕捉!!」

「目標を最大望遠で確認!」

「ようやくお出でなすったわね…」

ミサトは日向の背もたれに手をのせた。

「日向君、チルドレンは!?」

「はい、ファースト、セカンド、サード共にエントリープラグに移動中!」

「目標、高度34000! AWACS機、第3新東京市外郭上空へ退避行動を開始!」

「モニターに出ます!!」

「エヴァ零号機、初号機、起動! 続いて弐号機も起動しました!」

マヤの後ろからリツコが言う。

「MAGIの落下軌道予測プログラムをスタートさせて!」

「はい!」

『エヴァ全機、スタート位置!』

紫の巨人が立ち上がり、前進を始める。

青の巨人は両手の指を地面につき、腰を上げる。

赤の巨人はクラウチングスタートの姿勢で停止した。

『ATフィールドの干渉がより強くなってきたため、目標は光学観測による弾道計算しかできないわ。

 よってMAGIで距離20000まで誘導します。

 その後は、中隊、アスカとも自身の判断で行動して。 あなたたちにすべて任せるわ。』

シンジは瞳を閉じてミサトの言葉を聞いていた。

(あなたたちに任せるわって… いつものことじゃないか…)

『使徒接近! 距離30000!』

『では作戦開始。』

「いくよ…」

少年の声に、少女たちは静かに頷いた。

「スタート!!」

少年の声に、一斉に電源プラグがパージされる。

高度30000より飛来する使徒に目掛けて3体の巨人によるレースが始まった。

山間部からスタートした初号機は、森林を蹴散らしながら加速していった。

零号機がハードル走のように飛び上がって高圧送電線を越えていく。

弐号機もMAGIのナビのとおり限界まで加速していった。

「よしっ 間に合う!」

アスカは上空の点を睨みながら不敵に笑った。

ホログラムウィンドウには落着予測時間とエヴァ到達時間が表示されているが、

 それは現在プラスであり、10秒の余裕があった。

それをみたミサトはマイクを握った。

『予定変更! このまま高度10000までMAGIで誘導します! そこからは任せたわよっ!』

足元を気にせずに”走る”ことだけに集中できるのはMAGIによる補助プログラムのお陰だった。

『距離24000!』

青葉シゲルの声にシンジの駆る初号機はさらに加速した。

「初号機、増速! 音速に近づきます!」

リツコはMAGIの出す数字に目を細めた。

「使徒の落下速度が予想よりもかなり遅いわ…」

「どういうこと?」

「莫大な運動エネルギーにATフィールドを干渉させた攻撃が今回の使徒の特徴。

 その基礎となる運動エネルギーの総量が低いってこと。」

「攻撃力が弱いって?」

「単純にはそれだけではないけれど、それが一番分かりやすい言葉かもね。」

第一発令所のメインモニターを見るミサトは、友人の言葉に少しだけ肩に入っていた力を抜く。

巨大3Dモニターに第3新東京市を中心とした俯瞰地図が表示されていた。

MAGIの落下予測ポイントに変化はない。

右下に表示されているタイムカウントも安定して10±0.5秒を継続表示している。

「いけるわね…」

ミサトが知らず口にした言葉は発令所の全員の代弁であったが、その刹那…

「目標に変化!」

「ATフィールドが変容していきます!」

「何て加速を!」

光学で捉えている使徒が巨大な両手を後ろにやると、まるで鏃(やじり)のようになった。

摩擦熱で空気が燃え上がる。

そして、本体後部に展開するATフィールドが航跡を残すように次々と現れる。


”ビィィィ!!”


作戦成功率をリアルタイムで算出するMAGIが警報を上げた。

『ダメです! 目標のグランドレベル接触時間が2秒勝っています! 間に合いません!』

エントリープラグに表示された作戦成功率が0になる。

発令所の悲鳴を聞いたシンジはさらに力を込めてグリップを握った。

(そうはさせない!)

”ガッガッガッガッガッガッガッガッ!”

大巨人の全力疾走!!

アスファルト、自動車、樹木…街が空気の衝撃によって吹き飛ばされていく!!

初号機が走る。

弐号機が駆ける。

零号機が飛ぶ。

マヤは驚きの声を上げた。

「初号機の移動速度、更に加速! 音速を突破しました!!」

第一発令所の巨大モニターに映る初号機から白いマッハコーンが生まれる。

「零号機、音速を突破!」

「うそ、信じられない…」

呆然としたマヤが見たのは、先ほどまで0だった数字。

一気にプラスに転じた成功率は、なんと今は75.98%を示していた。

『目標、距離12000!』

白銀の少年はシゲルの声を耳にしながら、徐々に輪郭がハッキリしてきた使徒を見上げた。

静かに、一呼吸。 そして言葉に神気を込めた。



「{我と対峙するアダムの子よ。 永きに渡る戦いの鎖を解いてあげよう。

 我に勝てれば自由を。 負ければ、白き月に還る事は叶わない。}」



神の宣誓。 この世の決まりである、{言 霊}が全ての次元を震わせる。

大人たちは今次作戦の成功を再び漠然と感じ始めた。

(ッ!)


……音速で移動している紫の巨人、初号機がその身を急停止したのは、そんな時だった。


巨大質量の運動エネルギーを相殺させるため、

 その足はアスファルトを砕き抉り、まるで桑で耕された畑の土のように盛り上がった。

リアルタイムで算出されている数字、誰もが注目していた作戦成功率が、再び0%に急降下してしまう。

「何しているの!? シンジ君!?」

ミサトが叫ぶが、事態は彼女を無視して進行する。

『綾波!! あれは任せた!!』

『了解!』

二人の遣り取りに発令所の大人たちは、何が起こったのか理解できなかった。

「ッ! 超高速で接近する別の物体を発見!!」

マコトの言葉と共に、モニターに別のウィンドウが表示される。

「どういうこと!?」

ミサトの叫びは、第一発令所に働く職員全員の声であった。

「先に捕捉した目標を”甲”、今発見したモノを”乙”と呼称!」

マヤが忙しなくキーをたたく。


……サハクィエルは、分離した。


前史のようにケタ外れに大きな体躯は、敵が施したダミーだったようだ。

鏃の型になり後方へATフィールドを放出していたその中で、分離を行ったのだ。

”乙”と識別されたATフィールドを纏った弾丸、ラグビーボール状の物体が敵の本体だった。

落下中に変形、分離を行うとは…

ミサトは唇をかんだ。

まさか敵が二段階に分けて攻撃を仕掛けてくるとは予想の斜め上をいく事態だった。

「目標”甲”の落下地点がずれます!」

超巨大な物質は、ATフィールドを失い摩擦熱で燃えながら軌道を逸れ始め太平洋へ向けて落下していく。

『アスカ、目標変更!! ”乙”を追跡!!』

通信ウィンドウのミサトが怒鳴る!

その命令に少女は食ってかかった。

「何いってんのよ! どう見たって、デカイ方がやばいんじゃないの!?」

「…違うわ、アスカ! それはフェイクよ! 敵本体は目標”乙”とMAGIが判断したわ!」

「…でも!」

「使徒殲滅が最優先事項! よって津波による地上部への被害は考慮しません! 行きなさい! アスカ!」

(私の指揮で、使徒を滅ぼす!)

通信ウィンドウに映るミサトの強い瞳を見たセカンドチルドレンは、弐号機を反転させた。

「くっ! いっけぇぇぇえ!!!」

アスカは素早くマップを確認して、障害物の少ない西の丘へと赤の巨人を全力で駆け上がらせる。

第3新東京市を跨ぐように走るシンジは、真の敵を見つめながら更に加速していった。

光学カメラが捕えている紫の装甲が徐々に霞む。

『うぉぉぉ!!』

シンジの叫びを背景に、作戦の成功確率が再びプラスになる。

「センパイ!」

明るい表情の部下を見やり、リツコも力強く頷きを返した。



「いっけぇぇぇ!!」

霞む、風景。

見えるのは、一点の敵。

エントリープラグに映る街並みも空も地面も全てLCLに滲んでいった。


……だから。


彼の姿をシンジが見ることはなかった。

「こう言う演出が必要だろ? ヒーローには…」

黒マントが、兵装ビルの陰からヒョイ、と足を無造作に出した。

信じられないことだが。

紫の巨人は数十本のビル群を巻き込み、なぎ倒しながら転んでしまった。

衝撃は大地震になって黒マントを襲ったが、崩壊するビル群をよそに、彼の周りはいたって静かであった。

「…じゃ、頑張ってね。」

MAGIにもシンジにも気付かれることなく黒マントは姿を消し去る。


……その一方。


発令所は蜂の巣を突いたような喧騒に、包まれていなかった。

支配しているのは、静寂。

彼らは無意識に、無敗の少年を信頼しきっていたのだ。

漠然と。 彼は敗れることはないと。

”ピーーーー”

脊髄反射的に、マヤが報告を上げた。

「作戦、成功率…マイナス45%…」

『碇君!』

別のモニターに映っていた青の巨人が振り返りながら疾走していた。

『ぐぅ…』

白銀の少年は、頭を軽く振って状況の把握に努めた。

(転んだ? なんで?)

”ピピピピ…”

聞きなれた音に目をやると、活動限界時間がカウントダウンされている。

『碇君!』

はっ、と目を大きくしてシンジは愛しい少女に告げる。

(今は急がなきゃ!)

『僕は大丈夫だから、そっちは頼んだよ!』

初号機が勢い良く立ち上がって再び駆け出した。


……青空にある雲が全て蒸散する。


その様子を見ながらレイは湾岸部に到達すると、次に起こるであろう衝撃に備えた。

(…津波が来る!)



”…ゴォッ!!”



炎と黒煙を纏った大質量が海面に落ちると、瞬間的に海水は蒸発し、超巨大な水柱が生まれる。

そして、それを中心とした波紋が津波となって第3新東京市に牙を向けた。

それは、音速を超える液体の攻撃である。


……その時、初号機は第3新東京市の北西部に到達した。


紫の巨人は、両手を交差して力を込めるように一瞬だけ握り込むと、

 天に向かって両腕を伸ばしATフィールドを展開させた。

『ATフィールド全開っ!!』

少年の声と共に8角形の虹色が第3新東京市を護るように出現する。

『零号機、フィールド全開!』

02のエントリープラグに聞こえたのは、ファーストチルドレンの声だった。

青の巨人は、初号機と時を同じくATフィールドを展開させたがこちらは天に向けて、ではなかった。

零号機の腕は、前方に伸ばされている。


……それは、間近に迫ってきた津波に向けてだった。


”ズズズドドドドドッ………”


地球が震えている…

それは体験したことのない振動と音だった。 地下にいてもすぐに訪れる惨状が目に浮かぶ。

発令所の大人たちは、その様子に思わず生唾を一つ飲み込んだ。



”……ドォォンッ!!”



時間が止まったような沈黙が訪れる。 

数瞬の後に皆がモニターを確認すると、

 超巨大エネルギーとなって襲いかかってきた海水の侵攻は、虹色の壁に阻まれていた。

”しん…”

巨大な水の壁と対峙している零号機。

まるで時間が止まってしまったかのような静けさが、第一発令所を支配している。

それを破ったのは、知らず涙を流していたマヤだった。

「…レイちゃん!!」


……奇跡。 常識では起こりえない現象…または、宗教上の神による超自然的な現象。


つまり、人の範疇では為し得ないことだ。

だからこそ、奇跡なのだ。 万が一にも成功するはずがない、というそれだけのこと。


……しかし在り得ないと思われた現実は。 


少女は、少年に任せられたのだ。 その言葉をしっかりと護り、使徒の攻撃を見事に退けていた。

実際に見せられた”ありえない現実”にリツコは、自然と目頭が熱くなるのを止めることができなかった。

「奇跡…」

呆然としたミサトの声。

「EVA零号機のATフィールド、計測不能領域です!」

青葉シゲルは、メインモニターを見ながら…何とか自分の職務を果たそうと、コンソールを操作した。

男の声にするべき事を思い出したリツコは、マヤのシートに手をかけた。

「マヤ、初号機と目標”乙”は?」

「はいっ」

ショートカットのオペレーターは、慌ててキーを叩いた。


”ボッボボボボボ………”


空気の壁を切り裂きながら迫ってくる紅い彗星。

もしくは青い空を切り裂く灼熱のナイフ…

現在の第十使徒サハクィエルを例えるならば、そういう言葉が相応しいだろうか。

シンジは、01のエントリープラグに映る敵を睨みながら、ふとそう思った。

片隅には、レイの張った広大なATフィールドがきらきらと輝いている。

(ありがとう、綾波。 僕も頑張るよ…)

レイの張ったATフィールドは、第3新東京市全域まで届いていた。

少女の期待以上の働きを見た少年は、いつも以上に瞳に力を込めてATフィールドをさらに追加した。

『ッ! そんな! ATフィールドの複数同時展開は可能なの!?』


……驚きの声を上げたのはリツコだった。


第一発令所のモニターに、新たに現れた4枚のATフィールドが確認できる。

シンジはその一番上部に位置するATフィールドを上空に投げつけた。

サハクィエルと衝突すると、それは敵の勢いを相殺するネットのように柔らかく歪んだ。

しかし、敵はそれを薄い紙のごとく瞬時に突き破ってしまう。

(くそっ! 海に落ちたのとは勢いがまるで違う! アイツのATフィールドが予測よりも強い!!)

そう思っている間に2枚目も破れてしまった。

「くっ!」

3枚目、4枚目を切り裂いたラグビーボールが初号機に衝突する。

「うぉぉぉおお!!」

シンジは虹色の盾を更に大きく展開した。


”ガキィィィィィイイン!!!”


加速と質量、ATフィールドを利用した攻撃に、初号機の足首がずんと山林に沈む。

それは、主人公の想像を超えた衝撃であった。

ラグビーボールのように見えるが、そのサイズは初号機よりも数倍大きい。

超高密度の質量を持つ紅い惑星と言えばいいのか。

見た目からは想像もつかない圧倒的な力を、紫の巨人は単身、受け止めた。

「うぉぉぉお!」

虹色に輝く光を境にした押し合い。

初号機の腕が裂けると、まるで血飛沫のように赤い液体が噴き出る。

「ぐぅぅぅ!」



相対距離1km。 EVAにとっては目鼻の距離だった。

アスカが思わず叫ぶ。

「シンジぃ!」

赤の巨人が疾走する。



「くっ! おおおっ!」

紫の巨人がサハクィエルを支えるように力を込めると…

人類の敵が蠢いた。

ぶるり、と震える紅い楕円の玉。

”ピキッ! パキパキ…”

先端が割れると、そこに光があった。

その金色の光はするりと紫の巨人に迫る。

それは、まるで発芽。

新春に芽吹く命の早送りのようだった。

信じられないことだが、その蔓状は、シンジのATフィールドを超えて巨人の手に、腕に絡みついた。

「なっ!?」

想像外の攻撃に白銀の少年が驚いていると、金色が光を飲み込むような黒い影に変色する。

そして、重みに抗い、踏ん張っていた少年の腕が十字架よろしく無理矢理に広げられた。

「ぐあっ!」



「碇君!」

津波を防ぎきった青の巨人は、山間部の戦闘域に向けて全力機動を始める。

少女は焦っていた。

誰もいない街なんて捨てればよかった。

愛する彼が苦しんでいる…

(もっと、もっと速く!)



影の樹は大きく成長し、蔓のように初号機に絡みついていたのは、今では立派な根のようだった。

初号機の上半身が覆われている。

戦況が良く分からない。

飛び込む勢いで戦場に到着したEVA弐号機は肩のウェポンラックからプログナイフを取り出した。

「シンジ!?」

『アスカ、コイツのコアを…』

珍しくも苦しげな声。

紅茶色の髪の少女は、敵の本体であろう巨大な種を見た。

その外殻が滑り落ちると、中から幹が出現し手を広げるように枝を伸ばし始める。

「どぉぉりゃぁああ!!」

赤の巨人が影のような幹にナイフを突き通すが、穿つような感触がない。

「え? 影?」

幹から弐号機の腕を伝うように、するすると黒い触手が延ばされる。

ぞわぞわっとする悪寒。

『アスカ、離れろ!』

「はいっ!」

弐号機は慌てて後退する。

『碇二佐!?』 

リツコの声がプラグに響く。

思わず少年の命令を聞いてしまったが、先ほどの声にはそうさせる切羽詰まった迫力があった。

『こいつは、侵食型だ。 常にATフィールドを張り直さないとこっちがやられる。』


……やられる。 シンジの言葉に、発令所は水を打ったように静かになった。


『惣琉二尉、自分は動くことは出来ない。 綾波三佐と共同し、敵を殲滅してほしい。』

「わ、分かったわ。 取り敢えずは、大丈夫なの?」

増殖を続ける敵に、全てを覆われてしまった紫の巨人のシルエットは既に見えない。

リツコは敵を睨みつけた。

「まさか、落下による攻撃がブラフだったなんて…」

「EVAを侵食して、乗っ取るつもりなのかしら?」

ミサトは無意識に胸のロザリオを握り締めた。

「零号機、会敵まであと30!」

マコトの声に赤いジャケットの女性がマイクを取った。

「時間がないわ! アスカ、コアを探して!」

活動限界まであと1分を切った。

「どうやってよ!」

そう叫ぶアスカの地面が小さく揺れ始める。

それは青の巨人、零号機の接近を告げる振動だった。

『碇君!』

『綾波、僕が内部からコイツを割くから、中のコアを破壊して!』

『了解!』

「うぉぉぉおお!!」

白銀の少年の雄叫びと共に初号機の右腕が虹色に包まれた。

絡みつく黒い影の枝をブチブチと引き千切るように動かして、自由を獲得する。

(ATフィールドを無視できるのは、お前だけじゃない!)

そのまま突き上げるように初号機の右腕を影の中に突っ込む。

そこに、ありったけの力を込めた。


……垂直に一本の光の線が入った。


”バキバキバキバキッ!!”

シンジの力によって影の幹が縦に裂ける。

「今だ!」

音速のまま突っ込んできた零号機が光の中に特攻する。

光の中には、切れ長の眼状模様があった。

その中心にある紅い玉にナイフが躊躇なく突き刺さる。

「ATフィールド全開!」

ナイフの先から虹色が溢れると、巨大な樹が内側から霧散するようにカタチを崩して爆発した。

第3新東京市、外殻の山間部に巨大な光の十字架が立てられる。


……それは第十使徒の墓標であった。


「碇君!」

黒い蒸気のような煙が和らぐと、爆心地にいた初号機の姿が現れる。

先に電源を失った紫の巨人は右前腕の中ほどから先を失っていた。

『いてて、右腕が痺れちゃったよ。』

”ブシュゥゥン…”

駆け寄ろうとした零号機も電源が切れた。

「エントリープラグ、イクジット。」

”ゴゥン…”

斜め後ろに動く感覚が止まると、少女はハッチを開放する。

レイは半分ほど出た白い筒から出ると、初号機に目を向けた。

紫色の大半が煤のように黒く変色してしまった巨人も、同じように白い筒を排出していた。

ワイヤーで下りると、蒼銀の少女はクレーターのように窪んだ中心に向けて走り出す。

足元に着くと、シンジがちょうど地面に降り立つところだった。

「碇君、右腕は?」

まさか、初号機と同じように失ってしまったのだろうか?

レイは目元に涙を浮かべていた。

「大丈夫だよ、綾波。 痺れているだけだから。 ほら?」

青いプラグスーツの少年は、少女の目の前に右手を出す。

蒼銀の少女は、恐る恐るシンジの手をとった。

優しく。 そっと。 両手で包みこむように。

「いたい?」

「ううん。 感覚がない。」

どうやら力が入らないようだ。 少年は少女の手を握り返すことができない。

「貴方が怪我をするくらいなら、街が壊れた方が良かったのに…」

レイはシンジの右手を見ながらポツリと呟いた。

シンジの願いも大事だが、シンジ自身の方が比べるまでもないくらい大事なのだ。

「ごめん。」

フルフルと小さくかぶりを振った少女は、シンジの腰に手を回してそっと抱き付いた。

「貴方が無事なら…いい。」


”ババババババッ!”


誰もいない街で動くのはNERV関係以外にはない。

空に響く轟音は、シンジたちを回収するためのドクターヘリだった。

EVAが活動停止しても最低限度の通信機能は生きているので、

 シンジが負傷したという情報は間を置かずMAGIに入力されているのだ。

着陸したヘリからショートカットの女性が降り立った。

「マヤ、エヴァの損傷状態の確認と回収を整備部と協力して、お願いね。」

「はい、センパイ。」

振り返ったマヤがシンジたちを見ると走ってきた。

「シンジ君、大丈夫? 右手は?」

「大丈夫です。 少し痺れているだけで。 すみません、初号機…壊しちゃいました。」

「いいのよ。 使徒に勝ったんだもん。 初号機は私たちが責任を持って直すから。」

それよりも、とマヤが続ける。

「早くヘリに乗って。 センパイ…赤木博士がシンジ君を待っているわ。」

「はい。 行こう、綾波。」

そして、ヘリはジオフロントの総合病院へと飛び立った。

「リツコ姉さん。」

「お疲れ様、シンジ君。 右腕を見せて。」

「はい。」

ぐっ、ぐっと指で押して少年の反応を確認する。

やはり、初号機の損傷した部位と同じ神経が破壊されている…

シンジは痺れと言ったが、それすら感知できていないのだろう。

「辛勝ね… シンジ君?」

「そうですね。」

「どうして?」

「え?」

「もっと楽にできるんじゃないかしら?」

見詰め合う姉と弟。

レイはシンジの言葉を静かに待った。

このヘリにはMAGIの目も耳も届かない。

ましてやパイロットは無線機を内蔵したイヤーマフをしている。

ここでの会話は第三者に漏れる心配はない。

「……姉さん。」

リツコは無言で続きを促した。

「前史と今回、違いますよね?」

「…そうね。」

「もしかしたら、使徒は前史で全ての能力を発揮して戦ったわけじゃないのかもしれない…」

シンジは考えるように瞳を閉じる。

リツコも瞳を伏せてもう一つの可能性を口にした。

「…若しくはバタフライ効果の可能性もあるわね…」

「どちらにしても、使徒は知恵を身につけます。

 こちらが圧倒的に勝てば、さらに上を行こうと進化するんじゃないですか?」

「使徒のレベルを上げないために、あえて”力”を使わないって言うこと?」

「ええ、出来れば。 最小限度でいけるなら、その方がいいと考えます。」

ところで、とシンジはヘリの窓から外を見た。

「アスカは、惣流二尉はどうしたんですか?」

ああ、とリツコは指をさした。

爆心地から300m離れた木々の間から赤い装甲が見える。

あなたたちには普通の事かも知れないけれど、と姉が口を開いた。

「使徒が縦に割れた瞬間、音速のまま突っ込むなんて… 普通の人間が反応できるものじゃないわ。

 …反射的にATフィールドを張れたアスカは称賛に値するのかもね。」

爆風で転がっている最中、活動限界を迎えたアスカは、そのまま気を失ってしまったらしい。

良く見れば技術部、保安部のヘリと救急ヘリが赤い巨人の側から飛び立とうとしている。

「一応、外傷はないみたいだけど、彼女も病院で精密検査をしなくてはいけないわ。」

「そうですか。」



病院に着いたシンジは三角巾を装着し、右手を固定された。

主治医である姉から1週間はそのままと、右手の使用を禁じられてしまった。

力を使えば一瞬で治ってしまうが、そこはレイに反対された。

曰く、私が世話をするから… だそうである。

アスカは脳震盪を起こしており、安全を見て各検査の結果が出るまで入院となった。

日本国政府における特別宣言D−17の解除により、

 数日のうちに普段の賑わいを取り戻す街も今だけは眠ったように静かだ。

シンジは、ジオフロントの湖をぼんやりと見ていた。

(このまま、上手くのかな?)

今回の使徒の攻撃は、自分の予想を上回っていた。

前史と違う。 これはやはり自分たち力のあるものが世界に与える歪みなのだろうか?

シンジは不安を覚える。


”貴方が怪我をするくらいなら、街が壊れた方が良かったのに…”


そう言った彼女の気持ちはよく分かる。

もし、レイが危機に直面したら、自分は躊躇なく力を使うだろう。

結果、この世界が滅んでも。

「おまたせ、碇君。」

「じゃ、帰ろう。」

「ええ。」

肩を並べて歩く二人。

シンジの影が一瞬だけ蠢いた。








第三章 第二十一話 「使徒、侵入(前編)」へ










To be continued...


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