ようこそ、最終使徒戦争へ。

第三章

第二十一話 使徒、侵入(中編)

presented by SHOW2様


違和。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………プリブノーボックス。



”ビィーーーー!!!”

突然の音。

空気を震わせるこの大音量が、数多のモニターをレッドに蹂躙していく。

それは、間違えようもない緊急事態を告げるアラートだった。

「ッ! …どうしたのっ!?」

実験管制室で最初の怒声を上げたのは、順調な経過に緩んでいた雰囲気を一瞬で引締めたミサトだった。

「ッ! …シグマユニットAフロアに汚染警報発令!!」

間髪入れずそれに応えた女性オペレーターの声には、確かな焦りがあった。

第87タンパク壁にあった紫色の小さなシミがじわりと拡がり始める。

それが円周上を時計回りに舐めるように動き、その内側に葉脈のように細かで複雑な文様を描いていく。

円の内側に浮かび上がった呪術的な方陣から、炎のように揺らめく白光が漏れ始めた。


……”この事態”を予定調和と待ち構えていたリツコは、ゆっくりと瞳を上げる。


…きた。 エヴァで殲滅されなかった唯一の使徒。

金髪の女性は、始まる前の気負いのようなものがスッと消え去り、頭が冴えわたっているのを自覚する。

まるで、落ちてくる和紙を触れただけで割く研ぎ澄まされた日本刀のような集中力。

「第87タンパク壁が劣化、発熱しています!」

「第6パイプに異常発生!」

「侵食部が増殖しています! 爆発的スピードです!」

矢継ぎ早に報告が続くと、実験責任者である技術開発部長の鋭い命令が下った。

「実験中止っ! 第6パイプを緊急閉鎖!」

「はいっ!」

瞬間、マヤが緊急用スイッチを押すと、第6ブロックに繋がる循環用パイプが順次遮断されていく。

「60、38、39、閉鎖されました。」

クリーンエリアの環境を保持するための設備が非常シーケンスどおり作動していった。

「6−42に侵食発生!」

マヤが叫ぶ。

「ダメです! 侵食は壁伝いに発生しています!」

(やはり、ダメなのね。 それなら…)

リツコは、最先任技術士官であるショートカットの後輩に次手を示す。

「パイロット保護を最優先!! シンクロカット、模擬体からプラグを強制射出!!」

「はいっ!!」

彼女は、センパイである女性の言葉と同時に素早くコマンドを入力する。

”バシュン…”

高圧搾空気を利用した射出装置により、魚雷のように実験用のエントリープラグが上方へ解放される。

そして、プラグ下部に固定されていたバラストウェイトが花開くように四方に外れると、

 白い筒は水中用ロケットブースターを点火して飛ぶような勢いでプリブノーボックスを離脱していった。


……が、しかしてミサトの瞳に映った白い航跡は2本しかなかった。


「え!?」

その航跡の根元に目をやると、

 模擬体から脱出できたエントリープラグは実験管制室から見て中央と右側の2本だけだったようだ。

同じようにそれを見た白衣の女性の鋭い声がミサトの背後を飛んだ。

「どうしたの!?」

「ダメですっ! 模擬体00へのシンクロカットコード、緊急射出信号が届きません!」

まさかシンジ君が脱出できないなんて…

これは想定外だったリツコの表情に、焦りの色が出てくる。

彼への信頼が大きい分、それは一瞬にして彼女の心を不安にさせた。

「碇二佐への通信は?」

「依然、断線中! もう少し待って下さいっ! 今、リカバリをかけています!」

上官へ思わずそう怒鳴ってしまった男の背中に、構わずリツコはより大きな怒声を叩き付けた。

「早くしなさいっ!!」

「ポリソームを用意! プリブノーボックスへの侵食と同時に出力最大でレーザーを照射! 用意急いで!」

「ハッ!!」

その男性技官の声に、普段の冷静さを失っていたリツコは、一瞬の後その瞳を大きくして隣を睨み付けた。

「…ミサトッ!?」

「とり敢えず、汚染を食い止めるのが第一でしょ! 落ち着きなさいよ、らしくないわよ? リツコ…」

珍しい彼女の正論に、金髪の女性は唇をわずかに噛んだ。

何も知らないくせに…

しかし、知っているからこそ、焦る。


……予想外の事態に、そのもどかしさに、感情が理性を上回ってしまった。


そうよ。 …らしくないわよ、リツコ。

いつものロジック的思考を取り戻す数瞬の間に、先ほどの男が報告を上げた。

「…準備完了! ポリソームAからPまで出動! …出ます!」

”…ガシュ!”

実験エリアの中程にある窪みが8カ所作動すると、その金属の扉が上下にスライドして四角い穴が開く。

そして、そこから勢いよく躍り出たのは、補助AIを積んだ遠隔作業用の小型マシン達だった。

インプットされた目的に対して半自立的に動くそれらには、人の骨格を模したような腕があり、

 その右手に当たるマニピュレーターには溶接用レーザーが搭載されていた。

3体のエヴァクラスの物体を楽々収容するこのクリーンエリアはとてつもなく広大で、

 今出てきた小型艇ほどの大きさの機械でその全範囲をカバーするのは困難だと誰しも思うだろうが、

  何はともあれ汚染範囲の拡大を防がなくては。

合計16機のポリソームと呼ばれたそれは、

 MAGIのサポートを受けてシグマユニットAフロア、87タンパク壁がある上方右側へと散っていった。

「侵食部、6−58に到達、きますっ!」

「ポリソーム、レーザー準備完了。 浸食予測経路の設定よし。 カウント開始、4、3、2、1、照射!」

”ボッ!! …ジュッ!”

ポリソームのカメラが送っていた映像が一瞬だけホワイトアウトする。

それは直ぐに光学補正されて壁面に打ち込まれる光線とそこから吐き出される水蒸気の気泡が映し出された。

「…出力を最大へ!」

この区画の構造壁は5重になっており、その一つの厚みは3mを超える。

なので、小型レーザーが全力で照射されても、減衰したそれではこの壁に深刻な影響を与える心配はない。

「…どう?」

「はい、汚染の範囲拡大を食い止めることには、成功していると思われます。」

リツコの問いに、マヤは別のモニターに計測された汚染範囲とレベルをCG3Dマップに表示させた。

(…確かに87タンパク壁とこのプリブノーボックスの壁面以外に侵食の進行はみられない…)

NERV本部の構造図を確認したリツコは、別の画面を呼び出す。

「碇二佐の模擬体の状態を出して! 通信の復旧は!?」

「まだです。 まだモニターできていません。」

「何しているの、早くしなさい!」

「はいっ!」

『…発令所より実験管制室。 初号機とリンクしている模擬体に汚染を確認!』

管制室の喧噪に打ち勝ったアナウンスの情報は、吉報ではなかった。

「こちらも確認しました! センパイっ!」

「予備のポリソームを全機起動! 模擬体の汚染部を最優先目標に設定、早く出しなさい!」

マヤにそう言いながら、リツコはこのまま対処するしかないと感じ始めていたが、少しだけ違和感を覚える。

(…電子回路の形成が始まらない? たしか、爆発的な進化をするんじゃないのかしら…)



………エントリープラグ00



(…使徒の反応がない…)

リツコの感じた違和感は、エントリープラグに閉じ込められているシンジも別の感覚で感じていた。

(これは… なんだろう?)

シンジは取り敢えず、現状の確認をする。

通常チルドレンのナンバーどおりの配置となるところ、今回は思いつきでレイを01へ搭乗させ、

 自分は本来レイが乗るはずだった00に乗った。

(姉さんにお願いしておいて良かったよ。 これじゃ… 綾波が取り残されるところだった…)

たぶん、彼女は”前のように”ジオフロントの地底湖にいるはずだ。

シンジは、瞳を閉じて波動を彼女へ送る。

『…綾波?』


……思いがけないほど近くなかった少年の波動に、レイの反応が数瞬だけ遅れた。


『………え? 碇君? …いかり、くん?』

『…うん、よかった。 無事みたいだね。』

『無事って?』

『あ、僕の方はまだ脱出できていないんだ。 どうも脱出装置がロックされちゃったみたい。』

『そんな… 大丈夫? 平気なの?』

真剣な声に応えた少年の口調は、のんびりしていた。

『うん、取り敢えず今のところは。 でも、ちょっと変だね…』

『…へん?』

『う〜ん、何となくだけれど…』

シンジは、言葉を切って前史を思い出す。

『確かさ、あの時はよく分からないまま… 数時間放置されたんだよね…』

『ええ、前は3時間くらい放置されていたわ。

 それに通信装置が使えなかったし、技術部の報告書を見ればしょうがなかったと思う。

 今回のこの実験用エントリープラグは、あの時と同じ通信装置だから今回も同じだと思うわ。』

『…そうだね。 でも僕の方が復旧したら、綾波たちの回収を姉さんに頼んでおくよ。』

『ええ、分かったわ。 …碇君。 私、何をすればいい?』

『何もしなくていいよ。 僕も”まだ”様子を見ているから。』

『分かったわ。』

波動での会話を終えた少年は、

 インテリアのスイッチを押して、模擬体とエヴァンゲリオン初号機の状態を確認する。

”ビィィィ!!”

…が、エントリープラグ全周を囲むモニターはエラーを返し、何も表示できない。

どうやら通信ラインが途絶しているらしい。

”ゴプ…”

緩やかにあった液体の流れが止まった。 つまり、プラグ内のLCLの循環に支障が発生したようだ。

このまま放置されれば、間違いなく酸欠で死んでしまうであろう。 …少年が人間ならば。


……しかし、異常事態には変わりないのに、何の連絡も出来ない。


仕方なく、シンジはエラーメッセージを消してオールビューで表示される周りを見渡すが、

 レイとアスカのプラグを射出した気泡の残滓以外になにも変化は見られなかった。

先ほど現れた深海を潜る潜水艇のような白い小型の機械が模擬体の周りを周遊するように移動しては、

 その腕から光線を出して汚染された部分を焼き切っているようだ。

シンクロは継続しているが、この模擬体に痛覚を伝える神経節がないのか、特に何も感じない。


……何もすることが出来ない、そんな無為な時間が20分ほど過ぎていった。


実験管制室で状況を映しているモニターに、汚染範囲を示すマップが表示されている。

「もうちょいね、もうちょい…」

ミサトが見ているとおり、模擬体の4%を侵した正体不明の汚染騒ぎは、

 ポリソームの活躍によりほぼ沈静化に成功していた。

「ん〜 何とかなりそうね。 ったく、手抜き工事してくれちゃって…」

ほっと肩を下ろしたミサトは、この責任、誰に取ってもらおうかしらという邪な顔になった。

しかし、対照的にリツコは厳しい顔のまま、自身の瞳だけ少し動かす。

「マヤ…」

「はい?」

モニターから顔を上げたショートカットの女性に、サンプルの採集を指示する。

なぜか、誰にも聞かれないように気を付けたような小さな声で。

『汚染範囲、さらに減少。 1%へ低下。』

「…ポリソームL号、コントロール。 センパイ、対象を採取します。」

「ええ。 サンプルをセキュリティレベルSAAに設定。 それと操作履歴の削除、よろしく。」

「はい。」


……人知れず、レーザーを止めて左腕を動かす機械に気付いた者はこの部屋にいなかった。


『発令所より連絡。 先ほど発令されたシグマユニットAフロアの汚染警報が解除されました。』

「よっしゃっ! じゃ、残るはここだけね。」

ミサトは報告したアナウンスに、片手でガッツポーズする。

「エントリープラグ00との通信ライン復旧。」

すかさず、マヤがマイクを入れる。

「碇二佐、聞こえますか?」

『はい、聞こえます。 一体何があったのですか?』

「実験中にプリブノーボックスの無菌状態が保てなくなったんです。」

リツコがマヤの後に続く。

「赤木です。 詳しい事は不明だけれど、取り敢えず汚染による浸食は食い止められたわ。

 残念だけれど、今日の実験は中止とします。」

『了解しました。 ところで、自分以外のチルドレンはどうなりましたか?』

「あ! ごめんなさい、これから回収を指示します。 女性スタッフに着替えを持たせるわ。」

『そうですか、分かりました。』

これは先ほどレイと波動の会話で、未だ回収されていない事を知ったシンジの配慮だった。

「それと、エヴァ独立中隊には、後で私の部屋に来て欲しいのだけれど。」

『了解です。』



………異空間。



『これがあなたの仕掛け?』

空間にポッカリと窓が開いている。

『ん? そうだよ。 取り敢えずダミーを用意して、攻め方を変えてあげようってね。』

その窓には、プリブノーボックスの模擬体が右に、実験管制室が左に映っている。

『ドーラシステムが一瞬停止したけれど?』

『こちらのことに関係する場合は強制的に。 …それに忘れてもらわないとね。』

『制限事項を設けたの?』

『ま、自覚のない管理人さんが調べれば直ぐにバレるけれどね…』

…でも調べないでしょ。 彼女に全幅の信頼を置いているからね…

そう続けたのは黒マントの男だった。



………レベル12。



応接用のソファーにシンジが腰を深く下ろす。

「シンジ君、どう思う?」

これは、リツコの開口一番の質問だった。

「どうぞ。」

「ありがとう、レイちゃん。」

コーヒーを受け取った金髪の女性は、再びシンジを見た。

「う〜ん…」

「碇君、はい。」

「ありがとう、綾波。」

隣に蒼銀の少女がスッと寄り添うように座る。

「ねぇ、綾波はどう思う?」

レイは、手にしたコーヒーに映る自分の顔を見ながら答えた。

「ATフィールドは発生しなかったわ。 …また、ブラッドパターンも検出されていない。」

「ええ、そうね。」

「副司令には無菌室の劣化の調査は続行中と報告してあるけれど…」

そう前置きをしたリツコは、コーヒーを一飲みして、”秘”と書かれたサンプルの解析の結果を机に広げた。

「まだまだ解析に時間を掛けるつもりだけれど、これは今現在でのデータ。」

シンジとレイは顔を寄せてそれを見た。

「これだと、本当にタンパク壁を構成している物質の劣化っていうだけですね。」

少女も少年の言葉にコクリと頷く。

「確かにそうなのだけれど、それだけじゃ説明がつかない部分が多いわ。」

汚染エリアの広がり方が不自然だし、何より汚染速度が速すぎる。

リツコは、肩まで伸びた金髪に両手を入れて髪の流れを後ろに整えると、手慣れた動作で一つに結った。

何気にそれを見ていたシンジは、ポツリとこぼす。

「へぇ、可愛いですね…」

「…あら、お姉さんを口説くつもり?」

「……へ?」

パチクリと目を瞬かせる少年に、リツコは目元を和らげて微笑んだ。

「気付いてないのなら教えてあげるわ。

 声に出ていたわよ、今の言葉。 ”可愛い”って。 うれしいわ。 ありがとう。 ふふ…」

「…あ、い、いや、その、リツコ姉さんがそういう風にしているのを見たのって、初めてだったから…」


……悪戯っぽく笑うリツコと珍しくあわわと狼狽するシンジに、レイは若干冷たい視線になる。


「女性っぽい仕草… うなじ? …碇君はああいう髪型がいいのね…」

「え? あ、綾波?」

「そう。 じゃ、私も伸ばそうかしら…」

先ほどの姉の髪を纏める仕草を真似ながら、蒼銀の少女は小さな声でブツブツと呟いている。

「い、いや、僕、そう言う意味じゃなくて…」

「碇君?」

「は、はい…」

「…でも、ああいうのが可愛いのでしょ?」

「綾波…」

少年は少女の深紅の瞳を覗きこむ。

「僕は今の綾波の髪型が一番好きだよ?」

キミなら何でもいい、などと失礼なことは言わなかった。

「そ、そう。 …ありがとう。」

ポッと紅くなった頬を両手で隠すようにした少女に、リツコは咳払いして話を戻す。

「ん、んん。 …話の続き、いいかしら?」

長い付き合いだからこそ分かる。

だんだんピンク色に変化していくこの甘い流れは、きちんと止めないといつまでも続くのだ。

真面目な路線に戻さなくては…

「あ、すみません。」

「…レイちゃんの言うとおり、ATフィールドの発生や、パターンブルーも検知されなかった。

 けれど、異常なのに変わりはないわ。 無菌室の劣化については、良くあることではあるけれどね。」

「え? そうなんですか?」

「使徒襲来の現状において、特務機関NERVはあらゆる部署が不眠不休で動いているわ。

 設備に使用する部材が不足しないように、下請けのメーカーには納期の短縮を常に求めているの。」

「つまり…結果、数%の粗悪品、適合基準値を下回る不合格品が送られてくるようになった、と?」

「現場からはそういう報告を受けているのが実態ね。」

リツコは、コーヒーを一口飲んで喉を湿らせる。

「そういう状況を踏まえても、今回の事態は異常と言えるわ。 これを見て頂戴。」

テーブルの上にある紙の中から、一枚の図を取り出した。

「これは汚染の範囲と進行を時系列に示したものよ。」

レイが見ると、シグマユニットAで発生した劣化は等しく直径を拡大する円状ではなく、

 まっすぐにプリブノーボックスの方向へ向かうように”移動”していた。

「侵食部の移動…」

蒼銀の少女の呟きに、リツコはコクリと頷く。

「そう、まるで移動したような形跡が見られるわ。 発令所にいた日向君と青葉君に確認したら、

 シグマユニットAの汚染については対処する前に減少、消滅傾向になったと言っていたわ。」

「う〜ん…」

シンジは腕組みして眉根を寄せた。

「ATフィールドの発生は確認できなかったけれど、

 これは、ほぼ間違いなく使徒によるものだと推測するわ。」

異常事態イコール使徒と言うリツコの弁に、シンジは首をひねる。


……なぜなら、イロウルの発生を感じなかったのだ。


そんな少年を見ながら、白衣の女性は独白するように続けた。

「まさか、使徒が威力偵察をするとはね。

 …で、サンプルの解析とは別に、MAGIを使用して今回の件を検証してみたのが、これよ。」

「これは…」

MAGIの能力の大半を使用した検証の結果、導き出した結論は、先ほどのリツコの言葉と同じであった。

痕跡はなし。 タンパク壁の劣化部分についても、特に問題を認められず。

まさに、使徒、侵入。 そして離脱。

リツコは大きく肩をすくませた。

「せっかく今回のために用意したセキュリティシステムは、相手の知ることになったと見た方がいいわね。」

コーヒーカップをテーブルに置いて、シンジはリツコを見た。

「じゃあ… 姉さんは、使徒がまだNERV本部にいると思いますか?」

「…分からないわ。 でも、どのような状況になろうとも即時対応できるように準備はするつもりよ。」

「そうですか… では、EVA独立中隊はスクランブル態勢を敷き、NERV本部に常駐待機とします。」 

「いいえ、そこまでは要求しません。 あなた達はいつも通りで結構よ。」

「でも…」

リツコは少年の真紅の瞳をじっと見詰めた。

「大丈夫、信じて… ね?」

こう言われてしまえば、シンジに異を唱える術はなかった。



………NERV本部、レベル10。



原因不明の汚染騒ぎから数日後。

リツコとマヤはプロテクトソフトの再構築を急いでいた。

優秀な技官を数多く擁するNERV。

中でも総本山たる本部には、その多くのエリートの中から更に選りすぐられたスタッフが集められている。

そのお陰で懸案の対応ソフトは、この数日の内にほぼ出来上がりつつあった。

「消さずに残しておいたソフト、役に立ちましたね、センパイ。」

「そうね。 複雑すぎるから開発の手を止めてしまっていたものだったけれど、

 予想に反して出来は早かったわね。」

「不眠不休、それに交代交代で手を休めなかった皆さんの成果ですね。」

元気な声とは裏腹に、徹夜だったマヤの目元にはうっすらとクマができている。

「そうね。 …あなたも休める時に休んでおきなさい。」

「はい。」

まさに今でき上がりつつあるセキュリティソフトは、

 本採用されたものとは基本コンセプトを異にデザインされたものだった。


……そして僅かに生まれた時間の余裕が、休憩に入ったリツコに先日の疑問を思い出させた。


使徒、と断定できないが自然でもあり得ない事態だった。

そう、とても不自然であった。

(…ん、不自然といえば…)

リツコの頭脳は思考に現れるワードに対して、無意識に記憶のデータを検索してしまう。

(そうそう、シンジ君が全く気にしていないから、私も忘れるところだったけれど…)

NERV本部の広い廊下は、任務に忙殺されている職員の往来が絶えることはない。

そんな往来の激しい渡り廊下の真ん中で足を止めていた白衣の女性は、突然と身体の向きを変えて歩き出す。

「わっ! すみません!」

リツコにぶつかりそうになった男性が慌てて避けるが、当のリツコには聞こえていなかった。

(…そう、アレは不自然よ。)





デートと夜と。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………玄関。



磨き抜かれた一枚の大理石に蒼い髪の幼女が映っていた。

「じゃ、行こっ!」

うきうき、わくわく。

ご機嫌で、しかも興奮のため上気している女の子の頬は、ほんのりと赤い。

本日は、先日ようやく約束を取り付けたシンジとのデートであった。

白銀の少年が専用のシューズボックスの中から選んだ茶色い革の靴を履いている。

それを見送るのは、レイとメイドたちだ。

「…碇君、気をつけて。」

「うん、夕方には戻るよ。」

「分かったわ。」

そのレイは寂しそうな波動ではあったが、今日の彼女には彼女のするべきことがあるようだ。

(…愛する異性のための施設。 エステ…)

先日、デートがしたい、シンジを貸せ、と要求したリリスにレイはこう説得されたのだ。


〜 マスターベッドルームの奥の間 〜


腕を掴んでいたリリスは、その手を離すとレイと向き合った。

「もうすぐ、でしょ。」

「え?」

「ふふっ… 安心して。 …お兄ちゃんとの”大切な夜”だもんね〜 無粋な真似はしないわ。」

「っ!」

幼女が何を言いたいのか、レイは瞳を大きくした。

そして、見る見る内に蒼銀の少女の雪のように白い頬が桜色に染まる。

「ふふっ… いい事、教えて上げる。」

「?」

「お兄ちゃんをもっと悦ばせる事が出来るとしたら、どうする?」

「どういうこと?」

訝しげにリリスを見るレイは、知らず小首を傾げる。

「エステよ、エステ。 レイちゃん、聞いたことない?」

「…ないわ。 それ、何?」

先ほどのシンジが喜ぶという女の子の言葉に、蒼銀の少女の顔が真剣なものになる。

「んー、何でも、そこに行くとね… お肌がツルツルのすべすべになるんだって。」

なぜか自慢気な顔になる幼女に、レイは小さく首を傾げた。

「リリス… 私は、ツルツルですべすべよ。」

「ふふふ… 違う、違うわよ。」

フルフルと小さくかぶりを振るリリス。

「もっとよ。 たぶん、今以上になるんじゃないかな… 愛する異性のために、って書いてあったし。」

そう言った幼女は、ごぞごそとポケットに手をやって折り畳まれた一枚の紙を取り出す。

「これこれ♪」

女性専門の高級エステの一般市民向け割引券付きチラシ。 レイは女の子からそれを受け取った。

ダイエット… これは自分に当てはまらない。 これ以上細くなったら彼に余計な心配をかけてしまう。

脱毛処理… これも自分に当てはまらないだろう。 そんな余計なものはない。

美顔、美肌… 確かに醜いよりは美しい方がいいはず。 整形?

違う。 ここに記されているのは、形を弄ることではないようだ。

自分の身体を磨き込み、より良く相手に見せる。 

その広告にはカップルを演じるモデルだろうか、整った顔立ちの男女の写真が大きく掲載されていた。

綺麗だね、と男性に誉められている女性の嬉しそうな笑顔が眩しい。

そんな写真を自然と自分たちに当て嵌め、笑顔で喜ぶシンジの顔を思い浮かべたレイは真っ赤に染まった。

その予想どおりの反応を満足そうに見ていたリリスが、狙いどおりと囁くように誘惑の声を掛ける。

「ね? 行ってみれば?」

「そ、そうね。」

「…で! その間だけ、お兄ちゃんを借りるなら、いいでしょ?」


………レイの耳元に囁くリリスの弁舌は、まるでメフィスト・フェレスのように巧みだった。


「お兄ちゃん喜ぶだろうなぁ〜 美人のレイちゃんがさらに美人になるために努力しているって知ったら。」

じっと広告を見つめているレイの深紅の瞳が、ユラユラと小さく揺らいでいた。

もうひと押しか… 幼女は彼女の耳元に囁く。

「…行ったほぉがいいと思うけどな〜」

耳に入るリリスの声がレイの思考に溶け込む。

たしかに… このエステサロンは女性限定… 碇君と一緒にはできない… でも、碇君が喜んでくれる…

彼のヒマワリのように温かな笑顔が自分を照らす。 それは、何物にも代えがたい喜びだった。

「………ええ。」

思い悩むように、しばらく逡巡していたレイは、一つ頷くとその紙を大事そうに折り畳んだ。


〜 で、現在の玄関 〜


「ねぇ、早く行こうよ、お兄ちゃん。」

その声に、レイは意識を戻した。

「あ、引っ張らないでよ、リリス。」

ガチャ、と玄関のドアが開くと、リリスとシンジが外に出ていく。

「行ってらっしゃいませ、シンジ様。」

「うん、行ってくる、マユミさん。」

メガネの女性の次に、蒼銀の少女に告げる。

「じゃ、行ってくるね、綾波。」

「ええ、気をつけて。」

「ほら、お兄ちゃん! ごー! ごーだよ!」

「あ、リリス…」

少年はごめんね、とレイを見ながら連れられて行ってしまった。

玄関ドアが閉まり、小さく振っていた手を下げると、レイはメイドたちに振り向いた。

「マユミさん、一緒に行く人、決まった?」

「はい、シホが御同行いたします。」

「はいっ! よろしくお願い致します!」

勢い良く腰を折るシホの動きに合わせて、彼女のポニーテールが慌てて弧を描く。

「…そう、ではさっそく行きましょう。」

私服に着替えるマユミとシホを待ち、準備を終えたレイも玄関を出た。



………違和感と疑問。



リツコは手元のモニターにやっていた目を正面に向けた。

設定したとおりの映像が映し出される。

そこに映るのは、先日の戦闘記録のようだった。

青空の下、第3新東京市を疾走する巨大な人。

紫色の装甲が霞むほどの加速。

そして、転倒。

映像解析の為に設けられたこの部屋の照明は全て落とされており、

 正面のスクリーンに投影される映像がいっそう鮮明に映し出されている。

女性の細い指が、ビデオコントローラーのダイヤルを回すと、動画がスローになっていく。

(転倒……… 有り得ないわ。 初号機の質量。 この移動速度…

 第3新東京市の建造物にこれだけのエネルギーを受け止める強度はない。 それに…)

端末の画面を切り替えると、保安部によって撮影された写真が拡大される。

特殊アスファルトに、損耗はない。

それはそうだ、とリツコは無意識に頷く。

決戦場となるここ第3新東京市に敷かれたアスファルトは、

 特殊装甲板と高強度に練られたコンクリを積層したものだ。

理論上、強度と靭性に問題はない。 それはこれまでの戦闘記録からも証明されている。

例外として、先日の音速状態の初号機が急停止した際には、流石にアスファルトは粉々になってしまった。

それは、単純に強度を上回った力が加わっただけのこと。

(…なぜ?)

それとは条件が違う。

再び画面に目をやる。

まるで、何かに躓いたかのような初号機。

リツコは、撮影された実写にCGでモデリングした初号機を重ねる。

(エヴァの高機動モードに追加したMAGIの補助プログラムは完璧だった。)

ビル群を避けながら駆ける巨人。 巻き上がる粉塵。 ソニックブームで吹き飛ぶ街路樹や自動車。

超スローで見ていた初号機のラインが二重にずれていく。

突然とつまずく初号機と変わらず走り続けるCGの巨人…

やはりエヴァに問題があったとは思えない。

リツコは電話機を手にした。



………バス。



”ピッ!”

電話を切ると、大人しくそれを見ていた女の子が声を上げた。

「あ、お兄ちゃん! バス! バス来たよ!」

市営のバスに乗ったシンジとリリスは、誰もいない座席を見渡すと一番後ろの席に座を選ぶ。

窓際から外を見るリリス。 彼女の顔は、出発してからずっと、にこやかな表情だった。

「何処に行こうか? 芦ノ湖とかに行ってみる?」

兄と慕う少年の提案に、人差し指を顎に当てて、ほんのちょっぴり眉根を寄せる。

「う〜ん、レイちゃんには夕方までに帰るって約束したからな〜 あまり遠い場所にはいけないねぇ…

 …うーん、うー …街でショッピングがいいな♪」

色々頭の中でシミュレーションしていた女の子は、にぱっとまた笑顔に戻る。

PDAは置いてきているので、携帯電話で乗換案内を検索していたシンジは、幼女に顔を向けた。

「了解。 じゃ、ターミナルに着いたらD−5ブロック行きのバスに乗り換えよう。」

「は〜い!」

窓の外の景色は、相変わらずの真夏の太陽が眩しく輝いている。

その光を受けた緑は色濃く、空の青色と白い雲がまるで一枚の風景画のようだった。

バスの中は適度にクーラーが効いるが、リリスは構わず窓を開け放つ。

そこから夏の空気が溢れるような風となって、少年と幼女の髪を吹き抜けていった。

そして、風切り音とセミの盛大な鳴き声が耳朶を打つ。

「あはははっ! 今日も夏だね〜」

”ピンポーン”

『…お客様にお願い申し上げます。

 窓から顔、手をお出しになりませんよう、事故防止にご協力をお願いします。』

バックミラーで唯一の乗客であるこちらを見ながら、バスの運転手が早速アナウンスを入れる。

「はーい、分かってまーす!」

こんな注意くらいで、今日の幼女のテンションが落ちることはない。


……リリスの爛漫な笑顔に一切の曇りはなかった。


10分もしないうちに、バスは閑静な住宅街を抜けて商業ブロックへと走っていく。

そして、ビル群を縫うように走るとターミナルに到着した。

「え〜と、バス停は…」

シンジが案内図で確認していると、聞き知った声が背中から聞こえてきた。

「あれ? シンジじゃん。」

「え?」

少年が振り向くと、真っ赤なスカートをなびかせる紅茶色の髪の少女が立っていた。

「偶然ねー ん? …? ファーストは?」

「お待たせー ジュース買ってきたよ!」

アスカがシンジに向かって走ってきた女の子に目をやった。

「…え? え?」

「あ…」

しまったと思ったが、すでに”時”遅しである。

「なに、この子?」

「ん?」

リリスは声に見上げると、アスカと目が合う。

第一印象は、そのまま、綾波レイだった。

彼女のようにクールな無表情ではないが。

特徴的な蒼い髪、赤い瞳、そして白磁器のような肌。

ふりふりの白いフリルが付いたオレンジ色のワンピースが可愛いらしさを増しているが、それにしても…

「…あら、ファースト。 いきなりとまぁ…ずいぶん小さくなったわね〜」

正直な感想が少女の口から漏れる。

「違うよ、アスカ。 この子は綾波の妹だよ。」

「え? アイツって、妹いたの?」

「初めまして、お姉ちゃん。 リリスです。」

「あ。 初めまして、惣流・アスカ・ラングレーよ。」

ぺこり、とお辞儀した女の子にアスカも自己紹介する。

「えと…リリスちゃん?」

「はーい。」

にこにこと手を挙げて返事をする。 何て素直ないい子でしょう… って違うか。

「それにしても、日本人にしちゃ、ずいぶん珍しい名前ね。」

言いながら、しゃがんで女の子と目線を合わせたアスカは、よしよしと頭を撫ぜてみる。

「ははは、そうかもね。」

シンジは、リリスから受け取ったペットボトルのキャップを開けてお茶を一飲みした。

「アスカもどこか出かけるの?」

よっと立ち上がった少女は、胸にかかったオレンジに輝く長い髪を左手で掻きあげて答える。

「…ん、私はショッピングよ。 たまたまアンタが見えたから、何してんのかなって声かけただけよ。」

「そうなんだ。」

「アンタはその子とデートってわけ? ん〜 …はっは〜ん、浮気?」


……わざとらしく細くなったアスカの横目は、まさにゴシップ好きの十代女子特有の物であった。


「うん!! そうなの! えへへ! 今日はお兄ちゃんとデートなの♪」

「うん、そうだよ。 もちろん、綾波公認の、ね。」

やっぱねー とアスカはシンジの苦笑したような笑顔を見ながら思った。

「あ、バス来たよ!」

「それじゃ、アスカ、またね。」

「相手が子供でも女の子なんだから、ちゃんとエスコートしなさいよ。」

「もちろん、分かっているよ。」

そんな遣り取りをして、シンジ達は停車したバスに向かって歩いていく。

「おねーちゃん、またねー!」

「はいはい、またね〜」

元気に手を振る小さな女の子に、自然とアスカは手を振り返して彼らの乗ったバスの出発を見送ってあげた。

「…って、私もあのバスに乗るんだった…」



………路上。



ショッピングを楽しみたい、そう言った幼女であったが、特に欲しいものがあるわけでもなく。

結局、第3新東京市の一番賑わっている繁華街をぶらぶら散歩するように歩いていた。

右手はシンジの左手と繋がっており、左手にはさっき買ってもらったソフトクリームが握られている。

歩きながら食べるのはマナーに反するが、特に気にする事もなく。

リリスは、冷たいそれをペロリと舌で楽しみながらブティックに飾られているマネキンを見て歩く。

その隣は玩具店だった。

『本日ついに発売!』のポップが自然と目に映る。

何気に足を止めてプロモーションビデオを見る幼女に、シンジも彼女と同じようにそれを見てみた。

(そういえば、”戻って”からゲームって全くしなくなったな…)

そんなことを思っているとモニターの場面が変わり、派手な戦闘シーンになった。

プレイヤーパーティーの主人公キャラクターだろう、美少年が派手にカットインで映ると剣で敵を一閃する。

次に仲間の女性キャラクターが援護の魔法を使い、仲間と協力して巨大な敵をやっつけていく。

その美少女と手を取り合い、苦難に立ち向かっていくムービー。 テーマは彼女との愛と仲間との絆?

ファンタジーの世界を舞台にしたジャパニーズRPGといったところか。

ありがちではあるが、さすがと言うべきか… このPVは購買欲をくすぐるように出来ているようだ。

その証拠に、初めてこのゲームを見たリリスは夢中で画面を見続けている。


……今日はショッピングだものねぇ…


最後のアイスが無意識だろう彼女の口に消えるのを確認したシンジは、リリスの左手を引いて店内に入る。

「いらっしゃいませー」

そのまま奥のレジにいる男性店員に声を掛けた。

「すみません、店頭で宣伝しているゲームが欲しいんですけれど…」

「ええ、まだ在庫、ございますよー」

男は、後ろの棚に積まれていたパッケージを一つ取り出して差し出す。

「こちらでよろしいでしょうかー?」

「ええ。 それとゲーム機本体もください。」

「あの…お客さん、もうすぐこれの新しいゲーム機が出ちゃいますけれど、いいんですか?」

プレイゲームモバイル、通称PGM3は、本体価格4万5千円もする超高級ゲーム機である。 

高校生くらいに見えるシンジに、男性店員は親切に説明してくれる。

「え〜と、そのPGM4の発売日は2週間後の…」

「…すみません。 あのゲームがしたいだけですので、ぜんぜん構わないです。」

店の端末で確認の検索をしていた目をシンジに向けると、男はそうですかと頷いた。

「…大変、失礼しました。 では、お会計をお願いします。」

そのままバーコードを読み取り、レジを操作する。

「ポイントカードはお持ちですか?」

「いいえ。」

「お造り致しますが?」

「いいえ、結構です。」

流れるような会話と同じように淀みのない動作を見ながら、シンジは思い付いた事を口にした。

「…あ、それプレゼントなので包んでくれますか?」

「はい。 畏まりました。」

しばらくしてお店の紙袋を受け取ると、シンジはそれをそのまま女の子に手渡した。

「リリス。 はい、プレゼント。」

「え? い、いいの?」

「あのゲーム、やりたそうだったからね。 …でしょ?」

「あ、ありがとう、お兄ちゃん!」

どこかボケッと一連の遣り取りを見ていた幼女は、一瞬で顔を綻ばせる。

それを見ていた店員は、久しぶりにいいものを見たな、と目の前の微笑ましい光景に自然と目元が緩んだ。

「ありがとうございましたー」



………マスターベッドルーム。



「ぅ… くぅっ… あっ! ああ…  …んんっ!!!」

レイの背中が引き絞られた弓のように反ると、ビクビクッと痙攣したように震える。

そのまま小刻みに反応していた彼女は、しばらく喘いで”どさっ”とベッドに体を預けた。

背に汗を垂らすシンジの肩が、乱れた呼吸を整えるように大きく上下に動いている。

「ふぅ… …はぁ、はぁ…」

相変わらずギュッと締め付けているレイの奥から、自身をゆっくり引き抜いていく。

「ぁ、ん…」

その刺激に、思わず彼女の腰が小さく跳ねる。

ズルリと粘膜を引き摺る、痺れるような身体的快楽。

ピクンッと敏感に反応する少女の姿に、彼女の全てをほしいまま支配しているように感じる精神的愉悦。

この二つは愛し合うものであれば誰しも体験できるだろう。

しかし、この二人は、もう一つの快楽を味わっていた。

波動による魂の快楽だ。 決して人間では味わえない、心が震えるような深い結合。 蕩け合うような感覚。


……だか、このカップルはずるずると快楽に溺れることはなかった。


せいぜい月に四、五回。

若い二人には少ないと思われるかもしれないが、少し我慢した方がより深くなるのだ。

というシンジの考えの下、

 そんな、まったりとした性生活が”初めて”を経験した沖縄の修学旅行以来続いている。

レイが、自分から積極的に誘うことは余りなかったが、

 彼女自身、この日を楽しみにしているのは波動の状態で一目瞭然だった。

もちろん、シンジも彼女との行為はとても大事なことだと考えている。

「…レイ…」

そう呼ばれた蒼銀の少女の深紅の瞳は、艶やかに潤みきっていてトロンとしていた。

少年は気怠げな雰囲気の彼女を包むように、優しく蒼銀の髪を梳いていく。

「…んぅ…」

その手が流れるように少女の頬を触れた。

「…シンジ君…」

愛情を注いでもらって満たされた彼女の瞳に少年の真紅の瞳が映り込む。 

そのシンジの瞳が、若干、下に動く。

「…?」

レイはじっとしている少年の顔を包み込むように両手を伸ばした。

「どうしたの?」

「…ん、ん〜」

下を見たままシンジが唸る。 レイは少しだけ首を傾げた。

「…シンジ君?」

徐に、シンジの人差し指がレイの乳房の片方をそっと突いた。

彼の人差し指が沈みこみ、マシュマロのように柔らかなそれがプニュ…と歪む。

「ぁん… なに?」

シンジの悪戯にレイのしなやかな肢体が小さく揺れた。

「すごいよね…」

「?」

「…あ、いや、こんなに柔らかいのに、この指を押し返す弾力ったら…」

レイの胸は仰向けになろうと、その美しい形が重力に負けて無様に垂れるなど決してない。

”プニ、プニュン… ぐにぃ… ぷるん…”

「ん… あ… 少しくすぐったいわ…」

「あ、それに…」

”プルンッ プルプル…”

「…ん、なに?」

「いつも凄くすべすべなんだけれど、今日のレイってツルツルで本当にシルクで出来ているみたいだ…」


……本日の初エステでの少女の努力が報われた瞬間だった。


「ほんとう?」

「うん、触れているだけで、すごく気持ちいいよ。」

シンジの手放しの称賛に、レイは極上の笑みを浮かべた。

「エステ…」

「ん?」

「今日、エステに行ってみたの。 マユミさんと、シホさんと…」

リリスのくれた一般向け割引券は使用しなかった。 彼女にそんなものは眼中になかった。

彼のために。 レイは最初から一般的な最高という言葉が霞むほど高価なコースを選んだのだ。


……余談であるが、

 公平なジャンケンに勝ち、レイと同じエステの最高級コースを堪能した彼女たちの玉の肌も輝いていた。



「へぇ…」

白銀の少年は、改めてレイの柔肌に両手で触れる。

”ムニュゥ…”

「ぅん…」

されるがままだったが、少し擽ったそうに蒼銀の少女は小さく身をよじった。


……その時、シンジは電撃的に過去を思い出した。


「…んー」

自分の左手を見た彼は、その手を被せるように少女の胸に当ててみる。

「?」

「レイ、胸、大きくなった?」

「…ええ。」

「今、突然と前を思い出したんだ…」

「前?」

「うん。 零号機の起動実験でさ。 ”リツコさん”に頼まれて僕が更新したカードを届けに行って…」


……それは彼らにとって遠い過去。


「…私を、押し倒した時のこと?」

「う、うん… あの時、初めて触れたんだよね。」

少女は薄く微笑むと、彼に訊いてみた。

「どうだった?」

「ははっ… どうもこうも、完全にパニックだったよ。 キミは冷静だったみたいだけれど。」

「…そうね。」

シンジはそのまま少女の乳房をやんわりと揉みしだいた。

「…ん…」

「あの時は、こんな感じだったかな…」

指に少しだけ力を入れる。

「ぁ… 違うと思うわ…」

「じゃ、こう?」

シンジの気の向くまま、レイの胸は形を歪めた。

「ぁん… 違う。 あの時の碇君は手を載せていただけだと思うわ。」

「そうだっけ?」

「…とぼけてる…」

「ごめん、ごめん。 じゃ、お詫びに…」

シンジは顔を下げて、ちゅう…とレイの先端を吸った。

「…あ、ん! ずるい…」

愛しい。 本当に愛しい人。 私の命。 何をされても全て心地の良い気持ちになってしまう。

痺れるような甘美な刺激をさらに求めるように、レイは彼の後頭部へ両腕をまわした。

「ねぇ、シンジ君…」

レイの潤む瞳に、自分を一途に求める淫靡な色があった。

「うん、ぼくもしたい。」

シンジも陶然とそれを嬉しく思う。

「…うれしい。 きて…」

お互いに等しく求めあう。 彼らの至福の夜は、こうして甘甘に更けていった……





ロシアへ。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………NERV。



執務室に入り、パソコンの電源を入れる。

OSが立ち上がるまで、シンジはじっと画面を見つめていた。

さきほど、技術開発部長である姉、赤木リツコの部屋での遣り取りを思い出す。

たしかに… エヴァが転んだことに違和感を持たなかった。

なぜ? と自問しても、

 緊迫した戦闘中だ… 当然、意識は使徒に集中していたのだろうという自答が返ってくる。

それでも、録画した映像を見れば、たしかに違和感を覚える。

はたして…

「ふう、記憶のトレース、しようかな…」

溜息交じりの独り言に、PDAの画面が灯る。

『マスター?』

「余りやりたくないんだよね… もちろん時間は弄りたくないし。」

『MAGIのネットから映像その他、必要なデータを抽出いたしましょうか?』

「いや、いいよ。」

姉が解析を行ったデータ以上はもうないだろうと思い、

 首を横に小さく振ったシンジは、そのまま瞳を閉じて意識を集中させた。


……ちなみに現在、綾波レイは、洞木ヒカリのショッピングに付き合っている。


なので、この部屋には、自分と紅い本とPDAだけであった。

シンジは、数秒後、静かに真紅の瞳を開いて、両方のこめかみを親指と中指で揉みほぐした。

「…何かに、あたった。 いや、正確には当たる直前、無意識にそれを避けた。 そんな感覚って…」

つまり、無意識下で”何かある”と勘違いして脊髄反射的に筋肉を動かすイメージを描いてしまった。

その結果、バランスを失った。

緊迫した状況下で、無意識に行ったことなど、普通の人間では意識に留められない。

『お兄ちゃん?』

先ほどのことを無意識に口に出していたらしい。 綾波は勿論、彼女たちにも無用な心配はかけたくない。

「ん、いや、何でもない。」

まぁ、何かあっても問題ないだろう… ユグドラシルも動いてないしね。

そう結論を出したシンジは、いつの間にか起動完了していたパソコンの画面に目をやる。

「さてと…」

ログインしてメーラーを起動させると、新着の情報が入っていた。

「ん? 暗号メール… 国連…」

紅い革の本が、するりと浮かんだ。

『バロットの…』

「うん。 そうか…」



………翌日、市立第壱中学校。



「ジャーン!! …へっへーん。見てよ、これ!」

アスカが鞄から取り出したのは、一見すると、シンジが持っているPDAのようだった。

「む? ぉおっ!! それは! PGMの最新版、プレイゲームモバイル4じゃないか!?

 まだ、発売日じゃないぞ!! 一体どうしたんだよ、惣流?」

茶色の癖っ毛の少年は、目を大きく輝かせる。 …だけではなく、メガネもキラリと光っていた。

「ほぉ〜 ケンスケが言っとった、来月でるっちゅーて騒いどった新しいゲーム機かいな…」

ジャージをまくった腕を組んだまま、トウジは眠そうに欠伸を噛み殺した。

「そうそう!! …ああ、そうだよ! すっげー! なあ、貸してくれ! いや、もっと見せてくれよぉ!」

ずずい、ずいずいと近付てきたケンスケを、アスカは右足で牽制する。

「ちょ、きもっ! …ほら、そこからでも見えるでしょ! これ以上近づくな!! …って!」 

ケンスケは彼女の剣幕にもかまわず、鼻をふんふんと鳴らしていた。

「ッ… かー!! NERVってすげー!」

「ハッ! ば〜か、NERVじゃないわよ! 懸賞よ! 雑誌の懸賞! 当たったの!」

「それにしても… う〜ん… 赤なんてカラーリングあったっけ?」

「ふっふーん。 …いいでしょー と、く、べ、つ、よ! 特別!」


……お好みのカラーで、一名様に特別プレゼント! の懸賞に見事当選。 さすがワタシ!


そんな説明を聞いていた委員長は、やれやれと嘆息した。

「アスカ、懸賞でも何でも、とにかくそういうのを学校に持ってきちゃダメなのよ!」

「え、そうなの? 日本って変なことにこだわっているのね〜

 ってか、シンジだって似たようなもん持ってきているじゃん?」

「僕のは立場上必要な情報端末として、ちゃんと学校に届けているよ。」

「ふ〜ん… あ、マナ! ほら、これ見なさいよ〜」

教室に入ってきた茶色い髪の少女は、アスカの声が耳に入っていないのか、そのまま静かに席に座った。

「ほら、マナ、どう、これ?」

マナはシンジやレイと違い、”特殊な子供”でも同級生たちのようにゲームに興味を持ってくれる。

そう思って、自慢気な口調で話しかけたのだが…

「ちょっと、マナ?」

「? え…」

初めて自分を呼ぶ声に気付いた、そんな顔だった。

彼女にしては珍しく元気が、覇気がない。

「一体どうしたのよ、アンタ?」

NERV本部まで入れる特殊な同級生である。

アスカにとってもその他のクラスメートよりは、

 それなりにマナと付き合いがあるのだから彼女が普段と様子が違うことに気付く。

「え? なにが?」

「…なにがって、元気ないじゃん? どうしたの? あの日?」

「なんでも… なんでもないよ。 って、あの日じゃないわよ。 あ、アスカ、それ… もしかして!」

紅茶色の髪の少女の手にある機械を見て、彼女の期待どおりマナの瞳が大きくなる。

なんだ気のせいか、とアスカもテンションを戻していった。

「碇君…」

「…うん。 約束の日か…」

彼女たちを見ていたシンジは、窓の外、青々とした空に遠い瞳を流していった。



………空港。



『フライトコントロールよりUN軍機へ。 政府より着陸許可の確認ができた。

 手間取ってしまい、申し訳ない。』

普段、小型民間機しか利用しない地方都市の小さな空港に国連軍の戦闘機が降り立つ。

しかも1機、2機ではなくその数5機。

その事態に対応すべく空港の周囲には、テロを警戒する軍用重ヘリコプターが油断のない目を配っていた。

”キュ、キュ!!”

ランディングしたタイヤから白い煙を立ち昇らせて、急速に減速していく。

航空ファンなら色めき立つだろう世界に1機しかない試作ステルス戦闘機の複座機がエプロンに移動する。

停止してキャノピーが上方へ動くと、前方の男はヘルメットを勢いよく脱いだ。

「あ〜、着いた、着いた!」

機体の左側に梯子をかけた技士が声をかける。

「ようこそ、ロシアへ。」

ガッチリと握手してあげた黒人パイロットは、彼の用意した梯子を使わず、座席を蹴って乱暴に飛び降りた。

「まったく…」

少し呆れた声を漏らしたのは、後ろの席に座っていた人物だった。

技士は男だと思っていたその人物を見て、言葉を失う。

ヘルメットを脱いで現れたのは、見目麗しい年若い女性だったのだ。

肩の上で揃えられたボブカットを乱暴に整えて、カーチャが下に声をかける。

「アル、降りるわよ?」

「カモン、ベイベー!」

「…ッ ば〜か!」

そう言ってロクに確認もせず、その身を空に躍らせる。

あっ! と男が声を上げる間に、先に飛び降りた男が優しくフル装備の彼女をお姫様抱っこしていた。


……並々ならぬ強靭な肉体、膂力がなければできない芸当だ。


空港の技師は、それを見てポカンとするだけであった。

先に到着していた軍用戦闘機も同じような年恰好の軍人であったが、

 空港スタッフに彼らに関してのプロフィール等は一切知らされることはなかった。

さて、一番先に到着していたマナは、控室で静かにしていた。

「マナ、元気にしてた?」

ポニーテールに結った女性が少女に声をかける。

「うん、元気だよ。 ベッキー、久しぶり。」

その言葉とは裏腹に彼女の顔は緊張しているのか、どこか堅かった。

シンジとレイは空港の責任者のところへ顔を出しに行っている。

「久しぶりにみんなと再会するんだから。 無理にとは言わないけれど、元気な顔、見せてね。」

「うん。」

「じゃ、さっさと着替えようじゃない。 時間もないんだし。」

「…そうだね。」

ベッキーは女の子の手を握ると、元気よく立たせた。

そして、そのまま用意されている更衣室まで、彼女を引っ張るように連れて行くのだった。



………待合室。



「お待たせ。」

開いたドアと同時に少年の流暢な英語が部屋に届く。

相変わらずの特異な容姿。 真っ白い、というよりはパールか、シルバーに近い白銀色の髪。

ルビーよりも深い、力に満ちた真紅色の瞳。

アルのようにマッチョではないが、彼に劣らぬ力強さと神速と評する他ない俊敏性が、

 一見華奢に見えるスマートな容姿に隠されているのは、過去訓練を共にした我が身はよく知っていた。

連絡役、調停役を良く任されるから”くせ”なのだろうか、

 一番に動いて席を立ったのは、入って来た少年をつぶさに見ていたカーチャ・ウィリアムズだった。

「隊長、お久しぶりです。 お元気そうでなによりですわ。」

「カーチャ、みんなも久しぶり。」

このメンバーの中では、いつまでたってもリーダーらしい。

それを理解している少年は、あえて彼女の間違いを訂正しなかった。

そして、全員の顔をゆっくりと見渡したシンジは、黒のスーツ姿である。

元国連軍特務隊トライフォースのメンバーは、全員礼服を着ており、久しぶりの再会に喜び半分、

 どこか寂しそうな、悲しそうな雰囲気が半分といった表情をしていた。

「じゃ、行こうか。 バロットに会いに…」




………人類補完委員会。



『先ほどの報告、見せてもらった。』

白い手袋がモニターデスクの光を浴びで浮かび上がっている。

サングラスがその光を反射しており、誰もが彼の眼を窺い知ることは出来なかった。

『汚染騒ぎで実験中止とは… 少々情けなくはないか、碇?』

「…申し訳ありません。」

『管理責任を問われる事態だな…』

『…第3新東京市の復興は順調そうだが、やはりネックになるのは地下本部施設の特殊な材料か…』

「はい。」

定例報告会が始まって既に2時間。 表の報告会は、退屈だった。

二言目には、いつもの通りこちらに対するイヤミと愚痴を並べたてるだけの朗読会のようだ。

『…碇。』

一区切りをつける議長席からの声で、周りの声がさっと控えた。

「何でしょうか、キール議長?」

『人類の脅威たる使徒、これに対しての実績は今のところ問題ないと評価している。』

「はい。」

『なぜ、許可した?』

唐突な質問に、ゲンドウは視線を上げた。

「許可、ですか?」

ロシアの委員が、キールの言葉を引き継いだ。

『対使徒戦のエース、サードとファーストをロシアへ渡航させただろう?』

「セカンドチルドレンが本部待機しております。 問題ありません。」

3人のうち2人が不在、という迎撃態勢を心配しているような口ぶりではあるが、実際のところは、

 世界最高の秘密結社である”SEEL”が過去さんざん煮え湯を飲ませられた彼ら”トラ”が、

  一か所に集まる事態を憂慮しているだけなのだが……

この使徒戦争が始まる約一年前に無理やり解散させた国連軍総司令部直属対テロ特務部隊トライフォースは、

 その任務において、国連軍の伝説となる実績を上げ、所属メンバーは各隊で絶大な人気を集めている。

各方面、地域へワザとバラバラに配属させられた彼らは、より多くの人間が彼らを知ることとなり、

 結果、いつまでたってもトライフォースの名前は過去のものにならない。

せっかく人事にまで注文を付けたのに。

…しかも。 これを抑えるはずの上層部は、こちらに対してあからさまに好意的な態度を取っていない。

上層部の責任者は、国連軍総司令官グリフィールド・ワーグナーである。

退役前とはいえ、変わらずUN全軍に絶大な権力を持っているあの男は、

 国連軍の指揮系統に係るロードマップ(長期計画)を無理やりねじ曲げられた意趣返しのつもりか…

  人類補完委員会の通告(トラに対してだけ)を何だかんだと理由をつけて無視している。

それだけに留まらず、こちらの意図に反し、

 トラの部隊員に対して何かしらの便宜を図っているという報告まである。


……キールがコントロールを外れつつある国連軍の現状に思惟を傾けている間にも、会議は進んでいる。


『セカンド一人では、使徒に対しての作戦行動に不安を覚えるのは、事実だろう?』

『左様。 今は非常時だという自覚が足りないのではないかね?』

「問題ありません。 作戦本部所属のチルドレンによる使徒殲滅を期待していません。」

『ただの時間稼ぎ、だというのかね。』

「そこまでは言いません。 彼女にも弐号機にも莫大なコストがかかっていますから。」

ゲンドウは、再び顎を引くと、言葉を続けた。

「…非常事態対応計画については、エヴァンゲリオン独立中隊発足時にご承認いただいているとおり、

 万全な態勢を敷いております。 どうかご安心を。」

『…議長。』

幕を下ろす声がかかる。

『よろしい。 人類補完委員会からは以上だ。 下がりたまえ。』

「はい。 了解しました。」

ゲンドウの言葉と共に、ホログラムが一斉に消え去った。



………技術開発部長室。



リツコは、キーボードに走らせていた指を休めた。

打ち終わったばかりの文章をチェックする。

このレポートは、シンジから提供してもらった情報を元に作成したものだった。

内容は最高守秘レベルSSSとして、自分以外は、碇親子か綾波レイくらいしか閲覧できない内容である。

「シンジ君でも操縦をミスする事なんてあるのね…」

コーヒーを一口付けて、リツコはそんなことを呟いていた。



………霊園。



車を降りて、公園のように造成された霊園に降り立つ。

ここに来るのは、彼の葬儀を執り行ったあの時以来だった。

忙しさを理由に来なかったわけではない。

もちろん、忘れてしまったわけでもない。

ただ、ここに再び来る時は全員そろって、とみんなで決めていた。

スケジュールを遣り取りして、調整を始めると決まって誰かが都合つかなくなる。

流石に3回ともNGとなると、偶然ではないと疑ったのは彼らだけではなかった。

2回目がNGとなった時、たまたまシンジからこの件を聞いていたワーグナーは、

 彼らの勤務スケジュール、休暇願いに目を向けさせていた。

案の定と言うべきか、彼らの情報が外部にリークされているのを情報部が掴んだ。

それも、特定条件の時のみリークされているらしく、残念ながら今まで発見されなかったそうだ。

その条件は、彼らの任務、休暇が重なった時である。

(彼らは、よほど彼らを一つの場所に集めたくないのだな…)

ワーグナーは、リークしていた職員が命令書すら偽造して偽の命令を流していた事実を確認し、

 即時処分を下した。

また、彼らのタイトなスケジュールから、特別に戦闘機による移動を許可した。

これは、SEELが気にする”彼ら”への便宜の一部であった。


……そんなこんなで、ではあるが…4回目の調整にてようやく彼らは一堂に会する場を得たのだった。


彼らが木立の中、静かに歩を進めると、そこには白い墓石が無数に並ぶ静寂に包まれた緑色の丘に出た。

枝を張って大きな緑の冠を頂いた木々は疎らとなり、少しだけ日が傾いた青空には小さな白い雲。

流れる風は、頬を撫ぜる程度の微風が時折。 この場にふさわしい軽くはない空気の重みが、草葉を撫ぜる。

その擦れる音は小さく、また枝で休む小鳥の囀りはなかった。


……その中、先頭を歩くシンジは、先に一人の影を認めた。


その人は、小さな墓石の前にうずくまるように身を屈めている。

「…ボイルシェフ夫人…」

毎月、この日のこの時間に、軍務に殉じ命を散らした息子の下に母親が訪れることは、知っていた。

だからこそ、彼らはこの日を選んだのだ。

白銀の少年の声に、夫人は顔を上げ振り返り、こちらを見ると慌てたように腰を立たせた。

「…ぇ あなたたちは…」

先頭に立つシンジが、一礼すると後ろに立っていた集団もそれに倣った。

「ご無沙汰しております。 …仲間に会いに来ました。」

顔を上げてそう言った少年の表情は薄い笑顔だったが、どこか寂しそうだった。

「そうですか。 …どうぞ、こちらへ。」

「はい。」

夫人に応えた蒼銀の少女の手には、花束が握られていた。

レイは、そのまま墓石の前に膝を付き、ゆっくりとした動作で献花する。

特殊任務に従事する特別な部隊とのことで、夫人は彼らの名すら知らされることはなかった。

今も名乗らないところを見ると、以前と変わらず彼らは特殊任務を務めているのだろう。

夫人はそんな事を想いながら、彼らに場所を譲った。

彼女は、その集団の中のブラウンの髪を見つけると、マナを見つめた。

(あの娘、たしか…)

沈痛な面持ちの少女。 アジア人だろう、彼女は下に目をやったまま墓石の前に足を進めている。

そんな様子を見て、夫人は国連軍による息子の葬儀を思い出していた。

当時、霧島三尉と呼んだシンジの言葉だけが、彼らから知った彼女の名前だった。

「…失礼します。」

マナはレイの横に膝を折り、墓石に目をやった。

彼を思い出して、少し戸惑うようにして、おずおずと石に触れる。


……暫くして彼女が振り返ると、シンジたちはそのまま静かに黙祷した。


それぞれが、それぞれ思う彼に対して、胸の内を語りかけているような表情だ。

その様子を見ているバロットの母親の瞳は、氷のように冷たく硬い色に満ちていた。

しばらくの間の後、語り終えた皆が目を開くと、自然とマナに視線が集まった。


……まるで祈りを捧ぐ乙女のように、彼女は両手を胸の前にして、静かに瞳を閉じたままだった。


からかったりして、決して本人は認めなかったが… 彼女がバロットを兄と慕っていたのは皆が知っている。

だから、この神聖な祈りを静かに、ただ静かに待った。

その時。

祈る彼女の背から、にこやかなバロットが現れて、いつものように彼女をからかうように動きだす。

なぜか、バロットは必死な様子だった。

…彼は感じていたのだろう。

同じ歳でもA・Oとレイとは違って、マナは普通の子なのだろうと。

だから、マナを気にして… だから彼女にちょっかいを出して… 一生懸命に… 彼女を護ろうとして…


……そんな彼を感じたのか。 マナの頬に、銀色の滴がつぅと零れた。


それは次から次にポロポロと溢れては、尽きることなく彼女の頬を濡らしていく。

バロットは、余計に慌てた様子で彼女の気を引こうと、元気を取り戻させようと忙しなく動き出す。

「もう! …もう! …もういいのよっ… バロット!」

「バロット、てめーがマナを泣かすな! もういいんだ!」

堰を切ったように泣き崩れるベッキーの嗚咽が、顔を伏せたアルの震える声が静寂の空気を大きく震わせる。

それを感じたかのように、幻影が、透明なバロットがベッキーを、アルを見た。


……ボイルシェフ夫人は、呆然とそれを感じていた。


あの子が、あの子がいる…

信じられない…

幾月、何回、この墓石を訪れただろう… 虚無感しか与えてくれない無機物の石に…

忘れようと思えば、想うほど… 考えれば考えるほど… 

無意識という意識を侵食する息子の陰… もう決して会えないあの子の影…

それを今。 あの子を感じる。

夫人の手がそれを求めるように伸びる。

奇跡だろうか… 過去の幻影だろうか… 手品だろうか…

そんなものは、どうだっていい。 どうでもいいから。 だから。 声を聞かせて! 一言でいいから!

渇ききった夫人の喉から、声は言葉にならず、引き攣ったような音を吐いた。

「…バロット…」

その声に反応したのは、呼ばれたバロットではなく、祈りを捧げていた少女だった。

閉じていた瞳を開け、組んでいた両手から顔を上げたマナは、ボイルシェフ夫人を見た。

「お母様。 ごめんなさい。 そして、ありがとう。 私は、彼と知合える事が出来て幸せです。」

引きつるような、たどたどしいものであったが… どうにかニコリと微笑む彼女の頬に、また一滴が零れる。

超常現象か。 それを視たバロットは、慌てたように彼女の頬に手を伸ばす。

肝心のマナには一切感じられていない様子なのが残念ではあるが。

シンジも。 レイも。 アルも。 カーチャも。 ベッキーも。 エマも。 ロビーも。

もちろん、彼の母親も。


……いつの間にか、自然に笑顔になっていた。


「ほら、いつまでも泣いていない! バロットに笑われちゃうよ?」

立ち上がったベッキーが彼女に手を差し伸べる。

マナを立ち上がらせる彼女の動きに合わせて、ベッキーの一つに結った髪が大きな半円を描く。

「あ、は、はい。」

マナは目をパチクリとして、立ち上がった。

”ヒュゥゥゥ…”

柔らかな風が、トライフォースの面々との面会を喜ぶように吹き去っていく。

「あの…」

吹き過ぎた風を追うように空を見ていたシンジは、こちらを見ているバロットの母に目をやった。

「なんでしょうか?」

少年の問いに、母親は一つ間を取って彼にお願いした。

「……時間はありますか? 少しお話をしたいのですが。」

「ええ、もちろんです。」

シンジは、レイに目をやると、彼女は隊員たちを霊園の入口にある待合室を兼ねたカフェに連れ立った。

しかし、そのメンツからマナは外させており、彼女は今シンジの横に座っていた。

バロットとマナの関係は特に特別なものではない。


……精神熟成にあたり、当り前のようにいる異性を親兄弟に置き換える疑似的近似値的な代償行為。


一人っ子であったマナは、彼を自然と気の置けない”兄”と認識した。

バロットは彼女を”他人の妹”と認識した。

その距離感は二人ですら正確には表現できるものではないだろうが、そういう関係であった。

バロットの生家は、母親の家は霊園から歩いてすぐだった。

茶を持ってきた母に、彼女たちは腰を上げて礼を執る。

「楽にして、ね。」

シンジの前にコップを置き、少女の前にコップを置くと、夫人は目の前に座した。

「霧島さん、でしたっけ?」

「はい。 霧島マナです。」

「碇シンジです。」

「名前はダメって聞いていたけれど、いいの?」

「ええ、許可は取ってあります。 名前だけ、ですけれど。」

白銀の少年が答えると、夫人はそれ以上、口を開かなかった。

何かを窺うような、考えているようなぼんやりとした視線をマナにやったまま。


……静かな時間が、動かない空気を無視して小さく過ぎ去っていく。


無言と空白に、シンジが口を開こうとした時、ボイルシェフ夫人が先に口を開いた。

「もう…」

「え?」

「もう、ここを忘れていただけないでしょうか?」

あなた達を恨むのは筋違いなのは分かっているのよ、そう言葉が続いた。

「でも。 あなた達を見ると、息子を失った時の感情を思い出してしまう。」

最初にマナを見たときの硬い色の瞳。 表情を失くしたかのような顔。

シンジは霊園でそれを見ていた。

「息子を想ってくださっているのはうれしんですよ…」

でも。 残された私は悲しい。 だから。

マナが何か言おうとしたが、口を少し開いただけで言葉が出てこない。

「…それにね。 どれだけあなたたちが大切な仲間かって、息子の日記に書いてあったの。」

ボイルシェフ夫人は、傍らに置いてあったノートを手にして、

 軍から送られてきたバロットの私物の入った箱に目をやる。

「あなた達を見ていると、どうしてもあなた達を恨んでしまう。

 あの子がまるで家族のように信頼し、慕っていたあなた達を…」

夫人はノートを我が子のように優しく撫ぜた。

「…あの子の想いを汚したくない。 穢したくないの。 …だから、ね。

 もう、あの子のことで、あなた達がここを訪れる必要はないの。」

お互いにつらいでしょう? そう目が語っていた。

早くに夫を亡くした彼女にとって、バロットはたった一人の家族だったのだ。

溺愛していた彼を失った当初は、突然突き付けられた現実を受け入れられずに毎日”会い”に行っていた。

国連軍から派遣されたカウンセラーから何時までも悲しみに暮れるのは良くないと、何度も指導され、

 ようやく心が立ち直りかけ、今は月に一回会いに行くようになっていた。



沈黙がどれだけ続いただろうか。

暫くしてシンジは、手にしていた白磁のカップをテーブルに静かに戻した。

「…そうですか。」

夫人の想いも分かる。

失った悲しみは少しずつではあるが、時間が癒してくれるだろう。

だが、自分たちを見れば、その度にそれも元に戻ってしまう。

だから、来るな、と。

「…ごめんなさい。」

マナの口からポツリ、と言葉が零れた。

夫人は、少女を見る。

マナは、紅茶の紅色を見ていた瞳を持ち上げて、真っ直ぐに夫人の目を見た。

「別に謝ってほしい訳じゃないのよ…」

夫人は大きく首を横に振った。

自分だけではなく、彼らも悲しい思いをしているのだって良く分かる。

息子だって、彼らがいつまでも悲しい思いでいるのは、本意ではないだろう。

だから、自分が悪者になってでも、彼らが前に進めるように。

そう思って、来るな、と強い口調で言ったのだ。

「分かっています。 …私が言いたいのは、そうじゃなくて。 …違うんです。」

マナの言葉に、夫人の意識が現実に戻った。

母親の優しい気遣いを、少女はちゃんと理解しているのだ。 そして、言葉を紡ぐ。

「来るなと言われても。 家族のような仲間だから。

 何度でもここに来ます。 たぶん、みんなも。

 …お母様にとっては迷惑でしょうけれど。」

凪のような海。それが今のマナの心模様だった。

だから、少女は澄み切った笑顔で彼の母に言えたのだ。

「…そう。」

それを見た夫人は、”原因となった彼女”が立ち直っているのを見た、いや感じた。

「……あなたが、過去ではなくちゃんと前を向いていて、

 それでも… たまに息子のことを思い出してくれるのなら、私も嬉しいわ。」

「あ… はいっ!」

ボイルシェフ夫人は、マナに初めて穏やかな笑顔になれた。





GAME。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………実験棟の更衣室へ向かう廊下。



「アスカ、歩きながらなんて危ないよ…」

右側の少女に、シンジは窘めるような声を出す。

「はいはい。」

言われたアスカは、ぞんざいでテキトーな相槌を返す。

シンジの雰囲気がなんとなく違う。 レイもだ。

紅茶色の髪の少女は、少年の声を聞き流しながら、そんなことを感じていた。

彼女の青い瞳は、手元のゲーム画面から動くことはない。 今は、大事な一戦の最中である。

(そういえば、マナ… ずいぶんすっきりした顔だったな…)

彼らだけではない。 マナも最近どこかおかしかった。


……今朝、2−Aの教室で見たマナは、何か吹っ切れたかのように、いつも以上に元気だった。


シンジたちがどこに行っていたのか知らなかったが、

 アタシが本部待機を命令された最終日、こいつらが帰ってきたら、いつもの雰囲気に戻っているじゃない。

どこに行ってたんだろう…

「アスカ…」

「うっさい、話しかけないでよ。 とりゃ!」

「ほら、壁にぶつかるって…」

「…はいはい。 危なかったら、今みたいにアンタが教えてくれればいいのよ… って、おりゃ!!」

人間、浮き沈みがあるのが普通だ。 コイツらも人間だったのね、と結論を出した彼女の指が激しく動く。


……ボス戦なのか? 画面いっぱいの大きな敵が更に凶悪な姿に変身していく。


「碇君…」

シンジを中心に歩くもう一人の美少女。 彼の左側を歩いているレイが俯き加減に彼を呼んだ。

「ん?」

「私も、あのゲーム、しようかな…」

え? レイがそんなものに?

シンジは意外感から少しだけ驚いたが、かと言って特に反対する理由もない。

「へー …綾波もやってみたいの?」

帰りにショッピングもいいね… と考え始めた少年に、蒼銀の少女は少しだけ頬を赤らめて答えた。

「…ああいう風にすれば、碇君が私を見て、心配してくれる…」

「え…」

それは目的と手段が違うだろう…

色々突っ込みたいシンジであった。

そんなほのぼのとした会話の最中、傍らで夢中になっていたアスカが、あ…と声と顔を上げた。

「電池がなくなった…」

正確に言うとバッテリーの残量が少なくなり、それを電源ランプが赤色に点滅して教えてくれたようだ。

「私、ちょっとあっちに寄ってから行くから、アンタら先に行ってていいわ。」

返事も待たず、アスカは長い髪を揺らして曲がり角の先に行ってしまった。



………プシュ、と扉が開く。



アスカがカバンをごそごそと探ると、携帯ゲーム機PGM4の充電ケーブルを取り出した。

彼女が無断で入った実験管制室は、準備も最終段階を迎えていっそうの喧騒に包まれている。

ショートカットの女性を見つけると、少女は、同級生に対するような気軽な口調で話かけた。

「ねえねえ、マヤ、ちょっといい?」

「え? あ、アスカちゃん。」

マヤと呼ばれた女性は忙しい準備中ではあったが、いやな顔をせず少しだけ笑顔を作ってから振り返る。


……今日は、先日中断したダミープラグの再試験の日だった。


「どうしたの?」

ここに来る用はないはず、というニュアンスは残念ながらアスカに通じなかった。

「これ、充電させて。」

少女が手にしているのは、充電ケーブルを兼ねたネットケーブルのようだ。


……それを確認したショートカットの女性は、少し困った顔になる。


「許可のない電子端末は繋げちゃダメって規則があるの、だから…」

それを遮って、アスカはゲーム機をマヤに向ける。

「あ〜、ウィルスとかは心配しなくていいわ。 これネットに繋げたことないし…」

万が一ウィルスに感染していてもMAGIにとってそれは何の問題にもならない。

独自に展開するファイアーウォールはリアルタイムに更新されているし、防壁も多角的かつ積層的だ。

たかがゲーム機の充電くらいで問題になるはずもない。

ね、お願い! と手を合わせるアスカを見たマヤはキョロキョロと周りを見て、しょうがないと手を出した。

「分かったわ。 じゃ、早く実験準備してきてね。」

「さんきゅ、マヤ!」

にっこりと笑うアスカを見て、マヤはこれ位であの笑顔を見られたのなら安い物だと思った。

一応、センパイに確認しておこう。

「赤木センパイ、よろしいですか?」

あと20分後に現れるだろう技術開発部長は自室で資料の最終チェックを行っていた。

『どうしたの、マヤ?』

「アスカちゃんから、お願いされちゃいまして…」

事と次第を聞いたリツコは、MAGIのシステムに何ら影響はないと判断した。

世界最高のスパコンと子供のゲーム機ではレベルなど比べるまでもない。

情報漏えいやウィルス対策のお題目があったとしても、そんな心配などされる方が余程心外である。

赤木リツコは、快く快諾した。

一応、MAGIシステムに繋ぐ前にスタンドアローンの機器でチェックしなさい、という指示はしたが。

マヤが上司の指示のもと、そのゲーム機をチェックしたが、何の問題も現れなかった。

インストールされていたソフト、保存されているファイルをチェックした後、ハードのチェックも行う。

充電中を示すランプが灯るのを見たマヤは、そのまま実験準備に戻った。

”プシュ”

その音と共に、金髪の女性が実験管制室に現れたのは、きっかり20分後だった。

「あ、センパイ…」

「? どうしたの?」

「さっきのお話ですけれど、

 この端末で充電できるみたいですので、MAGIの端末には繋がなくて大丈夫でした。」

チェック用のPCと赤いゲーム機が繋がっている。

アスカの持ってきたゲーム機は充電を示しているのだろうか、電源ランプがオレンジ色に点滅している。

「…そう。 それなら、それでいいわ。」

…で、とリツコは実験の準備状況に目をやった。

「現在、チルドレンたちはプラグスーツを着用し、待機しています。」

「結構。」

”プシュ!”

「どーお? 準備終わった?」

気軽な調子はいつもの通り。 片手をあげて入室してきたのは、作戦立案責任者の葛城ミサトだった。

「はい、葛城さん。 予定どおり1400より試験開始です。 こちらが今日の手順書になります。」

真面目に応対したのは、彼女の直接的な部下である日向マコトだ。

「ありがと。」

ミサトは、受け取った書類の束をパラパラと適当に捲りながら、リツコの横に立った。

「何にしても、シンジ君たちが戻ってくるまで使徒が来なくてよかったわー」

これは何もアスカ一人では頼りない、

 という事ではなく作戦立案にあたっては3機のエヴァを基本にしているからである。

「……そうね。」

リツコの返事が遅れたのは、ミサトとはまるで違うことを考えていたからだ。

使徒が来ない。 違う、もう来ているのかもしれない。 そう考えて既に2週間。

時間は止まらないし、仕事も止められない。

今日は、先日のダミープラグの実験と、さらにチルドレン3人によるハーモニクスの同時測定試験だった。

時間のかかるダミーシステムの試験の前に、LCLで満たした測定室に入ってもらう。

一辺12mの正方形の箱が実験フロアに用意されている。

『時間です。 チルドレンは移動を開始してください。』

女性アナウンスがスピーカーを震わせる。

実験フロアに現れたプラグスーツ姿の3人が、控えていた技術スタッフからマスクを受け取るのが見える。

この部屋はフロアを見下ろすような形で大きな窓が設えてあった。

『チルドレンは、マスクを着用し測定室に入室してください。』

アスカは、これを見て先日の実験説明会を思い出してしまった。



………第32会議室。



見たことのないフルフェイスのヘルメットが手渡される。

「なに、これ?」

ここは、これから実験内容を説明されるブリーフィングルーム。

アスカは渡されたヘルメットを観察した。

それは一般的なバイク用の物とは違い、顎の部分も一体化したバイザーになっている。

バイザーもコーティング処理されていない透明なものだったから、

 これなら被っても相手の顔が見ることができるだろう。

「それを被って実験をするのよ。」

「どうして?」

LCLならこんな呼吸用のマスクはいらないはずだ。

「あら〜アスカったらシンジ君とそんな仲だったなんて、お姉さん知らなかったわぁ〜」

にやっと笑うミサト。

「へ?」

何のことだろう、アスカは目を瞬かせた。

「た・い・え・き♪」

「は?」


……本気で理解できない顔の思春期の少女に、汚れた大人の女性は更に目を細めた。


「じ・か、でなんて。 濃厚な体液の交換、しちゃうでしょ〜 いいの?」

生々しい物言いに、アスカの顔が赤くなる。

「な、な、な…」

フリーズする明晰な頭脳。 目はきょろきょろと動き。 捕えたのは同年齢の少女だった。

「ふぁ、ファーストは そ、そ、その…」

レイは、ポッと顔を赤らめて、下を向いたが嬉しそうな表情になる。

「私は碇君のならばよろ…」

それを見たアスカは一瞬で自我を取り戻し、素早く手でストップさせた。

「あ〜もういい。 だいたい言いたいこと分かるから。」

実際、エントリープラグの下端部と上端部にはLCL注入口があり、

 排出口はインテリアの下側に設けられている。

また、浄化装置によって常にパイロットに向けて上下から挟むようにLCLが対流しており、

 それらはインテリア下側の排出口へと流れていくので、

  よほど密着しない限り、酸素交換したLCLが触れることはない。

今回は特殊な実験室であるBOXを使用するが、基本的には通常のプラグと同じ思想で造られているので、

 体液交換などという心配は杞憂なのだが、パイロットの精神衛生上を考慮してヘルメットの採用となった。

「はいはい、時間がないからその辺にして頂戴。」

リツコは手をパンパンと叩いて、じろりとミサトを見た。

「…ミサト、邪魔するなら出て行ってもらって結構よ?」

「たはは、ごめんごめん。 もう邪魔しないから。」

「では、改めて今回の実験の趣旨を説明します。」

冷静なリツコの声を聞いても、紅茶色の髪の少女は、自分の動悸を上手く制御する事は出来なかった。



………再び、プリブノーボックス実験エリア。



思い出して顔が紅潮するのが分かる。

体液の交換… ごくっ…

努めて平静を装い、シンジに顔を見られないように素早くヘルメットを被った。

『マスクっていうか、ヘルメットよねー これって。』

何かを誤魔化すかのように、唐突ではあるがアスカの感想ともつかない言葉が少年の耳に流れる。

『んで、これ終わったら、またクリーニングされるわけね… 溜息が出るわ。』

小さな頃から訓練、実験をこなしているこの少女にとっても、あのクリーニングはいただけないらしい。

「ほら、アスカ、早く入ってよ。」

『はいはい。』

文句を言いながらも部屋に足を入れる。

3人が入ってそれぞれ呼吸用の送気ケーブルを接続した。

並行して扉が閉められ、シンジたちが合図を送ると、密閉された空間にオレンジ色の液体が注ぎ込まれる。


……同時に閉塞された部屋の空気が強制的に排出されていく。


シンジたちはイスも何もない空間で、足元から液体が満ちていくのを静かに待った。

『LCL、規定圧力値をクリア。』

3人が、ゆっくりと床を離れていく。

『LCL循環量を調整。 バランス取ります。 調整終了。』

満たして終了ではなく、循環させる液体の流れがある。

床側から天井に向けてゆったりとしてはいるが、現在、その圧力・流れは重力と均衡していた。

つまり、シンジたちは測定室の高さの半分、6mほどの位置で浮かんでいた。

『ハーモニクスセンサーを起動させます。』

横、縦と測定用レーザーがシンジたちのプラグスーツを舐めるように触っていく。

リアルタイムで処理したCGでモデリングされた3人の姿が実験管制室のモニターに映りだす。

『眩しいわね…』

「そうだね。」

『…綾波三佐、碇二佐に触れないように。』

シンジの手を取ろうとしたレイの手がビクッと震えて止まる。

『…規定の距離を保ってください。』

綾波レイは、指示のとおり渋々と左側に身体を泳がせた。

『実験の時くらい、少しは我慢なさいよねー』

呆れたようなアスカの声にシンジは苦笑する。

先ほどから、少年の意識がアスカに向いているような気がして、レイは少し構って欲しかっただけなのだが。

しかし、そんなことを正直に言って彼を困らせる少女ではなかった。

黙しているレイに、シンジは波動を流してあげた。

『あ…』

ふんわりとした温かで心地良い波動に包まれる。

その感覚に思わず声が漏れた。

『どうしたの? 綾波三佐?』

リツコの声に、レイは抑揚なく答えるのに、少しの努力が必要だった。

『…問題ありません。』

『では、準備が整うまで、そのまま待機してください。』

男性の声を最後に、しばらく放置されるチルドレンたちであった。

『…ねー、シンジってさ、』

またセカンドチルドレンの会話が始まる。 どうして碇君に話しかけるの?

レイは、彼の波動を感じたまま、意識を声に向けた。

『うん?』

『ゲームとかやんないの?』

『ゲーム?』

セカンドインパクトを経験した世界は、それ以前とは比べようがないほどの地域格差を生んでいる。

生き延びることで精いっぱいの国も多い。

そのなかで日本は、数少ない豊かな国になっていた。

嗜好品も潤沢とはいえないが流通しており、社会的文明文化も依然として失われていない。

比べるまでもないくらい数は少ないが、毎月新しいゲームはリリースされている。

だから、大半の子供はゲームを変わらず楽しんでいる。

シンジのクラスメートだって、それは変わらなかった。 ちなみに、ケンスケはマニアの域であったが。

『そ、ゲームよ、ゲーム。』

『うーん。 今はやっていないよ。』

『どうしてよ、暇つぶしにはちょうどいいじゃない。』

『暇つぶしか。 その割に、さっきは随分熱心だったんじゃないかな? どんなゲームをしているの?』

『今やってんのは、アクションRPGよ。』

それがね… と説明し始めたアスカの声がマスクの中に響く。

実験の準備はまだ終わらないのだろうか? レイはそんなことを考えていた。

ゲームには興味がない。 ゲーム… そういえば…

レイの脳裏に幼女が浮かぶ。

お兄ちゃんに買ってもらったんだ〜 と笑顔で見せてくれたのを思い出す。

またセカンドチルドレンの声が聞こえる…

『…で、今ドラゴンを退治しようとしているんだけれど、これが結構ムズイのよねー』

「へぇ。」

アスカの話を聞きながら、シンジの脳裏に幼女が過った。

そうそう… リリスから同じようなことを聞いていた気がする。

ここだけレベルが段違いじゃないっ! と文句を言っていたっけ…

『もしかして、それ闇夜の竜ってやつのこと?』

リリスの叫びをリプレイしていたシンジは、何気なく聞いてみた。

『なーんだ。 知ってんじゃん、シンジ。』

『やっている子、いるからね。』

『へー』

『お待たせしました。 測定準備完了。 測定します…』

『アスカ、測定中はおしゃべりしちゃあ、ダメよん♪』

電荷されたLCLにウィンドウが広がり、そこにミサトが映り込んだ。

『はいはい。 わーってるわよ。』

プロセスはオートで必要なデータを抽出していく。

ミサトとアスカの遣り取りを聞きながら、リツコはマヤのモニターを注視していた。

シンジとレイはダブルエントリーまでしているのだから、二人のデータはストックされている。

アスカとは、どうなのだろうか?

この実験はEVA独立中隊の二人とアスカとそれぞれの相互データを採取するのが目的だった。

ダミーシステムのコアとなるデータに使用するのがレイのものでもシンジのものでも、

 乗り込むパイロットとの親和性が問われるのは違いがない。

シンジとアスカ、レイとアスカを比較すればいい比較データが採取できるだろう、

 と言うのがリツコ率いる技術開発部の期待しているところだった。

それに… 土井マサルと霧島マナたち戦自研はここで脳波コントロールの技術を確立しようとしている。

全てのデータを渡すことは出来ないだろうが、少なくない情報は提供できる。

そんな思惟にふけっていたリツコは、後輩の声で取りとめのない思考を中断した。

「データ、モニターに出します。」

マヤがコンソールを操作すると、計測したばかりのデータが羅列される。

それは数字が出鱈目に並んだかのようなもので、一般の人間が見ても理解できるものではなかった。

しかし、E計画を担当するリツコには、その数字だけである程度を理解する事が出来ていた。

「面白いわね…」

シンジとアスカの親和性は37%といったところ。

シンジとレイは言わずもがな。

レイとアスカは…  14%だった。

「意外ですね…」

マヤも数値を見て、小首を傾げた。

彼女から見ても、普段の彼らならもう少し良い数値が出そうなもの、と期待していたのに。

「どうなの?」

ミサトもマヤのモニターを覗くが、解説が必要な様子だ。

「そうね…」

リツコは、そう言って視線を少年たちが入っているBOXに目をやって続けた。

「レイちゃんとアスカは、見かけよりも良好な関係ではない、と言ったところね。」

「ふーん… やっぱ、そうなの。 じゃ、シンジ君とは?」

リツコはミサトを見て、言葉を慎重に選んで答えた。

「…実戦で使おうとすれば、シンジ君のデータ、ということになるわね。」

「それは実戦レベルと考えていいのね?」

「このままでは無理ね。 より詳細にデータを解析し、さらにダミーシステムを開発させて、よ。」

「…そう。 でも開発の目処がたったってことは、明るい情報じゃない。」

「そうね。」

リツコはマヤに言う。

「マヤ、初期設定を維持したまま、ステージを進めて頂戴。」

「はい、それでは続けます。」

ショートカットの女性が素早くキーを操作する。

『初期測定終了。 このまま第2ステージへ移行。 チルドレン、待機継続。』

男性スタッフがアナウンスを流す。


……リツコは、ミサトの評価を改めた。


シンジか、レイのデータを元にダミーシステムが開発されている事を知っていたのだ。

実戦で使用するなら、シンジのデータ。

これを聞いて、違和感なく頷いた彼女を横目で観察する。

やはり、ミサトだったのね。

最近、上位データバンクへアクセスしているのは…

(私たちの敵になるのかしら… いえ、彼がそれを看過するわけないか…)

無駄なことを。 この戦争は彼の掌の上なのだ。

(ミサト… あなたの使徒への復讐はどういう結末になるのかしらね?)

『第2ステージ、進捗率5%、モードEは待機へシフト。』

「順調ね。」

「このまま何もなければ、ハーモニクスの測定は40分で終わるわ。」

ミサトの声に、リツコは一つ頷いて答えた。


……順調に実験が進んでいく中、小さな画面が点灯したことに気付いた人間は一人としていなかった。


「ん? …モードE、待機だ。」

その時、マヤの隣の男が苛立たしげな声を上げた。

その声に、リツコもミサトもマヤも自然と視線をやった。

「どうしたんですか?」

マヤが声をかけると、ベテランの技術スタッフは、顔をモニターにやったまま答えた。

「チルドレンのハーモニクスを測定するセンサー制御用のソフトが待機しないんです。」

「切り替えができないのですか?」

「はい。 モードEはチルドレンの脳波を測定するのに特化したもので、

 この実験では、始めと終わりにしか使わないんですけれど。」

「ヘッドセットのモードを制御するソフトってこと?」

ミサトがリツコに訊く。

「ええ。 EVAとのシンクロにも使用するけれど、

 どちらかと言うと脳波やプラグスーツの情報を送受信するための役割の方が強いわね。」

「ヘッドセット付けてヘルメットなんて… 痛そうね…」

「ヘルメットに内蔵しているわよ。 当り前でしょう?」

「う… そりもそっか。」

リツコの呆れに、ばつの悪そうな顔になるミサト。

「赤木博士、チルドレンの脳波に変調が。」

そんな時、女性スタッフが怪訝な声を上げた。

「意識レベルが下がります。 脳波、計測周波数が大幅に低下。 α波からθ波へ。 現在、9…5Hz!」

「碇二佐、聞こえますか?」

『……すぅ、すぅ…』

スピーカーから聞こえてくるのは、小さな呼吸音。 しかし、これは…

「寝てる?」

訝しげなミサトの表情を見ることなく、リツコはモニターを注視し続けた。

「モードEのソフトを強制解除。 強制アクセス及びタスクの強制遮断を実行して。」

「はいっ!」

CGから実写にモニターを切り替えても、ヘルメットのせいで彼らの表情を窺い知ることは出来ない。

マヤと男性スタッフがキーを操作するが、事態は収束することはなく、さらに悪化していった。

”ブツッ!”

実験管制室の全ての電源が突然と落ちた。

そして、非常用の赤色灯が点灯する。

全てのモニターが消え、不気味な静寂がこの部屋を包み込む。

その中で、唯一光を放っている物が目に付いた。

「なに?」

リツコが訝しげに見たのは、アスカの私物。

しかし、それは一瞬だった。

”ブゥン!

電源が回復したのか、実験管制室のモニターが起動したようだ。

その割には、照明が点かなかったが。

マヤがシステムにログオンしようと画面を見ると、異変に気がついた。

「センパイ!」

リツコが見ると、MAGIからネットワークを遮断されているようだ。

「これは!?」

専門外なので、ミサトはただの質問者にしかならなかった。



………発令所。



”ビィーッ!!”

唐突な音と共に、発令所の立体モニターが警報の赤色で埋め尽くされる。

最上段オペレーター席では、反射的な速度で青葉シゲルが端末を叩いていた。

「何なんだ!?」

状況を検索してモニターに表示されたのは、クラッキングの警報だった。

「クラック? 誰だ、NERVと喧嘩しようってのは?」

すぐさまモードを切り替えて対処し始める。

下段のオペレーターたちもマニュアルに沿って侵入者と侵入ルートの特定をするべく動いていた。

「どうした?」

たまたまだろうが、総司令官席にいたゲンドウが口を開いた。

「はい、現在、ハッキングを受けています。 侵入ルートを特定中。」

「警報を止めろ。 日本政府及び委員会には、探知機のミスと報告しておけ。 …赤木博士はどうした?」

「はい、スケジュールでは、ダミーシステムに伴う実験中です。」

「実験を中止させて、これに当たるよう通達。」

「了解。」

青葉が受話器を持ち上げた。



………実験管制室。



「発令所より通達。 現在、NERVはハッキングを受けているそうです。

 赤木博士、伊吹、日向は発令所に戻るように、と。」

受話器を置いたマヤに、リツコは大きく肩を落とした。

「それどころじゃないのに…」

現在、実験管制室は、技術開発部の倉庫から予備情報端末を運び入れているところだった。

据え付けのコンソールは全て使用できないのである。

「…碇司令への直通回線、開いて頂戴。」

「はい。」

マヤから受話器を受け取ったリツコは、チルドレンと実験室の現状を説明した。

「申し訳ありませんが、こちらの対処を最優先とさせていただきます。」

『確認するが…』

「はい。 チルドレンは強制的な睡眠状態と推測されます。 バイタルに変化はありません。」

『人間の脳波を強制的に変化させることは可能なのか?』

「そのような機械ではありませんが、測定ソフトのトラブルから一連の事態が発生したと思われますわ。」

『…私もそちらに行こう。』

受話器を置いたリツコは、仮設モニターに映るチルドレンたちを見た。

三人は、LCLにたゆたい動くことはなかった。

受話器を置いたリツコに、ミサトが確認の声を向ける。

「寝てるってこと?」

「意識はない、と言った方が正しいわね。」

「逆に覚醒させられないの?」

「…まずは何が起きているのか正確に把握することが先決ね。」

「センパイ、これを見てください。」

マヤの声に、リツコの目が動く。

そのモニターを見た金髪の女性は、事態の重大さに思わず眩暈を覚えた。



………荒野。



荒れた平野。 そう表現する他ない光景が、目の前に広がっている。

現実感のない光景だったが、いくら瞬きしても消えることはなかった。

自分に目をやると、プラグスーツではなく砂埃に汚れたマントを羽織っている。

ますます混乱した。

(ここ、どこ?)

白銀色の髪が風に踊る。 バタバタと音を立てるマント。

首を巡らせて周りを見るが、少年の助けになる情報はなかった。

シンジは、自然と腰を下して状況を整理し始めた。

自分は先ほどまでNERV本部、プリブノーボックス上部の実験室にいたはず。

「う、う〜ん…」

そんな時、少し離れた木陰から人の声が聞こえた。

反射的に立ち上がったシンジは、声の方へ目を向けた。

「うー… ? どこよ、ここ…」

声の主は、少女だった。

彼女は、目をゴシゴシとしながら上半身を起こし、腕を天に突き出すように伸びをする。

それは、前史ではよく見た昼寝から目覚めた時の少女の仕草だった。

樹木の影が濃いので、ここからはシルエットしか見えなかったが、長髪が風に流されているのは見えた。

少年と同じように辺りを確認しているのだろう、キョロキョロと頭を振るのに合わせて髪が踊っている。

シンジは、小走りに彼女に近づいて行った。

寝起きなんて… ますます異常だ。 そう感じながら、少年は少女に声をかけた。

「アスカ?」

「…シンジ?」

姿恰好が見慣れないからだろう、お互いに疑問形の言葉になっていた。

アスカが身に纏っているのは、シンジと同じマント。

色合いはシンジがグレーのようだったのに対して、彼女のは煤けたオレンジ色だった。

「大丈夫?」

手を差し出しながらアスカを見たシンジは、彼女が怪我をして意識を失っていたわけではないと理解できた。

彼の手を見た少女は、紅茶色の髪を掻き上げた手でそれを掴み、立ち上がると改めて周りを見渡した。

「どこよ、ここ。」

「さあ…」

何の情報もない少年は、ただ首を捻るだけだった。

「ファーストは?」

もちろん、シンジは、いの一番に彼女の安否を確認している。

彼女は、変わらず彼の横にいた。

「大丈夫だと思うけれど、ここにはいないみたいだ。」

波動が使えた事は、望外の幸運と言えた。

隣にいるのに、ここにはいない。

つまり、肉体と意識が切り離されている。

ここは一種の精神的な世界なのだろう。

現実世界にのみ影響を与えた自分の波動を鑑みて、シンジはそう結論していた。

アスカの質問に、「さぁ」と答えたのはここがどこなのか、本当に分からないからだ。

「NERV、じゃないわよね。」

「取り敢えず、あの丘を登ってみよう。 ここにいても事態は好転しない。」

「…それもそうね。」

シンジは、さらにもう一つ気付いていた。

(イロウルが目覚めた…)

これが使徒の攻撃なのか?

予想外、想定外の事態に答えはまだ見つけられなかった。



………NERV。



最高司令官がプリブノーボックス上部の実験室に来て、すでに1時間経過していた。

ハッキングを仕掛けてきた侵入者は、この部屋に閉じ込められていた。

閉じ込められた、というのは即物的な表現であるが、事実、ここから動いていない。

マヤを始めとした技術開発部のスタッフによって、ここの端末も半分は使用できるように復旧させている。

「碇司令、中央作戦本部として上申します。 これを破壊しましょう。」

「却下します。 技術開発部は賛成できません。」

大人の女性が睨みあっているその中心部には、特殊樹脂ケースを被せた赤いゲーム機があった。


……侵入者の痕跡と同時に一瞬ではあったが、パターンブルーが検出されたのだ。


スタンドアローンの情報端末に接続しただけのゲーム機から、である。

即時、破壊を提案したミサトだったが、自身の拳銃を使用する愚は犯さなかった。

金髪の女性はミサトの視線を受けながら、彼女を観察していた。

発砲を実行していたら、ATフィールドに弾かれた跳弾により、この部屋の流血は回避できなかっただろし、

 なにより使徒がどういう行動に移ったか分かったものじゃなかった。

敵と見れば即時発砲すると認識していたのに。 意外な発見だわ。

…というよりも、未知の物体と化してしまったゲーム機を恐れ、近付けなかったのが正解かもしれない。

冷静な仮面を被り直したリツコは、抑揚なく言葉を続けた。

「現在、このゲーム機からパワーラインを経由して、

 チルドレンたちとリンクラインが構築されているのを確認しています。」

イスに座って話を聞いているゲンドウは、モニターに目をやったまま続きを促した。

「三人の意識はこのリンクラインを経由し、秘匿されたと考えられます。」

「使徒に自我を攫われた、と言うのか?」

「そう推測します。」

透明な樹脂ケースのゲーム機を睨むリツコの言葉に、ミサトの瞳が大きくなった。

「ですから、これの単純な物理的破壊は、同時にチルドレンの自我を失うことになると言えます。

 技術開発部はMAGIによるカウンターと解析を提案します。」

ゲンドウは唇を結んだまま小さく唸った。

隣に立つ冬月コウゾウは、腰に手をやったままリツコに問うた。

「…赤木博士、使徒の本体は?」

「はい、推測ですが、おそらく今回の使徒は電子状若しくは量子状なのかもしれません。」

「つまり、このオモチャを破壊しても意味がない、か。」

「はい。 暗号データ化されたと思われるチルドレンの自我を取り戻し、使徒を電子的に破壊する。

 これが今回の使徒に有効と思われる作戦だと上申します。」

リツコの答えは明瞭ではあったが、表情はどこまでも暗かった。



………丘。



「ふう…」

小高い丘を登り切った。

横に並んでいた少女は、少年の一歩前に出て周辺の地形というよりも目の前に広がる風景に見入っている。

遠くから見た時にはそれほど大した丘に見えなかったが、

 実際に登ってみると、丘と言うよりも小山と表現した方がよい高さがあった。

「……」

アスカと同じように無言で景色を観察するように見ていたシンジは、徐に腕を組んだ。

(僕の力で探るか…)

そう思って瞳を閉じる。

額の中心に意識を集中させて…  …みたが。

(あ、あれ?)

ぼんやりとしていて良く理解できない。 何かに邪魔されているような…

この世界に上手く干渉できない…

「シンジ、シンジ!」

押し黙ったままの少年の腕を掴んで、乱暴に呼ぶ。

「あれって道よ! 道! とにかく行くわよ!」

人の痕跡を見付けたアスカは、シンジを置いてさっさと歩きだしてしまう。

「あ、ちょ、ちょっと待ってよ!」

なんとも軽い足取りの少女を見た少年は、そのまま彼女の後ろを追って行った。



………4時間後。



「この街ってさー」

ようやく辿り着いた街は、シンジが知る中でもかなり小さな規模だったが、そのどれにもない特徴があった。

それは、街を一周取り囲む外壁であった。

群生して建てられた家や商店を取り囲むその壁は、まるで外からの敵襲に備えているかのようだった。

先ほど正面の門をくぐった時にいた兵士からは、特に問いただされなかったのは、幸いなのか、何なのか…

「ちょっと、聞いてる?」

「あ、ああ、ゴメン。」

じろりと睨んでくる青い瞳に、シンジは思慮を中断して謝った。

「で、どうしたの?」

「うん、この町ってさ、何か見たことあるような気がすんのよね。」

顎に手をやり、えーと、と唸る紅茶色の髪の少女。

「見たことが?」

「そうなのよ。 まぁ、見たっていうより知っているような…」

「こんな中世風の街を?」

色々な疑問はある。 門番の兵士は、それこそ中世風の姿形であった。

現代ではないのか?

「中世風… そうね…」

まだ、う〜ん、と唸る少女を横目に、シンジは街の様子を目にした。

「ね、チョーバカっぽい推理を聞く気、ある?」

「推理?」

「そ、現状に対する、推理、推察。」

アスカの青い瞳にはふざけた雰囲気はなかった。

シンジは、真剣な表情で頷いた。

「うん、ぜひ。」

「まず、整理すると、アタシ達って、NERV本部で実験していたわよね…」

「うん。」

「で、気が付いたら、こんな状況。」

「うん。」

「着替えた記憶はないのに、プラグスーツじゃなくなっている。」

「うん。」

「さっき見た看板に書かれていた文字は読めなかったけれど、数字は読めたわ。」

「アスカの言うとおり、短い距離の方に歩いてきて正解だったね。」

「そうね。」

シンジの言葉に、アスカは自然と胸を張った。

「日本語が公用語みたいだけれど…」

首をひねるシンジの言葉を聞きながら、アスカは街中心の広場にある噴水を見た。

「やっぱり。」

「?」

少女は、そのまま噴水まで歩いて、改めるように周りを見た。

「私の結論。」

「うん。」

「笑わないでよね…」

睨むように確認する目に、少年は頷く。

「じゃ、改めて…」

一呼吸して、アスカはシンジに言った。



(……なるほど、自我を電子化されたわけだ。)

ここは、どうやらイロウルが用意した世界のようだ。

もちろん、アスカはそこまで言及していない。

彼女が言ったのは、ここは自分が今プレーしているゲームのオープニングにそっくりだということ。

それだけで、シンジはほぼ正確に状況を理解した。

使徒の意図まで理解は出来ないが、この世界が今回の使徒戦の舞台のようだ。

(じゃ、綾波は…?)

今の状態では上手く力が発揮できないが、ぼんやりと彼女を感じる。

つまり、綾波レイもこの世界にいる。 たぶん、無事に。

「ゲームの中なんて、すっごくバカっぽいけれど、そーとしか思えないのよねー」

シンジは思考を切り替えて、隣で呟く少女に意識を向ける。

「ねえ、アスカ?」

「ん?」

「そのゲームって、どういう話? どういうもの?」

「…最後までやってないから、途中までしかわからないわよ。」

構わない、とシンジは彼女に瞳をやった。

「うん、で?」

「え〜と、簡単に言うとアクションRPG。

 人間と魔物が争う物語。 希望の姫を攫われた時から物語はスタート。」

「お姫様が攫われるんだ…」

「なんでも、光の子と呼ばれる巫女で、彼女が成人を迎えて行う儀式が…」

腕を組み説明する少女。

「た、大変だ!! 大変だ!!」

急に広場が騒がしくなった。

見れば町人Aという雰囲気の特徴のない男が走りながら叫んでいる。

「王都にお戻りになった姫様ご一行が魔物に襲われたそうだ!」

さわさわと騒ぐ喧騒が大きくなる。

アスカは小さく嘆息した。

「…ほ〜ら、物語が始まったわ。」

少女の目はいくぶん冷めたものだった。

「ゲーム…」

少年の呟きに、アスカは指差した。

「シンジ、その腰の袋の中見てよ。」

気がつかなかったが、自分のベルトに小さな袋が下がっている。

「…? 銅貨?」

少年の記憶にない貨幣。

「それ20枚あるでしょ?」

数えると、それは正解だった。

「やっぱね〜」

確信する少年と少女。 ここはゲームの世界だと。

「ただし…」

後ろ手に手を組んだアスカに、シンジは真面目な顔で言った。

「え?」

「これは使徒の攻撃だと思った方がいい。」

その言に、アスカはわずかに緊張した。

「使徒? な、なんでよ?」

「先日の事件、忘れたわけじゃないだろ?」

「あ!」

使徒による威力偵察。 その後の動向は一切不明のままとされていた。

使徒はどこかに潜伏してこちらに攻撃する機会を窺っていたのか?

エヴァンゲリオンではなく、直接パイロットに牙をむけたのか?

「そうね。 こんな状況、有り得ないわよね…」

平和そうな街並みが、とたんに嘘臭く感じた。

アスカの瞳が油断なく周りを見た時だった。

「…遅れました。」

唐突な声が背中にかかった。

振り向くと、金髪よりも濃いキャラメル色の髪の女性がいた。

一本の三つ編みに結わえられた髪は腰まである。

不思議なことに、彼女はシンジに向いて、跪いていた。


……それはまるで、中世の騎士が主君に向けて忠誠を宣誓するような姿勢だった。


白銀の少年は、女性を見て戸惑いを覚えた。

これもゲームの演出であろうか?

一方の女性は、興奮と感動、身体を満たす歓喜に打ち震えていた。

これほどの喜びを想像できただろうか? これほどの幸せを得られるなんて!

マスターに実際に会えるなんて! 触れることができるなんて! 直にそのお声を聞けるなんて!

その女性は、顔を上げ、彼の真紅の瞳を静かに見つめてシンジの言葉を待っている。

「えっと…」

少年は、女性の顔を見て、彼女を理解した。

「もしかして… ドーラ?」

「イエス、マスター!」

少年を見詰める彼女のエメラルド色の瞳が、喜びに煌めいていた。

「本当に、ドーラなの!?」

「はいっ!」

非の打ちどころのない満面の笑みだった。

「ちょ、ちょっとなんなのよ? こんなキャラいなかったわよ!?」

アスカは驚きから回復すると、警戒するようにシンジの袖を引っ張った。

「ああ、大丈夫。 彼女は味方だよ。」

「は?」

「たぶん、赤木博士がこの状況に対処し始めたんだと思う。 紹介するね、彼女は…」

NERVの技術開発部が創り上げた対話型の試作AI。

柔軟なネットワークを構築する疑似人格を持つMAGIのさらなる性能向上を目的に開発された極秘ソフト。

それがコードネーム”ドーラ”だった。

「へ〜 そんなもん造ってたの…」

シンジの説明に、アスカは彼女をじろじろと観察した。

彼女が救援に来た味方、というのを理解したようだ。

「んでも、何でシンジがマスターなのよ?」

「そういう風に登録されているからだよ。」

「なんでアタシじゃないのよ!」

また子供っぽいところが出てきた。

「僕の方が、階級が上だからだろ?」

当然。 と言えば、当然か。 自称大人なアスカは、階級を持ち出されて言葉に詰まった。

二人の会話が途切れたタイミングを見て、女性が少年に口を開いた。

「マスター、この世界は閉じています。」

「じゃ、やっぱり…」

シンジの瞳を見て、ドーラは頷いた。

「はい。 ここが決戦場です。」

「綾波は?」

「申し訳ありません。 マスターと同様にロールを得てこの世界におられますが、特定できません。」

「赤木博士と連絡は取れる?」

「リアルタイムの割り込みが精いっぱいです。 申し訳ありませんが…」

「このソフトの改竄点、使徒の場所は?」

「それが…」

ドーラは形の良い眉を寄せた。

「不思議なことなのですが、ソフト上に改竄点が見受けられません。」

「チート、できる?」

「マスターたちのデータに影響が出る可能性があります。」

さらに、とアスカに聞こえないようにドーラが耳元に口を近付けた。

「マスターたちの首に付けられたネックレスですが、イロウルのものです。 モニターされています。」

「モニター?」

「はい。 マスターを消せるように。 これは、レイ様も同様と考えられます。

 赤木博士がカウンターソフトを構築するまで、このゲームに付き合う必要があります。」

「この世界のルールに従うしかないのか…」

まるでキスするように寄り添っていた二人が離れるのを見て、アスカは溜息をついた。

「…なにやっているのよ。 結局助けになるの、そいつ?」

「もちろんだよ。」

なぜ少年がそこまでそのソフトを信頼しているのか、紅茶色の髪の少女には理解できなかった。



………実験管制室。



ゲンドウの機転により、マヤがシンジのカバンからPDAを持ってきたのは、先ほどのことだった。

もちろん、ミサトを始め余計な目に晒さないように、今もマヤの作業着の内ポケットに入ったままだったが。

リツコのPDA経由で事態を把握したドーラの動きは速かった。

常に情報領域が変異しているチルドレンのデータは、追跡できても手を出すことができなかった。

ドーラは、一瞬でチルドレンが捕えられているデータ領域を移動しながら特定し、かつ侵入に成功したのだ。

彼女が一方的にシンジたちを助けようとしなかったのは、ゲンドウの作戦を聞いていたからであった。

現状を維持し、使徒の目的を把握するためにワザと泳がせる、と。

アスカが聞いているので、本当のことは言えなかったが、シンジもドーラを知っているので問題はない。

電子戦では無敵のドーラには余裕がある。

だからこそ、相手の土俵に臨む余裕があった。

実験管制室に、どこか安堵した空気が流れた。


……表面上は、リツコの指示で対使徒戦が進むようでミサトは面白くなさそうであったが。


「独立AI、コードネーム”ドーラ”被験者と接触。」

「碇二佐の周辺情報を取得。 モニターに出します。」

どのような仕組みなのか、正確に理解しているものはここにいないだろう。

ドーラが変換して送信している動画情報は、シンジたちを俯瞰したものだった。

左端のモニターが数瞬、瞬いたと思ったら、見慣れぬ景色が映っていた。


「街?」

ミサトの呟きの答える声はなかった。

「碇二佐との通信は?」

リツコの声に、男性スタッフが首を横に振った。

「高速で移動し続けているデータを捕捉するので手いっぱいです。」

「ドーラシステム、稼働率が上がります。 MAGIの占有率35%へ増加。」

「40%まで許可します。」

メインシステムと直結してしまうのが最大の弱点ではあるが、ドーラシステムの効果は凄まじい。

なにせ、インターフェースが人間対話型である。

従来の複雑な命令分、コマンド、マシン言語から解き放たれているのだ。

「惣流二尉を確認。 碇二佐と同道しているようです。」

「綾波三佐は?」

「不明です。ただ、リンクラインは継続してありますので、推測ではありますが…」

オペレーターが信号をデータ化して、さらに変換を実行しモニターに出力する。

「分かった。 チルドレンの生存は確認できた。 各人は全力を以って今次作戦に尽力せよ。」

ゲンドウは、そう命令すると席を立った。

「碇司令?」

「私は第一発令所に戻る。」

「了解しました。 碇二佐を始めチルドレンは必ず、救出しますわ。」

背を向けたまま、ゲンドウは小さく頷いた。

「…頼む。」

男が扉の先に消えると、ミサトが口を開いた。

「で、どうすんのよ?」

「先ほど説明したように、カウンタープログラムを組むわ。」

人質にされているチルドレンたちを開放してから使徒を仕留める。

リツコは、マヤを呼ぶと今日のために用意していたセキュリティソフトを起動させた。

「ドーラシステムに能力を割かれている分、全てを起動する事は出来ませんが、

 必要に応じ、随時切り替えて対処します。」

オペレートが手動になってしまう分、速度が心配だったがそれは仕方がない。

「では、解析を開始します。」



………王都。



「違和感あるわねー」

片膝をつけたアスカは、思わずそう口に出した。

「だね。」

同じように跪くシンジがいるのは、王の謁見室だった。

最初の街から、1時間の距離だった。

「よくぞ参られた、旅の者たちよ。」

王冠を戴く壮年の男。 立派な髭を生やしている。

「国の最重要人物にアポなく会えるなんて。」

「ま、ゲームだからね。」

「姫を攫ったのは、魔人であった。 既に10組の勇者がこれを追っておる。」

シンジたちが喋っていようが、王は構わずセリフを続けていた。

「彼奴らが去っていったのは北じゃ。 どうか、愛しい我が姫を救い出してくれ。」

王の左手側から使用人だろう男が袋を持ってきた。

「報酬は金貨100000Gである。 これは、前金である。」

シンジの目の前に袋が置かれる。

「では、ゆけ、勇者よ。」

王が腕を出口に向けた。

「この世界の通貨は金貨、銀貨、銅貨なのですね。」

城を出ると、ドーラが袋の中を確認していた。

「そうよ。 銅貨10枚で銀貨1枚。 銀貨10枚で金貨1枚。」

アスカの解説にシンジが確認するように口を開く。

「つまり、銅貨100枚の価値が金貨1枚にあるってことか。」

「まずは装備ね。 北に行くと村があるわ。 そこが最初の目的地よ。」

「ドーラ?」

「はい。」

「インフォメーション出来る?」

「もちろんです。」

「?」

アスカは、二人の遣り取りを不思議そうに見る。

「では。」

キャラメル色の紙の女性がそう言うと、少女の目の前に突然とウィンドウが表示された。

「アスカ、キャラメイキングしよう。」

「ああ、そうね。 っていうか、そうか。 ゲームなのに、リアルっぽくてなんかいやだ。」

アスカは自分のリアルなCGを見てそんな感想を抱いてしまった。

自分の能力、ステータスが数値化されてしまうのは、仕方のないことなのだろうが、

 何となく見透かされているようで気分が悪いと思う少女だった。

それでも他人の情報は気になるようだ。

ふと何気に、シンジのステータスを見てしまう。

「ちょ、なによ、これ?」

レベル表示がおかしい。 ステータスも有り得ない数字だった。


……イロウルは素直にシンジの力を表示したようだ。 神の力を。


シンジは分からないくらい困った顔をして、それからドーラを見た。

「バグかな? ドーラ、修正してくれる?」

「ったく、チート出来ないって言ってたんじゃないの?」

「修正だよ、修正。」

「完了しました。」

丁寧に腰を折った女性。 アスカは、ソフトの癖に良くできているわね、と思いながらステータスを見る。

「だから、おかしいでしょ! 何で数値がMAXなのよ! アタシはレベル1なのに!」

「事実です。」

しれっと答えたドーラに、少女は掴みかかる勢いだった。

「じゃー、私も修正しなさいよ!」

「それも事実です。」

にべもない言葉だった。

「ほら、さっさと話を進めよう。 いつまでもこの世界にいたいわけじゃないだろ?」

シンジは、さっさと自分のジョブを決めてしまう。

それを見たアスカは、慌ててステータス画面を見た。

「ちょっと、アタシ、勇者よ。」

「分かっているよ。 僕はマジックナイトってヤツにした。」

「私はマスターをお助けするヒーラーでございます。」

何とかパーティバランスはとれているようだ。 シンジのはインチキだけれど。

気を取り直したアスカは、武器防具を揃えて王都を後にした。



………解析。



「再度、ハッキングが始まりました!」

「アンチソフト起動!」

「ダメです、破られました。」

ミサトは、この部屋の喧騒をどこか他人事のように見ていた。

使徒によるものだろうこのハッキングが始まって既に30分。

対応しているスタッフには悪いが、どう見ても侵入者の方が強力なようだ。

「Dランクデータサーバに侵入されました!」

「強い!」

また対処ソフトを起動させる。

それと並行して、シンジたちの目の前にモンスターが現れる。

アスカが剣を振るうが、モンスターには効いていないようだ。

シンジが炎を纏った剣を振るうと、怪物は一刀両断され、消えていった。

「だめだ、また破られた!」

なんとなく、ミサトはシンジたちと技術スタッフが対戦しているように見えてしまった。

「そんなわけ、ないか… あっちはゲーム。 こちらは現実だものね…」

作戦立案責任者である女性の声は、残念ながら誰の耳にも届かなかった。



………平原。



「なんでこんな強いのよ!?」

”ガキンッ!”

王都を出て、北へ向かうこと半日。

空気中から突然と怪物が現れるのにも慣れてきた。

塵や黒い粉のようなものが濃くなっていき、怪物の形が作られていくのだ。

何ともファンタジーである。 命が掛かっていなければ、イリュージョンとして楽しめたかもしれない。

しかし、そんな事を感じる余裕のあるシンジとは違い、アスカは余裕がなさそうだ。

身体を激しく動かしながら、まだ文句を言っている。

「こんなの序盤の敵じゃないわよ!」

”ガキンッ!”

勇者アスカの振るう凡庸な剣は、マントヒヒのような敵に通じていない。

シンジが右手の剣を構え、刃に添えた左手に力を込める。

パリパリッと小さな雷が刀身に宿る。

「ふんっ!」

タイミングを計り、少年が雷剣を無造作に薙ぐ。

それは、いとも容易くモンスターの鋼鉄のような皮膚を破り、剛毛に覆われた腹部を切り裂く。

黒い血を噴き上げ暴れるように倒れると、それは今までの敵同様、霧のように霧散していった。

「はー、はー…」

荒く息を整えるアスカの言うには、序盤はもっと小さくかわいらしい敵だそうだ。

間違えてもこんな巨大で凶悪な怪物はうろついていないはず、だと。

しかし、現実ではない、ここの現実には最初からこのような怪物が発生していた。

「納得いかないわ。 ま、お陰で経験値が入って一気にレベルが上がるからいいけどね。」

ステータスを確認するアスカの横から、それを見ると確かに彼女のレベルは飛躍的に上がっているようだ。

「レベル12か。」

少年の声は決して大きくなかったが、確りアスカの耳に届いていた。

「なによ、インチキシンジ?」

半眼、というよりもジト目で睨まれたシンジは肩を落とす。

「…はぁ。」

現実でもアスカはシンジに勝てるレベルではない。 ゲームという空間だからより意識しているのだろうか。

それともヒロイズムだろうか…

なんでもいいや。 とアスカのことを意識の外にやったシンジは、歩き出した。

(なんにしても…)

さっさとレイと合流し、この世界から脱しなければ。

人里を離れたからか、怪物の出現率が上がったような気がする。



………部屋。



彼女はいた。

しかし、身動きが取れなかった。

手には枷を嵌められており、足には鎖が付いている。

ここはどこだろう? そもそも…

「ワタシ、だれ?」

ぼーとする頭。 手足も痺れているように、強張っている。

何となく、薬を使われた跡のように感じる。

そんな知識があった。 記憶はないのに…

この部屋には窓がない。 調度品の類すらない。 自分がいるベッドだけだ。

だから、時間が分からない。 今が昼なのか、夜なのか…

霞みがかった頭が重い。

”コンコン"

唯一の出入り口である木造のドアからノックの音がした。

”コンコン”

「…なに?」

”カチャリ…”

ドアが開いて入ってきたのは、一人の青年だった。

紫色のスーツに赤いネクタイ。

紫は上品な色合いのハズだが、この男の趣味がいいとは思えなかった。

視線を上げて顔を見る。 男の顔から判断すると、歳は20代後半だろうか…

「こんにちわ。」

男のレンズをかけた左目が少女を捉える。

声が気に入らない。 いやらしい目も気に入らない。 上品ぶっているようだが、所作に優雅さがない。

自分にとってこの男は一体何だろうか?

親兄弟だというなら、いやだった。 もしも婚姻を結ぶ相手だとしたら絶望する。

自分の着用している服から判断するに、ワタシは貧乏ではないのだろう。

この光沢と肌触りは、どう見ても最高級のシルクのドレスだ。 

「…こんにちわ、初めまして。」

「なに?」

男の恭しい挨拶に、少女の返した言葉はとても短い。

「手枷、足枷は、直ぐにお取りします。

 それはあなたの立場を理解していただくのに着けさせたものですから。」

それが原因で、彼女の気が悪いのだろう。 男はそう判断したようだ。

「立場?」

「はい。 あなたの立場です。 あなたは人類の希望であり、我々の絶望でもあります。」

「?」

「光の巫女。 あなたの力が覚醒すれば、我々はこの世界に存在できなくなる。」

「あなた、何を言っているの?」

「そう。 我々はこの世界を支配するべく魔界より派遣された魔族です。」

男は大きく腕を広げた。

少女の問いかけなど、聞いていない。

「魔界? 魔族?」

「残念ながら、今の我々にあなたを傷付ける手段はない。」

蒼銀の髪の少女は、男の言葉に目を細めた。

「しかし。 あなたの血はここで絶えるのです。 死ぬまでここに幽閉されるのですから。」

ドアから使用人のような女性が少女の手枷、足枷を外した。

「この城の中だけの自由を満喫してなさい。 死ぬまでね。」

ははは…と男は笑いながら部屋を辞していった。

「城の中?」

「ワタシ、どうすればいいの?」

少女は、自分の記憶を呼び戻そうと、深紅色の瞳を閉じた。



………宿屋。



「なんで、相部屋なのよ!!」

キレのある少女の突っ込み。

ニコニコとした笑みを浮かべるのは、キャラメル色の髪の女性。

少年は(青年に見えるが…)苦笑していた。

一室に、ベッドが四つ四隅に並んでいる。 それが、彼らにあてがわれた部屋だった。

窓際のベッドに荷物を置いたら、アスカに投げられた。

「あんたは廊下側よ。 対角線上の! 分かったわね!」

「はいはい。」

ここは、最初の目的地とした村である。 名は何と言っただろうか…

「マスター、まずは湯浴みにて疲労を回復なされては…」

「そうだね。 そうするよ。」

宿屋の主人に言われた夕餉の時間まで、まだある。

シンジは、荷物入れに、と買ったリュック状の袋から布を出した。

「まさか…」

あることに気が付いたアスカは、ダッと駆けて部屋を出て行った。

「どうしたんだろう?」

「さあ…」

暫くも何もないくらいの時間でアスカは戻ってきた。

勢い良くドアを開けたせいで、ドアが吹き飛びそうであったが。

「やっぱり!」

ぜーぜーと荒い息を吐き出して、細い両肩を大きく上下させている。

「…どうしたのさ?」

騒がしいな、と思いつつもシンジは、取り敢えず訊いてみた。

「信じらんない! この宿、混浴よ、混浴!」

アスカが浴場を確かめに行くと、ドアの中から男と女の声がした。

探すまでもないこの小さな宿には、一つの浴場しかなかったのだ。

宿主に聞いてみると、時間で男女を分けるというシステム、いや概念など元々ないらしい。

「サイッテー!」

吐き捨てるよう言ったアスカは、不機嫌のままベッドにダイブした。

すると…

「ん?」

メッセージウィンドウが目の前に表示された。

『休みますか?』

「当ったり前じゃない。 その為に宿を取ったんだから…」

そう言うと反射的に”はい”を選択する。 すると、何処からか伸びやかな音楽が流れてきて…

「え?」

太陽の位置が変わった。

窓の外の色がオレンジから、早朝のように明るい白色に変わったのだ。

シンジは、それを見て少し瞳を大きくした。

「まさか…」

アスカも気が付いたようだ。

「シンジ?」

流石の少年も肩を落とした。

「もう、一泊終わったみたいだね…」

「えー!!」

確かにステータスを確認すると、みなMAXに変化していたが…

「これじゃー 休んだ気にならないーー!!」

不満、大爆発だった。

「さすがにこれは、現実ではないと思い知らされるね。」

シンジの言葉にアスカも同調する。

「ゲームの世界なんて、いるもんじゃないわね…」

「マスター、湯浴みの準備が整いました。」

ドーラはこの一連の騒動も気にせず、自分の分とシンジの分を手にしていた。

「何言っているのよ。 もう一泊終わっちゃったじゃない。」

「ここには時間と言う概念は、正確にはありません。 ですから何泊しても問題ないのです。」

ドーラは、どこかエヘンとした風に胸を張り、得意気にアスカに説明する。

「まー、確かにフラグが成立しなけりゃゲームは進まないけれど…」

ドアを開く彼女に、アスカはもっともな突っ込みを思い出した。

「って、そーじゃなくて! アンタ、シンジと一緒に風呂に入るってーの!?」

「はい。」

逡巡のない即答。 問うたこちらがおかしいのか? と思ってしまうほど、さっぱりとした回答だった。

「シンジ?」

何となく、彼女の特性が分かったアスカは、矛先を常識人であろう少年に向けた。

(こいつ、ファーストと同じなんだわ。 そういう設定なのかしら?)

「あんた、まさか…」

「もちろん交代で入るよ。」

「いけません、マスター。 それは効率的ではございません。 時は金なりと申しますし。」

「アンタ、さっき時間の概念がないって言ったじゃない!」

ドーラの矛盾を突く突っ込みが炸裂する。

アスカの突っ込みなど耳に届いてない彼女は、シンジの手をそっと握った。

当然とした動きだったが、彼女も平静ではないようだ。

本人でも大胆な行動だったという自覚があるのか、その頬が見事に紅潮している。

「参りましょう、マスター。」

初めてシンジの手に触れた。 ドーラの心には、祝福を祝う天使が降臨してくる。

きっと、盛大にラッパが鳴り響いているのだろう。

そんな彼女に彼は苦笑すると、頷いた。

「じゃ、主人にもう一泊するように手配しよう。 今日はこの村周辺を探索して、情報を集めよう。」

「ちょっと、待ちなさい。 交代で入るなら、私も行くわ。」

「そうですね。」

諦めたのか? 続いた彼女の言葉はそうではなかった。

「私たちが入浴している間、ドアの前で待機していてください。 よろしくお願いしますね♪」

アスカは、溜息と共にガックリと肩を落とした。


……その頃、この世界の一番深い場所で、目覚める意識があった。


「碇君、どこ?」








第三章 第二十一話「使徒、侵入(後編)」へ










To be continued...


作者(SHOW2様)へのご意見、ご感想は、メール または 感想掲示板 まで