ようこそ、最終使徒戦争へ。

第三章

第二十一話 使徒、侵入(前編)

presented by SHOW2様


決意。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



………アメリカ第二支部。



地下3階。

とはいえ、この建造物の地下は通常のビルで比較すると数十倍のフロア高があるので、

 正確には地上からマイナス300m程潜った地中深く、と言った深度の地下三階である。

”…ブゥン!”

空気を震わせる高圧電流が通電する鈍い音と同時に遥か高い天井の照明が一斉に目覚めた。

”プシュ”

圧縮空気の動作音がすると、数十cmの厚みのある鋼鉄製の頑丈な扉が滑らかに左右に開ていく。

”…コッ、コッ、コッ、コッ…”

パンプスの音が物音を立てるもののない静かな空間に小さく響く。

白衣の女性が歩みを進めているのは、日本のNERV本部と同じ構造のアンビリカルブリッジであった。

”…コッ…”

その中央で足を止め、正面を向いて顔を上げるとダークブラウンの髪がさらりと揺れる。

彼女の瞳に映るのは人を模した銀色の面。

(エヴァ四号機…)

第一支部の三号機と共に損耗の激しい弐号機の予備パーツとして急遽解体された四号機。

それは、S2機関搭載実験機として三号機と同時期に建造されたエヴァであり、

 また、量産型エヴァンゲリオンのベンチマークとなるべき機体だった。

現状、第二次整備計画の根幹を成すそれは、四肢を失った状態のままケージに固定されている。

白衣の女性は、LCLに浮かぶ巨人の顔を静かに見詰めていた。

ライトに照らされたその鈍い銀色は、まるで塗装を施されていない合金の素地のようであった。

昼夜を問わず急造されている生体部品の全ては三号機を優先に、とされてしまい、

 結果、この第二支部で建造している四号機はS2機関開発専用機と位置付けられてしまった。

ここアメリカで建造されている2体のエヴァは、先行ロールアウトしている機体とは顔の造形が違う。

初号機のような一本角はなく、零号機にある頭頂部の電磁波アンテナもない。

同じ制式機である弐号機のように4つ目でもなく、それは二つ目で特徴のないヒトのような顔であった。

しかし、その面構えは人類を守る正義の味方、というよりどちらかと言うと強面が過ぎる顔だった。

まぁ…天使を屠る巨人であると考えれば、悪魔を彷彿とさせるこのデザインにもある程度の納得がいくが。

初期充電は常に行われているが、その双眸に活動的な光はない。

ただ、静かに存在しているのみであった。

手すりから下を覗けば、

 オレンジに煌めくLCLに浸かっているはずの胸部装甲は外されており、各種ケーブルが接続されている。

「ふう…」

疲労を感じさせる若干湿り気を帯びた溜息を吐いたのは、S2機関開発責任者である碇ユイ博士だ。

彼女は再び足を進めて、このケージの一角に用意されている実験管制室へと向かう。

誰もいないこの部屋はしばらく放置されていたのだろうか、わずかに埃が浮いていた。

ユイは少し憂鬱そうに眉根を寄せると、自分が良く使っていたイスの埃を軽く払って腰を下ろす。

そのまま電源を入れて端末のOSを立ち上げると、カタカタとキーを叩いてログインした。

自室の端末をここから遠隔操作し、さらにパスワードを入力して各種ファイルを展開させて画面を覗き込む。

白衣の女性は、その中の一つ、過去に発表された論文を拡大表示する。

それは約10年前に発表された研究論文のコピーデータだった。

(スーパーソレノイド… S2理論…)

これを発表したのは、極東の島国の男である。


……京都大学・第一生体エネルギー研究室の工学博士、葛城教授だ。


彼が、スーパーソレノイド理論を発表した当時は、荒唐無稽だと誰しもが笑い飛ばした。

なぜなら理論は不完全であり、可能性を示す僅かなデータだけを提示した論文は、

 学術的にも科学技術的にも一切の価値を認められなかったのだ。

電子と陽電子を対生成・対消滅させ、エネルギーを発生する動力源。

第一使徒であるアダムの発見により実在が初めて確認されたが、それが世間一般に伝わることはなかった。

また、その提唱者である葛城博士はその南極で死亡してしまった。

ユイは別のファイルを呼び出した。

形の良い顎に左手を添えて肘をついたまま、モニターに映る情報を見る。

ヒトと違う遺伝子。 その二重螺旋の中で、量子力学で規定する真空の崩壊を起こさせる。

京都大学の講堂、2年生で習った量子力学の講義を思い出す。

大きな黒板にチョークで記号が羅列されると、年老いた教授が振り向いて生徒を見渡す。

『…いいかね、諸君。

 通常、原子番号が173を超える超重原子のK殻…1S軌道の電子の束縛エネルギーは、

 対生成に必要なエネルギーを超えていく。』

ユイは記憶のまま、教授の言葉をつぶやいた。

「…もし、1S軌道に電子がない場合は、ディラックの海にある負のエネルギー準位にある電子が、

 そのままのエネルギーで1S軌道に遷移して、対生成が起こるわ…

 そして、対消滅。」

モニターにやったままの目をつぶる。

「それが使徒のエネルギー源。 様々な形態をとり多様な攻撃方法を可能にする力の根源。

 でも…どうやって…」

大昔に発表された論文を繰り返し何度も読み返していた女性の目は、疲れていた。

息子から送られてきたコアのサンプルを調べても、他の部位とさして変わるデータは得られなかった。

見たままの、まるでクリスタルのような赤い結晶。 そこに原子核を加速させるような機構は認められない。

彼女が背を反らすように伸ばすと、イスの背もたれがギッ…と軋んだ。

天井の蛍光灯を見るとなしに見て、もう一度モニターに目をやる。

(…ん?)

彼女は見慣れない図を見た。

ファイル名を見ると、自分が思いつくままメモをする時に使うYMが頭にある。

学生時代からの癖は大人になってもなかなか治らないものね…

ユイは、そんな事を思いながらマウスを操作した。

YM0045… ユイメモ0045…

こんなの、書いたかしら?

記憶を手繰りながら彼女は身を乗り出して、画面に顔を寄せた。

彼女の下の影が、まるで笑うかのように揺らいでいるのに気が付かず…



………白い洋館。



切り分けた一欠片のピザを中心部からくるくると丸めてフォークで刺す。

「碇君、これ、食べて…」

持ち上げた一口サイズのクリスピーピザに少量のオリーブオイルを垂らした少女は、

 左手を添えて、そっと少年の口元に運んだ。

「はい、あーん…」

「う、うん。 あ、あ〜ん…」

嬉しさと気恥ずかしさを混ぜた、そんな声を出してしまうのは、この屋敷の主人である碇シンジだった。

この豪奢な洋館では主人に仕えるメイドも同じテーブルで食を共にするという独自のルールがあった。

これは、この屋敷に住み始めたころに決めた少年自身の提案だった。


……いつも以上に集まる視線に少年の頬が僅かに赤く染まる。


フォークに刺さったピザは白銀の少年の口の中へ。 蒼銀の少女は、満足気で喜色に満ちた瞳になる。

その卓を囲むメイドたちは、

 怪我をした敬愛する主人に世話するチャンスを逃すまい、と真剣な視線を注いでいた。

女子陣の視線の中心にいる少年は、不自由なのは右手だけなので、左手である程度の生活は出来るはずだ。

…なので、焼きたてのマルゲリータも問題なく食べることが出来るし、サラダも取り分けることが出来る。

しかし、目の前の濃緑色に染められたシルクのテーブルクロスの上に自分の取り皿の類は一枚もなく、

 またオニオンスープを飲む為のスプーンや鴨のローストを食べるフォーク、箸すらない。

不思議なことに、それらは全部左側に集中していた。

その左側にレイが座っている。

たぶん、何もさせないつもりだ…

LCLパックで包まれた右腕側には、メイド長たる山岸マユミが陣取っていた。

「失礼します、シンジ様。 御口元を…」

甲斐甲斐しくナプキンで少年の口角を拭う。

「んん…あ、ごめん、マユミさん。」

「いえ、少しだけ口を動かさないで下さいませ。」

「…後ろから失礼いたします、シンジ様。」

厨房から戻ってきたメイド5人のリーダー格、後藤アキが新しく淹れ直したコーヒーカップを目の前に置く。

「あ、ありがとう。」

それを取ろうとしたシンジの挙動を先読みしたレイが、ごく自然な所作ですっと手を伸ばした。

「待って。 そのエスプレッソ、少し冷ましてあげるから…」

両手で陶器を包むように持つと、ふーふーと優しく息を吹きかけ始めた。

純粋に愛する少年のために思いつく限りの世話をする少女。

その眩しいほど一途な愛情を見たメイドは、失礼しました…と会釈と共に微笑みながら下がる。

「ふー、ふぅ… はい、もう大丈夫。」

「…ありがとう。」


……休日の少し遅めのモーニング。


朝日の輝きは粛々と力強さを増し、手入れの行き届いた庭園を望む窓には緑が生き生きと輝いている。

「シンジ様、本日の御予定は?」

「ん…ああ、午後はNERVに行くよ。 帰りは適当にするから、わざわざ来てくれなくていいからね。」

「いいえ、連絡をくださいませ。 お迎えにあがります。 …いえ、お送りも致しますわ。」

「いいよ。 そんな…」

マユミはシンジの言葉に首を振った。

「車を用意いたします。 レイ様、よろしいでしょうか?」

誰にどう言えば良いのか、それは蒼銀の少女も心得ていた。

「ええ、お願いします。」

レイは、コクリとメガネの女性の意見に同意した。

「綾波…」

勝手に話が決まってしまうが、シンジはそれを悪く思ってはいない。

それは、この家の住人全員が理解している遣り取りだった。

「右手のパック、取り替える時間よ。 来て、碇君。」

レイは彼の左手を握って立ち上がった。

主人たちの離席を合図に、メイドたちはそれぞれの仕事に戻っていった。



………NERV本部。



『エヴァ三体のアポトーシス作業は、MAGIシステムの再開後、予定どおり行います。』

発令所の最上段に女性のアナウンスが流れる。

即応状態の戦闘指揮所である第一発令所は現在、普段にない大型のOAデスクやOA端末に溢れていた。

白衣の女性は、10センチ幅のA4パイプファイルを広げ、チェックシートの内容を精査している。

『作業管理班より、発令所。 450から670は作業省略。』

「発令所、承認。」

背中の方からマコトの声が聞こえてくると、リツコは視線をファイルからマヤのディスプレイへ流す。

その画面には彼女が打ち込むコマンドと、それが実行されたリストが流れるようにスクロールしていた。

「さすが、マヤ。 速いわね。」

速さだけではない、彼女のキータッチの正確さは称賛に値する一流のスキルだ。

「ふふ。 …ええ、それはもう、センパイの直伝ですから。」

誉められたマヤは、キーを叩く速度を変えずにニコリと笑う。

「あ、待って。 …そこ、A−8の方が速いわよ。」

そう言うとリツコは、OAデスクの自分専用キーボードに右手を伸ばした。

「ちょっと貸して。」

最上位権限の一つを持たされている女性は、MAGIに関して誰のタスクでも強制割り込みを許されている。

彼女の右手が踊るようにキータッチすると、

 ショートカットの女性の3倍以上の速さでタスクが実行されていった。

「さっすがセンパイ。 …すごい。」

「でしょう? その処理に関してはA−8の方が断然効率的なのよ。」

「…いえ、そうじゃなくて。 センパイのキータッチの速さと正確さが、です…」

「ふふっ… これくらい、あなたも出来ているわよ。」

リツコが再びイスに座り、ファイルのチェックを再開させると一人用リフトが昇ってきた。

「どぉ? MAGIの診察は終わった?」

赤いジャケットに濃紺の長い髪。 にこやかな表情で登場したのは、葛城ミサト一尉だった。

「だいたいね。 …約束どおり一週間後のテストは予定どおり実施できるわよ。」

「さーっすが、リツコ。 同じものが3つもあって大変なのに…」

そう言いながら、ミサトは机の上にあるコーヒーカップに手を伸ばして、そのまま一口飲みこむ。

昔から変わらない彼女の行動を横目で見たリツコは、その大学時代と同じ言葉を口にする。

「冷めてるわよ、それ。」

「ぅ…」

そんな遣り取りをしていると、

 メインディスプレーに表示されていたMAGIバルタザールのシステム状態に変化が訪れた。

”ピー、ピー…ポーン”

今まで点滅していた点検中の表示が終了となり、

 3機全ての点検作業が終了したことで、MAGIは自動的に自己診断モードへ移行する。

『MAGIシステム、3機とも自己診断モードに入りました。』

男性オペレーターのアナウンスに、マヤがマイクのスイッチを押す。

「第127次定期検診、異常なし。」

リツコが立ち上がり、マヤからマイクを引き継いだ。

「赤木です。 皆さん、お疲れ様でした。 MAGIの定期検診作業完了を承認しました。

 これより、作業班は1300より整備部と合流し、エヴァのアポトーシス作業を始めて下さい。

 技術開発部2課は引き続きオートパイロットテストの準備を進めて下さい。 以上です。」



………アメリカ第二支部、地下6階。



コアを保管してある実験室。

ユイは先ほどの図面とメモ書きを全て印刷して、体育館のようなガランとしたこの場所に来ていた。

”コッコッコッ…”

中央には、白いシートに覆われた塊がある。

ユイの2倍ほどの高さに積み上げられたそれは、初号機に砕かれた第七使徒イスラフェルのコアだった。

白衣のポケットから手袋を取り出し、嵌める。

大きなものは1t以上の塊から小さなものはビー玉位まで、大小様々な形状に砕かれていた。

一見、無造作に置かれているだけに見えるが、実際には、それらは全てMAGIによる管理を受けている。

女性は、その中から野球ボール大の破片を手に取った。

目の高さに持ち上げてみると、照明に照らされたコアの破片は紅く輝くように光っている。

ユイはそれを持ったまま作業スペースに足を運んだ。


……残念ながら、渡米してから今まで彼女が行ってきた実験では、成果らしいものがない。


ユイは欠片を事務机の上に置くと、もう片方の手に携えていた紙を広げた。

先ほどプリントアウトしたこの図には、

 エヴァの生体部品、特に筋組織とコアを使った実験についての推察が書かれている。

コアとアダムベースの生体組織を同時に使用する実験は今まで何度も申請したが一切許可が下りなかった。

もし…万が一、人類の脅威である使徒が再び覚醒し、そのまま再生したら?


……その疑問に、誰も明確な答えが出せなかったからだ。


しかし、ユイはもう一度、この実験をブラッシュアップして上層部に上げようと考えていた。

やるしかない…

このままでは、どちらにせよ先に進めないのだから……

彼女の瞳に固い決意が宿っていた。



………自宅。



『ねぇ… 出てもいい?』

マスターベッドルームの大きな窓から柔らかく暖かい陽の光が差し込んでいる。

その光が、ふわりと浮かび上がった本の紅色を優しく照らし出していた。

「…ん? ああ、いいよ。 出ておいで、リリス。」

ぱらぱらぱらーっと紅革の本が勝手に開くと、その中から幼女が飛び出す。

本はそのままパタンと閉じると、蒼い革の表紙へと変化して静かに机の上に降りていった。

NERV本部へ行くために着替えていたシンジに、フリフリの黒いワンピースを着用した幼女が抱き付く。

バフッ!

「ねー、お兄ちゃん、お願いがあるんだけどな…」

よしよし、いいこ、いいこ、と頭を撫ぜながら、シンジは彼女の瞳を見た。

「…お願い? 珍しいね。 で、…なに?」

「うん、あのね…」

「…うん。」

上目遣いでじっと見詰める幼女。

「…デートしたいの。」

小さな顔の紅いルビーのような瞳が潤んで揺れていた。

「…え?」

その時、奥の間のドアが静かに開いた。

「お待たせ、碇君。」

「綾波…」

レイは赤地のタータンチェックのスカートに白いブラウスを合わせていた。

これは、彼女のお気に入りのコーディネートであった。

着物の組合せが良いのは勿論だが、その中身である少女は相も変わらず宝石のように輝いている。

自然に見惚れてしまうシンジ。 それに構わず、彼の服が”くいくい”と引っ張られた。

「…あ、ごめんよ、リリス。」

主人が顔を下げると、腰に下げているPDAが勝手に起動する。

『…リリス、シンジ様の手を煩わせるようなことを言っては…』

ドーラの波動を無視した幼女は、シンジの腹に頭を擦りつけた。

「…いいでしょ?」

「どうしたの、急に?」

「だーって、いっつもレイちゃんとばーっかり。 私もデートしたいの!」

せっかくこうして実体化できるようになったのに、本の中にいる時とさほど変わらない現状に、

 リリスは不満を募らせていた。

ほっぺたをぷくーと膨らませている女の子。 まるでお餅みたいだ、と思っても口に出すことはしない。

「わかったよ、じゃ、今度ね?」

リリスは眉根を寄せてイヤイヤと首を振った。

「…ダメ! ちゃんと具体的に日を決めて!」

シンジの横にレイがやって来た。

「…リリス?」

「いいでしょ、レイちゃん。 お兄ちゃんを貸して!」

結構必死な幼女の様子に、これは大分ストレスを溜めていたのかな…とシンジは小さく肩を竦めた。

白銀の少年にしても、ここ最近リリスの相手をしてあげた記憶はない。


……PDAのドーラはそういう不満を言った事はないが、果たして彼女はどうなのだろうか?


少し思惟の方向がずれたな、と小さく首を横に振ったシンジは、再び下を向いてリリスを見た。

レイはシンジの考えに反対する気は一切ないので、彼の言葉のままにと静かに様子を見ている。

「よし、じゃあ、いつがいい?」

この言葉にリリスは、にぱっと笑顔になった。

彼女は、レイの許可を貰える日はいつなのか、ここしばらく考えていたのだ。

であれば、あの日しかないだろう。 じゃー早速、彼女に訊いてみなければ…

「レイちゃん、ちょっといい?」

「…私?」

「うん。 ほら、こっちにきてきて♪」

「え…」

「いーから、いーから… こっちにおいでー」

そう言うと、リリスは戸惑いシンジを振り返って見るレイの腕を取って、そのまま奥の間へ消えていった。



………NERV本部。



洗面台に用意された銀色の蛇口から出る透明な水を両手ですくうように受けて、そのまま顔を洗う。

少し乱暴ではあるが、冷たい水が疲労した脳に爽やかな刺激を与えてくれた。

長時間にわたるMAGIのメンテナンスで疲れ切っていた表情にわずかな生気が戻ってくる。

濡れた顔に柔らかなタオルを押しあて、そのまま顎を上げると、大きな鏡に映る自分の瞳と目が合った。

異常なしか…

母さんは今日も元気なのに…

私は… ただ歳を取るだけなのかしらね…

リツコは、ポケットから口紅を取り出すと、唇に薄い色の紅を引く。

仕事漬けの彼女が、普段する化粧はこれだけだった。

そして、丸めていた背を伸ばして、そのまま廊下に出た。

「…赤木博士。」

十字に交差する廊下から、男性がこちらに向かって歩いて来る。

「あら、土井技官。 お疲れ様です… どうしたんですか?」

「お疲れ様です。 ちょっと一息入れようと思いまして。 ……よろしければ、ご一緒にどうです?」

「…そうですね、私も今なら少しだけ時間があります。 お付き合いしますわ。」

二人は、肩を並べて歩き出した。

「…さきほどの放送を聞きました。 こちらのスパコンの保守点検は無事に終わったようですね。」

「ええ、優秀なスタッフのおかげで、予定よりも早めに完了することが出来ました。」

にこりと微笑んだリツコの横顔をマサルは少し眩しそうに見詰めた。

「来週は、オートパイロットのテスト… 実験が行われるそうですね。」

「ええ、その通りです。」

「できれば見学を希望したいのですが、よろしいでしょうか?」

「そうですね… 申し訳ありません、私の一存では。 …上層部に確認しておきますわ。」

NERVの職員用食堂に入ると、食券販売機に特徴的な少年少女がいた。

「えーっと、私、これね。 あ、あと、これも…」

紅茶色の髪の少女が、ポチポチとボタンを押していく。

「あら、あなた達…」

「あら、リツコ。」

食券を手にしたアスカが振り向くと、その彼女達の後ろの立っていた少年も振り返った。

シンジはリツコの横に立っている男を見て、

 ”リツコ”と発音しそうになっていた口を素早く直して仕事モードの呼び方に変えた。

「お疲れ様です、…赤木博士。」

土井マサル。 戦略自衛隊の技術研究所、所長。

前史の使徒戦争に登場していなかった人物。

霧島マナの信用を得ている男であるが、白銀の少年はこの人物との距離を計りかねていた。

「はい、碇君の食券。」

「ありがとう、綾波。」

「隊長、こっちですよー」

マサルが、声の方に目をやると食堂の奥のテーブルに見慣れた茶色の髪の少女がいた。

「マナもいるのか…」

「あ…土井さん、お疲れ様でーす。」

「マナ、今、いくから。 じゃ、お先です。」

ぺこり、と小さく会釈してシンジは食堂のおばさんの方へ歩いていった。

「久しぶりだねぇ、シンジ君。 おばさん、寂しかったよ。」

「すみません。 はい、これお願いします。」

「はいよ。 アイスコーヒー、一丁! はい、レイちゃん、バニラアイスセットとビターチョコアイス。」

「…どうも。」

厨房に向かって威勢良くオーダーしたおばさんは、シンジに言う。

「アスカちゃん、大分ご機嫌だけど、何かいいことあったのかい?」

「はははっ… たぶん、今日の夕食が奢りですんだからじゃないですかね。」

「なんだい、シンジ君、女の子たちにたかられちゃったのかい?」

「そうじゃないですけれど、じゃんけんで負けちゃって。

 ま、それ位で機嫌がいいなら、いいんじゃないですか。」

「そうかい… おっと… はい、すみません、こちらで食券を預かりますよ。」

「これ、お願いします。」

「赤木さん、コーヒーは私が持って行きますから、先に席で待っていてください。」

「分かりました。」

リツコとマサルが食券をおばさんに手渡すと、ちょうどアイスコーヒーが出てきた。

「はい、シンジ君のアイスコーヒー。 ガムシロやミルクは要らないんだったね?」

「ええ、いりません。 ありがとう、おばさん。」

シンジは再びマサルに小さく会釈すると、少女達の待つテーブルに向かっていった。

「はい、ホットコーヒー2つ。 お待たせしました。」

「どうも。」

マサルはコーヒーを載せたトレイを受け取り、

 先に中央付近の席に座ったリツコのテーブルに向う。

「どうぞ。」

「すみません。」

シンジたちを見ていたリツコは、男の声に顔を戻した。

「…ねえ、そんなに食べるの?」

「うっさいわね、いーじゃない。 格闘訓練でおなかペコペコなんだし、シンジの奢りなんだし。」

「はい、これ…碇君の。」

レイはアイスのカップを少年の前に置いた。

「ありがとう、綾波。」

「…手伝うわ。」

「大丈夫だよ、綾波。 さっきLCLパックを外してもらって包帯だけになったから。」

「そう…」

レイはシンジの右手を見た。

包帯を巻かれているが、それは最低限ではあるが、指が動かせるように配慮されていた。

見れば、確かにアイスのカップを親指と人差し指で挟む事が出来るようだ。

じーっと見詰める深紅の瞳に、少し残念そうな色が混ざっていた。

「あ、隊長、それ、ちょっとだけ味見してもいいですか?」

「…ダメ、それは碇君の。」

「じゃ、こっちのも〜らいっ!」

「あ、こらっ! 人のオムライス勝手に食べるな!」

「ふむふむ。 …こっちはどーかな?」

「ちょ、ハンバーグ食べるな!」

「な、なかなかいけるわね…」

「アンタねぇ、ちょっとは人の話を聞きなさいよ!」

そんな騒動をちらりと見たマサルは、コーヒーを一飲みしてカップを置く。

「元気ですね…」

「そうですね。 霧島技官も馴染んできて。 …いい傾向だと思いますわ。」

「惣流二尉と、ですか。」

「ええ。 霧島さんは元々シンジ君とレイちゃんは旧知の仲ですし。」

「そうですね。」

平和な時間。

使徒襲来という未曾有の異常事態が発生中ではあるが、

 あの少年少女たちによって、この日常は保たれている。

それを理解しているから、NERVのスタッフは彼らの日常を決して邪魔したりしない。


……リツコもマサルも、お互いにこの時間を楽しんだ。


「はい、綾波、一口どう?」

「…ええ、ありがとう。」

シンジは、包帯を巻かれた右手でカップを抑えて、左手のスプーンを使った。

上手く一口分すくって、レイの口元へ手を伸ばす。

「はい、あーん。」

「あぁ、ん… おいしい。」

「ビターチョコってもっと苦いものだと思ってたけれど、このアイスはそうでもないね。」

「そうね… ほどよい甘みがちょうどいいと思う。」

「あー! いいなー 隊長、私にも!」

「…マナ、ダメ。 これは碇君の。」

「ぶー、綾波さんには聞いてないよぉ…」

「ははは…」

ピシャリと言うレイにシンジは苦笑した。

「…で、アンタ、右手のケガ、どうなのよ?」

甘々な遣り取りをシャットアウトしていたアスカは、

 オムライスを食べていたスプーンをシンジに”ビシッ”と指す。

テーブルマナーに反しているが、少年は構わず答えてあげる。

「うん、少し動かせるようになったよ。 まだ痺れているけれどね。 まあ、直ぐに治ると思うよ。」

「ふーん。 そう。」

観察するようにシンジの右手を見ていたアスカは、病院で耳に入れた話を思い出した。

先日の使徒戦後、精密なメディカルチェックを受けた少女は、経過観察として2日間だけ入院したのだ。



〜 NERV総合病院 〜



一通りの検診を終えて、ベッドの上で一息ついた時には、すでに太陽が沈むような時間だった。

それは、トイレに行こうと夜の廊下を歩いていた時。

最低限度の照明しか灯っていない人気のない薄暗い廊下。 窓の外、ジオフロントの外灯の光の方が明るい。

その廊下に、一筋の光が部屋から漏れていた。

ん?

どうやらドアが完全に閉まっていないらしい。

そんな明かりの方へ意識を向けると、男の声が小さく漏れ聞こえてきた。

「…で、検査結果はどうだ?」

「はい、セカンドチルドレンに問題は発見されませんでした。」

「それで… サードの方は?」

「相変わらずです。 赤木女史から情報提供は一切NGだそうで… 彼の情報を得るのは実質無理ですね。」


……高齢の男の声に応えたのは、対照的に若い男の声だった。


「まったく、困ったものだな。」

「ええ、情報を共有できれば、どれだけ救急救命の確率が高くなるかなんて自明の理だと思うのですが…」

「パーソナルデータすら提供しないとはな…」

「ふむ… 教授、上層部は?」

また別の男の声が聞こえる。

「赤木リツコの判断を諸手を挙げて支持しているよ。 反対の声も聞こえん…」

「ふん。 盲信的ですな… 一人の医師、それも外科のライセンスしか持っていない彼女に、

 人類の命運を握る数少ない人間を任せてしまうなんて…」

先ほどとは違う、この粘っこい中年男性の声にピクッとアスカの眉根が寄った。

こいつ…

この三番目の声は、どこかで聞き憶えがあった。

いつだったか… んん?

そうだ… 日本に来たばっかりの頃、簡易検診時にいやらしい目で私を見た狐のような顔のおやじ。

当時、余りの不快感に、アスカは付き添っていたミサトに向かって、その場で担当医交代を要求したのだ。


……気が付けば、紅茶色の髪の少女は息を潜めて、彼らの会話に耳をそばだてていた。


若い男の声が聞こえる。

「…そうですね。 通常の医局ではありえない対応だと思います。」

「君の言うとおりだ。 このままではこの病院のシステムに悪影響を及ぼすに違いない。 …教授?」

「ん?」

「貴方の”御力”で、データだけでも提供してもらえないのでしょうか?」

この男は医師連盟から手を回せと、言外に言っているのだ。

「…赤木リツコ君とは何度も話し合っているのだがね。」

キツネ顔の細い目が少し歪む。

「…サードもそうですが、ファーストも、ですよ。 非常に魅力を感じる”検体”じゃないですか?」

「准教授、そんな言い方は…」

批判めいた声にキツネ顔の中年は鼻を鳴らした。

「…ふん。 お前も医者なら分かるだろう? 通常のアルビノとは全く違うじゃないか。

 医道を歩み探求する者なら研究対象として興味をそそられずにはいられまいよ?」

「キミ、よさないか。 彼女にはもう一度、強く要望を出そう。 研究ではなく彼らの救命のためにな…」

人の動く気配に、アスカは音を出さないように、素早く物陰に隠れた。

手動のドアがスライドして開くと、一筋だった光が広がって小柄な男性の輪郭を廊下に描き出す。

(…どういう事だろう?)

部屋の明かりを消した男たちが去り、廊下に静寂が戻るとアスカは物陰から出て廊下の窓の外に目をやった。

シンジの担当が、リツコ。

ファーストの担当も、リツコ…

私だけ病院の医者?

専属しているのはカウンセラーくらいで、病状、外傷によって各科の専門医の門をたたく。

そんなの、アイツらだって同じだと思っていたのに…

それに、さっきの話。

サードの主治医を担当しているリツコが、専門家集団である医局に協力的じゃない?

上層部もそれを支持しているって言っていた…


……リツコは特務機関NERVにおいてトップに近い超上級職員だ。


その彼女をして、上役とは?

間違いなくNERVのトップ、総司令官であるシンジの父親、碇ゲンドウだろう。

アスカはジオフロントの上部、天蓋都市の点滅する常夜灯の赤いライトをぼんやりと見上げる。

「情報公開できない… つまりは、人に見せられないってことよね…」

ポツリと口から出た言葉が、廊下の空気を小さく震わせて消えていった。



〜 食堂 〜



(…どうしてだろう?)

「ねぇ、シンジ?」

相も変わらずファーストを見ていた真紅の瞳が、私の声に反応する。

「…ん、なに、アスカ?」

「その怪我を最初に診察したのって… やっぱ、リツコ?」

「うん、そうだよ。」

「じゃあ、今日も?」

アスカの予想に反して、彼は首を横に振った。

「今日は神経内科の内藤先生だったな… 何で?」

具体的なシンジの言葉に、少女の青い瞳が少しだけ大きくなった。

「…へ?」

素っ頓狂な声を出したアスカに、隣の席に座るマナが不思議そうな顔で訊く。

「アスカってば、一体どうしたの?」

「え? …あ、ううん、別に…」

アスカは、誤魔化すようにスプーンで最後のオムライスを一掬いした。

(リツコだけじゃない… 別の医者もちゃんと見てる?)

公表されていないので、もちろん彼女は知らない事であるが、

 シンジたちには専属の超一流医療チームが24時間体制で準備されており、それが病院に常駐している。

それを管理しているのが、リツコだった。

通常、各専門医からレポートを提出してもらい、彼らと打合せを行って治療方針を決めているのだった。

もちろん、シンジの力を使ったインチキ的な治癒力についてのカルテ改竄も彼らの協力で行っている。

ただし、実際に行う治療は、この総合病院の最新設備を自由に利用しているので、

 シンジ、レイしか治療しない彼らは、当然のごとく病院の各医局から敵意を含んだ目で見られていたのだ。


……病人、けが人を効率よく治療する病院では、各設備のスケジュール管理は非常に重要な業務となる。


確かに急病人などに対応するため、ICUやHCUは常時使用できるように余裕を持って管理しているが、

 だからと言って、こちらの都合を無視した横からの割り込みを食らうのに変わりはない。

だったら、チルドレン専用の医療施設・設備を用意しろという声も当然あったが、実行されなかった。

それは、シンジたちを不用意に目立たせないため、というゲンドウの配慮であった。

アスカの入院時に、こそこそと話をしていた医者たちは、通常の病院勤務の医者たちである。

今日シンジを診察した神経内科医と自分を診察した医者が、

 実は属している組織が全く違うとは、残念ながらアスカに知り得る話ではなかった。

(…う〜ん。 リツコだけじゃないなら、あの時の医者は何を言っていたんだろう?)


……それでも、何か、自分と待遇が違うのに変わりはない。


「ふふっ… まぁ、そうなんですか。」

楽しそうに微笑むリツコが視界の端に映る。

「ええ。 その時の実験は結局失敗となりましたが、いい経験になりました。」

食堂中央に座る白衣の女性と男の声が少女の耳朶を打つ。

「ねぇ、ちょっとリツコ?」

アスカは、金髪の女性に声をかけた。

「どうしたの? アスカ?」

「んー、ちょっと聞きたいことがあるんだけれど…」

「いいわよ。」

「いや、ここじゃなくて…」

言い淀む紅茶色の髪の少女を見て、白衣の女性は小さく頷く。

「そうね…」

そう言うと、リツコは胸ポケットからPDAを取り出した。

「…では、この後19時に私の執務室に来て頂戴。」

「了解。 …あー食べた、食べた。 シンジ、ご馳走様! じゃ、お先!」

食べ終わったトレイを手に立ち上がって、アスカはさっさと食堂を出て行ってしまった。

「何だったんだろう?」

「…分からない。」

「ねぇ、シンジ君…」

「なに、マナ?」

「アイス、ちょーだい!」

カップには、溶けかけた最後の一欠片。

「いいよ。 はい。」

すっとカップだけを手渡される。

それを受け取ったマナは、ガックリとした。

「たいちょー!! あーん、は? あーん! 私にも…あーんして!」

「それは、ダメ。」

「ははは、ダメだってさ、マナ。」

フルフルとかぶりを振ったレイに、マナは再びガックリと肩を落とした。



………第二支部。



「本気、ですか?」

通称エリア51と呼ばれていた、かつてのグレーム・レイク米空軍基地の地下1階。

研究室の一つに呼び出された金髪のおかっぱ頭の男は、女性の言葉に目を大きくした。

「ええ。」

細身の男、エドワード・スミスは特務機関NERVアメリカ第二支部の副支部長という立場であるが、

 彼の職務は組織運営より、計画された研究の管理に重きを置かれていた。

「基本は、それに書いてあるとおり。 あとは、あなたと私で稟議書を作成すればいいと思うわ。」

そう答えた女性の瞳は実験への強い決意を宿しており、迷いを感じさせる揺らぎは一切なかった。

白衣を羽織っているこの女性は、ここで行われている研究の最高責任者、碇ユイである。

男は無言のまま目を下げて、机に広げられた紙に目を凝らすと、そこに書かれている内容を読み進めた。

エドの瞳が左から右へと古いタイプライターのように動いていく。

かたかたかたかた、ちーん…

「これは…危険です。」

「ええ、そうね。」

目を合わせて、いくぶん抗議に似た視線を投げる男に、当然ねとユイは小さな頷きと相槌を返した。

「でも、貴方も特務機関NERVの幹部職員。 人類補完計画のスケジュールは知っているはず。」


……”you're eye's only”とされた情報が男の脳裏に蘇る。


危険かどうかは重要ではない… 計画を遂行しシナリオを進める事が重要なのだ。

そして、これはその一部であり、例えどのような対価を支払ってでも得なくてはならない成果であった。

「…はい。 では、具体的なスケジューリングを行います。 関係職員はレベルB以上でよろしいですか?」

理解したエドは、無駄なことを考えるのをやめた。 やるならやる。 それしかないのだ。

理解を得られた、とユイは話を続ける。

「そうね、余計な目や耳はなるべく排除しましょう。 そうそう、あの二人にも協力してもらうわ。」

「…いけません。 彼らは…」

NERVの職員ではない、という言葉は続けられなかった。

「あら、有能よ。 とてもね。」

「…確かにそうかも知れません。 ですが…」

「エドワード、目や耳の排除に彼らの力は必要よ。 これは私の権限で決定とさせてもらいます。」

にこにこ笑っているが、彼女の天才的な頭脳には既に実験の具体案が出来上がっていっているのだろう。

「取り敢えず、タッカー支部長へ報告しておきます。」

「いいけれど… 委員会への報告は後ほど、と言っておいてね。 私も同席しますから。」

「分かりました。 支部長にはそう伝えます。 こちらの資料、データを私宛に送って下さい。」

「既に送っておいたから、確認してね、エド。 それじゃ、私は自室でプランを詰めるから。」

「…は、了解です、碇博士。」

やる気と気迫に満ちた彼女とは対照的に、

 男は力の抜けたような返事をして、この部屋から出ていく彼女の背中をただ見送った。





オートパイロットテスト−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………旧熱海。



人気のない夜。 雲のない空には数多の星と大きな満月が一つ。

ここは、月明かりに照らされた旧熱海市。

かつて観光、温泉郷として栄えた地域であるが、現在は小さな工業地帯となっていた。

その一角、異様に高いフェンスに囲まれた工場の正門横にかかっている看板には、

 この地域の最大企業に成長した株式会社バイオマテリアルジャパンとあった。

セカンドインパクト後の日本の遺伝子科学産業を牽引してきた会社の一つである。

ここ数年の特需に経常利益は右肩上がりで、増資、増資と会社は見る見る間に大きくなっていった。

しかし、工場の特殊な生産ラインは短期間では増設できず、

 納期圧縮と連続生産の結果、品質の保持が難しくなっているのが、この会社に働く社員の悩みだった。

外灯の明かりで浮き上がっていた工場の四角い影がぐらりと崩れると、それはすっと離れた。

影の中から闇が生まれた、と表現すればよいのか… 分裂した”それ”は盛り上がって人の形を作る。


……黒マントがタンパク壁製造工場に現れたのだった。


音もなく、ゆらゆらと揺れながら移動する”彼"は時折立ち止まって、辺りを見渡す。

広大な敷地の中、影は誰にも気付かれることなく、目的地を目指して移動を開始した。

また、立ち止まる。

輪郭のはっきりしない頭部のフードを右に左にと動かし、右先にある建物の壁にそのまま消えていった。

工場の高度なセキュリティシステムは全て正常に作動しているが、

 異常を検知する事はなく、まるで眠っているような静寂が変わらず一帯を支配していた。

生産完了後の品質チェックをパスした出荷待ちの荷が保管されている一角。

歩みを止めた彼の先にNo.87と小さくレーザーで刻印された白い板が保管されていた。

一口に板、と言っても一般的な合板のように小さなものではなく、

 ここにあるそれらは幅2m、厚みは60cmあり、高さも6mに達する。

板というより、最早、壁と表現したほうがしっくりとくる大きさだった。

生産ロットと組み番号が暗号英数字によって管理されている板は直立した状態で並ぶように保管されていた。


……じわり。


予告もなく、前置きもない。 …この白いキャンパスに小さな点が現れた。

誰にも気付かれることないであろう、小さな”しみ”。 それは紅色だった。

それの出現と同時に”キンッ”と時間を切り裂いた金属質の硬い高音が辺りに響く。

周りを塗りつぶす黒い影から対照的な白色の腕がすっと前に出ると、今現れたばかりの点に指を向けた。

「ねぇ? そこじゃ詰まらないでしょ?」

誰に尋ねたのか? 彼の独り言を聞いたものはいない。 

タンパク壁の表面に現れた小さな物質は、板から離れて彼の白い指先に吸い寄せられるように付着した。

「…ギリギリだったけれどフィールドの展開が間に合って良かった。 誰にも気付かれずにすんだね…

 ん、あ…そうそう。 これはおまけのプレゼント♪」

白一色になった板に再び手を伸ばして何かを描くように指先を走らせる。

ブワッと複雑な模様が浮かび上がると、それはまるで魔方陣のような模様を描いて消えてしまった。

「よし。 …さーてと、どこにしようかな…」

彼は楽しそうな声を残して、シャボン玉が弾けたかのように忽然と消えた。



………リリスとレイの密談の一週間後。



シンジたちはNERV本部、B棟の地下施設にいた。

シグマユニットに隣接している場所。 ここは、プリブノーボックスと呼ばれている。

この実験場は常時循環する試験設備用の超純水で満たされた巨大なクリーンエリアであった。

そして現在、この実験場には三体の模擬体が用意されていた。

この模擬体の姿はエヴァと同じ大きさであるが、四肢全身があるわけではなく、

 装甲のない片腕だけの上半身で、首や脊椎部分から径の太いケーブルが多数接続されている。

高水圧に十分耐えるように設計された実験管制室の分厚い樹脂製の窓に、白衣の女性が映り込んでいた。

「チルドレン、控室に移動。」

薄暗い水中照明に照らされた模擬体を”じっ”と見ていたリツコは、

 スタッフの報告にチラリと自分の腕時計を見る。

「結構、結構。 ちゃ〜んと予定どおりね。」

「…そうね。」

隣に立っている赤いジャケットの女性に頷きを一つ返して、リツコはマヤの座る席の方へ移動した。

「マヤ、洗浄装置の最終チェックしてちょうだい。」

「はい、すでに先ほど動作チェック完了の報告を受けています。」

「結構。 じゃ、時間になったらチルドレンの誘導を始めて。」

「はい、了解です。」


……この部屋に、見学を希望したマサルを始めマナや戦自関係者の姿はない。


NERVスタッフの慌ただしい息遣いの中、

 正面の窓に投影された4つのウィンドウを見れば、文字列が途切れなく下から上に動いている。

オートパイロット試験。 これはダミーシステム完成へ繋がる実験及びデータの採集作業であった。

前史では、感情が希薄だったレイのパーソナルパターンを抽出して開発されたダミーシステム。

今回は、レイだけではなく、シンジのデータを使用したダミー開発計画も進んでいる。

もちろん、本部から上部組織に報告されているデータは、それこそ全て”ダミー”である。

しかし皮肉にも、この順調な開発経過報告が仇となり、これまでの報告の裏付けとして実証せよ、

 と上から強く迫られたため、仕方なく今回のオートパイロット試験を実施する運びとなってしまった。

作戦課長であるミサトは、パイロットの代わりとなる自立制御ソフトであるという認識だから、

 この実験に対して大いに積極的だった。

EVA独立中隊であれ、作戦課のセカンドチルドレンが駆る弐号機であれ、

 自分の駒として動いてくれるのであれば、人間であろうがソフトであろうが構わない、といったところか。

前史を知るリツコとしては、もちろん反対ではあったが、組織としての手前もある。

結果、ゲンドウ、シンジと相談して、今回の使徒だけは人の手で対処できるだろうし、

 それを踏まえた対策を講じておけば大丈夫だろう、という結論に至ったのであった。

何より、愛する弟の負荷を減らせることが出来、

 かつエヴァの力に頼らず、人の手で対応できる唯一の使徒だ。

見せ場ね、と内心に闘志を秘めたリツコの天才的な頭脳は、ここ最近フル回転で稼働していた。

現在、彼女は、マヤと技術開発部のソフト屋と呼ばれる腕利きのエキスパート集団を使い、

 前史よりも効率の良いロジックで構築した対処プログラムを用意し、

  全てのMAGIにインストールを完了させていた。

さらに、このプリブノーボックスから始まるネットワーク侵入経路に関しても、

 特殊アルゴリズムでリアルタイムに対応できるファイアウォールを独自に用意させた。

(いつでも来なさい。 完膚なきまでに自滅させてあげるわ。)

時折、ゴポポ…と気泡で揺らぐように見える模擬体に、まだ見ぬ使徒を重ねた彼女の瞳がギラリと輝く。

それは獲物を狙う猛禽類の目にも似た鋭さだった。

『チルドレン、プラグスーツ着用後はそのまま待機願います。』

オペレーターのアナウンスが喧騒に包まれている管制室に流れていく。



………控室。



赤い樹脂製のベンチに座った紅茶色の少女は、足を組んだ膝の上に頬杖をついた。

「アンタ、右手、治ったのね…」

「え? あ、うん。」

アスカは、指をにぎにぎと動かしてみせる白銀の少年を見やって先日のリツコの部屋を訪れた時を思い出す。


〜 レベル12 〜


時刻は19時。

…ピピッ

インターホンのボタンから指を離して、カメラに視線をやる。

「リツコ、いる? …私だけど。」

『…アスカね、どうぞ。』

”プシュ…”

エアの作動する音と同時に、鋼鉄製のドアが右にスライドした。

「いらっしゃい。 …さ、そこに座って。」

リツコはイスをクルッとターンさせて、右手側にある応接用のソファーをアスカに勧める。

「ごめんなさいね、コーヒーしかないの。 …ブラックでいいかしら?」

こくりと頷く少女を見て、

 カップにコーヒーを注いだ白衣の女性は、それをテーブルに置くとアスカの目の前に腰を落とす。

そして、そのままふわりと足を組むリツコ。 

(あ…)

それは、自分と違うどこかエレガントな動きだった。

普段、あまり女性を感じさせない彼女だが、やはり大人の女性の色香は十分にある。

短めのスカートと黒いストッキングのラインが妙に艶めかしい。

いつものリツコと今のリツコ… その妙なギャップに、アスカは知らずドキッとさせられた。

「あら、どうしたの?」

実験を指揮する時とは質の違う優しい声音も、またアスカを落ち着かなくさせる。

「…な、なんでもないわ。」

実はアスカにとって、こうしてリツコと二人きりで話をするのは、これが初めてのことだった。

この部屋には何度も来て、彼女とも話をしてはいるが、その横にはいつもミサトがいたのだ。

テーブルを挟んで、二人は向かい合う。

(リツコの雰囲気が違う? …ミサトがいないから?)

そんなことを考えてしまったアスカは、

 一体何から話せばいいのか、あらかじめ考えていなかった事を少し後悔した。

「どうしたの? なにか話があるんじゃなかったの? たしか、聞きたいことがあるって…」

「…っ! そうよ、聞きたいことがあるの。」

我に返ったような少女の青い瞳を見ながら、リツコは先を促す。

「…リツコにとって、シンジって何?」

漠然とした想定外の質問に、それを租借しながらリツコは少し困ったように眉根を寄せた。

「ずいぶん抽象的な質問ね…」


……聡明なアスカは、どうにかしなきゃと言葉を探して、目線を自分の足元に顔を伏せる。


「ああっ そうじゃなくて… えーと、ファーストとか、シンジってリツコが面倒を見ているんでしょ?」

「面倒? 私は彼らの生活に干渉していないわ。 だから”面倒”なんて、みていないわよ?」

「…ああ、そう言うんじゃなくて、ほら、あいつらの体調管理とか、怪我とか…

 私って、リツコじゃなくて、病院の医者じゃない?」

つまり、チルドレンとしての扱いに差を感じると… 白衣の女性は少女が何を言いたいのか理解した。

「…そうね。 疾病や怪我はもちろん、体調に至るまでチルドレンのメディカルケアは、

 基本的に私たち技術開発部が管理し、また、その責任を負っているわ。 でもね…」

「でも?」

少女の怪訝そうに変化した表情を見ながらリツコは言葉を続ける。

「アスカは少し違うのよ。」

「私だけ…違う?」

「ええ。 アスカは、中央作戦本部に所属しているから…

 あなたがドイツから日本へ招集された当初、そちらから圧力があってね。」

(大人社会の派閥が…ってやつ?)

「…ふ〜ん。 じゃ、何でシンジたちのデータを病院の医者に教えないの? 命にかかわるって…」

「っ!」

リツコの瞳の色が変わったような気がする。 いや、雰囲気が変わった?

「…誰から聞いたの?」

先ほどとは打って変わって、それは堅い口調だった。

「え?」


……アスカは自分の立ち聞きが咎められると思って思わず身体を固くした。


「…アスカ、それを誰から聞いたの?」

さらに語調が厳しくなって、まるで実験が思わしくない時のような口調だった。

その迫力に、アスカは無意識に渇いた唇をペロリと舐めてモゴモゴと動かす。

「え、えと。 …聞いたっていうより、聞こえたって感じで…」

ギラリとメガネが光って迫力が増す。

「いつ? どこで?」

「この前、入院して検査したとき…」

「…そう、アスカ… ちょっと悪いけれど、中座させてもらうわ。」

「え…」

おずおずと答えていたアスカの返答を理解したリツコは、唐突に立ち上がると携帯電話を手にした。


……そして、そのまま指を走らせてダイヤルする。


「……ええ、いらっしゃいますか? ………お疲れ様です、赤木です。 ……」

席を少し離れた場所でこちらに背を向けたまま喋る女性の声は、明らかに怒りの色を含んでいた。

「……ええ、そうです、教授。 先日の件ですわ。

 …何度も言いましたが、チルドレンの情報については最重要機密と言う事はお分かりのハズです。」

アスカは、所在なさ気に目を泳がせてから、視界に入ったコーヒーカップに手を伸ばし少し口をつける。

…が、意識と耳はリツコの方へ向いたままだった。

「ですから、セカンドチルドレンについては中央作戦本部の意向で、

 特例として”特別”にそちらにお任せする約束でしたが、

 残念ながら病院の情報セキュリティに問題があるようです。 …ええ。

 ある医師がチルドレンの情報を漏えいした疑いがあります。 そうです。 ええ。」

なんだか、話が大きくなっていっているような…

自分の立ち聞きが情報漏えい問題にすり替わっている?

「これは、重要な規定違反に当たります。 セカンドチルドレンの安全保障にも関わる重大な問題です。

 よって、現時刻を以ってセカンドについてもファースト、サードと同様といたします。

 情報管理規定により、そちらのネットワークを一時封鎖します。

 そうです、彼女のデータを不正に利用されない為の処置とご理解下さい。

 ええ、もちろんです。 特殊監査部及び保安部を派遣させますので彼らの指示に従って下さい。

 …以上です。」

”ブツッ”

たぶん相手の反論や言い訳など一切聞いていなんだろう、というのが分かる電話の切り方だった。

”ピ、ピ”

「マヤ、現時刻を以ってNERV総合病院のネットワークを即時停止、全端末をMAGIの制御下において。

 セキュリティレベルはSAA級に設定。 病院側の操作は許可あるまで全て禁止。

 全ての医療データをコピーの後、加持リョウジ一尉に病院のデータサーバー破棄を依頼して頂戴。」

『はいっ! 了解しました。 …ネットワーク上にある全ての対象をMAGIの管制下に切り替えました。

 各端末のデータの操作履歴もトレースしておきますか?』

「そうね。 加持君の負担を減らせるわね。 お願いできるかしら?」

『すぐに開始します。 あと、何かありますか、センパイ?』

「最優先で、セカンドチルドレンのデータがコピーされたか、現在までの履歴を詳細に洗って。

 コピーされた場合はあらゆる手段を持って破棄するように、と加持一尉に伝えて。」

『それですとMAGIに負荷がかかりますが…』

「”赤木リツコ”で許可します。」

『声紋コード確認、了解しました。』

”ピッ!”

「ふぅ…」

電話を切って、一息つく女性。

「えっと、そ、その…」

アスカが声を掛けると、リツコが徐に振り向いた。

「…聞こえていたかもしれないけれど、これからは私が貴方のケアをするわ。」

それは、先ほど電話で喋っていた人物が発したとは思えない、とても優しい声音だった。

「え? そ、そうなの?」

「ええ。 碇司令に指示された最初のプランに戻るだけ、だけど… ね。」

リツコはソファーに座り直すと、蒼いネコと銀ネコが寄り添ったコーヒーカップを手にした。

「あら、ずいぶん温くなっちゃったわね。 淹れ直すけれど、アスカは?」

「あ、いいわ。 まだこれ残っているし、そんなにノド渇いてないし。」

「そう?」

「でさ、病院の医者が私を診ていたのって、…ミサト絡み?」

「そうね、もちろん彼女だけじゃなくて、中央作戦本部として正式に手続きを踏んだ上での話だけれど…」

シンジたちの専属医療チームは表立っていないので、リツコはこの事を伏せて話を進めた。

つまり、中央作戦本部として、唯一所属しているチルドレンのケアを重要と考え、

 自分が初診を行うより最初から専門医に診せた方が効率的である、そうアスカに話したのだ。

(…これを機に、あの医療チームを公にした方がいいかも知れないわね。)

「じゃ、何でシンジ達はそうしないの?」

もっともな質問に、予想どおりとリツコは口角を少し上げた。

「先ほどの電話が理由よ。」

「あ…」

(チルドレンの情報は最重要機密扱い…)

アスカは青い瞳を少し大きくした。

聡明な娘ね、とリツコは大きく頷いた。

(…なんだ、結局…大した理由なんてないのね…)

リツコの説明を一通り聞くと、アスカは自分とシンジたちの待遇の差は所属の違いだけだと分かり、

 こんな事を一々気にしている自分がなんだかとても子供っぽいように思えた。

だから、彼女はこの事について、これ以上訊こうとは思わなくなった。


〜 控室 〜


(…ま〜大した話じゃなかったわね…)

横目でシンジを見ていると、実験管制室からの指示が聞こえた。

『チルドレンは、準備室に移動してください。』

シンジ、レイが移動するあとに、アスカはそのままついていく。

『チルドレン、準備室に移動開始。』

アナウンスの声が耳朶を打つと、リツコはマヤの横に立ってモニターに目をやった。

(あら、三人とも同時?)

クリーンエリアに入る為の準備室に入ってきたシンジ、レイ、アスカが画面に映る。

リツコは、実験の要領書を丸めて手にしているミサトを見た。

(これは、あとでシンジ君に謝らなければいけないわね…)



………総司令管執務室。



「お待たせしました。 こちらが作戦コード”D−MD−2nd”の報告書です。」

「うむ。」

報告期限の1時間前に現れた男は、

 ボサボサに伸ばしただけに見える髪を一つに纏めてはいるが、いつものヨレヨレのシャツ姿ではない。

珍しくも彼は、特殊監査部の士官服に身を包んでいた。

(ふむ… これは”表”の仕事、ということか。)

そんな男の姿を見ながら、冬月コウゾウは手渡された資料に目を落とし表紙をめくる。

「…首尾は?」

「問題ありません。」

ゲンドウの短い問いに、これもまた短い答え。

「そうか。」

「加持君、ここにある病院側の抵抗とは?」

報告書をざっとチェックしていたコウゾウが、ゲンドウに見えるよう机に報告書を置いて指摘した。

「ええ、どうも一部の医者がこちらの意図を理解していなかったようでして…」

そう言いながら、リョウジはこの仕事の顛末を記憶から呼び起こした。


〜 部屋 〜


”ピピピッ!”

PCのキーボードを叩いていた指は、突然鳴り出した呼び出しの音にピクリと小さく反応して動きを止める。

「…はい、もしもし?」

腕を伸ばして支給品の携帯を手に取ると、耳に当てたそこからは聞き知った女性の声が聞こえた。

『伊吹です。 お疲れ様です、加持一尉。 赤木博士からの仕事です。』

「お、マヤちゃんか。 元気かい?」

『はい、元気です。』

「本当に?」

『ええ、本当に。 どうして、そんなことを訊くんですか?』

「ははっ 何でも最近、りっちゃんに付き合って徹夜続きだったらしいじゃないか。」

『良くご存じですね。』

「そりゃもうマヤちゃんの事は何でも知っているのさ。」

『ふふっ NERVの女性職員のこと、ですよね。 葛城一尉から詳しく聞いてますよ?』

「おっと、こりゃまいったな。」


……他愛のない会話も長過ぎれば面白くなくなる。 加持はキリッと声色を切り替えた。


「…それで、りっちゃんの仕事って?」

『はい、詳しくは加持一尉宛に送ったデータを確認して下さい。 コード”D−MD−2nd”です。』

彼女のPC操作は会話と同時、リアルタイムである。

どうやら、通話と同時にこの端末に送られていたらしい。

そう理解した加持は、自身のモニターに目をやって手元のマウスを操作した。

「了解、今確認するから少しだけ待ってくれ。」

頭文字に消去、”デリート”を意味するDとはね… こりゃ、やばい仕事か?

ああ、発令所経由だから”それ”はないか…

加持は携帯を肩と耳で挟み込むようにすると、銜えたままのタバコを灰皿に押しやった。

添付ファイルを開封する為の24桁の解除パスを正確に入力し、送られてきた資料を目にする。

『…加持一尉の開封を確認しました。 命令書どおり現時刻より速やかに開始して下さい。』

「了解。 保安部レベルB級職員15名にCQB用の武装。 特殊監査部A級職員5名にはC装備を通達。

 10分後に状況を開始する。 各員、集合はジオフロント中央ブロックのエレベーターホールだ。」

『発令所、加持一尉のコードを承認。 各部へ通達します。』

「よろしくな、マヤちゃん。」

『はいっ!』

歯切れのいい返事を最後に、加持は携帯の通話を切るとそれを胸ポケットに仕舞った。

端末の電源を切り、立ち上がって再びソフトケースからタバコを取り出すと、安物のライターで火を点す。

振り向けば、この狭い部屋にある三連のロッカーが目に映る。

加持は、普段は開ける事のない左端の取っ手を引き、今次作戦に必要な装備に目を走らせた。

(…ま、非武装の病院だ。 こんな物騒な装備はいらんわな…)

鼻から紫煙を吐き出した彼は、ゆっくりとした手付きで扉を閉めると、使い慣れた右端の扉を引き開ける。

その中には、愛用のオートマチック拳銃を収めたショルダーホルスターが吊り下がっていた。

(用心に越したことはないが… 本当は俺、こういうの好きじゃないんだよね…)

そんな思考とは裏腹に、訓練を積んだ身体は素早くホルスターに腕を通して、ベルトを締め上げていく。

(ま、CQB装備の厳つい男どもを見りゃ、素人は反抗する気なんて起きんだろうしな。)


……使わないだろう拳銃の重みを身に纏い、士官服でそれを隠した加持は廊下に出て行った。


彼の計算どおり、5名のサングラスの男の指揮下で機能する15名の保安部員は、

 総合病院の事務所に現れた瞬間、その場を支配した。

「全員、動かないでください。」

先ほどから原因不明のサーバーダウン。 端末も一切の操作を受け付けなくなった。

そんなパニックにも似た状況の中、突然と現れた男たちの姿に職員は動きを止めて目を瞬かせた。

まるで銀行強盗のようなシチュエーションだが、ここは病院だ。 一体なんなのだ?

そんな空気を無視して、サングラスの男は一歩足を進めると再び口を開いた。

「我々の指示に従ってください。」

素早く5グループに別れた彼らは、作戦指示どおりの状況を進行していく。

1グループは地上の一般外来、緊急外来の玄関に走り、

 別の2グループも同じように地上の入院患者を管理する管理棟へ。

残りの1グループをジオフロントの事務所に残した加持は、

 最後のグループを引き連れて目的地である地下2階の情報処理室へと向かった。

さて、この非日常の事態を目の当たりにした病院の職員は恐怖から一歩も動けなかったが、

 乱入してきた彼らは無用な暴力をふるうこともなく、妙な静けさだけが辺りを支配していた。

彼らの指示は、OA端末への接触禁止。 それ以外は、各員へ挙手し相談せよ、であった。

病院の表面は通常の空気のまま、外来で訪れる市民は内部の異状を感じることなく平穏な時間が流れている。

医療現場に従事する医師は、診察に使用する端末が壊れてしまっていたので、

 看護師に紙のカルテを用意してもらい、患者の診察を継続していた。

リノリウムの廊下に男たちの堅い靴音が響く。

各グループから入ってくる報告を耳に装着したインコムで聞きながら地下へ通じるドアを目指す。

そこは、病院関係者でも一部の人間しか立ち入ることができないセキュリティブロックだった。

先ほど借りたキーをスリットに通す。

”ピピッ ピー”

「おや?」


……ドアのロックが変更されている。


「加持一尉、これは…」

サングラスの男が顔を向けてリョウジを見る。 その加持は少しだけ目を細めた。

「…先客だよ。 サーバーがダウンして30分。 ネットワークが使えないなら、本体から直接ってな。」

急ぐぞ、と続けた彼は、拳銃を取り出してロック機構そのものを破壊する。

軍施設でもない一般病院の扉は、3発の銃弾で簡単に地下への道を解放した。

アサルトライフルを構えた保安部員が先頭になり、男たちは先へ急ぐ。

そして、停電に対応するための無停電電源装置のフロアの下に、この病院の情報処理室はあった。

扉の周囲に男たちが取り付くと、地上の入口をロックしたことで安心したのか、

 それとも余程慌てていたのか、部屋の鍵は施錠されていなかった。

加持の合図で、バイザーで表情の見えない保安部員が慎重に扉を開いていく。

2cmほど開いたそこからCCDカメラを蛇のように忍ばせて、中の様子を探る。

そこには、細身の男が一人、モニターに身を寄せていた。

『これだ…』

CCDに内蔵されたマイクが拾った中年男性の声がインコムから流れてきた。

周りに気を配る余裕なく、一心不乱に端末を弄っている。

「加持一尉、気絶させましょうか?」

「…いや、彼には色々訊きたいことがある。 このまま乗り込むとしよう。」

加持の合図を確認した男は、そのまま勢い良くドアをスライドさせた。

「手を上げろ!」

雪崩れ込んだ保安部員の怒声が部屋に響き渡る。

狐のように細かった目を大きく見開いた白衣の男は、突然の事態にただ身体を硬直させた。

「NERV保安部だ! 手を上げろ! そこから離れるんだ!!」

「わ、分かった! 分かった!」

男は両手を上げて、ゆっくりと足を運び保安部員に促されるまま部屋の中央に移動した。

「すみませんね、お仕事中に。」

加持はそう言うと、男の操作していた端末のモニターを見た。

(端末はロックされているんじゃなかったか? ほう、これは…)

バックアップ用のスタンドアローン端末にアドミニスター権限でログインされている…

”ピピピッ!”

「…加持だ。」

『第一発令所の日向です。』

「日向君か、どうした?」

『伊吹二尉から報告です。』

「マヤちゃんから?」

『はい、作戦コード”D−MD−2nd”の対象データについて、1時間前までコピー履歴なし。』

「了解。 マヤちゃんは?」

『現在、情報分析室にいます。』

「そうか。 助かったと伝えておいてくれ。 こちらも、もうすぐカタがつく。」

『了解しました。』

携帯を切ると、リョウジは保安部員にボディチャックを受けている男を改めて見た。

保安部員は男の所持品を手近にある腰ほどの高さの箱、データベースサーバーの躯体の上に並べている。

その中の携帯に、加持は手を伸ばした。

「これ、見てもいいですかな?」

「ッ! それに触るな!」

今まで大人しくこちらの指示に従っていた中年男性は、人が変わったかのように吠えた。

「それは私の、個人所有の携帯だぞ! プライバシーの侵害だ!

 第一、捜査令状はあるのか? それに、お前らNERVは警察じゃないだろう!」

「現在、この病院に関しては特務機関NERVの特別権限、J−1が適用されています。

 機密保持に関して、警察権は言うに及ばず司法権まで日本国政府より認めていただいていますよ。」

加持は、にやりと口の端を上げて、構わず男の携帯を手にする。

折り畳み式のそれを開くとLEDが点滅しており、どこかと通信を行っていた。

(まさか…)

そう思っていると、通信完了の文字がモニターに表示されてしまう。

(くそっ! この携帯経由でどこかにデータを送っていたのか!)


……リョウジは先ほど端末から離れる際に、男がキーを操作したのを見逃さなかった。


特務機関NERVの特殊監査部、日本国政府のスパイも兼任し、さらにゼーレに使われている男には、

 この男がアスカのデータを持ち出そうとしている事は容易に理解できていた。

だから、この携帯のメモリーに無線で転送しているのだと思っていたのだ。

しかし。 キツネ顔のこの男は、さらにセーフティに事に臨んでいたようだ。

携帯を経由してどこかにデータを転送したのだ。 そして、それは既に終わってしまった。

…携帯の通信モードが、速度を優先した無線LANと言うことは、この病院内部の誰かに転送したんだろう。

加持はインコムの通話スイッチを押した。

「地上で待機しているグループへ。 病院関係者の出入りを報告してくれ。」

『…緊急外来に出入りはありません。』

『管理棟正面入口、なし。 また病院の正面玄関は市民の往来以外ありません。』

『こちら管理棟、裏口。 先ほど医師が自宅へ帰られました。 夜勤明けだそうです。 シフト確認済み。』

(それだな。)

「これから予定どおりメインサーバーを破壊する。 地上に待機中の各員は引き続き現状を維持せよ。」

『『『了解。』』』

加持は通話を切ると、部下に目をやった。

「現在、技術開発部の伊吹二尉が病院のデータをMAGIへコピー中だ。 完了報告の後、破壊しろ。」

「ハッ!」

「じゃ、俺はちょっと出てくるわ。」

「加持一尉、何名か保安部員をつけますか?」

「い〜や、大丈夫だろ。 保安部の車を一台手配してくれ。 …ところで、」

キツネ顔の細い目と視線を合わせると、中年の男は拘束されたまま口を開いた。

「ふん、脳神経内科の山口だ。 なんだね?」

「先生、どうしてそこまでして、チルドレンのデータを?」

「もちろん、全人類のため、後世の研究のためだよ。」

ヒクヒクッ、と右の目じりが不自然に痙攣する。

「…研究、そうですか…」

加持はそう言うと、服を脱ぐような自然な動作でホルスターからオートマチック拳銃を抜いた。

そのまま安全装置を外して、添えた左手で銃身を引く。

マガジンから実包が薬室に送り込まれ、鈍く光る仄暗い銃口がゴリッとこめかみに当てられる。

冷たい金属の感触。 その現実に、自分の置かれた現状に、知らず男の額から冷たい汗がつぅ…と流れた。

無慈悲な暴力を押しつけたまま、無精ひげの男は淡々と口を開く。

「嘘はいけませんよ、嘘は。」

「嘘? 何が嘘だ? 私が、なんで嘘などつかねばならないんだ!? この私が!」

「…あなたは病人を見るプロでしょう。 先生…私は嘘を見破るプロなんですよ。 分かります。」

加持は耳のスイッチを押す。

「先ほど帰宅した医師の名前、住所、所有している携帯情報、車、バイクを持っているならそのナンバー。

 直ぐに照会してくれ。 …ああ、それと。 そいつの現在位置の特定も頼む。」

『了解。』

地上待機を継続している部下は、

 特殊監査部専用のPDAを懐から取り出して、1分もしないでMAGIから情報を得るだろう。

「さて、先生には少しお付き合いを願いますよ。

 あらかじめお断りしておきますが、裁判などを期待せぬように。」

「な!」

死刑宣告のような言葉をにやけた顔で言った男は、医師の耳元に口を寄せた。

「…私は、上に報告せねばなりません。 あなたの動機、正確に教えていただけませんか?

 協力していただけるのでしたら、情状酌量の余地が生まれるんですがね。」

「くっ…」

”ピピピッ!”

「おっと。」

加持の携帯に部下からメールが入る。 それを素早く確認した加持は、医師に小さく会釈した。

「では、また後ほど。」

そう言うと、部下に目で合図を送って加持は地上へ急いだ。

(まったく…やれやれだな。)



〜 総司令官執務室 〜



「ほう、情報が外に漏れたと言うのかね?」

腰に手をやったコウゾウに、加持は小さく頷いた。

「はい、病院用携帯のネットワークは病院の運用に支障をきたすという判断から遮断していませんでした。

 そこを上手く突かれた形ですね。」

手を組んだまま、ゲンドウが口を開いた。

「その准教授はどうした?」

「現在、NERV本部の懲罰房に拘留しています。 聴取も終わっています。」

それを聞いて、副司令官である冬月は抑揚のない口調でリョウジに問うた。

「それで、データはどうした?」

「はい、病院でのタスク終了を待ってからでは遅すぎると判断し、私が単独で追跡しました。」



〜 商業バン 〜



”バタンッ”

用意させた車から降りて、取り敢えずタバコに火を点けた。

「ふ〜」

今日も相変わらず日差しが強い。 ジリジリとアスファルトを焦がす熱線にうんざりしながら、周りを見る。

街外れの郊外。 コンビニの駐車場に目標の車が止まっていた。

相手は本当に素人のようだ。

携帯の電源すら切っていない相手の捜索は、NERVにとって造作もないことだった。

加持は自分の携帯に送られてきた相手の顔写真、プロフィールを確認すると防犯用カメラの死角に移動する。

(ここで取引先と”ブツ”の受け渡しをするのか?)

それとなく店内を観察すると、雑誌コーナーに目標がいた。

しばらくすると、その男は雑誌を手に取り飲み物コーナーへ進んでいった。

緊張感のかけらもない…

あの准教授は本当のことを言ってないんだな…

たぶん、彼は携帯に送られてきた情報を預かってくれ、とか、

 そのデータを誰それに渡してくれ、程度の情報しか与えられていないのだろう。

(店の中で、と言う可能性は低いだろうが、相手に接触される前に終わらせよう。)

加持は半分になったタバコを消すと、コンビニの中へ入っていった。

それとなく男の動静を見ながら、足を進める。

見事に気配を消して移動しているこの男は、よほど注目していない限り素人に認識できるものではない。

入店の際に加持を見たレジのアルバイト店員ですら、彼の存在は直ぐに意識の外になった。

男の横にさりげなく立つ。 夜勤明けと聞いた彼は、晩酌で呑む缶ビールを選んでいた。

(さて、どうしたもんかね…)

相手は素人であり、かつ犯罪の片棒を担がされているとは気付いてないだろう。

将来ある若手の医者だ。 怖い思いをさせる必要もない…

リョウジは男に声を掛けた。

「すみません、ちょっとよろしいですか?」



〜 総司令官執務室 〜


「こちらがメモリーの実物です。 彼の携帯は押収し分析後、すでに返却してあります。」

適当に話を合わせ、注意深く誘導したところ、彼は素直に携帯を渡してくれた。

今回のデータを手土産に、

 教授職を約束させていた准教授が犯した罪と受ける罰については嘘を言っていないので、

  彼はこれからも自分のことを捜査一課の刑事だと思い続けるだろう。

それはともかく…

「そうか。 ご苦労だった、加持一尉。」

「いえいえ。 久しぶりに真っ当な仕事でした。 楽しかったですよ。」

男の軽口にコウゾウは小さく頷いた。

「ふむ…」

ゲンドウは机の引き出しを開ける。

「…では、君には本来の仕事に戻ってもらう。」

そして、アメリカ行きの航空チケットが加持の瞳に映った。


……”カシュ!”


無機質な準備室にチルドレン全員が入ると、後ろで扉が閉まった。

そのドアの反対側に、人一人が通れるほどの細長い三枚の扉が見える。

『では、プラグスーツを脱いでください。』

女性オペレーターのアナウンスと同時に細長いそれが上下にスライドして口を開いた。

何を言われたのか、一瞬ポカンとしてしまったアスカの絶叫がこの準備室に木霊する。

「………えぇぇぇ!!!」

実験管制室の指示に、セカンドチルドレンは目をむいた。

確かに今日の試験では、プラグスーツを脱ぐことになっていたが…

『あ、あの、アスカちゃん、この実験場にカメラはないから、だから…』

女性オペレーターに続いたマヤの慌てた声に、紅茶色の髪の少女は烈火の勢いで食ってかかった。

「そう言う問題じゃなくて、気持ちの問題よ!! シンジがいるのに、脱げるわけないでしょ!!」

と言うよりも、なぜわざわざ脱ぐのにプラグスーツに着替えろという指示なのか?

「…私は平気。」

「アンタに聞いてないわよ!」

…パシュ、という空気の抜けるような音。

蒼銀の少女のボディにフィットしていた白いプラグスーツのラインが緩んでダボダボになる。

「ちょ、アンタ! と、とにかく! シンジ、さっさと出て行きなさいっ!」

「わ、分かっているよ。

 碇二佐より実験管制室。 女子が移動完了したら知らせてください。 自分は廊下に出ます。」

『管制室、了解。 セカンドチルドレンは右、ファーストチルドレンは中央扉へどうぞ。』

若干慌てるように、シンジはドアのロックを解除して廊下に出た。

(…前もそうだったけれど、何で男女一緒にするんだろう。 年頃の男女っていう意識ないのかな…)

精神年齢が高く、さらに肉体関係を結んだ自分たちとは違い、アスカは乙女な思春期真っ只中なのだ。

それに…実際に時間だってそう変わらないはずだ。

いや、さっきのようにアスカが文句を言う分、一緒の方がよほど時間がかかるだろう。

そんな事を思いながら、シンジは廊下の壁にある内線電話を手にした。

『…はい、赤木です。』

「あ、リツコ姉さん?」

『…言いたいことは分かっているわ。 なぜ、同時にさせようとしたのか、ね?』

「はい。」

『…今回のオートパイロット試験の要綱を作成したのは中央作戦本部なのよ…』

「なるほど、今日のプランニングは、葛城さんなんですね?」

『ええ… 彼女、今回の試験に限って、妙にはりきっていて。

 上手くすれば、エヴァを自分でコントロールできるかも、何て考えているのかしらね。』

「そうかも知れませんね。」

『ごめんなさい。 結果、私のチェック不足なのは変わりないわ。』

「いえ、事情は分かりました。 姉さんが謝る事じゃないですよ。」

シンジは、常時多忙の姉にこれ以上は聞かなかった。

『…あ、レイちゃん達、終わったみたいだから、そのまま準備室に入ってちょうだい。』

「了解しました。」

彼女たちが脱いだプラグスーツがクリーニング行きのバスケットの中にそれぞれ放り込んである。

シンジも同じようにプラグスーツを脱いで裸になると、左の扉に入って行った。

”ガシュ”

扉が閉まると、目の前のモニターに”クリーニングスタート”と表示が現れた。

全方位、360度から温水が勢いよく噴き出てくる。

全身が洗浄液まみれになると、それを流してからエアブロウが始まる。

エレベーターと同じように下へ降下しながらシンジの身体は、計17回ほど洗浄された。

”チン"という音と共に、クリーニング完了のモニターが横にずれる。

彼女たちは既に実験用プラグに搭乗済みのようだ。

シンジもそのまま目の前のエントリープラグに後部ハッチから乗り込んだ。

すでにLCLが9割ほど充液されているプラグの中央、インテリアを目指して潜り込む。

がぼぼぼっと肺の空気を一気に抜くのは、慣れていても気持ちのいいものではない。

白銀の少年がインテリアに取り付くと、タイミング良くリツコの声が聞こえた。

『…テスト用インテリアのバックレストにあるコードをこめかみに付けて頂戴。』

『何よ、これ?』

アスカの声が聞こえると、シンジのプラグが模擬体に向けて移動を始めた。

『詳細なデータを得るためのセンサーよ。』

『ふうん…』

『各チルドレンは操縦桿のグリップを高機動モードへ。』

マヤの指示どおりシンジはグリップを握って、ガチャと持ち上げるように展開させた。

『なんか、わっかの付いているケーブルが出てきたわよ?』

『手首にそのバンドを固定してください。』

グリップの下側から出てきた2本のケーブルを伸ばして、左右それぞれの手首に付ける。

『準備は以上です。 こちらから別途指示あるまでは待機願います。』

『りょ〜かい。』

『…了解。』

「分かりました。」

『ったく、オートパイロットの実験で、な〜んでこんな事までしなきゃいけないのよ…』

通常の実験とは比較にならない手間暇をかけた準備に、アスカの辟易とした声が流れる。

そんなセカンドチルドレンに反応したのは、珍しくもレイだった。

『…時間はただ流れているだけじゃない。 エヴァのテクノロジーも進歩しているわ。』

『そうね。 綾波三佐の言うとおり。 新しいデータは常に必要なの。』

レイ、リツコの声を聞きながら、

 シンジはヴァーチャルモニターを呼び出して、オートパイロット試験の要綱を呼び出した。

現状の進捗と、リストを見比べて実験の経過を理解する。

『…って言ってもさー やっぱ、裸っていうのは…』

『このテストはプラグスーツの補助なしに、直接、肉体からハーモニクスを行うのが主旨なのよ。』

今は、各チルドレンのパーソナルデータをリアルタイムで読み取り、

 MAGIメルキオールがデータベースサーバに蓄積させていっているようだ。

この後、模擬体経由でそれぞれの乗機とシンクロを行う。

『ドーラ?』

”ピュイン!”

間を置かず左膝の上、液中空間にウィンドウが展開した。

『はい、マスター。』

『イロウルは?』

『現時点では、まだ感知していません。』

『う〜ん…』

『…マスター。』

『ん?』

ドーラはシンジも気付いているだろう事をあえて口にした。

『もし、ここでイロウルが目覚めれば、前史の時間軸、タイムラインに”まだ”乗っていると思われます。』

シンジの真紅の瞳が彼女の緑色の瞳を見る。

『もしも、この実験でイロウルの襲来がない場合…』

そう言って言葉を切った彼女は、下を向いてしまう。

『どうしたの? ただ前史のタイムラインに乗っていない可能性があるってことでしょ?』

『…その可能性は否定できません。』

顔を下に向けた彼女は暗い表情だった。

シンジたちが逆行した時点ですでに時空次元的変化は起きているし、数度”枝の剪定”を行っているのだ。

だから、前史のタイムラインに乗っている、乗っていないというのは最早、大した話ではない。

時間の揺らぎ、というものはそれだけ柔軟に出来ているのだから。

しかし、もし…今現在、本当に乗っていないとしたら、もっと重大な異常事態の可能性がある。


……なぜなら、世界樹の管理人たるシンジが改変に気付いていないのだから。


最上位システムであるユグドラシルへのアクセス権は自分にない。

こればかりは、マスターであるシンジ自身が調べるしか手はないのだ。

それを言おうとドーラが顔を上げる。 しかし…

「…………」

「?」

ドーラがどこか惚けたような顔で固まっている…

どうしたんだろう?

シンジが声を掛けようとしたタイミングで”ピピッ”とエントリープラグに呼び出しがかかってしまう。

それと同時に、シンジの右側のウィンドウにマヤの顔が表示された。

『これよりテストを開始します。』

続いて、男性オペレーターの声とリツコの号令。

『各セクション及びパイロット、エントリー準備が整いました。』

『了解。 では、テスト…スタート。』


……オートパイロット試験がスタートした。


『テスト、スタートします。 オートパイロット記録開始。』

『モニター、異常なし。』

『シミュレーションプラグを挿入。』

『システムを模擬体と接続します。』

『それではファーストチルドレンからシンクロを開始してください。』

『…了解。 シンクロを開始します。』



………実験管制室。



「サードチルドレン、シンクロスタート。」

「シミュレーションプラグ、MAGIの制御下に入りました。」

リツコの指示に従い、各スタッフが遅滞なくそれぞれの役割を果たしていく。

「おー! はやい、はやい。 MAGI様々だわ。 初実験の時1週間もかかったのが嘘のようね。」

ミサトは投影されたモニターの状況に、満足げな顔だった。

「テストは約3時間で終了する予定です。」

今のところ順調な経過に、責任者である白衣の女性がマイクを手にした。

「気分はどう?」

中央のシミュレーションプラグ01に乗っているレイが答えた。

『…何か違うわ。』

ミサトも手近なマイクのスイッチを押す。

「シンジ君はどう?」

『…葛城一尉、どう、とは?』

系統を無視した割り込みに、シンジの反応は冷たい。

しかし、この実験に意気込み無駄なやる気を見せているミサトが、それを感じることはなかった。

だから、彼女は喫茶店でのお喋りのように気楽な調子で続けた。

「普段との違いよ。 なにか違和感はあるかしら?」

このオートパイロット試験では、チルドレンの状態を常にモニタリングされている。

そして、予定ではオートパイロットプログラム、いわゆるダミーシステムを初運用する事になっていた。

チルドレンからダミーへの切替えを行い、ソフト上の不具合を洗い出す。

もちろん、不測の事態があれば即時停止。 緊急用の対策も施されている。

『そーねー、感覚がおかしいのよ… 何だか右腕だけハッキリして、後はぼやけた感じ…』

質問に質問で返したシンジの代わりに、アスカが答える。

リツコは、再びマイクを入れた。

「綾波三佐、右腕を動かすイメージを描いてみて。」

『はい…』

指示どおり、高機動モードになっている右側の操縦桿を握る。

超純水に満たされた真ん中の模擬体が僅かに身じろぐ。

樹脂製の窓から照明に照らされた右手が動き出した。

「データ収集、順調です。」

(今のところ…)

「問題はないようね。 MAGIを通常に戻して。」

瞬間、左端のモニターがMAGIのシステム画面に切り替わった。

「ジレンマか… 造った人間の性格が窺えるわね…」

独り言のようなリツコの呟きに、ミサトは彼女に視線を巡らせた。

「何言ってんの、造ったのはアンタでしょ?」

「あなた、何も知らないのね…」

呆れの入った声色に、紅いジャケットを来た女性はふんっと腕を組んだ。

「リツコが私みたくベラベラと自分のこと話さないからでしょ!」

(NERVの内部資料を見ていないのね…)

「…そうね。 私はシステムアップしただけ。 基礎理論と本体を造ったのは、母さんよ…」



………第一発令所。



「確認しているんだな?」

ロマンスグレーをオールバックに整えた初老の男性の声は、だいぶ疲労を貯め込んでいるようなものだった。

「ええ、一応。 3日前に搬入されたパーツです。 ここですね、変質しているのは…」

中空に投影されているホログラムモニターには、シグマユニットD−17・第87タンパク壁とあった。

左側にスクロールさせれば、シンジ達のいるプリブノーボックスになり、

 逆の右に展開させればセントラルドグマとなっている。

画面を見た冬月は、ふむ、と小さく息を吐いた。

「第87タンパク壁か…」

シゲルが更に計測画面をズームインさせていくと、スキャナーNO.8766が異常値を計測していた。

「拡大すると、染みのようなものがあります。 …なんでしょうね、これ?」

「侵食だろう?」

上官たる副司令がここにいることを失念していたマコトは、襟を正すように口調を改めた。

「…温度と伝導率が若干変化しています。 無菌室の劣化は良くあるんです、最近。」

「工期が60日近く圧縮されていますから、また気泡が混ざっていたんでしょう…

 ずさんですよ、B棟の工事は。」

シゲルは、肩越しに副司令官を見た。

「…そこは使徒が現れてからの工事だからな。」

「無理ないっすよ、みんな疲れていますからね。」

こんな言葉が出るくらい気を使う余裕もないんです、と言いたいらしい。

そんなものに一々反応するほど若くはない、と冬月はシゲルやマコトの抗議をスルーした。

「明日までに処理しておけ。 碇がうるさいからな。」

「了解。」

メガネの男、日向マコトは少し肩を竦ませて、そのまま受話器に手を伸ばした。



………実験管制室。



「また水漏れ?」

「いえ、侵食だそうです。」

受話器を手にしたマヤは、リツコに報告を続けた。

「この上のタンパク壁みたいですね。」

「参ったわね。 テストに支障は?」

そう問いながら、リツコの脳は違うことを考えていた。

(やはり、来るのね…)

「今のところは何も。」

表情を変えずマヤに返事を返す。

「そう…では続けて。 このテストはおいそれと中断するわけにはいかないわ。」

「委員会、ですか?」

「そうよ。 全く、何を考えているんだか…」

「ま、でもオートパイロットが実用化できれば、

 子供たちを前線に送らないで済むんだから、完成を急くのはしょうがないんじゃないの?」

お気楽な口調のミサトを余所に、オートパイロット試験は順調に項目を消化していく。

『シンクロ位置、正常。』

『プラグ深度、変化なし。』

『シミュレーションプラグを模擬体経由でエヴァ本体と接続します。』

右端の画面がケージのエヴァを映し出す。

「エヴァ零号機、コンタクト確認。」

「引き続き、弐号機のコンタクト確認。」

「エヴァ初号機、リンクライン確立。 模擬体経由での起動を確認。」

「ATフィールド、出力2ヨクトで発生します。」


……その瞬間だった。








第三章 第二十一話 「使徒、侵入(中編)」へ










To be continued...


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