己を抑圧するものこそ己を支えている
抑圧しているものはどんなに小さいことであったとしても
それは己に依存しているのだ
だから依存している己が抑圧しているものに対して知ることこそが定石となる
では定石とは何か、それは後1歩のところで踏みとどまるための方法の一つである
だからといって定石を踏まえれば抑圧するものとうまくつきあえるかというとそうでもない
定石を踏まえるのではなく踏みぬく力がそこには必要になってくるのだろう
力とはその踏み越える知恵に他ならない
ならば知恵こそが自らの存在を支えるための力であるともいえるのではないだろうか
─「Je pense,donc je suis.」デカルト方法序説に対する考察




「なぜ掲載しちゃいかんのですかっ!!」
編集長と書かれた立て札が年配の男が叩いた机の振動でカタリと倒れた。
机に座った編集長らしき男は手を顔の前に組み、目を閉じたまま苦々しげに呟いた。
「社命だ」
「納得いきません!これを他所の雑誌に持っていかれたらどうなるんですか。それにこれだけの内容なら学会で日の目を見るのも明らかでしょう!?」
「俺も納得はいかんよ、だがこういっちゃなんだが仕方ないってこともある。それに審議結果はまだ出ているわけでもない。とりあえずは様子見だよ」
男は手を上にかざし、お手上げのポーズをとる。それで興奮がおさまるでもない年配の男…記者なのだろう。首から下げた名札に記者部の部署と名前が記されている。その記者に編集長は椅子をクルリと回して背を向けて独白するかのように話始めた。
「何があったのかまでは知らんが、NSAが動いているらしい。君もこれについては忘れる事だ。管轄は我々の範疇を越えたよ」
「国家安全保障局(National Security Agency)が、ですか!?」
NSAとは1952年に設立された、国家情報長官によって統括されるインテリジェンス・コミュニティーのひとつであり、海外情報通信の収集と分析を主な任務としている。合衆国政府が自国民をスパイするのは違法行為だが、他国へ諜報活動するのは違法ではない。海外信号諜報情報の収集活動に関して、計画指示し現在も活動している。
その記者が机の上に叩きつけた記事には小さな文字でなにやら書かれていたが、タイトルには大きくこうあった。
「寿命を司る遺伝子部位の変異方式の特定に成功!解明者の名は日本の六分儀ゲンドウ!」



ヱヴァンゲリオン新劇場版:零 -stand alone paradox-

第一話 ヤツが来る!

presented by じゅら様




1

そのころ街の片隅。ビルの影になった一角で男が一人煙草をくゆらせていた。
(…やれやれ)
男の耳元に差し込まれたイヤホンからは、さっきからずっと声が流れている。
『弱そうな男だなぁ。あぁいつものデカブツ連れていくからよ』
『…油断するなとは言わんさ、死にたいのならな』
『ふん!手足の一本や二本かまわんのだろうな?』
『抵抗するなら…な。基本的に捕獲は無傷だ』
『へぃへぃ。そんじゃ始めるとしますわ』
『了解』
『やれやれ…下働きは辛いねぇ、っとおーい!デクいくぞ!』
(ずいぶんと待たされたが…まぁ始めるとするか)
男は片手に携帯電話を取り出すとどこかしらへ連絡し、短く、
「行動を開始する」
それだけ言って通話を終わる。
その周囲では黒いスーツとサングラスを着用した人間が3名ほど大きな袋を持ち運んでいる。
その男たちに片言話して男は表通りに向かって足を進めた。
足元で鳴るはずの足音は濡れているかのようにピチャピチャと音がしている。
その影にさす薄暗い光からでも足元が赤く濡れているのがわかる。
この状況とまるで無関係であるかのような雰囲気の男は傍目には普通のどこにでもいそうなサラリーマンである。
だが、おそらくこの男とすれ違った人間の10人が10人とも誰かに「こんな男をみかけませんでしたか?」と、問われても思い出すことはないだろう。
せいぜい徹底的に特徴を消したこの男の特徴といっても眼鏡を掛けているくらいのこの男は組織の中では非常に単純な仕事を生業としていた。
その仕事は単純にして明解…暗殺である。
日本での表向きの名前は丸子忠和…呼称をホロコーストという。
アメリカの非合法戦闘員で最も優れた暗殺者として名高い彼は任務を未だに一度も失敗したことがない。
(まぁ、この連中が捕獲をしたならこいつらごと─)
そのままホロコーストは気にするふうでもなく振り返らずに去っていった。

*

"おい、あいつなんだよ"
"みたことあるか?"
"おまえ声かけてみろよ"
"嫌だよ、なんで俺が"
"なんか変じゃないか?室内なのにサングラスなんかかけてさ"
"芸能人ってわけでもなさそうなんだよな。ヤのつく人なんじゃねーか?"
"聞こえてないでしょうね"
朝から講堂はざわめきに満ちていた。
「………」
席についてから誰とも口をきかない。
その彼を、講堂中の者たちが男女問わずこそこそと横目で見ていた。
「ねぇ、ユイ。あの人編入生かな。見たことない?」
言われて遅れて席についた碇ユイはちらりとサングラスの男を見る。
「さあ?知らないけど」
答えた後、興味なさそうに手元の本に目を移す。
だが、話しかけてきた相手はユイのそんな態度にも気にも留めず、
「今頃になって編入ってどんな事情なのかしらね」
彼女たちが通っている京都大学は決して楽に編入できるレベルの学校では決してない。
むしろ、単位を落として留年や退学になる者も珍しくはないのだ。
逆に成績優秀な留学生が編入されることがあるくらいではあるのだが、それは大抵外国からの留学生で見るからに日本人とわかる編入生は珍しいのだ。
「そうね。病気でもしてたのかしらね」
「あんまり病弱そうでもないけどねぇ、あはは」
ひそひそ話しながら生徒たちは一風変わった編入者を観察していたのだった。
その様子を我関せずといった具合に堂々と席についている…ように見える男は、
(やれやれ、目立つのは好きじゃないんだが)
だが、実際は、言われている当人は外見とは裏腹に辟易していた。
あまり騒がしいのを好まない男はひとつ咳をした。
そのとたん、周囲は静まりかえる。
だが、本を開いていた彼女…碇ユイは周りを見渡した後、小さくため息をつくと席を立った。
そのまま男のまえまでくると、
「すいませんが、講堂内でのサングラスの着用は御遠慮願えませんか?」
そう話しかける。
男は寡黙に彼女に視線をかけている…ように見えた。少なくとも周囲からは。
生徒たちからしてみれば長い時間の沈黙だった。だが、実際にしてみればものの数秒だったろう。
「…ああ、すまない」
こう言って男がサングラスを外した時にはそこらから安堵の息が漏れる音がしたが、当人たち…いやユイにしてみれば動揺するものであった。
サングラスを外した男の視線が、まるでどこかで逢ったことがある人が懐かしんでいるような…そんな視線だったのである。
彼女にはもちろん覚えはなかったし、こういった男に注意をしたら何か反論でもくるのではないかという思いがあったため、意表をつく結果となり自然と数秒見合わせることになった。
なにか、知らないことがこの男の過去から懐かしむ気持ちを喚起させたのだろうとそう思うことにしたユイは、一つだけ確かめることにした。
「あの、どこかでお会いしましたかしら?」
「…いえ、他人のそら似でしょう」
男もそう返したため、その場はそれでお互いそのままになった。
ただ、男の内心はというと、
(想像なんてしたことなかったからな。バレるわけでもないが)
と、こういった具合で想定外であることと好奇心、懐古心が交錯してしまって、それを隠すために無愛想とも思える対応しかできなかったのである。
まさしく内心は混乱の極みといったところだったのだろう。
一方の碇ユイはというとそんな男の内心の動揺も知る由もなく、ついくすくすと笑ってしまいそうになる衝動をこらえていた。
(あんな大人びた感じだったからどういう返事をするのかとおもってたら…なんだか意外とかわいいのかも)
このとき彼女はその後自分が遭遇することになる運命のことなど、このときは微塵も想像していなかったのである。

2

…そこは、何処かも知れぬ、明かりが灯っているにしても白すぎる空間だった。
だが、空気の淀みもなく不自然なほど澄んだ場所。
そう、病院の手術室あたりが似た様な具合かもしれない。
そんな不自然すぎる場所…
「そして気がついたとき、目の前には赤い海が広がっていたというわけだ」
「人為的ナモノ、イヤ、地球人類以外の干渉ガアッタカモシレナイ…ナ」
そこには2人の男の姿があった。
一人は明らかな成人男性で、もうひとつは…人間にしては、やけに細すぎる腕と足をもったダルマ…あるいは手足の生えた風船とも見える胴以外が細すぎなシルエットである。
「ありふれた─とは、言わないが少なくともこの星はこうやって滅んだ。ただ、それだけさ」
目を細めて男が片頬で笑う。
脇には書類が片手では持ちきれないほど積み重なっている。
これだけは持っていきたいと手放さなかったらしい。
場所柄というものを考えればそのとても穏やかな表情はそぐわない、しかしその若さに似合わない余裕のゆったりした動作で男は話している。
おそらくその星で、たった一人生き残っていた最後の人類…薄いブルーの貫頭衣を身に着けた彼は自分の記憶をなんでもないかのように話す。
互いに話しているが、まるで友人との会話のようであり、穏やかな空気が漂っている。
「マズ、大キナ疑問トシテハ2ツ」
そうは言ったが、もう何度目かもしれない質問だった。
風船のようなモノは器用に額を触手のような指で掻く動作をして、下から舐め上げるように顔色を伺う。
「何?」
ソレは確認するように切り出す。
「1ツ目ノ、使徒?突然現レルノハ、到底生物ラシクナイ。生物トイウヨリモ生物ヲ真似タ何カトイウ気ガシマス」
「それを知っているっていうの?」
こちらを伺う目。だが知っている、それは言って欲しい目だ。
期待しているんだな…と、明らかな溜息が自然と出るのを自覚し、苦笑とともに会話を続ける。
「ソウデスネ、目ガ、知ッテイル目ヲシテイマス」
「ふーむ、そうゆうのよく判断つきますね」
レコーダー端末兼生態保護用ロボットの手が小さく握りこまれる。
そんなロボットAIの気持ちを知ってか知らずか、どこか楽しげに人指し指を立てて黒板を前に講釈をする講師のように後ろを向いて話を続ける彼。
「なんていうことはない、インパクトを計画した人はよほど皮肉屋だったんだと思うよ。使徒というのは日本語でいうと"シト"そして同じ発音でcytoというのがあってね、細胞っていうギリシャ語さ、っと英語でも同じだっけかな。さっき話した死海文書…あれらの言葉と同じでね。」
「…死海文書ヘブライ語ト言ッテナカッタカ?」
ロボットのAIは返答しつつ、言われた事を吟味する。
ギリシャ語の細胞?でっかいゾウリムシが襲ってきたわけでもあるまい。
細胞ということは細菌みたいに生物に感染する…バイオハザードのようなモノということか?
いや、でもそれだと人間を始めとした動物が変容して使徒になったという記録はないこととは矛盾するか。
細菌じゃないならそれは何だ?いや、そもそも何の細胞だ?
「大体はね。けど死海文書の書かれた時代はローマ軍というのがヨーロッパと呼ばれた地域を席巻していてね。ドイツ・ギリシャ・フランス・英語あたりは言語がまざっていたらしいんだ。まだ英語も地方の言語だったころだね」
「使徒ガ細胞?単細胞生物ニヨッテバイオハザードガ起コッタト?」
「いやいや、セカンドインパクトで爆散したアダムの細胞ってことだよ」
(───!)
セカンドインパクトと彼が言ったモノ以前に使徒は現れていないらしい。
で、あるならばそういった結論にもなるわけだが…
別星系生物の関与は否定するものではないが、それにしても、
「同時に何百体トカ出テキタトハ言ッテナカッタ。1匹ズツダト聞イタガ」
「細胞だけで再生ってできないんだ。アダムの爆散したコアが核になって再生するのさ。同時に何体も来なかったのはコアの大きさによって再生速度が変動するんだってさ」
「ドウヤッテ調ベタ?」
そろそろ情報整理の時間が必要かもしれない。
今までだけでも情報は自滅か滅ぼされたかの判断のはつくわけではないのだが、この男との会話もそろそろ5時間が経過しようとしている。
これ以上は捕虜保護法と照らし合わせるほどもなく休憩が必要だろう。
「もちろん調べたさ、納得がどうしてもいかなくってね。そしたら推論の域をでないものではあったけどあったのさ。いやぁ、たどりつくまでの間に似たような情報はあってたとはいえ苦労させられましたね。けどゼーレと言われた裏で計画を練っていた人たちは生物学や動物行動学、それに細菌学などのバイオ関係の人間があつまっていたんだし、結構ヒントらしいものは転がっていたように思います。あぁ、ネルフの技術部長も生物学とバイオ関係だったかな。もっともディラックの海とか何十年も前に非存在の証明がされたモノを大真面目に語っていた眉唾モノの人間だったけどね」
「結構トンデモナイ人間ガ中心人物ダッタンデスネ」
彼の纏っている雰囲気は途端に霧散して彼は意外な話をされたかのように可笑しそうに笑う。
「っくく。あはは、そうだね」
「2ツ目。何故サードインパクトハ計画サレタ?」
「それこそ簡単さ、世界中に散らばったアダムの細胞を一掃するためさ。一方でエヴァンゲリオンなんてものを作って再生した敵を倒し、いつ終わるとも知れない戦いを終わらせる為にさ」
そりゃ秘密にするだろう。知ってれば普通の生命体なら全力で逃げるか邪魔するだろう。
逃げた実験動物が麻酔銃もった人間を前に「だいじょうぶだから」と言われるのと似た様な状況なのだろうか?
いや珍しい事だが頭が混乱しているのがわかる。さすがにそんな例えはないだろう。
だが、言える事としては情報公開は絶対にできないということだ。
パニックどころじゃないだろう・・・・
「ソノタメニ全人類ニ、死ンデクレ、言エル訳モナイ・・・デショウネ」
「そりゃ前例もないぶっつけ本番だったし、普通の人間なら拒否して当たり前」
そういって彼はあきらめの表情でお手上げといった風に一息もらした。
彼の立場を想像してできるだけ暗くならないように注意して尋ねてみる。
「恨ンデイマスカ?」
「当然!」
彼は口の端を吊り上げ、まるで子供が無我気に笑ったような表情を浮かべた。
その感情が理解できずに口ごもってしまった。
それはまるで子供が父親に「よくやったな」といわれてはにかんだような・・・・
歯をむき出した表情は、照れ臭そうに笑っているようにも見える。
「意外ダネ。怒コッテハイナイト?」
「…今となっては全て理解できたしね。あのとき全て打ち明けられたとしても僕はそれを抱えることなんてできなかっただろうこともさすがにね…」
そう言って彼は苦笑を浮かべた。
そんな彼にふと疑問が浮かんだ。意味はない問いではあったのだが、興味が口を突いて出たというやつだろう。
「モシ、計画デキルノガアナタダッタラ今同ジ状況ニナッタラインパクトハ起コサレル?」
「さぁね、アダムの細胞を一掃する手段としては確かにベストかなぁ。もちろん全力で抵抗はするとおもうけど、代案があるかと言われたら…ちょっとね。今はどうかわからないけど、当事の技術では目覚めた使徒を感知するので精一杯だったようだし」
じゃあ、また同類がいたら…終わったことである今で言うことであるならば天災のようなものだったってことか。
苦笑の表情だけ浮かべて彼は肩をすくめて見せるだけだった。
「結局、セカンドインパクトが起きた時点でどうしようもなくなってたってことさ」
そう言って彼はこの宇宙船の窓、正確にはカメラ経由の船外映像だが…視線をそちらに向けた。
時間をあけるには丁度いい具合だろう…彼は保護されてからというもの、大事に手放さなかった書類や本を見るでなく外の景色ばかり見ていた。
「デハソロソロ休憩ニシマショウ。ソロソロ5時間が経過シマス」
「わかった。じゃ、また」
そう言って碇シンジは腕につけている時計を見て、ゆったりとしたやたら大きなソファーに横になった

3

─携帯の着信コールが小さく振動する。
マナーモードの為、音はしない、だがその持ち主である男の目が開き心持ち緊張した表情を浮かべる。
その講堂ではいつのまにか講義が始まっており、講師が生徒に質問を浴びせていた所だった。
「昔からいわれている卵が先かニワトリが先か…この問いにおける講義内容と照らすならば別の見方もできるわけだが…うん、そこの。えーと…」
「六分儀です」
目があった講師はどうやら質問をかけようとしているらしい、
「うむ、では六分儀君はこの質問に対する考察がなにかあるかね?」
「…卵を割って遺伝子鑑定をすればいいのではありませんか?」
「まぁ確かにな。だがこの講義で考察を述べるのであれば今の質問には別角度からの考察が聞きたかったようにも思うね…では、同じ質問を。うん、碇君何かあるかね?」
「はぁ、そうですね。ニワトリっぽい何かがニワトリと確認される卵を産んだことが証明されたという前提であれば、その卵を産んだニワトリっぽい何か…それに興味を惹かれるといったところでしょうか」
「よろしい!そうではくてはいかんね。この、形而上生物学ではそういったあらざる生物に興味をもって望まねばならんからね」
(なるほど、あれが碇ユイということか)
一人得心がいった表情で男、ゲンドウは小さく頷くと、
「先生、少々急用ができたようなので失礼」
こう言って退席をしようとする。
講師は苦々しい表情で「ああ」とだけ言って講義の続きにかかろうとした。
何もこの生徒だけではなく単位のためにだけ出席している生徒が多いこの講義を生業としている講師にとっては苦々しくは思っても慣れたものであったのだ。
ゲンドウは一瞥だけ講師に向けた後、小さく会釈をして講堂を後にした。
講堂を後にしたゲンドウだったが、講堂を出ていくばくもない内から背中にまとわりつく視線を覚えた…のだが、一向に気にも留めない様子で校舎の外へと足を運んでいく。

*

学校というものは多数の人間が存在している割に死角となる場所は多々存在する。
屋上しかり校舎の裏手しかり、あまり人目につきたくない人間はこういう場所によくいるものである。
そんな場所のひとつである部室棟の裏手ではやはりあまりよろしくない風情を醸し出している男が2人いた…その場所に躊躇いもなくゲンドウは進んでいく。
ゲンドウの一種近寄りがたい雰囲気といかにも力が弱そうな痩せぎすの姿をみてたむろしていた男達は顎をしゃくり、ゲンドウに近寄ろうとした…のだが、ゲンドウの背後を一瞥すると苦々しげに去っていく。
ゲンドウは小さく息を吐くと後ろを振り返ってサングラスを掛けなおして臆するでもなく背後にいた男…一見して目立つ、いや服装は白いシャツに紺のズボンではあるのだが決して低くはないゲンドウが子供に見えるほどの大柄な男だった…に、
「なんだ」
と、声を掛ける。
だが、男を見上げていたゲンドウの前で小さく咳きが聞こえてきた。
「…だからこいつと一緒にいると嫌なんだ、せっかく前にいるってーのに。ったくよ」
声がする下に視線を向けると、小さな…といっても160cmくらいの男が立っていた。
濃紺のスーツを着た男は見事に大男のズボンに迷彩となって隠れていたように見えたのだった。
「あぁ、六分儀ゲンドウ…だったな。まぁ月並みな台詞で悪いんだが我々と一緒に来ていただこうか」
スーツの男はそう言ってスーツの右ポケットから名刺を出すとゲンドウに近寄って握らせる。
ゲンドウは名刺こそ受け取ったものの反応はなく、数秒大男を見ていたが握らせられた名刺を見てはっきりと落胆のそれとわかる溜息を漏らした。
「悪いが間に合っている」
そういって名刺を指ではじくと、去っていく素振りを見せた。
もちろんこういった場面でのその後の展開というものはお約束なのだろうが、スーツの男は妙にあきらめの表情を浮かべて背後にいる男に声を掛ける。
「あー、そんじゃまそういうことで」
そう言って指で合図をすると、大男が一歩一歩踏みしめるようにゲンドウに向かって歩みを進める。
帰る素振りを見せた半身の姿勢のままゲンドウは大男と対峙する。
あわや荒事の発生かと思われたが、ゲンドウはスーツの男を同じく…やや安っぽい紙だったが、名刺を大男に差し出した。
大男が名刺を摘み上げると、ゲンドウはサングラスを掛けなおす仕草をして独り言のように、
「…盗聴器を外してどうするか決めろ」
聞こえるかどうかといった声でそう呟いた。
スーツの男は慌てて大男から名刺を受け取って目を落としたが、ほんの数秒のうちにゲンドウはその場を後にしてもうその姿はどこにも見当たらなかった。
男が手にした名刺には428.6350と、だけ記されていた…

*

半時ほどしてゲンドウが向かっていたのは大学の裏手にある山の中腹にあるリゾート計画が中断された後、放置され、あちこちで鉄骨がむき出しになった雑居ビル…になるはずだったものだった。
ゲンドウは一人そこに向かってママチャリを漕いでいたが、
「ここか…」
そこは記録通りなら無人の廃墟ビルというものだった…住むものとてなく、放置されたビルは埃にまみれた臭いが立ち込めている。
電気すら通っていなさそうなそんなビルにゲンドウは迷いなく足を踏み入れていた。
「上だな…」
ある種確信をもって歩みを進めるゲンドウ…そのビルの外では周囲からは見えない位置に一人の男がゲンドウの入っていったビルの入り口を伺う視線を向けていた。
(ここは…あつらえ向きではあるが、誘いをかけているつもりなのだろうか)
どうやってゲンドウの先回りをしたのか、男…ホロコーストはゲンドウを見つけてからというもの仕掛ける機会を伺っていたのだった。
だが、あまりにも好条件に恵まれたと思えるこの状況はホロコーストに今仕掛けるべきなのか迷いを生ませていた。
(銃器の携帯はしていなかったが、これは誘い込まれたと見るべきだろうか)
あまりにもスムーズにいきすぎる状況を怪しむ気持ちを抑えることに踏み切ったホロコーストは足音もさせずにビルの入り口に近づいていく…
そのころ、ビルの4階に上がったゲンドウは廃墟然としたビルの中、駐車場にでもなる予定だったのか壁のないコンクリートの柱のみが立ち並ぶフロアの片隅にあるテーブルの前に佇んでいた。
壁沿いに配置されている埃まみれの小さなテーブルの上には黒電話が一つだけ置いてあった…ゲンドウはその電話の受話器を取る。
通常のありきたりの電話なら受話器から流れるはずの待機コールが全く鳴らない。
ほどなく普通なら回線自体が死んでいると思われるその受話器から声が流れる。
『誰だ…』
「六分儀ゲンドウ…」
『よく調べたと言おうか…それで?』
「受け取ったか?」
一切の前置き抜きでまるで通話ができるのが当たり前のように話を進めていく。
『ああ』
「続きがある…そちらにあるのは1割程度だ」
『条件はなんだ』
「迎えを寄越せ、出向かせてもらう」
『─明日だ』
そういうだけ言って通話は切られた。
ゲンドウは受話器を置くと深く息を吐き出す…まるで疲れきったサラリーマンがこれから眠ろうかとしているかのようであったが、そこに初めてゲンドウ以外の声が響く。
《六分儀、ゲンドウだな?》
そのどこから響いてくるかわからない無粋な声に動じることもなく、顔をけだるそうに上げたゲンドウは、
「あぁ…」
と、だけ答える。
答えたゲンドウの前に音もたてずに一人の男が姿を現す。
ゲンドウをつけていたホロコースト、この男の変わったところは例え相手が誰であろうと背後から暗殺をいうことはしないところだった。
だからといって正々堂々ということではもちろんない。
既に拳銃はその手にあるし、照準はゲンドウを確実に狙っている。
また、何もせずに攻撃しようとする人間が相手だった場合はトラップの歓待で盛大にダンスを踊ることになるのだが…
ホロコーストはそういったトラップのみならず、ほぼ全ての動作を無音でこなす。
それだけの技量ということであれば他にも人材はいただろうが…
「ついてくるか死ぬか選べ」
単刀直入なその宣言に普通の人であれば動じるか即、次の行動に移るか…あるいは会話に興じるか、はたまたどうしていいかわからずに立ちすくむかであったのだが、ゲンドウは
「…問題ない」
これだけ発したかと思うと無防備にホロコーストに近づいていった。
問題ないと言われて無造作に近寄られたホロコーストだったが、無論依頼は暗殺だ。
彼に命ぜられる最終的な目標はあくまで暗殺でしかなかった。
射程距離に無造作に踏み込んできたゲンドウに対して、あまりにあっけなさすぎる任務の完了がよぎったが、油断もなにもなくトラップ作動スイッチでもある拳銃のトリガーを最速で振り絞った。
「アーメン!」
この廃墟ビルは銃声を気にする必要もなく、そこで彼の任務は独白の台詞通りに終わったかに思えたが…
パパパーンと、まるでポップコーンがそこらで弾けるような軽快な音を聞いたホロコーストは、ゲンドウの肉体に弾丸がめり込むのを想像した。
だが、ホロコーストは表面上はまるでそんなそぶりも見えないが、激しい動揺と共に自らの目を疑うことになる…
あらゆる角度から発射された弾丸がまるでハリウッド映画のCGのように空中で停止していた。
(ジーザス!目標がサイキッカーだと!?)
動揺もそこそこに彼は静止した弾丸がまだ空中にあるうちに背後に向かって全力で跳躍して全弾を撃ちつくす。
だが、跳躍したホロコーストが見たものは、すべからくゲンドウの手前で静止した弾丸…それだけだった
そしてそれこそが、この世で彼の見た最後の映像になった。



To be continued...
(2009.09.19 初版)
(2009.09.27 改訂一版)


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