捌かれる世界

第三話 もう一人のイレギュラー(前編)

presented by ながちゃん


温かい。
何かが満たされるような心地よさ。
嘗てないほどの心の安寧。
ずっとこのままでいたい。
しかし、少女の意識は急速に目覚めていく。
「???」
少女の視界に微かな、しかし無機的な光が飛び込んでくる。
「ん?気がついたかい?」
唐突な耳元からの声に少女は顔を上げた。
そこにはあのときの少年の顔があった。
とても穏やかな、それでいて慈しむかのような表情。
なぜそんな顔をするのか、少女にはわからなかった。
「──ここは、どこ?」
少女は少年に訊ねた。
エントリープラグ内ということはわかる。
だがエヴァとの神経接続が切れているため、周囲の状況がよく把握できない。プラグ内は小さな非常灯の明かりに照らされるのみなのだ。
「セントラルドグマ、エヴァの第七ケイジみたいだね」
その少年は、まるで古参のパイロットのように詳しく、そして簡潔に答えた。
「──あなた、誰?」
「そういえば自己紹介がまだだったね」
少年は少しバツが悪そうに苦笑いしている。
会話の腰を折るかのように、二人の目の前を猫の水死体(?)がスゥーッと横切る。
ちょっと鬱陶しい。
「僕の名前はシンジ、碇シンジっていうんだ」
「──イカリ?」
(イカリ──あの人と同じ苗字。 …わからない)
少女の思案を遮って少年が問い返した。
「君の名前を、聞いていいかな?」
とても、やわらかい表情。お互いの顔は10センチと離れていない。
「…綾波…レイ」
「そう、綾波っていうんだ。これからもよろしくね」
「……」
(これから? …これからもこの人と会うことがあるの?)
「とりあえずLCLを排出するけど、いい?」
少年が少女の顔色を窺う。
すでに主電源は落ちており、エントリープラグ内のLCLの循環機構も停止している。
つまり、LCLの酸素運搬能力は時間とともに低下しており、可及的速やかに排出しないと窒息する危険性があった。
「──構わないわ」
シンジが前面のコンソールを操作すると、LCLはあっという間に外部に排出されてしまった。
その後、二人は慣れたように、肺に残ったLCLを吐き戻した。
『!?げほっゲホッゴボッ──』
突然、シートの下から咳き込むような声が響いた。
二人が見下ろすと、そこにはずぶ濡れの白い猫が、四つん這いになって苦しそうにLCLをゲーゲー吐き戻していた。
どうやらLCLに満たされていた肺にいきなり空気が入り込んだために大きくむせ返ったようだ。
「あ、シロを起こすのを忘れてた」


「──使徒はどうなったの?」
少女が事務的な質問をする。
しかしレイという少女にとっては一番の重大事項である。
使徒を倒すことが自分のレゾンデートル。
自分にはそれしかない。それができなければ、自分はここでは不要な存在なのだ。
だが…自分は使徒に敗北した。それが結果。
レイは自分の不甲斐なさを責めていた。
そんなレイの沈痛な表情を見つめていたシンジが小さく答えた。
「…初号機が殲滅したよ」
「──あなたが倒したの?」
あのときエントリープラグには、自分の他はこの少年しか乗っていなかった。なら、初号機を操り使徒を倒したのはこの少年ということになる。
レイは何ともいえない不安を感じていた。何だろう、この気持ちは。
「うん。 …君は気を失っていたからね。幸い、無我夢中で戦っていたら運良く倒せたみたいだ」
少年は何故か物悲しそうに答える。もっと誇っていいはずだ。
使徒殲滅はネルフの使命であり、喜ばしいことなのだ。
だが、レイは素直には喜べない自分を感じ、その感情に戸惑っていた。
何かが手からこぼれていく。何か大事なものが…。
それが無性に寂しかった。心が悲鳴を上げていた。
寂しい 寂しい 寂しい
ぎゅ──
「!?」
それは突然だった。
少女は反射的に体を硬直させた。
少年が、少女の体を抱きしめていたのだ。
「…大丈夫。大丈夫だから。君の居場所はなくならないから。安心していい。僕が君を守るから…」
少年は今にも泣き出しそうだった。いや泣いていたのかも知れない。
その少年は背後から優しくそして力強く少女を抱きしめていた。
(なぜ、この人は私を抱きしめるの?)
(でも、とても気持ちがいい)
(とても温かい)
(とても安らぐ)
(とても…とても…)
いつの間にかレイの体の硬直は消え、ゆったりと少年に身を任せていた。
不思議なことに、先程までの心の不安が嘘のように消えていた。
代わりに、何か温かいものが自分の心を満たしていくのを、レイは感じていた。
(──碇シンジ…不思議な人。でも温かい人)


アンビリカル・ブリッジが初号機に接触する。何故かピッタリとは接触できないでいたが。
「どうやら、外に出れるみたいだね」
シンジとレイ、二人の表情にも明るさが戻っていた。まあ、レイは多少無愛想ぎみであるが。
ちなみにシロは、いきなりの二人のラブシーン(?)に面食らって、まだ惚けていた。
エントリープラグの上部ハッチが開くと、シンジたち二人(と一匹)は外に出た。

うおおおおおおお〜〜〜
いきなり物凄い歓声が湧き上がった。
「よくやったな少年」
「すごいぜまったく」
「大したやつだ」
ケイジは賛辞の言葉で埋め尽くされていた。
調子に乗ってシンジとハイタッチをする若い作業員もいる。つき合うシンジもシンジだが。
暫くその喧騒は続いた。


下の通路には医療スタッフが待ち構えており、負傷しているレイを移動式のベッドに寝かせた。
「お大事に、綾波。また後でね」
「……」
レイからの返事はない。だが、名残惜しそうにシンジを見つめていた。
レイを乗せたベッドは医療スタッフによってケイジから運ばれ、ゲートの先に消えた。
『う〜〜〜気持ちわる』
シロが胃のあたりを手で押さえている。器用な猫だ。
「ハハハ。猫の体でLCL飲んだのは初めてだしね」
どうやら、肺だけでなく胃のほうにもLCLを入れたらしい。
『う〜〜〜シャワー浴びたい』
「そうだね。まずはさっぱりしたいね」
LCLは血液みたいなものだから、ベタついて気持ち悪いし、乾燥すると粉をふくのだ。
『でも綾波は無事だったみたいだね』
シロが声を掛ける。シロなりに綾波の身を案じていたようだ。
「エヴァの中で少しだけ治癒力を促進させておいたからね。2〜3日で退院、二週間ほどで完治できると思うよ」
シンジがまたも非常識なことをサラリと言う。
『そんなこともできるの?』
そう言いつつも、シロはあまり驚いていない。いや本当は驚いているのだが、これくらいのことで一々驚いていたら、この少年にはついていけないのだ。シロもなかなか学習したようだ。
「──本当はいきなり完治させることもできたんだけど、そうするといろいろ面倒ごとが出てくるからね。なにより綾波自身がモルモット扱いを受けかねないし、その危険性だけは避けたいからね」
シンジなりにいろいろ考えているようだ。
どうも綾波のことになると、行き当たりばったりではなくなるらしい。かなり慎重だ。
(はあ、でも君も随分と雰囲気が変わったねえ)
シンジは変わり果てた(?)初号機を見上げていた。
ケイジの第一、第二拘束具の規格(サイズ)が、全然合わなくなっているし。
初めて初号機の変化後の姿を見たシロも、あまりの変わり様に言葉を失くしているようだ。
(初号機、暫くのお別れだよ)
(……)
(まあ、暇だったらいつでも遊びにおいでよ。あ、でもその体のままで来ちゃダメだからね)
(コクコク)
「…お、おい、今、初号機の首が動かなかったか?」
「い、いや。気のせいだろ」
周りの作業員たちが騒いでいた。





そこへ赤いジャケットを羽織った牛……もとい女が早足でやって来た。どうも友好的な雰囲気じゃないようだ。
「ちょっと!!アンタいったいどういうつもり!!」
周りにたくさんのギャラリーがいることも忘れて、ミサトは怒鳴り始めた。衆目が二人に集まる。
「どういうつもり、とは一体全体どういうことでしょう?」
シンジは呆れたように切り返す。正直、あまり相手にしたくないようである。

「アンタ、なに勝手に使徒を倒してんのよ!」

突然、訳のわからないことをほざいた女。使徒を倒して何が悪いというのだ。
当然、周りのギャラリーも「何言ってんだ、この女?」の目線である。
「使徒?ああ、あのバケモノのことですね。それとも負けたほうがよかったんですか?」
シンジが軽い皮肉を返す。

「アタシの許可なく、勝手に勝つなって言ってんのよ!!」

ミサトは大声を張り上げた。
もう滅茶苦茶だ。ギャラリーの皆さんも一様に呆れ返っている。
「班長、誰ですか。あのバカ女は?」
ギャラリーの一人が年配の男に訊ねた。
「あれが噂の葛城ミサトだ。まさかここまで酷いとはな」
どうやらこの女の悪評はここまで鳴り響いているらしい。
「…随分な言い草ですね」
シンジはいい加減ウンザリしていた。
予想を遥かに上回る無能ぶりなのだ。しかも自覚がない。さすがのシンジも手に余り始めていた。

「いい?使徒はアタシの指揮じゃなければ絶対に倒せないの!」

バカ女はさらにヒートアップする。自惚れもここまで来れば、ある意味芸術的かもしれない。
「…班長。なんであんなのが作戦部長やってるんですか?」
ギャラリーの一人が訊ねる。
あんなのに世界の命運を、自分や家族の命を任せているのか。
その男はすごく不安になった。
「俺に聞くな。ネルフの七不思議の一つだ」
班長と呼ばれた男も、内心理不尽さを感じまくっていた。
シンジがバカ女に反論する。
「…あなたの指揮なしで倒しましたが」

「うっさい!!今回はたまたま運が良かったからいいようなものの、負けてたらどうすんの!!子供の遊びじゃないのよ!!」

(あーもうウザイな。いっそここで殺すか? ──いやいや、楽しみは後にとっておかないと。我慢、我慢)
基本的に、シンジは堪忍袋の緒が非常に切れやすい性格をしている。
しかし自らの娯楽のためなら、少々の目先の我慢はできるのだ。 …あくまで少々ではあるが。
「あなたの指揮とやらで一度負けたんじゃなかったんでしたっけ?たしか、そのおかげで僕にお鉢が回ってきたような気がするんですがね」
シンジが言ったことは歴然たる事実であった。たがその事実はこの女には受け入れられないものだった。

「なにナマ言ってんの、このクソガキがっ!!」

バカ女はそう叫ぶと右手を大きく振り上げた。目の前のシンジにビンタを喰らわせるつもりだ。
(…避けるのも面倒だな。ギャラリーも多いことだし、一発もらっておくか。ついでに大げさに吹っ飛んで、口の中でも切って、さらに鼻血もダラダラ出しておこう)

バチーーーン、〜〜〜〜ガッシャーーン

シンジは左頬に一発もらうと、自ら吹っ飛び、背後の工具ボックス目がけて突っ込んだ。
「あ」(ミサト)
「「「「「「!!!」」」」」」(ギャラリー)
吹っ飛んだ先から、呻きながらヨロヨロと起き上がるシンジ。顔が凄いことになっている。
「……(お?柄にもなく自分のしでかしたことに狼狽しているようだな。 ──果たして、素直に謝るか、それとも殴ったこと自体を正当化するか、さあどっちだ?)」
シンジは心内ではかなり楽しそうだった。

「…い、いい?これは愛のムチなのよ、シンジ君。決して貴方が憎くてやったわけじゃないの。貴方のためを思って仕方なくやったことなのよ?なぜ自分が殴られたのか落ち着いて考えてみなさい。そうすれば、きっと自分の悪かったところが見えてくるわ」

この女、殴られた原因がシンジにあるように誘導していた。
「……(ふふ、後者か。 ──決めた。エヴァには乗ってやらない。シナリオの一部変更だ)」
シンジは行き当たりばったりでシナリオを変更した。
ちなみに、ケイジでのミサトの評判はこの時点で地の底まで落ちていた。一両日中には、技術開発部全体にまで伝播することだろう。
「班長!!なんですかあのクソ女は!?俺たちの英雄になんてことをするんですか!!」
「そうです班長!!あんなこと許していいんですか!?」
「見てください!!あの子、顔があんなに変色して、血まで流して!!酷すぎますよ!!」
「相手は中学生の子供なんですよ!!しかも殴った謝罪の一言もなく自己弁護一辺倒!!クズですよあの女は!!」
「班長!!〆ましょう!!フクロにしましょう!!フルボッコですフルボッコ!!もう俺ら我慢できませんって!!」
「…よしわかった野郎ども!!お前たちの心意気確かに受け取った!!この俺に続け〜〜!!」
ギャラリー全員がスパナ等の工具片手にミサトににじり寄って行ったそのとき(ミサトは気づいていない)、ミサトにとって助け舟(?)がケイジに現れた。





「ちょっとミサト!貴女なにやっているの!」
それは、発令所から一目散に駆け出して行ったミサトに一抹の不安を覚え、彼女のあとを追って来た赤木リツコ博士その人であった。
リツコは傍らでとんでもないことになっているシンジの姿を見つけると、自らの不安が的中していたことを深く嘆いた。
「あらリツコ〜」
ちょっぴりバツが悪そうなミサトが笑顔で返す。多分何を言われるのか、さすがにわかっているのだろう。
「…大事なチルドレンに怪我を負わせるなんて、貴女、一体どういうつもり!?しかも、貴女は軍事教練を受けたプロなのよ!!それを素人の中学生に手を上げるなんて、何を考えているの!!」
どういうつもりもヘッタクレもない。この女はそんなことは何も考えていないのだ。ただ激情のまま行動しただけなのだから。
「や、や〜ね〜、大袈裟なんだから〜。ちょっとしたスキンシップよ〜♪」
スキンシップで殴り倒されたら堪らない。
「シンジ君、大丈夫? …あまり大丈夫そうには見えないわねぇ」
シンジの顔半分は紫色に変色し、大量の鼻血と口からは血を流していた。見た目ではかなり酷そうだ。
「ええ、何とか(実際はまったくのノーダメージ。ただの擬態だけどね♪)」
(…初の使徒戦、パイロット初の被害が、使徒ではなく作戦部長によるものとはね。皮肉もいいトコだわ)
無能どころか人畜有害だわ。リツコは深く溜め息を吐いた。


「ミサト、日向君が探してたわよ。なんでも、報告書に目を通してもらいたいって」
「そ、そう?」
「…ミサト、まさかとは思うけど、その報告書って、今日の作戦報告書じゃないでしょうね?」
リツコがジト目で睨みつけている。
「え!えーと…」
ミサトは気まずそうに惚けているが、その態度が図星と物語っている。
「まったくもう! ──作戦報告書の作成は、貴女の部署の、いえ貴女一人の仕事のはずでしょう?日向君は貴女の部下とはいえ、所属部署が違うのよ!押しつけていいと思っているの!?」
「ナハハハハ、ゴミン、ちょっち急いでるから〜〜〜」
ミサトはバカな言い訳を残してその場から逃げるように退散した。


だが、そのとき最大の不幸がミサトを襲った。
先程からケイジで一部始終──ミサトがシンジに危害を加えたあたり──を見ていた初号機がキレていたのだ。
そして、今まさに自分の目の前を横切ろうとしていた獲物(ミサト)を見つけると、その手を伸ばしてむんずとばかりに捕まえたのだ。

ぎょええええええええーーー!!

ミサトの絶叫がケイジ内に轟く。
初号機は器用にもミサトの足首を指で摘むと、逆さ吊りの状態で口元に運んだ。
逆さ吊りにされた当のミサトはというと、活きた海老のようにビチビチ跳ねてもがいている。
「顎部ジョイント破損!」
どこからともなくそんな叫び声が聞こえた。
初号機はゆっくりと口を開け、ペロリと舌なめずりをすると、まるで白魚のおどり食いをするかのように、アーンとばかりに、それをパクリと──

あんぎゃああああああーーー!!

ミサトの断末魔の叫びが響き渡る。
(やめろ初号機!それは僕の獲物だぞ! …第一そんなモン食ったら腹壊す)
シンジの念話が聞こえたところで、初号機はその動きをピタリと止めた。
初号機は天を向いてアーンと口を大きく開けて固まっている。そして今まさに食べられようとしている、逆さ宙吊りの葛城ミサト。タイトスカートは完全に捲れ、パンツ丸出し状態だ。どうやら白目剥いて失神しているらしい。
「エントリープラグもなしに動くなんて」
リツコは心なしか動揺しているようだ。
「だいぶエヴァに好かれているみたいですね、彼女」
「…ええ、そうみたいね」
リツコは冷や汗を流しながらこめかみを押さえた。その視線の先には親友の哀れな姿があった。
この後、葛城ミサトは助け出されるまでの三時間、大勢の作業員たち(+物見遊山客)にパンツを晒していたという。





「ふう…シンジ君、まずは救護室で手当てしましょうか。ついて来てくれるかしら」
リツコはそう言うと、スタスタと勝手に歩き始めた。
慌ててシンジが呼び止める。
「あの!その前にシャワーを浴びたいんですけど、よろしいですか?」
「そうね、わかったわ。タオルと着替えはこちらで用意しておくわ。クリーニングするものはカゴに入れておいて頂戴」
シンジのLCL塗れの姿を見て納得するリツコ。
「ありがとうございます。あ、そうそう。コイツも一緒に入っていいですか?」
シンジはそう言うと、右手でシロの後首の皮を掴んで持ち上げた。
──ちなみに猫の持ち方としては正しくない。乱暴な持ち方なのでやめよう。
『……』
シロは摘み上げられてブスっとしている。
「あら、かわいい子猫ちゃんね。それは構わないけど、暴れないかしら?」
「大丈夫ですよ。こいつ、シャワー好きですから」
『……』
「そう、うらやましいわね(そういえばLCLの中でも大人しくしてたわね)」
違う。大人しくしていたのではなく溺れて意識がなかっただけ。
「じゃあシャワー室まで案内するわ。あと悪いんだけど、終わったら私の研究室まで来てくれないかしら?そこで怪我の治療をするわ。ついでに今日のことで少し聞きたいことがあるの。こちらは別に案内する人間をつけるわ」
「はあ、わかりました」
さすがに、両方の場所は知っていますから結構です、とはシンジは言えなかったが。


「ふう〜、生き返るねえ♪」
シンジとシロはシャワーを浴びていた。
(でもやっぱりここ[男子シャワー室]にも監視カメラと盗聴器が仕込んであるんだね。 …この分だと女子用も怪しいね。あとで【記憶】で確認してみるか。ま、MAGIにダミーを流させているから別に問題ないんだけどね)
シンジがそんなことを考えていると、突然、シロが心配そうに訊いてきた。
『…ねえ、怪我は大丈夫?』
かなり心配そうにシンジの顔を見つめているシロ。
それはそうだろう。シンジの顔半分は今大変なことになっているのだから。
「へ?ああコレのこと?全然大丈夫だよ。まったくもって問題なし。そもそも擬態だしね」
シンジはミサトに殴られたところを擦ると、笑い返した。
『ギタイ?』
「そう擬態。つまり怪我したフリ」
『!?でも、顔がすごく腫れているよ?』
シロはイマイチ話が飲み込めないでいた。
「だーかーらー擬態だって──ホラ!」
そう言うと、少年のどす黒く変色し腫れ上がった左頬が、一瞬にして無傷のそれに変化したのだ。
『うそ!? …でもなんで?』
「ちょっと葛城ミサトの反応を見たかったからね。 …その偽善者っぷりをね」
シンジは多少の皮肉をこめてそう言った。
『ミサトさんの!?一体どういうことさ?』
(ミサトさんが偽善者だっていうの?)
だが、シロにしても今日のミサトの態度は頂けなかったようだ。
この期に及んで、シロはミサトの為人を計りかねていた。
「ミサトさん、ねえ。 …フフフ、あとでじっくり教えてあげるよ。あのクソ女の本性と罪状をね」





〜ネルフ本部・赤木リツコ博士の研究室〜

「怪我自体はそんなに酷いものじゃないわね。顔の腫れは二、三日でひくと思うわ。本当にごめんなさいね」
ここはリツコの研究室である。場所的には、第一発令所の下部──MAGIの本体ともいえるMELCHIOR、BALTHASAR、CASPERの三つの筐体が設置されている司令塔・総合分析所──その後方に隣接した区画に存在する。
ある意味、MAGIにもっとも近い場所だ。
その場所で一人の少年が怪我の手当てを受けていた。
左頬にでかい湿布を貼られて少し仰々しいが、ギャラリー効果を考え、シンジはされるまま黙って治療を受けていた。
「あなたが謝ることじゃありませんよ」
少年はぶっきらぼうに答える。
「それはそうだけど、…彼女、葛城ミサトといって、あれでも私の親友なのよ」
リツコは申し訳なさそうに話す。自分の親友だから許してやって欲しいと。
「…本人は謝罪一つせず、それどころか殴ったことを正当化していましたが」
「そ、そう(ミサト、貴女って人は〜〜〜)」
リツコはもう呆れていた。殴った挙句に謝っていない。そして自分は悪くないと言い張る。
これじゃあ、彼の態度に取り付く島もないのは当たり前のことだ。
「あなたの御親友とのことですが、ご愁傷様としか言いようがありません。心よりお悔やみ申し上げます」
「そ、そうね」
(サード、こんな性格だったかしらね。報告書とだいぶ違う気がするわ。興味深いわね)


「あ、そうそう。はいこれ。頼まれていたディスクよ」
リツコはそう言うと、四角いケースに入ったディスクをシンジに渡した。
「ありがとうございます。いろいろとお手数をお掛けしてしまって」
「そういえば自己紹介がまだだったわね。 ──私の名前は赤木リツコ。ネルフ本部技術開発部技術局一課所属、E計画責任者兼MAGIシステム保守責任者よ」
「E計画?」
一応、シンジは訊いてみる。もちろん知ってはいたが。
「エヴァンゲリオンの頭文字のEよ」
もちろんE計画の内容までは説明しないリツコ。
「エヴァンゲリオン…エヴァのことですね、赤木さん」
なかなか芝居がうまい。
「リツコでいいわ」
「はい。ですがお互いまだそんなに親しい関係ではないので、赤木さんと呼ばせて頂きますよ」
「わかったわ。 ──じゃあ、少し質問するけど、いいかしら?」
もちろん少しなどとは微塵も思っていない。この女、とことんやる気だ。
「はい、答えられる範囲でしたら」
狐と狸の化かし合いが幕を開けた。


「あなたは何故エヴァのエントリープラグの中にいたの?」
リツコが最初の質問をした。大体、時系列に沿って質問を進めるつもりらしい。
「エヴァ、そういえばそういう名前でしたね、あのロボット。エントリーなんたらはあの女の子が入っていた場所のことですね?」
シンジは指を顎にあて、慎重に言葉を選んでいる。
「そうよ。で、どうなのかしら」
「はい。話せば長くなるんですが──」
そう前置きしてシンジは説明を始めた。
「実は僕、今日初めてこの街にやって来たんです。でもあの怪物が襲って来たでしょう。本来ならすぐにシェルターを探して避難すべきなんでしょうが、──その時、ある人と待ち合わせの約束をしていたので、勝手に避難したりしたらその人が心配して探し回るかもしれないって思って、リニアが停まった二つ手前の駅からこの第三までどうにか歩いてきて、そのまま街に残ったんですよ。 …まあ、おかげで死にそうな目に遭いましたけどね」
(待ち合わせ…ミサトのことね。実はすっぽかされたって知ったら、この子どう思うかしら)
ミサトの愚行にリツコは頭を悩ませていた。
ちなみに、シンジの話などもちろんまったくの出鱈目である。
「そうしてたら、すぐ近くにあの紫色のロボットが出て来て、あの怪物と戦い始めたんです。まあ、一方的にやられていましたけどね」
「ロボットがやられて動かなくなって暫くしたら、あの怪物が離れていったんですよ。そしたらそいつ、別な場所を攻撃し始めたんです。すっごい大きな爆音がして、変な形の火柱が上がっていました」
シンジはなおも自作自演を続ける。
よくもこう口からでまかせが出るものだ。
「これはこの場から逃げ出すチャンスかなと考えだしていたんですが、突然、ロボットの首からカプセルみたいなものが飛び出したんです。ピンときましたよ。これはパイロットが緊急脱出しようとしているんだって」
ここでシンジは一息つく。
「続けていいわ」
リツコが無表情に催促する。
もっと労わって欲しい。
「でもなかなかパイロットが出てこなかったんです。心配になって、そのカプセルの近くまで行ってみようと思ったんです。ちょうどロボットは変な形のビルにもたれ掛かっていましたから、それを伝って行こうかと」
シンジの創作は佳境に入る。
リツコのほうは無言で耳を傾けている。恐らく矛盾点を探っているのだろう。
「幸い、ビルの入り口は壊れていてスンナリ中に入れました。カプセルの先端はビルに接触していましたから、うまい具合に飛び移ったんです。 …今思えば、あの高さで危険極まりないことをしたなと、震えがきますよ」
そう言うと、シンジは苦笑いを浮かべた。
「カプセルに取りついた後、入り口を探しました。確かイジェクション・カバーでしたか、そう印刷された場所の近くに開閉スイッチがあったんで押してみたんです。そしたら上のハッチがスライドして中が見えたんです」
シンジは話を続けた。
「覗いてみると、水の中に女の子がぐったりしていたんで、助け出そうとその中に飛び込んだんです。でもそのとき肝心なことを忘れていました。 …実は僕、カナヅチだったんです。結果、僕は見事に溺れてしまいました。でもあの水の中って息ができたんですね。おかげで命拾いしましたよ」
シンジの長編創作はそこで終わった。


「…では何故、コックピット・シートにあなたが座っていたのかしら?」
リツコは疑いの目を向ける。どうしても揚げ足を取りたいらしい。
「はあ?それは単にタイミングの問題ですよ。ちょうどあのときは、彼女を下から持ち上げて脱出しようとしていましたから」
「……」
(残念だけど、コレといっておかしな点はないわね。もし矛盾の一つでもあればそこを突いて洗いざらい白状させるつもりだったんだけど。 …ううん、きっと尻尾を捕まえて見せるわ)
リツコの瞳はメラメラと燃えていた。


「じゃあ次の質問よ。地上で三人の人間を見つけたとき、どうして外部カメラや集音センサーを操作できたのかしら?」
「ああ、あれですか。本当に凄いですよね。あのロボットの機能ですか?凝視したら勝手にズームアップして、耳を傾けたら勝手に音が聞こえてくるだなんて」
「違うわ。確かにその機能は持っているんだけど、通常はMAGI、ネルフ本部のスーパー・コンピューターのことだけど、それに制御されているのよ。それ以外の操作手段は、パイロットによる手動しかないわ」
「えー知りませんよ、そんなこと。そのMAGIとやらが勝手にやったんじゃないですか?」
シンジはクロをシロよとすっ惚けた。
「……」
(あれはMAGIがやったというの!?確かにあのときのMAGIの行動はおかしかった。それに碇司令の様子もどこか普通じゃなかったし…まさか碇司令の細工があったというの?)
(…それにあの暴露劇には呆れたわね。何故あれほどの数の献体を安定供給できるのか不思議だったけど、ようやく合点がいったわ。まさか強引に作っていたとはね。 …結局、私もその片棒を担がされていたわけよね。フフ、汚れているのね、私)
リツコは自嘲的な薄笑いを浮かべていた。


「…わかったわ。じゃあ次の質問──」
リツコがそう切り出しかけたとき、シンジが不満の声を上げた。
「えー、まだあるんですかー?」
「ゴメンなさい。あと少しだから我慢してちょうだい」
ブーブー言っているシンジを、リツコはあと少しだからと宥めた。
しかしリツコのあと少しは、蕎麦屋の出前と同じ意味なのをご存知だろうか。


「はあ、わかりました。 …少し喉が渇いたんで何か飲み物もらえますか?」
「あら、気が利かなくってゴメンなさい。コーヒーでいいかしら?」
シンジからの返事を聞く前に、リツコは慣れた手つきでサイフォンのフラスコに水を注ぎ、ロートにコーヒーの粉を入れるとアルコール・ランプに火をつけていた。この間、僅か10秒。
ちょっとア然としているシンジ。いまさら紅茶にしてくれとはさすがに言い辛かった。
「ふむ、なかなかコーヒーってのもいいですね」
シンジは紙コップに注がれたコーヒーに口をつけ、正直な感想を述べた。
コーヒーには詳しくないが、なかなかいい豆を使っているようだ。
「でしょう?実は私、豆にはちょっとうるさいのよ」
リツコはリツコで、淹れたコーヒーを褒められたことを純粋に喜んでいた。
コーヒーブレイク中、和んだ雰囲気がその場を包んでいた。


「さて、次の質問なんだけど、…貴方、過去にエヴァに乗ったことがあるんじゃない?」
和んでいた空気が一変する。
すでにリツコの顔には先程までの柔和な笑みはなかった。
「はあ?あれに乗ったのは今日が初めてですよ」
シンジのこの言葉に嘘はない。乗ったのは「過去」ではなく「未来」なのだから。
(まったく人を疑ってるよなあ)
「……」
(鎌をかけたつもりだったけど、まったく動揺なしか。 …まあ実際、そんなことありえないんでしょうけど。それに、エヴァに乗る機会があるとしたら、ネルフかゼーレの施設だけだしね)
「そう。じゃあ、貴方はエヴァに乗ったときどういう感じがした?」
リツコは諦めて、次の質問に移った。
(よし、食いついた!)
「乗ったときですか?そうですねー、なんか温かかったですね」
「温かい?例えばどんなふうに?」
リツコは身を乗り出して訊いてきた。興味津々とばかりに瞳が輝いている。
「そうですね。強いて言うなら、…母親の胸の中で抱かれているような、そんな感じでしょうか」
「!!」
自分の望んだとおりの解答に、リツコは内心小躍りした。
「ハハ。ちょっと恥ずかしかったですかね」
そう言うと、シンジは照れたようにポリポリと頭を掻いている。 …役者だ。
「いえ、そんなことないわ。貴重な証言だわ」
(やはり、サードチルドレンは母親である碇ユイに愛着・依存しているということか。まあそうでなくては初号機は動かないのだけれどね。 …でも、はっきりと母子の愛情を認識し合っているわりには、シンクロ率が低すぎるのよね)
「…19.19パーセント、か」
思わず口に出ていたリツコ。
「え、何ですかそれ」
「えっ?あ、ああゴメンなさい。ただの独り言よ、気にしなくていいわ」
もちろんシンジは、その言葉の意味を知っており、内心、ニヤリとしていたが。


リツコが次の質問に入る。まだまだ続くようだ。やはり蕎麦屋の出前だった。
「初号機が地上の三人のいるポイントまで高速移動したことは覚えている?実はあのときのスピードは音速を超えていたわ。なぜそんなスピードが出せたのかしら?」
リツコの問いに、一瞬上を向き考える素振りを見せた後、シンジは答えた。
「初号機…というと僕が乗っていたエヴァのことですね。スピードのことですが、あのときはあの女の子を助けたい一心でしたからね。どうしてそんなに早く走れたのか僕にはわからないです」
(…やはり引っ掛からなかったか)
実はリツコは、このとき初めて初号機という言葉を使ったのである。確かに会話の前後から彼が乗ったエヴァ=初号機という導き出しは可能だ。しかしそのためには一瞬とはいえ思考が必要となる。そして間も空く。その瞬間の少年の表情に、リツコは罠を仕掛けたのだ。結果、敗れ去ったのだが…。
「そういえば、その三人はあの後どうなりましたか?」
思い出したかのように少年が訊ねる。
「…男二人に関してはネルフの保安諜報部が拘束したわ。女の子についてはネルフの付属中央病院に入院させたからもう安心よ」
それを聞いたシンジは、顔を顰めた。
「警察じゃなくてネルフが拘束ですか…ふむ、こりゃ事件自体がもみ消される可能性が濃厚ですね。 …ああ、そうでした。ココは悪の秘密組織ネルフでしたよね」
(もしそうなったら、あの男たちには相応の目に遭ってもらうよ。フフ、生きたまま駿河湾にでも沈めようかなー♪)
シンジはなかなか極悪なことを考えていた。
「…そんなことはしないわ」
視線を合わせないまま、リツコが答える。しかしどこか後ろめたい様子だ。
実は、言葉とは裏腹に、少年の言うとおりだとリツコは考えていた。
ゲンドウとは…そういう男だと。
「そうですか?ほら、トップからして性犯罪者みたいな顔してたじゃないですか。たしかあの鬚がそうですよね?」
そう言うなり、シンジはあっけらかんとしている。目がとても楽しそうだ。
「ありゃ、間違いなく凶悪レイプ犯の面構えですよ。赤木さんも気をつけたほうがいいですよ。そのうち襲われるかもしれませんから。人気のない場所、例えば深夜のエヴァのケイジなんか、大凶ですよ」
「……」
もうすでに手遅れだったが、それは言えないリツコだった。
シンジは、辛辣な皮肉の言葉を吐き続けた。
「それに女の子ですけど、民間の病院に移したほうがいいんじゃないんですか?それともまだネルフはあの女の子を殺そうとしているんですか?」
「そんなことしないわ。それにネルフの医療技術は世界一だと自負しているわ。これは女の子のためでもあるのよ」
あの女の子を使ったコアの予備化は断念せざるを得ない。リツコはそう分析していた。
あのときの中継映像は流れてしまっている。いずれ女の子の身内にも知られて警戒されるだろう。
しかも、女の子の父親はネルフ職員である。
殺したら収集がつかなくなる恐れがあるのだ。
さすがのネルフ(ゲンドウ)もその愚は冒さないであろう。
ただし、証拠隠滅のために洗脳くらい施してから病院を退院させるかもしれない。
リツコはそう考察していた。
「その女の子って、その世界一の技術とやらが必要なほどの怪我をしていましたっけ?」
シンジが痛いところを突いてきた。
あのときの女の子は薬で眠らされてはいたが、まったくの無傷であったのだ。
「……」
「…どうも僕には、保身のためにネルフがその女の子を監禁しているようにしか見えないんですけど。それにいくら医療技術が世界一でも、倫理的に問題があれば意味がありませんよ。なんせ悪の秘密組織の付属病院なんですからね」
クククと、思わず笑みをこぼすシンジ。おちょくるのが楽しくて仕方がないようだ。
「…いい加減そのことから離れて欲しいわね」
リツコはウンザリして息を吐いた。
だが少年の言うことは事実であるので反論できないでいた。
(まあ、トウジの妹に何かしようとしたら、その医療スタッフには地獄を見てもらうつもりだけどね)
シンジの両の瞼の裏には、病室のベッドでスヤスヤと眠る女の子の姿が映っていた。
どうやらシンジは、女の子の病室を常時監視しているようだった。


「それで質問の続きだけど、地上で初号機をダッシュさせたとき、何故アンビリカル・ケーブル、外部電源用プラグをパージできたのかしら?それとも操作方法を知っていたのかしら?」
「アンビ…そのケーブルって、エヴァの背中にくっついていたやつですよね?」
あくまで惚けるシンジ。
「そうよ。 ──通常、エヴァは有線からの電力供給で稼働しているわ。非常時に体内電池に切り替わると蓄電容量の関係でフルで1分、ゲインを利用してもせいぜい5分しか稼働できないの。 …これが今のところ私たちの科学の限界ってわけ」
「…家電製品の電気コードと同じですね」
実も蓋もない少年の表現に、リツコはぐっと言葉を呑み込んだ。
「質問の答えですけど、僕にはわからないとしか言いようがありません。あのとき無我夢中で動いていたら、いつの間にか外れてましたから。もしかしてMAGIってやつがサポートしてくれたんでしょうか。まあ、後でマズイかなと思って繋ぎなおしましたけどね」
エヘヘと少年は気まずそうに笑った。
「…初号機の容貌が変わったことについて、何か気づいたことはあるかしら?」
リツコは気をとりなおすと質問を続けた。
「なんか凶悪さ3割増しって感じでしたよね。でも、なんでああなったかはわかりませんよ。でも〜、強くなったみたいですし、別にいいんじゃないですか〜♪」
もういい加減疲れたよーといった表情で、シンジがのらりくらりと答える。
(…これ以上は何を聞いても無駄か。尻尾すら見せてくれないとはね)
このとき少年が不審そうな声を上げた。
「あのー、さっきから何かこう、質問というよりも尋問されているような気がするんですがー?」
少年は訝しそうに、ジト目でリツコの顔を覗き込んでいた。
「(ギクッ)あら、そんなことないわ」
「そうですよねー。そんなことあるわけありませんよねー。ああ、もしかして質問はこれで終わりですか?」
「こ、これが最後の質問よ──」
少しの間をおいて、リツコは口を開いた。


「貴方、1年ほど前から半年間ほど、行方不明だった時期があるけど、いったいどこで何をしていたのかしら?」
確かにシンジは行方不明の期間が半年ほどあった。それもネルフの目を完全に逃れての失踪である。
しかも、シンジを密かに監視していたはずの保安諜報部の三名のエージェントは何者かに惨殺(挽き肉化されていた。
そして半年後、シンジはひょっこり帰って来たのだが、どこで何をしていたかは口を閉ざしたままだったのだ。
「宝くじが当たりましたので、海外旅行していました」
あっさりと答えるシンジ。宝くじが当たったのは本当である。ただし、シンジが当選番号を細工してだ。
「どうして保護者に黙って出かけたのかしら?」
リツコの口調が少しキツイものになる。目つきも鋭くなっている。さしずめ、悪いことをした子供をたしなめる大人、という構図だろうか。気弱な子供なら呑まれてしまう雰囲気だ。
だが相手が悪かった。
「保護者?もしかして僕の養育費を着服していた先生…叔父夫婦のことですか? ──だって彼らにバレたら、何だかんだと理由をつけられてお金を巻き上げられるに決まっているからですよ」
報告書から事情を知っているリツコは、何も言えないでいた。
実は、叔父夫婦といっても、シンジにとっては血の繋がりはない赤の他人である。
毎月、ゲンドウから高額の養育費が振り込まれ、シンジの飼育観察を依頼されていたのだ。
そこに愛情など湧くはずがなかった。
叔父夫婦は暫くすると、シンジに勉強部屋をプレゼントするといって、そこに住まわせ始めた。
だがそれは、勉強部屋とは名ばかりで、どこぞのホームセンターに売っているような大きめの物置小屋だったのだ。三畳ほどの広さの、窓一つないその部屋(小屋)は、真夏の気候の中では灼熱地獄だった。
叔父夫婦は、毎月一万円をシンジに握らせると、そこで一切の自炊と生活を強要したのだ。
まあそのおかげで、シンジの家事能力は向上したのではあるが。
ちなみに、母屋──叔父夫婦の住む家──は数年で豪邸に建て替わっていた。
(あの叔父夫婦にも、後でたっぷりとお礼をしなくちゃな♪)
シンジの目が不穏に細まっていた。
「ちなみに宝くじっていくら当たったのかしら?」
リツコが興味深そうに聞いてきた。
「一等前後賞合わせて、5億円です」
嘘である。当たっていないと言うのではない。当選額に偽りありなのだ。
実はシンジは、10ユニットほど細工したので、5億円×10ユニット。つまり50億円を手にしているのだ。
さすがに正直に言うのは躊躇われたのか、シンジは5億円と申告した。
「!!」
リツコは5億円という額でも驚いて固まっているようだ。
(こんな、こんな子供が5億円ですって〜)
「まあ半年で無くなりましたけどね。だから帰って来たんです」
本当である。何だかんだで50億円、きっちり使い切ったのだ。
恐るべし、碇シンジ。
「でもよく出入国できたわね。一般人のそれは厳しく制限されているはずなのに」
セカンド・インパクト後は、どの国家においても政情は不安定で、出入国、とくに外国人に対するそれは厳しかった。
ただの観光旅行ではビザが下りないのだ。
大都市である第三新東京市に外国人が少ないのもこのためである。
「お金さえ払えば合法的な抜け穴は幾つもありますからね。ネルフなら詳しいんじゃないですか?」
リツコの詰問に、シンジはさらりと返した。
実際そのとおりなので、リツコも口を噤んでいる。
「……」
(僕が海外に出たのはある目的があったからね。そのためにはまず、僕に海外渡航歴があることをネルフに認識させておかないとね)
やろうと思えば海外に行くことなど、今のシンジにとっては朝飯前のことである。
別に、飛行機や船舶などは必要ない。
実際、日帰りでよく出かけていたし…。


「ありがとう。いろいろと参考になったわ」
本心では尻尾を捕まえられずに苦々しく思っていたが、にこやかにお礼をいうリツコ。
いろいろと参考になったことは確かなので、気持ちを切り替えることにしたらしい。
「今日はもう遅いから泊まっていくといいわ。部屋はこちらで用意するから」
「はい。お手数をお掛けします」
仰々しくもお礼を述べるシンジ。だが内心では、
(このまま寝ろって?ご飯は出ないのか?)
と、やや不満顔だった。
実際、シンジもシロも空腹だったのだ。別に食わなくても死なないが。
「明日は、お父さんのところに案内するわね」
リツコが背中を向けたまま語り掛けてきた。
お父さん。その言葉を聞いた途端、シンジは機嫌が悪くなった。
「お父さん? ──え?え?ひょっとしてあの鬚、冗談ではなくて本当に僕の父親だったというオチなんですか?そんな…実の父親が犯罪者だったなんて…世間様に顔向けできませんって」
突然の少年の悪口雑言に、驚いたリツコが振り向きざま少年を叱りつけた。
「シンジ君!貴方、実の父親に向かってそんな口の利き方は──」
ないでしょう。そう続けるはずが、シンジの言葉に遮られた。
「ふん、鬚で十分ですよ。それにそのうち殺しますしね」
「こ、殺すって、貴方!?」
リツコは戦慄を覚えた。
今までの穏やかな少年の顔ではなかったのだ。
冷酷無比ともいえるその冷たい表情。
リツコは初めて怖いと思った。エヴァの戦いを見てもここまでの恐怖は感じなかったのに、だ。
シンジは続ける。
「今いろいろと考えているんですが、なかなか決まらないんですよ。殺し方」
これは本当である。いろいろと候補は挙がっているのだが、なかなか決まらないらしい。
ただし、殺した後のことについては、すでに〈ユグドラシル〉の世界でゾフィーと二人で決めてきたらしい。それはかなり辛辣な処置のようだ。
この内容については、後日、シンジの口から語られることになろう。
リツコは凍りついている。
(これは父親への稚拙な反抗心から出た言葉なの?それとも…彼の本心?)
「一つ、はっきり言っておきます」
そう前置きして、シンジは冷たく言い放った。
「あの男が僕に愛情を感じていないのと同じように、僕もあの男には爪のあかほども愛情を感じていませんから」
一拍おいて
「はっきり言って、クソ虫ですね」





〜第三新東京市、駅ターミナルビル屋上〜

ここはJR第三新東京駅の駅ビル、その屋上である。
満天の星空を見上げるかのように、その少年は仰向けに寝そべっていた。
いや、これはどうやら気を失っているようで、穏やかな寝息を立てている。
薄暗いためよくわからないが、年の頃は、14、5くらい。ショートの銀髪で色白の肌、白のカッターシャツに黒のズボンと、ありきたりの制服を着用している。
「う…ここは?」
少年の意識が戻ったようだ。
少年の瞼がゆっくり開くと、その奥から紅い瞳が現れた。
「着いたのか?」
少年は上半身を起こすと、周囲を見回した。
高所から俯瞰する眺めであったが、間違いなくここは第三新東京市の街であると、少年は確信した。
「でも何で僕は、こんなところにいるんだろ?」
横を見ると、ビルの空調の大型室外機群が喧しく稼動している。
自分がいる場所の大まかな位置はわかる。おそらく第三新東京駅の近辺だろう。
(たしか、強羅駅前をイメージしたと思ったけど、手元が狂ったのかな?)
「そもそも何で夜なんだ?」
周囲は真っ暗である。空には星さえ輝いている。
「それに、サキエルはどうなったんだ?」
──サキエルならここから2kmくらい先でぶっ倒れているぞ。ここからはビルの死角に入って見えないが。
(もしかして、早く来すぎた?)
その逆のパターンには考えが及ばない銀髪の少年だった。
街の時計台が深夜11時をさす。
「まあ、今は悩んでも仕方がないか。動くとしたら明るくなってからだな。 ──取り合えず、夜も遅いことだし、寝る場所を探すか。 …って、お金が無いや」
さすがに無一文じゃ、ホテルにも泊まれない。
(知ってる人の家…はダメに決まってるか。まだ面識がないし)
「ハア、仕方がない。今夜はここで野宿するか。 …ちょっと煩いけど」
そう一人呟くと、少年は隣に陣取る大型室外機をじっと睨みつけた。
「まず、父さんを止めなくちゃね。 …親子だもの、きっとわかってくれるはずだよね」





〜ネルフ本部・レストルーム〜

ここはシンジのためにネルフが用意した下士官クラスの宿泊施設、その一室だ。
かなり狭く、殺風景な部屋である。しかし、しっかりと監視設備(盗撮・盗聴)は施してある。
シンジは部屋に入るなり、目と耳をすべて破壊するとパイプベッドに横になった。
ちょうどこのとき、彼の部屋を監視していた二人の諜報部員は、一人が鼓膜が破れ、もう一人が失明という憂き目に遭っていた。いいとばっちりである。
「ったく、なんでこんな穴倉で寝なくちゃいけないんだ」
シンジは愚痴る。
当然(地下なので)窓一つない。見渡すかぎりの打ちっぱなしの灰色の壁。息苦しいことこの上ない。しかもドアは鉄格子付きである。ほとんど独房である。少なくともお客様を泊めるような部屋ではない。
しかも晩飯抜きで、シンジはさらに機嫌が悪かった。
『ねえ』
枕元に丸まったシロが問いかける。妙に真剣な表情だ。
「ん、なに?」
『やっぱり君も未来から時を遡ったの?』
シロにしては結構核心をついたいい質問だ。シンジは感心しつつ答える。
「まあね。シロとは違って自分の直接の過去にだけどね」
『……』
「そういえば、シロってさ、今日は随分と大人しかったね」
シロはリツコの研究室でも、シンジの傍らでずっと静かにしていた。
それはもうリツコが羨むくらいに。
だがそれは、静かにしていたというよりも、会話に聞き入っていた、貪欲に情報を求めていたといった感じであった。
「言いたいことがあれば、その場で言っていいんだぞ?」
シンジが気を利かせてアドバイスする。珍しいことだ。
『うん…自分なりに考えたいことが一杯あってね。それにまずは、情報収集が大切かなと思ったから』
シロはシロなりに考えているのだ。
シンジはそんなシロの甲斐甲斐しさに笑みをこぼしていた。
「そうか。考えることはいいことだよ。わからないことがあれば遠慮しないで質問していいから」
少し間が空いた。時間にして1分くらいだろうか。
その沈黙をシロが破る。かなり思いつめた様子だ。
『本当言うとね──』
一拍おいて告白した。
『君が、父さんやミサトさんを毛嫌いしてるのは見ててわかったから、その理由を知りたかったんだ』
「……」
シンジは黙って聞いている。
『君は、…理由もなくそんなことをするような人には見えなかったから』
「ありがとう。僕を信じてくれてるんだね」
『あ、それはまだ、わからないんだけど…』
あまりに正直なシロの反応に、思わずシンジは吹き出した。


『…やっぱり父さんって悪い人なのかな』
沈痛そうな面持ちでシロが呟いた。
今までのいろいろなことを思い出しているのだろう。
「それは君が判断すること」
シンジは冷たく突き放す。
『……(そうか、やっぱりそうだよね)』
シロはシンジに諭されたと思い、反省モード(内罰モード)に入っていた。
だがシンジはそんな殊勝な人間じゃなかった。
「──と言いたいところだけど(ニヤリ)」
シンジは天邪鬼のような目をシロに向けると、二の句を勝手に告げた。
「はっきり言って極悪人だね。それこそ人類史上最悪のね」


「あの映像、やっぱり見てたんだ」
ベッドに寝そべったままの体勢で、シンジが問い掛けた。
あの映像とは、第一次MAGIの乱での例の映像のことである。
『うん。気絶したのは戦闘のときだったからね。その映像はリアルタイムで見てたよ』
「そうか」
『あの女の子ってトウジの妹さんだよね?前回僕が大怪我させた…』
シロは辛そうな表情をしていた。その目は中空を見ている。
「違うよ。トウジの妹ってところは正解だけど」
『どういうこと?』
シロは腑に落ちない様子だ。
シンジはその表情を暫く眺めていたが、しょうがないな〜とばかりに説明を始めた。
「…シロは前回の歴史で、サキエル戦で初号機を暴走させて勝利したよね。そのためにトウジの妹さんに大怪我を負わせて、結果、トウジにぶん殴られたと」
『…うん』
シロは力なく頷く。そのときのことを思い出しているのだろうか、少し元気がない。
シンジは言葉を続ける。
「でもそれは事実じゃないんだよ。トウジの妹さんに瀕死の重傷を負わせたのは、あの特殊監察部の二人の男だったんだからね。あのときのシロはただの殴られ損だったってわけさ。まさにクロではなくシロだったってことだよ」
『!!』
シロはショックを受けていた。もちろん最後の下手な駄洒落にではない。
(やはり僕の世界のトウジの妹さんも、ここの世界と同じように…クッ、なんてことだ!)
「ちなみに実行犯はあの二人だけど、それを命令したのは──」
『──父さん』
シロが静かに答えた。
「そう。すべて碇ゲンドウの差し金さ」


シンジは、シロがある勘違いをしていることに気がついていた。
「う〜ん…シロってさ、この世界と自分の世界とでは事情が異なるって思ってない? ──たとえば、ここの世界の碇ゲンドウが悪人でも、自分の世界の碇ゲンドウがそうだとはかぎらない、とかさ?」
『え!? …違うの?だってここは平行世界、まったくの別世界なんでしょ?』
シロにとっては寝耳に水だった。
もしかして、自分は根本的な思い違いをしていたのか?
世界が違えば、それこそ平行世界の数だけ、悪人のゲンドウがいたり、善人のゲンドウがいたり、いろんな可能性が存在するものだと、シロは考えていたのだ。
そんなシロの縺れていた疑問に、シンジは快刀乱麻を断つ。
「確かに、別の世界だよ。でもね、僕のこの世界も、シロの世界も、そしてもう一人のイレギュラー君の世界も、サード・インパクトの瞬間までは、まったく同一の歴史を辿っていたんだよ」
『!!!』
シロは衝撃を受けた。
シンジの言葉は、自分なりに組み上げた世界観を根本から否定していたのだ。
シロは耳を傾けた。必死にシンジの言葉を理解しようとした。
「つまり、僕とシロはサード・インパクトの瞬間までは、まったくの同一人物だったってことさ」
『!!』
(それって、それって…)
シンジはシロの理解が追いつけるように、一旦間をおくと、再びゆっくりと話を紡ぎ出す。
「僕が生まれてからサード・インパクトを迎えるまで生きてきた記憶はシロも持っているし、またその逆も然りなんだよ」
シロの疑問はいつしか晴れていた。
そして揺るぎようのない確信が生まれつつあった。
「そうだねー、例えば、シロが何歳まで寝小便してたとか、小さい頃に近所の剛田君に虐められていたとか、母親の真珠の指輪を噛んでダメにして叱られたとか、寝ている父親の顔にラクガキして殴られたとか、初恋の女の子は誰だとか、初めて買ったエロ本の名前とか、初めてのオナニーは──」
『だあああああああああああ!!』
シロが突然喚きだし、シンジの言葉を遮った。
「ん?どした?」
『ハアハアハア…もうわかったから…それ以上の例え話はいいよ』
シロは息も絶え絶えに懇願する。
「そう? …とにかく全部知っているよ。なんせシロの歴史と記憶は、僕の歴史と記憶でもあるんだからね」
(そうか、そうだったのか)
シロの頭の中で急速に理解が進んでいく。
今まで思考の迷路に嵌っていたのが、目の前の壁が次々にぶち破られて一本のまっすぐな道が現れたかのような爽快な気分だった。
もう少しですべてが見えてきそうな、そんな感動に溢れていた。
「理解できた?」
シンジがニコニコして訊ねる。
『…つまり、もともと一本だった世界(歴史)がサード・インパクトを境目に枝分かれして複数の平行世界の歴史を発生させたってこと?』
シロが自説(?)を披露した。本人は結構自信があるようだ。
「おおおおおー!!シロにしては理解が早いなー。感心感心。 …でもちょっとだけ違うね」
シンジが惜しいとばかりに、感嘆を上げた。
『?』
「それだとさ、サード・インパクト前の世界、つまり今のこの世界は、僕・シロ・そしてもう一人のイレギュラー君にとっても共通の過去ってことになるよ。 …一番初めに僕は言ったよね。ここは僕の過去であって、君たちの過去じゃないって」
(たしかに)
そういえばそうだったと思い出すシロ。
「実は、さっきシロが言ったことは半分は正解なんだよ。 ──サード・インパクト前の一本だった世界(歴史)も、サード・インパクト後の枝分かれした世界(歴史)の数にあわせて、幹分かれしたのさ」
シンジが正解を発表した。
『なるほど』
すべての謎は解けた。
「つまりさ、ここの世界の碇ゲンドウが悪人なら、シロの世界の碇ゲンドウもまた悪人ってことさ。なんせ同一人物なんだからね」
『……』
(うん、わかってる。やはり父さんは…いい人じゃなかった。それが事実…なんだ)
シロはようやく(父に対する)覚悟を決めた。
だが、シロはゲンドウの犯した悪業の深さを知らなかった。
このときの覚悟が、いかに甘っちょろいものだったかということを、シロは痛感することになる。


『でも、何故父さんはそんなことをしたの?』
そんなこととは、トウジの妹に対する仕打ちのことだ。
シンジは面倒臭がることなくそれに答えていく。
「目的は二つだね。コアの予備の確保、そしてサード・チルドレンの精神の破壊」
『!?どういうことさ?』
シロにとっては、これがよくわからないことだった。
例の中継映像は見ていたが、コアの精製云々についてはよくわからなかったのだ。
「エヴァのコアにはパイロットの近親者がインストールされていることは知ってるよね?」
『あ、うん。でも初号機に母さんがいるってことぐらいしか知らないけど』
少し自信がなさそうに答えるシロ。
「零号機には綾波レイのダミースペア、初号機には碇ユイ、弐号機には惣流・キョウコ・ツェッペリン、つまりアスカの母親が入っている」
『……』
(綾波のダミースペアって、確かリツコさんが破壊した綾波のクローン達のことだよな?)
(…やっぱり非人道的だよな、そんなのって)
シンジは言葉を続ける。
「そして参号機のコアには、鈴原トウジの母親と鈴原ナツミがインストールされ、鈴原トウジがフォース・チルドレンに選出される」
『!!』
「早い話が、鈴原トウジをパイロットにするために、その妹である鈴原ナツミを事故に見せかけて大怪我を負わせ、収容したネルフ病院内でジワジワと投薬で弱らせた上で、時機を見て瀕死の彼女を参号機に喰わせる。 …すべて碇ゲンドウの指示だよ」
『!!!』
(父さん!!父さんはいったい何をしているのさ!!)
シロは心の中で絶叫していた。
しかし、ここで父親に対する不満を言っても、何も始まらないのだ。
今の僕にできること、それは情報を知ることだけだから。シロはそう噛み締めた。


『…じゃあ、サード・チルドレンの精神の破壊ってなに?』
シロは未だショックを引きずっている。
だが今は知らなくてはいけないときだと思いなおし、シンジに続きを促した。
「ゲンドウたちの計画のためには、碇シンジという子供は、心が脆弱じゃないといけないのさ」
ふうと一息ついてシンジは続ける。
「わかりやすく言えば、『もういやだ。死にたい。何もしたくない』というような精神状態に追い込むのさ。人為的にね。デストルドーとも言うよね、コレ。 ──碇シンジは10年前に父親に捨てられたときから、そのための綿密な精神誘導シナリオが立てられていたんだよ。 …実の父親である碇ゲンドウの手によってね」
シロは真っ青になって話を聞いている。
「常時三人以上の諜報部員が、君を監視していたのには気づかなかったかい?あれは万が一精神誘導が行き過ぎた君が自殺してしまうのを止める役目もあったのさ。碇シンジという子供には約束の時までは死なれちゃまずかったからね」
(そういえば…何度か黒服の男たちを見かけたことがある。夏なのに暑苦しい格好をしておかしいと思っていたけど、まさか僕を見張っていたなんて)


『でも、それとトウジの妹さんと、どういう関係があるのさ?』
「第壱中学校二年A組の生徒は、全員がチルドレン候補なんだよ」
シンジが即答する。
『……』
(たしか前の歴史で、第十三使徒戦の後にミサトさんに聞いたことがあるような)
シンジが説明を続ける。
「つまりクラスメート全員に母親がいないんだ。例外なくね。偶然だと思う?」
シロは嫌な予感がした。
「──彼らの母親は表向きは事故死・病死となっているけど、すべてネルフによって殺され、エヴァのコアの予備として精製された上で、ターミナルドグマの奥底にストックされているんだよ。正規のチルドレンが使い物にならなくなったときのためにね」
『!!!』
シロはもはや泣き出しそうだ。
(そんな、そんなのって…それじゃあ、それじゃあ)
『それじゃあ、クラスの皆の…トウジや、ケンスケや…委員長のお母さんの命を…奪ったのって──』
もはやシロはガクガク震えている。顔色も悪い。
だが、シンジは残酷な宣告を下した。
「そう。僕らの父親、碇ゲンドウだよ」
『そんな!!!』
「だから、トウジがチルドレンに選ばれるのは必然だったんだよ。そのための妹さんの犠牲なんだからね」
シロは俯いて震えている。顔色も真っ青だ。


しかし、シンジの話はこれで終わりではなかった。
「──いい?心して聞いてね」
シンジはシロの顔を覗き込むと、覚悟を決めるようにと促した。真剣な顔をしている。
『?』
シンジはシロから目を逸らすと、静かに語りだした。
「第十三使徒バルディエル戦で、碇シンジに親友である鈴原トウジを殺させることで、その精神に負荷を掛ける──これが碇ゲンドウの書いた精神誘導シナリオ、【サード・チルドレン補完計画】における、D−37プランというわけさ」
『!!!!』
「結果は知ってのとおり。なんとかトウジは死なずにすんだけどね」
「ちなみにそのシナリオには、綾波やアスカを犠牲にすることで精神負荷を掛けるプランも用意されている」
『…父さんは…そんな酷いことを…してたんだ』
シロの顔が青い。あまりのショックに嘔吐感さえ催してきたようだ。
「酷い?これが? …あの男にとってはこんなこと、まだまだ序の口だと思うけどね」





「落ち着いたかい?」
少し時間をおいて、シンジが優しく問いかけた。
『…うん』
シロは力なく返事する。さすがに元気がない。
(まだちょっと手足に力が入らないけど…もう大丈夫と思う)
シンジはベッドに寝そべったままである。シロはチョコンと枕元に座りなおしている。
「シロには僕が何歳に見えるかな?」
突然、シンジが変なことを言い出した。少なくともシロにとってはそうだ。
『え? …そりゃあ14歳の中学生だから、年相応くらいには』
今のシンジの姿は、シロの記憶にある過去の自分そのものだ。
多少の雰囲気の違いこそあるが、ショートの黒髪と黒い瞳。線の細い顔と華奢な身体。服装はというと、普通の夏の制服である。そして見た目だけは人畜無害。
誰が見ても中学生らしい容姿だろう。
だが、シンジはとんでもないことを喋りだした。
「…僕のこの姿は擬態なんだよ。本当は髪も瞳もこの色じゃないんだ。当然背格好も違うし、見た目は…高校生くらいなのかな」
シンジは腕枕して天井を見ながらそう説明した。
(擬態…殴られた傷もそうだと言っていた。一体どういうことなのかな。それに見た目が高校生──)
ここでシロはピンときた。
『じゃあ君はサード・インパクトから数年後の世界からやって来たってこと?』
多分この推理は当たりだ。そう思ったシロだったが、シンジはあっさり否定した。
「違うよ。 …僕の本当の年齢は、56億7000万歳さ」
『!?』
シロは、言われた数字の桁数が把握できずに呆けていた。
それはそうだろう。人間の年なんて精々三桁までなのだから。
呆気に囚われているシロに、シンジが補足説明を加える。
「この星、地球よりも長生きしているよ」
地球の年齢は46億年といわれている。
さすがのシロも、その天文学的な数字に驚き目を瞠る。
『なっ!?ソレ冗談じゃなくて、本当のことなの?』
「うん、本当だよ。シロに嘘言っても仕方ないじゃないか」
首だけシロのほうを向けると、穏やかに微笑み返すシンジ。
『そんな、どうしてそんなに長生きできるのさ?』
シロの疑問も当然だ。人はそんなに長くは生きられない。それがシロの、この世界の常識なのだ。
「うーん。サード・インパクトの後、いろいろあったからねえ。いろんな世界にも行ったし。 …108の階梯を登ったりもしてたし」
『カイテイ?』
聞きなれない言葉に、シロは問い返した。
「そう。108ある神への階梯。上に行くほど高位の存在となる。ちなみに僕は、50億年かけて全部登り切ったけど」
『それじゃあ君は神様ってこと?』
「んー、厳密には違うかな」
シロは内心ホッとした。やはり相手が神様だと畏れ多いというか、やりにくいというか、そんな複雑な心境だったのだ。
しかしシンジは、そんなシロの気持ちを一蹴するような事実を告げた。
「僕はすべての神々の頂点に立つ〈ユグドラシル〉の管理人だから」
『!!!』
(それ、よくわからないけど、神様より凄いってこと?)
ポカンと口を開けてシロは呆けている。
ふと何かに興味を示したのか、シンジはぐるりと辺りを見回した。
「どうやらここら辺の銀河には神は一人もいないみたいだね。欠員募集中かな?」
どこかの居酒屋のアルバイト募集中みたいなノリで言うシンジ。
『〈ユグドラシル〉って?』
やっと自分を取り戻したシロが不明点を訊ねる。
「本当の名前は別にあるんだけど、すごく長ったらしいんで、この星の神話にあやかって僕が命名したんだ。まあ、僕がいた世界と思えばいいよ」
「そこって地球じゃないの?」
(君は未来の、別の世界の地球からやって来たんじゃなかったの?)
シロはそう疑問に思った。
「地球はとっくの昔に太陽に飲み込まれて消えたからね。だいぶ前に引っ越したんだよ」
『……』
とんでもないスパンの話をしているようで、シロはなかなかついて行けなかった。


「さっき話した平行世界のこと、覚えている?」
『う、うん』
シロの返事を確認すると、シンジは話を続けた。
「〈ユグドラシル〉は、世界樹、宇宙樹とも呼ばれる巨大樹なんだよ。そして、ありとあらゆる次元はそこに収束している。この世界も、シロのいた平行世界も、この大樹の小枝の皺の一つに過ぎないんだ。なんせ、〈ユグドラシル〉は宇宙そのものだからね」
シロの顔をチラッと見遣って、シンジは言葉を続ける。
「そしてその管理人たる僕は、〈ユグドラシル〉の分身そのものと言っていいんだ」
『……』
シロは、もう凄すぎて言葉も出なかった。その気力すら失くしていた。
(はっきり言って、何でもありの世界じゃないか。もしかして、彼にとっては使徒なんてでもないんじゃないのかな?)
少年の話は、シロの常識ある理解度をとっくに超えていたのだ。
(兵装ビルの屋上で、この世界の修正力が自分には及ばないって言っていたけど、たぶんこのことだったんだね)
(神様じゃない…か)
少し考え込んでいたシロだったが、質問の声を上げた。
『使徒とかはどうなの?名前からして神様が創ったんじゃないの?』
「あれを創造した神は、先代の管理人の御世のときに放逐処分を受けて野垂れ死んだよ。残された使徒は、そのまま地球に捨て置かれた。使徒は所詮神じゃないよ。最強のアダムでさえ最初の階梯すら登れずにいる矮小な存在だからね。それは神とは言わない」
シンジは、裏・死海文書にすら書かれていないような重大事実を淡々と説明する。
『……』
シロはただ黙って聞いている。
少し考えていたシンジが、何かを思い出したように言葉を付け足した。
「あ、でも初号機はそうか!」
「初号機にはルシファー級の力を与えたからね。これは最初の階梯を登るに等しい神の力だよ」
うんうんとばかりに自ら納得するシンジだった。


「はあ、長々と喋ったね。ハイ、今日のお話はこれでおしまい。続きはまた今度にしよう」
パンと柏手を打つと、シロに一声かけた。
「おやすみ、シロ。愛してるよ♪」
シンジは部屋の照明を落として布団に潜り込むと、その10秒後にはもう寝息を立てていた。
──君はのび太クンかい!
『……』
逆にシロは眠れないでいた。
いろいろなことを考え、整理しようとしていた。この一日、あまりにもいろんなことがあった。いや、ありすぎたのだ。
結局、シロが眠りに落ちたのは、日付が変わってだいぶ経ってからであった。



To be continued...


(あとがき)

今回、説明がやたらと長くて、動きがなくて、面白くないかもしれません。ハイ、少し自覚してます。
本当は、第三話と第四話をまとめて第三話としてアップするつもりだったんですが、あまりの量に二つに分割しました。
真ん中からバッサリと。だって、100Kを超えそうな勢いだったもんで。
やっぱ、一話あたり50K未満が適量ですね。長いとダレてくるんで、次話から心がけます。

もう一人のイレギュラー君、やっと登場です。でもまだチョイ役です。すみません。
この回で、シンジ君のプロフィールを再確認させました。
ユグドラシルという言葉は北欧神話から、シンジ君のモチーフは弥勒菩薩(釈迦入滅から56億7000万年後に衆生救済のために現れる未来仏)から得たものです。
シンジ君、はっきり言って何でもありの、ウルトラスーパーで反則的な力を持っているようです。
主人公にあまりに強い力を持たせると、ストーリーに張りが無くなりやすいので、その辺はうまく工夫しようと思っています。
シンジ君がゲンドウやミサトを憎む理由については、今後も客観的事実を示して少しずつ紹介していきます。
しかし、シンジ君の個人的な、主観的なその理由については、もう少し話が進んでからの紹介になるかと思います。
実はこの話の根幹に関わることなので、この辺でご容赦ください。
次回もサービスサービスぅ〜♪
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