第四話 もう一人のイレギュラー(後編)
presented by ながちゃん
暗闇に浮かぶ五つのホログラフィー。特務機関ネルフの上位組織である人類補完委員会──独・英・米・仏・露の五カ国の委員で構成する国連の秘密組織──の面々である。
その末席に特務機関ネルフ総司令官である碇ゲンドウが加わる。
まさに世界転覆を企む悪の秘密会談といった様相だ。
「使徒再来か、あまりに唐突だな」
「十五年前と同じだよ。災いは何の前触れもなく訪れるものだ」
「幸いとも言える。我々の先行投資が無駄にならなかったという点においてはな」
「そいつはまだわからんよ。役に立たなければ無駄と同じだ」
「左様。今や周知の事実となってしまった使徒の処置、情報操作、ネルフの運用はすべて適切かつ迅速に処理してもらわんと困るよ」
少しの静寂の後、
「…ところで、事実の隠蔽は君の十八番(オハコ)ではなかったのかね?」
ロシア代表の委員が声を上げた。
「我々としては、なかなか面白い茶番劇を見ることができて、なかなか楽しかったよ」
フランス代表の委員がそれに同調する。
「……」
委員たちは、件のMAGIによる情報のたれ流しのことで、暗にイヤミを言っているのだ。
ゲンドウにとっては針のムシロだろう。
「その件についてはすでに対処済みです。ご安心を」
たしかにゲンドウは、すぐさま隠蔽工作を始めていた。ネルフ本部内に緘口令を敷き、違反した者には厳しいペナルティーを科すと脅した。全世界への情報のたれ流しの件についても、あれはネルフを貶めるためのテロであったとの情報操作を進めさせていた。
ただし、それにどれほどの効果があるのかは甚だ疑問ではあるのだが。
「ま、その通りだな」
「しかし、使徒のあの力、MAGIの反乱、そして初号機の実力と変貌。 ──シナリオからだいぶ離れた事件だな」
「我らのシナリオとは、大きく違った出来事だよ」
委員たちが次々と不満を口にする。
もともとこの会議はゲンドウいびりの場も兼ねているのだから、当然のことではある。
「すべての事象については、原因を調査させています。ご安心を。それに、結果は予測範囲内です。修正は利きます」
あくまでも冷静に答えるゲンドウ。さすが、嘘とハッタリでこの地位まで登りつめただけのことはあった。
「本当にそう思っているのかね?」
「もちろんです」
ゲンドウはどこまでも強気だった。
「……」
「しかし、碇君。ネルフとエヴァ、もう少し上手く使えんのかね」
「零号機に引き続き、君らが初陣で壊した初号機の修理代、…国が一つ傾くよ」
これはサキエルに貫かれた頭部装甲のことを言っているらしい。素体自体は(シンジが)修復したのでダメージはなかったが、委員たちはこれを知らなかったようだ。
「だが、事態はエヴァ初号機の問題だけではない」
「左様。ジオ・フロント天井部分と本部施設の半壊、被害は甚大だよ」
「我々がどの程度の時と金を失ったか、見当もつかん」
「聞けば、あのオモチャは君の息子に与えたそうではないか」
「人、時間、そして金。親子揃っていくら使ったら気が済むのかね」
「それに君の仕事はこれだけではあるまい」
「…人類補完計画。これこそが君の急務だ」
「左様。その計画こそが、この絶望的状況下における唯一の希望なのだ。我々のね」
「いずれにせよ、使徒再来における計画スケジュールの遅延は認められん。予算については一考しよう」
「では、後は委員会の仕事だ」
「碇君、ご苦労だったな」
「…碇、後戻りはできんぞ」
「…わかっている。人間には時間が無いのだ」
最後にゲンドウは呟いた。
──そう、時間がないのだ。人間は我がネルフによって滅ぼされる運命なのだから。
〜第三新東京市、駅ターミナルビル屋上〜
「なんかおかしい」
銀髪紅眼の少年は目を覚ますなり、その違和感に首をひねっていた。
もう日もだいぶ高く、街の時計台の針は午前8時過ぎを指している。
この位置から見下ろす街並に変化はない。至って平和な普通の朝という感じだ。
しかし、その上空を多くのネルフ籍のヘリが飛び交っていた。まさに異様な光景だ。
「何があったんだ?」
少年は状況を分析しようとする。
(使徒迎撃要塞都市なんだから、ネルフのヘリが飛んでるのは当然なんだけど、平時にしては些か数が多いような気がする)
その少年は経験的にそう感じていた。
だが、ここにいても何もわからない。
「とりあえず、街に降りて情報収集してみるか」
〜ネルフ本部・総司令官公務室〜
ネルフ本部施設、ピラミッド部分の最上階フロアに存在する総司令官公務室。
通称、司令室とも呼ばれるこの場所は、まだ何の装飾も施されておらず、ライティング設備のみの殺風景なフロアであった。
ちなみに、天井と床一面にカバラの紋様が刻印されて不気味な部屋に様変わりするのは、もう暫く先のことである。
だだっ広く薄暗いその部屋には二つの人影があった。
一人は碇ゲンドウ。この部屋の主であり、ネルフ総司令官の肩書きを持つ男である。
そしてもう一人は冬月コウゾウ。ゲンドウの副官を務める男である。
「緘口令を敷いたとはいえ、本部内での貴様の評判はガタ落ちだな」
初老の男、冬月が呆れたように囁いた。
まあ元々そんなになかったがなと、一言皮肉っておくのを忘れなかったが。
「……」
「次の議会では何を言われることやら…頭が痛いよ、まったく」
やれやれとばかりに、冬月はこめかみを押さえる。
「それに、MAGIの反乱と初号機の変貌、些かマズイのではないかね」
「…MAGIと初号機については、赤木博士に徹底調査を命じてある。じきに原因がわかる。何も問題はない」
ここで初めてゲンドウが口を開いた。
口元で手を組んだ独特のポーズ。その表情を窺うことはできないが、自信(過信)に溢れているようだ。
しかしこのMAGIと初号機の調査は、すべて徒労に終わる。
シンジがMAGIに施したのは、そもそも電子的な細工などではない。
初号機についてもそうである。そして、初号機自身はシンジからいろいろな指示を受けていた。偽装もその一つだ。
だから調べても無駄、無理、無謀であるのだ。
「ふむ。また赤木博士の負担が増えるな」
冬月は瞼の奥で彼女の苦労を思いやった。
実のところ、増えるどころではなかった。リツコのノルマはこの他にも、初号機の破損箇所の確認とその補修、第三使徒のサンプル採取とその調査、並びにエヴァの武装開発など、作業が目白押しであるのだ。かなりの重労働であろう。
「……」
ゲンドウの表情に変化はない。
知ったことではない。所詮は使い捨ての道具だ。男は心内ではそう考えていた。
ビービービー
ちょうどそのとき、内線電話のブザーが鳴った。
「碇、シンジ君が面会に来たようだぞ」
「…とおせ」
ゲンドウは例のポーズのまま答える。
プシュー
目の前の(とは言っても司令席からはだいぶ離れているが)ドアが開くと、そこには二つの人影があった。
赤木リツコ博士と碇シンジその人である。
ちなみにシロはというと、シンジの左肩に乗ってお行儀よくしていた。器用な猫である。
リツコは当初、シロを司令室に同伴させることを渋っていたが、シンジの押しの強さに最後には折れていた。
「碇司令。サード・チルドレン、碇シンジ君をお連れしました」
少年の隣に立つリツコが立場上仰々しく挨拶する。
ご苦労。そう言い掛けるつもりのゲンドウの口が止まった。
どうやら少年の顔の異変に気づいたようだ。隣の男も同様の様子である。
不審に思った冬月がゲンドウに代わって訊ねた。
「シンジ君、その顔は一体どうしたのかね?」
シンジの擬態はまだ続いていたようで、一晩経ってその顔はさらに腫れ上がっていた。かなり芸が細かい…。シンジというこの少年。自分の娯楽のためには労力を惜しまない性格のようだ。
「葛城ミサトとかいう女に『自分の許可なく勝手に使徒を倒すなコノヤロー』と因縁ふっかけられた挙句、いきなりぶん殴られたんですけど」
「「んな!?」」
揃って言葉を失う男二人。
「それは本当かね!? あ、いや、きっとそうなのだろうね。それはすまなかったね。葛城君に代わって謝罪しよう」
だがこの冬月という男、口では詫びると言いつつも、少年に頭を下げることはしなかった。要は、言葉だけの(魂がこもっていない)謝罪である。所詮、口だけの男である。シンジはそう判断していた。
「赤木さんにも同じことを言われましたがね、僕はアレを許す気などチン○の皮ほどもありませんよ」
シンジは意地悪そうにあしらった。
「…赤木博士、ご苦労だったね。ここはもういいよ。下がってくれたまえ」
このままでは話が進まないと考えた冬月が話を変える。どうやら本題に入りたいようだ。
リツコは失礼しますと返事をしてその場を去った。
「コホン、さて──」
「お約束のお金、用意できましたか?」
唐突にシンジが切り出した。
当然だろう。彼は(表向きには)そのためにここまで来たのだから。
「む、まあ待ちたまえ、碇シンジ君。 我々としては、君にはだね、サード・チルドレンとしての契約をしてもらいたいのだよ」
冬月は、シンジからの報酬の要求をやんわりとかわした。勿論この男にとっては筋書きどおりだ。
まずはシンジとチルドレン契約を交わすことで既成事実を確立、その後、なし崩し的に約束した報酬の支払いを有耶無耶にするつもりなのだ。なのだが──
「イヤです。直ぐにお金をください。直ぐにでも帰りたいんで」
にべもなく断るシンジ。
逆に冬月は苦々しい顔。筋書きどおりに動かない子供を睨む大人といったところか。
「即答かね。理由を聞かせてもらえるかな?」
「こんな所をウロウロしていたら、またあのクソ女に見つかって殴られかねないですからね」
シンジは、さも当然でしょう?とばかりに理由を述べた。
「「……」」
恐らくその可能性は高いだろう。いや、あの女なら間違いなく起こりうる事態だ。
本心ではそう考える二人の男は、直ぐには反論できなかった。
(はてさて、どうしたものか…)
悩む老人。そこへ、
「椅子はないんですか?」
「…はい?」
「疲れるんですよね、立ったままだと。第一、僕は客なんですから椅子くらい用意してくれてもバチは当たらないんじゃないですかね?」
シンジは続ける。
「それともネルフって礼儀知らずの組織ですか? …ああ、そうでしたね。昨日も僕に昼飯どころか晩飯さえも食わせない、今日の朝飯すら与えない。ネルフってそんなところでした。結局僕、丸一日何も食ってませんね。えっと、新手のイジメ?」
「す、済まない。食事のことまでは頭が回らなかった。後で手配しよう。椅子については見てのとおり此処にはないのだよ。準備させるから暫く待てるかね」
漸く話が飲み込めた冬月が、申し訳なさそうに弁明した。だが相変わらず頭は下げない。
シンジが周りを見渡すと本当に何もない。目の前の司令席のデスクとゲンドウが腰掛けている椅子のみだ。冬月でさえ直立体勢である。
「あっそ、じゃあ仕方ないね」
シンジはそう言うと、目の前の司令席へと歩み寄り、ドッカとばかりに机の端に腰を乗せた。
所謂、ケツ半分を斜めに乗せた体勢で、首だけを男たちのほうに向けていた。
「「!!」」
「ふう、楽チン楽チン」
シンジは極楽極楽とばかりに一息ついていた。しかも、
ぷぅ〜
「「!!」」
「あ、こりゃ失敬」
でも失敬という顔はしていない。
「シンジ君、これは少しばかり行儀が悪いのではないかね?」
さすがの冬月も気分を悪くしたが、
「いやーすみませんね。なんせ親の躾が悪かったものですから」
シンジはまったく気にもせず、きっちりと皮肉の言葉も忘れない。
だが親の躾云々を口に出されては、冬月に返す言葉はない。 …だってその親が苦々しげな表情で自分のすぐ隣にいたのだから。
やっと落ち着いたとばかりに、シンジが言葉を告げる。
「さて、話の続きでしたね」
シンジはゲンドウの(サングラス越しの)目を楽しそうに見つめている。
(…これがシンジだというのか?脆弱な子供に育ったのではなかったのか?)
ゲンドウは戸惑っていた。
「ネルフって悪の秘密組織なんでしょ?僕はまだ中学生ですよ?この歳で犯罪に手を染めるのはイヤなんですよねえ」
「悪の!? いやいやいや、それは君の誤解というものだよ、碇シンジ君。 コホン──我々ネルフは使徒の脅威から人類を守護するために設立された、言わば正義の組織。これでも由緒正しき国連の一組織だからね、安心するといい。そしてそのトップを務めるのが、何を隠そう君のお父さんなのだよ」
しかし内心では、きっと悪の組織なんだろうなーと自嘲しつつも、冬月はネルフの建前を押し出した。
(誤解ねえ…よく言うよ。しかしよくもまあ、口からでまかせを次から次へと)
人のことは言えないシンジだったが、自分のことは棚に上げた。
「それが一番信じられないんですよ。そもそも父さんは、他人のためにその身を犠牲にして何かをするような殊勝な人間じゃありませんからね。おそらく自分の利益になるようなことが、どこかにあるハズなんです」
「「……」」
当たりだ。もちろんそんな素振りは見せない大人二人。しかし内心では、少年の洞察力というか、父親を見る目の正しさに、ある意味驚嘆中。
当のゲンドウは相変わらず黙って聞いているが、図星を突かれて内心苛ついていた。
「そもそもこの僕が、10年前に、ああ正確には11年前だけど、自分を捨てた父親のために命の危険を冒してまでそんなことをすると思いますか?」
少年は大袈裟なジェスチャーで呆れてみせた。
「それに、またエヴァっていうロボットに乗れって言うんでしょう?あれって殺し合いですよね?僕はまだ中学生、子供ですよ?普通そんな危険なことは大人がやるもんでしょう?」
シンジは正論で攻め立てる。
「耳が痛い話だね。 だがね、アレには君のような子供しか乗れないのだよ。そして我々ネルフが使徒に負ければ世界は滅んでしまうのだよ」
(嘘つけ!そのネルフが世界を滅ぼそうとしているくせに!)
「僕がサードというからには、他にもパイロットがいるんじゃないんですか?」
「パイロットは全世界で二人しかいない。そのうちの一人がファースト・チルドレンの綾波レイという少女なのだ。しかし彼女は今現在負傷をしているのだよ。絶対安静だ」
「……」
「もう一人のセカンド・チルドレンは今ドイツにいて、此処にはいない。つまり今の我々はパイロットに余裕がないのだ」
だからサードになってくれ。冬月はそう言っていた。
「では何故、そのセカンド・チルドレンをドイツから招聘しないんですか?人類滅亡の瀬戸際なのに呼び寄せられない理由でもあるんですか?」
裏事情は当然知っていたが、シンジはネチネチと攻め立てる。
「それはそうだがね…複雑な大人の事情というものがあってだね…」
冬月は言葉を濁す。
図星だった。
裏・死海文書によれば、エヴァ弐号機は太平洋上にて第六使徒とぶつかるとある。
つまり、今の段階でセカンド・チルドレンを本部に呼ぶわけにはいかないのだ。
「大人の事情、なかなか便利な言葉ですね。 …そもそも何故世界が滅ぶんですか?」
「──使徒に敗北するとサード・インパクトが起きて世界が滅ぶからだ」
それまで冬月一人に話させていたゲンドウが、突然口を開いた。だが相も変わらずの言葉足らずだ。
「あれれ?なかなか喋らないから電池切れかと思ってたけど、まさか本物?」
「……」
棘のある皮肉にゲンドウは黙っていたが、内心では、予想外の息子の性格に戸惑っているようだった。
冬月が気を取りなおして補足説明を始めた。
「シンジ君。15年前のセカンド・インパクトは、大質量隕石が南極に落下したために起こった天災だと言われているが、実はそうではないのだよ。セカンド・インパクトの本当の原因、それは南極で発見された使徒が引き起こしたものなのだ。そして時は流れ、再び使徒はやって来た。再びインパクトを、サード・インパクトを起こすためにね。ネルフはその使徒を撃退し、サード・インパクトを防ぐ目的で設立されたのだ。我々ネルフが負ければ人類に残された道は滅亡しかないのだから」
(ふん、欺瞞もいいところだ。使徒によるサード・インパクトの阻止は、ネルフの表看板に過ぎない。ネルフとゼーレの真の目的は、人間主導によるサード・インパクトの実現じゃないか)
(それに、使徒に負けると人類滅亡だって? …まるで使徒に負けなければ人類は滅亡しないとでも言いたげじゃないか。 ──碇ユイ・碇ゲンドウ・ゼーレ、どの補完計画をとってみても、「人類滅亡」はサード・インパクトを発生させるための前提条件だというのにさ)
暫く考え込んでいたシンジだったが、渋々とばかりに話を切り出した。
「ふーん。 …別にいいよ、サード・チルドレンになっても」
「本当かね!!」
冬月が、やっと筋書きどおりになったと、身を乗り出す。
「ただし!! ──条件があるよ」
「じょ、条件?」
少年の不敵な笑みに、内心ドキリとする冬月。
「あの葛城ミサトっていうズベタを懲戒免職にしてくれるんなら、乗ってやってもいいよ」
懲戒免職、つまりクビである。退職金も一切ナシ。
「くっ!それはできん!」
いきなり横でゲンドウが即答した。
無論彼女を庇っているわけではない。クビにしたくても、そうそう簡単には出来ない裏事情がネルフには、ゲンドウにはあったのだ。
「そ。じゃ、ヤダ♪」
こちらも即答だった。
「シンジ君。何故そんなにも彼女に拘るのかね?」
「たしか彼女でしたよね?」
「それはどういう…?」
「呼び出したくせに、待ち合わせをすっぽかして、僕を見殺しにした女、ですよ」
「……」
シンジの目は冷たい。
しかしまったくもって事実なので、相手は黙り込むしかなかった。多少なりともシンジの気持ちがわからないわけでもない。
余談ではあるが、傍で話を聞いていた白猫がこのセリフに反応して首を傾げていたことを記しておこう。
「そのことについて、未だ何の謝罪もない」
「む…」
いや、すっぽかしたこと自体、すっかり忘れていると思う。
「エヴァに乗ったら、アドバイスどころか誹謗中傷の嵐」
「ぐ…」
「エヴァを降りたら、いきなり殴り倒された挙句、詫びの一つさえない。殴った原因さえ僕に転嫁する始末」
「ぬぬぬ…」
「──以上が理由ですよ。それにあんな無能女、ネルフでも手を焼いているんじゃないんですか?」
いちいちご尤もなシンジの意見だったが、ネルフとしては引き下がれないのだ。
「そ、そうは言ってもだね、葛城君はネルフの中でも相当に優秀で得がたい人材なのだよ」
(あー、心にもないことをほざいているなワシは)
チクリと心が痛む冬月。
だがそんな冬月の内情をよそに、シンジはバッサリと切り捨てた。
「本気で仰っているなら、貴方、自分で自分の底の浅さを告白しているようなものですよ? ──貴方もあの女と同じ低能な人間のクズということですか?」
あまりに棘のあるその言葉にさすがにカチンときたが、冬月はグッと堪える。
しかしシンジはそれを見てニヤリとすると、言葉を続ける。
「そうそう、人間のクズといえば思い出しました。生前、母がよくぼやいていたんですがね、…母の大学の恩師で冬ナントカという教授がいたそうですが、母はその先生から頻繁にセクハラを受けていたそうです。論文を見せに行ったら体のラインをジロジロ見られるわ、胸の谷間は覗かれるわ、頻繁に人気(ひとけ)の無いところにデートに誘われるわ、挙句の果てにはお酒に睡眠薬を入れられるわで、大変難儀していたそうです」
やれやれ迷惑な話とばかりに、シンジは大きく溜め息をついて見せた。
ちなみにこれは、シンジが碇ユイから聞いたものではなく、【記憶】(この場合は冬月の記憶)から読み出した事実である。
そしてこの突然の話にガラにもなく狼狽してしまう老人。
(馬鹿な!?あれはユイ君には気づかれていないはずだ!それにそもそも未遂ではないか)
「あ、横道に逸れましたね。貴方には全然まったく関係ないことなのに失礼しました。まあ、世の中にはそんな人間のクズもいるという話をしたかっただけですから、お気になさらずに。 …あれ?どうしたの父さん。この人をじっと睨みつけたりして?」
そう、ゲンドウは冬月を睨んでいた。
冬月としては、ヘビに睨まれたカエルの心境である。堪らないことこの上なかった。
「ところで貴方のお名前は何と仰るんですか?」
ニタリ顔でシンジが訊いてくる。もはや故意犯だ。
「…ただの、副司令で構わんよ」
「そうですか。ええと、葛城ミサトの話でしたね。アレが優秀というのは副司令の冗談ということにして、実際、何故ネルフはそうまでしてアレを庇うんですか?」
「貴様には関係ない」
ゲンドウが憮然として突っぱねる。
「ひょっとして、父さんと体の関係とか?」
「…違う」
「神様のお告げでもあったのかな?」
「…ふざけるな」
ドスのきいた声が重く響く。
「あー怖い怖い。 …話は変わるけど、実は僕、一年ほど前に半年くらい海外旅行してたんですよね」
本当にいきなりの話だ。
「ああ、そのことについては赤木博士から報告を受けているよ」
「いろんなところに行ったけど、中東あたりは日本よりも暑かったなあ。イスラエルとかにも行ったし。 …そういえばあそこには死海と呼ばれる湖がありましたよね?いいところでしたよ。お二人は行かれたことはあります?」
「「!?」」
「…シンジ、貴様、何を知っている」
ゲンドウはシンジに疑惑の視線を向けた。
こいつは何かを、まさか裏・死海文書のことを知っているのではないか? ──ゲンドウはそう勘ぐっていた。
「はあ?いきなり何言ってるのさ?ただの海外旅行の思い出話じゃないか」
惚けるシンジ。
「……」
「そんなことよりもさ、早くお金を頂戴よ。3億アメリカ$。そのお金で今から家を買いに行くんだから」
「!!」
冬月は焦った。焦りまくった。
それはマズイのだ。なぜならサード監視のために、ネルフの息の掛かった物件でないと具合が悪いのだ。
予め盗聴・盗撮設備も仕込まなければならない。
どうする、どうする、どうする。
「ちょ、ちょっと待ってくれないかね、シンジ君。住居ならネルフのほうで用意するから安心していいのだよ」
──盗聴・盗撮設備が完備された、諜報する側にとって安心の部屋であるが。
「それに、いくらなんでも3億アメリカ$の報酬は高すぎるのではないかね?君が思っているほどネルフの懐は裕福ではないのだよ」
しかし、シンジはネルフとゼーレの財務状況をすべて把握していた。ついでに個人資産もである。
したがって、ネルフにとって3億アメリカ$が決して払えない額ではないことも当然知っていた。
そもそも、エヴァが一機中破すると日本円で兆単位のカネが掛かるのだから、それくらいは屁でもないのである。たしかに高額は高額であるのだが。
「えー、だってあのとき了承したじゃないですか、そこの鬚が」
そう言って右手のディスクをひらつかせた。
「鬚!? …シンジ君、父親に向かってその物言いはないだろう」
冬月が似非紳士ぶりを発揮して、シンジをたしなめる。
「鬚で十分ですよ。父さんって呼ぶの生理的にキツいんですよね。だからもうパス。それにこの鬚、何か父親らしいことをしたことがありましたっけ?」
「……」
冬月は黙り込んだ。
直ぐ何か言おうとしたが、悲しいかな何も思いつかなかったのだ。
まさかヒューマ姉のように「いつも君を電柱の陰から見守っていた」などとは言えない。
「まあ、とにかく払ってよ。それが約束」
またもや右手のディスクをひらつかせる。
「…言った覚えなどない。それにそんなもの、何の証拠にもならん」
ゲンドウはすっとぼけた。
どうやら、初めから踏み倒すつもりだったらしい。
「踏み倒すつもりなの? …ま、この鬚のことだから、予想はしてたけどね」
シンジにまったく動揺はない。言葉のとおり織り込み済みだったようだ。だがその態度は二人の大人にとっては些か意外なものだった。
「待ってくれないかシンジ君、我々は決してそのようなつもりはないのだよ」
──否、そのつもりであった。
「へえー?じゃ、いくらなら出せるんですか?」
(よし!)
食らいついたとばかりに目を輝かせた冬月。後は得意の理詰めで有耶無耶にするだけだ。
「そうだね、…年俸500万円でどうかね?」
だがそれは、当初から予定されていたチルドレンとしての正規の給与額であった。
いや、様々な特別手当(エヴァの出撃手当等)を除外している分、それよりも遥かに低いものだった。
つまり、この冬月という男は、3億アメリカ$もの報酬を踏み倒そうとするだけではなく、本来チルドレンが受け取るべき正当な報酬さえも上限を固定額にして値切ろうとしているのだ。
「……」
当たり前だがすべてを知るシンジは呆れかえっていた。
もう滅茶苦茶である。この当時の日米の為替レートは、1アメリカ$=180円前後である。つまり、3億アメリカ$といえば、日本円で500億円以上に相当しているのだ。
それをいきなり、一万分の一以下に、しかも一時払いじゃなく年払いとして値切ろうとしているのだ。
神経を疑った。ダンピングにも程があるだろう。
「いきなり一万分の一以下ですか。いやはや、随分と舐められたものですねー。話にすらなりませんよ。しかも年俸とはどういう了見ですか? はぁ、今回の成功報酬の支払いを誤魔化された挙句に、いつの間にやら僕はネルフに組み込まれていて年俸の受給者扱い。 …貴方、子供だと思って馬鹿にしてるんですか?」
シンジは険悪な目つきで冬月を睨みつけた。
当の冬月といえば、瞬時にレート計算したこの少年の聡明さに驚いていた。
所詮は中学生の子供だ。少し強く諭せば言いなりになるだろう。ゲンドウではないが、そう踏んでいたのだ。
些か値切りすぎたかと、冬月は気まずそうに顔を顰めた。
(ったく、やれやれだね。うん、決めた。ゲンドウだけからむしり取ろうかと思っていたけど、このクソ爺も身ぐるみ剥がして素寒貧にしてやろう♪)
ニヤリとシンジ。
(そうだね、預金残高だけじゃなく、保有する金塊や貴金属、古美術、有価証券も洗いざらいすべて換金、念入りにマネーロンダリングした上でスイス銀行の隠し口座にでも移し替えるか)
シンジは嬉々として思案に耽った。
「僕がサード・チルドレン就任を受諾する条件として揚げるのは次の七つだよ。これを呑まないかぎり、そちらの要求には一切応えられない。且つこれが最後通牒だ」
そう言って、シンジが提示したのは次のようなものだった。
- 今回の成功報酬としての3億アメリカ$(税抜き)の速やかな支払い
- 葛城ミサトの懲戒免職(即時)
- 副司令[名前不詳]の降格(即時)
- 出撃一回毎に手当として100億円(税抜き)の支給
- 使徒一体の撃退毎に成功報酬として500億円(税抜き)の支給
- 訓練・実験の免除
- プライバシーへの不干渉(盗聴・盗撮・監視・警護の撤廃)
「──以上、契約不履行の際は、即辞めるよ」
「わ、私の降格とは一体どういうことかね?」
焦った冬月が訊ねる。本人としてはまったく身に覚えがないようだ。ある意味、あの女と同類なのかもしれない。
「アンタの態度がムカついた」
「な!?」
少年の辛辣な言葉に衝撃を受ける冬月。
だが何とか落ち着きを取り戻すと、すぐさま訊き返す。
「そ、それにいくらなんでも、その額は高すぎるのではないかね!」
100億円と500億円のことを言っているのだろう。
あまりに非常識な金額を要求されて、泡を食っているようだ。
ネルフの経理の実質的な責任者は彼なのだ。
「そうですか?妥当な額だと思いますよ。 …それとも、僕の命にそんな価値はないと?」
冬月は言葉に詰まる。かなり苦々しげだ。まさか価値がないとは言えない。言ったら交渉はそこで打ち切りだ。
冬月は矛先を転じた。
「チルドレンの警護は必要不可欠なものだよ。でないと君の身の安全が保障できない。ネルフに敵対する人間は星の数ほどもいるのだからね!」
盗聴・盗撮・監視が、とは言わない。あくまで警護。なかなかの古狸だ。
「ご心配なく。僕には必要ありません。だって強いですから。それにネルフに敵が多いのはトップが無能だからです」
ピシャリ。
だが、冬月はなおも食い下がろうとする。
「し、しかしだね──」
「ふん、わかった。 シンジ、お前には失望した。お前などいらん。帰れ!」
唐突に怒声が割り込んだ。
「(碇?いいのか?)」
「(構いませんよ冬月先生。いざとなれば特務権限による強制徴兵という手があります。それでも言うことを聞かなければ脅迫するなり洗脳するなり、いくらでも手はあります。所詮は子供、何も問題はありませんよ)」
ゲンドウは丁寧な言葉で冬月に耳打ちした。今時点ではかなり余裕があった。
『父さん!なんでそんなこと言うのさ!』
今までシンジの肩の上で黙って会話を聞いていたシロだったが、堪りかねたように叫び声を上げていた。
(あ、しまった!思わず声に出しちゃったよ。 …さすがにマズイよな。僕が普通の猫じゃないってバレたかなぁ?)
シロは恐る恐る視線を上げてみる。
だが、シロの心配は杞憂に終わる。というより、こちらの事実のほうがある意味ショックが大きいかも知れない。
「何だね、その白い猫は?先程からニャーニャーと煩く鳴いているようだが」
『!?』
「ここは動物園ではない。さっさとつまみ出せ」
(な!?もしかして僕の声がわからないっていうの?)
シロは呆然とした。
「…OK。交渉決裂ということだね。それじゃあ出て行くよ」
シンジはゲンドウの目の前にディスクを掲げると、ニヤついた顔で警告した。
「あと、昨日も言ったよね。3億アメリカ$の支払いを反故にしたらどうなるか。まあ、身辺には十二分に注意することをお勧めするよ」
「(碇、大丈夫なのか?)」
「(なに、所詮は子供です。ただの負け犬の遠吠えにすぎませんよ。それにヤツには帰る家などありません。確認済みです)」
どうやらゲンドウは、例の叔父夫婦に手を回して、帰ってきたシンジを追い出させるつもりらしかった。
「じゃ、もう二度と会うことはないと思うけど──」
「ふん、さっさと失せろ!お前など不要な人間だ!」
ゲンドウがトドメとばかりに怒鳴る。
これでコイツは父親から拒絶されたと思い込んで深く傷つく、シナリオどおりだとゲンドウはほくそ笑む。
だが、当のシンジはそんなことは何とも思っていない。
そんなヤワな精神はしていないのだ。というより、この鬚を父親とすら思っていない。
「そ…じゃ、バイバイ」
そう言ってシンジは退出する。勿論、全然堪えていない。
シンジがドアの向こうに消えかけたそのとき、ヒョイと首だけをドアから覗かせて言った。
「あ、そうそう。重要なことを話すのを忘れてたけど、──もしこの僕を強制徴兵しようとしても、無駄だからね」
「「!?」」
二人は意味がわからない。たしかに強制徴兵することは考えていたのだが。
シンジはかなりニヤニヤしながら話を続ける。ものすんごく楽しそうだ。
「実はね、──僕の国籍って、この日本だけじゃないんだよねえ」
シンジはさらにニヤニヤしている。もう楽しくってしょうがないようだ。
「何を言っているのかね?」
「海外旅行に行ったって話、したよね」
「う、うむ」
「そのときにさ、とある国の国籍を取得したんだよ。しかもその国は国連に加盟していないんだ。つまり、国連組織であるネルフご自慢の特務権限とやらは僕には通用しないよ。 ──それにね、僕には外交官特権が認められているからね」
そう言ってシンジは、日本国総理大臣発行の信任状──最近はカードサイズの手帳のようだ──を開いて見せた。
「「!!!!」」
セカンド・インパクト直後、インド・パキスタン国境で難民同士の衝突が起きたのを始めとして、世界各地で軍事衝突が発生した。日本の旧東京にも新型爆弾(N2)が投下され、50万人の命が失われている。翌2001年2月14日、各国首脳の臨時会談によってバレンタイン休戦臨時条約が結ばれ、この世界的紛争は治まった。
シンジが言う某国とは、このセカンド・インパクト直後のドサクサの中で建国した中東の一小国であった。
シンジは半年前、かの地で国籍と外交官の身分を取得していたのだ。もちろん、日本政府発行の信任状も正式なものである。
そうなのだ。国連非加盟国の国籍と外交官特権の前には、さすがの三葉葵の印籠も効果がなかった。
外交官特権とは、極論を言えば人を殺しても逮捕・拘束されない治外法権だ。できるのはせいぜい日本政府が信任を取り消して本国に送還させるくらいのことだ。だが、シンジは日本国籍も持っているためそれも不可能であるのだ。
しかも、かの国はイスラム教国であり、ゼーレの影響は排除されていた。外圧をかけてシンジから外交官の身分を剥奪させようにも、かの国の元首はすでにシンジに心酔しており、不可能であった。
「んじゃ♪」
「ま、待てっ!!」
ゲンドウが慌てて呼び止めた。
「やだ♪」
つれなくそう言うと、シンジはお尻ペンペンしながらドアの向こう側へと消え去った。
ゲンドウはすぐさま追手を向かわせたが、ついにシンジは見つからなかった。
「どうするのだ、碇?」
「……」
「まさかこんな隠し玉があろうとはな。3億アメリカ$をケチった報いがこれか」
──違う。こんなものじゃない。報いはまだまだこれから受けるのだ。公私ともに。
「…まだ方法はある。所詮は子供だ。問題ない」
すでに余裕がなくなったのか、ゲンドウの言葉づかいは元に戻っていた。
「だといいがな」
〜第三新東京市、立入禁止区域〜
ここは第三新東京市のとある一角。昨日の使徒戦の現場である。
付近はネルフや地元警察によって厳重にシャットアウトされており、蟻の子一匹入り込めないような警備が敷かれていた。
現場の上空を旋回するのはネルフ所属のヘリのみであり、民間機の飛行は許されていなかった。
その上空から現場を見下ろすと、そこには第三使徒サキエルの変わり果てた姿があった。
仮設テントにはオレンジの防護服を着た二人の女性の姿があった。
一人はせわしなく仕事をしているようだが、もう一人は缶ビール片手にテレビの報道番組をゆったりと眺めていた。
「ぷはあ〜、発表はシナリオB−22か。またも事実は闇の中ね」
エビチュを呷っていたミサトが皮肉をたれる。
「広報部は喜んでいたわよ。やっと仕事ができたって」
「うちもお気楽なもんねえー」
お前もだ。
「でも、あのときMAGIが流した情報まではどうしようもないわねー」
グビグビと喉を鳴らしているミサト。
「ええ。いくら報道管制を敷いても、インターネット上ではあのときの映像が大々的に出回っているらしいわ」
リツコは客観的事実を述べる。
あれほど大々的にばら撒いたのだ。いかなネルフでも完全には隠蔽できない。そうリツコは考えていた。
それに敵対組織によるテロ説のでっち上げも、甚だ疑問だ。状況証拠からみて反証される可能性が高い。
そもそも隠蔽工作をするにしても、十分策を練ってからにすべきだったのだ。
それを焦った碇司令が独断専行で現場に指示を出すもんだから…。
リツコは心内でかなりの愚痴を吐いていた。
(そもそもあれをテロだと信じる人間がネルフにいるとでも思っているのかしら、碇司令は?)
ちょうどそのとき、ミサトが口を挟んだ。
「でも結局、あれはネルフに敵対する組織がでっち上げたニセ情報、テロだったんでしょう?まったく、うちにとってはいい迷惑だわ」
ミサトはしっかりゲンドウの思惑に乗っていた。
「……(ミサト、貴女って)」
リツコは彼女にモノを見る目がないことを、改めて悟った。
「んぐ、んぐ、んぐ、んぐ、ぷはあ〜、カーッ。やっぱ人生、このときのために生きてるようなもんよね♪」
「…ミサト、勤務中よ」
リツコは先ほどから呆れまくっている。
今さらながらに思うことがある。何故親友やっているのかしらと。
「大丈夫大丈夫♪バレやしないわ」
ミサトはヘラヘラ笑って気にもしていない。
ちなみに、この仮説テントの中には、他にも作業員が詰めているのだが。
「ところで、使徒のサンプルの採取、順調なわけ?」
グビッとエビチュに口を付けつつ、ミサトが訊ねた。
しかしこの女、何のためにここにいるのだろうか?
ビールを飲むため?リツコを冷やかすため? …両方正解のような気がする。
「…原因不明のネクローシスが起こっているわ。コアを含めて全身の部位でね」
リツコが答えるが、その表情は芳しくない。
「ぷはあ〜、つまりどういうこと?」
「どこもかしこも、腐って使えないってことよ」
「ところで、もう体のほうは大丈夫なのかしら?長時間、逆さ宙吊りだったようだけど」
リツコがミサトの体調を訊ねる。
これは昨夜のケイジでの事件──初号機がミサトを捕食しようとした──のことを言っているのだ。
だが、そもそも大丈夫じゃない人間が、真昼間からエビチュなんて飲むわけがないと思う。
「まったく。エヴァってあんなに危険で凶暴なものだったの?無差別に人間を襲うなんて! …ぷはあ〜」
ミサトが忌々しく文句を言う。もちろんエビチュを呷りながらだ。
だが、初号機は無差別に人間を襲ったのではない。ミサトだから牙を剥いたのだ。
「アレ、リツコが作ったんでしょう?欠陥兵器じゃないのー?いくらアタシが優秀な指揮官つっても、戦場で好き勝手に動き回られたら、勝てる戦いにも勝てないわよ!」
ミサトが不平不満をぶちまける。
しかし、事実は逆である。初号機に一任すれば確実に使徒に勝てるのだ。ミサトに好き勝手されるほうが、よっぽど危なっかしいのだ。
「…私が作ったわけじゃないわ」
リツコがぼそっと呟いた。しかし、その声は目の前の飲兵衛様には届かなかった。
「そういえば碇シンジ君、サード・チルドレン就任を固辞したそうよ」
リツコが話題を変える。
先刻、保安諜報部経由で冬月副司令からその旨の連絡が入ったのだ。
ついでに、その少年がネルフ本部内で行方不明であることも。
実はこのとき、その少年はMAGIの監視を逃れて、ある場所に立ち寄っていた。
「何ですってー!?ちょっとそれホントなの!?」
ミサトは唾を飛ばしながらリツコに詰め寄っている。あまりの酒臭さにリツコは顔を顰めた。
「あんクソガキャ〜〜」
握っていたエビチュ缶がグシャッと潰れた。
〜ネルフ本部・付属中央病院、第一外科病棟〜
シンジ(+シロ)はレイの病室の前に現われていた。
ちなみにこの病室の余計な監視機構は、シンジによって無効化されている。常時、MAGIがダミー映像を流しているのだ。
コンコン──
返事はない。
「入るよ、綾波」
しょうがないのでシンジは一声かけてノブを回した。
ガチャリ──
(──誰?)
10畳ほどの白い清潔な空間。個室としてはかなり広い病室、そこにレイはいた。
レイはノックの音には気づいていたが、とくに何もしなかった。何も知らなかったから。
しかしドアが開くと、レイはベッドから上半身を起こすと、そこに視線を向けた。
そこには、昨日会った少年(+おまけ)が立っていた。
「元気そうだね」
シンジはにこやかに話しかける。
「問題ないわ」
レイは相変わらず無愛想だ。
「──顔、どうしたの?」
さすがに気になったのかレイが訊いてきた。
さもあらん。昨夜会った時点ではなかったものだ。
「ああコレ?あの後、勝手に使徒を倒すなって、カツラギっていう女に殴られちゃってさ♪」
マイッタマイッタとばかりに恥ずかしそうに笑うシンジ。
内心では、擬態を解くのを忘れてたーと焦っていた。
この少年、レイという少女の前では、結構ボケキャラなのかもしれない。
「そう」
「ああ、そうそう。これ、お見舞いの品だよ」
そう言うと、シンジはカゴ一杯の果物の詰め合わせを見せた。ここに来る前に病院内の売店で調達してきたのだ。
「…何しに来たの?」
「いや、だから、お見舞いだよ。綾波の」
シンジは苦笑いする。
(お見舞い──災害や病気、苦難に苦しむ人を慰問すること。またその行為。 …この人、私の心配をしてるの?)
「リンゴ食べる?」
シンジが質問する。
しかし、少女からの返事はない。シンジは黙ってカゴの中からリンゴ一個と果物ナイフを取り出すと、慣れた手つきでスルスルと皮を剥き始めた。
『(すごく器用なんだね)』
ベッド脇のパイプ椅子にチョコンと座ったシロが、そのナイフ捌きに舌を巻いていた。
「(当たり前だろ?こう見えても碇シンジなんだから。しかも年季が違う)」
シンジは、剥いたリンゴを用意したペーパー皿に乗せると、樹脂製フォークを添えて少女の手元にそっと置いた。
「……」
「あ、ごめん。右手使えないんだったね」
レイの右手はギプスで固定され、その上を包帯でぐるぐる巻きにされていた。
(右手は使えない──でも左手は使える。問題ない)
そう考えていた少女だったが、それより早く少年が切り出していた。
「じゃあ、食べさせてあげるよ」
少年は切り分けたリンゴにフォークを刺すと、少女の口元に運んだ。
「……」
「はい、ア〜ン♪」
シンジはノリノリだ。隣で見ているシロのほうが真っ赤に照れている。
「……」
「はい、ア〜〜〜ン♪」
少女は観念した。少し頬が赤い。
「…ア、アーン」
モグモグ
「美味しい?」
(コク)
「もう一つ食べる?」
(コク)
モグモグモグ
(…シャリシャリして甘酸っぱい。初めての味覚。でもただの栄養摂取。 …でも体が欲しがっている?)
(…これが美味しいという感情?)
(……)
(!?)
ふと気づくと、少女は少年に頭を撫でられていた。ちょうどあのときのように。
なでり、なでり、なでり──
少女の蒼いサラサラの髪を、少年の左手が優しく愛撫する。
なでり、なでり──
(やはり…温かい…気がする)
(それに…胸の奥が熱い…そして心地よい)
(…あの人からは得られなかったもの)
(……)
『ん?』
シロはこの極甘のムードに少し辟易していたが、妙な違和感を感じていた。
(あれ、僕って右利きだったよな?)
目の前の少年はベッドに横たわる少女の左側に座り、わざわざ左手をクロスさせて彼女の頭を撫でていた。
そう不審に思ったシロだったが、まあ気のせいだなと次の瞬間にはアッサリ思考を切り替えていた。
そして幸福のひと時はあっという間に過ぎて行った。
「怪我、早く治るといいね」
シンジは少女に優しく囁いた。
「お大事に、綾波。また会いに来るよ」
「……」
「綾波。こういうときは、一言『待っている』って言うんだよ」
一瞬の間の後、少し頬を染めながら少女は答えた。
「…ま、待っている、わ」
「うん!よくできました」
レイの病室を退出すると、シロが話し掛けてきた。
『この頃の綾波って、かなり無口だったんだね』
「そうだね。 …綾波はあの男に、ゲンドウにインプリンティングされていたからね。あとデストルドー、死への欲動の植え付けもね。本来のパーソナリティーを取り戻すには、まだまだ時間が必要だと思うよ」
シンジは俯きがちに説明した。
シロは言葉の意味はよくわからない様子であったが、なんとなく理解したようで、とくには気にしていなかった。
「まあ、強引な手段もなきにしもあらずだけど、正直やりたくない。 …綾波には無理をさせたくないからね」
シロは思う。
この少年にとって綾波はとても大切な存在なんだと。
(それになかなかお似合いかも知れない…元・碇シンジの僕が言うのもなんだけど)
シロはなんとも複雑な微笑を浮かべていた。
〜ネルフ本部・天井都市、連絡通路〜
シンジ(+α)は、地上ゲートに繋がる連絡通路を歩いていた。
実は、もう少し楽なルート──エスカレーターやムービング・ウォーク(動く歩道)が完備──も存在しているのだが、シンジは人目を避けてこの寂れた通路を歩いていた。
あと15分ほども歩けば、ゲートから地上に出られるだろう。
暫く二人に会話らしい会話はなかった。
突然、物思いに耽っていたシロが声を掛けた。あまり冴えない様子だ。
『僕の声って、他の人には聞こえないのかな?』
「だって猫だもん」
シンジは素っ気なく答える。
だが、当のシロは納得していないようだ。
『でもでも、ちゃんと人間の言葉を、日本語を喋ってるじゃないか』
「喋ってないよ。 ──それは念話の応用だからね。自分の耳にはそう聞こえるのさ。そもそも、その猫の体(声帯)で人語を喋るのは少々無理があるし、実際、普通の人間にはニャーニャー鳴いているとしか聞こえてないし」
白猫に関する重大事実が暴露された。
一瞬立ち眩みを覚えるシロ。
『…なんで教えてくれなかったのさ?』
「聞かれなかったから」
即答だった。
『…人の言葉はキチンとわかるのに…』
「その点、ペンペンと同じだね」
シロ轟沈。ペンペンと同列だなんて。 …ちょっと立ち直れないかもしれない。
『そういえば司令室で「ミサトさんに見殺しにされた」って言ってたよね。あれってどういうこと?』
シロは疑問を口にする。シロには身に覚えがなかったのだ。
「あり?言ってなかったっけ?言葉どおりの意味だけど」
『?』
「やれやれ…君ってさ、昨日のお昼過ぎ、強羅駅の前で何をやってたわけ?」
この期に及んでも事情を飲み込めていないシロの様子に呆れつつも、シンジは重い腰を上げて解説する。
『何をって…ただ駅前でミサトさんを待っていて…でも間に合わなくて…』
使徒に殺された。そう続けようとしたシロだったが、辛い記憶に口を噤んでいた。
「あれあれ?そもそも待ち合わせ時刻って3時間も前じゃなかったっけ?」
『あ、でもでも本当は第三新東京駅での待ち合わせの約束だったから、いろいろと手間取ったんじゃないかと思うから…』
シロは無意識的にミサトを庇っていた。
しかしシンジは一蹴した。
「違うね」
『違うって…?』
「MAGIで調べたら一発でわかることだよ。ロマンスカーが足止めを食らったこと、君が強羅駅に放り出されたことはね。10分もあれば余裕で急行できる距離なんだし、3時間もの遅刻の理由にはならないよ」
『……』
それはそうかもしれない。シロはそう思い始めていた。
「シロの直接の死因は使徒の攻撃を受けてだけど、間接的には違うんだよ」
『え?』
シンジはニヤリと微笑むと、事実を告げた。
「つまり、葛城ミサトに見殺しにされたということさ」
『っ!?なんだよソレ!?』
「だから迎えに来なかった」
『えっ!?だ、だってそれは単に間に合わなかっただけの話じゃないの? …たしか、前回も結構ギリギリだったし』
シロは、無意識下でまだミサトという女を庇っていた。信じていた。
彼の性分だろうか。自分に不都合な事態が起こったときでも、その原因・責任を他人に向けられないでいた。自分に問題があるのでは、と。
ある意味、内罰的な性格の弊害なのかも知れない。
シンジの暴露話はなおも続く。
「いやいや、今回はその遅刻すらしていないよ。君の出迎えそのものを、極めて個人的な理由でドタキャンしたからね、あの女は」
『そんな…でも…でも…』
「そもそも、君との待ち合わせ時刻に、あの女はどこで何をしていたと思うかい?」
シロは少し考えてから答えた。
『たしか待ち合わせ時刻は13時だったから、…ネルフで仕事じゃないの?』
「ハズレ。酒飲んで自宅で爆睡してたよ。まあこれは前回の歴史でも同じなんだけどね」
もはやシロは茫然自失だった。
「前回は3時間の遅刻であわや死ぬ寸前。今回は3時間待ったけど出迎えをすっぽかされて犬死」
『…そんな、そんな…』
シロは少し震えていた。
シロの爪がシンジの肩に食い込んでいたが、シンジは黙ってされるままにしていた。
シンジが話題を変える。
「そう言えばさ、シロって、あのロマンスカーの車内にプラグスーツ姿のまんまで現れたんだよ?ちょっと引いちゃったよ、僕。しかも君、グーグー寝てたし」
シンジは思い出したかのようにクスリと笑う。少し言い方が意地悪なのは気のせいではないだろう。
(う、それはちょっと恥ずかしいかも。 …プラグスーツ、綾波が用意したのかな?)
「仕方がないから、僕の着替えの服を着せて、荷物を君に預けたんだよ。その後、僕は用事を思い出して直ぐに車内を抜け出したんだけどね」
少し間をおいて
「でもまさか死んじゃうとはねぇ〜」
シンジはシロのほうを向くと大袈裟に嘆いてみせた。嘆いているわりには目がニヤついていたが。
(もうその話はいいってば〜)
暫く通路を歩いていると、背後から駆け足で迫ってくる気配があった。
シンジはその怒気を含んだ気配に気づくと、げんなりした表情を浮かべた。もう、勘弁して欲しいと。
「ちょっとアンタ、一体どういうつもり!?」
その気配の主、葛城ミサトはシンジの前に回り込むと、いきなり怒鳴りつけた。
(なんか昨日と同じシチュエーションだな)
あまりの酒臭い息に、シンジは露骨に嫌な顔をする。肩の上のシロも同様らしい。
「どういうつもりって、一体どういうことでしょうか?」
シンジはしらばっくれる。
「アンタはサード・チルドレンなのよ!!」
「違います。僕はチルドレンじゃありません。連絡貰ってません?」
シンジは即答した。
そのまま無視して横を通り過ぎようとすると、いきなり背後からガシッと肩を鷲掴みにされた。
「大人は子供のわがままに付き合ってる暇はないの!!」
ミサトはさらに喚き立てる。くさい唾を飛ばすのは勘弁して欲しい。
「その大人である碇司令から『お前など要らん。帰れ』って言われたんですよ?」
「ふざけないで!! ──いい?アタシの命令を聞きなさい!!」
あーこの女、人の話てんで聞いちゃいねえ。
「アンタはアタシのいうことを聞く義務があるのよ!!」
さらに捲くし立てる女。
「ありませんよ、そんなもの。いい加減放してくれませんか?」
「…そう、一度痛い目に遭わないとわからないようね♪」
──この女、すでに一度目(昨夜のビンタ)を喰らわしていたことは、頭にはなかった。
ミサトは舌なめずりをした。心なしか恍惚の表情だ。
これから起こる、この生意気なガキの狼狽する姿、自分にひれ伏し許しを請う姿に思いを馳せ、心躍らせているのだろう。
「…いいわ。ネルフ特務権限によりアンタを強制徴兵します。拒否は認めません。フフ、残念だったわねえ♪」
何が残念なのか激しく不明だが、ミサトは勝ち誇ったような、少年を嘲るような愉悦の笑みを漏らしていた。
自分の言うことを聞かない頭の悪いガキを大人の権力で屈服させて優越感に浸っている、といったところだろうか。
『(…ミサトさんて、こういう人だったの?)』
突然、少年の耳元でシロが独り言を呟いた。かなり幻滅を感じているようだ。
シンジは白猫の呟きを聞くと、一人ニヤリとしていた。
ミサトの暴言は続く。
「しばらく独房に入って、くさい飯でも食って反省することね♪」
かなり嬉しそうなミサトである。ある種のエクスタシーを感じているのかもしれない。
「法的根拠がありませんが。いいんですか、こんなことをして?後で困るんじゃないですか?」
一応、釘を刺しておく。
「フン、何わけのわからないこと言ってんの!」
ミサトはガキの戯言と一蹴した。
この女にとってネルフの威光とは、自分の望みを叶えてくれる、オールマイティーで絶対無敵の力の象徴なのだ。
余談ではあるが、実はこの女、プライベートでも職権を乱用して様々な交通違反──信号無視、速度超過、酒酔い運転、果ては人身事故まで──をもみ消していた。
ミサトが得意げにパチンと指を鳴らすと、背後からMIBばりの黒服の屈強そうな男たちが五人現われた。
あまりにもお約束な展開に、シンジとシロは呆れる。
「サード・チルドレン、大人しく我々に同行してもらおう」
黒服の一人が威圧的に言う。その態度は、拒否は認めないと言っている。
やれやれ、だ。
少年は一人愚痴った。
(まあ、今回はギャラリーの皆さんもいないし、自作自演する必要もないよね)
シンジは口元を歪め、冷たく微笑んだ。
「一応、警告だけはしておきますよ。あなた方が僕を拘束する法的根拠はありません。権限もありません。よって、この僕の体に指の先一つでも触れることを許しません。触れた場合は、力ずくで排除します。まあ、死にたければどうぞご勝手になさってください」
シンジの雰囲気は、その口調とは裏腹に一変していた。
「シロ、ちょっとだけ離れていて」
そう言ってシロを優しく床に降ろす。シロは黙って通路の隅に隠れた。
「ふん、なにを馬鹿なことを」
そう言って少年の背後から肩を掴んだ男だったが、その瞬間、その腕が肩口から捻じり切られて吹き飛んだ。
バシャッ!──
っ!? ぐぎゃあああああーーー!!
「「「「「!!!!」」」」」
辺りに迸る鮮血と絶叫。
「…だから言ったでしょ?触れたら殺すって…正確にはまだ殺しちゃいないけど」
少年は冷酷に微笑んだ。
「き、貴様!! ──おい気をつけろ!何か武器を隠し持っているぞ!」
リーダー格の男が叫ぶ。
次々にシンジに飛び掛る男たち──中には懐からグロッグ17を抜いてぶっ放した者もいる──だったが、結果は同じだった。
「おい、まわり込め!」
「がっ、げぼぉッ!?」
「こ、この野郎ぉー」
パンパンパンパン
「ぐわあああああー」
「ぎゃあああああー」
パンパンパン
「た、助け…めきょッ!」
パンパン
「ぅぁ、ぁ」
「……」
「…」
怒号、銃声、悲鳴、絶叫、断末魔、そして生命の終焉。
そしてすべて血の海に横たわる。
男たちの時計は、今このときで止まってしまったのだ。
最後に残ったのは、血の海に横たわる瀕死の男一人だけであった。
シンジはその男の眼前にしゃがみ込むと、静かに、そして不敵に語り掛けた。
「この僕、碇シンジには国連非加盟国の国籍と外交官特権があるんですよ。つまり、ネルフご自慢の特務権限とやらは僕には適用されません。あと、ここであなた方を皆殺しにしても何のお咎めもありません。残念でしたね、ただの犬死で。まあ、無能な作戦部長につき合わされたことを悔やみながら死んでいってください。来世ではよい人生であることを切に祈っています。ではさようなら」
驚愕と恐怖に固まった男の顔。もう涙と鼻水で顔はグチャグチャだ。
片やシンジはというと、返り血の一つも浴びてはいなかった。さっぱりした表情である。
「ししし、知らなかったんだ!お願いだ!命だけは助け──」
惨めに地べたにひれ伏した男は、必死に弁明し、助命を請うが、
グシャッ!──
シンジは躊躇なく男の頭を踏み潰した。最後の絶叫がその場に響き渡る。
シンジの表情に感情の起伏はない。この少年にとってはハエを叩き潰したようなものなのだろう。
「そういえば、葛城ミサトってどうしたっけ?」
一応、手は出していないはずだけど、と少年は周りを見回した。
見ると、通路の端にうずくまって小さく呻いている物体があった。
「ぅ、ぁ…」
目の前に広がる吐瀉物がビール臭い。
赤いジャケットを着ていることから、それが誰であるかは一目瞭然だった。
右手にはセーフティーが解除された拳銃が握られている。見ると、弾倉内の全弾を撃ち尽くしていた。どうやらこの女もシンジに向かって発砲したようだ。しかも全弾。
「味方の流れ弾に当たるなんてマヌケだねえ。お、辛うじて息があるか。なかなかタフじゃないの。 …しょうがない、治癒してやるか」
まだいろいろと遊べるだろうし、と邪なことを考えながら、シンジは彼女の胸に手を翳した。
次の瞬間、そこには元の姿の葛城ミサトが横たわっていた。もちろん赤い血の海の中にだ。
「この女のここ暫くの記憶は消したし、MAGIの監視は遮断しておいたし、髪の毛一本残してないし、何も問題ないね。さて、シロ、帰るよ。そろそろ例のイレギュラー君にも接触しておかないといけないからね」
(でも僕も存外短気だねー。こんな性格だったっけ?)
少年は、まったく気にしていないようだった。
シロはあまりの惨劇にその場に立ち尽くしていた。酷く青ざめ、震えている。
それは当然だろう。しっかりしているとはいえ、まだ中学生の子供である。
そもそもシロがこんな修羅場を見たのは、今回が初めてなのだ。
『…なぜ殺したのさ』
シロは、ぼそっと訊いた。半ば信じられないといった表情である。
「いやだって、降り掛かる火の粉は払わないといけないだろ」
『殺すことはないだろ!!』
シロの声が大きくなる。
やはりシロにとっては、殺しは「悪」なのだろう。かなりの抵抗があるようだ。
前回、第十三使徒戦で「殺すよりは殺されるほうがマシ」と叫んだのは伊達ではないようだ。
だが、シンジは怯まない。確固たる意志をもってシロに言い返した。
「いーや、殺す必要があったんだよ。あいつらが生きていると、今後大勢の人間が殺される。今までもかなりの数の人間をその手で殺めている。 …それに、綾波やアスカに害を為す可能性があるからね」
『どういうことさ?』
シロはまだ憮然としている。多少鼻息も荒い。なかなか割り切れないのだろう。
「あいつらの【記憶】を見たのさ。あとは【魂魄】が穢れているか否かを見極めた上で──殺した。まあ、所詮は僕のエゴであることは否定しない」
シンジに悪びれた様子は一切ない。
「それにあいつら、今までも散々悪いことをしてきたようだからね。因果応報というものさ」
『悪いことってどんなことさ?』
シロの問いに、シンジは目を細めて答える。
「お子ちゃまには言えないような、かなりえげつないことさ」
お子ちゃまと言われ、少しむくれるシロ。
(子供に言えないえげつないことって…まさか!)
シロは、思春期のお年頃にありがちな妄想を膨らませていた。
…だがそれは、あながちハズレではなかったのだ。
「それに言っておくけど、保安諜報部や特殊監察部に所謂『善人』はただの一人も存在しない。ただの一人もだ。無論これからもね。そもそも善人で正義感に厚い人間が採用されるわけがないんだよ。皆、多かれ少なかれ、脛に傷を持っているのさ」
シンジは、この両組織の人間に相当の嫌悪感を持っているようだ。
今もその表情は険しい。
だがここで、シロは重要なことに気づかないでいた。
この少年は、現在過去未来、両組織に籍をおく人間は例外なく「悪人」とまで言い切っているのだ。
シロはまだ知らない。自分が兄のように慕った男性も、この少年にとっては激しい憎悪の対象でしかないことを。
『脛に傷?何かやましいことを隠しているっていうの?』
少し落ち着いてきたシロが疑問点をぶつける。
「ネルフってのは、設立から5年しか経っていない新しい組織なんだよ。そんな若い組織が、いきなり数百人単位のエージェントを簡単に調達できると思うかい?」
いや無理とシンジ。
「他の組織からヘッド・ハンティングしようにも、優秀な人材ほど忠義に厚く、元の組織もなかなか彼らを手放さないからね。それに、下手に集めると二重スパイを招き入れる危険性もある。そもそもネルフが、ゲンドウが欲したのは、優秀な人材なんかじゃないんだよ。 ──奴らが欲したのは、どんな命令にも忠実な飼い犬であり、将棋の駒なのさ」
『じゃあどこから集めたというのさ?』
少し機嫌が回復したのか、シロはシンジの左肩に飛び乗ると、シンジの横顔に問い掛けた。
シンジはシロが肩に乗ったことを確認すると、再び歩みを進めた。
「どこから集めたって…そりゃあ」
『そりゃあ…?』
そして一言。
「刑務所」
『そう刑務所…………けっ、刑務所ぉー!?』
たまげるシロ。
「そう。セカンド・インパクト後の混乱期に暗躍したアウトローや犯罪者、囚人たちを掻き集めたのさ。蛇の道はヘビってわけ。ゲンドウは、今まで彼らが犯した罪を不問とし、高額の年俸をあてがう代わりに、ネルフ、いやゲンドウ個人への絶対の忠誠を誓わせた。もちろん、最近の新卒採用者はこの限りじゃないんだけど、厳重な生活・思想チェックはされているよ。ゲンドウの飼い犬たりえるかどうかのね。結果、採用されるのは皆、脛に傷を持っている人間のみというわけさ」
『……』
シロは黙って聞いていた。
(前回の歴史で、僕をガードしたり拘束したりしてたあの人たちにそんな経緯があったなんて)
シロの頭の中では、知っている顔を一々思い出しながら、いろんな思いが去来していた。
「話は変わるけどさ、犯罪行為にエクスタシーを感じている人間が、そう簡単に更生できると思うかい?」
意地悪そうにシンジが訊いてくる。
『え?そうだね…………いや、それはちょっと難しいんじゃないのかな』
シロは少し考えてから答えた。
「うん。現実的には、一度犯罪を犯した者の多くがリピーターとなっているからね。じゃあ、ネルフで抱え込んだ奴らはどうかな?フフフ、きっと再犯衝動でウズウズしてると思うよ。 ──さて、ネルフはそういう奴らをどうやってコントロールしていると思う?」
さらに意地悪そうに訊くシンジ。
『?』
首を傾げるシロ。
さっぱり見当もつかないようだ。
シロの様子を見て、シンジが答えを言う。
「多少の再犯には目を瞑っているのさ。そのためのネルフの強権だからね。または別のエサを定期的に与えるとかね」
シンジは侮蔑の表情を浮かべていた。
『エサって?』
思わず訊いてしまっていた。
「…麻薬であったり、殺しであったり、若い女であったり、まあいろいろさ」
『!!!』
(だって、そんなの犯罪じゃないか!!)
シロは、ここにきて杓子定規に『人殺し即、悪』という社会通念が本当に正しいのかどうか、そんな人としての根幹に係わる部分で迷いを生じさせていた。
シロは自問自答する。
(人殺しはダメだ。ダメ…なハズなんだ)
(……)
(でも人殺しがダメだというなら、ネルフがやっていることは何だ?)
(……)
(ネルフの暗部は、恐らく誰も裁けない。それだけの力がネルフには、父さんにはあるような気がする)
(…もし裁けるとしたら、この少年しかいないんじゃないのか?)
(殺さねば、もっと多くの人たちが殺される、か。 うー、わかんないよ。…でも彼は割り切っているのかもしれない)
シロは少年の横顔をじっと見つめた。
シンジの話は続いていた。
「それに、殺しただけだ。【魂魄】は消滅させてはいない。運がよければ転生できると思うよ(転生先が人間かどうかまでは知らないけどね)」
(転生、か。そういえば昨日もそんなことを言っていたよな。僕の場合は、死んだら消滅して転生できないって…)
「一つ言っておくけど、僕は必ずしも慈悲の神様ってわけじゃないからね。どっちかといえば死神。 …殺したい人間は躊躇わずに殺すから」
少年の最後の言葉が通路に響いた。
〜第三新東京市、駅前繁華街〜
銀髪紅眼の少年は、第三新東京市の中心街まで足を運んでいた。
見るといくつかのビルが壊れており、立ち入り制限の区画もある。
(どういうことだ?まるで戦闘があったような壊れ方だ。 …使徒でも来たっていうのか?)
(…悩んでも仕方がないよな。とりあえず訊いてみるか)
少年は、近くにいた人──白いヘルメットを被った工事現場の作業員風の男──に恐る恐る訊ねてみた。
「あのう、つかぬ事をお訊きしますけど、今日は何年の何月何日でしょうか?」
普通、人に訊く質問ではない。
訊かれたほうの男は少し怪訝そうな顔をしている。
それはそうだろう。目の前の少年が、いきなりテレビドラマの記憶喪失男みたいなことを言い出したのだから。
「はあ?おかしなことを訊くボウズだな?外国から来たんかい?」
少年の風貌を見るや、そう男は訊き返した。
「あ、その…」
少年がモゴモゴしていると、
「まあいい。 ──今日はな、2015年の8月15日。ついでに言うなら土曜日の朝だ」
その男はニヤニヤしながらも答えた。
8月15日!?
(過去、僕が父さんに呼ばれて第三新東京市を訪れた日、つまり第三使徒サキエルが襲来した日が、確か8月14日だったはず。今日はその翌日だというの!?間に合わなかった!?イメージでは8月14日のはずだったけど、誤差が出たのか?)
つまり、サキエル戦に間に合わなかった!?
銀髪の少年は愕然とした。
「おーい、ボウズ。大丈夫かあ?」
突然黙り込んだ少年を心配して先ほどの男が声を掛けた。
「あ、すみません。大丈夫です」
少年は気を取り直して訊いてみることにした。
「昨日ここで何かあったんですか?街に結構な被害が出ていますけど?」
「ああアレね」
男は、前方の黄色い[KEEP OUT]テープに囲まれた一角を見て呟いた。そこには数名の警官が立っている。
「テレビじゃ政府のお偉いさんは否定してたけど、巨大怪物とドンパチやらかしたっていう噂だな」
(…そうか、やはりサキエルと初号機との戦闘はあったんだ)
しかし、ここで少年は疑問に思う。
初号機には誰が搭乗したのか?少年は間に合わなかったのだから。
(まさか綾波!?あの怪我で? ──それに勝敗はどうなったんだ? …まあ、サード・インパクトは起こってないから、負けてないとは思うけど)
(くそっ!考えても仕方がない。とりあえず、ネルフに行ってみるか。今の僕の力なら──アダムの力なら──使徒ごとき物の数じゃないはずだ。今度こそ世界を、皆を救うんだ。そして父さんともきっとわかり合ってみせる!)
「お忙しいところすみませんでした」
礼儀よくペコリと頭を下げると、少年は最寄りのネルフのゲートを目指して立ち去った。
〜ネルフ本部・天井都市、連絡通路〜
つわもの共が夢のあと。そこに一人の女がいた。
「うう…アタシ何してたんだっけ? …くっ…アタマがズキズキするわ」
その女は自らの頭を押さえてながら上半身を起こす。まだ意識が朦朧としているようだ。
「えーとたしか…リツコからサードの話を聞いて、保安諜報部で駒を仕入れて、それからサードをMAGIで捜そうとして、…えーと、それから…それから…アレ?思い出せないわ」
どうやら肝心な部分の記憶が飛んでいるようだ。もちろんシンジの細工である。
(しっかし、ほんと頭痛いわねえ…エビチュ飲みすぎたかしら…それにここどこなのよ?それになんかさっきから手がベチャベチャするし、しかもなんか生臭いし、…赤い絨毯?)
女の意識が急速に覚醒する。
「!!!!」
見渡す一面の赤い海、いや血の海だ。ところどころ固形物も浮いている。そしてむせ返るような臭い。
「なによこれ〜〜!?」
人気のない通路に、女の絶叫が響き渡った。
〜ネルフ本部・地上ゲート〜
「!!!」
(馬鹿な…何故、僕がいるんだ!?)
銀髪の少年は硬直し、ただ一点を睨みつけている。
彼の視線の先、そこには、ネルフのゲートから出てきた自分の姿──ただし、髪と眼は黒い──があった。
それは紛れもなく過去(サード・インパクト以前)の自分、碇シンジの姿そのものだった。
(まさか、過去の僕なの!? …この僕と、未来の僕と融合して消えたんじゃなかったのか?それとも何か手違いが──)
その少年は思考の淵に沈んでいた。
だが、そんな少年の様子には我関せずとばかりに、黒髪の少年は白い子猫を肩に乗せて、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
そしてすれ違う瞬間、そいつと目が合った。
ゾクッ──
(っ!!なんだってんだこの悪寒は!?)
「君は誰だ!」
少年は思わず叫んでいた。
(こいつは過去の僕なんかじゃない!?)
銀髪の少年が知る過去の碇シンジは、自分で言うのもなんだが、気弱で情けない子供だった。少なくともこんな雰囲気、プレッシャーを感じることはなかった。これは明らかに別人ではないのか。
呼び止められたほうの黒髪の少年はその歩みを止めると、振り向きざまに答えた。
「誰って…僕は碇シンジだよ」
「な!?碇シンジはこの僕だ!」
どこかであったような問答だ。
「知ってるよ」
「じゃあお前、ニセモノか!?」
…これもあったような。シンジという人間は同じことしか言えないのかも知れない。
「──違うよ。両方本物さ。遠き世界のアダムの後継者たる、碇シンジ君」
「!!!」
(こいつ、僕がアダムの力を持っていることを知っているのか!?)
銀髪の少年はさらに警戒を深めた。
「君は一体誰なのさ」
その少年は、警戒感バリバリの重い声で問い掛ける。
「…ループしてるよ」
もう一人の少年のほうは何やら呆れている様子で、ハアとばかりに息を吐いた。
だが、そんなことには構わずに銀髪の少年は詰め寄った。
「何故ここにいる?君の目的は何なんだ?」
一方的に捲くし立てる銀髪の少年。
「その前に、僕の質問に答えてくれるかな? ──君は何のために時を遡ったの?」
「!!!」
(やはり知っている!何者なんだこいつ?)
少年の全身でアラームが鳴っている。知らぬ間に汗が噴き出していた。
「どうなの?」
黒髪の少年は穏やかな声でなおも訊いてくる。
「…皆を救うためさ。綾波やアスカ、ミサトさんや父さんを、世界の人たちを」
その少年は正直に答えていた。それは彼の偽らざる本心だった。
「──君はサード・インパクトの後、あの紅い海に浸かったのかい?」
「!!(そんなことまで知ってるのか)──ああ、浸かった。僕はそこですべての真実を知ったんだ。それがどうした!」
そう銀髪の少年は叫ぶと、相手の目をさらに睨み続けた。
片や黒髪の少年のほうはというと、それを気にするでもなく、無表情だ。
「……」
少し重い沈黙が続いた。
「…ふーん、じゃあ君はそのすべての真実とやらを知った上で、碇ゲンドウ並びに葛城ミサトを許すということなんだね?」
途端に黒髪の少年の視線が剣呑なものになる。
(二人を許す?何を言ってるんだ?)
訊かれたほうの少年は、その言葉の意味を量りかねていた。
だが、それより先に感情が噴き出していた。
「ミサトさんは僕を本当の家族として扱ってくれた。そして僕を庇って死んだ。 …父さんは最期にすまなかったと僕に謝罪してくれたんだ!!」
「…ふむ。なるほどね、そういうことか」
黒髪の少年は一人得心していた。疑問が晴れたといった表情である。
「何を言っている?」
「ああ、すまない。こちらの事情だから、気にしなくていいよ」
「君こそどうなのさ。君の目的は一体何だ!」
銀髪の少年は強く問い詰めた。
「僕?そうだね。 …うーん、とりあえず、碇ゲンドウと葛城ミサトを殺すこと…かな?」
少年は何気にとんでもないことを言い放った。
「なんだって!?」
驚いた銀髪の少年は、ぎりっと黒髪の少年を睨みつけた。
「まあそんなに直ぐには殺さないから、安心していいよ」
「ふざけるな!!そんなことは絶対許さない!!」
銀髪の少年の表情がさらに険しいものに変化する。その紅い瞳がさらに紅く染まった。
だが、もう一人の少年が呆れたように釘を刺す。
「…いいのかい?ここでATフィールドなんか使ったらMAGIに感知されるよ──ネルフの敵、使徒としてね」
「!!くっ!」
「まあ、君の思うとおりにすればいいさ。ついでに使徒も倒してくれると、こっちも楽で助かるよ」
(でも君が力技で倒せる使徒なんて、この先ただの一体も存在しないんだけどね。唯一の例外が今回のサキエルだったんだけどさ。でもそれ僕が倒しちゃったし♪)
黒髪の少年、碇シンジは心内でそんなことを考えていた。
「それじゃ、また会うこともあるかと思うけど、お達者で」
掌をヒラヒラと振ると、その黒髪の少年はその場を立ち去った。白い子猫をその肩に乗せて。
その場に取り残された銀髪の少年はというと、俯いて震えていた。
だが、恐怖におののいているのではない。 ──猛烈な怒りに打ち震えていたのだ。
少年は顔を上げる。その紅い瞳には、力強い意志の光が宿っていた。
「あいつは、あの碇シンジは…悪だ。僕の、この世界の敵だ!!」
「僕にはアダムの力がある。僕は、父さんたちを、僕の世界を守る!!あいつの思いどおりになんか、絶対にさせてたまるか!!」
その少年は無人のゲートで一人叫びを上げた。
『…いいの?』
シロは心配そうに少年の顔を覗き込んだ。
「ああ、…構わない」
そう答えた少年の顔は、どことなく悲しげに見えた。
To be continued...
(あとがき)
話がなかなか進まないですね。原作でいうとやっと第二話に入ったところですか。まだまだ先は長いです。
途中で閑話みたいなものも挟みたいので、ホント、先が見えないです。
さて、三人のシンジが出揃いました。これから彼らがどういう風に活躍するのか(作者も)楽しみです。
実はもう一人、キーパーソンが次話(?)あたりで登場します。
今後、この四人を中心に物語を進めるつもりです。まあ、予定ですからボツになる可能性もありますけど。
ゲンドウ&ミサトですが、今後も肉体的・精神的に苦痛を味わって頂く予定です。ご期待ください。
次回もサービスサービスぅ〜♪
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