捌かれる世界

第五話 光と闇、白と黒

presented by ながちゃん


薄暗いフロアに三つの人影があった。
二人は大人の男、もう一人は少年のようである。だが両者の間にはかなりの距離があった。
「──君は一体何者なのかね?何故あのような場所にいたのかね?」
静寂を破り、初老の男が詰問する。
問い質された少年はというと、両腕を幾重にも手錠で拘束され、厳重に足枷までされた上で直立不動状態であった。
いかにも罪人という扱いだ。
おそらく背後のドア向こうには警備の人間が別命あるまで息を潜めているのだろう。
周囲にはピリピリとした緊張感が漂っていた。
この少年は銀髪紅眼であった。二人の男にとってその風貌は、ある少女の姿を彷彿とさせるものだった。
(この髪、瞳の色、レイと同じか。だがサード・チルドレンに瓜二つなのは一体どういうわけなのだ? ──まさかクローン!?ゼーレの老人たちの回し者だというのか!?)
冬月は眉をひそめる。自然と少年に向ける目つきも鋭くなる。
しかし、少年は別段落ち着いた様子で目の前の(だいぶ離れているが)男たちに言い放った。
「僕は"碇シンジ"です。あの場所にいたのは、ネルフに、父さんに呼ばれたからです」
実はこの銀髪の少年、地上ゲート付近をウロウロと徘徊していたところをネルフの黒服たちに拘束され、ネルフ本部まで連行されて来たのだ。
そして入念なボディーチェックの後、この薄暗い部屋、総司令官公務室まで引き出されたのだ。
この間、少年は至って無抵抗であったが、通常は一介の不審者を司令室にまで連行することは保安上ありえない。
これは保安諜報部から報告を受けた冬月が、その少年の風貌に疑念を持ったための特例措置であった。


(この少年は、今何と言った?)
イカリシンジ──確かにそう言った。
「馬鹿な。貴様など知らん。シンジなら別にいる。そもそも貴様のような容貌ではない。 ──正直に言え。貴様は何者だ?何が目的だ?」
鬚面の男、碇ゲンドウがそれまでの沈黙を破り、重い声で訊き質した。睨みつけるような鋭い眼光である。
だがやはり例のゲンドウポーズのままである。
「僕が本物の"碇シンジ"だよ。信じてよ、父さん!」
少年はゲンドウの威圧に気おくれすることなく、平然と言ってのけた。
事実、この少年にとってこの言葉に嘘はなかったのだ。
「(本物?では、アレのほうが偽者だと? …たしかに性格的にもいろいろと不審なところはあったが)」
「(だが碇、サードの毛髪から採取したDNA鑑定では白と出ている。この少年の言葉を鵜呑みにするのは些か性急だぞ)」
冬月の耳打ちに、ゲンドウはむうと再び黙り込んだ。
「…それを証明するものはあるのかね?」
冬月は冷静に問い質す。
ここに居ないもう一人の"碇シンジ"は、見た目の形質はもちろん、DNA鑑定や指紋照合でも本人であることが確認されている。
現時点では、その性格に多少の不審点は認められるものの、黒髪の"碇シンジ"のほうにアドバンテージがあり、こちらの銀髪の"碇シンジ"のほうこそ怪しさ爆発なのだ。
「それは…ありません。ですが信じてください、冬月副司令。僕は、僕は本当に"碇シンジ"なんです!」
銀髪の少年は切実に訴えた。
実際この少年は、身分を証明するものは何も所持してはいなかった。例のゲンドウからの手紙やIDカード、ミサトのセクシー写真についてもだ。
「……」
冬月は、とりあえず結論は保留とし、次の質問に移った。
「何故、私の名前を知っているのかね?一応、君とは初対面のはずだが?」
冬月は怪訝そうに指摘した。
「11年前に一度お会いしたことがありますよ。このジオ・フロントには、一度だけですが母に連れて来られたことがありますから。そのときに母がそう呼んでいたのを覚えていましたので」
「「!!」」
二人の男たちは目を見張った。
(ユイ君の初号機搭乗実験のことを知っているのか!?いや、覚えているということなのか!?)
(あのとき確かにユイはシンジをここに連れて来ていた。だがそのことを知っているのは、当時のゲヒルン職員でもそうはいなかったはずだ。 ──まさか本当に本物のシンジだというのか!?)
二人の男の脳細胞は今激しく活性状態にあった。
碇シンジを名のる二人の少年。
冬月の頭の中では、どちらか一方が本物で、そしてどちらか一方が偽者だという図式が構築されていた。
二者択一。だが、冬月は判断出来ないでいた。
これは隣で表情が見えない男についても同様であろう。
少年はそんな大人たちの表情をつぶさに観察していた。
(うーん、やっぱり疑われてるよなあ。もし今ここで、僕は未来からやって来ました、なーんて言ったら余計に疑われそうだなあ。 …すべてを父さんに話すのはもう少し様子を見てからのほうが、事態が好転してからのほうがいいのかも知れないな…)


「君がいた無人入館ゲートのすぐ近くでネルフの職員数名が殺されていたんだが、何か心当たりはないかね?」
これは、黒髪の"碇シンジ"が先刻嬲り殺した黒服たちのことを言っている。
あの後、ミサトが意識を取り戻したのと時を同じくして、MAGIの監視機構も回復していた。
その場に駆けつけた保安部員に発見・保護されたミサトは付属病院に搬送され、事件の報告は30分ほど前に冬月とゲンドウの耳にも入ってきていた。
「!!」
少年の眼が大きく見開かれた。
(殺された!? ──そうか!あいつだ!とうとう馬脚を現わしたんだ!なんて酷いことを!)
「それはきっとアイツ、この僕の、"碇シンジ"のニセモノのせいだと思います」
少年は怒りで震える両の拳をギュッと握り締め、凛と言い放った。
「君はサード、いや、その偽者とやらを知っているのかね?」
「いえ、詳しくは知りません。一時間ほど前に、地上ゲート付近で出くわしただけですから」
冬月の問いに、申し訳なさそうに答えたシンジ。
(サードが犯人だと?丸腰の子供があれをやったというのか? …ありえんぞ。MAGIの監視映像にも何も映っていなかった。現時点で確証はないな)
冬月は冷静に状況を分析する。
「…しかし見つからないと思ったらまさかサードが地上に出ていようとはな」
老齢の男は顔を顰めた。


「父さん!僕を初号機に乗せてよ!きっと父さんの力になれると思うからさ!」
((っ!初号機のことまで知っているのか!?))
二人の男たちは驚愕した。
同時に心の中で警鐘を鳴らしていた。この少年は怪しいと。スパイの可能性が高いと。
逸る気持ちからか、この少年は未だ知らないはずの"初号機"という言葉をつい漏らしてしまっていた。
このことが益々二人の男の疑心を深めてしまったのだが、その事実をこの少年は気づかないでいた。
(母さんをサルベージすればきっと父さんを説得できる。すべてを説明するのはそれからだ。それに今の僕なら母さんなしでも初号機の素体に直接シンクロできるはずだ。あのときのカヲル君のようにね)
少年はこんなことを考えていた。


「…わかった。貴様の身柄はネルフで預かろう」
暫く考え込んでいたゲンドウが口を開いた。
「(おい碇!?いいのか!?ゼーレの回し者である可能性があるんだぞ!?)」
冬月が顔を寄せて小声で忠告する。
「(フッ、問題ない。老人どもの犬というならば我らの手の内あったほうが監視しやすいというものだ。逆に利用できるうちは利用させてもらう。それに邪魔になればいつでも始末すれば済むことだ)」
どうやらこのゲンドウという男、銀髪の少年を使い捨ての手駒として自らの手元に置くつもりのようだ。
「(ではこの少年をサードに、いやフォース・チルドレンにするつもりか?)」
「(そうだな…いや、それは拙い。公にマルドゥック機関を通すと老人たちに勘ぐられる危険性がある。あくまであの少年の身柄は本部内での秘匿とする。公式にはチルドレンとはしない。本部内では便宜上、そうだな、…サード・チルドレン´(ダッシュ)とでもしておけばいい。同時に、あやつの身辺調査とDNA調査を至急進める。老人たちに悟られぬようにな)」


「では只今をもって、貴君をネルフ副司令官付、特務准尉とする」
ゲンドウが重々しい声で辞令を発した。
銀髪の少年はキョトンとした顔で、直立状態のままそれを聞いている。すでに両手両足の拘束は解かれていた。
(ん?副司令付? …ミサトさんの下じゃないのか?)
少年は不審に思ったが、エヴァに乗れるんだったら別に関係ないと思い、請われるまま用意された契約書にサインを走らせた。
実は、この少年はこの会談(尋問)を通して一つのミスを犯していた。
不用意な発言をしたことではない。どうせ疑われているのだからそれは大したことではない。
それは、ゲンドウと冬月の耳打ち話の一切を聞き漏らしていたことだ。
この銀髪の少年は、聞こうと思えば微弱な音さえも聞き取ることが可能であった。
しかしこの少年は、あえてその能力をこの場では封印していた。その行為自体が父親に対する冒涜と感じていたからだ。
このことがこの少年にとって最初の不幸であった。


「では、ダッシュ君。私がネルフ本部を案内しよう。ついて来てくれるかな」
冬月はにこやかに声を掛けると、一人ドアに向かって歩みを進めた。
「へ?ダッシュ…君?」
少年はこの聞きなれない言葉に、老人の背中に向かって訊き返していた。
冬月はハッとして振り返ると、すごくバツが悪そうな顔で釈明した。
「ああ、すまない。我々は決して君が"碇シンジ"君本人であることを疑っているのではないのだよ(本当は疑っているが)」
冬月は伏し目がちに続ける。
「ただ、もう一人の"碇シンジ"と名乗る少年のほうが、公式にサード・チルドレンとして認定されてしまっていてね。いきなりこれを覆すことは組織の体面上、何かと不都合があるのだよ(特にゼーレに対してだが)。 ──大変申し訳ないのだが、ネルフ本部内では暫くの間、君のことをサード・チルドレン・ダッシュとして呼称することを許してくれないかね?」
冬月は腰を低くして懇願した。
「…構いませんよ、別に。誰がどう呼ぼうと、僕は"碇シンジ"ですから」
少年はかなりブスッとして答えた。苦虫を噛み潰したような表情だ。
(ったくアイツのせいで、こっちはいい迷惑だ)
ダッシュと呼ばれることになった少年は心内で悪態をついていた。
「そうかね、助かるよ。そういえば、昼ごはんはもう食べたかな?」
冬月が安堵した様子で声を掛ける。
時計を見れば、確かにもうお昼時である。
「いえ、まだですが」
「では、一緒にどうかね?もちろん私の奢りだ」
先刻のサード・チルドレンの皮肉が利いているのだろうか、冬月はこの少年をお昼に誘っていた。そこには大人の貫禄すら漂わせていた。尤も奢るのは日替わりランチ580円あたりなので大した出費でもなかった。
「ありがとうございます。助かります。昨日から何も食べていないもので」
少年は素直にお礼を述べた。
(冬月副司令って意外と気が利く人だったんだなあ)
それがサード・チルドレンとの会談の反省からもたらされたものだとは、夢にも思わない少年だった。





〜ネルフ本部・第一発令所〜

「ミサト、もう大丈夫なの?」
リツコがミサトの身体を心配して声を掛ける。
「ええ。なんとかね」
病院での検査が終わり、シャワーを浴びてサッパリしたミサトが答える。だが機嫌は悪そうだ。
「本当に何があったのか、覚えていないの?」
「そーよー。さっきの事情聴取のときも言ったけどさー、全然記憶がないのよねー」
マヤが用意してくれたお茶(紙コップだが)を啜りながら、ミサトは惚けた表情で答える。
オペレーター三人衆は、自席で仕事をこなしつつも、背後の二人の会話に聞き耳を立てていた。
「でも、どうして貴女一人が無傷だったのかしら?」
「どゆこと?」
話の意味がわからないミサトが空の紙コップを咥えながら首を傾げる。
「貴女の着衣に、合計4つの穴が開いていたのよ。胸部に2つ、下腹部に1つ、右太腿に1つね。あれはどう見ても銃弾を受けた痕ね。しっかりと貴女の血痕も付着していたわ。おそらく致命傷だったはずよ。 …なのに貴女はピンピンしてる。しかもあるはずの銃創さえ存在していない。まったくおかしな話だわ」
リツコは眉間に皺を寄せて訝しがる。
「う〜ん、日頃の行いがいい私を神様が助けてくれたんじゃないの〜?」
ミサトはあっけらかんとしている。それでいいのか?
(…だとしたらそれはとんでもなく皮肉の利いた神様だこと)
リツコは心の中で一人愚痴った。
「あ、もしかして保安諜報部の奴らも拳銃で?まさか同士討ちとか?」
ミサトはてんで的外れな推測を述べる。
「あのね、拳銃では人間は細切れにはならないわよ。あれはとても人間業とは思えないわ。まるで巨大な肉食獣に食い千切られたような──」
リツコのそのセリフを聞いていたマヤが思わず口許を押さえて蹲った。
どうやら先刻、モニター越しに惨殺現場を見てしまったようで、生々しい映像を思い出して気分が悪くなったようである。
ただいつものことなので、周囲はさして動じていない。哀れ、マヤ。
「そんなことより、サードは見つかったの?」
ミサトという女にとって、黒服たちの命はその程度のものらしい。
「いいえ、依然としてロストしたままよ。MAGIの調子もなんだかおかしいし、もしかしたら、もうジオ・フロントにはいないのかもね」
正解である。かの銀髪の少年からもたらされた情報は、まだリツコの許へは届いていなかった。
「ったく体たらくもいいとこだわ!」
ミサトが自分のことは棚に上げてふんぞり返る。


プシュー
突然、発令所後方のドアが開いた。
見れば、背の高い初老の男、冬月副司令が立っていた。
「皆、仕事中すまんが聞いてくれ」
冬月が大きめの声で呼び掛けると、衆目が集まる。
「本日付でエヴァンゲリオンのパイロット候補として任官した、…あー、ダッシュ君だ」
そう言って冬月は脇に立つ少年の肩に手を置いた。
かなり歯切れが悪い紹介だった。
「「「「「ダッシュ君?」」」」」
いきなりの胡散臭い名前に、その場の全員が注目する。
見ると、銀髪に紅眼の少年が冬月の隣に控えていた。
「なっ!?碇…シンジ君!?」
リツコがその少年を見て反射的に声を掛けていた。
あまりにも似ていたのだ。髪と瞳の色の違いを除けば、サードと瓜二つである。
「ぬわんですってぇー!?」
その名前に反応したミサトが凄まじい形相で睨みつけた。
だがそこには、見知らぬ少年が立っていた。
「はい。確かに僕は碇シンジです。でもあなた方が知っている碇シンジとはまったくの別人です。ここでは便宜上、サード・チルドレン・ダッシュと呼ばれることになりました。不本意ですけど。 ──というわけで、皆さん、これからよろしくお願いします」
銀髪の少年、ダッシュはそう挨拶すると、最後にペコリと丁寧に頭を下げた。
「どういうことですか?副司令」
怪訝そうな表情のリツコが冬月に訊ねる。
あの綾波レイと同じ白子(アルビノ)。自然界にはありえない紅眼。そしてサード・チルドレンと瓜二つの容貌。しかも名前まで同じ。
科学者であるリツコの疑問は至極尤もであろう。
「詳しいことは後で説明する。よろしくやってくれたまえ」
この場にはリツコ以外の人間もいるため、冬月は言葉を濁した。
リツコも直ぐにそれを察して、それ以上のことは何も訊かなかった。
「ふーん、まあいいわ。アタシは葛城ミサト。貴方の上司になるわ。よろしくね、ダッシュ君」
ミサトはヨロシクとばかりに右手をスッと差し出した。
「はい、こちらこそよろしくお願いします。ミサトさん」
ダッシュは差し出された右手をそっと握り返した。
(温かい。ミサトさん生きてる。よかった…よかった…)
少年は思わず涙ぐんでいた。万感の思いだった。
「あれれぇー。いきなりファーストネームで呼ぶう?もーお姉さん困っちゃうなー、このっこのお〜♪」
ニヤついたミサトが本領発揮とばかりに冷やかし始めた。
「ああー、す、すみません。つい」
肘で小突かれながら、少年は頬を紅くしていた。
「ウフ、構わないわよー。でも、これからはアタシが上司だからね。アタシの言うことは何でもキチンと聞くのよ♪」
そう言ってミサトは、目の前の少年の頭をがしがしと力一杯撫でた。
「イタタタタタ──はい、ミサトさん♪」
少年の顔は満面の笑みで溢れていた。





〜第三新東京市・中央公園〜

シンジとシロは約一日ぶりの食事をとっていた。傍目には遅めの昼食といったところだろうか。
ただ、シロ同伴で入れる店がなかったため、コンビニで弁当を買い、最寄りの公園のベンチに座って食べていた。
シンジはデラックス・ハンバーグ弁当と惣菜パン一つ、それとペットボトルの紅茶。
シロはシャケ弁当一つ。飲み物はシンジの紅茶を少しもらっている。
初めシロは小さめのパック牛乳も買おうとしたがシンジに止められた。
なんでも子猫だとお腹を壊す可能性があるらしかった。
シロはシャケ弁当を器用に食べている。
(…はあ、猫だと味覚がてんで違うんだ。ちょっと味気ないや)
シロは溜め息をついて少し落胆。
最初、シロのためにネコ缶を買おうとしたシンジだったが、シロが強行に反対した。
「だって猫なんだからキャットフードじゃないと体に悪いじゃん」
ベンチの上でこぼさずに弁当を食っているシロを横目に、シンジが忠告する。
『それは…わかっているけど、やっぱり抵抗があるよ』
僕は人間なんだから。シロは心の中で付け足した。


「ふう…しょうがないな。人間の食べ物でも大丈夫なようにしてやるよ」
シロの表情を見ていたシンジが、観念したように嘆息する。
シンジは徐にシロのお腹に掌を当てた。次の瞬間、シロの身体は淡い光に包まれていた。
(な?カラダが熱い!)
しかし光は一瞬のうちに消えていた。
「ほれ、食べてみそ」
そう言われて、シロは恐る恐る目の前の弁当に口をつけてみた。
(!!)
ちゃんと味がする!美味しい!
シロは感激した。
『あ、ありがとう』
シロの素直なお礼の言葉。
シンジはニコリと笑ってそれに答えた。


『そういえばさっきはどこに行ってたの?』
弁当を食べ終えたシロがシンジに訊ねる。
実はシンジは、シロをほったらかしにして、二時間くらい姿を消していた。。
その間、シロはこの公園のベンチで大人しく留守番をしていたわけだが、通行人に撫でられるわ、抱きかかえられるわ、お菓子をもらうわ、挙句の果てには女子高生にお持ち帰りにされそうになるわで、たいへん波乱万丈な一時を過ごしていた。
「うん? ──まあ、いろいろとね」
シンジはニンマリとほくそ笑んだ。
「じゃあ、家でも買いに行くとしますか♪」
まるでコンビニで買い物するかような軽い調子でシンジが切り出した。
『え?でもお金はどうするのさ?結局、父さんからは貰えずじまいだったじゃないか』
シロは心配するが、シンジは平然としている。どこかしら悪戯が成功してご満悦の子供のようでもある。
「大丈夫大丈夫。さっき、たんまりとくすねてきたから♪」





〜ネルフ本部・総司令官公務室〜

「た、た、た、大変だぞー、碇!!」
押っ取り刀で司令室に飛び込んで来た冬月が大声を張り上げた。
この老人にしては珍しく、かなり慌てているようだ。
「どうした」
ゲンドウは、あまり興味なさそうに訊き返す。もちろん例のポーズのままだ。
「カ、カネが消えた!」
「?? …財布でも落としたのか?諦めろ」
冷たくあしらうゲンドウ。まるで興味がないようだ。
だが、冬月は物凄い剣幕で否定した。
「違うわバカ者!!──たった今連絡があったんだ!俺とお前の全財産、すべて消えたとな!」
「ぬわにィー!?」
ゲンドウは予想もしなかった事態に驚きの声を上げた。
冬月は乱れた息を整えると、手にした明細を読み上げる。
「まず、俺の預金残高すべてが、爪に火をともす思いで貯めた3億円近いカネが(ふるふる)、何者かに引き落とされていた!」
がっくりとうな垂れる冬月。半ば放心状態だ。
しかしこの老人、結構な額を貯め込んでいたようである。
だが、人のことはどうでもいい。ゲンドウが知りたいのは自分のことだけだった。
「貴様のことなどどうでもいい!」
ゲンドウが強く促した。
少しムッとした冬月が、他人事のように衝撃の事実を告げてやる。
「…碇、貴様が保有しているすべての金融機関口座の、すべてのカネが消え去った」
ガタッ!
「ぬわんだとぉー!?」
ゲンドウは思わず立ち上がり、大声で叫んでいた。 …当然、ゲンドウポーズは崩れていた。


冬月は手にした明細に視線を落としながら、説明を続ける。
「今日の正午から1時間ほどの間に、貴様の複数の銀行口座の残高すべて、日本円にして70兆を超えるカネが碇ゲンドウ本人の手によって出金、別の架空口座に送金されたらしい。一円も残らずな」
「わわわ私は知らん!すぐに調べさせろ!」
ゲンドウが青筋を立てて怒鳴りまくる。
さもあらん。70兆円ものカネを失って、平静でいられるわけがない。
「もちろん今も調べさせているが、カネの流れが途中からまったく追跡できんそうだ」
「ぎ、銀行に責任をとらせろ!!」
「無茶を言うな。この国が破綻しかねないぞ」
「これは犯罪ではないか!引き落とし自体、なかったことにすればいい!」
ゲンドウはなおも食い下がる。
「無理だ。いくら電子取引とはいえ、出金・送金ログを無視してお前の口座残高を元に戻せば、世界中の金融システムが機能不全に陥るぞ。そしてたちまち金融恐慌だぞ!第一、ゼーレの老人たちがそれを許すはずもなかろうが!」
却下とばかりに冬月は目の前のデスクをバンと叩く。
「それに、全銀協は善管注意義務は果たしたと主張している。つまり出金したのは碇ゲンドウ本人だからうちには一切の責任はないとな。 ──実際、その謎の男は貴様の身分証を呈示した上で、ネルフ権限をチラつかせて強引に出金したそうだ。個人認証のためのアイリス(虹彩)チェックもクリアした上でな。もちろん持参した預金通帳と印影にもまったく問題がなかったそうだ」
冬月は、感情を押し込んだように、低くゆっくりとした口調で説明した。
ちなみにこの謎の男とは、もちろんシンジの擬態である。シンジは碇ゲンドウに化けて一芝居打ったのだ。


「……」
ゲンドウは声も出せずに立ち竦んでいる。
「あと、額が額だからな。銀行側もネルフ本部のほうに問い合わせの電話を入れたそうだ。この司令室に直通でな。そのときの会話は、銀行側にもMAGIにも通話ログが残っていたよ。 …応対に出た人間は言ったそうだ。それで間違いありませんとな」
冬月は何故か苦々しげに説明する。
「ふざけるな!ここには電話など一切なかったぞ!第一その勝手な応対をしたヤツはどこの誰だ!」
「…副司令の冬月コウゾウと名のったそうだ。念のため言っておくが私は無実だぞ」
ちなみに応対に出たのはMAGIであり、冬月の声は合成音である。当然、司令室に電話を回さなかったのも、シンジの意を受けたMAGIの仕業だ。
「銀行の監視カメラにも貴様の姿がハッキリと映っていたそうだ。残された指紋、毛髪もすでに本人のものと確認されている」
「…私はずっとこの部屋にいた。それは私ではない」
もはや意気消沈したのか、消えるような小さな声で自らのアリバイを主張するゲンドウ。
しかし、冬月が非情な宣告をする。
「MAGIの監視ログによると、お前はここ二時間ほどネルフ本部施設を出奔していたことになっているぞ」
「バカな!?」
ゲンドウは色を失いヘナヘナと崩れるように椅子に腰を下ろした。
そして再び例のポーズを口許で組むが、首はうな垂れたままである。
「碇、貴様のここ二時間ほどのアリバイを証明できる人間はいるか?」
だが、この司令室にはここ数時間、冬月とダッシュがここを退出したあのときから、誰も訪れていなかったのだ。
「……」
ゲンドウは沈黙を返す。
「…ふう、普段からの人付き合いの悪さがアダとなったようだな」
冬月はネチッこくイヤミを述べた。


70兆円。あまりにも巨額である。この国(日本)の2年分の税収に相当する額であるのだ。
諦めるに諦めきれない。
虚空を見つめるゲンドウ。
ゼーレの重鎮、碇ユイの実父が残した遺産。そして自ら心血を注いだ不正蓄財の結晶。それが一瞬にして失われたのだ。そんなバカな。
(──いや、まだ失われたと決まったわけではない!!ネルフの総力をもって犯人めを探し出し、必ずや取り戻してくれる!!)
ゲンドウがようやくその瞳に光を取り戻す。生きる目的を見つけたかのようだ。
…だが、事態はこれで終わりではなかったのだ。某少年はそんなに甘くはなかった。





ビィービィービィー
静寂を破るかのように、突然、目の前の内線電話の呼び出し音が鳴り響いた。
それを注視する二人の男。
一拍後、部屋の主に代わって冬月が受話器を取った。
「冬月だ。どうした?」
暫く相手の声に耳を傾けていた冬月。突然──
「なんだと!!」
電話口で冬月が叫ぶ。
「?」
隣のゲンドウはわけがわからない様子だ。
通話音声をオープンにすればよかったのだが、このときの二人はそれに気がつかなかった。
「……」
冬月は沈痛そうな表情で、暫く電話の声に聞き入っている。
数分ほどが経っただろうか。
「──そうか、わかった。詳しいことがわかり次第、追って連絡を入れたまえ」
ようやく冬月が内線を切る。
そしてゲンドウのほうを振り返ると、さらに非情な宣告を下した。
「あー碇、落ち着いて聞いてくれ。貴様がここネルフ本部のターミナルドグマの一区画に厳重に保管していた私物があったよな?あの大量の金塊や貴金属、古美術、有価証券類とかだ」
「…?それがどうした?」
「全部消えたそうだ」
ガタッ!
「ぬぬぬぬわんだとぉーーーッ!!」
またまた椅子から物凄い勢いで立ち上がったゲンドウが叫び声を上げる。
銀行の預金残高(失われた)70兆円とターミナルドグマの奥底に秘匿していたそれ。まさにその二つこそが嘘偽り無いゲンドウの全財産であったのだ。
「すすす直ぐに探し出せ!!調べろ!!何としても見つけ出すんだ!!
ゲンドウは喚き散らして唾を撒き散らす。
「今調べている最中だ。だが、厳重に隔離された区画の密室だ。いつ盗まれたのかもわからないそうだ。MAGIの監視ログにもおかしな点はなかったらしい」
冬月は苦々しげに説明する。
(しかしあれほどの量の金塊をどうやって運び出したというのだ?エヴァでも使わなければ不可能な重量だぞあれは。いや、それ以前に人目につくはずだ。まさか文字通り消え去ったとでもいうのか)
冬月は首を傾げ、唸った。
彼の最後の呟きは正しい。文字通り消えたのだから。


「…株はどうした?あれならば足が付くはずだろう?」
その場に立ち尽くしたままのゲンドウが小声で訊く。
「その株券はすべて、今日、第二新東京証券取引所で売りに出されたようだ。そのせいで全面ストップ安だよ。大混乱だったらしいぞ」
「…バカな」
茫然自失のゲンドウが小さく呟く。
なおも冬月の言葉は続く。
「各証券会社に持ち込んだのは、またしても碇ゲンドウを名のる男だったらしい。その男の素性、足取りは現在も一切が不明だ。 ──それとお前の株だがな、すでに成行注文ですべての銘柄が売られていたよ。名義書き換えもされてしまっている。もはやどうにもならんよ。相手は善意の第三者だ」
ゲンドウは再度力なく椅子にもたれ掛かった。
ただ、今度は例のポーズではなく、両の手で頭を抱えていた。


「手形類は大幅に割引されて換金されていたよ。小切手も国債も外国債も地方債も、ありとあらゆる有価証券のすべてが換金され、もちろんそのいずれもが行方不明だ。 …完全にしてやられたな」
ゲンドウはもはや何も言わない。いや言えないのだ。黙って隣の男の話を聞くのみだった。
「総額10兆円ほどになるかな。金塊等を含めたら30兆円は下らないだろう。 …無駄だと思うが、一応警察に被害届けでも出すかね?」
しかし、ゲンドウからの返事はない。
(そもそも、ネルフに手に負えないものが一介の警察組織に解決できるわけがないのだがな)
冬月は自嘲気味にフゥと嘆息した。
「あと、ご丁寧にも税金だけは貴様宛に請求が回って来ているぞ。兆単位のな。一気に借金生活だなオイ」
キツイ皮肉を言う冬月。だがゲンドウはそれに答える力もなく、俯いたままだった。
「しかし、この短時間で実に見事な手際だよ。もはや人間技ではないな。MAGIをもってしても可能かどうかだろうな」
冬月は、不謹慎にも人事だと思って感心していた。


片やゲンドウは真っ白になっていた。
(フム。この男のこんな表情を見るのは、ユイ君が逝ったとき以来だな)
隣でそれを眺める冬月は、そんなことを考えていた。
(総額100兆円を掠め盗られたか。しかも一転、大借金地獄に突き落とされたとくれば、呆然となるのも当たり前か。まさに一夜乞食とはこのことだな。それに俺も人のことは言えないな。次の給料日まであと10日。今日の晩飯代はどうすればいいのだ?)
冬月は、今になって銀髪の少年にお昼を奢ったことを少しだけ後悔していた。尻の穴の小さい男である。
(しかしまさか、サードが言っていたのはこのことなのか…!?)
冬月はシンジの捨てゼリフを思い出したのか、思案に沈んでいた。


実は、シンジがくすねたカネは、念入りにマネーロンダリングが施された上で、大部分がスイス銀行の隠し口座にプールされていた。
この資金は、例の中東の小国への支援・工作金となる。
10億円ばかりは当座の生活費として、国内のシンジの銀行口座に残されていた。


ようやく正気を取り戻したゲンドウが、ギンとした眼差しで重々しい声を絞り出した。
「ネルフの総力をもって犯人を探し出せ…MAGIをフルで使ってもかまわん…何としても回収させろ…これは至上命令だ!!」
「わかった。直ぐに指示を出そう」
公私混同だが、自分のカネもかかっているので、冬月は文句を言わなかった。





〜第三新東京市・中央公園〜

土曜日の昼下がりどき。公園の噴水前には、ベンチに腰を下ろした黒髪の少年と白猫の姿があった。
傍から見れば妙な取り合わせだ。何故か周囲の視線を集めている。
少年の年の頃は13、4くらい。白い猫のほうはまだ生後一月くらいだろうか、手乗りサイズである。
「奥さん奥さん、ご覧になりまして?あの男の子、猫に向かって独り言を言っていますわよ」
「あら、ホントだわ」
「最近、ああいうのが多いのかしらねえ」
「まだ若いのに難儀よねー」
シンジたちは、近所の主婦たちの話題にのぼっていた。
閑話休題。話を戻そう。


『で、やっぱりミサトさんとは住まないんだね』
シロが訊く。予想はしていたようだ。
「そりゃ当たり前だろ。それともシロは同居したかったのかい?」
シンジが欠伸混じりに返す。
『あ、いや、今となってはね…。それにあのときの僕は本当は一人暮らしを希望してたんだよね。でもミサトさんに押し切られちゃって。まあ、断ろうにもあのときは先立つ物もなかったしね』
シロは思い出話に一人(一匹?)表情を弛めていた。
だが、シンジがそこに異論を挟んできた。
「はあ?ソレ本気で言っているわけ?」
『?』
「…シロって前回、給料はどうしてた?」
一応知っているが、シンジは呆れた様子で訊いてみた。
『給料ってネルフの?そりゃ貰ってなかったよ。でもそんなの当たり前でしょ。僕はまだ子供だし、中学生はバイト禁止なんだもの。 ──ただ、お小遣いだけは毎月5千円、ミサトさんの厚意で貰ってたけどね』
さも当然とばかりにシロは力説をかましていた。
だがシンジは、冷ややか且つ哀れみの目をシロに向ける。
「…やっぱ馬鹿だ。子供だろうと何だろうと、エヴァのパイロットが無給なわけないじゃん」
(まあ、馬鹿なのは僕も同じなんだよな。シロとは途中まで同一人物だったわけなんだし)
シンジは心の中で自嘲の笑みを漏らす。
だがシロはわけがわからないらしい。
シンジはシロにもわかるように子細を語り始めた。


「エヴァのパイロットってのは一尉相当の基本給が出てるんだよ?」
シンジは首を軽く振りながら溜め息をついてみせた。
「僕らの場合、基本給30万円だったから、夏冬のボーナス込みで年収500万円くらいだね」
『うそ…そんなにあるんだ』
500万円。その額を聞いてシロは驚愕していた。
シロにとっては充分天文学的な数字だ。
(えーと、お弁当のオカズ、何日いや何年分買えるかな?)
想像力が乏しいというか、貧乏性というか、比較の基準が所帯じみているというか、やはりシロはどこかズレていた。
だが、シンジの話はまだ途中だった。
「まだまだこんなもんじゃないよ」
シンジが言うには、この500万円という定額給与の他にも、以下のような諸手当が別途支給されるという。
「つまり月給に換算すると、最低でも130万円が支給されていたというわけ。多いときなんか月給700万円を超えていたんだよ? ──はっきり言って、僕らはあの葛城ミサトよりも遥かに高給取りだったのさ。考えても見てごらんよ。使用制限があったとはいえ、アスカは金遣いが荒かったでしょ?」
シンジはそう言うと、大仰に両手両足を伸ばしてベンチにふんぞり返った。我呆れた、お手上げ、のポーズだった。
(そ、そういえば…)
シロは一々身に覚えがあった。


『じゃあ、じゃあ、僕の給料って一体どこに消えたの?』
シロの疑問も当然だろう。そんな大金があれば自立するのに十分だったのだ。
(あ、もしかして父さんが僕の将来のことを考えて積み立ててくれたのかな? …まさかね)
シロは甚だ見当違いな想像をする。だがシンジが暴露した。
「葛城ミサトが全部使い込んでいたんだよ。自分の車のローンとか洋服代とかエビチュ代とか外食代とかラブホ代とかにな」
『!!』
「初めはそんな気はなかったみたいだけど、預かっていた僕らの預金通帳の額面を眺めるうちに魔が差したんだろうね。 ──最初はバレない様に少しずつ手を付けていき、そのうちだんだんと大胆になって、ついには丸ごと着服しやがったよ、あの女」
こめかみに青筋を立ててシンジは説明した。後半は殆ど怒鳴り声だ。
『嘘…』
放心のシロ。しかしシンジは無視して話を進める。
「前回、僕らの出迎えの際、国連軍のN2地雷の爆風でボロボロになった青い車のことは覚えてるかい?そう、あの外車。あの車はアルピーノ・ルノーA310っていうんだけど、その修理費用やらローンやらたんまり残っているはずなのに不思議だよね。打ち出の小槌でも持っているのかな、彼女って?」
シンジはニヤニヤ笑いつつも、そのまま続ける。
「そうそう、実はあの青い車って左ハンドルのガソリン車のタイプをもう一台持ってるんだよ彼女。コンフォート17の地下駐車場で見たことないかな?」
シンジがニンマリと横目で訊ねる。もう完全におちょくり姿勢だ。
(…そういえば、同じような青い車が二台並んで駐車してたような。他の住人の車かなと思っていたけど、でもあのマンションには僕たち以外に居住者はいなかったし…)
シロは俯いたまま考え込んでいたが、その思考を遮るようにシンジの話は続いた。
「そういや、フェラーリ328GTSって車も、24回ローンだけど買ってたね。僕らと同居を始めてから大体一ヶ月後ぐらいだったかな。学校の進路相談のときにあの女が乗って来た真紅のスポーツカーのことは覚えているでしょ? ──実はアレ、そもそもは青い車を修理に出したときの代車だったんだけどさ、気に入ってそのまま買い取ったみたいだよ。 …アレを一介の国際公務員の給料で買えると思うかい?中古でも、今ではプレミアついてン千万はするよ?」
シンジは面白そうに白眼を向けてくる。
『……』
「あとビールの消費量。どんどん多くならなかった?」
シンジの口撃は止まらない。


『…あ、でも僕の家賃代とかもあるし。やっぱり、いろいろと天引きされてたんじゃ?』
とことん人が良いシロである。この期に及んでも何かと理由を考えあの女を庇おうとしていた。
だが、これにはいい加減シンジがキレた。
「はあー、馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど底抜けの大馬鹿だったとは…」
やれやれとコメカミを押さえる。
「ネルフの独身寮や社宅はもともとタダなんだよ。つまり無料なの。わかる?第一、僕らが貰っていた小遣いの5千円だってそもそもは僕らのカネなわけ。それさえもお前ってば皆のお弁当のオカズ代とかに充ててたし…あーもう、君は人が良すぎるのもいい加減にしたほうがいい。内罰的な性格も度を超すとイヤミにしかならない」
シンジは一気に捲くし立てた。いわば自分自身のことでもあるので、些か感情的になっていたようである。
シロはというと、叱られた子供のようにシュンとなっていた。まあこれもある意味内罰的な反応なのだが。
『内罰的…うう…そういえばアスカにも言われたことがあったような…』
「そう。内罰的だよ」
説明を続けるシンジ。
「内罰的…何か自分では思い通りにならないことが起きたとき、『自分』にその責任があると考えること。代表例は碇シンジ」
「外罰的…何か自分では思い通りにならないことが起きたとき、『他人』にその責任があると考えること。代表例は葛城ミサト」
シロは黙って聞いている。一々得心顔をしている。ウンウンなるほどと頷いている。
シンジはシロの表情を一瞥すると、さらに続ける。
「内罰的な碇シンジと外罰的な葛城ミサト。碇シンジにとってこれほど相性が悪い人間はいないと思うね。一緒にいるとそのうち骨までしゃぶられるよ。
反対にあの女にとっては碇シンジという人間は相性バッチリの美味しすぎる存在なんだろうけどね。まさに理想像。同居させて手元に置きたいと思うのはあの女の本能かもしれないね」
(…このままだとたぶん僕の身代わりに例のイレギュラー君が捕まるな、きっと)
シンジの瞼の裏には、葛城邸でおさんどんをやらされている憐れな銀髪の少年の姿が浮かんでいた。
シンジは心の中で合掌した。それがアーメンか南無阿弥陀仏かはわからなかったが。





〜第三新東京市・繁華街〜

シンジたちが公園を後にしてから小一時間ほどの時が経っていた。街の時計台の針は午後3時近くを指している。
シンジはシロを肩に乗せて、繁華街のメインストリートを歩いていた。
新居を購入するために不動産屋巡りをしているのだ。
すでに数軒の店舗は見て回ったが、なかなか気に入った物件がなかったらしい。
それに殆どの業者はネルフの息が掛かっていたのだ。


『…ねえ。あの少年のことは、もう一人の碇シンジのことはどうするの?』
少年の左肩に掴まるシロが、耳元で声を掛けた。
「ああ、銀髪のイレギュラー君ね。特にどうもしないよ」
『でも君のことを目の敵にしていたよ、彼。大丈夫かな』
シンジは気にも掛けていないが、やはりシロは心配のようだ。
なんせ自分にはない力を持っている(らしい)のだ。その力のほども(シロには)わからないのだ。
そして彼のせいで、現れる使徒が遥かに強力になったりしている。
今後、彼の存在がこの世界にどんな影響を及ぼすのかわからないのだ。不安になるのも当然だろう。
「大丈夫かどうかは、銀髪のイレギュラー君次第だと思うよ」
『でも…』
なおも心配顔のシロ。
「だからその銀髪のイレギュラー君が、──だあああああ!もー言いにくい!」
シンジがいきなりキレた。
そしていきなりおかしなことを言い出し始めた。
「よし!名前を変えるか!名前! ──さっきから紛らわしくって仕方がない」
少し鼻息が荒い。
『はい?名前を変える?本人の承諾もなしに?いくらなんでもそれは無茶じゃないの?』
「いいんだよ。こっちが勝手につけるんだから。一切問題なし♪」
シンジはシロの忠告にも意に介していない。
このシンジという少年、実は「命名魔」だった。
今までも周囲の迷惑を顧みず、いろんなものに名前をつけたり、改名しまくったりしていた。
先代の〈ユグドラシル〉管理人やゾフィーも、さすがにこれには呆れていたらしい。
「さて、何にしようかな〜♪」
シンジは顎に指をおいて上目遣いに考える。
ああ、どこかであったようなシチュエーション。シロは猛烈な既視感に襲われていた。
「池田カメタロウ♪」
嬉々としてシンジが提案する。
『…誰だよそれ。それはちょっとかわいそうだよ』
シロがフォローする。
作者もそう思う。その筋では有名な名前だ。わからない読者は、漢字変換してググってみよう。
「剛田タケシ♪」
もはや説明不要だろう。
『…いや、別に苗字まではいいんじゃないの?ただの呼び名なんだし』
シロはもう一人の自分のために助け舟を出した。
「ふむ、なるほど。シロの言うことにも一理あるな」
じゃあと言ってシンジは叫ぶ。
「ポチ♪」
ズルッ
少年の肩からずり落ちそうになるシロ。
『…それはもういいって』
さすがのシロも閉口していた。
シンジは目を閉じて両腕を組んでうーむと考え込んでいる。
老婆心ながら、街中を歩きながらそれは危ない気がするぞ。
「うーんうーん、あっ!!」
突然、シンジはカッと目を見開いた。そして──
「ダッシュ!」
『ダッシュ?』
シロはオウム返しをした。
「そう。サード・チルドレン・ダッシュ。さっき鬚がそう呟いていた。ネルフ本部ではそう呼ぶみたいだね。面倒臭いから、僕たちもこれでいいんじゃないの?」
シンジはおちゃらけた表情で提案してきた。
『ふーん、ダッシュね。結構良いかも。 …って何で父さんの呟きがわかるのさ!?』
ノリツッコミばりに、シロが訊き返した。
「フッフッフッ、MAGIが監視できる場所は僕も監視できるのさ。すでにMAGI本体は言うに及ばず、ネルフ本部と第三新東京市の主だったコンピューター・システムは僕の手中に落ちているからね」
シンジはさらりととんでもないことを言った。
『……』
だが、シロは不思議とあまり驚いてはいない様子だ。
いや驚いていないといえば嘘になるのだが、もう慣れていた。
それに多分そうだろうなとは推測していたらしい。シロなりにいろいろ考えているようだ。
「まあ、覗けないところが一箇所だけあったんだけど、今朝、細工を仕掛けておいたし♪」
シンジは嬉しそうに話す。悪戯心満載といった感じだ。
『覗けないところ?』
「そう。ネルフ総司令官公務室、通称司令室さ。今朝一緒に入ったでしょ。あそこはMAGIから完全に切り離されているからね。まったく用心深いというか胆が小さいというか。自分が監視するのはいいけど、されるのはイヤなんだよ。ホントわがままだよねえ」
シンジは鬚面の男の小心者ぶりを嘲笑した。
「というわけで、ネルフ本部で僕に覗けない場所はないんだよ」
シンジはきっぱりと断言した。
(覗けない所はない…まさか!!)
シロはゴクリと固唾をのむと何故だか急に顔を赤くした。
「…今、変な妄想したでしょ。そんなことは(できるけど)しないから安心してくれ」
シンジは呆れ顔で、シロの頭をぺしっとはたいた。小気味よい音がした。
シロは暫く頭を押さえて怨めしそうに唸っていた。
「じゃあ決まりだね。あいつの名前は"ダッシュ"ということで」
(しかし、本人の知らないところで勝手に名前が決められているとは、…あの少年も不憫だよな)
シロはここにはいないもう一人の自分の不幸を思い遣った。
自分も似た境遇のため、同情心を禁じ得ないのだろう。


『結局、ダッシュとはどう付き合うの?なんか険悪な雰囲気だったけど』
シロはようやく話を戻した。
今朝のことを心配しているようだ。
「うん?そうだなあ。僕の邪魔をしなけりゃどうもしないよ。別に付き合う気もない。ただ──」
そこで、シンジの表情が一変した。
「僕の大切な人に少しでも危害を及ぼすようなら、容赦はしない。 …この世から細胞一つ、いや原子さえも残らず消し去ってやるよ」
鬼気迫るものがあった。
『!!』
シロは息を呑んだ。全身に鳥肌が立った。正直、怖かった。
しかし、シンジの表情は直ぐに元に戻っていた。いつもの柔和な顔だ。
それを見てようやく落ち着くシロだった。





とあるビルのエントランス・ホールから出てくる少年。その肩には白い猫を乗せている。
相も変わらず不動産屋巡りをしているシンジとシロだ。
背後のビルのテナントの看板を見ると、伊○箱根不動産とある。
どうやらここもダメだったらしい。
『なかなか見つかんないね』
シロが疲れたように呟く。
「ハハ、気に入った物件なんてそう簡単には見つからないよ。家なんて一生モノだから、じっくり選ばないと後悔するからね」
今回、シンジが物件選びで問題にしているのは、
@邸宅のセンスA立地条件Bネルフの影響の有無
以上の三点だけである。ちなみに予算は度外視らしい。


シロが話題を変える。どうやらずっと考えていた疑問らしい。
『でもどうして彼は、ダッシュは、あんなにも父さんやミサトさんに味方するのかなあ? ──僕も同じ碇シンジのはずなんだけど、よくわかんないや』
それが今のシロの正直な気持ちなのだろう。腑に落ちないという感じで小首を傾げている。
(ミサトさんのほうは、まあ百歩譲ってわからないでもないけどさ、なぜ父さんなのかな? ──あの頃、僕って父さんとは絶縁状態だったはずだし)
シロはいくら考えても答えが出なかった。脳細胞が空回りしていた。
シンジがいつになく真面目な顔で訊き返す。
「あの二人の、葛城ミサトと碇ゲンドウの最期の言葉を覚えているかい?」
『最期って…サード・インパクトのときの?』
「そう」
『えーと、父さんとはあの日ずっと会ってないからわからないけど、ミサトさんのほうは何か叫んでいたような…?確か初号機に乗れとか何とか…たぶん』
シロは記憶のひもをたぐり寄せながら何とか朧気に答えた。でも肝心なところは憶えてなかった。ダメダメである。
「シロってホントにお気楽だねえ」
シンジは肩を竦めた。
まあ、あのときは酷い状態だったから無理もないか。シンジはそう思っていた。


「まずあの女のセリフ。
《アンタまだ生きてるんでしょう!なら(アタシのために)精一杯生きて、それから死になさい!!》──だ」
『!!』
すごい! ──シロの第一印象はまさにこれであった。ミサトの最期の言葉の内容に感動したのではない。
なんとシンジは、葛城ミサトと同じ声で、イントネーションで、そのセリフを喋ったのだ。
こんな芸当もできるのか。シロは感動していた。まるっきり本人の声そのものだったのだ。
『…でも妙なナレーションが入っていたような』
シロは蛇足を指摘した。
「そいつは僕のサービスさ。僕はその人間の深層意識まで知り尽くしているからね。補足説明だよ」
「つまり僕が言いたいのは──」
シンジは一旦言葉を切り、冷たく続けた。
「あの女は僕たち"碇シンジ"を見捨てたということさ」
『!? ──でも、ミサトさん、あのとき僕を助けてくれたよ?』
シロがすぐさま疑問をぶつける。
シロの言う「あのとき」とは、戦自部隊がネルフに侵攻した日のことである。つまりサード・インパクト当日のことだ。
「うん。それは紛れもない事実だね。あの女がいなければ僕たちは戦自の連中に殺されていた。その点は感謝しているよホント。 ──でもね、助けた動機が不純なんだよ」
シンジは冷たい声で答えた。
『?』
シロはわけがわからない。じっと少年の横顔を見つめるのみだ。
ややあって、シンジが真相を語り始めた。
「あの女はあのとき、かなり真実に近いところに居たんだよ。殺された恋人、加持リョウジの残したデータによってね」
「そして、サード・インパクトがもはや不可避であることを知る」
シンジは事務的な口調で続ける。
「それでも父親の、恋人の仇を討ちたい。でも、戦自の侵攻部隊やこれから来襲するであろうエヴァ量産機に勝てるとは到底思えない。 ──自棄になったあの女が採った戦法は…『玉砕』だよ。それも他人を使った、ね」
シンジは薄く嘲笑していた。
「つまり僕たちを助けたのは、『どうせ死ぬんだからアタシの仇に一矢報いてから死んでちょうだい。それまでは死ぬな』ってことだったのさ。 …あの女は、僕たちが、エヴァのパイロットが死ぬ運命にあることを、もうあのとき知っていたんだよ!」
『……』
シロは色を失っていた。
激しくショックを受けていた。
四肢の力が抜け、その場にへたり込みそうになっていた。


「さーて、次はゲンドウの番だね。あの男が最期に言った言葉は、
《その報いがこのあり様か…すまなかったな、シンジ》──だ。
その直後、碇ユイ、綾波レイ、渚カヲル、この三人の幻影に看取られながら、幻の初号機に喰われてLCLに還って逝った」
シンジは先程と同じく、今度はゲンドウの声色を披露した。ちょっと不気味だったが。
『じゃあ、父さんは最後の最後で改心して僕に謝罪してくれたんだ!』
初めて父親の最期の言葉を聞いたシロは、思わず感激の声を上げていた。
だがシロは、その父親の言葉を、額面どおりの意味でしか受け取れていなかった。
「…違うよ、残念ながら」
シンジはフンと含み笑いを漏らすと、それをハッキリと否定した。
「そのセリフはね、自らの補完計画が潰えたことを確信したあの男が残した起死回生の一策なんだよ」
『?』
シロはわけがわからずにキョトンとしている。
そんなシロの反応をよそに、シンジの説明は続く。
「あの約束の時、最後の最後でゲンドウは綾波に捨てられたんだ」
『綾波に捨てられた?』
何のこっちゃとシロがオウム返しに訊き返す。
「そう、捨てられた。そして綾波に見放された時点で、もはやサード・インパクトはゼーレの思惑どおり、碇シンジを依り代として初号機を生命の樹の核に据えて遂行されることは決定的だった。ゲンドウにとっては絶望だったと思うよ」
シンジは押し殺したような声で続ける。
「でもそのとき、あの男の中で瞬時に打算が働いたんだよ。 ──インパクトのキーは"碇シンジ"だ、とね」
このときシンジは何故か自嘲的な笑みを漏らしていた。痛恨の表情にさえ見える。しかし理由はわからない。
少年の話は続く。
「その男は考えたんだよ。碇シンジが望みさえすれば、自分はサード・インパクト後も生き長らえることが出来るって。再生を果たすことができるって。 ──つまり、シンジに許してもらえれば助かるってね」
「だからあの男は命懸けで一芝居打ったのさ。土壇場でゼーレを出し抜き、彼らの補完計画を自分の補完計画にすげ替えるためにね。 …まるでカッコウの托卵だね」
シンジは呆れ顔だ。
「あの状況ですごい才覚だと思うよ。本音は"碇シンジ"に気づかれないように心の奥底に隠したんだから。あの一瞬でまったく大した傑物(?)だよ。さすがゼーレの連中に一目置かれただけのことはあるね」
シンジは最後にフンと鼻を鳴らして、中空を仰ぎ見た。
『そんな…』
シロは言葉に詰まっていた。激しく当惑して震えていた。 …いや、怒りに震えているのか?
「そもそもあの男は、あのとき僕たちが戦自の侵攻部隊に殺されることを確実に予期していたんだよ。
だけど、助けを差し向けようとさえしなかった。
あの男の補完計画にとって、初号機の覚醒と解放を果たした今、すでに僕たちは不要な存在だったからね。
碇シンジが死のうが生きようがもはやそのことに興味はなかったんだよ。
…いや、ゼーレの計画を確実に潰すためには、死んでくれたほうがベターだったのか。
ゲンドウは知っていて僕たちを見殺しにしたんだ。僕たちが殺されることを期待していたんだよ。
そして、自分一人だけターミナル・ドグマに降りたんだ。
綾波に会いに、綾波を使って自らの補完計画を、サード・インパクトを起こすためにね」
シンジの話はここで一旦終わる。
『……』
シロは沈黙したまま動かない。
だがその表情にもはや自失の色はなかった。
シロの今の心境を一言で表すならば、「信じた自分が馬鹿だった」であろう。
父親に対する幻想は、このときすでに跡形もなく消え去っていた。
ある意味、ひと皮むけたと言えるかもしれない。
『…でも結局、父さんの企みは失敗に終わったね』
シロは冷めた声で呟く。
(そう。僕の知っている紅い世界では誰も再生しなかったんだ)
だがシンジは苦々しげに吐き捨てた。
「…いや、成功した平行世界も存在している。残念ながらね」





『あのさ、素朴な疑問なんだけど、──僕は父さんの最期の言葉を覚えていないんだ。でも君たちは知っていた。同じ碇シンジなのに、何故なの?』
三人の碇シンジはサード・インパクトの瞬間までは同一人物だったらしい。だとしたら三人に差異が出たのはインパクト後に別な歴史を経験したからではないのか。
シロはそう推論していた。
「サード・インパクト後の紅い海に浸かって知識・記憶を吸収したからだよ。シロは浸かっていないんでしょ?」
シンジはあっさりと正解をばらした。
シロは俯いて少年の言葉を噛み締めていた。
(そういえば今朝、ダッシュと会ったときにそういう話があったような気がする。それに、たしかに僕はあの紅い海には浸かっていない。 …だっていきなり綾波にこの世界に送られちゃったから)
『じゃあ二人ともすべての真実を知っているってことなの?』
シロは顔を上げるなり訊き返した。同じ碇シンジなのに不公平だなと思いつつも。
「違うね。少なくともダッシュの奴はすべてを知っていない。今朝会ってそのことがわかった」
『え?でも同じように紅い海に浸かったんだよね。どうして違いが出てくるのさ?』
シロは疑問を返した。
「はっきり言って、アイツは漬け込み不足なんだよ」
シンジは一刀両断にした。
(漬け込み不足?たくあん?浸かった時間が短いっていうの?)
シロは少年の言葉をその小さい頭の中で必死に吟味していた。
「実を言うとね、シロも少しだけあの紅い海に浸かっているんだよ。初号機から放り出されたときにね。でも、君は知識の吸収を拒否したんだ」
シンジはとんでもないことを話し出した。
『え、なんでさ!?』
シロが目を丸くして驚きの声を上げる。
まったく身に覚えがないのだ。
(折角のチャンスに何てことするんだ、僕は!)
シンジはその様子を眺めながらクスクスと笑っていた。何かツボに嵌ったのかもしれない。
「あのときのシロは溺れている最中でね、それどころじゃなかったんだよ。シロってカナヅチでしょ。まあ、直ぐに綾波に助けてもらったけどね」


シンジは語る。
「紅い海に浸かるってのは、知識の吸収を受け入れるってことは、結構苦痛なんだよ。例えていうなら、煮えたぎるマグマの中に生身で飛び込むような、そんな感じかな」
シンジは一つ一つ思い出すかのように話す。
「たぶん、ダッシュは数分も浸かっていないはずだよ。苦痛に耐えられなかったんだろうね。そもそも充分に浸かっていたら、あの二人を許せるなんて簡単に言えるはずがないんだよ。 ──そんな短時間で知り得る知識なんて、自分の周りの極少人数の表層の記憶建前込みの感情ぐらいが関の山だ。本心なんて夢のまた夢だよ。それで『すべてを知った』とは、我が分身ながら開いた口が塞がらないね」
シンジは凛と言い放った。
「…僕はね、あの紅い海に三千年近くも浸かっていたんだよ。ただすべてを知りたい。その一心でね。それくらいじゃないと本当のことは何もわからないんだよ。長い熟成が必要なのさ」
『(熟成って…まるでチーズか漬物みたいだ)でも三千年って…つーかなんで人がそんなに長生きなんだよ?』
シロが疑問を挟んだ。
「あれは生命のスープそのものだからね。あの中に浸かっている間は、不思議と細胞は老化しないんだよ。 …もっとも僕は別の理由で不老だったんだけどね」
『別の理由って?』
「内緒♪」
即答だった。
『……』
シロは少しふて腐れた。


「そもそも充分に知識を、この場合はこの星の創造主の知識を含めてだけど、それを吸収すれば、簡単には過去には戻れないことは解るんだよ。 ──この僕もね、初めは過去に戻れるって喜んだよ。可笑しいよね。 …でもその過去は平行世界というオチだった。それがわかったときは愕然としたよ」
シンジは感慨深く話をする。
シロもまさに我が身のことでもあるので、黙ってうな垂れて耳を傾けていた。
「自分の直接の過去に行くのは、因果律が邪魔してなかなか難しいんだよ。ちょっとしたコツと特別な能力がいるんだ。たぶんダッシュはそれに気づかずに、喜び勇んで時を遡ったんだろうね」
結果、他人の家に土足で踏み入ったと。しみじみと語るシンジ。
「しっかし、シロって本当に何も知らないよね。シロの世界の綾波って、シロをこっちに送るときに何も教えてくれなかったのかい?」
シンジは少しだけ呆れていた。半ば予想していたとはいえ、あまりにモノを知らなさすぎるのだ。一々説明するのがいい加減億劫になるくらいに。
『なんでそんなことまで知ってるの?僕が綾波に送ってもらったって』
驚き感心したようにシロが言う。
シンジはなおも呆れているようだ。
「そりゃ、普通の人間だったシロが時を越えるには、アダムと融合したリリス、つまり綾波に送ってもらうしか道はないからね」
(シロの世界ではアダムの後継者たるカヲル君の存在はすでに消滅していたしね)





〜ネルフ本部・第一発令所〜

ここネルフの発令所には、フルメンバーが一堂に会していた。
とは言ってもチルドレンたちはいないが。
重苦しい緊張感が周囲を包んでいた。
気の弱い某童顔オペレーターなどは顔を引きつらせて視線を泳がせている。
「──MAGIの調査は済んだのかね?」
初老の男、冬月が静寂を破って口を開く。
「はい。MAGIシステム三基による自己診断を実施しました。しかし異常は検出されておりません」
「また、該当プログラムのデバッグ、メモリダンプの分析でも一切の異常は見つかっておりません」
直立不動で淡々と報告するリツコ。徹夜で調べていたのか、目の周りには薄いクマができていた。
「つまり、MAGIに異常はないと?」
「はい、今のところは何とも。 …申し訳ありません」
「……」
予想もしていなかった結果に冬月(+他一名)は落胆する。
(あれだけ啖呵を切っておいて…老人どもにはどう報告するつもりだ、碇?)
そのまま沈黙が訪れた。


「…初号機はどうだ?」
冬月が質問を変える。
「はい。初号機内部に、熱、電子、電磁波ほか、科学エネルギー反応はありません。完全に停止状態です」
「にも関わらず、この私を襲ったと」
ミサトが横からイヤミの言葉を挟む。
リツコはミサトの皮肉に内心ムッとしたが、無視して報告を続けた。
「…結論から申し上げれば、初号機の変貌の原因は不明です。これはMAGIによる素体サンプルの分析でも同様の結果を示しています。コアの波形パターンにも変化は認められません。 …ただ、私見を申し上げれば、『覚醒』の兆候が何らかの影響を及ぼした可能性を否定できません」
リツコはこの場ではそれ以上詳しくは言わなかったが、ゲンドウは正しく意味を理解していた。
「ん?なによ覚醒って?」
ミサトが怪訝そうに訊いてきた。この女がいるからリツコは言葉を濁したのだ。
「なんでもないわ。ただの技術用語よ」
リツコは軽くあしらった。
(初号機の変貌は原因不明か。予想外の結果だが、収穫はあった。 …やはりあれはシンジとユイの相互干渉がもたらした影響と考えるのが自然だろう。 ──ククッ、覚醒は近い。もう直ぐだ。もう直ぐ会えるぞ、ユイ──)
鬚面の男は例のポーズのまま一人ほくそ笑んだ。
「ヒッ!」
アングル的にたまたまその表情──ニヤリと歪む口許──を垣間見てしまった某童顔オペレーターが小さな悲鳴を漏らし、引き付けを起こしたのはご愛嬌か。そりゃ不気味だっただろう。


「だ、第三使徒の調査のほうはどうかね?」
隣の男の不気味な毒気にあてられた冬月が再び質問を変えた。
「はい。全身で大規模なネクローシスが発生し、急速に細胞劣化、つまり腐敗が進行しています。もはやサンプルとしての価値はありませんでした。これはコアについても同様です。詳細な原因は未だわかっておりません」
リツコは力なく答える。
「何故だね?初号機との戦闘では損傷は軽微だったはずだが?」
「…おそらく初号機の手刀が使徒のコアを貫いたときに、何らかの外的影響を及ぼしたのだと推測します」
「……」
一堂に落胆した空気が漂う。
(クソッ、アダム由来のS2器官のサンプルを入手できるチャンスだと思っていたが。 …やはりどこまでも使えないヤツだ、シンジめ!)
ゲンドウは心の中で悪態を吐いていた。


「サードの身辺調査も完了しました」
リツコは淡々と報告を続けていた。
「彼が言った国籍、外交官の身分のこともすべて本当です。しかも駐日特命全権大使です。日本政府にも確認をとりましたのでこれは確かなことです。彼の呈示した信任状も間違いなく本物でしょう」
外交官の信任状──通常は派遣国の元首が発行する信任状を指し、接受国の元首に捧呈されるものを言う。
最近は、国際間で統一された見開きの手帳が使用されており、左側に派遣国の信任状、右側に接受国の受諾状が刻印されていた。もちろんすべて英語表記である。また、外交官の席次によって手帳の色も違うらしい。
シンジの持つソレにも、左に某国国王の署名、右に日本国総理大臣(天皇ではない)の署名があった。見た目にもかなり豪華な深緑の手帳だ。
(((外交官?大使?)))
話を聞いていたオペレーターズは驚愕の事実に息を呑んだ。
「(凄いな、あの少年は)」
「(まったくだ。エヴァの操縦も凄かったけど一体何者なんだ?)」
メガネとロンゲはヒソヒソ話をしていた。
「(え?え? …異国の大使? …美少年? …白馬の王子様? …えーもしかしてワタシ玉の輿〜!?)」
少女趣味なマヤは一人突飛な妄想をしてイヤンイヤンと悶えていた。
「…14歳の子供が駐日大使かね?」
冬月が眉を顰めてぼやく。彼の常識外の出来事のようだ。


「はあ?アンタ何言ってんのよ、リツコ?」
ここでミサトが怪訝そうに口を挟む。
「ミサト。貴女のことだから手遅れにならないうちに言っておくけど、サードをネルフの特務権限で強制徴兵しようとしても無駄よ?」
──実は既に手遅れだったのだが、この場の人間は誰も知らない。無論本人もだ。
「え?何でよ!!」
まさにそのつもりだったミサトは、おもちゃを取り上げられた子供のように不満の声を上げた。
すでに既遂だったが、本人にその記憶はない。
「彼には国連非加盟国の国籍と外交官の身分があるのよ。だから国連組織であるネルフの力はまったく及ばないのよ」
「なんでよ!そんなの無視しちゃっていいじゃない!!」
とんでもないことをサラリと言うミサト。この国が法治国家であることを知らないのだろうか?
「…それをやったら、国際問題よ。貴女、条約違反で犯罪者よ?」
「何言ってんの!こっちは子供の駄々につき合ってられないのよ?世界存亡の危機なのよ?そんな身分なんてさっさと剥奪すればいいじゃないの!!正義は我にありなのよ!!」
まったく怯まないミサト。傍目には殊勝なことを言っているように聞こえるが、これはすべて個人的な理由から言っているのである。
もしかしたらこの女、また同じ轍を踏むのかもしれない。
(──それができれば苦労はしないがね)
ミサトの話を黙って聞いていた冬月は、ふうと溜め息を吐いて、大仰に肩を竦めた。


「条約なんて、そんなの破棄しちゃえばいいじゃない!!」
ミサトが後先考えずに無責任なことをがなり立てる。
「はあ…。かの国は確かに国連には非加盟だけど、ちゃっかりと重要な国際条約には批准して多くの国々に門戸を開いているの。外交官に関するいくつかの条約もそうね。もしその条約を日本が一方的に破棄したら、一体どうなると思う?」
リツコは白眼をミサトに向けた。どうせわからないでしょうけど、そんな冷めた目だ。
「は!?別にどうもしないわよ!!アタシがサードを捕まえて世界は万々歳になる。ただそれだけのことじゃない!!」
フンと鼻を鳴らして胸を張るミサト。傍若無人のごとき振る舞いだ。
すでに呆れ果てているリツコは、諭すように言った。
「…日本は鎖国になるわね。全世界から総スカンよ。おそらくネルフの特務権限も剥奪されるでしょうね」
「!?!?な、ななななんでよっ!!アンタそんなこと許されると思ってんの!!バッカじゃないの!!──」
場もわきまえずに喚き散らすミサト。
「…赤木博士」
ゲンドウが聞くに堪えないと目配せする。
「…わかりました」
以心伝心なのか、それだけでゲンドウの言わんとすることを理解したリツコ。
スススっと半狂乱状態のミサトの背後に忍び寄る。そして次の瞬間──
ブスッ
「うっ!?」
小さく呻き声を残して崩れ落ちる赤いジャケットの女。
その背後には右手に注射器を持ったリツコが仁王立ちしていた。
「終わりました」
ミッション完了とばかりに報告するリツコ。
注射したのは即効性の鎮静剤のようだ。ただし、対ミサト用に調合した特別製であるが。
しかし、注射器とアンプルをいつも白衣のポケットに入れているのだろうか?
リツコという女、一歩間違えば危ない女である。
「ご苦労」
ゲンドウは短く答えた。
ちなみに他の人間(主にオペレーターズ)はあまりのことに石化していた。


「で、──その問題の国とは?」
冬月が話の続きを催促する。
「はい。アル・カマル・サウダンです」
((アル・カマル…?))
二人の男は同時に首を捻る。
「聞かん名だな」
「アラビア語で"黒き月"という意味です。正式には別のアラビア語の冗長的な国名があるのですが、半年ほど前に一般呼称として改名、内外で統一されたようです。日本では『カマルスーダン王国』と呼称されています」
──改名。この言葉にピンときた貴方、正解です。これもあの少年が横車を押した結果なんです。
「「!?」」
(黒き月だと?偶然か、それとも──)
二人の男は"黒き月"という言葉に反応して表情を変えたが、それを気にも留めずにリツコは話を続けた。
「ペルシャ湾に面した新興の小国で、2000年12月25日に建国。政体は君主制。国王はカイサル=アル=カマル、アラブ人です。ですが、アラブ国家ではありません。人口は約150万人。人口の大半が移民と難民で構成されています。使用言語はアラビア語を公用語として、ペルシャ語、トルコ語、英語と多様です。国土面積は1万2575平方キロメートル、日本の長野県と同程度の広さです。イスラム教(シーア派)が国教ですが、他宗派にもおよそ寛容です。主要産業は農業・漁業・石油関連といったところです」
リツコは一気に説明した。しかもアンチョコなしでだ。


「未だサード・チルドレンの所在は不明です。目下、MAGIによる追跡はもちろん、保安諜報部による人海戦術により捜索の網を第三新東京市以外にも広げているのですが、依然ロストしたままです。ただ…」
リツコが言葉を濁す。
「ただ、何だね?」
「あ、はい。実は、サード・チルドレンが寄宿していた第二新東京市の叔父夫婦の邸宅が本日全焼したとのことです」
「「!!」」
「あの豪邸がか?」
冬月が驚く。どうやらサードの養育費を着服して建てたという裏事情は知っているようである。まあ当然か。
「はい。不審火による全焼とのことです。不運にも火災保険に加入しておらず、夫婦は途方に暮れているそうで、その…ネルフに対して援助を求めているようです」
この火事によって叔父夫婦は全財産を失っていた。この夫婦、銀行金利が安いからといって自宅でタンス預金をしていたのだ。当然そのお金は灰と消えてしまった。もはや一文無しである。
「そんなことはどうでもいい!」
ゲンドウが怒鳴りつける。そんな(シンジの飼育に失敗した)役立たずな夫婦がどうなろうと知ったことではないのだ。当然、援助や火事見舞いを差し向ける気など、この男にはこれっぽっちもなかった。
(フン。それに家がないほうが都合がいい。これでシンジの奴が帰る家は文字通りなくなったのだからな)
災い転じて福となす。ゲンドウは一人ニンマリと笑っていた。
だがゲンドウは肝心なことを忘れている。
仮にも一国の駐日大使ともあろう人物に公邸があてがわれていないわけがないのだ。
当然、シンジにも第二新東京市内に一つ用意されている。ただ、シンジはそこをまったく使っていなかったが。
ちなみにシンジが住んでいた家──叔父夫婦の母屋のほうではなく、離れの物置小屋のほう──は延焼を免れていたので、厳密には帰る家がなくなったということではない。
もちろんシンジ本人に、あの部屋に帰る気など更々なかった。
それに、おそらくは例の焼け出された叔父夫婦がそこに転がり込むだろう。いい気味である。
「引き続きサードの行方を追え。現状は初号機の専属パイロットはレイをベーシックに再起動実験を急がせろ。 ──あと、例の件も大至急進めておけ。最優先だ」
ゲンドウが矢継ぎ早に指示を出す。
ちなみに例の件とは、100兆円を盗んだ犯人の捜索と資金の回収のことである。
「レイを初号機にですか?まだ退院しておりませんが?」
「構わん。報告では傷もだいぶ回復している。やりたまえ」
ゲンドウポーズのまま、男は命令した。
「わ、わかりました」
リツコは目の前の男の剣幕に、慌てて了承した。
「(碇、サードは諦めるのか?)」
冬月が心配顔で耳打ちする。
「(次の使徒が現れるまでは、まだいくらか時間がある。問題ない)」
どうやらこの男、使徒出現スケジュールを把握しているようだ。
「(ダッシュはどうするのだ?)」
「(…奴はレイの予備とする。どこの馬の骨ともわからん奴を、そう簡単に大事な初号機に乗せるわけにはいかん)」





〜第三新東京市、郊外〜

時刻はもう宵の口。周りはすでに薄暗い。
ここは、第三新東京市の郊外、小高い高台にある洋風の邸宅の前。シンジたちはこの場所にいた。
後ろで小太りな男が揉み手でニコニコしながら立っている。どうやら不動産屋の男のようだ。
この場所には、この男の引率でやって来たらしい。
その男は、今どき珍しい上客といった熱い視線をシンジに送っていた。
初めは子供の戯言と鼻先で笑っていた男だったが、少年の呈示した預金通帳の額面を見るや態度が豹変していた。


「なかなかいい感じの邸宅だね。気に入ったよ」
豪邸でこそないが、センスのいい一軒家である。場所も申し分ない。
「ここに決めるか」
シンジは即決した。
資産100兆円の大富豪から見ればかなり質素かもしれないが、シンジにそういった成金趣味はない。
純粋にこの邸宅を気に入ったから決めたのである。
「えーと、ここの物件だとこれくらいになりますが」
そういって男は手に持った電卓に数字を打ち込んで、恐縮しながらシンジに提示した。
1億円を超えていた。
だがシンジは気にしない。
次の瞬間、シンジは電卓にピポパと数字を入れなおしていた。
不動産屋は値切りかと思い、一瞬嫌な顔をしたが、その予想は外れた。
「!!!!」
そこに表示された金額は、倍額ともいえる2億円だったのだ。
「これだけ払いますから、家具調度類とかはサービスしてくださいね♪」
シンジはニコニコして言う。
不動産屋の男は小躍りして喜んだ。
「わ、わかりました!今日中に手配致します!いえいえ是非やらせてください!」
((今日中って、アンタ。もう夜だよ?))
シンジとシロは揃ってそう思ったが、その男のリップサービス(?)はなおも止まらない。
「家具調度類も、内装も、寝具も、調理器具もきっちり用意させて頂きます!」
「セキュリティー面も一から洗いなおします!」
「ライフラインの開設もキッチリやっておきます!」
「あと、登記等の一切の手続きも私どもでやらせて頂きます!ハイ」
目の前に人参をぶら下げられた男は一方的に捲くし立てた。


シンジは不動産屋の店舗に戻ると、契約・支払いを済ませ、邸宅の鍵を受け取った。
「じゃあ、次は生活用品とか買い揃えに行こうか。まだ駅前のデパートは開いていると思うし、食料とか着替えとかもないしね」
シンジがシロに提案した。
「あと、猫砂とかも必要だね」
ぼそっとシンジが呟く。
『い、いらないってばー!』
シロは力一杯拒否した。


シンジ(+シロ)は駅前のデパートを目指して、駅前通りを歩いていた。
もう数分で着く距離だ。周りの雑踏を見ると、土曜の夜ということでカップルや家族連れも結構多い。街のネオンも華やかだ。
シロが口を開く。
『そういえばさ、今朝、鉄砲で撃たれてたけど、大丈夫だったの?』
シロはシンジの身体を心配していた。
今朝の黒服惨殺イベントのことを気にしているようだ。
あのときシンジは、黒服たち(+馬鹿女)から銃撃を受けていたのだ。
「うん、平気」
シンジは平然と答えた。
『そう、良かった。 …でも、結構パンパン撃たれていたけどよく当たらなかったね。君って意外と運動神経がいいんだ』
シロは安堵の息を吐きつつも、しきりに感心しているようだ。
だが、シンジは言った。
「当たったよ」
『…へ?』
「弾は当たったよ。30発くらい。でも、あんなオモチャじゃ僕は傷つかないから」
『…さいですか』
シロは今更ながらに少年の非常識さを思い知っていた。





〜ネルフ本部・第七ケイジ〜

「…なんだよコレ?これが初号機だっていうの?」
銀髪の少年、サード´(ダッシュ)が驚愕の声を上げていた。幸い誰にも聞かれていない。
そこにはケイジで冷却液に浸かった初号機の姿があった。
拘束具のサイズが合わないのか、極太のワイヤーでグルグル巻きに固定されている。
自分の知っている初号機の姿とは、あまりにもかけ離れていた。ほとんど別人といっていい。
「ま、まあいいや。修正可能範囲だ。僕にはアダムの力があるんだ。気にすることはないさ」
少年は自分自身にそう言い聞かせた。


そのとき、一人の少女がケイジに現れた。
初号機の再起動実験のために出頭命令が下されたファースト・チルドレン、綾波レイである。
まだギプスや包帯が取れておらず、見ていて痛々しい。
レイはケイジに足を踏み入れると、先客がいることに気づいた。
見知らぬ少年が初号機の正面に佇んでいたのだ。
「──貴方、誰?」
少女は不躾に訊ねていた。そして両の眼を見開いた。
(この人、あの人に似ている。でも、私と同じような気もする)
レイは怪訝そうな顔をするが、相手の少年は気にせずに挨拶を返した。
「(やあ綾波、いやリリス、やっと会えたね)僕の名前は碇シンジ。よろしくね、綾波」
「──イカリシンジ?」
「フフフ」
「…違う。それは貴方の名前ではない」
抑揚のないレイの声。
「なるほど、あのニセモノのことを言っているんだね。いいかい?僕が本物の碇シンジなんだ。これは本当だ。だからもうあんなヤツに関わっちゃいけないよ。あいつは綾波やネルフの皆を騙すつもりなんだよ」
少年の鋭い目線が少女の瞳を射抜く。
「……」
(誰?)
(この人は誰?)
(なぜ私の名前を知っているの?)
(それになぜあの人のことを悪く言うの?)
(…この人、何か嫌な感じがする…わからない)
レイはじっと少年の瞳を見つめていた。
「じゃあ綾波、起動実験のほうがんばってね」
そう言うと、少年はくるりと踵を返し発令所に向かった。
勝手知ったるネルフ本部である。
ポツンと佇む少女だけがその場に残された。





数刻後、レイによる初号機再起動実験が開始されていた。
穴倉の中では時間感覚が麻痺しているが、もう深夜である。
すでにレイはエントリープラグに搭乗していた。
「第一次接続、エントリースタート」
オペレーターの声の後、プラグ内にLCLが注水される。
「LCL電化」
「A−10神経接続開始」
だが、このとき異変が起こった。
信号拒絶の異常発光に包まれるプラグ内部。
そして突然の嘔吐感に口許を押さえ蹲るレイ。
「──そう、だめなのね…もう」
暫くして吐き気は治まったが、口許を押さえたままレイが小さく呟いた。
(──もう私では初号機は動かない)
レイは初号機が自分を拒絶したことを明確に悟っていた。
「パルス逆流!」
「初号機、神経接続を拒絶しています」
「まさか、そんな!?」
呆然とするリツコ。昨日は動いたのだ。原因がわからない。
「ダメです。エヴァ初号機、起動しません」
マヤの叫びが発令所に響く。


「碇?」
冬月が隣の男の表情を窺う。
「(なぜだ、ユイ──私を拒絶するつもりか?)」
ゲンドウは発令塔ではなく、ケイジ上部のブースの中から状況を眺めていた。幾ばくかの焦りの表情が見て取れる。
だが、自分が愛してやまない妻がすでに初号機の中には存在しないことを、この男は知る由もなかった。
「どうするのだ、碇?」
「…起動中止。レイは当初の予定通り、零号機の再起動実験に回す」
「初号機はどうするのだ?」
「やむを得ん…あの子供、サード・ダッシュで試す」
ゲンドウは苦り切った声で答えた。


第一発令所の後方。その少年は壁にもたれ掛かりながら主モニターに映し出される初号機再起動実験の様子をリアルタイムで眺めていた。
「綾波が初号機にシンクロしない?この時期ではまだ無理なのか?」
すでに昨日綾波が初号機を起動させた実績があることを知らないダッシュが驚き、疑問を口にした。だがその声を聞く者は幸いにしていなかった。
「…まあいいや。綾波には悪いけど、これで僕が初号機に乗れる口実ができた。今の僕なら初号機と直接シンクロが可能だ。これで母さんをサルベージできる。何も問題ないさ」
ダッシュは前途洋々たる笑みを浮かべていた。





〜第三新東京市・碇シンジの邸宅〜

時刻はもう深夜である。
今日一日いろんなことがあった。さすがにシロは身も心も疲れ果てていた。
無理もない。その身体はまだ幼い子猫なのだ。一日の大半は寝ていないといけない身体である。
シロは気力だけでフラフラと睡魔と戦っていたのだ。
シンジたちが新居に帰宅したとき、すでに家具・調度類がすべて運び込まれていた。
内装も掃除もキチンとされている。ライフラインも生きている。おかしな設備(盗聴・盗撮)の気配もない。
((ああ、お金の力ってすごい))
二人はそんなことを考えていた。


シンジは館の地下室(ワインセラー)に下りると、早速何やら怪しげなことを始めていた。
デパートの帰りに怪しげな店に立ち寄り、買い揃えた怪しげなグッズの数々。
魔方陣だか五芒星だかの模様がプリントされた派手なカーペット、赤いロウソクと燭台、黒いローブに黒いトンガリ帽子。そしてひん曲がった杖──怪しげなファッションに身を包んだシンジがそこにいた。
左手には魔道書の代わりか、総革装の分厚い「広○苑」が収まっている。
あからさまに胡散臭い。どうしようもなくインチキ臭い。誰か助けてくれ。シロは心の中で叫んでいた。
だが、シンジはノリノリだ。


「ラミパス ラミパス ルルルルル♪」
いきなりシンジが意味不明な奇声を上げた。左手で「広辞○」を開き持ち、右手の杖は高く掲げている。
『……』
いきなりのことで面食らっているシロ。呆然としている。
しかもシンジの声色は知らない女の子の声なのだ。
「む、ちょっと古かったかな?」
シンジが無反応のシロを一瞥すると、バツが悪そうに腕を組んで目を閉じて考え始める。
「じゃあ、ピリカピリララ ポポリナペペルト♪」
また別の女の子の声色で変な呪文を唱え始めるシンジ。
『…あの、訳わかんないんだけども』
どうやらシロはこの手のネタには縁がないようだった。どうもついて行けてない。
だがシンジはなおも懲りない。うーむと考え込んでいると次なる妙案が浮かんだのか、頭上に豆電球がポンと輝いた。気のせいではなく本当に。どういう仕掛けだこりゃ?
「コホン…。闇の力を秘めし鍵よ。 真の姿を我の前に示せ。契約のもと──」
シンジが杖を振り上げ唱える。当然また別な女の子の声色だ。しかし、
『いや、だからわかんないって!何だよソレ?』
シロの冷めた言葉が怪しげな呪文をピシャリと遮った。
「はあ?何言ってんのかなー。この手のことには魔法の呪文を唱えるのがお約束ってもんでしょーが」
半ば逆ギレ気味に、シンジがシロに食って掛かる。
『この手のことって、…一体全体何をする気なのさ?』
「ありゃ? …言ってなかったっけ? ──魔方陣の上を見てみなよ」
シンジはクイと目配せした。
彼の視線の先には、魔方陣(らしきカーペット)の上に転がる小さな紅い珠があった。少し発光しているようだ。
『何それ?』
てっきりパーティーグッズの一つだと思っていたシロが何気に訊ねる。
だが、少年の口から語られたのはとんでもない言葉だった。
「初号機の中に寄生していた碇ユイの【だよ」
さらりと言うシンジ。
『か、母さんの!?』
「今から、復活させる」
『!!!』
シロは衝撃を受けた。
だが次の瞬間、歓喜の感情が溢れ出していた。
思っても見なかった慶事。僥倖。シロの心は喜びで一杯だった。
正確にはこの少年のであって、自分の母親ではない。それはわかっている。それでもシロは嬉しかった。
だがその喜びも雲散してしまうような言葉が少年の口から続いた。
「あの男を嬲り殺すところを、この女にも見せたいからね♪」
『!!!!』
そうだった。この少年は父さんを憎んでるんだった。シロは愕然とした。
(でもそれを母さんに見せるって一体…それに「この女」って呼び方…まさか母さんを憎んでいる!?)
シロの洞察力もなかなか研きが掛かってきたようだ。


『あ、でも母さんがいないと、初号機が動かないんじゃないの?』
「うん。もう初号機は僕以外の何人たりとも動かすことは出来ないよ」
シンジはあっさりと認めた。
『じゃあ、あの少年、ダッシュも?あと綾波はどうなのさ?』
心配顔でシロが問い掛ける。
「フフ、アダムごときが戦闘力500倍以上のルシファーを抑えきれるとは到底思えないがねえ。 ──まあ、綾波が乗ったときは例外、絶対に危害を加えるなって、初号機には強く念を押してあるから大丈夫だと思うよ」
(フフフ、後でお仕置きだよ、初号機♪)
どうやらシンジもレイの初号機再起動実験の様子をモニターしていたようだ。そのときのレイの苦悶の表情を見逃さなかったらしい。
『えーと、それでダッシュのほうは? …たぶん彼、乗る気だと思うよ』
シロの疑問に、シンジはフムと考える。
「…さあ?そういえば考えもしなかったな。もしかして喰い殺される、かな?」
あまり興味なさそうにシンジは答えた。





シロと違って、無からの人体(?)錬成。
シロにはそれがどんなものか想像できなかった。たぶん大変なことなんだろうとは、なんとなく予想していた。
魔方陣の上に転がる碇ユイの【】である紅い小さな珠。それを見つめる一人と一匹。
「碇ユイのの部分は綾波や綾波のダミースペアたちに受け継がれているからね。サルベージできたのはこのの珠のみだったんだよ」
シンジが経緯を説明する。
『そもそも、(コンパク)って何なの?』
シロが積年(?)の疑問をぶつけた。
「精神を主宰する陽なる霊体、それが(タマシイ)」
「肉体を主宰する陰なる霊体、それが(タマシイ)」
シンジは簡潔に解説した。
(うーん、わかったような、わからないような)
シロは質問を変えた。
『じゃあ綾波のって?』
シロの脳裏には、あのときリツコに見せられた水槽に浮かぶ綾波たちの姿が思い浮かんでいた。
なかなか核心をついた質問にシンジはニヤリとした。
「綾波レイのリリスだよ。そしてリリス碇ユイのハイブリッド」
シンジはそのまま続ける。
「綾波のダミースペアたちは、リリスと碇ユイのハイブリッドたるだけなんだ。綾波の、リリスのと呼べるものは彼女たちの中には生まれることはなかった。 ──でもね、それでも彼女たちはちゃんと生きているんだよ。希薄だけどそれぞれがパーソナリティー"人格"を持っているんだ」
シンジのこの発言は、嫉妬に狂って彼女たちを殺した年増女を暗に非難していた。もっともシロはそれに気づいていなかったが。


魔方陣の上には、いつの間にか艶のある真っ黒な毛並みの美しい子猫が安らかな寝息を立てていた。
実は、興醒めしたシンジが呪文なしでいきなり人体(?)錬成したのだ。
僅か一秒ほどの時間であった。まさにあっという間である。
シロはあまりの早業に開いた口が塞がらないでいた。
ただ、なぜ母親が、碇ユイが猫の姿に転生したのかまでは、シロにはわからなかった。
「ふーん。この女、猫になると黒猫になるのか。これって【】の色なのかな?」
シンジが目の前の黒い子猫をマジマジと眺めて一人呟く。
「名前だけど、…さすがに"碇ユイ"のままじゃ色々とマズイよな」
ウーンと腕を組んで考えるシンジ。
そしてまたあの怪しい豆電球が彼の頭上に現れた!
だからどういう理屈なんだー。シロは心内で絶叫していた。
「クロ!」
ポンと手を打ってシンジがお披露目した。
『クロ?』
(また安直な…)
シロは呆れていた。
「そう。シロに合わせて『クロ』──うん、そうしよう♪」
またもや勝手に名前が決められてしまっていた。シロとクロでシロクロ決められてしまった…うまい!山田君座布団一枚!
(そういや白と黒の猫って、たしか赤木博士の実家の飼い猫もそうだったな。両方とも結構な年寄りだったはずだけど)





(それにしても、シロとクロ、か──)
シンジには表のおちゃらけた表情とは別に、格別の思いがあるようだ。
のイメージとしての力なき光の象徴。それが「シロ」
のイメージとしての罪深き闇の象徴。それが「クロ」
(シロとクロ、君たちはこの世界でどんな選択を見せてくれるんだろうね?)
シンジは心内で一人呟いていた。





「ん? …あれ? …あれれ? …ぬあ!!」
柄にもなくシリアスモードに突入していたシンジが、突然奇声を上げた。
その視線は目の前で眠る黒猫に向けられたままだ。
「あ〜〜〜しまったあああ〜〜。この僕としたことがなんて失態を〜〜!」
シンジが頭を押さえて嘆き叫ぶ。何事だろうか。
『どうったの?』
「だってこの子、シロと同じメス猫だよー!」
シンジはあいた〜とばかりに、片手で顔を覆って天を仰ぎ見ている。
『?』
シロはわけがわからない。小首を傾げてキョトンとしている。
(メス猫?それがどうかしたっていうの?母さんは元から女だしそれで正解だと思うけど)
だが次の瞬間、シンジはとんでもない悪巧みを白状した。
「あーくっそー、せっかくシロと掛け合わせて、子供を生ませようと思ったのに〜〜〜」
ガクッ──
シロは盛大に脱力してしまった。見事にコケた。
ちなみにシロとクロは血は繋がっていないので近親交配ではない。
ただ魂的には近親相姦なのだが。
「…フッ、やり直すか(ニヤリ)」
シンジの目が怪しく輝く。
『せんでいい!!』
シロは思わずツッコミを入れていた。





翌日の早朝。清々しい日曜の朝である。
カーテンの隙間から射す朝の日差しが心地よい。
昨夜、二人(?)はあれから暫くして床に着いていた。
クロが目を覚ますまで暫く待っていたのだが、全然起きる気配がないので二人は飽きて寝てしまったのだ。
「じゃ、留守番頼むよ」
シンジは区役所とかでいろいろな手続きをしてくるとか言って、早めに出掛けて行った。
なんでも、わざと人目(ネルフ)につかせるためにそうするのだそうだ。シロにはよくわからない話だった。
『まあいいや。トイレに行こう。起きてからずっと我慢してたんだ』
シロは目の前のドアにジャンプすると、器用にドアノブを回した。そこには[人間用]のトイレがあった。
便座を下ろして、器用に踏ん張るシロ。四肢がぷるぷる震えている。やはりサイズ的に無理があるような気もするが、シロは頑張った。ヒトとしての尊厳がなせる業か。
『ふう〜』
シロはなんとか用を足し、一息つく。
(こりゃ、落ちたら危ないな。もっと小さめの便座を用意してもらったほうがいいかもね)
そんなことを考えていたシロだったが、悲しいかな、そのとき無意識的に前足が砂を掻く動作をしていたのには気づいていなかった。
ジャーーーー
器用に水を流し、手を洗うとトイレを後にした。
『しかし、おしっこするだけでもトイレットペーパーが必要だなんて、この身体も不経済だな。さすがになめとる訳にはいかないしー』
シロの感覚はやはりどこかズレていた。





〜ネルフ本部・第七ケイジ〜

その日の早朝、サード・チルドレン・ダッシュによる初号機の起動実験が行われていた。
リツコを初めとする技術開発部の面々は徹夜で準備を進めていたらしい。ご苦労なことだ。
すでに銀髪の少年、ダッシュは初号機のエントリープラグの中にいた。
簡単な操作方法についてはリツコの口からレクチャーを受けていた。
ダッシュは懐かしい青いプラグスーツを着用している。
もともとは黒髪のシンジのために用意されたものであったのだが、体躯も同じであったため、急遽ダッシュ用に流用されていた。
ダッシュはコックピット・シートに座り、目を閉じて静かに瞑想している。落ち着いていた。実力に裏付けされた絶対の自信があったからだ。
「なかなか度胸がありますよね、あの子」
オペレーター席に座るマヤが感心したように言う。
背後のリツコに言ったつもりだったのだが、無粋にも左隣のメガネ君がそれに答えた。
「そうだね。サードといい彼といい、とても中学生には見えないよ。こりゃ我々大人もうかうかしてられないね」
マヤは何故かむーとふくれていた。
ちなみに葛城ミサトはこの場にはいなかった。
本来ならば立ち会う義務があるのだが、早朝という時間帯に加えて華(はな)の日曜日、彼女にそんな甲斐性があるとは思えなかった。どうせ今頃は高いびきを掻いて熟睡しているのだろう。
発令所内にも、不思議と彼女がいなくて当たり前の雰囲気が漂っていた。そのほうが仕事が捗るのかもしれなかった。


「ダッシュ君、準備はいいかしら?」
モニター越しにリツコが問い掛ける。
《はい。大丈夫です》
ダッシュは小さく微笑み返した。
(ずいぶん落ち着いているわね、彼)
リツコは気持ちを切り替えて指示を出す。
「マヤ、起動シーケンス始めるわよ」
「はい先輩♪」
マヤは徹夜で疲れ切っていたが、リツコの呼び掛けに俄然ヤル気が出ていた。
「主電源全回路接続」
「起動用システム作動開始」
「稼動電圧臨界点突破」
「LCL注水」
エントリープラグ内をLCLがせり上がって満たす。だがダッシュは驚かない。
ダッシュは当たり前のようにLCLを肺に吸い込んでいた。
その様子をリツコはじっと見つめていた。
(LCLにも驚かないか。ますます興味深いわね)
リツコの性(さが)だろうか、心の奥で彼女の探究心(猜疑心では?)が疼いていた。
「A−10神経接続異常なし」
「思考形態は日本語を基礎原則としてフィックス」
「初期コンタクトすべて問題なし」
「双方向回線開きます」
「シンクロ率…えっ?」
そこで突然、マヤが言い澱んだ。
「どうしたの、マヤ?」
「あっ…はい、あの…」
「?」
「…シンクロ率ゼロパーセント。ハーモニクス測定不能。 …初号機、起動しません」
マヤが沈痛な面持ちで事務的に報告した。
「そんな馬鹿な…ありえないわ!」
リツコは思わず頭を抱えていた。
ありえないと言ったのは、ダッシュと呼ばれる少年が初号機を起動できなかったことにではない。シンクロ率がゼロパーセントという事実に対してだ。
(A−10神経接続に異常がないのにゼロなんて数字、理論上ありえないわ。一体どうなっているのよ?)
発令所内をずしりと重い空気が支配していた。


さて、そのときエントリープラグ内のダッシュはというと、結構大変なことになっていた。
「う、うわああああああ!? ──ぎぃ〜ゃあああああああ!!」
突然頭を抱え悲鳴を上げた銀髪の少年。
「(ハアハアハア…な、なぜだあああ!!なぜ初号機は僕を拒絶するんだ!?僕はアダムなんだぞ。お前の主なんだぞ!!)」
いやそれは違う。黒髪のシンジが聞いていれば即座にそう答えたであろう。
もしダッシュがこの世界のアダム(の後継者)というのなら、アダム由来の使徒もエヴァも彼に敵対などしないだろう。
もう一つ。そもそも初号機はアダム由来ではない。リリスのデッドコピー、リリス由来なのだ。当然、初号機の主がアダムということはないのだ。


当初、初号機はダッシュをシンジと誤認して、嬉々として実シンクロを上げていった。もちろん偽装されているので、MAGIが表示するシンクロ率はゼロのままである。
片やダッシュのほうも、初号機の素体と直接シンクロを試み始めていた。
だが、どうも様子が変だ。初号機はそこでやっと人違いに気づく。
怒った初号機は一気にシンクロ率を400パーセント近くまで跳ね上げて異物を取り込みにかかった。先ほどのダッシュの悲鳴はこれが原因である。
初号機は思い返す。 ──確か、シンジには綾波という女の子にだけは絶対に危害は加えるなと釘を刺されているが、それ以外の人間に危害を加えるなとは命令されていないのだ。
うん、問題ない。叱られることはない。初号機はそう帰結した。
余談ではあるが、昨夜、綾波という少女が初号機に搭乗したとき、彼女が気分を害した(吐き気を催した)とき、当の初号機は焦った。焦りまくった。もしかしたらシンジに怒られるかもと。
──実際、後で念話を通してネチネチと小一時間ほど説教を受けたのだが。
実際、(シンジに説教食らって)虫の居所が悪かった初号機はこのダッシュが鬱陶しかった。そしてアダム程度といえども腹の足しくらいにはなるかと思って捕食を開始した。開始したのだが──
不思議と途中で止めていた。なんとなく気持ち悪かったから。その【】の色が。シンジと似ているようで全然違っていたその輝きに。
反対にダッシュは、アダムの力、聖痕(スティグマ)の力によって、ギリギリのところで取り込まれるのを防いだのだと考えていた。
「クソ、クソ、クソぉーーー!!」
ダッシュの激昂した叫びがエントリープラグ内に木霊する。
(こんなことぐらいじゃ僕は諦めない!!諦めてたまるか!!僕にはこの世界を救う使命があるんだ!!僕じゃないと出来ないんだ!!それにあんな紅い世界なんてもうたくさんだ!!)
あー、あなたはいったいどこの葛城ミサトですか?(汗)


「シンクロしないか。 …やはりこちらがニセモノなのか」
半ば予想していたとはいえ冬月は落胆したように呟いた。
ゲンドウはというと、発令所の司令席から起動実験の進捗と結果を無言で見つめていた。
サングラス越しのその表情は見えない。だが良からぬことを考えているようだ。
この男の頭の中では、すでに次善の策が展開されているらしかった。
このとき、司令席のデスクの上には先刻もたらされたばかりのダッシュという少年のDNA調査報告書が無造作に置かれていた。
ゲンドウは不気味に口許を歪ませていた。





〜ネルフ本部・付属中央病院、第一外科病棟〜

シンジは区役所での諸手続きを早々に済ませていた。第壱中学校への転入届も無事提出し、転入は一週間後の予定となっていた。
そして今、彼は綾波レイの病室の前にいた。ネルフ職員の誰にも気づかれることなくだ。
本来は病室に入室するためには壁面のスリットリーダーにIDカードを読ませないとドアノブは回らない仕組みになっている。だが、シンジにはそんな制約など関係なかった。
もちろんMAGIの監視は一切無効にしてある。


コンコン──
誰かがドアをノックしている。
病室のベッドで上半身だけ起こした少女が頭を擡げると、ドアのほうを振り向いた。
この少女、綾波レイは昨夜の初号機再起動実験の後、意気消沈したままこの病室に戻って来ていた。
「──はい」
今回はキチンと答えた。ややか細い声ではあったが。
ガチャリとドアノブが回り、見知った少年が入室する。
暫く塞ぎ込んでいた少女であったが、その少年の顔を見るなり、表情に変化が見て取れた。
「おはよう、綾波」
「──お、おはよう」
少女は破顔して微笑んだ。少し頬も紅い。
気分も少し晴れたようである。
「またお見舞いに来たよ。気分はどうだい?」
「──問題ないわ」
「そいつは結構なことだね」
そう言って、シンジは備え付けのパイプ椅子に腰を下ろした。
実際、彼女の怪我はほとんど問題ないレベルにまで回復していた。すでに痛みもそんなには感じてはいないのだろう。
もはや退院は時間の問題である。早ければ今日退院ということも充分あり得るのだ。
もちろんその裏に、シンジの心配りがあったことは言うまでもない。
「──貴方、行方不明だと聞いたわ」
昨夜、レイはリツコからそう聞いて心を痛めていた。もう会えないかも知れないと…。
「そう?何かの手違いがあったのかな」
シンジはそんな彼女の内面を察することもなく、気軽に返事する。
ただ、少しの嘘に心がチクリとした。
「──それに、貴方のことを偽者って呼ぶ人も現れたわ」
「ああ。銀髪の碇シンジ、ダッシュのことだね」
「──碇シンジ? あなたも碇シンジ、向こうも碇シンジ。…どちらが本物なの?」
レイは目の前の少年が偽者とは露ほども思っていなかったが、一応訊いてみた。
「…両方本物だよ。ただ彼のほうはこの世界と相性が悪いみたいだけどね」
シンジはそれ以上の言葉を濁した。
また少し良心が痛んだ。この少女に対し、少しでも嘘をつくことが辛いようだ。
「……」
レイは暫く考え込んだ。
「──あの人、あまり信用できないわ」
俯いて冷ややかに呟くレイ。
「…それは、綾波自身が判断することだよ。僕には何とも言えない」
昨日、シロに向かって啖呵を切ったのとは打って変わって、神妙な対応である。
二枚舌というわけではなく、彼女とは真摯に向き合いたい彼の本当の姿なのかもしれない。
ただ、シンジとしては正直複雑な気持ちだった。
あの銀髪の少年も紛れもなく"碇シンジ"その人なのだ。
自分が目の前の少女に「貴方は信用できない」と言われているような気がしてならなかった。
もちろん頭では別人とはわかっているが、彼女の前だとなかなか簡単には割り切れなかった。


「果物食べる?今日はメロン買って来たんだ」
シンジは話題を変えた。
(コクン)
それにレイは無言で頷く。
シンジはカゴからマスクメロンと果物ナイフを取り出した。そして八等分に切り分けると、種をキレイにとってペーパー皿に乗せる。
「綾波はメロン好き?」
シンジは軽い気持ちで訊ねるが、当の少女は小首を傾げた。
「──わからない。食べたことないから」
「じゃあ今日が記念すべき第一食だね。奮発して買ってきて良かったよ。糖度20度の高級メロンなんだってコレ」
実際、このメロンは一個2万円もしたのだ。しかも赤肉でこの糖度のものは滅多にない。ほどよく冷えているし、美味しくないわけがないのだ。
シンジは切り分けたメロンと樹脂製フォークを乗せた皿をそっとレイに手渡した。
「大丈夫?また食べさせてあげようか?」
少女の右腕は、まだギプスと包帯で固定されていた。
「──平気。左手が使えるわ」
一応、フォークで食べやすいようにナイフで切れ目を入れておいたので、問題はないはずだ。
少女が一口頬張った。
(モグモグ)
「……」
(モグモグ)
「…!!」
「どうかな?」
シンジが感想を訊く。
「…すごく甘い。それにとても美味しい」
少女は感動したかのように、次々と果肉を口に運び、咀嚼していた。
(美味しい。こんな食べ物があったなんて)
(ただの栄養摂取のはずなのに、からだが欲しがっているの?)
「フフ、まだ一杯あるから、ゆっくり食べていいよ」
シンジは穏やかに微笑んでいた。


「そう言えば、ダッシュは初号機の起動実験に失敗したみたいだね」
シンジが話題を変える。
この情報は入手したばかりの最新ニュースだ。当然、レイは知らない。
だが、この話をしたことが迂闊だったと、シンジは直ぐに後悔することになる。
「……」
少女は静かにフォークを置くと、口を開いた。
「──私ではもう初号機は動かないわ」
悲しそうに寂しそうに少女は答える。
そんな彼女の表情を見てシンジは酷く自責の念に駆られていた。
彼女の絆を奪ってしまった。シンジはそう感じ、身を切られる思いがしていた。
(ゴメン、綾波)
シンジは心の中で深くひたすらに詫びていた。
(綾波が初号機に乗ると、後々不幸な目に遭うんだよ。綾波もダミースペアたちも…)
シンジは俯き、膝の上で両の拳をギュッと握り締めた。
「──私にはもう何もないもの」
「っ!」
少女のその言葉を聞いた瞬間、シンジは矢も盾もたまらなくなって目の前の少女を抱きしめていた。
「!?」
突然抱きしめられたほうの少女は驚いて身を硬くする。
「そんな、悲しいことを言わないでよ」
シンジが耳元で囁いた。悲痛な心の叫びである。少し籠った涙声のようだ。
「綾波の周りにはたくさんの絆があるんだ。綾波は決して一人じゃないんだよ。 …それに、綾波が幸せになるために、幸せに生きていけるようにするために、この僕はこの世界にいるんだから」
「……」
「僕が守るから。綾波を傷つけるすべてのものから…」
少年は思いの丈を吐き出していた。
少女は黙って耳を傾けていた。
そしていつしかその両腕を少年の背中にそっと回していた。
ギュッと抱き合う二人の間に言葉はなく、静寂の時間だけが過ぎて行った。
(…綾波って、やわらかくて、なんかいい匂いがする)
シンジは少し悶々としていた。


「…ゴメン、綾波。その…いきなり抱きしめちゃったりして」
シンジは真っ赤になって謝罪する。無意識とはいえ自分がとった衝動的な行動に驚き、恥じ入っているようだ。
「──ううん、構わないわ」
はにかむレイ。
(──それに、温かくて、なんだかとても気持ちがよかった)
「……」
「……」
二人の間に暫くの沈黙が続いた。
「…じゃあ、そろそろお暇するよ、綾波。また来るからさ」
少し経ってシンジが話を切り出した。まだちょっと照れているようだ。
「──ええ。待っているわ」
後ろ髪を引かれる思いがあったが、ほんのりと頬を染めながらレイは答えた。





〜第三新東京市・碇シンジの邸宅〜

(ここは?)
黒猫が目覚める。
(私は一体?あのときたしかシンジに会ったような気が…)
うっ、ちょっと頭が痛い。
それになんか周りが明るい。それにポカポカする。まるで暖かな陽射しを浴びているように。
(なぜ?ここはエヴァの中なのに)
見ると、自分は白いシーツの上に寝ていた。柔らかい。そしてお日さまの匂い。こんな感触はいつ以来だろうか。気分がホンワカとしてくる。
そんなことを考えていると──
『あ、気がついた?』
突然、横から声がした。
『!!』
驚いて振り向くと、──そこには白猫がいた。
どうやら毛繕いをしていたようで大股開きの変なポーズだ。
『おはよう。どう、調子は?』
白猫が挨拶した。流暢な日本語で。
『!!(パクパクパク)』
黒猫は目を見開き、口をパクパクさせている。
『ん?どうったの?』
白猫は少し心配になって相手の顔を覗き込む。
『ネネネ』
黒猫がようやく口を開いた。しかし何を言っているのか意味不明だ。
『ネネネ?』
白猫はオウム返しで訊き返す。
(何かの名前かな?)
『ネネネネネネ、ネコが喋ってるう〜!?』
黒猫の素っ頓狂な叫びが寝室に木霊した。
『…いや、あのね(汗)』



To be continued...


(あとがき)

隊長、大変であります!このままじゃLRSに向かってまっしぐらであります!
…はあ、やっと第5話です。シャムシェルはまだかーと作者も少々倦怠気味です。
やはり使徒戦がないとつまらないですね。だってミサトをいびれないもの。我慢の回でした。
さて、最後のキーパーソンが登場しました。クロこと、碇ユイです。バレバレだったかも。
なぜここでユイを再登場させたかというと、本当の役割(核心に触れるので秘密)は別に考えているんですが、
ゲンドウを真に苦しめるにはユイの存在そのものが欠かせないと思ったからです。
今後は、この四人(シンジ、ダッシュ、シロ、クロ)を中心に話が進みます。
あと、ダッシュ君の名前ですが悩みました。
いろいろ候補はあったんですが、結局は名前自体は変えずに呼称だけを変えました。
まだまだ先は長いです。次話では第壱中学校の話が書ければいいなと思っていますが…どうなることやら。
しかし、相変わらず文才がない。少し凹んでいる作者です。
次回もサービスサービスぅ〜♪
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