第七話 盲信
presented by ながちゃん
消毒液の臭いが鼻をつく。頭もズキズキする。
ゆっくりと薄目を開けると、そこには白い天井があった。
「…ちょっち、知らない天井だわ」
〜第三新東京市、繁華街〜
《いらっしゃいませ〜 いらっしゃいませ〜 本日花の日曜日、出血大サービスデーでございます〜♪ おおーっとぉー、512番台スタート致しましたぁ〜♪ 本日もジャンジャンバリバリ、ジャンジャンバリバリ──》
軽快な軍艦マーチのメロディーの中、男の低音のアナウンスが流れている。
芋を洗うような騒然としたその店内のある一角に、人目を引く容貌の一人の客がいた。
ブラウンのポリス(サングラス)、赤の半袖Tシャツ、紺のハーフパンツ、黒のサンダル履きの、しかしどう見ても中学生風の黒髪の少年であった。
ちなみに少年が着ているTシャツの背中の部分には、"最低"と白抜きの大きなロゴがプリントされ、その意味でもかなり周囲からの注目を集めており、目立っていた。
「ワン、ツー、スリー、ポチッとな」
少年が徐に目に前の筺体のボタンを押した。
その瞬間、回転していたドラム(リール)が止まり、キレイに「777」の図柄が並ぶ。
ピロピロピロリーン♪
軽快な電子音が鳴り、筺体の上部ランプが赤くピカピカと点滅し始めた。
「ラッキー、これで18連チャンだねー♪」
どうやらこの少年、パチスロに興じていたらしい。
「お兄さーん、ドル箱持ってきて〜」
駆け寄ってきた若い店員に、少年はにこやかに声を掛けた。
よく見ると、少年の頭上の棚と足元には、コインが串刺し状態の容器が所狭しと何段も積まれていた。
「うほ、またリーチ目だよ♪」
執拗なまでの高速ビタ押し&リプレイはずし(オイ!)でビッグ・ボーナスを終えるや否や、少年が歓声を上げた。
だがそのとき、少年の背後で何者かが声を掛けてきた。
「あのう…碇、シンジ君ですよね?」
〜ネルフ本部・総司令官公務室、その二時間前〜
薄暗いこのフロアに、二人の男と二人の女がいた。ゲンドウと冬月、そしてリツコとミサトである。
相変わらず口許で手を組み、その表情を読むことが出来ないゲンドウ。司令席の椅子に深く座り、その鋭い眼光は前方を刺すように睨みつけていた。
そしてその男の隣に寄り添うように立つ冬月。何故か苦々しげな顔をしており、眉間に皺が見て取れる。同じく前方の一点を凝視していた。
リツコはというと、ゲンドウを挟んで冬月とはほぼ対極の、ただし少し距離を置いた壁際に直立していた。彼女もまた彼らと同じく前方の一点を見つめていた。
そして司令席から10メートルほど離れた位置に、直立不動の姿勢で固まっているミサトの姿があった。
三人からの禍々しい視線が自分一人に集中し、極度の緊張で全身が硬直しているようだ。
見ると、彼女の頭部にはグルグル巻きの包帯とネット帽が被せられ、着衣から露出している肌(首や手足)には多くの絆創膏と湿布が貼られていた。まさに満身創痍といった風貌である。
実はこの女、つい先刻まで意識不明でネルフの病院に入院していたのだが、目を覚ますや否や、黒服たちの手によってこの場所まで引き出されていた。
「どうして先走ったマネをしたのかね?」
長い静寂を破り、冬月が尋問の口火を切った。だいぶ語気が荒い。
「そうよミサ…葛城一尉。あれ程釘を刺しておいたというのに!」
横からリツコも糾弾の口を挟む。その表情は険しい。
冬月が言葉を続ける。
「しかも中学校の中で発砲とは…学校、PTA、市の教育委員会、そして文科省からと、次々と苦情がきとるよ。果ては警察当局からの容疑者引き渡し要求だ!」
冬月はバーンと机に両手を叩きつけた。その音にミサトはビクッと身を竦めた。
「しかも何の関係もない少年を撃つとは…今でも彼は意識不明の重体だそうだよ」
冬月は睨みつけるように言う。
「あ、あれは私が悪いんじゃなくて、サードのやつが弾をよけたから…」
ようやく口を開いたかと思ったら、この女、いきなり支離滅裂なことをほざいていた。
これにはさすがの三人も、目を見開いて驚愕する。
「君はサードが銃弾をよけたから、あの少年があんな目に遭ったとでも言うのかね!?」
冬月は思わず声を荒げていた。いくらなんでも信じられないという表情だ。
「は、はい、そうなんです!あのとき、あいつが弾をよけたばかりに、かわいそうにあの少年は…」
自信たっぷりに自己弁護するミサトであった。
この女、自分で言っている意味がわかっているのだろうか?いや、きっとわかっていないのだろう。
「「「……」」」
もはや三人はア然としていた。開いた口が塞がらなかった。
(これほどとはな…)
冬月は頭を抱えていた。
(馬鹿に付ける薬があれば良いのだが…)
「…昨日、君は何をしに、あの場所まで行ったのかね?」
冬月は一旦心を落ち着かせると、ミサトを見据えて諭すようにゆっくりと質問を始めた。
リツコとゲンドウは、冬月の意図を察して黙っている。
「は?そ、それはもちろん、サードを確保するためですが」
「では何故、君はサードに向かって発砲したのかね?」
「それは、だってあいつが私の命令を全然聞かないから…」
ミサトは必死に保身目的の言い訳を並べ立てる。だが徐々にその勢いは無くなってきていた。
「それでサードを撃ち殺そうとしたのかね?」
冬月の口調が途端にきつくなる。刺すような目線をミサトに向けている。
「へ?撃ち殺す?私はそんなつもりは…」
実はこの言葉は、この女にとっては真実であった。嘘はない。
いや、だからこそ余計にタチが悪いのだ。
「だが発砲した。サードを狙ってな」
冬月が冷たく事実を言い放つ。
「それはそうですが…」
「発砲イコール射殺とは考えなかったのかね?」
「……」
考えていなかったようだ。
どうやら頭に血がのぼると、この女は論理的な思考がまったく出来なくなるらしい。
冬月は質問を続ける。
「ちなみに、サードが銃弾をよけなければ、どうなっていたのかね?」
「はい、もちろん、被害に遭った少年は、弾に当たらなくて済んだハズです! ゆえに、すべてはサードの責任です!」
ミサトはこの部分だけは自信たっぷりに答えた。
まさに揺るぎない自信である。(その根拠が知りたいが…)
「では、その弾はどうなるのかね?」
冬月は巧みに誘導する…が、
「それは、あの少年には当たらず、ちゃんとサードに当たったに決まっています」
「…それは、問題はないかね?」
「ありません」
これ以上ないくらい、はっきり答えるミサト…。まだ、理解していないようである。
というか、自己完結している為に、考えていないだけだろう。
冬月は絶句している。
「ミサト…その場合、弾はどこに当たることになるのかしら?」
今度は、リツコが顔を引き攣らせながら、訊ねた。
「もちろん、最低でも、サードの背中に三発、後頭部に一発は確実だったわ♪」
嬉々として答えるミサト。 …実際に数発はシンジに命中していたのだからタチが悪い。
しかしこの女、まだ理解していなかった。
「た、確かなの?」
確認するように、と言うか、何かを訴えるようにリツコはもう一度訊き直す。
「なに?疑うってぇ〜のリツコ? 貴女、私の銃の腕くらい知ってるでしょう?」
不機嫌そうにミサトはそう言った。まるで理解していない。
リツコは知っているからこそ、訊いたのだが…。
「あ、あのね…」
まだ理解していない親友(?)にめまいを感じるリツコ…。
「そ、それで、肝心のサード・チルドレンはどうなるのかね?」
同じようにめまいを感じつつ、冬月は訊き返した。
「はい、我々が確保して終わりです」
キッパリとミサトは言い切った。
冬月もリツコも頭を押さえる。
「…し、死体を確保して、何をする気かね?」
冬月は搾り出すように、やっとの思いでその言葉を吐いた。
「はぁ? …何を仰っているんですか?」
ミサトは首を傾げる。まだわからないようだ。
「ミサト、貴女のと同型の銃弾を背中に三発、いえ、普通のでも良いわ、後頭部に一発でも銃弾を受けて、貴女は生きていられるの? …試してみる? 私ので悪いけど、すぐにやってあげても良いわよ?」
リツコはそう言うと、ミサトの後頭部に小口径の銃を押し付けた。
補足までに言っておくと、ミサトが所有していて、撃ちまくったあの銃は、一般の黒服達の使っているグロッグ17のような優しい(?)銃ではなく、特注のマグナム弾が装填された凶悪な代物であった。
それゆえ、たった一発の流れ弾でさえ、トウジの腹部に大穴を開け、瀕死の血まみれ状態にしたのである。
その銃に比べ、リツコの銃はかなり威力が落ちる、護身用に誂えた物であった。
とはいっても、こんな至近距離で、後頭部を撃たれたら避け様もなく、確実にあの世逝きである。
「な、何、言ってるのよ、そんなこと出来るハズがないでしょ!!死んじゃうわよっ!!」
当然の如く、ミサトは慌ててそう答えた。両腕はホールドアップの状態である。
「で、では、もう一度訊こう。君は何をしにあそこに居たのかね?」
冬月は再度、ミサトに訊ねた。
「それは…ですから、サードの確保です!」
まだ言い張るミサト。
「だから、何のために?」
「それはエヴァのパイロットを、確保するためによ!」
後頭部にまだ銃を押し付けているリツコに、ミサトはそう言った。
「そうだな、ではそのパイロットの後頭部を君の銃で撃ち抜いたら、どうなるかね? …君は生きていられないのだろう?」
ここで冬月は優しく(でも青筋をこめかみに浮かべて)そう語りかけた。
「え? …そ、それは…あれ…あ…(汗)」
この女、ようやく意味がわかったようである。
かなり知能が低いようだ。
チンパンジー以下かもしれない。
冬月は出来の悪い学生を相手にしたかように、ふうと息を吐いた。
「ふむ。どうやらわかってくれたようだな。 …どうも君の拳銃は引き金が軽すぎるようだ。今後は自重するようにな」
冬月は戒めの言葉を掛けたつもりだった。しかし、
(引き金が軽い?そうだったかしら? …今度、分解・再調整してみようかしら)
この女は、まったく見当違いな解釈をしていた。
ここで冬月が(ミサトにとって)非情な宣告をした。
「少年の治療・入院費、そして慰謝料はネルフで立て替えておく。この分は、君の今月の給与から分割で天引きしておくからな。ちなみに保険は効かない。そのつもりでいるように」
「え〜しょんなあ〜」
ミサトは思わず落胆の声を上げた。大の大人が聞いていて恥ずかしい。
(これじゃダッシュ君の初任給だけじゃ足が出ちゃうじゃない〜)
どうやらダッシュの給料はデフォルトで着服する気でいるらしい。
冬月は話を続ける。
「それと、君が無断で連れ出した保安諜報部のエージェントたちだがな、23人全員が再起不能だそうだ。もう一生満足に歩くことさえ出来ないらしいぞ」
冬月は責めるような目でミサトを睨んだ。
「へ?だってそれはサードがやったことで、私が悪いんじゃ──」
またまた自己弁護を始めるミサトであったが、冬月がそれを一蹴、雷を落とした。
「サードはそれが許される身なのだよっ!あらかじめ君にも説明してあっただろうがっ!」
サードが国連非加盟国の国籍と外交官特権を手にしていること、そのためネルフの特務権限や刑法などの国内法が及ばないこと、をである。
だがミサトという女、確かにその説明は聞いてはいたが、頭に残ってはいなかった。
そんなものは無視すればいいと、説明を受けた瞬間に頭の中から駆逐していたのだ。
冬月の剣幕に、さすがのミサトも、頭を垂れてシュンとなっていた。
(だが、たしかにサードの強さは異常だな。これは報告にはなかったことだ)
冬月はサードに対する疑念を一つ深めていた。
「葛城君。君のおかげで、我々の懐柔策が台無しだよ。まったく面倒を掛けさせおって」
冬月は頭を悩ませていた。
(この一件で、サードのネルフに対する心証は最悪のものとなっただろうな)
「大丈夫です。今度こそ私が責任もって連行してきます!」
今まで落ち込んでいたミサトが、ガバッと顔を上げるや嬉々として叫んだ。
だが、連行という言葉を使っている時点で、この女に反省の色はなかった。
なおもミサトは熱いパトスを目に前の男に送り続ける。
「今一度、私に汚名挽回のチャンスを下さい!今度こそは圧倒的物量をもってして、必ずやサードめを!」
汚名を挽回してどうするというのだ。それにこの女、この期に及んでも、まだ強引な手段を考えているらしかった。
「君では、まとまる話も拗れてしまうよ」
冬月は呆れたように溜め息を一つ吐く。
「で、でも!」
なおも引き下がらないミサト。だがそこに、
「いいかげんにしなさい、ミサト!」
リツコが堪りかねて怒鳴り声を上げていた。
「リ、リツコ?」
驚いたミサトがリツコのほうを振り向くと、彼女はプルプルと震えてそこに立っていた。
リツコはリツコなりに、(出来の悪い)親友の心配をしていたようだ。だからこそ真剣に怒っていたのだ。
「ミサト、いえ葛城一尉。あなたのせいでネルフがどれ程の被害を被っているのかよく考えなさい!あなたのその考えなしの行動がどれほどの人間に迷惑を掛けていると思っているの!」
リツコは少し涙目になって彼女の親友を叱咤した。だが、
(そ、そりはちょっち大げさでは〜?)
親友の真心のこもった言葉も、ミサトにとっては蛙の面に小便だったようである。
「…葛城一尉、君には後で話がある。一時間後、ここに出頭したまえ」
ゲンドウが初めて口を開いたかと思うと、重厚な口調で目の前のミサトに告げた。
いきなりのことに、当のミサトは面食らっている。
あまりに長時間何も喋らなかったので、ゲンドウがこの場にいることさえ失念していたようだ。
「へ?まさか…クビ?」
ちょっとは想像力が豊かなようで、ミサトは瞬時に青くなっていた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ミサトは慌てて言葉を返す。しかし、
「ここはもういい。下がりたまえ、葛城一尉!」
冬月に一喝されて、ミサトは渋々と司令室を出て行った。
リツコは黙ってその親友の背中を見送っていた。どんな思いであったのだろうか。
ミサトが退室した後、冬月がゲンドウに耳打ちした。
小声で話すのは、まだこの場所にはリツコが残っていたからである。
「(どうするのだ、碇?いっそのこと葛城君を警察に引き渡すか?)」
「(…ダメだ)」
ゲンドウは不本意そうに答える。
「(碇、思い切って彼女の更迭を老人たちに具申してみてはどうかね?)」
「(……)」
ゲンドウは黙ったままだ。
冬月はゲンドウの不安を払拭すべく、知恵を授けた。
「(別にクビにしろと言うのではないよ。対外的には今の役職のままで、内実は閑職に回せばよいのではないかね?それならば問題ないと思うが)」
冬月は、ミサトから職権を奪い、お飾りだけの人形にしろと言っていた。
だがゲンドウは、眉間に皺を寄せて静かにそれに答えた。
「(…それは私も考えた。考えたのだ。だが老人たちは裏・死海文書の文面に忠実だ。そういった小手先だけの解釈を極端に嫌っている。よほど自分たちの尻に火が着かないかぎり、承諾することはあるまい。それに参号機の件で、こちらには多少の負い目もある。 …今は無理だ)」
二人の間に沈黙が訪れる。
(…その前に彼女の利敵行為で人類が滅亡しないことを祈るばかりだよ)
冬月は心の中でそう皮肉ると、ハァーと溜め息を吐いていた。
「さて、赤木博士。だいぶ待たせてしまったようだね。早速だが、例の初号機の件はどうなったかね?」
冬月はリツコのほうを振り向くと、本題を切り出した。
初号機の件とは、昨日、初号機がケイジから突然姿を消した事件のことであった。
リツコは司令席の前までツカツカと歩み出ると、キュッとターンして男たちの正面を向いた。
そして明瞭な口調で報告を始めた。
「はい。初号機は昨夜遅くにケイジ内にその姿を現しました。その一部始終を目撃した作業員の談によれば、初号機が突然、そして瞬時にその姿を出現させたとのことです」
リツコは淡々と事実のみを報告する。
だが、二人の男たちは昨夜のうちにその第一報を受けており、今のリツコの報告内容は特に目新しいものではなかった。
冬月は一番肝心なことをリツコに訊ねた。
「原因は、わかったのかね?」
「いえ…今もって不明です」
リツコは恐縮しながらも答え、そして続けた。
「当初、初号機のATフィールドの作用により、可視光の屈折率が変化、人の目から消えた可能性を考えましたが、…それは完全に否定されました」
リツコの所見に冬月が相槌を打つ。
「ふむ、当然だな。そもそも初号機はATフィールドの展開に成功した実績はない。もしATフィールドが原因というのならば、当然MAGIが感知しているハズだ。第一、エントリープラグもなしに、外部電源もなしにアレが動くとは到底考えられんことだよ。 …いや、待てよ。 …よもやS2器官が、地下のリリスから抜き取ったオリジナルのアレが稼動したとすれば、或いは──」
冬月は途端に思案顔になる。ふむと顎に手を添えて考え込んでしまった。
「いえ、その懸念はありません。初号機のS2器官が現在も休止状態にあることは、確認済みです」
リツコは冬月の考察をキッパリと否定した。
実は、リツコの言ったことは事実である。
初号機(注:ハッちゃん)のS2器官は稼動してはいなかった。
もっとも、この先も永遠に稼動することはないのだが。
「ケイジは密室だ。あの巨体が消え去るなど不可能だ」
ゲンドウがぼそっと呟く。相変わらずその表情は読めない。
この男が言ったように、確かにエヴァのケイジは密室であった。唯一の例外はエヴァの射出口であるのだが、そこへと至るルートは鋼鉄の扉によって厳重に締め切られ、まさに蟻の子一匹通れない状態にあったのだ。
「ふむ。消えてまた戻ったということは、もともと初号機はその位置から一歩も動いていないと考えるのが自然ではないのかね?何かの作用で消えたように見えていただけとか?」
冬月のその呟きを、リツコが即座に否定する。
「いえ、あのとき初号機は間違いなく物理的に消失していました。あのときあの場所に、初号機は間違いなく存在しておりませんでした。これは確認済みです。目の錯覚などではありません」
「…では一体何が起こったと言うのだ?」
「わかりません。科学的に…立証不可能かと思われます」
途端に言葉に力がなくなるリツコであった。
立証不可能──この言葉をリツコの口から言うのは、科学者として耐え難い屈辱であったのだ。
リツコは俯き、下唇を強く噛み締めていた。
「…碇、この件、老人たちに報告を上げたほうが良いのではないかね?」
冬月は横目で隣の男に問いかけた。
「…ダメだ。今、初号機を調べられるわけにはいかない」
(今、アレが覚醒間近であることを悟られると、いろいろとマズイことになる)
「赤木博士、引き続き調べておくように」
ゲンドウは無愛想に短い言葉で命じた。
簡単に言ってくれる。無責任にも程があるだろう。
「例の件はどうなっている?」
続けざまにゲンドウがリツコに問い質す。
失われた100兆円の捜索のことだ。
「あ、いえ…まだ何とも。申し訳ありません」
「チッ」
ゲンドウは舌打ちした。それに気づいたリツコがビクッと竦み上がる。
そして、彼女にとって嫌な間が、暫くの静寂がその場を支配した。
だが見かねた冬月が彼女に助け舟を出した。
「碇、もう少し時間をやったらどうだ。昨夜も同じ質問をしたばかりではないか」
「む…」
冬月はリツコのほうを見やって言った。
「ああ、赤木博士。ここはもういい。ご苦労だったね。下がってくれたまえ」
「はい、失礼します」
リツコは一礼すると、そのまま司令室を退出していった。
「参号機だが、今日の正午過ぎにはここに到着するようだぞ。昨日の今日というのに、随分と早いな」
冬月が感心したように言う。
「…それだけ老人たちも命が惜しいということだ」
ゲンドウは表情を変えずにそれに答えた。
だが、冬月の言うとおり、これは驚異的な早さなのだ。
アメリカ東部、ノースカロライナ州にあるグレートスモーキー山脈国立公園。ネルフのアメリカ第一支部はこの場所に存在した。
エヴァ参号機は、この場所で極秘裏に建造されたのだ。
参号機は昨日(時差があるので現地では一昨日)、専用の長距離大型輸送機に積み込まれ、今は北太平洋の遥か上空、成層圏の只中を飛行中であった。目指すは日本、第三新東京市のネルフ本部である。
アメリカ第一支部から日本までは、空路でおよそ13時間掛かる。
だが、それに至るまでの準備にこそ、かなりの手間と時間を要したはずであるのだ。
いきなり「参号機を今すぐ本部に移管しろ」と寝耳に水な命令をされて、第一支部の面々はさぞ慌てたことだろう。
だが彼らは不平も言わず(?)、きっちりと仕事をこなしていた。
いくらキール・ローレンツの肝煎りとはいえ、これは驚くほどの迅速さであるのだ。
離れ技をやってのけた第一支部の職員たちを褒め称えるべきか、それとも同情を掛けるべきか、それはわからない。
だが、こんなに早いんだったらドイツの弐号機も空輸すればいいじゃん。そんな声が聞こえてきそうである。
ゲンドウが徐に口を開く。
「参号機が搬入され次第、あのモルモットを乗せる」
「ダッシュ君をかね?だが参号機は未調整の機体だぞ?」
冬月はさらに続ける。
「エントリープラグのパーソナルデータも未設定だ。第一、汎用コアのままだぞ?彼のパーソナルパターンと適合するとは思えんな。いきなりそれは無茶だろう?とてもシンクロするとは思えんぞ」
冬月は難色を示すが、ゲンドウはそれを無視した。
「構わん。微調整を理由に乗せればいい」
(あのモルモットには、そんなものは関係ないはずだからな)
ゲンドウには確信があるようだった。組んだ手で見えないが、その口許は不気味な笑みをこぼしていた。
「第一支部のスタッフによる現調はどうするのだ? …今、彼らの前にパイロットを晒すのはマズイのではないかね?」
冬月が疑問を口にする。
「そいつらは全員、実験場から締め出せ。作業は本部職員だけでやらせれば良い」
「また無茶なことを…。どの面下げて彼らに説明しろと言うのかね?彼らはこのために来日したのだぞ。そういうことは彼らが来日する前に根回ししておくべきことだろうが!」
冬月は思わず怒鳴っていた。
だがゲンドウは平然として呟いた。
「冬月…任せた」
「グッ…」
冬月は一人頭を抱えた。
(しかし、何を企んでいるのだ、碇?)
冬月は横目で隣の男をジッと見つめていた。
どうやら冬月は、ゲンドウから肝心なことは何も聞かされていないらしい。
「(ふう、この分では参号機は一週間後の第四使徒戦には間に合わんな…)次の使徒戦はどうするのだ?」
「シンジを初号機に乗せる」
「何っ!!あの条件をのむというのか!?」
驚いた冬月はそのまま隣の男に詰め寄った。
「俺の降格と、葛城君の罷免の件はどうするのだ?俺は嫌だぞ! …それに報酬にしたって、暗にネルフのカネは使うなと老人たちに釘を刺されているだろうが!」
「大丈夫だ冬月。私に考えがある。なに、所詮は子供の浅知恵だ。どうとでもなる」
ゲンドウは自信満々の笑みを漏らしていた。
「どういうことだ?」
「ふん、いいだろう。教えてやる──」
二人はヒソヒソ話を始めた。暫くして、
「──な!!踏み倒すというのか!!」
「冬月、言葉には気をつけたほうがいい。別に我々は踏み倒そうというのではないのだよ。 …要はココの、使いようなのだ」
ゲンドウは人差し指でこめかみをトントンと叩いて見せた。
「…悪党め」
言葉では貶しているが、口許は笑っている冬月であった。
「いえいえ、冬月先生ほどではありませんよ」
悪代官と越後屋は互いにほくそ笑んだ。
だが二人は知らない。
この部屋がMAGIに筒抜けであることを。そしてそのMAGIが既にある少年の手に落ちていたことを。
「ところで、誰を交渉役にするのだ?」
冬月が疑問を口にする。
「…お前が行け」
「俺では無理だ。嫌われているからな。お前も同様に嫌われているようだが、…いや、やはりここはお前が行ったほうが最善だと思うぞ。息子に一言謝罪し、頭を下げれば済む話ではないのかね?」
「それは嫌だ」
ゲンドウは即答を返した。
息子に頭を下げるなど、この男にとっては最大級の屈辱、耐えられるものではなかったのだ。
「……」
冬月は呆れていた。人類滅亡の瀬戸際に何を言っているのかと。
「ではどうするのだ?」
「冬月、任せた」
「クッ、お前というやつは〜」
(しかし誰を寄こせばいいと言うのだ?赤木博士は多忙。葛城君は…問題外だな。それ以外に適任といえば──!!)
冬月の頭の中に、ある人物の顔が閃いたようだ。
「わかった。人選については心当たりがる。引き受けよう」
「第四の使徒は、来週早々にもここにやって来る。それまでに何とかすればいい。まだ時間はある」
「はあ?あと一週間しかないのだぞ!交渉に契約、機体の微調整、それに訓練のこともある。今すぐにでも話をつけておくべきだろうが!」
「…任せた」
「クッ!」
(人事のように言いおって)
そのとき、何かを思い出したかのように、冬月が口を開いた。
「そういえば、たしか来週はお前は不在だったな。使徒がやって来るというのに、些か暢気すぎるのではないかね?」
「それが裏・死海文書に予言されていることだからな。仕方があるまい」
ゲンドウは何の抑揚もなしにそれに答えた。が、何故かその目尻は下がっていた。
「…だからと言って、何もわざわざロシアくんだりまで遊びに行くことはなかろうが」
「フッ…金髪はいいぞ、冬月」
ゲンドウは意味深な笑みを浮かべると、左手の親指と人差し指でワッカを作り、そこに右手の人差し指をスポスポ入れて見せた。
お下劣な男だった。
「よくそんなカネがあるものだ…って、そういえばお前、カネはどうしたんだ?」
冬月の疑問は当然だった。
この男、確か自分と同じく素寒貧になったはずである。いや、それどころか、数兆円の借金(税金)さえ背負わされたはずなのだ。
(そう言えば、夕食とかは相変わらず一流レストランでとっているようだし…。どういうことだ?別に貯えがあったというのか?いや、それはないはずだが…)
そんな冬月の思案をよそに、ゲンドウが驚くべき事実を口にした。
「ふん、カネなどネルフに腐るほどあるではないか!」
「なあ!?」
冬月は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「碇、貴様!ネルフのカネを、公金を横領しているのか!?」
(俺は赤貧洗うが如き生活をしていたというのに…自炊までして…正直者が馬鹿をみていたというのか?)
「問題ない」
「老人たちにバレたら一巻の終わりだぞ」
「バレなければ大丈夫だ」
(それに、いまさら質素な生活など耐えられるものか)
「……」
冬月は少しめまいがした。
呆れつつも訊いてみた。
「…いくら横領したのだ?」
「わずかなカネに過ぎん。まだ10億円ほどだ。いきなりそれ以上だと怪しまれるからな」
「ネルフの懐具合も厳しいのだぞ?」
「大丈夫だ。人件費が浮いたからな。23人ほどな」
(23人?どこかで聞いたような? ──あ!)
「まさか再起不能になった保安諜報部のエージェントたちのことを言っているのか?」
「ああ、使えない駒など飼っていても意味がないからな。即、焼却処分だ」
何気に鬼畜なことを言うゲンドウであった。
「安心しろ。今頃は生きたまま焼却炉の中だ」
「……」
冬月は言葉を失っていた。
実はここネルフ本部のターミナルドグマの奥底には、大規模なダイオキシン抑制型超高温焼却炉が存在していた。何のためにあるのか、何を燃やすのかについては厳重に秘匿されていた。
〜第三新東京市、シンジの自宅、現在に至る〜
ここは街の郊外にあるシンジの邸宅。
白い塀に囲まれたその正門の前に、二人の人影があった。シンジとマヤである。
実は先ほど、パチンコ店でマヤが「折り入ってお話があります」と真剣な物腰で切り出してきたので、シンジはゲームを中断し、この自宅まで彼女を案内して来たのだ。
それはマヤという人物をよく知っていて、彼女が切り出してきた話の大方の予想がついていたためでもあった。
「ほえ」
目の前の豪邸(そう見えるらしい)を見上げて、マヤはボーッと立ち尽くしていた。
「どうぞ。何ぶんせま苦しい家ですが」
シンジは謙遜して言うが、
ぶんぶんぶん
マヤは大仰にかぶりを振って否定した。そんなことはないです、そう言いたいのだろう。
シンジはマヤをレセプション・ルームへと案内する。
「今、お茶を淹れますので、楽にしてお待ちになって下さいね」
「あ、いえ、お構いなく」
一応、社交辞令としての定例句を口にするマヤ。
シンジはニコリと笑うと、奥の部屋へと消えていった。
マヤは目の前の革張りのソファーに腰を下ろす。
そして所在無げに部屋の中を見回した。
外観は古めかしい豪邸の様相だったが、内装は新しく清潔であった。おそらくリフォームしたばかりなのであろう。
それにシンプルで機能的な調度品ばかりが置かれている。そしてなにより、余計なものが一切なかった。
普通、この手の応接間には、自己顕示のための品々を並び立てるのが常なのだ。高そうな絵画、臭ってきそうな骨董品、トロフィーや表彰状なども然りだ。
だがこの部屋は、そういった類のものはすべて排斥してあるようだった。
しかしこれはこれで、マヤの好みにあった部屋であったようだ。そのせいか幾分リラックスできたようだ。
「お待たせしました」
そう言って少年が部屋に入ってきた。待たせたと言っているわりには、実は一分も経ってはいない。
手には、二組のティーカップ&ソーサー、ポットをのせたトレイを持っている。
コポコポコポ
ティーカップに静かに紅茶を注ぐシンジ。
「お熱いうちにどうぞ」
シンジはマヤにお茶を勧めると、彼女の対面のソファーにゆっくりと腰を下ろした。
「私は、ネルフ本部の伊吹マヤと言います。よろしくね、碇シンジ君」
「ええ。一度モニター越しにお会いしたことがありましたよね。こちらこそよろしくお願いします」
シンジはニッコリと微笑み返す。
「……(////)」
途端に紅くなるマヤ。
「えーと、シンジ君、あのお店って、よく行くのかしら?」
気を持ち直して、質問をするマヤ。
例のパチンコ店のことを言っているらしい。
「まあ、ヒマなときに多少嗜む程度ですが」
シンジは控え目に答えた。だが事実は違う。
かの店は、今では珍しいモーニングをやっており、出玉も良心的であった。しかも無制限&等価交換であり、シンジのお気に入りの店の一つであったのだ。
シンジはそこの常連であった。どうやら第三新東京市の下見がてらに、半年前から通っていたらしい。
もちろんシンジは、パチンコやパチスロの筺体に不正な細工などは(できるけど)してはいない。それでは純粋に楽しめないからだ。
でもまあ、端から「設定6」の台を選んで座っている時点で、インチキ・反則ではあるのだが。
この少年は今朝、ほんの三時間ほどで、一万円札を15枚ばかり稼いでいた。
換金する現場を横から見ていたマヤは、その札束(?)に目を丸くして驚いていた。
「でも、中学生がパチンコなんて、よくないんじゃないのかしら?」
うん、至極尤もな話である。
「いやあ、なかなか止められなくて〜」
シンジは後頭部を手で押さえながら、申し訳なさそうに照れ笑いをする。
「それに、マヤさんだって知っているでしょ?この僕の身分のこと。だから一応問題はないんです」
シンジには外交官特権があるのだ。よって警察に補導される心配はない。
尤も、事情を知らない警官から職質を受けたことは、一度や二度ではなかったのだが。
だが、マヤは一人全然別なことを考えていた。
(やだ、いきなり「マヤ」だなんて…きゃっ)
「実は、折り入った話というのはですね──」
ティーカップに口をつけた後、マヤが本題に入ろうとする。
しかしシンジがそれを遮った。
「まあ、待ってください。もう時間も時間ですから、お昼にしませんか?大したものはありませんが、ご馳走しますよ」
見ると、部屋の壁掛け時計の針は、正午を少し回ったところを指していた。
「え?でも何だか悪いわ」
マヤは少年の突然の申し出に恐縮する。
「構いませんよ。食事は大勢(?)のほうが楽しいですからね。それに本当に大したものはありませんから、お恥ずかしいかぎりなんですが」
そう言ってシンジは席を立った。
数分後、少し大きめのお盆に載せて運ばれてきたのは、所謂「刺身御膳」だった。
シンジにしてみれば昨日と同じメニューで代わりばえしないのだが、重厚な蒔絵が描かれた漆器の重箱に入れられて、見た目はかなり豪勢であった。
それはそうである。特上の本マグロの大トロである。色艶も申し分ない。恐らくマヤはこれ程のものは食べたことはないだろう。
その盛り付けも、お客様用に美しく整えられていた。もはやプロと言って良い匠の技だ。
「すごい」
マヤは素直に驚嘆していた。
マヤ自身も主に経済的理由から自炊をしているが、これ程までに見事な食事は作ったことがなかった。
しかも最近はネルフ本部に缶詰状態で、碌な食事をとっていなかったのだ。
(ゴクリ…)
「どうぞ、頂きましょうか」
「い、頂きます」
シンジが目の前の食事に箸をつける。
それを見てようやくマヤも箸を取った。
パクリ
マヤは刺身を一口頬張った。
(モグモグ)
(……)
(…)
「!!!」
頭をハンマーで殴られたような衝撃だったと、後にマヤは語ることになる。
「おいしい〜!こんなの食べたのはじめて〜」
マヤは思わず正直な感想を口にしていた。見た目も凄かったが、実際の味はそれ以上に美味しかったのだ。
「そうですか。それは良かった」
「でも、やっぱり悪いわ。こんな豪華な食事を頂いちゃって…」
マヤはそう言いつつも、箸を休めてはいない。体は正直のようだ。
「ハハハ、大丈夫ですよ。まだまだたくさんあるんです。それに食材はタダで手に入りましたからね。マヤさんがお気になさることはないんですよ」
自宅の大型冷凍庫には、マグロのストックが何百キロもあるのだ。シンジと猫二匹で食べ尽くすには少しばかり無理があった。
それに足りなくなったら、また海で調達してくればいいだけなのだから、問題はなかったのだ。シンジは凄腕の釣り師でもあるのだ。
「お刺身のお替りはどうですか? まだいっぱいありますから、ご遠慮なさらずに」
「か、感激ですぅ〜」
マヤは感涙しながら舌鼓を打っていた。
そんな仲睦まじい(?)二人の様子を見つめる存在があった。
シロとクロである。
彼らはすでに昼食は済ませていたようで、各々リビングでくつろいでいた。
これは、シンジが(パチンコ店で遊んで)遅くなるかもしれないと、予め告げていたためだ。
そこにシンジが(クロにとっては)見知らぬ女性を連れて帰ってきたのだ。
シロは特に気にもせず、食後のミルクを器用にストローで飲んでいたが、クロはドアの隙間から怪しい目でジッと二人の様子を窺っていた。
『…シンジのお嫁さんかしら?』
クロが何気にぼそっと呟いた。次の瞬間──
『!? ブゥーーーッ!!』
シロはミルクを盛大に噴き出していた。 …クロの顔に。
『な!?ちょっとー!汚いわねー!』
ミルク塗れのクロが文句を言う。
さすがに黒地にミルクは…目立つ。
『ケホッケホッ、…ごめん。でもクロがいきなり変なこと言うからさ』
『変なことってどういうことよ?シンジが初めて女の子を自宅に連れ込んだのよ?心配するのが親ってもんでしょう?』
クロは凄い剣幕だ。
『いや、あのね…』
しどろもどろになるシロ。
クロの口撃はまだ続く。
『将来の嫁と姑の関係になるかも知れないのよ?心配するのは当たり前じゃないの!』
『……』
シロは反論を諦めた。このテンションの彼女に何を言っても無駄。それはこの一週間で学習したことだった。
『でもシンジ…ちょっと歳が離れていないかしら?』
ほとんど自分と同じくらいの年格好のマヤを見て、クロ(ユイ)は小さく呟いていた。
彼女、こいう性格だったのだろうか(汗)。
「あら? …何か隣の部屋で猫が鳴いているみたいですね?」
その鳴き声に気づいたマヤが言葉を掛けた。
「え?あ、ハハハ。そうですねー(汗)」
シンジは笑って誤魔化した。
マヤにはニャーニャーとしか聞こえていないが、シンジの耳には人語として、その一部始終がバッチリ聞こえていたのだ。
(何馬鹿なことやってんだ、あの二人は?)
「ご馳走様でした」
マヤが丁寧に合掌して感謝の言葉を述べる。
「いえいえ、お粗末さまでした」
「ううん、そんなことないです!すっごく美味しかったです!」
マヤは、両拳をグッと握り締めて、シンジの食事を褒め称えた。
相変わらず、中学生相手に敬語であった。
「そう言って頂けると、嬉しいですね。 ──よかったらまた馳走しますよ。今度はちゃんとしたディナーをね」
シンジはそうマヤに言葉を掛けた。
もちろんその言葉に深い意味はない。
「…はい(ポッ)」
マヤは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
ああ、きっと深読みしてるな、これは。
余談ではあるが、シンジは料理にはそこそこ自信があった。なんせ紅い海であらゆる料理の知識と技能を吸収・昇華したのだ。そんじょそこらの料理人では、まったく相手にはならないだろう。
(ああシンジ、やっぱりこの小娘のことを…)
クロはクロで、相も変わらず、勘違いを続けていたようだが。
「では、本題に入ります」
マヤは襟を正すと、いつになく真剣な表情で切り出した。
「まずは、昨日、私共の作戦課長(平時ではこの呼び方が正しい)の独断専行により、碇シンジ氏並びに関係各位に多大なる迷惑、損害を与えたことに対し、特務機関ネルフを代表して心より遺憾の意を表します。本件につきましては、私共の総意ではなく──」
マヤは小難しい謝罪の言葉を紡いでいだ。
シンジにバレないように(バレバレであるが)手許のアンチョコをチラチラ覗きながらであったが。
ちょっと似合わない。
「…マヤさん、無理をなさらずに、ご自分の言葉で喋ったらどうですか?」
シンジは苦笑いを抑えながら、そうアドバイスした。
「あ、やっぱり変でしたか?」
照れ笑いをするマヤ。
じゃあと言って、マヤは大きく深呼吸をすると、
「昨日、うちの葛城が馬鹿なことをして本当にごめんなさい」
マヤがペコリと頭を下げた。些か砕けすぎだが、彼女らしいと言えば彼女らしい。
(でも、ネルフの人間で頭を下げた人、初めて見たよ。それも他人の尻拭いで)
マヤは話を続ける。
「あと、うちの冬月副司令がシンジ君に大事な話があるとのことなので、ぜひネルフ本部まで来て欲しいそうなんです」
「ふーん。きっとまた僕にチルドレンになれっていう話なんだろうね」
「あ、わかります?」
そりゃ、シンジにはネルフの司令室や第一発令所の会話など筒抜けなのだから当然である。
「冬月副司令が言うには、先日シンジ君が提示した条件をのむ用意があるとか言ってました」
「ふーん」
(あの条件をねえ…)
シンジは内心ニヤニヤしながら、顎を撫でた。
以前シンジがネルフに突きつけた条件といえば、
3億アメリカ$の一時金
葛城ミサトの懲戒免職
冬月副司令の降格
出撃一回毎に手当100億円
使徒一体の撃退毎に成功報酬500億円
訓練・実験の免除
プライバシーへの不干渉
といったものである。
だが、お金の部分はともかく、ミサトという女の懲戒免職──民間でいうところの懲戒解雇──の問題はそうそうクリアできないハズであった。
(まあ、カラクリはさっき全部聞いていたから知っているんだけどね…)
シンジはニヤリと口許を歪めていた。
そのときマヤが心細い声を掛けてきた。
「あの…どうでしょうか? …やっぱりダメなんでしょうか?」
マヤが不安そうにシンジの顔を窺う。目なんかウルウル状態だ。
おそらく「必ず連れて来い」と冬月からプレッシャーを掛けられているのだろう。
「OK。良いですよ」
シンジはあっさり承諾した。
もちろん承諾したのは、ネルフとの交渉であって、チルドレン就任の話ではない。
「あ〜よかったですぅ〜。これで私も胸を張って帰れますぅ〜」
今までの肩の荷が下りたように、マヤはホッと胸を撫で下ろしていた。
「ハハハ、僕としてもマヤさんの面目を潰すのは忍びないですからねえ」
もちろんシンジの発言に他意はない。
ないのだが、都合よく勘違いした御仁が一人頬を赤らめていた。
「こちらもいろいろと準備もあるんで、そうですね──午後二時くらいにそちらに伺うって伝えてもらえますか?」
シンジは壁の時計をチラと見て、マヤにそう言った。
「あ、ハイ、わかりました。 …じゃあ、私、これで失礼しますね」
そう言ってそそくさと席を立つマヤ。しかし──
いきなり、マヤが何もないところでけつまづいた。
「きゃっ」
「あぶない!」
ドン
「あ」
気がつくと、マヤはシンジの胸の中に抱きとめられていた。
(あ、シンジ君の匂いがする…いい匂い…)
(……)
(……)
(…温かい家庭、…料理自慢の旦那様、そして子供は…三人くらいが良いかなあ)
マヤは夢見心地で、恒例の誇大妄想を始めていた。
「あの、マヤさん?大丈夫ですか?」
シンジは自分の胸の中でトロンとして固まっているマヤに声を掛けた。
「うにゅ?」
やっと正気に戻るマヤ。
瞬時に状況を理解すると、慌ててシンジから離れた。顔がさらに真っ赤だ。
「ご、ごごご、ゴメンなさいっ!!」
何度も何度もペコペコ謝るマヤ。
「いえ、僕は大丈夫ですから。マヤさん、そんなに謝らないで下さいよ」
何故こんなにもマヤが大袈裟に謝るのか、その理由がわからないシンジは困り果てていた。
だが、そんな様子をドアの隙間から見ていた二つの瞳があった。
(やっぱり…)
クロの両の瞳がキラーンと怪しく輝いていた。
あんたは、市○悦子か!
マヤを玄関先で見送った後、シンジは振り向きざまに鬨(とき)の声を上げた。
「さあて、シロにクロ。鬚の面でも見に行くとしますか!」
〜第三新東京市・郊外〜
シンジは両肩に白黒の子猫を載せて、炎天下の中、街の大通りを悠々と歩いていた。
どうやらシンジは着替えたようで、黒のパンツに黒のVネックTシャツ、黒のスニーカー、そして黒のレイバンと黒揃えである。
そして羽織るのは特注の臙脂色のサマージャケット。背中には"喧嘩上等"の金の江戸刺繍のロゴが入っていた。
夏だというのにちょっと暑そうであるが、シンジは汗一つ掻いてはいなかった。
『なんで路線バスを使わないのさ?』
シロが素朴な疑問を口にする。本音ではクーラーの効いたバスに乗りたかったようだ。
「ん〜?向こうには午後二時までに着けば良いからね。それに歩くのもなかなかいいものだよ」
(よく言うよ。いつもは物臭太郎なのに)
シロは心の中でツッコミを入れていた。
そのとき反対側の肩に載るクロが口を挟んできた。
『ねえシンジ、鬚って誰のことよ?私の知っている人かしら?』
「ん?そう言えばクロは知らなかったっけ。 ──鬚ってゆーのはね、特務機関ネルフの総司令官、碇ゲンドウのことだよ」
シンジはこの一週間の態度が嘘のように、素直にクロの質問に答えていた。解禁日なのだろうか?
『ゲンドウさん?』
「うん、そゆこと」
『じゃあネルフってもしかして…』
「そう、──ゲヒルンを母体として2005年に発足した、使徒の調査・研究及び殲滅を目的とする国連直属の非公開組織さ。最高司令官は碇ゲンドウ、副司令は冬月コウゾウ。クロもよく知ってるでしょ?」
シンジが懇切丁寧に説明する。珍しく饒舌だ。
『…そう。計画は予定通り進められているのね』
クロは悲しそうな表情で一人呟いた。
だがシンジは含み笑いを堪えつつ、それに答えた。
「いやー、もう破綻しちゃってるけどね」
『え?どういうこと?』
「そのままの意味だよ。人類補完計画は破綻した。この僕がここにいるからね。鬚・バージョンもゼーレ・バージョンも、…そしてオリジナルの碇ユイ・バージョンも、永遠に陽の目をみることはないよ」
『!!!』
クロは驚愕した。
(シンジ、貴方、何故補完計画のことを知っているの!?そしてゼーレの存在も!?)
クロは真剣な表情でシンジを見つめて問い質した。
『…シンジ、貴方一体何を知っているの!?』
「んーそうだねぇ、鬚、ゼーレ、そして碇ユイが犯した罪のすべてを知っていると思うよ」
『!?』
(ゼーレはともかく、私たちの罪って一体…?)
クロには身に覚えがないようであった。
「まあ、今はこれくらいにしとくか。心配しなくても良いよ。シロ同様、追々全部教えてあげるから」
『ま、待って!一つだけ教えてちょうだい、シンジ! …貴方の目的は一体何なの?』
話を切り上げようとするシンジに、クロは慌てて飛びついた。
「うーん、難しい質問だねえ。 …いろいろあるけど、最大の目的って言ったらやっぱりアレだね」
さり気なく左肩のシロとアイコンタクトをとるシンジ。
『?』
キョトンとするクロを尻目に、シンジはサラリと言った。
「──鬚、つまり碇ゲンドウを嬲り殺しにすることだよ♪」
『!!!!』
クロは衝撃を受けていた。予想もしていなかった恐ろしい言葉が息子の口から飛び出したのだ。無理もなかった。
ちなみにシロはというと、黙って二人の会話を聞いていた。平然としている。
『シンジっ!!貴方、実の父親に向かって何てことを言うのっ!!』
次の瞬間、クロは物凄い剣幕で息子を叱りつけていた。
だがシンジは平然とそれに反論する。
「僕はあんな外道、父親に持った覚えはないよ。シロもそう思わないかい?」
『…うん。まあそうだね』
何気に同意を求められたシロだったが、あっさりとそれに頷いていた。
クロは信じられないという目で二人を見つめている。
「貴方たち、何てことを…。今まで育ててもらった恩を、ゲンドウさんから受けた愛情を忘れたとでも言うのっ!? いい?親というものは子供のことを第一に考えているものなのよ!!それを──」
クロは一方的に捲くし立てた。
だがその語尾を遮って、シンジが呆れたように言い返した。
「はあ?育ててもらった?受けた愛情?子供のことを第一に考えてる? …何それ?そんな覚えなんてサラサラないんだけど?」
『何を訳のわからないことを言っているの!』
クロはまったく取り合おうとしない。
しかしシンジは決定的な一言を告げた。
「僕たちはね、碇ユイが初号機に取り込まれた直後、あの男に捨てられたんだよ。そうだよねぇ、シロ?」
『うん、間違いないよ』
『え!?』
クロはキョトンとしている。
(一体どういうことよ?)
シンジは続ける。
「僕たちは、見ず知らずの赤の他人に預けられたのさ。あの鬚は親戚だとか言ってたけど、孤児だったあいつに親戚なんていないのにおかしな話さ」
『嘘よ!』
思わずそう叫んだクロだったが、二人が嘘を吐く理由が見当たらない。
シンジはフンと鼻を鳴らして一笑に付した。
「嘘なもんか。今現在、あいつと別居しているこの状況こそが立派な証拠だよ」
『……』
クロは黙り込んだ。
状況証拠がそれが真実と語っていた。
(ううん、嘘よ、嘘──)
だがなおもクロは大きくかぶりを振って、必死に疑心を振り払った。
そんなクロの様子を傍目に、シンジは説明を続ける。
「この11年間、あいつに会ったのは碇ユイの命日の数回だけ。それもほとんど会話らしい会話もなかったよ」
『…それはきっと何か理由があったのよ!』
クロはあくまでゲンドウを庇おうとしていた。
なるほど、ゲンドウをして「いつも自分に微笑んでいてくれる女性」と言わしめるだけのことはあるのだ。
だがシンジは冷たく問い返した。すべてを見通したかのような目で。
「クロだって気づいているんじゃないの? ──チルドレンがどうやって作られるのか」
『!!!』
クロは冷や水を浴びせられたかのように、今度こそ黙り込んでしまった。
心の奥底に封じた禁忌の記憶が蘇ってきたのだろうか、その表情は青い(黒毛だけど)。
「僕たちはね、赤の他人の手によって幼い頃より愛情の欠片すら与えられずに、まるで家畜を扱うように飼育されてきたんだよ。エヴァの中の母親に強く愛着・依存させるためにね。 …そして脆弱な精神状態になるように誘導されてきたんだ。補完計画の依り代としての役割を果たした後、殺されるためにね」
『そんな…あの人が、ゲンドウさんがそんな酷いことするわけがないわ!』
なおもクロは頑なに否定する。
だがシンジは気にせずに言葉を続ける。
「僕たちはあの頃、母親の顔さえ覚えていなかったんだよ?あいつが写真とかアルバムとかは、すべて処分したからね(実際は鬚の部屋にしっかりと秘匿してあるみたいだけど)。まあそれは母親への愛着衝動を強くさせるための方策だったんだけどさ。酷いと思わない?」
『……』
「まあ、信じる信じないはクロの勝手だよ。僕はその辺のことには一切興味ないし。でも──」
シンジはそこで一旦言葉を切ると、一転凄味のある声で宣告した。
「あの鬚は間違いなく殺す。これは決定事項だ。それを邪魔するならクロ、たとえ君とて容赦はしない。あの鬚共々、地獄の苦しみを味わってもらうよ(ニヤリ)」
『!!!』
「まあ、コロナ程度に焙られてヒーヒー泣き叫んでいた君が、あの苦痛に耐えられるとは思えないけどね〜」
そう言いつつ、シンジはニヤニヤしながら、流し目でクロを見ていた。
『コロナ?それは一体何のことよ?』
初耳だったクロが訊き返した。
「アレ?言ってなかったっけ。 ──碇ユイの未来ってさ、初号機ごと太陽のコロナに焼かれて狂い死ぬんだよ。で、【魂】も残さずキレイに消滅。あれは最高の見物だったね〜♪今度、映像を見せてあげようか?」
『な!?』×2
クロとシロは驚愕した。
シンジは少し困った表情を浮かべて、言葉を続けた。
「でもあの程度の苦痛で悲鳴を上げるようじゃ、ゲンドウと同じ責苦には到底耐えられないよ?アレの20億倍は辛辣だからねえ〜♪」
(20億倍って、それってどんだけだよ…)
シロは想像がつかない。
「ま、ともかく、暫く考える時間をあげるよ。自分で判断するといいさ」
シンジは最後にそう言って、話を締め括った。
暫くシンジの目を見つめていたクロだったが、深く一つ嘆息すると、吹っ切ったように言った。
『…わかったわ。この碇ユイ、自分の目で真実を見極めてやるわ!』
その瞳には力強い光が宿っていた。
(ほう…腐っても"碇ユイ"ということか。科学者として中立の立場で本質を見極めようとする気概はさすがだな)
シンジは感心していた。が、
『そして、シンジ!きっと貴方の目を覚まさせてあげるわ!』
ズルッ
「そっちかよ!(汗)」
二人の会話の向こうで、シロはいろいろな思いを巡らせていた。
(どうやらクロ…母さんはまだ父さんのことを信じているみたいだね。アレの本性を知ったらどうするのかな? ──それにしても、あんな鬚親父のどこが良いんだろ?母さんって奇特な人だったの?)
(それに、シンジにとっては母さんは"大事な人"の中には入っていないようだし、ちょっと複雑な気分だ。まさか本当に殺すことはないと思うけど…きっと…いや多分)
〜ネルフ本部・地上ゲート〜
ここは第三新東京市のとある区画に存在している、ネルフ本部の有人入館ゲート前である。
ネルフ本部の表玄関といって良いこの場所に、一人の目立った格好をした少年が立っていた。
「たのもーう!」
少年の大声が辺りに響いた。
『…シンジ、守衛さんがビックリしてるよ。普通の言葉で喋ろうよ』
シロが見かねて忠告する。
「うむ、そうだね」
シンジは改めて警備員の男のほうを向き直った。そして、
「実はカクカクシカジカで碇シンジが参ったと、冬月副司令にお取次ぎ願いたい」
おかしな日本語で話し掛けていた。
「(…カクカクシカジカって?)しょ、少々お待ちを(汗)」
警備員は冷や汗を掻きつつも、内線電話を取ると、どこかと連絡を取り始めた。
「はい。確認が取れました。今、係りの者が参りますので暫くお待ち下さい」
数分後、黒服が一人やって来た。
「サード・チルドレンだな?」
「違う」
(どいつもこいつもサード、サード呼びやがって。まだ契約してないっつーの)
シンジはいきなり気分を害していた。
「…案内する。ついて来い」
「死にたくなかったら、言葉遣いには気をつけたほうが良いぞ?」
シンジは目を細めて凄んで見せた。
「…ついて来て頂きたい」
どうやらその男はシンジの武勇伝を聞き及んでいたらしく、素直に従った。
(チッ!)
何故かシンジは残念がっていた。そんなに殺したかったのだろうか?
〜ネルフ本部・総司令官公務室〜
ここはネルフの司令室。人類滅亡を謀議する悪の巣窟である。
そこでは二人の男が怪しげな会話を続けていた。
「どうやら葛城君は納得してくれたようだな。初めはクビだと思って青い顔をしていたがな」
そう言って初老の男は、薄く思い出し笑いをする。
「体裁を取り繕っただけの異動だ。国防省との調整は付いている。実質は何も変わらない」
鬚面の男は憮然とそれに答える。相変わらずその表情は見えない。
ビービービー
内線のブザーが鳴り響く。
「碇、お前の息子が来たようだぞ」
「ふん、通せ」
プシュー
油圧式の圧着ドアが開く。そこには見知った一人の少年が立っていた。
「やあシンジ君、折角の日曜日にお呼び立てして申し訳ないね」
初老の男、冬月は気さくに挨拶の声を掛ける。
「ささ、まあ楽にしてくれたまえ」
今回は妙に腰の低い冬月の視線の先を見ると、そこにはパイプ椅子が一つ、ポツンと置かれていた。
前回の反省から用意したものだろう。もっとも司令席から10メートル以上も離れた場所に置いてあること自体、相変わらず誠意は見えなかった。
シンジは徐にそれを掴むと、ズルズルと引きずって司令席の目前まで進み出た。そして椅子をセットするとゆっくりと腰を下ろし、机の上でその手を組んだ。
どこかで見たようなポーズだ。
「「……」」
異様な光景であった。シンジとゲンドウがまったく同じポーズで、目と鼻の先で向き合っているのだ。掛けているサングラスの色こそ違うが、まるで鏡を見ているようであった。
少年が唐突に口を開く。
「やあ鬚、元気そうだね」
「……」
「シンジ君、やはりその呼び方は感心しないな。仮にも君の父親だよ?」
憮然としているゲンドウに代わって、隣に立つ冬月がシンジをたしなめた。
「じゃあ、ゾウリムシ♪」
さらに容赦がなかった。
「…益々酷くなった気がするが(汗)」
「クソ虫・汚物・下衆・クズ・畜生・ウンコ・ゲロ──さあ、お好きなのをどうぞ♪」
シンジ、君は小学生なのかい?
「シンジ、貴様…」
ゲンドウはギロリと睨みつけるが、シンジは柳に風とばかりにまったく堪えていない。
「シンジ君、それはあまりにも失礼ではないのかね?」
冬月は言葉以上に険しい視線を向けてきた。
だがシンジは口許で手を組んだままそれに答えた。
「フッ、問題ない」
「ん? …シンジ君、何を言っているのかね?」
「シナリオ通りだ」
「…おい、シンジ君?」
「冬月、俺と一緒に人類の新たな歴史を作らないか?」
「!?」
「冬月、後は任せた」
「……」
「以上、鬚のモノマネをお送り致しました♪」
「……」
辺りはシーンと静まり返った。
「…い、いや、なかなかの腹芸だね、感服したよ(汗)」
やっとのことで言葉を吐き出した冬月だったが、その顔は見事に引きつっていた。
(そもそも何故、碇のやつの口癖を知っておるのだ?)
冬月はまた別な意味でシンジを訝しがっていた。
「僕は呼びたいように呼びますから。それが嫌なら交渉はこれでお開きですね」
そう言うと、シンジは椅子から立ち上がろうとする。
それに驚いたのは冬月だ。
「ま、待ってくれシンジ君!わかった。取りあえずその話は置いておこう」
クロはジッと目の前のゲンドウを見つめている。両者は1メートルと離れていない。
(ゲンドウさん、お久しぶり。でも、だいぶ老けたのね。まあ、あれから11年も経つんだものね。 …でもその鬚はちょっと似合わないわよ?)
クロは感慨に浸っていた。彼なら無条件で自分を受け入れてくれる。そう信じていた。
「ん?何だねその猫は?また一匹増えているようだが」
冬月が怪訝そうな視線を向ける。そこには、少年の両肩にチョコンと載った猫二匹の姿があった。
「向かって右がシロ、左のがクロって言います。ほら、お前たち挨拶して」
シンジがそう促すと、
『…ニャー』×2
「ほう、なかなか利口なようだね」
冬月は素直に感心していた。
「冬月…」
何を下らない事をしている!とばかりに、ゲンドウが横目でキッと睨んだ。
冬月は気まずそうにコホンと一つ咳払いをした。
「そういえば聞きましたよ、フ・ユ・ツ・キ・副司令♪」
唐突にシンジが話を切り出した。ニヤリと口許が歪んでいる。
「貴方がその昔、僕の母さん、碇ユイに横恋慕した挙句に、お酒に睡眠薬を混ぜてホテルに連れ込もうとしたあの、元京都大学理学部形而上生物学教授の冬月コウゾウ氏その人だったんですね。いやー世間って狭いものですよねえ〜」
シンジは大仰なジェスチャーで肩を竦めて見せた。
『ふえ?』
何気に会話に自分の名前が出てきて、クロはポカンとしている。
「な、何のことだね。わわわ、私はそんなこと知らんよ…」
冬月は動揺しているのか、かなりドモリまくっていた。
「とか言ってるけどさ、鬚はどう思う?」
シンジはニヤリとして、隣のゲンドウに話を振った。
だがゲンドウはそれに沈黙で答えた。答えたと言うよりは、単に無視したという感じではあったが。
「たしか沈黙って、肯定の意味だったよね?」
シンジが都合の良い解釈でトドメを刺す。顔はすでにニヤニヤの極致だ。
「い、碇…貴様!?」
「…落ち着け、冬月。子供の戯言だ」
「う、うむ。そうだったな」
冬月は一度深呼吸をすると、何とか平静を取り戻していた。
『(ねえシンジ、一体どういうこと?)』
クロが耳元で小声で訊いてきた。
シンジが念話でそれに答える。
「(さっき言ったとおりだよ。 ──冬月コウゾウという男が碇ユイに睡眠薬入りの酒を飲ませてホテルに連れ込もうとしたのさ。もっとも未遂だったんだけどね。連れの女友達に感謝することだね。あのとき彼女がいなければ、確実にこの男の餌食になっていたんだから)」
『(嘘…)』
「(信じる、信じないはクロの勝手さ。でもいろいろと覚えがあるんじゃないの?)」
『(……)』
確かにクロには覚えがあった。酒席で意識を失い、そのとき女友達の一人に介抱されたことも覚えている。
冬月の自分を見る視線も、今思えば確かに怪しかった。
親しい女友達からも何度か冬月の黒い噂を聞かされたこともあったが、当時は流言飛語と一笑に付していた。
クロはお嬢様育ちであったため、人を疑うことに慣れていなかったのだ。だからこそ鬚に騙されたとも言えるのだが…。
(まさか冬月先生がそんなことを…)
クロは未だに信じられないようで、茫然としていた。
「コホン──そういえば、シンジ君は新居を購入したそうだね。その歳で大したものだ。遅ればせながらお祝いを申し上げておくよ」
冬月はにこやかに言葉を掛けるが、まったく誠意は感じられなかった。
どこぞのファーストフード店ではないが、スマイルはタダなのだ。
「お祝い?何か貰えるんですか?」
お祝いの言葉より、物をくれとシンジの目は強硬に物語っていた。
「いや、それはその、気持ちだけで恐縮なんだがね…」
冬月は冷や汗を流している。
(言葉はタダだからな。こいつはこういう男だよ)
シンジは今更ながら冷ややかな目を向けていた。
「しかし、よくあれだけの物件を買えるだけのお金があったものだね?」
冬月は疑っていた。とても中学生の子供に買える金額ではないのだ。
まさか例の事件と関わりがあるのか?冬月はそう勘繰っていたのだ。
「ええ、ちょっとした臨時収入がありましてね」
「ほう、どんな?」
冬月は思わず身を乗り出して訊いてくる。だが、
「内緒です♪」
「……」
何とか立ち直った冬月が、次の話を切り出した。
「シンジ君、我々ネルフとしてはだね、今の家を出てもらって、ネルフが用意した部屋に移って欲しいのだが、どうかね?」
なかなか無茶なことを平気な顔で言う爺さんである。だいぶ面の皮が厚いようだ。千枚張りなのかも知れない。
そもそもネルフが用意する部屋など、ワンルームタイプが関の山なのだ。
(何で延床面積300坪の自宅を捨ててまで、わざわざ四畳半の部屋に引っ越さないといけないんだよ?)
シンジは呆れ返っていた。
それに下手をすれば、あの昼行灯女と同居になってしまう危険性すらあるのだ。
「嫌ですよ。何でわざわざクソ狭い、それも目と耳が一杯の監視部屋に移らなきゃいけないんですか?」
シンジはキッパリと断った。しっかりと皮肉付きで。
「な!?わ、我々ネルフはそんなことはしないぞ!」
冬月は必死に否定するが、その声はしっかり裏返っていた。
「説得力ありませんけど」
シンジはジト目で睨む。
「と、とにかく、ネルフの優秀な保安部員にガードされたほうが、安全なのだよ!前にも言ったと思うが、チルドレンを狙う輩は多いのだよ」
「優秀?あの程度がですか?あんな有象無象の連中に何が出来ると言うんです?」
「クッ」
シンジの言葉は、昨日の第壱中学校での大立ち回りのことを指していた。
彼がのした黒服の男たちは、保安諜報部の中でも指折りの猛者たちであったのだ。
その事実を知る冬月は反論の言葉を持たなかった。
「では君の家にネルフの職員を同居させてはくれないかね?これはこちらとしてもギリギリの譲歩なのだよ?」
言うにこと欠いて、とんでもないことをこのジジイはほざいていた。
もちろん冬月は、その人物にシンジを監視させる腹積もりであった。
シンジは頬をピクピクしながら叫んだ。
「嫌に決まっているじゃないですか!」
「だがね、中学生の一人暮らしはいろいろとマズイのだよ。誰か大人がついていれば安心というものだよ?」
冬月は懲りもせず、次々とお為ごかしの言葉を吐き続ける。
「安心なのはネルフがでしょう?僕は不審人物を自宅に招き入れるような趣味はありませんから」
「なっ!?我々が不審人物だというのかね、君は!?」
「おや?自覚がなかったんですか?それはまた、お可愛そうに」
売り言葉に買い言葉。二人のやり取りは次第にヒートアップしていった。
「シンジ君、少し我儘が過ぎるのではないかね!!それに態度が横柄すぎるぞ!!少しは大人の言うことを素直に聞いたらどうかね!!」
冬月は思わず威圧的に叫んでいた。隠していた本性を曝け出していた。だがもはやこれは恫喝であった。
さすがのシンジもいい加減キレていた。雰囲気が一変し、ドスのきいた声で逆に凄み返した。
「無理難題を言ってんのはテメエのほうだろうがこのスカタンっ!!それ以上言うのならこの話はここまでだなっ!!」
シンジはガタッと席を立った。
焦ったのは冬月である。予想もしない少年の豹変ぶりにビビリまくっていた。
「なっ!?わ、わかった。私も少し言い過ぎたようだな。謝罪しよう。この話は諦めることにする」
(二兎を追う者は一兎をも得ず…仕方ないか)
冬月は口惜しそうに目を閉じた。
シンジも少し落ち着きを取り戻した様子で、再びパイプ椅子に腰を下ろした。
そして、ぼそっと呟いた。
「ふん…一応言っておきますがね、僕の自宅は『大使館』扱いとして特別に認可されていますから、気をつけてくださいよ。あそこって治外法権ですから」
シンジは何気にサラリと重大事項を喋っていた。
「「なんだと!?」」
「下手に僕を監視したり、敷地内に不法侵入しようものなら、命の保障は出来ませんからね。まあ、ネルフはそんなことはしないとは思いますが、一応念のために忠告だけはしておきます」
シンジは目の前の男たちをニンマリとした目で睨みつけた。
その目は「やったら確実に殺す」というよりは「カモーン」と挑発するものだった。
「「……」」
二人の男は沈黙している。
(ここまで事態が深刻だとはな。これじゃ下手に手が出せないぞ。シナリオの一部修正が必要だな。まったく頭が痛いことだ…)
さすがの冬月も、予想外の事態に頭を抱えていた。
ゲンドウは相変わらずその表情は読めない。だがその体は何故か小刻みに震えていた。
「碇シンジ君。我々ネルフは、先に君が提示した条件をすべてのむ用意があるのだよ」
冬月はそう言うと、シンジの目の前に一枚の契約書を差し出した。それはシンジの採用契約書だった。
小さな字でかなり細かく記載されており、一般人が見たら途端に嫌気がさして相手に促されるままにハンコを押してしまいそうな難解な文面だった。まあ、それを狙っているのだろうが。
だがシンジは、瞬時にすべての記載事項に目を通し、その内容を把握していた。
契約書(任用辞令)には、事細かな採用・勤務条件が記載されていたが、重要部分を抜粋してみよう。
ネルフ本部・戦術作戦部作戦局第一課付、特務准尉として任官
給与・待遇については、ネルフ規定に基づいて、階級に応じて保障
3億アメリカ$(税抜き)の報酬の支払い
葛城ミサトの懲戒免職(即時)
冬月コウゾウの降格(即時)
出撃一回毎に手当として100億円(税抜き)の支給
使徒一体の撃退毎に成功報酬として500億円(税抜き)の支給
訓練・実験の免除
プライバシーへの不干渉(盗聴・盗撮・監視・警護の撤廃)
右の条件を甲(ネルフ)が遵守することにより、乙(碇シンジ)はサード・チルドレンとして特務機関ネルフの支配下に置かれることを誓約する。 ──等々である。
シンジはジッと書面を睨みつけていた。
(やはり、踏み倒す上で都合の悪いところはキッチリ削ってあるな…タヌキ共め!)
(契約不履行の際の罰則の取り決めなんて、僕が犯した場合は事細かに記載されているけど、…ネルフ側が犯したときのことは何一つ書かれていないじゃないか! …完璧になめているな、こいつら)
(しかも契約期間は終身で、一度契約したらこっちからは解約不可だって? …こんな重要なことを、こんな小さい字で、しかも端っこに書きやがって!)
シンジは沸々と怒りのゲージを上昇させていた。
「どうかね?サインしてくれるかね?」
何食わぬ顔で冬月はシンジの顔色を窺っている。嬉々とした表情が漏れていた。
にこやかに微笑んでこそいるが、この男、この笑みの中に刃を隠しているのだ。
(こいつ、臆面もなくいけしゃあしゃあと(怒)…もう少しキツメの罰を与えたほうが良さそうだな)
シンジは心の中でニヤリと口許を歪めていた。
「葛城ミサト絡みの迷惑料込みで、報酬を増額させてもらうよ?」
シンジはいきなりそう言うと、ジャケットの内ポケットから赤ペンを取り出すと、"3億アメリカ$"の箇所に二重線を引いて、新たに数字を書き入れた。
「なっ!?」
書き込まれた数字は、"1919億1919万1919円"であった。
「いくらなんでも少しばかり吹っ掛けすぎではないのかね?」
冬月はおかしな数字の配列よりも、金額の大きさのほうに驚いていた。
「構わん」
横からゲンドウが了承した。
「(いいのかね?)」
「(どうせ踏み倒すのだ。言い値を言わせておけばいい)」
キツネとタヌキはヒソヒソ話に花を咲かせていた。
ここでシンジがもう一つ要望をした。
「あとさ、この猫たちもネルフではフリーパスにしてくれないかな?できればエヴァにも一緒に乗せたいからね」
「な!?シンジ君、遊びではないのだよ?それはいくらなんでも──」
似非常識人の冬月が難色を示すが、
「構わん」
またもや横からゲンドウが了承した。
「(本当にいいのか?)」
「(別に問題なかろう。前回はあの白いのを乗せて初号機を起動させたのだ。気にすることもあるまい)」
キツネとタヌキはまたヒソヒソ話をしていた。
(さーて、本題に入るか)
シンジは心内でニヤリと笑うと、口を開いた。
「あの葛城って女、クビにした後、どうなるの?」
冬月がそれに答える。
「復員後に、彼女の古巣である戦略自衛隊が復隊を認めるそうだ」
だがシンジは悪魔のような微笑で、引導を渡した。
「ふーん。でもまさか、ここをクビにした後で『この度、戦自から出向してきた葛城一尉だ』とか言って、またここに復職させるようなマネはしないよね?」
「「!!」」
途端に目を見張る男たち。
どうやら図星だったらしい。驚愕の表情をシンジに向けている。
シンジはさらに続ける。
「冬月副司令の降格も『一週間後には昇格して元通り』っていうオチじゃないよねえ?」
「「!!!」」
これまた図星だったらしい。
シンジはお構いなしに続ける。
「報酬や手当の件も『支払うとは言ったが、支払い期日までは決めてはいない』とか言って、ある時払い(つまり踏み倒し)を決め込むつもりじゃないよねえ?」
「「!!!!」」
図星の連発である。
そしてトドメ。
「盗聴・盗撮とかも『ネルフは知らん。それは敵対組織の仕業だ』とか言い張るつもりじゃないでしょうね?」
「「!!!!!」」
もはや何も言うまい。
((……))
二人の男たちは口をパクパクさせながら、自分たちの企みが何もかも看破されて放心状態に陥っていた。
「どう?何か言いたいことはある?」
シンジがにこやかに語り掛ける。内心は失笑を堪えるのに必死であったらしい。
「…シ、シンジ君、それは──」
冬月は何とか誤魔化そうと、やっとのことで口を開いた。だがそれを横のゲンドウが押し止めた。
「(ダメだ冬月!何も言うな!余計なことを言えば『言質』を取られる!黙っていればいい。否定も肯定もせずにな…)」
「(う、うむ。そうだな)」
だがシンジはそんな彼らの心中を読むかのように、一歩踏み出していた。
「──万一そうなると嫌だからね、一筆書いてもらおうかな?」
「「なに!?」」
二人の男たちは予想外の展開にたじろいだ。
シンジは話を続けた。
「一応、契約書は四部ほど用意してくれない?もちろん印鑑証明付きでね。 ──あと、立会人を二人ほど入れるからさ、その分のスペースを空けといてね」
「立会人…だと?」
珍しくゲンドウが訊き返した。
「そう。日本国総理大臣と国連事務総長の御二方。幸い僕にはコネがあるんでね。まあ、反故にされたときの用心だと思ってくれればいいよ」
シンジのその話に、冬月が慌てて口を挟んできた。
「ま、待ってくれたまえっ!碇シンジ君!何もそこまでしなくても!(マズイ、それはマズすぎる!)」
このままでは用意したシナリオがすべて水泡に帰してしまうのだ。冬月の焦りは当然であった。
「そうですか?でもやっぱり契約はキチンとしたものを用意したほうが安心ですからね」
シンジはまったく聞く耳を持たない。まあ、知っててやっているのだから当然ではあるのだが。
だが冬月は諦めない。必死に食らいつく。
「契約書の様式なんて簡略なもので済ませてもらっても、ネルフとしては一向に構わないのだよ?それに手間が掛かって大変だと思うよ!」
「いえいえ大丈夫ですよ。御二方の署名・捺印はこの僕が責任をもって貰って来ますから。ネルフにお手数をお掛けすることは致しませんよ。それに御二方とも第二新東京市にいますからね、すぐですよ♪」
シンジは冬月の申し出をやんわりと断った。まさに確信犯であった。
余談ではあるが、第二新東京市は日本の首都であるため、日本の首相がそこにいるのは当然である。
では何故、国連事務総長も同じ場所にいるかというと、国連本部も日本の第二新東京市に存在していたからである。セカンド・インパクトの際に、アメリカ・ニューヨークの国連本部ビルは水没してしまい、結果、日本に移管されていたのだ。
「(マズイぞ碇!そんなものを用意された日には、言い逃れできんぞ!)」
「(……)」
「(何とか言ったらどうだ!「所詮子供の浅知恵」ではなかったのか?)」
「(…使えないヤツめ)」
「シンジ、貴様には失望した。もう会うこともあるまい。ここから出て行け!」
前回と同じようなことを言うゲンドウ。
だが慌てたのは冬月のほうだ。
「(なっ!貴様、本気か?)」
「(大丈夫ですよ、冬月先生。こうなったら少々強引な手を使うまでです。何も問題ありませんよ)」
ゲンドウは丁寧な言葉遣いで囁いた。自信に満ち溢れている証拠である。
『ゲ、ゲンドウさん、待って!』
そのときクロが突然大声で叫んだ。必死の声だった。
だがもちろんゲンドウにはクロの声など届かない。
クロは覚悟を決めると、シンジの肩からヒョイと机に飛び降りるや、トテトテとゲンドウの許に近づいた。その表情に親愛の想いを込めて。が──
バキッ!
『ぎゃっ!』
クロはゲンドウの右手の甲で思いきり払われて、床に転げ落ちていた。
「ふん!汚らわしい」
ゲンドウは床に転がるクロを汚物を見るかのような目で見つめ、自らの手の汚れ(おそらくクロの血)をハンカチで拭った。
『ク、クロ!大丈夫!?』
血相を変えてシロが駆け寄るが、
『うぅ…』
クロは苦しそうに呻き声を上げていた。
そして…首が変なほうに折れ曲がっていた。
『え、首の骨が折れてる!?』
クロはもはや虫の息だった。
だがシンジは眉一つ動かさない。ジッとゲンドウの瞳を睨みつけていた。
「その畜生どもをさっさと摘み出せ!虫唾が走る。とくに猫はな」
『どっちが畜生だよ!!』
シロは思わず怒鳴り返すが、悲しいかなゲンドウにはその声は届かなかった。
畜生に畜生と呼ばれて、シロはだいぶカチンときていたようだ。
「…じゃあ交渉決裂ということで、僕はこれにて失礼するよ」
シンジは平然とそう言うと、席を立った。
そしてクロとシロを優しく抱き上げると、そのまま司令室を後にした。
「おい碇、その強引な手とやらは、今使わないのか?幸いサードは今、ネルフの只中にいるのだぞ?押さえるとしたら、今が絶好のチャンスだと思うが?」
冬月は強く進言するが、ゲンドウは平然としている。
「なに、慌てることはありませんよ。まだ次の使徒が現れるまで時間があります。やつには今暫くシャバを謳歌させてやりましょう。それに天国から地獄に突き落としたほうが効果的というものですよ。こちらの準備が万全となり次第、実行に移しましょう。ねえ、冬月先生?」
そのほうが面白いではありませんか。ゲンドウはそんな自信たっぷりな目で冬月に同意を促していた。
そのとき、
バキッ!
「「!!」」
目の前の机が真っ二つに割れていた。
ゲンドウは例のポーズで両肘を机についていたため、そのまま前のめりに転倒してしまった。
咄嗟のことで受身も取れなかったようだ。
そして強かに顔面を強打してしまっていた。
「ぐおおお〜」
ゲンドウは自らの鼻を手で押さえて呻き声を上げまくっていた。
見ると、大量の鼻血をダラダラと流している。
「おい、大丈夫か?」
冬月が慌てて駆け寄る。
「ぐうう…何が起こったというのだ?」
「わからんよ。しかし総チタン合金製の机が、いきなり真っ二つに割れるとは…」
二人の男たちは、暫し茫然としていた。
〜ネルフ本部・通路〜
ここは本部施設内のとある通路。
その人気のない場所にカツカツと足音だけが響いていた。
そこには一人の少年の姿があった。シンジである。
シンジは司令室を出た後、出口を求めてこの人気のない通路を一人歩いていたのだ。
シンジの両の掌の中にはクロの体が収まっていた。シンジはこわれものを触るかのようにそれを優しく包み込んでいた。
シロはというと、シンジの左肩から心配そうにクロの容体を注視している。
『ぅ…』
クロは断末魔の痙攣を繰り返していた。既に手足は硬直を始めている。
『ねえ!クロってば、死にそうだよ!?』
シロが今にも泣き出しそうな表情で訴えかける。
「そうだね。 …あと一、二分で死ぬかな」
(死んだら、生き返らせればいいだけだし、問題は、ないけど…ね)
そう言いつつも(思いつつも)シンジの顔色は優れない。
『そんな!助けてよ!シンジならできるんでしょう!?』
シロは必死に嘆願する。こんな必死のシロは初めてである。
「…愛しのゲンドウさんに殺されたんなら、この女も本望じゃないの?」
シンジは嘯く。それが本心かどうかはわからない。
『そんなこと言わないで!お願いだよ!』
必死に頼み込むシロに折れる形で、シンジが切り出した。
「…しょうがないね。じゃあ、本人に訊いてみるか」
『???』
シンジは自らの掌の中に蹲るクロをジッと見つめる。
クロはその苦しさから縋るような目をシンジに向けていた。おそらく「助けて、シンジ」と訴えているのであろう。
「クロ、いや碇ユイ、君は何を望むんだい?安楽なる死かい?それとも──」
シンジの雰囲気が一変していた。
『(……)』
クロは必死に口をパクパク動かすが、まったく声が出ない。だが、
「…わかった。その望み叶えよう」
シンジの掌が、クロの体が淡く発光し始めた。
そしてそれに合わせるかのように、シンジの両眼も紅く輝いていた。
一瞬の後、光は消えていた。シンジの瞳の色も雰囲気も元に戻っていた。
『──あ、あれ?』
今までの苦しさが嘘のように消え、クロは面食らったようにキョトンとしていた。
『クロ!大丈夫なの?』
『え、ええ。大丈夫…よ』
クロは首をコキコキしながら、その体のどこにも異常がないことを確認する。
「どうだいクロ、気分は?」
シンジが優しく声を掛けた。
『ええ。シンジが助けてくれたの?』
「…シロに感謝することだね。必死に頼み込んでくれたんだから」
『そ、そう。ありがとうね…シロ』
『え? …いや、その…』
シロは妙に照れていた。顔は真っ赤である。
それを柔和な表情で見つめるシンジ。だがどこか寂しそうだ。
(これでいい…これで…)
シンジはその両肩に猫二匹を載せて、再び歩みを進めていた。
『そんな…たしかゲンドウさんは大の猫好きだったはずよ』
そのクロの自問の声に、シンジが異論を挟んだ。
「へえ、初耳だね。 …たしか鬚は小動物は大嫌いのはずなんだけど。特に猫はね(…赤木博士の飼い猫も部屋から叩き出したくらいだからね、あの鬚は)」
ちなみに赤木博士の部屋を追い出された猫たちは、現在、彼女の祖母の家に身を寄せているらしかった。
『そんなはずないわ!だってカインとアベルが死んだときには、一緒に泣いてくれたもの!』
カインとアベルとは、碇ユイが学生時代に飼っていた猫の名前である。
それはユイがまだ幼いときに両親からプレゼントされた双子のアメリカン・ショートヘアで、彼女が大学生になって実家を出た後も、新居に連れてきたほどの大切な家族であったのだ。
だが、ゲンドウと交際を始めて暫くして急死した。当時のユイはそれを老衰と信じて疑わなかった。
「普通、老齢とはいえ、猫二匹が同時に死ぬか?科学者なんだから、ちょっとは疑えよ!」
シンジが呆れたように言う。
『どうゆうことよ?』
「あれは毒殺なんだよ。エサに青酸ソーダが混ぜられていたんだよ」
その衝撃的な言葉にクロは息をのんだ。
『な!? ──酷い!誰がそんなことを!』
(ここまで言ってわからないって…天然か?)
シンジは呆れつつも、ヒントを与えることにした。
「当時、碇ユイのマンションの鍵を持っていた人物は、君の他には一人しかいなかったと思うけど?」
『!! …そんなはず、ないわ!』
クロはようやく意味を察したが、にべもしゃしゃりもなく否定した。
この女、なかなか手強かった。シロ以上だ。
「碇、いや六文儀ゲンドウってさ、孤児だったってこと知ってるよね?」
唐突にシンジが話を変えた。
『え? …ええ、そうよ。ゲンドウさんはそんな逆境にも負けず、苦学して立派になったのよ』
いきなり話題が変わってクロは当惑したが、瞬時に気持ちを切り替えていた。
ちなみにシロはその事実を知らなかったようで、興味深そうに聞き入っている。
「ふーん、立派…ねえ」
シンジは顎を撫でながらニヤニヤしている。
「…アイツがどんな幼少時代を過ごしてきたか、知ってるの?」
『それは…いろいろと苦労したって聞いたわ。孤児院でもよくイジメられたって…』
クロは上目遣いに追憶しながら答えた。
「まあ、イジメられたというのは事実だね。もっともイジメたことのほうが圧倒的に多かったけどね。 ──アイツは恨みはいつまでも覚えておく性質でね。イジメられたら、文字通り百倍返しにしていたよ」
シンジは、まるでそれを見てきたかのように語っていた。
「そういえば、あいつが小学生の頃、あいつをイジメていた年長の少年が、突然神隠しに遭ったこともあったなあ──どうなったんだろうね、その少年は?」
シンジはニヤついた目線を流し目でクロに向けた。
『?』
クロは言っている意味がわからずにポカンとしている。
だが次の瞬間、信じられない衝撃の言葉がシンジの口から飛び出した。
「…今でも孤児院の裏山に埋まっているよ。やつの記念すべき殺人第一号だね。死因は鈍器による脳挫傷。今度掘り返してみない?もうとっくに白骨化しちゃってるけどさ。 ──アイツにプレゼントしたら泣いて喜ぶんじゃないの♪」
シンジはヘラヘラと笑っている。
『!!!!』×2
『…嘘よ!私はそんなの信じないわ!』
クロは信じるわけにはいかなかった。
それを信じてしまったら、彼を愛し、彼に純潔を捧げ、彼と結婚し、彼の子供まで生み育てた、この10年のすべてが、いや自分の人生すべてが否定されかねないのだ。
それだけは絶対に認められなかった。
「クックックックッ──頑固だねえ。父親に似たのかな? …まあ、後で動かぬ証拠を見せてあげるよ♪」
シンジは楽しくて仕方がないようだ。顔は弛みっぱなしであった。
『…しょ、証拠ってなによ?』
クロは恐る恐る訊いてみた。さらに窮地に陥るとも知らずに。
シンジは怪しく薄笑いすると、それに答え始めた。
「映像だよ。猫二匹と少年一人を殺害する現場のね。今すぐ見せたいのは山々だけど、ここじゃ人目があるからね。帰宅してからじっくりたっぷり見せてあげるよ」
もちろん映像とは〈ユグドラシル〉の記憶から引っ張り出してきた過去の映像のことである。さすがにそんなものをネルフの只中で鑑賞するわけにはいかないのであろう。 …本人はやりたがっていたが。
『…そ、そんなもの──』
私は信じない。なおも事実を受け入れられないクロが否定の言葉を吐こうとするが、シンジがそれを遮って語り出した。
「小学生の頃といえば、ちょうど同じ頃に面白い逸話があったなあ」
シンジは顎に人差し指を置くと、上目遣いで思い出し笑いをしていた。
『…何?』
クロが答えないので、今まで傍聴に徹していたシロが代わりに促した。
その声を待っていたかのように、シンジは喋りだした。
「縁日でね、ヒヨコが売られていたんだよ」
『ヒヨコ?もしかしてあのカラフルなやつ?』
縁日のヒヨコとは、カラースプレーを施したヒヨコのことである。何故かシロは知っていたようだ。
そのヒヨコたちはすべてがオスで、買い取っても数週間以内に死んでしまうのがほとんどであった。
今でこそトンと見なくなったが、ひと昔の縁日ではよく見かけた夏の風物詩であったのだ(残酷ではあるが)。
「うん。で、売れ残ったヒヨコをゲンドウ少年が引き取ったんだよ。香具師の兄ちゃんも処分に困っていたからね、全部オスだったし。両者の利害が一致したと。 ──で、あいつはヒヨコを引き取って何をしたと思う?」
シンジは二匹の猫たちに答えを求めた。
『…可哀想だから飼ってあげたんでしょう?』
まずは、お嬢様育ちのクロが言う。
だが、孤児院で何十羽も、しかもオスの鶏を養う余裕なんてないと思うぞ。
『まさか、食べたとか…』
あの男ならやりそうだ。シロは恐る恐る答えてみた。だが、
「二人ともハズレ♪」
暫くの静寂の後、シンジは自らの掌を握ったり開いたりしながら、冷たく答えた。
「…一羽一羽、手で握り潰したんだよ。境内の裏でこっそりとね」
『ひっ!!』×2
「あいつはねえ、自分一人で生きていけないような弱い命を見るのが、虫唾が走るほどに大嫌いなんだよ。そしてそんな命を奪うことに至上の快感を感じてるのさ。いやはや、だいぶ屈折してるよねえ…(まあ僕も人のことは言えないんだけどね)」
((……))
辺りは静まり返っていた。
その凄惨なシーンをイメージしているのだろうか、二匹の顔は真っ青だ。
「よし、特別サービスでこのときの映像も見せちゃおう♪」
『い、いらないよ!』
シロがやっとのことで口に出した。
『父さん、諦めたのかな?』
シンジが通路を歩いていると、突然シロが耳元で訊いてきた。
端折ってわかりにくいが、シロが言いたいのは「ネルフはシンジをサード・チルドレンにすることを諦めたのか?」ということである。
「んなわけないじゃん」
シンジは呆れたように突っ込む。
『はあ、…やっぱりそうだよねえ』
シロは深く溜め息を吐いていた。先が思い遣られるのだろう。
二人の会話は進む。
「国籍もダメ、治外法権や外交官特権もダメとくれば、残る方法はそうはないと思うよ」
『例えば?』
「そうだねえ。 …まず考えられるのは、親権者としての立場を主張して、僕の身柄を強引に押さえるケースかな。だけど、すでに鬚は僕の親権者じゃないからね。内々に法的手続きを進めたから、たぶん剥奪されていることすら、未だに気付いていないと思うよ。 ──でもこの方法はイマイチだね。僕の持つ外交官特権に抵触する可能性を否定できないから。ネルフもそれはわかっているはずだよ。だからたぶん、この手だけでは攻めて来ないね。まあ、使うとしたらオプションかな(…いや、あの女だとそんな常識が通用しないから、用心だけはしておいたほうが良いかも知れないね)」
そのとき外野から突然大声がした。
『シンジ!ゲンドウさんに親権がないって、一体どういうことなのよ!?』
唐突に横からクロが口を挟んできたのだ。
クロは傍聴者をきめこむつもりでいたが、さすがに聞き捨てならなかったのか、声を張り上げていた。
「そのまんまの意味だよ。アレは僕の父親じゃないってことさ。今の僕の親権者は、とある国の王様なんだよ?」
『なっ!? …あ、貴方は私たちの息子なのよ!?』
信じられないといった表情で、クロは強く問い質した。
だがシンジは相変わらずどこ吹く風といった感じで、それに答えた。
「何度も言うようで悪いけどさ、僕はあんな外道を父親に持った覚えはないよ。それにクロだって、すでに鬼籍に入っている身だから、そもそも親権なんてないんだよ?」
『屁理屈を言うんじゃありません!』
クロが母親面で強くたしなめた。もはや馬の耳に念仏だ。
「(埒が明かないな…)まあこの話は別の機会にということでいいかな?時間もないし、場所も場所だしさ?」
シンジが堪らず一時休戦を申し出た。
『…まあいいわ。このことは後でじっくり話し合いましょう。 …ところでさっきの話にあった「外交官」って何のことよ?』
「ああ、それね。僕は某国の駐日特命全権大使でもあるんだよ。ほら──」
そういってシンジはジャケットの内ポケットから深緑の手帳を取り出すと、パカと開いて見せた。
『!! …何故そんなものに?』
「そりゃ、鬚への嫌がらせのためにだよ♪」
『……』
クロは黙り込んでしまった。いろいろ彼女なりに考えを巡らせているのだろう。
(シンジ、何故それほどまでにあの人を憎むというの?)
「さあて、随分と横道に逸れてしまったね、シロ。 …ええと、どこまで話したっけ?」
シンジは通路の角を曲がりつつ、シロに確認を入れていた。
『ネルフが次に打ってくる手段の話だよ。親権者の話までは聞いたよ』
肩の上からシロが律儀にフォローする。
ちなみにクロは大人しくしていた。眉間に皺を寄せて何かを必死に考えているようだった。
「ああ、そうそう。コホン、──親権者の立場を盾にする手を『表』とするならば、コレは『裏』の手段と言えるね。そして恐らくは一番可能性が高い」
『それは何なの?』
シロはゴクリと固唾を飲んでシンジの言葉を待った。
「いや、何てことはないよ。 ──力ずく且つ極秘裏に、この僕を拉致・監禁、洗脳してしまうことさ♪」
シンジはサラリと言ってのけた。
『…それは確かにやりそうだね』
「でしょ? ──バレなければ犯罪ではない。知らぬ存ぜぬで法律なんて謀れる。やつらはそう考えているからね。ある意味、ネルフらしい手段だよ。 …でも無理だね。この僕はそんなに甘くはないから」
シンジはニヤリと微笑み返した。
「ああ、そう言えば、もう一つあるか…実にネルフらしい選択肢が」
シンジは何かが閃いたかのように、呟いた。かなり楽しそうである。
『ん、何?』
「フフフ、人質を取って脅迫するのさ──エヴァに乗って使徒と戦え!もしくは、抵抗せずに洗脳手術を受けろ!拒否すればこの人質は殺す、ってね。まあ、テロリストがよく使う常套手段ってやつだよ」
『…はあ、ソレ、やりそうで怖いよ(汗)』
「人事だと思っているみたいだけどさ、人質(猫質?)候補の筆頭はシロたちだよ?」
シンジは呆れたような目をシロに向ける。
『げえ…』
途端に嫌な顔をするシロ。
「あとは僕の知人関係かな。今のところはクラスメイトぐらいしか知らないけど──まあ、何とかなるんじゃない?(それはそれで面白いしね♪)」
「…ただ、不確定要素があるんだよねえ」
シンジが眉間に指を伸ばすと、首を小さく横に振りながら付け加えた。
『え?何なのさ?』
シロが驚いて、聞き返した。
あのシンジがこんなことを言うなんて、シロにとっては些か意外であったのだ。
「…葛城ミサトだよ。アレって、ときたま常識では計れない『動き』をするだろ?」
『うっ、確かに…(汗)』
シロは冷や汗を流すと、深く頷いた。
さすがのシンジもあの女には手を焼いているようだった。
(そろそろ殺しちゃおうかな?)
「待ちなさい!サード・チルドレン、碇シンジ!」
もう少しで地上ゲートというところで、シンジの背後から彼を呼び止める声がした。
噂をすれば影であった。
さすがにシンジとシロは顔を引きつらせていた。運命の悪戯を呪ってさえいた。
シンジは一大決心をして振り返ると、案の定、そこにはあの葛城ミサトがいた。途端にゲンナリするシンジであった。
見ると、ミサトの背後にはどうやって調達してきたのか、黒服が30人ほど控えていた。
赤いジャケットの女は得意気に叫んだ。
「このまま逃げられるとは思わないことね♪」
ミサトは虚勢を張った。
どうやらこの女、毛が三本足りないみたいだ。学習能力がスッポリと欠落している。
「…もとより逃げるつもりなんてありませんよ(取りあえず、お前以外は皆殺しにするつもりだから♪)」
シンジは多少辟易しながらも、これから起こる殺戮ゲームに心躍らせていた。
だが、その少年の言葉をただの強がり、虚勢だと踏んだミサトは、フンと鼻先で笑い飛ばした。
「いい覚悟だわー、と言いたいとこだけど、…褒められると思ったら大間違いよ。碇シンジ君♪」
ミサトは何とも言えない愉悦の表情を浮かべて、シンジを睨みつけた。
「フフフ…さあ、お前たち!やっておしま──」
スパーーーン
ミサトの後頭部を謎の衝撃が襲った。
ミサトは両手で頭を押さえてしゃがみ込み、声にならない声を上げている。かなり痛そうだ。傷に響くのだろう。
彼女の背後から声がした。
「…何をやっているのかしら、葛城一尉?」
ミサトが半ベソを掻きながら後ろを振り返ると、右手にスリッパを持った一人の般若がそこにいた。
「…あら、リツコぉ〜」
頭を両手で押さえながらも、バツが悪そうな表情のミサト。顔が少し引きつっている。
リツコはギロリと黒服たちを見据えて叫んだ。
「貴方たち、直ぐにこの場から解散しなさい!これは碇司令の意に反することよ!」
「「「「「!?」」」」」
黒服たちはざわめきだした。少し話が違うのではないかと。
黒服の一人がオズオズと口を開いた。
「赤木博士、それは一体どういうことでしょうか?我々はその碇司令からの命令を受けて──」
「あ、馬鹿っ!シィーッ!黙ってなさいっての!」
ミサトが物凄い形相でその黒服の男を睨みつけた。
…その瞬間、リツコにはすべての筋書きが読めてしまった。
「…ミサトが言ったのね?」
「あ、はい。碇司令の命令だから、黙って自分について来いと…」
リツコはミサトのほうを振り向いた。その顔は一見穏やかだが、こめかみには青筋が浮き出ていた。
「ミサト、どういうことかしら?碇司令はサードを確保しろという命令は出していないわよ?」
既に確信はしていたが、怒りを抑えてリツコは目の前の親友に訊ねてみた。不気味なほどにこやかな顔で。
「う…そりは、その…」
ミサトは言葉に詰まっていた。左右の人差し指同士を胸元で水平にツンツンさせている。
「もし貴女が偽の命令をでっち上げたのなら、…あなたクビになるわよ?(でも無理ね。ミサトは手厚く保護されているから)」
「!! …あ、アタシはそんなの知らないわ!こいつらが勝手について来ただけよ!」
クビという言葉に反応して、ミサトは咄嗟に口から出まかせを吐いていた。もちろん保身のためである。
「「「「「なっ!!」」」」」
この瞬間、保安諜報部でのミサトの評判も地の底まで落ちることが決定した。
「…ふう。もういいわ。貴方たちも解散して」
リツコが諦めたかのように口を開いた。
(どうせ、言った、言わないの水掛け論に終始するだけでしょうしね。でも一応、碇司令には報告だけは入れておくか)
そのときミサトが横から異を挟んできた。
「何でよ!?このままサードを逃がせって言うの!?イヤよそんなの!!」
ミサトがブツブツ文句をたれるが、そこに特大の雷が落ちた。
「いいから言う通りにしなさいっ!!」
「は、はい〜〜」
触らぬ神にタタリなし。ミサトはピューーッと何処かへ走り去っていった。
ミサトたちがその場を去った後、リツコは一つ大きな溜め息を吐くと、シンジに声を掛けた。さすがにかなりバツが悪そうな顔をしている。
「サード…いえ、碇シンジ君。本当に済まなかったわね。どうかこのことでネルフを嫌いにならないでね」
「いえいえ(もう既に嫌いだし)、なかなか面白い寸劇をタダで見れたんです。こちらこそお礼を言いたいくらいですよ」
「…そう言ってもらえると助かるわ」
リツコは複雑な表情をしていた。
シンジはこのとき重大なことに気づいた。
(あれ? …ひょっとして黒服たち、殺しそこねたとか?)
どうやらストレス発散はお預けのようだった。
〜ネルフ本部・第三実験場〜
ここはネルフ本部の第三実験場。エヴァの起動実験等を行う実験場の一つである。
エヴァ参号機は現調作業を行うために、ケイジではなくこの場所に搬入されていた。
だが、搬入に至るまで、一悶着も二悶着もあったらしい。
まず、参号機を運んできた輸送機の着陸の問題だ。
ネルフ本部は、このような大型輸送機を離発着させるだけの滑走路を第三新東京市内には保有してはいないのだ。
長野の松代試験場まで足を延ばせば存在しているのだが、ゲンドウの鶴の一声でそれは却下されていた。
ネルフ本部の担当官は悩んだ挙句、特務権限をちらつかせて民間空港である第三新東京国際空港の全滑走路を一時的に収用し、しかも機密保持のために空港職員・一般旅行客を数時間にわたってシャットアウトした上で、全長100メートル、翼長200メートルを超えるエヴァ専用の大型輸送機を着陸させていた。
つい数時間前の出来事である。
着陸した輸送機は二機。一機には参号機本体が、もう一機には参号機のオプションパーツが搭載されていた。
しかし、日曜日の集客ピーク時に迷惑な話である。経済的損失は500億円を下らないだろう。だがネルフはこの件で何の補償もしてはいないし、するつもりもなかった。
余談だが、金婚式のお祝いとして孫からプレゼントされた旅行がパーになった老夫婦のコメント。
「ネルフは鬼じゃあ!責任者出て来ぉ〜い!」
ちなみにその責任者はというと、今この管制室で実験の様子をジッと眺めていた。
本来なら、この手の作業には隣の第二実験場を使用するのだが、そこは一カ月前の零号機の起動実験での暴走事故のため、現在も使用不能になっていた。
第二実験場の管制室は大破し、零号機は特殊ベークライト漬けにされ、停止信号プラグを脊髄部に挿入されたまま第二実験場内に放置されており、使いたくても使えない状況にあるのだ。
すでにエヴァ参号機の現調作業はネルフ本部の技術者のみで完了していた。
第一支部から随伴してきた技術者たちは、説明もなしにいきなり実験場から締め出され、翌日、失意のうちに帰国していた。
後日、第一支部を通して正式な抗議があったらしいが、鬚面の男は気にもしなかったらしい。
「どう、ダッシュ君?」
リツコが管制室のモニター越しに声を掛ける。
《はい、調子良いみたいです》
青のプラグスーツ姿のダッシュが笑顔で答える。
どうやらこのプラグスーツは彼専用となったようで、胸元の数字のロゴは、いつの間にか「01」から「03」へと変更されていた。
すでにLCLが注入されているのか、モニター越しに映るエントリープラグ内は明るい。
今回、ダッシュはシンクロ目的ではなく、あくまで「試乗」という形でこの参号機に搭乗していた。もちろんゲンドウの指示である。
「マヤ、シナプス挿入からスタートしてみてちょうだい」
リツコが隣のオペレーター席にいるマヤに指示を出した。
「え?シンクロは出来ないはずじゃ?」
「それはわかってるわ。でもこれは碇司令の命令なのよ」
リツコはそう言うと、エントリープラグ内の少年に通信を入れた。
「ダッシュ君、いきなりで悪いんだけど、このままシンクロ実験に入るわ」
《はい、わかりました(こちらも望むところだよ)》
「あと、今回は失敗しても別に気にしなくていいわ(失敗するのはわかりきっているしね)」
《了解です。でも一応頑張ってみますよ》
ダッシュは自信満々だったが、控え目に答えた。
「マヤ」
リツコが彼女の名前を呼ぶ。
「はい、A10神経接続開始します」
そう言ってマヤは目の前のキーボードに指を走らせた。
実は、エントリープラグのパーソナル・データの設定はデフォルト値のままである。
それに加えて参号機に実装されているのは、アメリカ・第一支部が初期運用のために精製した汎用コアであり、そこに封入された【魂】は、ダッシュにとっては縁もゆかりもないまったくの赤の他人であった。
つまり、この状態で起動レベルのシンクロを果たすことは、理論上限りなくゼロに近かったのである。
だが、そんな裏事情を知らないダッシュは、参号機との直接シンクロを果たすために、意識を集中させていた。
(よし、見つけた!)
(参号機、僕に従うんだ!)
(抵抗しても無駄だよ。フフフ、僕は君より強いからね)
(言うことを聞かないと、お前、殺しちゃうよ?)
(そう、良い子だ。殺されたくなかったら、この僕に服従するんだ。いいな?)
管制室側では、参号機の起動シーケンスが順調(?)に進められていた。
「ハーモニクス正常値。シンクロ率、えっ!?──」
突然マヤの言葉が途切れた。
「どうしたのマヤ?続けなさい」
「あ、はい。シンクロ率100パーセントです」
「シンクロ率100パーセント!? ──そんな、ありえないわ。理論値を超えているのよ?それもコアの換装もなしで、そんな──」
リツコはそこで言葉を失った。悪い夢を見ているかのようで、顔色も悪い。
99.89パーセント──それが人とエヴァとのシンクロ率の理論上限値。これを超えた場合、徐々にエヴァとの融合が始まる。そして400パーセントに達すると完全に融けてなくなってしまうのだ。
「シンクロ問題ありません。中枢神経素子異常なし。絶対境界線突破。エヴァ参号機、起動しました。 ──先輩、これって一体…」
マヤは背後を振り返り、救いを求めるような、泣きそうな目をリツコに向けた。
マヤにとっても信じられない結果なのだ。納得いく説明が欲しかったのだ。
だが頼みのリツコでさえ、驚愕の表情に固まっており、マヤの救いとはなり得なかった。
シーンと重い静寂がその場に漂った。有能なスタッフほどその意味がわかっており、言葉を失っていたのだ。
だがその静寂を破ったツワモノがいた。
「へえー、あの子、なかなかやるじゃなーい♪」
横で話を聞いていたミサトが能天気な歓声を上げていた。
(あのいけ好かないサードでさえ20パーセントそこいらであの強さ。 …ダッシュ君って家事しか能がない使えない子だと思ってたけど、…いい拾い物したわね。ケケケ、いけるわ♪)
ミサトの口許は歪み、愉悦の表情を浮かべていた。
(これで強力な復讐の駒が手に入ったわ──これで使徒もサードもイチコロよ♪)
──おい、最後にサラリと不謹慎なことを考えなかったか?
リツコは茫然と立ち尽くしていた。
(この子は一体…)
リツコは戦慄を覚えていた。モニターに映る少年に得体の知れぬ恐怖を感じていた。
(何者だというの? …でも、興味深いわね。サード以上だわ)
だがリツコは、ダッシュについては余計な詮索はするなと、ゲンドウから直々に釘を刺されていた。
これは、下手にMAGIにデータを残してしまうと、ゼーレの老人たちに彼の素性が漏れてしまう可能性を、ゲンドウが危惧したからであった。
(碇司令は彼の秘密を知っているというのかしら?)
リツコは視界の端に立つゲンドウを見つめた。
ゲンドウは強化ガラス越しにジッと実験の様子を見つめていた。その表情は相変わらず読めなかった。
「ぷっ!」
リツコは何故かいきなり噴き出した。
それに気づいたゲンドウが彼女を睨む。 …鼻の穴にティッシュを詰めたままで。
「…し、失礼しました!」
リツコは慌てて視線をずらした。
ウーーウーーウーー
突然、制御室内にけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
瞬く間に赤一色に染まるモニター群。
眼前のホログラム・ディスプレイには《ANALYSIS PATTERN - BLUE》の文字が表示されていた。
それは第四使徒の襲来を意味していた。
「そんな馬鹿な…予定ではあと一週間あったハズだ」
冬月は茫然として呟いた。極秘事項であることも忘れて、つい口を滑らせてしまっていたが、幸い誰にも聞かれてはいなかったようだ。
その隣ではゲンドウも沈黙していた。
その表情は窺えないが、かなり愕然とした様子であった。
(金髪が…ロシア女が…)
どうやら、別なことで悔やんでいたようだ。
「碇、これは一体どういうことなのだ? ──我々の、いや老人たちのシナリオにもないことだぞ!」
人目があることも忘れて、冬月が叫んだ。
だがゲンドウは平然として答える。この状況にして豪胆であった。
「…シナリオにないこともたまには起きる。老人たちには良い薬だ」
「だがどうするのだ?貴様の息子はとっくに帰ってしまったぞ!」
「…このまま参号機を出す。問題ない」
(本当にそうなのか?)
冬月は不安で堪らなかったようだ。
だがそんなことは気にも留めず、ゲンドウは命令を下した。
「総員、第一種戦闘配置。 ──葛城一尉、発令所に戻ってエヴァ参号機の発進準備だ」
「よっしゃあー♪」
ガッツポーズの拳を振り上げたミサトの歓喜の雄叫びが、制御室内に大きく木霊した。
To be continued...
(あとがき)
一番良いところで話を延ばしちゃって…。少年ジャ○プか、このSSは!
ゴメンなさい。シャムシエル、まだです。次回こそ必ず出します。
あと、少し冗長すぎる、くどすぎると思っている方、申し訳ありません。ご容赦下さい。
日常と非日常の切り替え部分をちゃんと描きたかったのですが、文才がない(謙遜ではありません)ので、
全然思い通りになっていませんね。自分でも歯痒いです。はあ…。
書き終わった後で気づいたのですが…、今回、綾波は出てきませんでしたね。
実はすっかり忘れていました(大汗)。まったく弁解の余地なしです。
次の第八話こそは使徒戦です。再び狂宴が始まります。是非ご期待下さい。
(あ、でも過度な期待はしないでくださいね)
次回もサービスサービスぅ〜♪
(追記)
冒頭の冬月によるミサトの尋問シーンですが、一部を改訂しました。
実はとりもち様から、さらに精練されたアドバイスというかネタを頂きましたので、差し替えちゃったんです(汗)。
もちろん、載せるに当たって、とりもち様の了解は得ております。
う〜ん、やっぱり格の違いを痛感させられますねえ。脱帽です。
管理人も奮起して頑張ろうと思います。道のりは遠く険しいですが。
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