ヴァンパイアロンド

第二話

presented by 綾様


青い満月が中天に昇る。淡い月明かりが差し込む石造りの部屋の中は、静かな沈黙が訪れていた。
突然の事態に右往左往していたシンジも、落ち着き事情を説明した。それ故の沈黙である。元来シンジは沈黙になれていない。今落ち着けているのは、突発的な異常事態であるということ、サードインパクト発生時の負荷に耐えきれず一度再構成された精神と、世界再生を行ったとき大量に流れ込んだ、何万という人間、生物の生きた経験を僅かだが得られたためだ。そうでなかったら何時の日か、静かなることを好む蒼銀の妖精と対峙したときの様に、狼狽していただろう。
「ガイアが機能しなかった」
柳眉な眉を寄せアルトルージュは戦いの場となった寝室で、腕組みをした。
「違うわね。動かなかった、と言うべきかしら。全てを知った上で」
細かな彫刻が施された椅子に座り、呟く。側には先程シンジと戦ったリィゾの他に、白い軽装で固めた騎士が顔をにやつかせている。足下には真珠よりも純白の毛並みを持った狼の様な大型犬がうずくまっていた。
「完全な未来予知。シュレーディンガーの猫、その結果定まらないはずの未来が確定したと言う訳ね」
ガイアにしては狡賢い事をすると天井を睨む。
シンジは声を出さない。考え事をしている時に声をかけることがいかに顰蹙をかうか知っているからだ。尤もそれを教えたのが栗色の髪の少女であり、そのたびに罵倒された事が身にしみているなど自覚していなかったが。
「そう、結局アラヤすらも。だけどアラヤは」
しばし呟き、鋭い視線をシンジに向けた。
「シンジ君」
「は、はいっ」
真剣な表情に元来からある気弱な心が浮上した。
「サードインパクトの時、何か邪魔はなかった? 例えば殺されかかるとか」
「え、えと」
「落ち着いて。急がないでゆっくり思い出したらいいのよ」
早く思い出さなければならないと、強迫観念の如く自分を追い込み、思考が空回りし容易く思い出せるはずの物を、遠ざけてしまう。それを察したアルトルージュが優しく諭す様に告げたことは、心の負担を幾分か軽くした。
「戦略自衛隊に、その殺されかけました」
戦略自衛隊という呼称に覚えはなかったが、戦略という文字から軍隊だろうと当たりをつける。
「そうじゃないわ。人以外、何か得体の知れない存在によ」
「ありません。ただ」
「ただ?」
「綾波が、その巨大化したそれですけど、赤い海になった世界で崩れていました」
崩れていた? 疑問に思い、詳細を説明する様に告げる。
「そ、そのよくわからないんですけど、遠目には岩みたいに堅くなって、いろんなところが海に落ちて行ってました」
「そう。ありがとうシンジ君」
微笑むとシンジは照れた様に顔を赤くし、頬を掻いた。
「アラヤの目標は違ったという事かしら。それとも」
巨人が石化したことはただの偶然かあるいはアラヤの介入か。それともアラヤは解け合った状態を人類だと認めたのか。声に出さず思考し、恐らく認めたのだろうと結論付けた。シンジ君の話では、その後生物を再生したと言うことだからと。
「でもそれって、失われた第三魔法にならないのかしら?」
精神と魂の扱いは神の時代で漸く扱われていた魔法だったはずだと、知り合いからの聞きかじりに首を傾げる。
だが取りあえずの疑問は解決した。後はシンジの処遇をどうするかだ。組んだ片腕を頬に当てシンジを見つめる。
どことなく怯えた波打つ瞳は一見ただの臆病者だろう。アルトルージュとしても臆病者に興味はなかった。第二魔法つまり時間移動や、平行世界への移動を果たしていたとしてもだ。
幸いドラゴンに勝るとも劣らない幻想種として覚醒しているという。故に放り出したとしても死にはしない。
だが、のぞき込む瞳はそれだけではなかった。最終的に周囲の配慮が足り無かったため表面には出にくいが、幾たびの試練に打ち勝った強者の色が出ていた。
サードインパクトへの計画では完膚無きまでに叩き折る筈だった自身・・という名の剣が、錆が浮き出て朽ちているものの、時間をかけて磨けば切れ味を元に戻すことができる範囲で収まっている。その事が、生きたいとサードインパクトから後逃げ回っていた話と、目の色に出ていた。
「シンジ君」
だから優しく微笑みながら、告げる。
「死徒にならない?」

死徒。かつて真祖と呼ばれた星の精霊達が煩っていた持病とも呼べる吸血衝動、それを慰めるために人間から異なる物へ変わった事が始まりとされる。
真祖とは、嘗て朱い月のブリュンスタッドと呼ばれた存在がいずれ滅ぼされる自身を予測して後継として生み出した失敗作だと言われている。
失敗作、その言葉は生み出した彼としてはそう見えたのかも知れないが、その真価は彼にやや劣るコピーといえた。むしろ地球という星その物が生み出した存在として、世界からの修正を受けないだけ、彼よりも遙かに上等だった。たった一つ吸血衝動をのぞいて。
吸血衝動に苦しめられた真祖達の実力は低下の一途を辿り、ついには吸血衝動を収める為の血袋としての価値しかなかった死徒達と同列になるまで落ち込んだ。実質上死徒と真祖の違いは星のバックアップがあるか無いかの違いしかなくなったのだ。
今現在、真祖は一人をのぞいて全滅している。その一人も永き眠りに落ちていることが多く、活動時間はごく僅かだ。死徒こそピラミッドの頂点に位置していると言っても過言ではない。
アルトルージュは、その死徒の中でも最上位に位置する、死徒二十七祖の一員であり、子供とも言える死徒へと化した者の質が、二十七祖を二分する勢力だと言うことを告げた。
「きゅ、吸血鬼! そんなホントにいたなんて」
顔を青ざめさせ喚く。それに微笑みかけながら歌う様に告げた。
「信じる信じないは貴方しだい。でもブリュンスタッドの名にかけて虚偽がないことを誓うわ」
何度見てもなれない微笑みに、顔を紅くしながら見惚れる。だが次の瞬間顔を青くした。
「ア、アルトルージュさん。僕さっき血を」
飲まれたんじゃ、と消える様に呟いた声はアルトルージュの耳に届き、うっそりと笑った。
「そうね。だから貴方はもう死徒」
どんどん青ざめる顔に何故かもっと虐めたくなったが、流石に意地悪だと思い直し、笑いながら真実を告げた。
「何てね。大丈夫、血を吸うだけじゃ死徒にはならないわ」
間抜けに口を開け固まるシンジに笑いを耐える。
「死徒、具体的には死者にするには噛んだ死徒の血を血管に流さないといけないの。だから大丈夫よ」
人間に混じりホラー映画を見たことがあったアルトルージュは、吸血鬼と聞いて人間が思い浮かべる像を知っていた。恐らく自身の知識と照らし合わせているのだろう、茫然自失の中で思考する内容をほぼ完全にとらえていた。
「で、でも、何時までも此処に居るわけにはいかないし」
「別に良いわよいつまで居ても。行く所はないんでしょう?」
顔を引きつらせ怯えるシンジにそっと語りかける。
「だけど勘違いしないで。此処にいる代わりに死徒になれと言っている訳じゃないわ。貴方が望めば何処にでも送っていってあげる。幻想種と言っても、精神は人間の子供と変わらないのだから」
その言葉に安堵したシンジの表情を満足そうに見つめ、言葉を続けた。
「ただ、貴方が欲しいのは事実よ。聞けばその体は、人間の異なる可能性を秘めた存在。力も人間や魔術師を越えてるはず。死徒になったらどんな存在になるのか、興味は尽きないわ」
いい知れない緊迫感に音を鳴らして唾を飲み込む。理科の実験で使われる蛙が脳裏を過ぎる。
「でもそれは付属的な物。本筋ではないわ。シンジ君」
憎くないの。そっと囁かれた言葉は、冷たい水を飲むかの様に体に染みわたる。
「何を言って」
「誤魔化さなくていいわ。此処には誰も貴方を非難する者はいない。本当の心をさらけ出して良いのよ」
安心してと、優しく呟かれる声に俯いた。頬に冷たい雫が走る。悲しくもないのに何故か涙が流れた。
自分は恨んでいるのだろうか? その言葉が幾重にも重なり、心の奥底に響いた。ゆっくりとだが確実に、重く蓋をされた何かが飛び出すのを意識の片隅で確かに感じた。
「何で」
暗い、底が見えない怨嗟の声が口から漏れ出る。
「何で僕が!」
瞬間、シンジを中心に突風が吹いた。
感情に魔力が反応してる。アルトルージュは、気付かれぬ様に憐憫の視線を送り、それと同時に、術式を介していないにもかかわらず魔力が現象となり影響したことに目を瞬かせた。
「弱くて状況に流されるままだったけど、でもあの海から帰ってこれたのは誰がやったからだと!」
俯いた顔を上げそこに誰を見ているのか涙を流しながら虚空を睨み付ける。
「みんなが僕に、僕が犯人だって! 父さんも、ミサトさんも、アスカだって、みんな、みんなが僕を!」
アルトルージュは何も言わない。ただ瞳に悲しげな色を乗せ、告白を聞く。
「ホントは解ってた。みんな誰も僕を必要としてなかったんだって。碇シンジじゃなくて、サードチルドレンが必要なだけだったんだって。でも、でも! 縋ったって良いじゃないか! それもダメだって、誰も頼れないって、誰も助けてくれないって、そんなの!」
僕は道具じゃないんだ。握りしめた拳から血を流し、俯いた。叫んでも、どれほど訴えても、誰も助けてはくれないことを知っていたから。
「シンジ君」
だから、優しげな声すら無視をした。
「貴方はどうしたいの」
それでも、言葉が心に染み込むのは防げなかった。
「今まで黙ってたけれど、この世界は、西暦一九四六年。第二次世界大戦が終わってから間もない時間帯よ。あなたの言っていたセカンドインパクトまで約五十年もあるわ。死徒になるまでの期間を考えても、十分行動の余裕がある。だから貴方が何かを、人の越えた何かを望んでも死徒という手段させ取れば何でもできるわよ」
「何でも」
暗い声で呟かれた。アルトルージュは何も言わない。ただ黙って見つめるだけだ。
「それなら僕は」
ゆっくりと上げられた瞳に炎が燃えさかる。
「みんなを」

「姫様、良かったのですか。あの者を配下に置いて」
部屋を辞した三人と一匹暗い廊下を歩む。リィゾは納得がいかなかった。対峙してみて解ったからだ、シンジは強いと。
偶然の産物とは言え、結界を突破してきたことですら脅威だというのに、魔剣さえ通用しなかった結界を持った者が、自分には劣るといえ死徒の驚異的な身体能力を得たらどうなるかなど、考えただけで寒気がした。
「問題ありません。シンジ君は自分から裏切ることはないでしょう。それにリィゾも聞いたでしょう? 彼の叫びと決意を」
何の問題もないと自室へ進むアルトルージュは、事実何も心配していなかった。彼女が見いだした者の中で反逆した者は皆無だからだ。
「ですが」
「良いんじゃないそれで」
言葉が遮られ、声の主を睨み付ける。
「フィナお前」
「そう睨まない。リィゾだって解ってるんだろ。彼が異常だって事がさ」
楽しそうに笑う白い服装の男性。フィナ=ヴルド・スヴェルテンは事実久方ぶりの楽しみに感情が高ぶっていた。
「そんな顔で見ない。確かに僕は男の子からしか血を吸わないよ。その点彼は合格だ」
睨みが強くなる。だがそれを柳に風と受け流す。
「彼は異常なほど力が強い。おまけに時間か、世界を越えた。無意識に魔法を使ったんだ。警戒するなという方がおかしい。だけど君も解っているだろう? 僕たちの真の敵が何か」
「自制すれば」
「無理だね。君は鍛錬と称しながら、剣を振り続けているけど、時々堪えきれなくなったかの様に新米死徒が作った死都へ惨殺に向かうだろう。それは何故だい?」
答えない。ただ鋭い目つきが尚更強くなった。
「退屈だからださ。僕たち死徒は殺されない限り永遠の命がある。だからこそ永久の時が僕らを腐らせるんだ」
死徒の敵。それはキリスト教の矛盾を力でただそうとする対吸血鬼機関、埋葬機関の司祭達や、敵対している死徒ではない。死徒と死徒は敵対グループを作っているが、そこに深い怨恨はない。使徒達にとって他の死徒との敵対とは命をかけたゲームに過ぎないのだ。
事実、白翼公と呼ばれる死徒は、真祖狩りを提唱し、最後の真祖が目覚めるたびに戦闘を仕掛けている。真祖は目覚めると何処に行くか解らず、その都度襲う者を決めるのだが、それが会議でなくただ賽子を振るだけと言うことから、真面目ではないことが解るだろう。
「だけど彼は良い刺激になる。今の彼の強さは知らないけど、魔力の多さだけでも異常だ。あれだけの魔力を詰め込んでいるなんて幻想種と言われるまで理解できなかったからね。普通の幻想種は死徒になることはない。だけど彼は人間の異なる可能性。つまり死徒になれるんだ。それがどういう事か解るかい? 強さの桁が何段階も上がると言うことだよ。それを思うと僕は昼も眠れないね。リィゾ、もしかしたら僕たちはもう一度見ることになるかも知れないんだ。あの朱い月を」
朱い月のブリュンスタッド。全ての原点に匹敵する者の誕生が訪れるかも知れない。それはシンジを知った三人の共通の認識だった。故にリィゾは反対する。余りにも危険すぎると。
「リィゾ、貴方の言うことも解ります。ですが見てみたくはありませんか? 貴方と互角に戦える剣士を。今は洗練された動きができなくとも、貴方が指導したとき彼は化けるでしょう。自分の手でライバルを作ってみたくはありませんか」
言葉が思考に浸食する。一瞬想像してしまった。小さな体躯で自身と同じような大剣を持ち、打ち合う姿を。
あり得ない想像ではない。リィゾの直感が囁いていた。シンジは大化けすると。
そして唯一の反対者であったリィゾが押し黙る。シンジの行方は此処に決まった。本来なら死徒まで成長するのに百年と言う月日が必要だが、誰もその事は心配していなかった。彼、シンジならば一年とかけることなく死徒と化すと、誰もが理性よりも尚深い本能で理解していたからだ。

寒い。
暗闇の中、身体ではなく心が冷える。まるでブリザードの様だと、経験したことのない吹雪という現象を想像する。
いつからだろうか、体ではなく心が冷えてきたのは。それを考え思考する。
自分を此処まで追いやった者への対応を心に決めた後、アルトルージュに再び噛まれた。その事は覚えている。その際、熱い何かが体に入り込み全身に周り、意識のブレーカーが落ちる中永遠に目の前の少女を守ろうと決めた事も覚えている。
自分ごときが彼女を守るなど戯れ言にもならないと思ったが、側に使える白と黒の騎士が心底羨ましかった。人生経験がない未熟な自分が見ても解った。彼らの間には信頼関係があると。支配者と道具ではないその雰囲気が伝わってきたから。
見たこともない絶世の美少女への感情が、憧れと恋が混じった様な感情だと朧気ながら理解できたが、結ばれることを望んでいるのではなかったので叶わなくても良かった。
そこまで思いだして何を思い心が冷え始めたのかを理解した。身の程もわきまえず可愛い彼女の血が飲みたくなった事が切っ掛けだったと。
それはたった一人存在する真祖の姫君と同じ、好意から発生する吸血衝動だった。
日は昇っただろうか。それともまだ夜か、あるいは昼を通り越した夜かも知れない。考えることはできるのに、覚醒に至らないもどかしさが募る。
どうこうしても始まらないと理解し、別のことを考えた。死徒になってから何をするのかを。
まず資金を稼ごう。もうすぐ日本は高度成長なんとかに入り、社会が復活すると小学校の頃聞いたことがあった。彼女は時間移動とか、平行世界への移動とか言っていたけどよくわからない。ただ時間が昔に戻っていることだけが理解できた。授業で習った年号は覚えていなかったが、第二次世界大戦が終わった頃からだと知っていれば十分だった。
資金を稼ぐ方法として、会社を建てようと思った。だがよくよく思い返せばこの身は中学生の体だ。無理だと諦めようとしたとき、死徒とは不老だと聞いたことを思いだした。そして彼女の側にいた二人が大人の姿だったことも。
彼らに頼もうと決意した。全てを任せるのはダメだと利用された経験から判断した。あくまでも会社のトップとして姿だけを借りる。後は自分が行えばいい。経験も知識もないが、知識だけなら何とかなると思った。死徒は元人間だ。会社の経営方法を知っていてもおかしくはない。確率は低いが財閥の息子や娘が死徒になっているかも知れない。幸い話では死徒の数は多い様なので教えて貰えば良いだけだ。
開業資金は申し訳ないが彼女に出して貰おうと断腸の思いで決意した。女の子に頼るなど男の風上にもおけないが、無い物は仕方がない。
守ると決めたのだ、経済面からの支援も視野に入れようと決めた。与えられる恩は百倍にして返さなければいけないのだ。それが好意を持った女の子なら尚更。
だんだん考えがまとまらなくなってきた。意識がぼんやりとしてまるで寝起きの様だ。
覚醒する事が何故か理解できた。まとまらない思考で最後に思ったのはやはり彼女の笑顔だった。

幾つもの塔が建った、バロック様式を模した青い屋根の城。彼女の千年城に来るのも久しぶりだといい年をしながら感慨にふけった。
彼女との交流は、忌々しい蛇が誕生したときから始まった様に思う。
仕えることを決めたたった一人の真祖が暴走し、他の真祖を狩り尽くした時、協力して押さえ込んだ。彼女は妹でもある真祖に嫌悪感に似た、劣等感を持っていた様に思う。何時の日か倒した代わりに自身も死徒にされた朱い月に捨てられて、失敗作だと生まれた瞬間から烙印を押され、それでも全ての始まりブリュンスタッドの姓を名乗りながら白と黒の騎士と彼女以外に従わないガイアの怪物に支えられて勢力を二分する死徒の姫として君臨していた。
血と契約の支配者と呼ばれているが、その心根は善良であり、失敗作の烙印を押され、影に追いやられたというのに死徒とは思えない優しさにあふれていた。だからだろう、たった一人の真祖を止めるため、長かった髪を切り取ってしまったことを悔いて、自身も同じように切り落としたのは。
だから残念に思う。仕える真祖が理性的であれば、姉妹の仲は修復されているはずだと。それが叶うことはあり得ないだろうと。
遠くに庭の整備をしていたメイドが褐色色のコートを着こんだ初老の男性に気が付いた。
物思いにふけるのもそろそろ終わりだとゆっくりとした足取りで、城の入り口に向かう。
手を忌める為だろう、光に反射する色とりどりの宝石を柄に散りばめた漆黒の杖を地面につけ、城の一角を見やった。
「この感じ。いや、そんなことは」
あり得ないと呟く男性の元へメイドが近づいた。
「おいでなさいませゼルレッチ様。ご用件は何で御座いましょうか」
我に返ったゼルレッチは、アルトルージュの所在を尋ね、かってしったる我が家の様に早足に歩を進めた。
アルトルージュ様でしたら、シンジ様の所に御座います。
その一言に気を引かれながら。
アルトルージュの居る場所は独特の魔力から解る。仮にもこの身は魔法使いの頂点、魔道元帥である。先程の問いも儀礼的な物に過ぎない。だから解ってしまった。アルトルージュが居る部屋に、あってはならないあの者と同じ性質の魔力が渦巻いていることを。

思わず感嘆のため息を吐く。目の前のベッドにシンジの姿はなく、光の繭に包まれ、その周りを何重にも光で記された魔術式の帯が回転する。
シンジを噛み、支配下に置いたのは十五日前だ。
アルトルージュ達の読みどおり、支配下に置かれる第一段階。死者の領域は噛んだ次の夜には脱していた。新米死徒、そのレヴェルにたった一日で成り上がった事は流石に驚異的だったがそれまでだ。
では、何故死徒になっていないのか。一日で死徒と化したシンジは目を覚まさなかったのだ。まるでそれだけでは満足できないと言うように。
事実二日後には、自らの子とも呼べるシンジを子だと認識できなかった。死徒や真祖に噛まれて死徒となった者は例外なく生殖能力が無くなる。だから彼らの子は、血を送り支配下に置いた死者や死徒なのだ。子が親を越える、つまり支配を解くまでは個人差はあるものの、死徒になってから数百年単位の年月がかかる。シンジはそれを一日で成し遂げてしまったのだ。
三日目の夜。恒例となった見舞いに訪れ見たものが今の状態だった。生憎と魔術への知識は深くなく、繭の周りに走る魔術式が示す事柄は理解できなかったが、訪れるたびに増す力の波動に胸が高鳴った。知り合いの魔道元帥までとは行かずとも、それなりに力のある死徒となり生まれ変わるのではないかと。
シンジの魔力量は桁外れだ。今は光の繭に遮断され力がある者独特の威圧感とも呼べる気配しか感じ取れないが、死徒と化す以前の魔力も絶大なものがあった。死徒になる者は一部の異常を除きそれ以前の状態とは一線を画す。知能以外の全ての能力が何段階も上昇するのだ。それは魔力も例外ではない。
目覚めたら知り合いの魔法使いを招待しよう。シンジが実質的な行動に移るまで約五十年もある。それまでの時間は久方ぶりに面白くなるだろう。魔術を使える死徒は実のところそう多くいない。魔法一歩手前である固有結界を持つ者は珍しくないが、固有結界が使えるからといって魔術が使えるとは限らないからだ。死徒は、人から変じる時に己の心を無意識に見つめ返す。それはどの死徒、死者でも変わらない。ただ心に残るかどうかの違いだけだ。心に残らなかった者は、ただの使徒として誕生時に特別な力など持たない。固有結界を使える死徒は、心に残った者だ。人間であったとき魔力が平凡なものだったしても、死徒になれば増加する。千差万別だとはいえその魔力は優秀な魔術師と同格かあるいはその上を行く。故に深層心理が重要な固有結界を強引に展開できるというわけだ。
アルトルージュの側にも固有結界を使える者がいる。パレードと呼ばれる幽霊船を持つフィナだ。だがそのフィナにしたところで魔術は使えない。シンジの異常なまでの魔力を放っておくのは非常にもったいない。聞くところによると、知り合いの取る弟子はすぐに根を上げるか、使い物にならなくなると言う。以前までは、相手は人間なのだから手加減をしたらどうかと会うたびに言っていたが、シンジを弟子にして貰おう。根を上げるかもしれないが、使い物にならなくなると言うことはないだろう。破壊を冠する青の魔法使いは不安だが、全ての魔術を得手不得手無く扱える事から付いた宝石を冠する魔法使いの長だったら立派に育て上げてくれるはずだ。実戦経験も積めるだろう。何せ数多ある平行世界を行き来できる魔法使いなのだからそれに適した世界を知っていてもおかしくはない。
体術に関してはリィゾが張り切っている。シンジ自身のやる気で変わってくるだろうが、ともするとリィゾ以上の剣の使い手になるかもしれない。
魔術と剣。その両方がそろった仲間は心強い。育て上がるまで月日がかかるだろうが、リィゾとフィナ一人ずつだった攻撃の担当が、状況によってどちらにも使うことの出来る存在は二人の負担を取り除けるかもしれない。それは長年共に歩んできた仲間として一息付けるというものだ。
おそらくほぼ毎日進展状況を聞くことになるだろうと、未来への期待がかかる。
無意識に頬が緩む。その耳に見知った足音が聞こえてきた。まだ距離は遠い。ただ火急の用事でもあるのか、その人物にしては足の進みが早かった。
ちょうどよいと笑みを浮かべベッドのカーテンを閉めると、窓辺から新月の暗闇の中自己主張をする星々に目を向けた。どれほどそうしていたか聞こえてきたノックの音に振り返った。
「どうぞお入りになって下さいな」
扉が物音一つたてずに外側へ向かって開かれた。
「お久しぶりです。死徒の姫君」
何処か四角い輪郭をした厳めしい白い髪の老人が杖を片手に入室した。
「ええ、お久しぶりゼルレッチ様。ご機嫌はいかが」
「見ての通り達者にしております」
それは良かったと頷きベッドの側へ招く。
「どうなさいました。この部屋からあってはならない魔力が漏れ出ております」
危機感を持っているのだろう、何処か堅い声音に悪戯に成功した子供の様に微笑んだ。
「これを、見て下さいますか」
そっとベッドのカーテンを開ける。瞬間鋭く息をのむ音が聞こえた。
「何をなさって」
心なしか顔色が悪い。それに新たな死徒だと語り、魔術式の解析を促す。
目を鋭くし怨敵を睨む様に式が書かれた帯を読み解く。そして自然な動作で杖を構えた。
「なりません」
何かを呟いたゼルレッチに、光の繭を庇う様に前に出る。
「しかし」
「ゼルレッチ様が何を思ったのかそれは想像が付きません。ですがこれは私の死徒です。攻撃はお控え下さい」
有無を言わさぬ声色。ゼルリッチはそれに答えず、臨戦態勢を崩さない。
「死徒。そうだったらどれほど良かったか」
何を言っているのだと眉を寄せる。
「これは、この式は真祖を生み出す魔術式ですぞ!」
「真祖。まさか」
あり得ないと呟く声はゼルリッチに遮られた。
「それもアルクェイドを生み出した時以上の完成度! 誰がこれを!」
いつになく荒げられる声に、余裕は感じられない。
予想以上に力を増していたのだと光の繭を振り返る。
「誰も。ただ私がシンジを噛んだだけです」
そうその筈だ。誰も何も仕掛けては居ない。噛んだ三日後にはすでにこうであったのだ。
「まさか世界が。いかんっ。姫破壊しますぞ!」
ごめんといかめしい声と共に腕一つで、アルトルージュをはねとばす。小さな言葉が漏れだした。
「いけません!」
それを遮るかの様に爆音が鳴る。爆風に煽られて黒髪が流れた。
「まさか」
あり得ないと、気落ちした声が聞こえた。煙がはれたベッドには、傷一つ無い光の繭が佇んでいた。
「やむおえん」
キーワードを呟き、杖の先を繭に向けた。魔力が渦を巻き杖を被う。先程の爆風で煽られた絹が杖に触れ、引き裂かれた。
「まさか、宝石剣を! ゼルレッチ様!」
戦慄した。ゼルレッチが使おうとしているのは第二魔法。平行世界への移動手段。ゼルレッチの集大成宝石剣を媒介にした魔法だった。
杖、否宝石剣が輝き始める。魔力を収縮し始めたのだ。アルトルージュは知っていた。この光が消えたときこそ、第二魔法が発動されるときだと。
「他世界に被害は及ぶが、今の世界に代えられん」
宝石剣の輝きがいっそう増し、虹色に輝いた。瞬間、暴風のごとき魔力が荒れ狂った。
「遅かったか」
苦々しさを隠せない声。ゼルレッチを見ていた視線を動かし目線を追うと、光の繭が解けていた。
俯いた顔が上がり、僅かに顔にかかった黒髪の隙間から、ゆっくりと開かれるルビーのような瞳がのぞく。
「えっ」
かすかに声を上げ、目を見開く。一瞬だったがシンジの背中に巨大な翼が見えた様な気がした。
確かめようと目をこらす。その瞬間シンジを取り囲んでいた魔術式が霧散した。荒れ狂う魔力の中ゼルレッチは魔術を発動させられない。シンジの魔力に術式が狂わされているのだ。
紅く輝く瞳が彷徨い、ゼルレッチを過ぎアルトルージュに置かれた。瞬間金縛りにあったかの様に呼吸が乱れる。生まれてからこれまでその様な体験などしたことは無かった。今初めて理解する。たった一人の真祖である妹の暴走。あれが真祖の実力なのだと思っていた。ゼルレッチの言葉が脳裏で再生された。真祖を生み出す魔術式、アルクェイドが生み出されるとき以上の完成度。これが、
「朱い月」
憎々しげに吐き出された呟きと、アルトルージュの心の声が一致した。全ての始まり朱い月のブリュンスタッド、その再来だと。



To be continued...
(2009.04.18 初版)
(2009.04.25 改訂一版)


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