「……ンジ」

(……ん?)

 遠く、天から染み入るような呼びかけに、シンジはそっと目蓋を開く。
 ……暗い……
 たった今、目を開けたことを疑いたくなるような漆黒の闇の中、その声の主は、繰り返し語りかけてきた。
「良いか? シンジよ。」
 それはシンジにも聞き慣れた、しゃがれ声。
(あれ? 老師……?)
 シンジの目の前にドッカと座っているのは、紛れも無く彼に戦う術を叩き込んだ老師、南方勝石その人だ。
 よくよく周りを見渡せば、そこはエントリープラグの中でも、ビル群の真っ只中でも、昨日まで居た少年刑務所でも無い……
(……森? あれ? この森って……)
「戦場に身を置く者は、決して隙を生じさせてはならぬ。だが無論人の身で在る以上、常に気を張り巡らせる事は出来ぬであろう。体力にも精神にも必ず限界は訪れるでな……故に、わし等は必要に応じて切り分けておる。」
 シンジの疑念ぶりを気にする事無く、人生の師とも呼ぶべき老人は、とうとうと語る。
「意識の分割……と呼べば良いかの? 休息時にも、常に覚醒させる意識を残しておくのじゃ。そうする事によって、不意打ちや不測の事態にも的確かつ迅速に対応する事が出来る……これから行うのはその為の訓練じゃ。よいな?」
 そう言い残し、森の闇へと溶け消える勝石。
(え? あ! 老師? これって……そっか、懐かしいな……)
 シンジは思わず感慨に耽る。
 これは修行時代(といっても、ついこの間の事だが)毎晩のように繰り返してきた夜間訓練だ。
 内容は至って単純明快。就寝中にやってくる勝石の襲撃を、かわし応戦する。それだけだ。簡単である。言うだけならば……
(初めのうちは爆睡しちゃって、老師の蹴りマトモに喰らってたっけな……)
 昼は昼で、実戦さながらのハードな訓練をこなしていたのだ。体が睡眠を求めるのも無理は無い。
 そんなシンジを老師は死なない程度に体が吹っ飛ぶような蹴りを、遠慮も呵責も無く何度も打ち込んできたものだ。
『生半可な攻撃では危機感は得られない。』
との老師の言であったが、あんな蹴りを毎度のように喰らって良く生きていられたものだと、シンジは今でも思う。まあ、実際手加減してくれてたのだろうが……
(でも、今なら……)
 今はシンジもあの頃のままではない。裕也ほどの広範囲では無いが、己の間合いに入り込んだ者の気配は、場所・状態の例外なく必ず察知する事が出来る。今もこうして寝そべった状態でも、周りの木々の葉一枚一枚の形状まで確りと把握する事が出来ているのだ。
 シンジは何の恐れも気概も無く、そっと目を閉じた。

……………………

 漆黒に包まれた森中に静寂が広がる。風のせせらぎも、虫の歌も、梟の口笛も響かない。まるで静止画の様な空間に、唯一湿った草木の青い匂いが鼻腔をくすぐる。

(………………)

………………………………ッ

(そこだっ!)

――バキィッ!――

(手応え有り! え? 有り?)
「ぷぎゃぁっ!」
 みっともない悲鳴と共に向こう側へ飛んでいく、何かしらの気配、そして呻き声。
(……あ……当たった? あ、あれ? 何で? えと……老師……だよね? 女みたいな悲鳴上げてたけど……あれぇ?)



新世紀エヴァンゲリオン 〜Storm of Sophistry〜

第二話(B−PART)

presented by 地球中心!様




「……以上の結果から、初号機のコアにこれといった損傷・変化は見受けられません。報告は以上です。」
 仄かに薄暗い、バスケットの試合が出来そうなほどの無闇にだだっ広い部屋の中、リツコはそう締めくくり、手元のファイルを閉じながら姿勢を正した。
 彼女の目の前には、ネルフに君臨するトップ2。モニターの明かりに下から照らされているせいか、普段の二割り増しくらいの不気味さを感じる。
 総司令である碇ゲンドウ。そして――
「ふむ……まあ、初号機に損傷が無かったのは何よりだ。後はパイロットの証言を聞かねばならんな……まだ目を覚まさんのかね?」
 ゲンドウの横に小姓のように突っ立っている白髪の老人、副指令である冬月コウゾウが労いと疑念の声をかける。
 先の戦闘でシンジが気を失ったのは一昨日の深夜だ。後数時間もすれば丸二日寝通しということになる。さすがにこれ以上目覚めが遅いとなると、脳への後遺症等も考えなければならなくなる。
「はい、脳神経への負担もかなりかかっていましたので未だ……ただ、ヘッドセットからのデータによれば、急速な回復に向かっている様なので、今日明日中には目覚めるかと。」
 リツコの台詞に、冬月も少し気が軽くなる。だが――
「ヘッドセットかね?」
 冬月は更なる疑念の声を上げた。
 確かにヘッドセットは、パイロットの精神・身体状態を把握するためにも一役買っている装置だが、これの第一の目的は、エヴァとのシンクロを補助増幅させるためだ。
 戦闘行為が終わった後まで付け続けるような物ではない。
 ドイツのセカンドチルドレンは、普段から好んで付けている様だが、まさか彼もあれが気に入ったとでも言うのだろうか?
(……まあ、似合うかもしれんが。)
 モニター越しのシンジの顔を思い出し、年甲斐も無く少々顔を赤らめて、慌てて首を振る。
 少々イケナイ妄想に走ったようだ。
 そんな冬月の奇行に、リツコは少々眉を顰めながらも速やかに返答した。
「はい、現在サードチルドレンは、エントリープラグ内にて就寝中。手が出せない状態です。」
…………?
 困惑顔の冬月。表情に表れていないが、多分ゲンドウも心中は同じだろう。
「手が出せない? 何があったというのかね? パイロットが何かしでかしたとでも……あ、いや、寝ているんだったな。」
 打てば響くかのように、疑念を口走る冬月。ここ3年かなりナーバスになっていた様だが、それに輪をかけて今のこの老人は落ち着きが無い。
 まあ、結果はどうあれ、そこまでの過程はおよそ自身のシナリオとは懸け離れたモノだったのだから無理も無いとも言える……もっとも同一のシナリオに終始している筈のゲンドウは、いつもと変わらぬポーカーフェイスだが。
(まあ、本音はどうだかね。)
 けして己の内を見せようとはしない男だが、それでもユイへの想いというか執着は、隠し切れずに時折顔を覗かせる事がある。それはユイの眠る初号機に対しても同様だ。
 外面はどうあれ恐らく内面は、けして穏やかとは言えないだろう。
 リツコは心の中で少し嘲る。
 そして目の前の対照的な二人を、ゆっくり見比べる様に視線を移しながら、彼女は口を開いた。
「当初の予定では、エントリープラグを引き抜きパイロットを保護。本部付属の医療室へ搬送する予定でした。実際プラグの排出は問題無く遂行され、後は医療班がパイロットを救出するだけだったのですが……」
 一度言葉を区切り二人の様子を伺う。聴視者の反応を殊更気にするのは赤木リツコの性格か、科学者としての性か。
「続けたまえ。」
 冬月が先を促す。
「その……医療班長の証言によりますと、葛城一尉が現場に現れまして――」
 どうやら言い淀んだだけだったようだ。リツコの顔に落胆の色がありありと伺える。
「葛城一尉が? それも現場……かね。」
 冬月も呆れたよう(実際呆れてるだろうが)に呟く。
 先の使徒との戦闘終了後、初号機パイロット碇シンジは失神状態となり、初号機もその活動を停止した。当然自力では地下へ戻れない。
 必然的に医療班の現場は地上という事になる。
 そこへ作戦部長がのこのこと現れたと言うのだから、これは呆れる他無い。救出現場の指揮が出来るわけでもなし(そもそも専門の指揮官がちゃんと居る)彼女が行ったところで出来ることなど何も有りはしないのだ。職員から見れば『自分はするべき仕事をほったらかしてうろついてます』と宣伝されているようなものだろう。
「で、彼女が何をしたというのかね?」
 呻くように問いただす冬月。本当は聞きたくも無いのだろうが、これも仕事だ。
「……これも医療班長及び他の職員からの証言でしか確認が取れていませんが……皆の話を総合すると、どうやら葛城一尉がサードチルドレンに対し暴行を働こうとしたと……」
 リツコの言に、冬月も思わず細い目を見開く。
「ほ、本当かね? それは。」
「なにぶん地上での事なのでカメラには遠目でしか移っておりませんが……葛城一尉の心情と性格を考えますと、有り得ない話では無いかと。」
 そういって、リツコは小さく溜息をつく。冬月は少々眉を顰めただけだが、恐らく考えてることは同じだろう。
 使徒殲滅直後、ミサトは事後処理をほっぽりだして、さっさと退室してしまった。己の指揮を奮う機会すら見出せなかったあの時のミサトは、どうしようもなくやるせない、行き場の無い怒りを溜め込んでいたはずだ。
 それが分かっていたから、リツコも冬月もミサトの退室を見咎めなかった。其れで無くてもデスクワークを大の苦手とするミサトだ。どうせ居ても役に立たないし、大方個室で自棄エビチュでもかっ食らっているだろうと高をくくっていたのだ。
 だが、ミサトは彼らの予想を悪い意味で上回り、気を失っているシンジの元まで赴いた。
 いや、正確には最初からシンジの顔を見るために、地上へ上がったわけではないだろう。彼女の怨恨を考えれば、使徒の遺体へ向かったと考えるのが妥当だ。
 使徒の遺体を目の当たりにし、何も出来なかった後悔と何もさせて貰えなかった周囲への憤りを更に募らせる。そしてそこへ降ろされた、(ミサトから見れば)暢気に寝ている初号機パイロット……行き場の無い怒りがそこへ向かうのは、ある意味必然かもしれない。
 リツコと冬月の2人には、その場での情景がありありと想像出来た。
 全く口を挟んでこないが、恐らくゲンドウも同じだろう。


「ん? ちょっと待ってくれないか? それでどうしてサードチルドレンを動かせないのだね?」
 ミサトがシンジに危害を加えたというのなら、尚更プラグ内に放置するわけには行かないはずだ。
 当然といえば当然過ぎる冬月の問いに、リツコは少し力無い苦笑を浮かべ――
「それが……返り討ちに遭いまして……」
「……どういうことかね?」
「葛城一尉が暴行を働こうと、その……殴ろうとしたそうなのですが、その拳にサードチルドレンがカウンターを合わせたらしく……」
「寝てるふりをしてたのかね?」
「いえ、完全に寝ています。ヘッドセットのデータはごまかせません。」
 科学者としての自信か、そこはキッパリと言い切るリツコ。
「偶然かね?」
「わかりません。ですが、サードチルドレンの性格や能力が資料とは異なりすぎる事を考えますと、おいそれと手を出すのもどうかと。職員は皆、彼を殺人犯と認識していますから、あれを目撃した者は、近づきたがりませんので。」
 リツコも困り顔だ。実際はシンジは殺人犯ではないと、彼らは思っているのだが、それをバラすわけにはいかないし、言ったところでシンジへの危険視は収まらないだろう。
「葛城一尉は今どうしているのかね?」
「入院中です。肋骨が6本完全に折れてますので、しばらくは動けないでしょう。」
「なっ!……どうやったら、6本も折れるのかね?」
 冬月も副指令に身を置いてからは、格闘術も少々かじっているし、セカンドインパクト後は闇医者を務めていた事もある。彼自身は折った経験も折れた経験も無いから絶対とは言えないが、6本まとめて折るとなると、胸部広範囲に過度な加重でもかからない限り無理な気がする。肋骨は比較的折れやすい部位だが、それでも折れすぎだ。
「監視カメラではサードチルドレンが一度拳を突き出した……それだけです。医療班達の証言とも一致しています。」
「ふむぅ……」
 冬月は思わず唸った。
 ただの一度。それも寝たままの力の篭らない状態で拳を突き出しただけ。聞けば聞くほど訳が分からない。
「使徒を倒した攻撃も未だ詳細が不明です。もし、あの攻撃をサードチルドレンが意識的に行ったのであれば……」
「葛城一尉への攻撃も有り得ると言うのかね?」
「本人に確認しないことには何とも言えませんが、恐らくは。」
 確かに、使徒を倒した場面は冬月もその目でしかと観ている。
 いかに不可解であろうと、非常識であろうと、実際に起こってしまったことは現実と認めざるを得ない。
 二人が思考の海に沈んだ所で、成り行きを見定めていたゲンドウが締めの言葉を投げる。
「この件についてはこれ以上議論しても無駄だろう。サードチルドレンが覚醒しだい、早急に尋問を行え。方法は赤木博士に任せる。」
「彼がそれに応じれば良いがな。」
 ネルフに来てからの彼の言動や行動を考えると、そううまく事は運ばないように思える。
 あの少年に何かあるのは間違いないだろうが、それを素直に話してくれるとは考えるべきではないだろう。無理矢理口を割らすことは可能かもしれないが、彼自身、パイロットとしての重要性を考えると、あまり無茶は出来ない。そして恐らくはシンジ自身、己の立場を正確に把握していることだろう。ケイジでのゲンドウとの遣り取りで、その分析能力の片鱗を垣間見せている。
 だが、冬月の懸念をゲンドウは一笑にふした。
「所詮子供だ。ハッタリをかましているだけに過ぎん。必要ならば多少痛い目を見せてやれば良い。そうすれば昨日のような身の程知らずな態度は取れんよ。」
 どうやら何が何でもシンジの能力を認めるつもりが無いらしい。まあ、彼の場合は自分の意にそぐわぬ者は全て認めていないが……
 そして、デスクの向こうの闇へと消えるゲンドウ。彼はこれから茶番会議に出席せねばならない。
 冬月は、そんなゲンドウを少々呆れた顔で見送り、
「では赤木君、サードチルドレンの件はよろしく頼むよ……分かっていると思うが、くれぐれも慎重にな。」
 職務の再確認と、少年に対しての注意を呼びかけた。
 それに対し、リツコも得たり顔で頷く。
 この二人には、シンジを子供と侮ることは到底出来そうに無かった。
 いや、あれだけの物を見せられておいて、頑なに子供扱いする方が可笑しいのだ。
 あの少年は洞察力も推察力も、そして単純な戦闘能力も、こちらの思惑を飛び出してしまっている紛れも無いイレギュラーだ。
 まかり間違っても、ゲンドウの言葉を鵜呑みにするわけにはいかないし、ゲンドウの言が本心だとも思っていない。彼らとて昨日今日の間柄ではない。何を考えているのかイマイチ掴みにくい男だが、それくらいのことは、この二人にも推測できた。
 恐らくは彼もこれ以上無い位にシンジの事は疑っているはずだ。でなければ、あの少年が何かを隠していることを前提にしなければ、子供相手に尋問という言葉は出てこないだろう。
 ……まあ、単にコケにされた恨みからの言葉かも知れないが。
 まあいずれにせよ、あの少年が隠している事、目的、背後関係も含め一切合財を把握する必要がある。これは既に『疑い』では無く『確信』だ。
 そして、計画に使えるよう再調整しなければならない。今のままではとてもでは無いがシンジを使うことは出来ないのだ。
「それでは、サードチルドレンが覚醒しだい、私の方で対談します……質疑応答のプランは前もって提出した方がよろしいですか?」
「いや、それには及ばんよ。結果だけ報告すれば良い。」
「分かりました。では失礼します。」
「うむ。」
 軽く頷く冬月の視線を背で受けとめ、リツコは司令室を後にした。



 部屋を出たリツコは、やたら長い廊下を早足で歩く。
 ただの移動に無駄に時間を使うことを嫌うリツコはいつも早足だ。なので、こういった時に彼女は今後の職務のプランを打ち立てるようにしている。
 今考えているのは、無論シンジへの質問事項だ。
 それこそ、刑務所内の生活からミサトを返り討ちにしたことまで、聞きたいことはごまんとある。
 そう、本来なら聞かずとも調べれば当然分かるはずな事も、あの少年に関しては確認が取れない。
 諜報部でも、シンジの過去を徹底的に洗い直している様だが、未だこれといった手掛かりも掴めていない様だ。特に、刑務所での3年間は、受刑者にも刑務官にも彼の事を知っている人間すら殆どいないときている。まあ、ゲンドウがそうなるように仕向けたのだが……
 何かあったとすれば間違い無く、この刑務所内だ。だが、誰がどのような目的でシンジに近づいたのか……そもそもたったの3年で、人はああも変われる者なのか?
(……聞きたいことが多すぎるわね。)
 リツコから見てもネルフは謎の多い所だが、よもや本番になって道具となるはずの少年が一番の謎になるとは、リツコも思っていなかった。
「とりあえずは、正直に彼に聞いた方が良さそうね。」
 リツコはそう結論付けた。現状では情報が少なすぎる。聞けることは聞くだけ聞いてみれば良い。
 彼は一応強制徴兵を受け入れてエヴァに乗ったのだ。少なくとも己の立場は踏まえているだろう。別にスパイと疑っていても、スパイ容疑をかけている訳ではない。彼が黙秘する理由は無い。黙秘すればそれだけ相手に疑いをかけられることは彼も承知しているだろう。
 それならむしろ真正面から聞くべきだろうと思う。少なくとも彼の戦闘能力及び行為についてはそうするべきだ。パイロットの戦闘能力を把握するためとでも理由付ければ、彼とて無下に誤魔化すことも出来まい。
(そこから彼の後ろについている者が見えれば一番理想だけど……それはさすがに楽観しすぎね。)
 そんなもので分かるのなら、既に諜報部辺りで尻尾を掴まれているはずだ。リツコは、彼の正体を掴もうと意外に焦っている事に気付き、少し苦笑した。
「焦る事ないわ。じっくり行きましょ。」
 リツコはポツリと、自分に言い聞かせように呟き、当面の目的地へと足を向けた。



 リツコが仕事に戻ったその頃ゲンドウは、暗い、まさに包まれるという表現がピタリ当てはまる位の闇の中、5名の白色人種達と席を囲み、会議を進めていた。
 机そのものが光るという、あまりに目を悪くしそうなディスプレィの中、不気味に姿を映えらせた男達は見下した視線をゲンドウに向ける。
「使徒再来か……あまりにも唐突だな。」
「15年前と同じだよ。災いは何の前触れも無く訪れるものだ。」
「幸いともいえる。我々の先行投資が無駄にならなかった点においてはな。」
「そいつはまだ分からんよ……役に立たなければ無駄と同じだ。」
「左様、今や周知の事実となってしまった使途の処置、情報操作、ネルフの運用は全て適切かつ迅速に処理してもらわんと困るよ。」
 ゲンドウの左右に座る4人が次々と矢継ぎ早に文句を並べ立てる。そこに建設的な意見は皆無だ。
 というより、大まかな打ち合わせは既にゲンドウ抜きで終わっている。会議と銘打ってはいるが、もうここではゲンドウに結果を知らせるだけなのだ。
 彼らにとってゲンドウは命令を遂行させるための道具に過ぎない。己の命運をもかけている大計画だからこそ、こうして席を設けてやっているのだ。会って議論を交わすつもりなど毛頭無い。本来なら手紙の一つでもよこして、こちらの用件だけを突きつけるだけで終わっているのだ。
 本音を言えば、そんな大計画を薄汚い黄色人種等に任せておきたくはない。「嫌味の一つも言わなければやってられない」といったところだろうか?
 ……実に身勝手な話ではあるが。 
 ゲンドウもそのことを十二分に把握しているので、特に文句を言うこともイタズラに萎縮する事も無い。
「その件に関しては既に対処済です。ご安心を。」
 彼らの嫌味同然の叱咤激励に臆面も無く応対するゲンドウ。そんな不遜な態度が彼らをより不機嫌にさせているのだが、それこそこの男の知ったことではない。
 名ばかりの会議はまだまだ続く……



 そんな名ばかりの会議が真っ最中な頃、リツコは質問を開始していた。
「起き掛けのところ悪いけれど、いくつか質問させてもらうわね。自分のできる範囲でかまわないから、正直に正確に答えて頂戴。」
 リツコは浪々とのたまわった。その声には幾分冷たさが混じっているのは気のせいではないだろう。
 その声と視線に思わず面食らうシンジ……
「ちょっ、ちょっとなによリツコ。」
ではなかった。
 今リツコの目の前には、ピンクのパジャマ姿でベットに横たわったミサトが居た。
 パジャマに隠れて見えないが、胴体部分には包帯とコルセットでぐるぐる巻きにされ、起き上がる事すら間々ならないはずだ。辺りに漂うシップの匂いの発生源もそこだろう。息をするのも苦しいはずだが、リツコの予想していたより血色が良い。鎮痛剤でも処方されたのかもしれない。
 丁度良い、どうやら話くらいは出来そうだ。まあ寝てたら寝てたでアンモニア(リツコ常備)臭を含ませたガーゼ(これまたリツコ常備)を嗅がせるつもりだったが。
 本来ならミサトの見舞いなぞ後回し、すぐにでもシンジの元へ馳せ参じたいところなのだが、当の少年はまだ目を覚ましていない。
 リツコはそれならばと思い、ミサトの元を訪ねたのだ。
 なにせ現時点で、シンジと最も多く時間を共有したのがミサトだ。まだヘリの中での事も聞いていないし、何か思いがけない情報が入手できるかもしれない。
 ……まあ、大して期待はしていないが。

「具合はどう?」
「ん……痛み止め打ってるから今は痛くないんだけどね。もう、昨日は息するだけで痛くて痛くて……酸素の有難みを実感しちゃったわ。」
「まあ、肋骨6本も折れればね……でミサト、そのことについて聞きたいんだけど……」
「ん? あによう?」
「シンジ君にどんな感じで殴られたの?」
「うーん……どんな風にって言ってもねえ。まあ普通に左手を真横に突き出しただけ……よねえ。」
 そういって、ベットに体を横たえたミサトは、その時の少年の行為をなぞるように、左手をソロリと真横に突き出す。
「ってそうよ、あのガキ! イキナリ私を殴るなんてどういうつもりかしら?!」
 今更なことを叫びつつ上体をガバッと起き上がらせる。痛くないのだろうか?
「その事については何ともいえないわね。彼、あの時間違い無く寝てたし。」
 その言葉にミサトは、猪の如く猛然と突っかかってきた。
「そんなはず無いでしょ。絶対寝てる振りしてたのよ! でなきゃ、ああまで完璧なカウンターなんて入れられるわけ無いじゃ――」
「誰の攻撃に対するカウンターなのかしら? 葛城一尉。」
 鼻がくっつく位に顔を寄せるリツコ。口に三日月形の笑みを張り付かせる……が、目が笑ってない。いつも密かに気にしている眉間の皺を隠そうともしない。実に危険な香りの漂う表情――否、形相だ。
 その静かなる迫力に思わず顔を引きつつ、しまったという表情を浮かべるミサト。
「何よ? その顔は……あんな人前で堂々と拳振り上げたくせに、言わなきゃバレないとでも思ってたの?」
(思ってたんでしょうけどね……)
 疑問系で問いかけつつも、心の中ではそう確信しているリツコ。
 目の前では、当のミサトが引きつりつつも笑って誤魔化そうとしている。
 本人はそれで誤魔化せていると本気で思っているのだから、困ったものだ。
 初めて会ってから10年以上、幾年幾月を重ねて、もう若いとは言えない年齢になっても、仕組まれたものとはいえ国連の要職に就いても、一向に改善の兆しが見えないミサトの態度にリツコも嘆息を禁じえない。
「ミサト、いい加減笑って誤魔化そうとするのは止めなさい。貴方は責任者として明確な答えを導き出さねばならない事態が、これから何度も訪れるのよ? また使徒が出現した時、そんな風にまごついてたら下の者も浮き足立つし、パイロットの信頼も得られない。貴方は使徒が来ればちゃんとするって、よく口にするけど……人間そんな簡単に切り替えなんて出来ないわよ? 普段から意識して、その誤魔化す癖を何とかしないと、肝心な局面で手遅れになるかもしれない……実際昨日の使徒戦だって、貴方チャンと指揮を取れてたとは言えないでしょ?」
 リツコの苦言にミサトも渋面になる。反省しての表情かどうかは怪しいところだが。
「とにかく、感情に身を任せた行動は慎んだ方が良いわね……私は何となく理由が分かるけど、あそこに居合わせた救出班には只の暴挙としか見えないわよ?」
 もっとも、理由があれば殴って良いわけでも無いし、彼女が理由を告げたとて、誰も納得は出来ないだろう。
 周りに目撃者がごまんと居た事実にようやく気付き、神妙な顔になるミサト。さすがにマズイ事をしたと思ったようだ。
「まあ、緘口令布いといたから彼には伝わらないと思うわ。貴方のその怪我は階段から落ちたことにしてあるから……自分からボロを出すような真似はしないでね。」
 リツコはそう念を押した。他の職員は難色を示していたが、「パイロットに要らぬ不信感を与えさせないため」という理由で渋々納得してもらっている。これでミサトが逆上して突っ掛からない限りはシンジにバレる事は無いだろう。
「で、さっきの話に戻るけど、彼本当に寝てたわよ。少なくともヘッドセットから送られてきてる情報からは、覚醒の兆候は見えなかったわ。」
「マジなの?」
 実際に殴られたミサトは未だ信じられないようだ。
「事実よ。ついでに言えば、彼まだ寝てるわ。」
「はあ? あの子まだ寝てんの? いい加減叩き起こしなさいよ。」
 呆れたように素っ頓狂な声を上げるミサト。少年の状況をまるで把握できていない様子に、リツコもまた呆れた顔を返した。両コメカミを右手親指と中指で押さえている辺り、頭痛も感じているのかもしれない。
「ミサト……彼がシンクロした時の事忘れたの? あの時のシンジ君が受けた精神汚染……脳神経への負担だけでもハッキリ言って死んでもおかしくないレベルのモノよ。迂闊に刺激を与えるのは良い判断とは言えないわね。」
 これは技術知識以前に、パイロットの命を預かる指揮官として、必ず知っていなければいけない事だ。勿論、ミサト以外の作戦部員は、シンジの状態がいかに危険なのか全員理解している。
 リツコの言に気まずそうな顔をするミサト。彼女の場合、刺激どころか殴ろうとしていたのだから何も言えない。
「まあ、幸いにも覚醒に向かっているようだし、今日辺り目を覚ますと思うわ。」
「そう、それは良かったわ。」
 さっきまでの沈んだ態度は何処へ消えたか、打って変わって満面の笑みを浮かべるミサト。
「まあ、無理ないわ……イキナリの戦闘であれだものね〜。」
 その少年を殴ろうとしたことや、クソガキ呼ばわりした事もあっさり忘却の彼方に葬り去り、シンジへの同情の感を示すミサト。リツコは呆れ顔のままだ。突っ込む気にもなれない。
「まあ、分かってくれれば良いわ……」
 いちいち蒸し返すことも無いので、リツコは喉元まで出掛かったツッコミを腹の中に仕舞い込む。言葉で腹が膨れるなら、彼女はミサトといるだけで、食事の必要が無くなるだろう。
「でも、貴方から見ても完璧なカウンターだったと言うのなら、偶然で片付けるには無理が有る……か。」
 そう呟いて、考え込むリツコ。偶然の可能性が無くなれば、後はシンジが危険察知能力等の訓練をしていたという事になるのだが、そっちだって十二分に根拠は薄い。
「ミサト……あなた戦自に居たとき、サバイバル訓練はダントツの成績だったわよね?」
「ん……まあねえ。生き残るのは得意よ……昔からね。」
 昔を思い出したか、少し寂しげな笑みを浮かべる。
「もし、寝ている時に誰か近づいて来たら、貴方それに気付く?」
「ん〜〜、どうかしら? その時の体力や精神状態によるけど……」
「意識を保てないくらいに疲れ果ててたら?」
「……そこまで疲れ溜めちゃってると自信無いわね。と言うより、そんな状態になる前に休息を取るわよ。サバイバルでは体力温存が第一優先だもの。疲弊しきったままだと思わぬ不覚を取りかねないしね。」
 確かにミサトの言っていることも間違っていない。もっとも彼女の場合、ミッション遂行中でもあれこれ理由を付けてサボっていたが……基本的に面倒臭がりなのだ。
 そこまでの事情を知らないリツコは、更に質問を続ける。
「今回の彼みたいに、寝たままでも人の気配に反応して無意識に自己防衛を行う……そんな訓練とか人の話って聞いた事あるかしら?」
「いや、ちょっち聞いた事無いわね。寝ぼけて味方に切りかかった話とかなら幾つかあるけど? 良くあるアメリカンジョークの類だけどね。」
「そう……」
 曖昧に相槌を打って、また黙り込むリツコ。
「あによう、リツコ……まさか、あの子がそういう訓練受けてたっていうの?」
「可能性は否定できないわ。」
「いくらなんでもそれは無いんじゃない? 非科学的すぎるわよぅ。」
「非科学的ね……」
 ミサトの口から発せられると、どうにも違和感を感じてしまう単語だが、確かに非科学的過ぎる現象だ。だが――
「まあ、貴方が返り討ちに遭ったのは偶然という事でも良いわ。でも、使徒を倒したあの攻撃……あれも偶然で片付けられる?」
 ミサトの表情がグッと険しくなる。さしもの彼女も『あの攻撃』が何を指しているのか理解できたようだ。
「超長距離……と言うほど離れてはいなかったけれど、初号機の手が届くには程遠かった。何かを投げた形跡も無し。使徒のフィールド発生も確認済み……ついでに言うと、エヴァのフィールド無展開も確認してあるわ。」
「技術部長殿の見解は?」
「何にも……正直お手上げよ。使徒を倒した攻撃方法どころか、そのエネルギーについても不明。物質ではないし、熱・電波・音波・空気圧……あらゆるエネルギー値を観測してみたけど、どれにも引っかからなかった。見たまんまの感想を言わせてもらえば、使徒の足元もコアも、自分から凹んだ……多分それが一番しっくりくるわね。」
「何よそれ? 訳わかんないわよ。」
「そうね。私も思いつきで言ったから……忘れて良いわよ。」
 リツコの台詞にチョイと首を傾げるが、すぐに戻した。どうやら本人の言うとおり、忘れる事にしたらしい。良くも悪くも些細なこと(と本来括るべきではないが)には拘らないミサトらしい対応だ。
「そういえば……あの話まだ聞いて無かったわね。」
 思い出したように呟くリツコ。
「あの話ぃ?」
 オウム返しに聞き返すミサト。
「……昨日のヘリの中の話よ。シンジ君について思ったことが有ったんでしょ?」
「ああ、そうだったわね。」
 リツコの一言にミサトはしばらく俯き、ポツポツと語り始めた。

シンジは、自分がネルフで何かされる事を確信していた事
長距離間の使徒を肉眼で確認して見せた事
国連軍に使徒の情報を隠匿している状態を見抜かれた事
人殺しの自分を当然のモノとして受け入れている様な態度

 ざっと纏めるとこれくらいだろうか。
 ミサトは思いついた順に好き勝手話しているので、時間軸に照らし合わせると順番がアベコベだ。話術構成力の欠片も感じられない。
 仕方なく、リツコは詳細説明の要求や補足を求める事で、何とか少年との遣り取りの大まかな部分を把握する事に成功した。
 リツコはメモ帳に目を落とし、シャープペンの芯で書き留めたメモの端をトントンと叩く。
(これ程とはね……)
 元々ミサトの情報にさして期待も持っていなかったリツコだが、さすがにこれには唸った。
 国連軍の使徒への攻撃とミサトの反応、それだけでおおよその状況を把握して見せた。そのシンジの洞察力と推理力は、話を又聞きしただけのリツコですら空恐ろしいものすら感じてしまう。
 あの少年に関して何かしらの情報を得られれば……そう思っていたリツコだったが、ミサトに聞いて分かった事と言えば『彼は自分の思っていた以上に油断がならない相手』という事だけだった。
(もし……彼のバックにどこかしら組織が付いているのだとしたら……)
「あの子、ジオフロントからは出せないわね。」
 思わず口走ってしまったリツコの呟きに、ミサトは首を傾げて、頭上にハテナマークを浮かべていた。



 リツコによるミサトへの尋問(?)が、終息に向かった頃、ゲンドウはまだ会議の座席に就いていた。
「まあ、その通りだな。」
「しかし碇君、初号機のあの最後の攻撃は何なのかね? あのような能力、エヴァにあるなど聞いとらんぞ。」
「全くだ。しかもあの使徒の足元が崩れた現象……あれは初号機の業ではあるまい? エヴァとは別の兵器が潜んでいたのでは無いのかね?」
「その件につきましては現在調査中です。」
 実は既に調査は終わっていて、何の痕跡も発見出来ていなかったのだが、ここではあえてその事は言わない。どうせ、下らぬ嫌味を重ねられるだけだ。
「調査か……碇君、その言葉に虚偽は有るまいな? ハッキリ言うが我々は、君の隠し駒ではないかと疑っておるのだよ?」
 その一言が引き金になったわけでもあるまいが、隣の男も疑惑の声を投げかける。
「左様、初号機に乗せた君の息子の性格も、シナリオとは随分かけ離れていないかね? 子供一人殺して少年刑務所に服役していたそうだが、その子供は確か君の手の元が処理した筈だったろう? 何故無実の、無関係なはずの君の息子が捕まるのかね? 冤罪の主張もしなかったのかね? 碇君……我々の目の届かぬ場所で、別の策略でも練っていたのではないのかね?」
 細面のインテリ風な男が目を細め、猜疑心満々の視線をゲンドウに投げかける。見れば他の面々も似たような表情だ。
 何故彼らが極秘とされた少年殺人の一件の詳細を知っているのか? これは別に委員会で調べたわけではない。
 前述したが、裏社会で多大な権力を有する委員会のメンバーから見ても、御厨裕也は油断ならぬ相手だ。さすがにその息子に手をかけるとなるとゲンドウの独断という訳にはいかなかった。故に前もってゲンドウから委員会へと御厨祐樹の殺害許可を申請していたのだ。無論、殺害理由は『サードチルドレンを孤独へと追いやるため』である。
 殺害許可も何も、彼らに生殺与奪の権利など当然有りはしないのだが、結果的に許可が下り、御厨祐樹は殺害されてしまう。実に傲慢な話だ。
 ところが、彼らの思惑外にシンジは少年刑務所に入ってしまう。いや、ここまでなら委員会も特に問題視していなかった。『碇の息子は無実の罪で捕まる間抜けで、それを主張も出来ない腑抜け』として嘲笑の種になるだけだった。時が来れば無理やり引きずり出してエヴァに乗せてしまえば良い。と安直に考えていた。
 だが、いざ本番で見せた使徒との戦闘は、さすがに彼らも笑ってはいられなかった。
 確実に起動すると確信していた初号機とサードチルドレンのシンクロ率0という予期せぬ展開……まあ、これは最終的にシンクロしたのだからまだ良い。予想シンクロよりもかなり低いが。
 そして、初号機の見せた身のこなし、高い戦闘技能……彼らとて何でもネルフ任せにしている訳ではないし、彼らから送られるデータを鵜呑みにしているわけではないのだ。委員会独自の分析でも、初号機、というより、それを操縦したサードチルドレンの格闘レベルは、相当に高いという結果が出ている。加えて、使途にダメージを与えた方法は、彼らの調べでも全くの謎なのだ。
 刑務所内の空白の三年間で、この少年は何をしていた? いや、何をさせられていた? そう疑うのは、余りにも自然なことであった。
 その視線に晒されたゲンドウは、「やはりきたか」と思いつつ、この様な事態に陥らせた血縁上の息子に、心の中で罵詈雑言を浴びせる。無論外面にはおくびも出さない。
「滅相もありません。今回の使徒殲滅方法は全くの想定外でした。ですが、そのおかげで使徒戦での被害は予想を遥かに下回る結果となったことも事実です。それにサードチルドレンなら何の問題もありません。あれは法廷で己の濡れ衣も主張できない腑抜け、所詮は何も出来ない子供……今はハッタリをかましているだけに過ぎません。じきに化けの皮も剥がれましょう。それに万が一、心が壊れていないなら、これから壊せば良いだけです。」
 自信を持って言い切る。彼の方こそハッタリをかましているだけなのだが、ここまで強気に出られると、委員会としてはこれ以上言及しにくい。
 本音としては「いや、しかし」と言いたいのだが、少年一人にここまで拘るのは弱気な臆病者と見られるのではないか? という、疑心暗鬼も働いてしまう。
 結局二の句が告げずに黙り込む左右の委員会メンバー達。
 そこへ、そのタイミングを待っていたかのように、今の今まで傍観していた上座の老人が、厳かに声を発した。
「碇、その言葉に嘘は無いな?」
「はい。」
「……まあ、良い。初号機の件に関してはこれ以上言及はせん。だが、今後いかなる不足の事態が起ころうとも計画の遅延は認められん。良いな、碇。」
 正に鶴の一声。言外に会議の終了を告げる。
「ではここからは委員会の仕事だ。」
「碇君、ご苦労だったな。」
 形ばかりの労いの言葉を放って闇に消える委員会のメンバー。
「碇、後戻りは出来んぞ。」
 纏め役と思しき老人も、脅しともとれる台詞を投げて姿を消した。
「……分かっている、人間には時間が無いのだ。」
 呟くような声量とは裏腹に、その言葉には多大な決意が込められていた。



――コンコン――
 ドアをノックする音にリツコは目線だけで振り返り、
「どうぞ。」
 ドア越しの客人にお招きの意を示した。
「失礼します。」
 軽く会釈しながら入って来た少年にリツコは軽く営業用スマイルを浮かべて迎えいれた。
「いらっしゃい、よく眠れたかしら? シンジ君。」
 リツコの目の前には、来たときと同じ半袖学生服を着込んだシンジが、これまた変わらぬシニカルを笑みを浮かべて突っ立っている。ちなみに起きたのは30分前である。
「まあ、それなりに。」
 先日と変わらぬ態度。寝覚めは良好のようだ。
「それは結構、じゃ適当に座ってて頂戴。今コーヒーでも入れるわ。」 
 リツコが席を立つのと入れ違いに、シンジは手近のパイプ椅子に腰掛け、部屋を見渡す。
 そこは個室、というより独身アパートの様な風体だ。8畳程の部屋にデスクと図書館に有りそうなスチール本棚が2つ、両サイドにデンと構えられている。そして、部屋中央には会議用長机とパイプ椅子が4つ。しかも隣接してダイニングキッチンが設えてあり、リツコはそこでコーヒーカップを取り出している。更に視線を横に移動させると、『TOILET』というラベルの貼られたドアも見える。この分だと、ユニットバスも完備されているかもしれない。
「お待ちどうさま。」
 手にしたカップを一つシンジの前に置き、リツコも対面に座る。そして淹れたてのコーヒーを一啜り。なかなか絵になる光景だ。
 折角なので、シンジもカップに口を付ける。苦味と香ばしさの入り混じったコーヒー独特の香りが鼻腔を擽る。とりあえず、怪しい薬品等の匂いは感じられない。


「……へえ。」
 なかなかに美味い。どちらかといえば紅茶党のシンジであったが、これは素直に美味いと感じた。多分これほど美味と思えるコーヒーはそう無いだろう。
 シンジは香りを楽しむようにもう一口啜ると、受け皿に備えられていたスティックシュガーの封を開け、カップに流し込む。
「珍しいでしょ?」
 リツコがそう問いかけた。彼女にしては少々子供っぽい笑みを浮かべている。
「ええ、セカンドインパクト前はこれが主流だったと聞いたことがありますが、僕も見るのは初めてですね。」
 そう言ってスティックシュガーの空袋をしげしげと眺める。
「セカンドインパクトからこっちは、とにかくコスト削減が主流だものね……砂糖を一つ一つ紙で包むなんて少し前までは考えられなかったわ。事実これが発売されたのも、つい半年前よ。」
 ちなみに世間一般で砂糖といえば、角砂糖か顆粒のまま容器に入っているのが一般的だし、価格も安い。袋入りが世に浸透するのは、もう少し先のことだろう。
「なるほど、塀の中に居る間に、時代は色々と移り変わっていくんですね……」
 そう呟きつつウンウン頷いている様は年に似合わず達観した印象をリツコに与えた。

「じゃあ、質問の方そろそろ良いかしら?」
 頃合を見計らって、リツコから切り出す。
「ああ、はい。どうぞ。」
 シンジの軽い了承に、リツコは居住まいを正し――
「……単刀直入に聞くけど、エヴァをどうやって動かしたのかしら?」
 予定通り真正面から聞いてみた。
「どうやって、ですか? そうですねえ……イキナリだと説明し辛いんですよ。順を追って話させて貰いますが、良いですか?」
「構わないわ。」
 先を促すリツコ。順番など気にしていられない。ぶっちゃけシンジから話を聞ければ何でも言いのだ。
「先ず、あのエヴァンゲリオンという……人造人間でしたっけ? あれに乗せられて、水が注入されるまでは特にどうということは無かったんです。」
 あの状態を「どうってこと無い」と語るのもいささか無理がある気もするが、まあ確かにあの時の彼が動転しているようにも見えなかったので、リツコは突っ込まずにおいた。
「問題は、シンクロ……ですか? あれが始まった時ですね。とにかく吐き気、というか…………そう、生理的嫌悪。とにかく筆舌にし難い不快感を感じたんです。」
 そこで一つ言葉を区切り、心底嫌そうに顔を歪めたシンジは苦々しい声でポツリと呟く。
「……まるで母親に抱かれてるかのような感じでしたよ。」
 目を丸くするリツコを尻目に、「あーヤダヤダ」とばかりに頭を左右に振るシンジ。
「ちょ! ちょっと待ってシンジ君。」
「何でしょう?」
「貴方はエヴァの中で、精神的苦痛を感じてたというの?」
「はい。」
 あっさりと肯定するシンジ。確かに、不快感を感じていたのならばシンクロ率0も説明出来なくは無い。
 だがいつか聞いた、セカンドチルドレンのエヴァに乗った感想は「包まれるような温もり」であり、シンジとは全く正反対だ。
 そして理論から言えば、セカンドチルドレンの感想こそ正しいはずだ。『信じ難い』という表情でシンジを見つめるリツコ。だが、もっと信じられないのは――
「今の言い方だと、貴方は自分の母親に生理的嫌悪を感じていた……そういう事になるのだけど?」
「その通りです。まあ、世間一般的には受け入れられない考え方だとは自覚してますが……」
 どうやらリツコの聞き間違いでもシンジの言い間違いでも無かったらしい。
「どうしてかしら?」
「? ……ああ、何故母親が嫌いなのか? と言うことですか?」
 リツコは無言で頷いた。
「正直なところ、僕は先日まで母親のことなど完全に忘れてました。いえ、きっと覚えていたく無かったんですね。でも、ここに来て……シンクロとか言うのが始まった瞬間に思い出しちゃいまして……」
 本当はそのちょっと前くらいから思い出していたのだが、完璧ハッキリと思い出してしまったのは、確かにシンクロスタート時だ。嘘は言っていない。
「思い出した? ここで?」
「ええ、10年程前に僕はここに連れられて来てますから。よくよく考えてみると、あのエヴァって奴も見ていたんですね、僕……まああの時はあんな鎧見たいなの着てませんでしたが。ご存知ありませんでしたか?」
 シンジの問いには答えず少考するリツコ。
『10年前の起動実験』
 確かにその事はリツコも知っていた。シンジが来ていた事も。しかしそれをここに来て思い出すとは……
「それは後で司令にでも聞いてみるわ。それよりも――」
「はい、母親を嫌う理由ですね。」
 頷くリツコ。かなり視線がやばくなってきている。
「まあ、理由は色々有りますが……「人類の生きた証」だの「神への進化」だの、訳の分からんことをニヤニヤ笑いながら子守唄代わりに聞かせられるのも気持ち悪かったですし、他の人達の前では、そんな様子をおくびも出さなかったのも嫌いな理由の一つです。よく心の中で思ってましたよ。「みんな騙されてる」って……怖くて言えませんでしたけどね。大人たちはみんな、あの女を信じてたみたいですし。」
 リツコはシンジの暴露話に興味津々だ。これがゲンドウか冬月なら、猛然と反論する所だろうが、リツコ自体は直接ユイと会ったことが無いので、特に違和感を感じることも無い。
 いつの間にか、シンジが母親のことを「あの女」呼ばわりしているのも、あっさりスルーだ。
「まあ、何よりも最悪なのは、あの目ですね……まるで僕を実験動物か何かを見ているような何の温かみも感じない冷たい視線が、どうしようもなく嫌いでした。」
 シンジの独白を一言も聞き漏らすまいとリツコは集中する。その視線はヤバさを通り越して鬼気迫るものを感じてしまう。
 マッドの片鱗ここに見たれりだ。
「失礼を承知で言わせてもらえば、赤木さんも時折似たような目をすることがあります。気をつけた方が良いですよ?」
 突如シンジは爆弾を投げかけた。
 言われたリツコは数瞬キョトンとし、その後言葉の意味を完全に理解し、思わず怒鳴り声を上げようとするも、今の自分というものを客観的に見るだけの余裕はあったらしく――
「そう、気をつけるわ。」
 それだけ言って、椅子に座り直した。先程までオーラのように溢れかえっていた殺気篭る視線は也を潜めている。
 それを見届けてヤレヤレという顔を見せるシンジ。どうやら先程までのリツコの視線が本当に嫌だったようだ。
 そんなシンジをリツコは少々恨み紛いな目で睨み付ける。
 実はリツコはシンジの母親、と言うよりゲンドウの妻であった碇ユイにあまり良い印象を抱いていない。その自分が嫌いな女と同一視されて内心穏やかではないリツコだったが、剥きになればなるほど、それは相手の言葉を肯定することになる。寸でのところでリツコは我慢した。分別を弁えた大人の判断だ。ミサトだったら怒鳴り散らしていたことだろう。
 そしてリツコはふと気づいた。今のシンジの証言を信じるならば、彼は母親があの中で消えたのも思い出した可能性が高い。確かに母親を嫌っていたのなら、あのシンクロ率0も、まあ説明できなくも無い。だが、あれは母親云々を別にして人間一人を消している存在だ。恐ろしくなかったのだろうか? 自分も消えるのでは? とは考えなかったのだろうか? 
 そのところをシンジに問い質してみると、実にあっさりと、そして身も蓋も無い答えが返ってきた。
「まあ、少しそういう考えも過ぎりましたね。でもあの時、僕に乗る以外の選択肢が有りましたっけ?」
 まあ確かにそうだ。たとえシンジが「嫌だ!」と騒いでも、無理矢理乗せられていただろうことは想像に難くない。だからといって、ああも従順に従うのもあまりに不自然な気がするが……少々憮然とした表情を浮かべるも、これ以上突っ込んで聞けそうもない。よもや乗せた一員が乗ってもらった当人に「普通の人なら、絶対に搭乗を拒否するはずだ!」等とは言えない。絶対言えない。
「そうね。」
 リツコは曖昧な返答をするより他無かった。
「まあ、そう簡単に消えはしないだろうって、多少の打算も有りました。あれから10年経ってるわけですし、その間に全く技術改良が成されない。と言うことは無いでしょう。それに少なくともあのレイって女の子は7ヶ月間かけてアレに乗り続けていたのですよね? ならば消える可能性は殆ど無いはず。そう推測しました……まあ、大怪我くらいはするかも知れない。とも思いましたが。」
「…………。」
 リツコはシンジの言に黙って耳を傾ける。そして熟考。
 確かに今のシンジの推測にアラは見受けられない。大怪我するかも、というのはレイの怪我を見た上での推測なのだろう。
 あの極限状態で、あれだけの情報で、よくもまあそこまで考えが及ぶものだと素直に感心する。だが――
(それでも……普通は私なり司令なりに確認するものじゃ無いかしら?)
 この場合の確認とは、エヴァに乗っても存在が消えない確認だ。
 なにせ自分の命がかかっていることだ。いくら確信を得ていても、やはり専門家から安全の保障を得ようとするのが人情というものではないだろうか?
 そう突っ込もうとしたリツコだが、喉元まで出掛かった疑問を飲み込む。
 彼が怪しいことなど百も承知だったはずではないか。それをこの少年がどれほど感知しているかは分からないが、あまり上げ足を取るような真似をして、悪戯に警戒心を煽ることも無い。
 聞きたいことはまだまだ有るのだから。
「まあ、ここまでは良いわ。でも問題はこの後よ……そんな状態にも関わらず、あなたエヴァを起動させ、実際に動かした。どうやったのかしら? それともエヴァに何らかの変化が生じたのかしら?」
「そうですね……あの時、使徒とやらに一方的に攻撃されて、こりゃ駄目だと思って……実は脱出しようとしたんですよ、僕。」
 何でも無いかのように話すシンジ。
「脱出ですって!?」
 対して、ただ事でない様子で聞き返すリツコ。
「ええ、このまま乗っていても意味無いと思ったので。」
「それはそうだけど……でもどうやって脱出しようと思ったの? 脱出の手段は教えていなかったわ!」
「そうですね、なので力づくでぶち壊そうかと。」
 のほほんとした顔でトンでもないことを言ってのける。
 壊す? エントリープラグを? 無理だ。あれは使徒用に開発された特殊合金で作られている。素手どころか、ハンマーで叩いても凹み一つ付かないだろう。
 その事実をシンジに告げるが、少年は特に感銘も落胆も受けた様子は無く――
「まあ、無理かどうかはこの際置いときましょう。別に実行はしてませんから……というか邪魔されたんですよね。」
「邪魔された? 誰に?」
 あの時邪魔するモノと言えば使徒くらいのものだが……
「初号機でしょうか? もし、あの中に血縁上の僕の母親が居るというのなら、あの女に邪魔されたってことになりますが……」
 事もあろうに、シンジは母親に邪魔されたと言ってきた。
「僕が脱出しようと、ハッチに近寄ったあたりですかね。イキナリ周りの雰囲気が変わったというか、より凶悪になったというか……で、その瞬間、エヴァが勝手に動いた感じがしたんですよね。」
 シンジが言っているのは、エヴァが吼えた時のことを言っているのだろう。危機に陥ったがために起こった暴走……本来ならこれでことがすむはずだったのだが……
「さすがに慌てました。動いたことじゃ無くて、周りの雰囲気の凶悪ぶりに、ですね。これはマズイ。本気でそう思いました。もう精神的に押しつぶされそうな感じがして、あのまま手をこまねいていたら、僕は本当に死んでいたかもしれません。」
 物騒なことを事も無げに話すシンジ。一応本気でそう思っているのだが、3年の修行でヤバイ目にも幾度と無く逢ってきた為か、それほど深刻さが感じられない。
「……つまり、何らかの手段をこうじた。ということ?」
「まあ、そうですね。乗った直後から何らかの邪悪な気配は感じていましたから。ちょっと説明しづらいんですが……精神力を精神力で押さえ込んだ。多分これが一番近い解釈だと思います。」
「押さえ込んだですって? そんなことできるわけ無いわ!」
 椅子が倒れるくらいの勢いで立ち上がり、再度声を荒げるリツコ。今日は範疇外なことを何度も聞かされた彼女であったが、これにはどうしても納得いきそうに無い。
 だが、そんなリツコの態度にもシンジは飄々とした態度を崩さない。
「まあ、科学者としての見解もあるのでしょうが、この際それは無視しましょうよ。少なくとも、その直後エヴァは動きを止めました。」
「…………。」
 リツコとしては納得いかないが、確かにエヴァの暴走と思しき予兆は、爆発することなく也をひそめた。それは間違いないのだ。
「そこで僕も気付きました。いや、あの時は「ひょっとして?」くらいのものでしたが。恐らくはこの精神的存在がエヴァを動かすキーだ。そう思ったんです。」
 リツコは口を挟まない。シンジの言葉に何らかのほつれが見えないかと、じっと凝視している。
 シンジはそんなリツコを見て「また嫌な目をしている」と思ったが、説明自体終盤に近いので、その事には触れずに話を進めた。
「悩みました……正直言ってとても受け入れられるような代物じゃなかったんです。かと言ってこのままじゃやられるだけ。脱出するには、押さえ込んでいる精神を離さなきゃならない……渋々、本当に仕方なく、僕はその精神体を受け入れました。」
 それがあの時エヴァを動かせた事情の顛末です。
 シンジはそう締めくくり、大分ぬるくなったコーヒーを啜った。
 リツコはシンジを凝視しながら、今の話を事細かに吟味していた。
 正直言って信じられない。エヴァの中で気配を感じる。これはまあ有りえなくも無い。過去の被験者にもそれらしい証言が有る。だが、その気配を探り当てて押さえ込むなど、あまりにも非常識だ。
 だが、あの時のエヴァの動きやシンジのシンクロ等が、彼の証言に当てはまっていることもまた事実だ。
 となると、後気になるのは10%程度でしかないシンクロ率と、常人なら死んでもおかしくない精神汚染のことだ。
 現段階で戦力がこの少年一人であることを考えると、少しでも戦力の向上に努めておいた方が良い。
「シンジ君。嫌なことを思い出させるでしょうけど……エヴァとシンクロした時ってどういう感じなのかしら?」
「気持ち悪い。この一言に尽きますね。」
 今までの会話で一番つっけんどんに言葉を返すシンジ。
「その辺詳しく教えてもらえないかしら? 君はまだこれからもエヴァに乗らなければならない。なら少しでも改善した方が良いのではなくて?」
「そういわれましてもね……まあ、気分的にはあれですかね。レイプ。」
「そう……え? レイプ?」
「ええ、無理矢理こっち側に入り込んで好き勝手に蹂躙される……今こうして思い返してみると結構似てます。まあ気分の悪さはレイプされた時の何万倍ですが。」
(そういえばこの子、上級生の男子に犯されたことが有ったわね……)
 シンジが10歳の頃、2つ年上の上級生数人に性的暴行を受けていたことは、報告書にもしっかと記載されている。
 ちなみにこの事件、表沙汰にはされていない。というか教師達は隠そうとするどころか問題として取り上げることすらしなかったというのだから呆れた話だ。
 自分も似たような経験があるだけに、さすがに同情の念が募る。同時にそれ以上の最悪と称されたユイに、歪んだ悦も感じていたが……
「とにかく嫌々ですからね。全面的に受け入れることは絶対に出来ませんでした。自分が意識を保てるギリギリの所で踏ん張るしかないわけで。だから、もしあれ以上長引いていたら……終わってたでしょうね。」
 そう呟いて軽く溜息。「終わっていた」とは己の命のことだろう。あの時観測した精神汚染レベルからすれば十分にありえる話だ。いや、あのレベルだと普通とっくに死んでいるだろうから、逆に今こうやって彼が生きていること自体ありえないとも言えるが……
(いったいどれほどの精神力を持っているのかしらね? この子。) 
 リツコはそんなシンジを眺めながら、ある程度の結論に達していた。
(つまり、シンジ君はあれほどの精神汚染を受けないと、最低限のシンクロも出来ないというのね……)
 多分、このことに関しては間違いないだろう。データ解析も同じ結論に達している。
 ようやく一つの結論に辿り着けたリツコだが、その表情はこの上なく深刻だ。
 まあ、原因が分かったとて、この状況を覆す手立てが思いつかないのだから無理も無い。なにせ、絶対の前提条件であった筈の、母を求める心を彼は欠片も持ち合わせていないのだ。どうしようもなかった。

「それじゃ、次の質問だけど……」
「次って……あのう、ちなみに質問いくつ用意してるんです?」
 多少ウンザリ顔のシンジが壁にかかった時計に目をやる。
 つられてリツコも時刻を確認してみれば、既に長針が丸一周するくらいの時間が過ぎていた。どうやら、シンジへの質問に熱中し過ぎたらしい。
「とりあえず後二つ、質問は用意してあるわよ?」
 リツコは続ける気満々だ。シンジにもその熱意というか執着心が伝わったのか、早々と観念したらしい。「どうぞ。」と力なく呟き、そっと右手の平を見せた。
「じゃ、遠慮なく続けるわね。」
 なんの躊躇も無く、そう言ってのけるリツコ。シンジの表情が多少辟易として見えるのは、恐らく気のせいではないだろう。
「シンジ君、貴方何か格闘技でもやってたのかしら?」
「格闘技……ですか?」
「そう、エヴァで見せたあの動き、おおよそ素人に出来るものでは無い。というのがこっちの結論。専門家にも確認したけど、よほど長い修練を積まないと、あの動きは出来ないそうよ。」
 そう言ってシンジの返答を促すリツコ。無論彼女(に限らず先の使徒戦を観た者は皆)はシンジが何らかの武術を身に着けているだろうことは、ほぼ確信している。
 そして、恐らくシンジは否定するだろう。ともリツコは思っている。
 それはそうだろう。もし格闘技を習っていたと言ってしまえば、流れとして、誰に習ったのかまで聞かれるであろう事は容易に想像がつく。
 何処ぞかの組織と繋がっているのなら、決して触れて欲しくない質問のはずだ。
『イメージ通りに動くのだから自分はイメージしただけ。』
『良く分からない、とにかく夢中だった。』
 ま、言い訳として考えられるのはそんな所だろう。
 ちなみに、イメージで動くと言ってもエヴァは基本的に自分の体で体現出来ないことはエヴァに乗っても出来ないし、ヘッドセットから送られてくる、身体データや心理データは、彼の冷静ぶりを裏付けていた。
 どう言い訳してもシンジの裏側を覗く発端になる。そうリツコは目論んでいた。だが――
「ええ、習ってた……のかな? あまり格闘技って感じじゃ無かったんですが。」
 シンジはあっさりと肯定した。これにはさすがにリツコも拍子抜けだったらしい。
「え?」と、軽く目を見開き固まること4.6秒。もう少し長く固まっていれば、シンジは彼女の目の前で手を振ったかもしれない。
 程なく心を取り戻したリツコ。あまりに予想外なシンジの答えについ、
「そうなの?」
と聞いてしまった。ちょっと間抜けだ。
「ええ、刑務所に服役してた時……って今も服役中ですけどね。そこで教わりましたよ。」

 リツコの思惑を他所にあっさりと答えるシンジ。今日のリツコの予想は外れっぱなしだ。
「それは……変ね。刑務所から貴方の詳細は教えてもらっているけど、そんな事全く書かれていないわ。誰に教わっていたのかしら?」
「? 南方勝石老師ですが?」
 あっさり名前が飛び出てきた。勿論リツコは聞いたことも無い名前だ。
「誰かしら?」
「僕の教育係だと……心身を鍛え、命というものを僕に学ばせるために派遣された。そう聞きましたが?」
「…………。」
 どういうことだろうか? 本当にそのような更生プログラムが組まれていたと? いや、それならば刑務所から送られてきた資料にも記載されているはずだ。
 となると考えられるのは2つ。シンジが嘘をついているか、もしくは――
(刑務所職員に気付かれずに潜り込んだ人物が居る?)
 いや、手引きした職員も居るのかもしれない。もしくは全員か?
 念の為手近のノートパソコンで検索をかけるが、やはり南方勝石たる名前は出てこない。
「シンジ君、それ本当の話かしら?」
「嘘つく理由なんて有ります?」
「でも、南方勝石なんて名前、刑務職員欄にも更生派遣員欄にも無いのよ?」
 勢い込んで追求するリツコ。
「そうなんですか? じゃあ職員じゃ無いってだけのことじゃないんですか?」
 飄々と追求をかわすシンジ。
「この名簿に記載されない人物は基本的に刑務所内には入れない。それも単独で受刑者に会うなんて絶対にありえないのよ?」
「そうなんですか?」
「当たり前でしょ!」
「でも、会いに来た人が職員かどうかなんて、僕には分かりませんよ?」
 シンジの素っ気無い返答にたじろぐリツコ。
 それはそうだ。刑務所のシステムなど知るはずも無い少年が、そんな見分けなど出来るはずも無い。
 その南方勝石たる人物が「教育係だ」と言えば、シンジにはそれを信じる他は無いのだ。彼の話を信じるならば……ではあるが。
 だが、他の職員はどうだ? 監視員や看守等からすればその男はただの不審人物だ。24時間の監視状態を掻い潜ってシンジにコンタクトを取るなど果たして可能なことなのだろうか?
(やっぱり刑務所内に手引きする者が居る。そう考えるべきね。)
 最悪、刑務所のトップ、すなわち内務省ぐるみの謀まで考えねばならないかもしれない。
 リツコは一人かなり深刻な想像(かなり正解に近いが)を張り巡らせていたその時――
「あ、老師。」
 シンジの、実に嬉しげなその言葉に、リツコは現実へ引き戻された。
「なっ!」
 リツコは驚きの声を上げた。それはそうだろう。ここには自分とシンジしか居ないはずなのに、目の前に突如現れた白髪長髭な老人の姿。それがさも当然のようにシンジと親しげな挨拶を交わしているのだから……そして、シンジの口から発せられた、老師という言葉。つまり――
「お初にお目にかかるかの? 先ほどシンジからも名は出たが今一度自分で名乗っておこう。我が名は南方勝石……シンジの師匠じゃ。」
 ひとしきり一方的な挨拶を投げつけた老人は、ニカッと笑みを見せた。



To be continued...

(2005.04.03 初版)
(2005.05.21 改訂一版)


(あとがき)

 こんばんは、地球中心! です。予定を遅れに遅らせてBパートで終わらず、そしてたいした盛り上がりも無くCパートへ――orz
 ちなみにCパートも特に盛り上がりは無いかと……
 まあ、気長に書きます。すぐに読みたい人も居ないでしょうし(それはそれで悲しいが)。
 ところで、世の中にはtxt文が原稿用紙何枚分とか数えてくれるソフト等も有りまして、私も第二話Bパートまでを数えてみたところ、300枚超えてました……結構書いてたんだなあ〜と、ちょっと感慨深げ。このペースだと完結時には3000枚超えますね。終われば、ですが……
 それではCパートでお会いしましょう。

作者(地球中心!様)へのご意見、ご感想は、メール または 感想掲示板 まで