因果応報、その果てには

第一話

presented by えっくん様


『本日12時30分。東海地方を中心とした関東・中部全域に特別非常事態宣言が発令されました。

 住民の方々は、速やかに指定のシェルターへ避難して下さい。繰り返しお伝えします…………』


 少年が乗っていたリニアは、非常事態宣言を受けて最終目的地の手前の駅に緊急停車した。

 既に全てのリニアが運行を停止し、駅員さえもシェルターに避難していた。

 そして駅だけではなく、周辺一帯に特別非常事態宣言を知らせるアナウンスが繰り返し流れていた。

 既に黒服を含めたリニアの乗客は、全員がシェルターに向かっていて、少年の周囲には誰もいない。

 彼らの後を追えば少年もシェルターに行けるだろうが、そうはしなかった。

 使い魔のユインが、少年と合流する為にこの地に向っている。ユインの到着を待っていたのだ。


(さて『碇シンジ』として、この地に来たか)

 シンジは駅前のロータリィに出た。そのシンジを真夏の太陽が迎えた。

 暑さに顔を顰め、ユインが来るまで待とうと、シンジは木陰を探して歩き始めた。

 ジェット機特有の甲高い音が響いてきた。空を見上げると、澄み切った上空には何本もの白線が描かれていた。

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 第三新東京の道路を一台の車が走っていた。ナビゲーションシステムの表示に従って、目的地に向かっている。

 既に特別非常事態宣言が発令されているので、その車以外に動いているものは一切無かった。


「よりによって、こんな時に見失うなんて! まいったわね」


 車を運転している女性が独り言を呟いた。名前は葛城ミサトと言う。年齢は二十代ぐらいだろうか。

 黒っぽいチャイナスーツに身を包み、中々の美女と言えるだろう。

 助手席には『イカリ シンジ』と書かれた少年の写真がファイルに添えられている。

 望遠で撮ったものと見えて、正面からの写真では無いが顔立ちは判断出来た。

 ミサトは写真の少年が降り立つ予定の駅に向かっていたのだが、特別非常事態宣言の為にリニアが途中で停止したので、

 慌てて車の目的地を変更してリニアが途中停車した駅に向かっていた。

 目的地である駅の周辺に危険が迫っているのは、ミサトは知っていた。普通であれば引き返して安全地域に避難するだろう。

 だが、ミサトはある仕事に従事しており、助手席の写真の少年を迎えに行く事が仕事の一つであった。

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 ユインの到着を待ちながら、シンジは静まり返った街並みに一人佇みながらも、左目を使って使徒の情報を確認していた。

 ふと視線を感じて振り返ると、道路の中央に蒼銀の髪の制服姿の少女が見えた。

 シンジと同い年ぐらいだろうか? 少女は何も言わず、こちらを見ている。

 視線が交差した。


(蒼銀の髪と赤い目か、珍しい。でも人の気配を感じない。幻影? それとも精神体だけを飛ばしてきたのか?)


 シンジが少女を見つめながら考えていると、少女の姿がふらっと消えた。

(何だったんだろう?)

 先程見た不思議な少女の事を考え出すが、左目から伝わってくる情報に思考を中断した。

 上陸した怪物の進路に、この駅が入ると分かった為である。


(怪物の移動速度からすると、もう少しで此処に来るか。此処にいると戦自の攻撃に巻き込まれる可能性が高い。

 取り合えずはネルフに行かないと始まらないけど、迎えは無しか。

 まったく、こんな状況ならヘリぐらい差し向けても良いだろうに。そんなにボクを重要視していないと言う事なのか?

 まあ良い。ユインと合流後に、ネルフに向うか)

 シンジは状況を確認して、迎えを待たずにネルフに行く事を決めていた。

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 ネルフ:発令所

『正体不明の移動物体は、依然本所に対し進行中!』

『目標を映像で確認。主モニタに回します』


「十五年ぶりだね」

「ああ、間違いない……使徒だ」


 発令所に居る老人と中年の男が、画面に映し出されている映像を見ながら会話をしている。

 中央の大型モニタには、緑色の大型生物が映し出されていた。

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 使徒を取り囲んでいる航空機から多数のミサイルが発射されて着弾。そして爆発した。

 多数のミサイルの爆発は使徒の仰け反らせ、周囲の建物を次々に吹き飛ばした。


『目標に全弾命中! うぉぉ!』


 だが、使徒は何も無かったかのように平然として、手から光のパイルを出して周囲の航空機を攻撃した。

 いくら攻撃しても使徒に被害を与えた様子は見当たらない。攻撃を行っているパイロットに焦りの気持ちが滲み出てきた。

 そんなパイロットは使徒の足元で青い車が慌てて走っている事など、気にする余裕は無かった。

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『目標は依然健在。現在も第三新東京市に向かい進行中!!』

『航空隊の戦力では、足止め出来ません!!』


「総力戦だ。厚木と入間も全部あげろ!!」

「出し惜しみは無しだ!! 何としてでも目標を潰せ!!」


 警報音に紛れながらも入ってくる報告に、戦自の制服を着た将校は顔を赤くして、叫ぶように指示を出していた。

 実際に今までの攻撃では何も使徒に被害は与えていない。将校の一人は理不尽さを感じて握っていたペンをへし折った。

 その指示の間にも、画面に映っている大型生物の歩みは停まらなかった。


 対地ミサイル、ロケット砲、戦車砲、自走砲。

 戦自の持つ殆どの武器が使徒に向けて放たれ、着弾して爆発した。そして周囲一帯が爆煙に覆われた。

 だが、爆煙が消え去って姿を現した大型生物には、ダメージを受けた形跡が少しも無かった。

 戦自の攻撃にも大型生物は無頓着で、単なる障害物としてしか見ていないようだ。

 それを見ていた戦自の将校の一人は、拳を机に叩き付けていた。


「何故だ!? 直撃のはずだっ!!」

「戦車大隊は壊滅……誘導兵器も砲爆撃もまるで効果無しか……」

「駄目だ!! この程度の火力では埒があかん!!!」


 画面に映る映像に、戦自の将校は信じられないという表情を浮かべていた。

 確かに攻撃は大型生物に届いている。だが、何のダメージも与えていない。今までの常識では有り得ない事だ。

 既にミサイルと砲弾は、かなりの量が消費されており在庫も心細くなっていた。


「やはり、ATフィールドか?」

「ああ。使徒に対して通常兵器では役に立たんよ」


 ネルフの制服を着た二人は、戦自将校の慌てている状況を見ながら冷静に会話をしていた。

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 そこに電話の呼び出し音が鳴った。戦自の将校は、赤い受話器を急いで取った。


「……分かりました。予定通りに発動します」

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 ミサトはシンジを迎えに行ったが、結局は見つける事が出来なかった。

 そして使徒に車ごと踏み潰されそうになり、慌てて逃げ出していた。

 だが、見つからなかったでは済まされない事は十分に承知している。そもそも迎えに行くとは自分が言い出した事だ。

 責任を感じており、今は部下である日向にシェルターの中にシンジが居ないかを確認させていた。

 シンジはサードチルドレンとして自分の部下に組み入れられる予定だ。ミサトは上司としての責任があると考えていた。

 戦自と使徒の戦闘に巻き込まれるのを避ける為、離れたところから使徒を観察して日向の連絡を待っていた。

 使徒を見つめるミサトの目には暗い光が込められていた。ミサトと使徒は深い因縁があった為である。

 双眼鏡で使徒を観察していると、周囲にいた航空機が一斉に使徒から離れていくのが見えた。


「ちょっと、まさか……N2地雷を使う訳!? シンジ君!?」


 見つからなかったシンジの事をミサトは案じたが、自分の身の危険も同時に感じていた。

 かなり使徒からは離れているが、それでもN2地雷の威力は十分に知っている。

 ミサトは咄嗟に伏せたが、乗っていた車はN2地雷の爆発の衝撃で横倒しになり、ゴロゴロと横に転がっていった。

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 中央の大型モニタに、N2地雷の爆発した様子が映し出されていた。


「やった!!」


 戦自の将校が立ち上がって自信ありげに大声で叫んだ。N2地雷の威力は十分に知っている。

 これに耐え得るものなど存在するはずが無いと考えていた。


「残念ながら君達の出番は無かったようだな」


 戦自の将校の嫌味な台詞にゲンドウは僅かに顔をあげ、冬月は首を竦めただけだ。

 二人はN2地雷では使徒は倒せないと判断していた。


「その後の目標は?」

『電波障害に為に、確認出来ません』

「あの爆発だ。けりはついている」

『センサーが回復します。爆心地にエネルギー反応!』

「なんだと!!?」


 報告を聞いた戦自の将校は立ち上がって叫んだ。信じられないという表情をしていた。

 それはN2地雷の威力を熟知している人間なら当然の反応だった。引き続いて報告が入った。


『映像回復します』


 大型モニタには使徒が依然として立っている姿が映し出されていた。

 それを見た戦自の将校は次々と力尽きたように、椅子に座り込んでいった。


「……我々の切り札が……」

「何て事だ……」

「化け物め……」


 N2地雷はまったく使徒に被害を与えなかった訳では無い。使徒の身体の至る所に損傷の形跡はあった。

 だが、N2地雷を使用しても使徒を倒せなかった事は、戦自の将校にとっては衝撃的な事実だった。

 使徒の周囲を飛行中のヘリからの拡大映像が映し出されている。使徒は立ったまま、身動ぎもしていない。


「予想通り自己修復か」

「そうでなければ単独兵器として役に立たんよ」


 突然、モニタに映っている使徒が光ったかと思うと、モニタの映像が途切れてしまった。

 おそらくは使徒から放たれた光に、ヘリが落とされたのであろう。N2地雷をくらう前には無かった機能だ。


「ほう、大したものだ。機能増幅まで可能なのか」

「おまけに知恵もついたようだ」

「再度の侵攻は時間の問題だな」


 戦自は自分達の持つ最大の破壊力を持つN2地雷が、使徒に通用しなかった事を渋々だが認めざるを得なかった。

 高い位置にある指揮所から、ゲンドウを見下ろしながら決定事項を伝え始めた。


「今から本作戦の指揮権は君に移った。お手並みを見せて貰おう」

「了解です」

「碇君。我々の所有兵器では目標に対し有効な手段が無い事は認めよう。だが、君なら勝てるのかね?」


 悔しさを顔全体に滲ませながら、戦自の将官はゲンドウに問いかけた。

 戦自は日本政府直轄の軍事組織であり、日本国土防衛の義務を持っている。装備を整えて日頃の訓練を欠かさず行ってきた。

 それなのに使徒に侵攻され、それを阻止出来なかったのは痛恨の極みだ。

 だが、実績も無い特務機関ネルフに後を託さねばならなかった。ここに至ってはネルフの善戦を期待するだけだ。


「その為のネルフです」


 ゲンドウは口元の笑みを隠すかのようにサングラスに手を当てながら、淡々と戦自の将官に返事をした。

 ネルフはこの日の為に特務機関として設立され、莫大な予算と権限を与えられていた。

 失敗しましたでは済まされない事は十二分に理解している。それに待ちにまった計画の始まりでもある。


「期待してるよ」


 自分達は力が及ばなかったが、それでもネルフが使徒を倒せれば日本の、いや世界の危機は救われる。

 戦自の将官は肩を落として発令所から退場していった。


『目標は今だ変化無し』

『現在の迎撃システムの稼働率は7.5%』

「戦自もお手上げか。どうするつもりだ?」


 状況はシナリオ通りと思っているが、自分の言うセリフもシナリオに含まれていると分かっている冬月は、少しゲンナリしていた。


「初号機を起動させる」

「初号機をか? パイロットがいないぞ」

「問題ない。もう一人の予備が届く」


 ネルフの対使徒戦力はEVAしか無い。使徒に対抗する為には初号機を起動させる必要があり、その為にシンジを召集したのだ。

 分かりきっている事ではあるが、周囲のオペレータ達に使徒来襲を事前に知っていたと知られる訳にはいかない。

 偶然、使徒来襲とシンジの召集が重なったとお膳立てをする必要があった。だが、イレギュラーが発生していた。

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「リニアが途中停車した駅で、サードチルドレンを保護出来なかったと葛城一尉から三十分以上前に連絡が入っています。

 今までシェルターに収容されている中から、彼を見つけ出そうとしていましたが、依然見つかっていません。

 葛城一尉はN2地雷の余波で車に被害はありますが、現在はこちらに向かっています」


 今まで戦自が戦闘指揮を執っていた事もあって報告できなかったが、ゲンドウがシンジの事を言い出したので

 慌てて報告をした日向だった。それを聞いたゲンドウと冬月の顔色が変わった。


「彼を保護していないのか!?」

「はい。京都からリニアに乗り、緊急停止した駅から出たところまでは監視カメラで確認しています。

 葛城一尉は最初の目的の駅から、途中のリニアが停車した駅に向かったのですが、まだ見つかっていません」

「駅周辺のシェルターの被害は?」


 冬月はミサトがシンジを保護出来なかった事より、シンジの無事を確認する事を優先した。

 何せシンジがいなければ、シナリオが進まない。それどころか、自分達の生命の危機に繋がる。いや世界が滅亡してしまう。

 ここに至っては、パイロットが居なくてEVAを起動出来ませんでした、では済まされない。


「あの周辺はN2地雷の被害の大きかったところです。シェルターも潰れています。

 サードチルドレンがシェルターに避難していた場合は無理かと……」


 冬月の質問に答えたのは、被害状況を確認していた女性オペレータのマヤだ。

 マヤは初号機の起動にシンジが絶対に必要だと知っている。シンジが死亡した場合、どんな事になるかを予想して顔を青褪めた。


 現在、本部にいるパイロットは一人のみだ。しかも重傷であり、出撃出来る状態では無い。

 だが、サードチルドレンが来ればEVAが起動出来るかもしれない。起動が出来れば、敵を撃退出来るかもしれない。

 サードチルドレンはネルフの最後の希望だった。

 しかしサードチルドレンがN2地雷の被害に巻き込まれたとなると……EVAは動かす事が出来ない。

 ネルフが動かせる兵器は、EVAしか無い。つまり、ネルフは何も出来ない……


「碇。拙いぞ!」

「くっ。……仕方無い、レイを使う」

「……良いのか?」

「今回の急場はそれで凌ぐしか無い」


 冬月とゲンドウは小声で会話した。計画と異なるが、今は使徒を殲滅するのが最優先だ。

 レイの場合は万が一死んだとしても、どうにでもなるという理由もある。


「待って下さい。正面ゲートの守衛から連絡が入りました。”碇シンジ”と名乗る少年が来ているそうです。

 ネルフのIDカードを所持しています」


 青葉の報告を聞いて、日向が安堵の表情を浮かべた。上司のミサトが保護出来なかった責任を感じていたのだ。

 急いでミサトにシンジがネルフ本部に到着した事を連絡していた。

 冬月も安心した顔で、次の指示を出した。


「赤木君を呼び出して、サードチルドレンを迎えに行かせたまえ」

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 シンジはユインとの合流後、迎えを待たずに一人でネルフ本部までやって来た。

 守衛に見咎められたが、手紙とIDカードを見せて納得してもらい、今は待合室でユインと一緒に待っているところだ。

 だが、ただ待っていただけでは無い。使徒への攻撃状況を監視衛星経由でモニタリングしていた。


(ミサイルとかの誘導爆発兵器は効果無し。戦車砲程度の貫通兵器も効果無しか。

 至近のN2地雷の攻撃でも致命傷にならないというのか。やはり、何らかのシールドがあるんだろうな。

 こっちのシールドより遥かに高性能なシールドだな。という事は、普通の粒子砲では防がれて終わりか。

 ならば、効果がありそうな手段は三つか…………)


 ユインを頭の上に乗せ、腕組みをしながら考え込んでいた。

 『天武』という秘密兵器を開発していたとはいえ、ここまで敵の能力が高いとは予想外だった。

 確かにネルフの言う”人類の脅威”なら、N2爆弾ぐらいでは効かない事もあるだろう。

 使徒を甘く見ていた事を認めながらも焦りは無かった。切り札を使えば倒せると信じていた。


(だけど十年前に見た紫色の機体で、あの敵に対抗出来るというのか?

 記憶が曖昧で良く思い出せないけど、あの機体にそんな力があるのか?

 そうだとしたら、ネルフの技術レベルだけで完成出来るとは思えないが……

 ……やはり、何らかのイレギュラー要素が入っているのかな。

 まあ、現物を見ないと結論は出せないな。今回の敵は『天武』で倒すとしても、ネルフの兵器も必要か……)


 使徒の状況確認と対策検討が終わった頃に、待合室のドアが開いて一人の女性が入って来た。何故か水着の上に白衣を着ている。

 冬月からの呼び出し直前まではLCLプールに潜っていたとはいえ、少々十四歳の少年を出迎えるには不適切な格好だろう。

 もっとも、緊迫した状況を理解しているリツコはそんな格好に拘ってはいなかったが。


「あなたがサードチルドレンの碇シンジ君ね」


 声をかけてきた女性の年齢は三十歳ぐらいだろうか? アジア系の顔立ちだが、髪は金髪に染めている。何故か眉毛は黒かった。

 左目の下のホクロが何故か印象的である。冷たい感じではあるが、美女の部類に入るだろう。

 凛とした声は十分な知性を感じさせた。声をかけながらも、リツコはシンジの頭から足まで値踏みするような目で見ていた。

 これからシンジが初号機に乗って使徒と戦うのだ。本当に大丈夫なのかという心配もあるから、シンジを見定めようとするのは

 リツコの立場では仕方ないかも知れない。もっとも、その値踏みされる方はたまったものでは無いが。


「サードチルドレンというのが何かは知りませんが、名前は合ってますよ。あなたは?」

「自己紹介がまだだったわね。私はネルフの技術局一課の赤木リツコよ」


 今まで行方不明だったシンジは、どこかの組織の保護を受けているとリツコは考えていた。

 その組織の出方次第では、少々面倒な事になるかもと思っている。

 だが、ネルフの特務権限の前では、些細な事とも思っている。唯一心配なのは、シンジの精神状態だ。

 EVAのシンクロが出来るかは、母親を求める心が必要になる。目の前のシンジは、どうなのだろう。


(あら、頭の上に載っているのは、猫? ……いえ、違うわね。何種なのかしら?

 身長は年齢平均より高いわね。十四歳のはずだけど、もうちょっと上に見えるわ。それに、体格もしっかりしている。

 ……髪は黒。目も当然……!? 左目が紫? 義眼かしら? 顔立ちは、まあ整っているほうね。少し怖い雰囲気があるけど。

 左手首に付いているリストバンドが盛り上がっている? 何かを隠しているのかしら?

 所持品はバッグが一個か。危険物はこの待合室のX線検査では見つかっていないから大丈夫かしらね)


(人を値踏みしているか。まるでモルモットを見る目だな。しかし遠慮というか、配慮に欠けているな。

 ……髪を金髪に染めているけど眉は黒? どんな趣味なんだ? ボクの前に出てくるのに、水着の格好のままか。

 スタイルは……まあ、どうでも良いや。ボクにはミーナがいるしね。美人の部類に入るだろうけど、性格が悪そうだ。

 この人がMAGIの責任者の赤木博士か …………)


 無遠慮なリツコの視線を感じて、シンジの”赤木リツコ”に対する第一印象は相当悪い物となった。

 今のリツコからすれば、シンジはネルフが召集した初号機のパイロットに過ぎない。モルモット扱いも当然と考えていた。


「それで、このボクを態々呼び出した男は何時来るんですか? 待ちくたびれてしまいましたよ」

「呼び出した男って、あなたのお父さんでしょ!?」


 シンジはポケットから『来い ゲンドウ』と書かれた紙と、ミサトが映っている写真を取り出してリツコに見せた。

 ゲンドウの手紙(手紙と言えるかは疑問だが)を見たリツコは絶句した。シンジが行方不明になって十年が経過している。

 そんなシンジをまさかこんな紙一枚で呼び出しているとは想像していなかった。そしてミサトの写真を見て、頭を抱えた。

 常識的に考えれば、年頃の少年に送って良い写真では無い。しかもキスマーク付きはやり過ぎだ。


「ボクは三歳の時に、この手紙の差出人から暴行を受けて左目は失明しました。今の左目は義眼です。

 ゲンドウなんて名前は忘れてましたけど、手紙を貰って思い出しました。そんな男を父親だとは思っていません。

 良い機会だから会って文句を言う為に此処にきましたけど、本人は何で来ないんですか? 来ないなら帰らせて貰いますが」

「ちょっと待って!」


 シンジが三歳の時にゲンドウから暴行を受けて、左目を失明しているのは初耳だった。

 今までの口振りで、シンジはゲンドウに相当悪い感情を持っているだろう事は分かった。

 しかし、シンジを初号機に乗せない事には計画が始まらないし、自分達の命に関わってくる。それどころか世界が破滅する。

 リツコは咄嗟に考えて、シンジに事情を説明せずに初号機の前まで連れていく事にした。

 ケージに行けば、力ずくでも脅しでも何でも出来る。子供の癖にやたらと突っ張っているようだが、ネルフの前では無力な子供だ。

 世界の危機の前で、シンジ一人の人権を尊重する気は無かった。誰しも我が身が可愛いものだ。一人ぐらいの犠牲は仕方無い。

 もっとも此処で騒がれても困るから、リツコは少し優しげな口調でシンジに事情を説明し始めた。


「あなたのお父さんは、ここの司令で忙しいの。だから、地下に連れていくよう言われているわ。付いてきてくれる」

「忙しいのなら出直しますよ。直接、顔を見たいのは確かですが、今で無くても良いですしね」


(ネルフの兵器に乗せようと、迫ってくるのは分かっている。焦らせてみるか)

 そう言って、シンジはバッグを手に持って、部屋を出ようとした。


「ちょっ、ちょっと待って。今は特別非常事態宣言が出ているから外は危険なの。この本部内の方が絶対に安全だわ。

 司令とは後で会ってもらうから、今は付いて来てくれないかしら」


 ここでシンジに逃げられては大変と、早速シンジの説得に掛かった。

 保安部を待機させているとはいえ、無理に拘束してシンジが怪我をしてシンクロに影響しては困る為だ。


「外が危険ですか……じゃあ、あなたが責任を持って、絶対に安全な場所にボクを案内してくれると言うのですね?」

(苦しい言い訳だな。ネルフの兵器も見てみたいし、”中継”の準備もしないとね)


「そうよ。地下の安全な場所に案内するわ」

(何とか連れて行けそうね。でも素直にEVAに乗ってくれるかしら? 態度も堂々としてるし、母親への依存性はあるかしら?)


「じゃあ、御願いします」

「そう、じゃあ付いてきて」


 シンジはバックを手に持って、リツコの後を追って歩き出した。

 リツコは歩きながら、シンジの頭に乗っている小動物(ユイン)の事を聞き始めた。単なる好奇心からである。


「あなたの頭の上に乗っているのは何なのかしら。猫じゃあ無いだろうし、ちょっと分からないわ」

「……これでも狼ですよ。灰色狼。小さくてもちゃんと牙はあります。無用心に手を出さないで下さいね。手に怪我をしますよ」

「狼の子供なの。珍しいわ。可愛いペットね」


 リツコは意外そうな表情を浮かべた。狼は希少動物であり、普通ペットで飼っている人間など見た事が無い。


「ペットじゃ無くて、頼りになる相棒ですよ」


 シンジは笑みを浮かべて、リツコに続いてエレベータに乗り込んだ。

 その時のリツコは『頼りになる相棒』とシンジが言った意味が分からなかった。だが、後ではその意味を思い知る事になる。

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 ゲンドウはリツコとシンジがエレベータに乗り込んだ事を確認していた。

 そして次の行動に移ろうと、指示を出した。


「……では、後は頼む」

「ああ」


 冬月に後を任せて、ゲンドウはリフトを操作して下に降りていった。

 そのゲンドウの様子を見ながら、冬月は一人呟いた。


「十年ぶりの対面か…………」


 ゲンドウは冷酷な策士だ。十年ぶりに会う息子であっても、容赦無く道具として戦闘に使うつもりだ。

 シンジを追い詰める策も二重、三重に準備してある。シナリオ通りに。

 だが、十年ぶりの息子との対面は、今の冬月には想像も出来ない事態を引き起こす事になる。

 ただの老人にすぎない冬月には、未来の事など分かるはずも無く、これから始まるシナリオに期待する気持ちで満ちていた。


「副司令。目標が再び移動を始めました」


 修復を終えた使徒が動き出し、監視していたオペレータの報告が次々と入ってきた。


「よし。総員第一種戦闘配置」

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『総員第一種戦闘配置! 繰り返す、総員第一種戦闘配置! 対地迎撃戦用意!』


 耳障りな警報と一緒に、ネルフ本部の施設全体に戦闘準備を指示する放送が鳴り響いていた。

 そんな放送を聞きながら、シンジはリツコと一緒に廊下を歩いている。


「随分と穏やかで無い状況ですね。ところで、赤木さんがこんなところで部外者のボクと一緒に居ていいんですか?」

「……ええ、大丈夫よ」 (あなたを連れて行くのが、仕事なのよ)

「でも、第一種戦闘配置なんてすごいですね。ネルフは特務機関と聞いていますけど、軍事組織なんですか?」

「基本は研究組織よ。でも、ある特定の相手には、ネルフの持つ機密兵器しか通用しないの。今はそれを使う時なのよ」

「じゃあ、あのリニアが停まった非常事態宣言と関係があるんですか?」


 シンジは駅から本部まで自力で来たと聞いている。という事は、使徒は見ていないだろう。

 初号機に乗らせるからには、少しは予備知識があった方が良いだろうと考えて、リツコは説明を始めた。


「そうよ。使徒と呼ばれる巨大生物が相手よ。ネルフが所有するEVAでしか、対抗出来ないの。

 そのEVAも、才能を持った人間しか操縦出来ないのよ」


 さり気無く、優秀な人間しかEVAを操縦出来ないと仄めかした。初号機に乗らされる時の抵抗を和らげる為の誘導だ。

 師匠から”おまえがネルフの兵器のパイロットに選ばれる”と聞いているので、これもネルフの誘導かと判断した。


「その兵器のパイロットは、さぞや優秀で十分な訓練を積んでいるんでしょうね。

 知り合いに戦闘機パイロットがいますが、素人が飛行機を飛ばせるようになるには、結構な時間がかかると言ってましたしね」


 シンジの知り合いに戦闘機パイロットが居ると聞いて、どこの組織なのかと一瞬考えたが止めた。

 どの道ここまで来たからには、シンジを無理やりでもEVAに乗せるしか人類が生き延びる手段は無いと考えていた。

 それにネルフの特務権限を使用すれば、どんな組織が絡んでいても問題は無い。

 強引に初号機に乗せられた時のショックを和らげた方が良いと判断して、リツコは言葉を続けた。


「EVAは思考制御で動くのよ。だから本当に才能があれば、訓練無しでも動かせるわよ」

「まあ、ボクには無理かな。後で余裕があったら、そのパイロットに会ってみたいですね」


 シンジが拒絶した時は、レイを連れてくるシナリオをリツコは思い出した。


「そ、そうね。きっと会えると思うわよ」

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「ちょっと待って!」


 リツコとシンジがゴムボートに乗り込もうとした時、いきなり二人に声が掛かった。

 声を掛けてきたのは黒いチャイナスーツを着込んだミサトだった。リツコとシンジは眉を顰めた。

 シンジの迎えには自分が行くとミサトが言ったにも関わらず、結局はミサトはシンジを保護出来なかった。

 リニアの遅れは理由にならない。

 重要度が低ければ仕方無いが、重要度が高い内容であれば如何様にも手配出来る権限をミサトは持っている。

 ヘリを出すなり、別の人間を迎えに出すなりの手配を取れたはずなのに、それをしなかった。

 シンジが自らネルフ本部に来たから良かったものの、これがシェルターに逃げ込んでいたなら人類は滅んでいたかも知れない。

 その為にミサトを見つめるリツコの視線は厳しかった。

 シンジとしても、結局は自分を迎えに来なかったミサトを快くは思っていない。

 キスマーク付きの写真を送り付けて来た時点で、シンジの警戒レベルは上がっている。それにミサトの格好を見て確信していた。

 洒落っ気のつもりはあるだろうが、公称年齢十四歳の少年に対しては刺激的過ぎる格好だ。

 今のシンジにはミーナが居るから大丈夫だが、これが女を知らない少年だったら刺激が強過ぎる。

 一般常識を弁えていないか、弁えていても敢えてこの格好を選んだかのどちらかだ。シンジを取り込もうと考えているなら後者だ。

 以前にミサトに会ったのは二年前になる。あの時とは随分雰囲気が違うと感じていたが、それをシンジが口に出す事は無かった。


「何をやっていたの、葛城一尉。人手も無ければ時間も無いのよ!」

「ご、ごめん! この子がサードチルドレンなの?」

「そうよ」

「違いますよ。サードチルドレンとやらになった覚えはありません。この左目を潰してくれた人間に文句を言う為に来ただけです。

 勝手に人を決め付けないでくれますか!」

「ごめん。あたしは葛城ミサト。ミサトで良いわよ。碇シンジ君」

「ここの司令に文句を言ったら、直ぐに帰るつもりですからね。そしたらあなたと会う事も無いでしょう。

 そんなに親しげにしなくても良いですよ」

「どういう事!? シンジ君はお父さんに会いに来たんでしょ! 可愛げが無いわよ。子供はもっと素直にならなくちゃね!」


 ミサトはシンジを注意深く観察していた。十四歳。三歳の時に行方不明になり、今までの経歴は全て不明。

 体格は十四歳にしては大きい方だろう。高校生に混じっても違和感は無い。黒髪。右目は普通に黒いが、左目は紫色だ。

 顔立ちは普通だろうが、何故か普通で無い雰囲気をミサトは感じ取っていた。何か格闘技でもやっているのかも知れない。

 マルドゥック機関に選ばれたサードチルドレン。ミサトの部下に組み込まれる予定であった。

 その為に迎えに行ったのだが、結果的にはミサトは駅でシンジと会えなかった。だが、今はここで会っている。

 ミサトはここでシンジと話そうと考えたが、それはリツコに制止された。


「今は急いでいるの。話しは後にしなさい。良いわね」

「……そうね」


 使徒が迫っている今、ネルフはEVAを使って迎撃しなくてはならない。そんな緊急時に、リツコが無駄な事をするはずも無い。

 そのリツコがシンジを態々案内しているというのは、どういう事を意味しているかをミサトは薄々感じ取っていた。

 だが、それを口に出す事無く、素直にリツコに従った。そんな二人をシンジは冷静な目で見つめていた。

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 初号機の格納庫

 周囲は真っ暗だ。リツコとミサトの案内でシンジは歩いて来たが、何も見えない。もっともシンジは周囲の気配を感じ取れた。

 入って直ぐに気がついたのは、異質な、そして人間とは比較にならない程、大きな存在感だ。

 それに周囲には十数人の普通の人間の気配があった。この場所が目的地かと判断した。


「赤木さん。ここにはかなりの数の人間が居るのに、何で真っ暗なんですか? 何か悪い事を考えていませんか?」


 そう言って、シンジはリツコの背後に回った。万が一の場合は、リツコを人質に取る為だ。


「……今、電気を点けるわ」


 リツコはシンジの質問に答えず、ポケットのリモコンのボタンを押した。

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 国連軍の参謀本部では、戦自から送られていた使徒に関する情報の分析に入っていた。

 指揮権が戦自にあった時には、送られてきた画像が中央の大型モニタに映っていた。

 だが、指揮権がネルフに移った今は、大型モニタには何も表示されていない。ネルフに情報提供を依頼したが拒否された為だ。

 各オペレータは戦自が戦った画像を元に、使徒と呼ばれる生物の特性と弱点等の解析作業に入っていた。


 何も映っていなかった大型モニタに、突如として映像が表示された。

 自分では操作していないのに何事かと、慌ててオペレータは確認作業に入った。


「こ、これは!? ……参謀総長閣下。現在の中央モニタに映っているのは、ネルフの格納庫の映像です。

 発信元のIDは北欧連合です。現在、この参謀本部と国連総会に強制中継されています」

「うむ。この映像をきちんと録画しておけ。

 それと、この放送の妨害工作が考えられる。可能な限り、この放送の妨害工作は排除するよう各部署に指示しろ」


 ルーテルは人類補完委員会とは仲が悪く、どちらかと言えば閑職に近い状態だ。

 委員会は各実務部隊を直接把握して命令を出しているので、ルーテルの命令は無視される事が多かった。

 これも、各実務部隊は各国の元国軍を中心に編成されている為である。

 国連軍という名ではあるが、出身母国と通じており、出身母国の意向を重視する方針を採っている部隊は数多くあった。

 故に、国連軍の参謀総長という立場にありながら、実権はあまり無かった。


 そのルーテルは、北欧連合からある要請を受けていた。

 使徒が攻めてきた場合、日本の第三新東京周辺には非常事態宣言が出される。

 その非常事態宣言中に、ネルフに指揮権が渡った後の強制中継を持って、第三新東京に連絡が付かないように通信網を遮断する。

 外部でいくら騒ごうとも、ネルフに連絡が出来ないようにすると。

 後は強制中継自体の妨害工作を排除すれば、使徒戦の状況を限定とはいえ公開する。

 それに協力して欲しいと。そして日本の政府から国連軍に出撃要請があったら、我が国に出撃を要請して欲しいと。

 補完委員会とネルフの専横を苦々しく思っていたルーテル参謀総長は、この要請を受けた。

 うまくいけば、自分の権力基盤の強化につながるだろうという思いがある。そして現在に至っていた。

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 初号機の格納庫

 照明が付いて、格納庫内を照らした。シンジはわざと、人とは異なる存在感を持つものに背を向けていた。

 リツコの背後を取る為もあったが、こんな小癪な演出に引っかかりたくは無かった為でもある。

 そして左目で見た映像を、外部へ流すように手配した。

 同時に、左目から見た情報だけで無く、MAGIの管理する映像情報を横取りしようと、探査ロボットを放っていた。

 その手配を済ませた事を確認すると、リツコに向って話し出した。


「で、態々こんな演出をした理由は何ですか?」

「えっ!?」


 正面にいたはずのシンジは見当たらず、背後から声が聞こえて来たので、リツコは驚いていた。

 慌てて振り向くとシンジの顔が見えて、その後ろにネルフの誇るエヴァンゲリオン初号機の姿が見える。

 この位置だと、シンジから初号機は見えないでは無いか!

 いきなり初号機を見せて、精神状態を不安定にさせるシナリオだったのに、とリツコは思ったが口には出さない。


「シ、シンジ君。後ろよ。後ろを向いて!」

「ボクの後ろに、何かがあるのは知っていますよ。そんな子供だましの演出が通用するなんて、甘く見てくれましたね」

「そ、そんな事は無いわよ。とにかく後ろを向いてくれないかしら」

「その前に確認です。ここの司令から、ただ”来い”という手紙を受け取り、そんな人間性に欠ける奴はどんな奴か

 見てみたいから来ただけです。それと三歳だったボクの左目を潰してくれた恨みを言う為にね。

 ネルフの要請を受けたつもりは無いし、何も話しは聞いていません。従って、このネルフのIDカードは返しますよ。

 赤木さんはボクを絶対に安全なところに案内すると言いましたよね。ここが絶対に安全な場所なんですか?」


 自分が何も知らされていない事を周囲に周知させようと、シンジは大きな声でリツコに質問した。

 中継されている事も十分に理解している。同時に、ネルフのIDカードをリツコの白衣のポケットに入れてしまった。


「そ、それは……」


 今のシンジの言葉は、ネルフの意図に気付いたのだとリツコは悟った。

 リツコは返事に困って困惑の表情になり、それを見たシンジは笑って後ろを振り向いた。

 そこには紫色の巨大な顔があった。ある程度は覚悟していたとはいえ、内心では動揺していた。


(やはり十年前とは印象が全然違う! この威圧感……これをネルフが独力で造れるとは思えないが……

 やはり、一部にロストテクノロジーに属する技術が使われている可能性が高いな。期待出来るかな)


 シンジは内心の動揺を隠して言葉を続けた。ここで受けに回れば、押し流されるだけと理解していた。


「これを子供みたいに自慢したいから、こんな演出なんですか?」


 リツコは少し動揺したが、シナリオを思い出して説明を始めた。


「これは人の作り出した究極の汎用人型決戦兵器……『人造人間 エヴァンゲリオン』、その初号機よ。

 建造は極秘裏に行われたわ。我々人類の最後の切り札よ」

「建造は極秘? 十年前にボクは見ていますよ。外観はほとんど同じですね。進歩の形跡が無いな」

「あなたは十年前の事を覚えていると言うの!?」

「ええ。母が泡となって消えていった光景は覚えていますよ」

「まさか!? あなたが三歳の時の事なのに……」


 リツコはシンジと話しながらも、冷静さを取り戻していた。

(十年前の事を覚えているなら、シンクロ出来るかしら。でも、今は乗せるしか方法は無いわ。あたし達人類が生き延びる為に!)


『久しぶりだな。シンジ』


 リツコとシンジの話しに痺れをきらしたのか、ゲンドウの声がスピーカから響いてきた。

 ゲンドウは上の管制室からシンジを見下ろしていた。そしてその声には一切の感情は感じられなかった。

 シンジは内心ではやっと登場かと呟いたが、最初の計画通りに無視する事にしていた。

 正直言ってゲンドウ個人に、憎しみも無いが興味も無い。だが、ネルフの譲歩を引きずり出す為には、徹底的に貶める必要がある。

 貶めるネタは幾つもある。どれを言い出そうか考えながらも、リツコから視線を逸らす事は無かった。


「赤木さん。どうなんですか、何の為にこれを見せたか、はっきり言って下さい」

「シ、シンジ君。お父さんが呼んでるわよ」

「ボクは八年前に、ある家に養子に入っています。養父はここには居ませんよ」

「えっ!? 養子に?」

「そうです。今は”碇”の姓は使っていません。北欧連合の国籍ですし、養子に入った家の姓を使っていますよ。

 日本に来て昔の名前を名乗るのも面白いからと思って、ホテルの宿泊帳には『碇シンジ』と書きましたがね」

「で、でも、司令がシンジ君のお父さんである事は間違い無いわ」

「三歳のボクを全治二ヶ月の全身打撲にし、左目を潰してくれた相手を父と呼べと? 冗談は止めて下さい。

 日本の法律では三歳児に暴行を加えた時点で、幼児虐待者として親権は剥奪されるはずでしょう。

 遺伝子提供者と言われるなら認めますがね。それに同じ目線で話せないなら、話す必要性は認めません」


 周囲の整備員にざわめきが広がった。

 流石に三歳の子供に全治二ヶ月の暴行を加え、左目を失明させていたとは、誰も想像もしていなかった。

 リツコとシンジの会話を黙って聞いているミサトも目を瞠っていた。


「で、でもね……」


 リツコは整備員の動揺に気がつき、管制室のゲンドウを見て、どうすれば良いかを考えた。

(加害者は何とも思っていなくても、被害者は忘れていないか……当然ね。これ以上、司令の悪評が広がるのはまずいわ。

 次のシナリオに移行しないと駄目ね。無理やり拘束するのは最後の手段だわ)

 中々話しが進まない事に痺れを切らしたか、ゲンドウの声がスピーカから流れてきた。


『……出撃』

「出撃? 零号機は凍結中でしょう!? まさか初号機を使うつもりなの!?」

「他に道は無いわ」

「ちょっと、レイはまだ動かせないでしょう。パイロットがいないわよ」


 ミサトがちらりとシンジを見た。この非常時に忙しいはずのリツコが態々シンジを初号機のケージまで連れてきた。

 シンジを初号機に乗せる予定だとは聞いていなかったが、ミサトは薄々ゲンドウとリツコの思惑に気がついていた。

 しかし、それ以外に現状を打破する手段が無い事もあって、ミサトはゲンドウとリツコのシナリオに乗ったのだ。


「さっき届いたわ」

「マジで!?」

「碇シンジ君。あなたが乗るのよ!」


 リツコが冷たい視線でシンジを見つめた。使徒が来襲している現在、議論している余裕は無い。

 そしてシンジの周囲の大人全員がシンジに初号機に乗る事を強要していた。普通の十四歳の少年だったら耐えられないだろう。


「綾波レイでさえ、EVAとシンクロするのに七ヶ月も掛かったんでしょう。今来たばかりのこの子にはとても無理よ!」

「座っていれば良いわ。それ以上は望みません」

「しかし……」

「今は使徒撃退が最優先事項です。その為には誰でもEVAと僅かでもシンクロ可能と思われる人間を乗せるしか方法が無いの。

 分かっている筈よ。葛城一尉」

「……そうね」


 自分を挟んでリツコとミサトが話しているのを、シンジは呆れが混じった顔で聞いていた。

 状況説明も殆ど無いまま、無理やり初号機に乗せようとしているのがはっきり分かった。

 確かにEVAしか使徒に対抗出来いなら仕方の無い事かも知れないが、呼び出しを含めて納得出来ない事だらけだ。

 ましてや、使徒に対抗しうる兵器を準備しているシンジとしては、ネルフの強要に従うつもりは無かった。


「茶番は終わりましたか?」

「茶番って、あなたが初号機に乗るのよ。覚悟を決めなさい!」

「そ、そうよ! 今は人類が滅ぶかどうかの瀬戸際なのよ! 覚悟を決めて!」

「……あの使徒と呼ばれる敵生体が攻め込んでいるのに、何も言わずにここに連れて来たって事は最初からボクをこれに乗せるつもり

 だったんでしょう。そして緊急事態だからと言ってプレッシャーを掛けて、有無を言わさずにパイロットにする。

 ボクの味方は誰も居なくて、周りの大人達はボクに圧力を加えるだけ。確かに普通の十四歳の子供なら、言い成りになるしか無い。

 良く練り込まれた脅迫計画ですね」


 最初からパイロットに為れと迫られると分かっていたから、シンジもここまで冷静な対応が出来た。

 何も知らないまま連れてこられて今のようなプレッシャーを受けたら、普通の少年ならまず抗う事など出来はしない。

 話しの途中でミサトがシンジをチラ見した事も、癪に障った。

 こちらの事を心配しているかのように装っているが、結局は示し合わせているのだろうとしか思えない。


「今は非常事態なのよ! 乗りなさい!」

「そうよ! シンジ君は何の為に此処に来たの!? 早く乗って!」

「少なくとも此処に来たのは、この初号機とやらに乗る為ではありませんよ。勝手に決め付けないで下さい。

 非常事態だったらネルフの職員が動けば良いだけでしょう。その為に高給を貰っているんでしょう!

 まさか国連の特務機関として今まで莫大な予算と権限を使っても、いざという時は外部の人間にやらせるつもりですか?

 まったく安全な場所に連れてくると言って、これに乗れと脅迫してくる。赤木さんは恥というものを知っているんですか!?」

「あなたはマルドゥック機関から選ばれた初号機のパイロットなの! あなたしか初号機を動かせないのよ! これしか方法が無いの!」


 綿密に考えられた脅迫計画だったが、予想以上にシンジは手強かった。だが、シンジは四面楚歌の状態だ。もう少しのはず!

 そう思ってリツコはシンジを追い込もうとしていた。


「はあ? 三歳から今まで”碇シンジ”として検査された事は無いんですが?

 まさか姓名判断や誕生日だけで、パイロットの資質を選ぶ訳じゃあ無いでしょう? 選定基準を知りたいですね。

 それに座っているだけで良い? パイロットを選ぶ兵器を汎用兵器? それが人類の切り札? 

 そんなものしかネルフは造れないんですか!? 赤木さんには失望しましたよ」

「何ですって!?」

「MAGIの第一人者としての名前は知っていました。ボクをモルモットのような目で見てくれるし、どんな凄い科学者かと思えば、

 こんな中途半端な兵器しか造れないくせに、上から目線で命令してくる。だから、失望したと言ったんですよ。

 嘘つきでプライドだけは高いけど、碌なものを造れない科学者なんて、手に負えませんからね。それでいて、特務権限を使える立場か」


 ゲンドウの性格は情報部からの報告もあって、最初から分かっていた。

 こちらの事を心配する素振りを見せて、結局は強要してくるミサトの偽善さも鼻についたが、一番気に入らなかったのはリツコだ。

 偉そうにするなら、もっとマシな兵器を開発しろと声を大にして言いたかった。科学者としての同族嫌悪もあるかも知れない。

 リツコの見下しているような視線も気に入らない。シンジはリツコにどうやって思い知らせようかと考え始めた時、声が掛かった。

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『乗るなら早くしろ!! でなければ、帰れ!!』


 ゲンドウはモニタでシンジの表情を見ていた。予想していた以上にシンジは抵抗している。

 このまま言い争いをしても時間が無駄になるだけだと判断して、ゲンドウはシンジに決断を迫った。

 この時、使徒の攻撃が第三新東京に届いていた。天井部の一部が崩落して、ネルフ本部にもその衝撃が伝わってきた。


『奴め、此処に気がついたか!?』


 使徒の攻撃の衝撃がネルフ本部に届きだした今、一刻の猶予も無い。そう判断したリツコとミサトはシンジをさらに追い込んでいった。


「シンジ君、時間が無いわ!」

「乗りなさい!!」

「お断りします。碌な説明もせずに、信用出来ないネルフの兵器に乗るなんてありえません。

 しかも起動実験さえしていないのに、人類の切り札なんていう言葉が信じられない。

 三歳のボクに暴行を加えて左目を失明させた男が司令官ですからね。あれにボクを乗せて、自爆攻撃をさせるかも知れない。

 あれに負けたらどうなるか知りませんが、特務機関ネルフの職員だけで頑張って下さい。その為に高給を貰っているんでしょう。

 ネルフが負けたら尻拭いをしてあげますよ」


 シンジの強硬な態度は崩れなかった。リツコとミサトが、ここまで執拗に初号機に乗れと迫ってくる態度は不愉快だった。

 それにこちら側にも切り札はある。ネルフの言うなりに為る気は無かった。

 そのシンジの様子を見ていたゲンドウは、最後のカードを切る事にした。


『冬月。レイを起こしてくれ』

『……使えるかね?』

『死んでいる訳ではない』

『……分かった』

『レイ。予備が使えなくなった。もう一度だ』

『はい』


 ゲンドウが最後の脅迫シナリオを発動した事を知ったリツコは、話しを合わせた。今のレイが出撃出来ない事は分かっている。

 だが、シンジを無理やりでも自発的に初号機に乗せるにはこれしか残されていなかった。


「初号機のシステムをレイに書き直して! 再起動!」

『了解。現作業を中断。再起動に入ります』


 ゲンドウと冬月の会話は格納庫にも流されていた。リツコが何やら指示しているのも聞こえている。

 だが、シンジは気にもせずバッグを左手で掴んだ。ネルフの対応は外部に中継されている。ネルフを糾弾するには十分だ。

 それにこちらの切り札を使うには地上に戻らないといけない。ネルフに関係無い自分が関与する事では無かった。


「じゃあ、帰らせてもらいますね」


(無理やり乗せられると思ったけど、どういう事だ? まあ、帰って良いなら帰るけど。ネルフのお手並みを見せて貰おう。

 ネルフが負けてから『天武』で出撃すれば良い。取り敢えずは人目のつかないところに移動しないと)


「待ちなさい!! きゃっ!」


 帰ろうとしたシンジの肩を掴もうとミサトは手を伸ばしたが、シンジの頭の上にいたユインの爪に軽く引っかかれた。


「くっ!! ま、待ちなさい!!」


 ミサトは手から血が出ているのも気にせず、シンジと出口の間に立ち塞がった。

 此処でシンジに帰られたら、初号機は起動出来ない。それはネルフの、いや人類の滅亡に繋がると判断していた。


「シ、シンジ君。何の為に此処に来たの? 駄目よ、逃げちゃ! お父さんから、何より自分から!」

「……別にネルフに必要にされたくて来た訳じゃ無い。それに逃げるとはどういう意味ですか?

 ここの司令といい、あなたといい、ボクを馬鹿にするのもいい加減にしてくれませんか!」

「なっ!?」


 シンジをどう説得しようかとミサトが考えた時、一台のストレッチャーが医者と看護婦と一緒に入ってきた。

 ストレッチャーにはシンジと同世代ぐらいの蒼銀の髪の少女が横たわっていた。

 身体中に包帯が巻かれ、血が滲み出ていた。痛みの為か、少女の顔は苦痛で歪み、呻き声が微かに聞こえてきた。

(駅で見た女の子に間違い無い。どういう事なんだ?)

 ストレッチャーの少女の容態を見て、シンジの顔が曇った。少女の身体を気遣ったのだ。

 そして何故か、初号機に乗り組むような場所では無い、シンジの近くにストレッチャーは止まった。


『レイ……出撃だ』


 ゲンドウの低い声がスピーカから流れた。少女に対する感情は、一切感じられなかった。


「……はい」


 ゲンドウの命令を果たそうと、レイは痛みを我慢して起き上がろうとした。だが怪我の痛みに耐え切れず、倒れこんでしまった。

 ストレッチャーを運んで来た医者は、レイを手伝う事無くシンジの近くに置いて立ち去ろうとした。

 しかし、そんな事をシンジは許しはしなかった。


「ぐふっ」


 ストレッチャーを運んで来た医者の腕を掴み、足を払って医者を床に叩き付けた。

 すかさず、医者の喉に体重を乗せた足を掛けた。予想外の出来事に、近くにいたミサトも反応出来なかった。


「動くな!! 動くと喉を足で踏み潰すぞ!!」


 シンジは今までの口調ではなく、年齢不相応の迫力に満ちた声で警告した。顔にも怒気が浮かんでいる。本気で怒っていたのだ。

 予想もしていなかった事で、周囲の誰も反応が出来ていなかった。


「この子が正式なパイロットだろうけど、こんな重傷の子を乗せる気なのか?

 起きる手助けもしないで、医者としての矜持は無いのか?

 それに、何故ストレッチャーをここに置き去る? あの兵器に乗せるのなら、ここに置き去るのは不自然だろう」


 医者の喉を踏んでいる足に、力を少しづつ増やしていた。シンジの視線は、嘘は許さんと言わんばかりに医者の目を貫いていた。

 喉にかかる圧力とシンジの鋭い眼光に、軽いパニック状態に陥った医者は、あっさりと白状した。


「し、司令からの命令で、この子のストレッチャーを君の側に置いて、帰れと言われている。

 介助もするなと言われているんだ。ほ、本当だ! 信じてくれ!!」

「……成程。本気でこの子を乗せる気は無いという事か。ボクに対する揺さぶりか。

 小細工が好きなネルフのしそうな事だな。しかし命令とはいえ、こんな事をするとはな。医者として、恥を知れ!!!」


 シンジは医者の喉から足を外し、代わりに医者の胸を目掛けて勢いを付けて下ろした。俗に言う震脚だ。


 ぽきっぽきっぽきっ


「ぐうあああああ」

「肋骨が数本折れただけだ。ベットで医者の本分を思い出せ!!」


 シンジは気絶した医者をそのまま放置して、蒼銀の髪の少女に近づいていった。

 はっと我に返ったミサトが叫んだ。


「何てことをするの!? シンジ君、あなたがEVAに乗らなければ、その子がEVAに乗る事になるのよ。

 それでも男なの!? 恥ずかしくないの!? 乗りなさい!!」

「この子をEVAとやらに乗せると言ったのは、ここの司令だ。ボクでは無い。

 逆に聞こう。この医者の言う事は聞いていたな。ボクを同情心から乗ると言わせさせる為に、

 こんな重傷の女の子を演出に使うなんて、ネルフは恥という事を知らないのか!? 答えろ!!」


 シンジは首だけミサトの方へ向けて、ミサトを怒鳴りつけた。視線には、かなりの怒りも含まれていた。


「くっ」


 シンジの反論に答えられず、ミサトは顔を背けた。

 如何に強制徴集権限があるとはいえ、重傷の少女を演出に使った事は褒められる事では無い。それはミサトにも分かっていた。


 シンジは左目のセンサで少女の怪我の確認を行っていた。


(複雑骨折もあって内臓もかなり損傷している。血圧も低下している。このまま放置すれば、半日と持たないか。

 ICUから連れてきたのか? いや、呼んでから部屋に入るまでの時間が短すぎる。格納庫のすぐ側にICUなどあるはずも無い。

 やはり前もって準備していたのか……絶対安静状態なのにな……道具扱いか……

 それと、駅で見た女の子の幻影はこの子だ。どういう縁があるんだ?)


 シンジは少女の側に行き、今も立ち上がろうとしている蒼銀の髪の少女を抱きかかえた。

 包帯に付いている血が白いシャツについたが、そんな事は気にもしない。

 左手を少女の背に回し、少女に衝撃を与えないよう静かに少女の上半身を持ち上げた。

 効果は低いだろうが無いよりはマシかと考えて、手から少女に自分の気を流し込んだ。その為に少女の顔色が若干回復した。


「……エントリー………プラグまで………つれて………いって………」

「……そこまでして、出撃する理由を聞いて良いかな?」


 ある程度は推測出来ていたが、やはり確認は必要だと思い、治療を後回しにしてシンジは少女に質問した。


「……絆だから」

「絆? ここの司令との? 他にも絆はあるだろうに?」

「……私には、それしか無いもの……」

「……もう一つ質問させてもらう。君は今のままでは、ネルフの道具にすぎない。道具や人形のままで良いのかい?」

「……私は人形じゃ無いわ!!」


 人形という言葉を嫌うのだろうか。少女が”人形”の言葉を言った時には、妙に声に力が篭っていた。


「了解。君を人形から解放するよ」


 最初、この少女が何故こんな重傷でも出撃しようとするのか、理由が分からなかった。

 パイロットの義務感を持ち、人類の為の自己犠牲の精神からなのか?

 それとも、大切な人を人質に取られており、その人質の為なのか?

 今の少女の返事で理解した。ネルフはこの少女を洗脳していると。しかも、司令としか絆は無いだと?

 少女は道具(人形)に甘んじる事を拒否した。だが、扱いは道具(人形)そのものではないか。

 シンジは改めて蒼銀の髪の少女を見た。何処となく、自分に似ている顔つきだ。

 司令の命令を実行しようと、重傷の体を必死に動かそうと顔が苦痛で歪んでいる。

 急激に自分の中に、少女を守りたいという気持ちが湧き上がってきた。

 同情? 愛情とは違うだろう…………保護欲? まあ良い。後でじっくりと考えよう。今は行動する時だ。


「シンジ君。演出でも何でも構わないから、早くEVAに乗って! 遅れると間に合わなくなるわ。早く!!」


 シンジがレイを抱きかかえ、何かを話している様子をミサトは見ていた。

 レイへの同情でも良い。演出でも構わない。シンジの思惑など関係無い。この時ミサトの脳裏には使徒を倒す事しか頭に無かった。


(これまでの映像だけでも、十分にネルフを叩ける材料になるな。……だが、ここからは手加減無しでやらせて貰おうか)


 シンジは少女を抱き上げながら、自分を見下ろしているゲンドウに視線を向けた。

 その顔には見た人間が逃げ出したくなるような笑みが浮かんでいた。


「ネルフだけが使徒迎撃の手段を持っている訳では無い。最初に言ったように、ボクは北欧連合に所属している。

 そのボクにこれだけの事をしたんだ。ただで済むとは思うなよ」


『北欧連合に所属だと!?』


 ゲンドウの声に驚きの色が混じった。確かに国籍が北欧連合だと言っていたが、所属とは聞いていない。


「まさかっ!?」


 リツコの表情が曇った。国籍を聞いた時に、もっと注意を払うべきだったという思いが過ぎった。


「ふざけないで!!」


 ミサトはシンジに掴みかかろうとしたが、またしてもユインの爪で弾かれた。

 さっきのユインの攻撃は僅かな血しか出なかったが、今度はかなり深い傷と見えて、ミサトの血が床に飛び散った。


「きゃああああ」

「ミサト!!」


 リツコが驚いてミサトに駆け寄った。そして慌ててミサトの右手の止血処理を始めた。


「うっ」

 シンジの腕の中のレイが、苦痛に耐え切れなくなって呻き声をあげた。シンジはレイの応急処置を始め出した。

***********************************

 蒼銀の髪の少女『綾波レイ』は、唯一の絆である司令の命令を遂行しようと身体を動かそうとしたが、

 全身を襲う激しい苦痛に意識朦朧となっていた。誰かが自分を抱きかかえているようだが、分からない。

 何か言っていたので、反論したような気がするが、虚ろで思い出せない。

 ただ人形と言われた事に、気分を悪くした事は覚えている。全身を襲う激痛に、意識レベルが下がっていくのを感じていた。


(この身体はもう駄目なの? 三人目になるの……絆は無くなってしまうの?)


 そんな事を考えていると、自分の背に感じている手に力が込められ、自分の上半身が少し持ち上げられるのを感じた。

 続いて唇に妙な感触があった。何か柔らかいものが自分の唇に接触している。今まで経験した事が無い感触だ。

 そう思った途端に、異変は起きた。

 何か凄まじい力が唇を通じて流れ込んで来た。流れ込んだ力は全身に行き渡り、体の痛みを軽減している。

 自分を苦しめている苦痛が無くなる。そう思ったレイはさらに力を欲しがった。

 さらには、それを離したく無いと思って、手を回して離れられないように固定した。それら動きは無意識に行われた。


『レイっ!? 冬月、保安部員二十名を格納庫に寄越せ!! シンジを拘束しろ!!』


 シンジの頭に乗っていた小動物がミサトに飛び掛り、ミサトの右手を攻撃するのをゲンドウは静かに見ていた。

 その後、シンジがレイを抱き上げてキスするのも黙って見ていた。どうせレイが拒絶すると思っていた為だ。

 だが予想に反し、レイの手がシンジの首に回された。

 実際には痛みから逃げたいと思ったレイの無意識の行動ではあるが、ゲンドウはレイの積極性と判断した。

 シンジにレイを取られる。その思いが保安部員を召集させ、シンジを拘束せよとの命令につながった。


 リツコはミサトの応急治療をしていた。一安心と思った時に、ゲンドウの命令が聞こえてきた。

 何かあったのかとレイの方を振り向き、驚愕の表情を浮かべた。

 シンジがレイの上半身を抱きかかえているのだが、そこにシンジがさらに覆いかぶさり、レイとキスをしている。

 しかも、レイの頬はピンク色に染まっているでは無いか!? あの無表情のレイが頬を染めている?

 重傷で手を動かすのさえ苦痛のはずなのに、手をシンジの首に回している。

 ゲンドウと同じ勘違いなのだが、咄嗟の事でそこまで分からず、レイが積極的にシンジを迎えている事に驚きの表情を隠せなかった。

***********************************

<マスター。そろそろ保安部員が来ます。注意して下さい>

<……分かった>


 レイの応急治療をする為に、シンジはショック療法も兼ねて強引にキスしていた。

 自分の持つ『気』を、唇を経由してレイに流し込んだ。『気』はレイの痛みを緩和し、その痛みの元の傷の回復を促進した。

 治療中、レイの手が自分の首に回された時は驚いたが、レイの『気』を探ってみると意識朦朧の状態である事は分かった。


(無意識の行動か)

 シンジの心に少し残念という気持ちは確かにあったが、治療が優先と思い、自分の『気』をさらに流し込んだ。

 役得と思いつつ、そろそろ舌を入れてみようかと思った時、ユインから注意を促す報告が入った。

 内心、”ちっ”と思ったが、その気持ちを隠し、レイの治療に一区切りをつけた。

 まだ身体の治療は応急処置レベルだし、洗脳も解けていない。

 ここは一旦はレイを眠らせて連れて行こうと考え、最後に流し込む『気』でレイを半睡眠状態にした。

 レイが落ち着いたのを確認し、右手で自分の首に回されているレイの手を胸元に戻し、唇を離した。

 そしてレイの膝下に右手を入れて、抱き上げた。(俗に言う、お姫様抱っこである)


 格納庫に保安部員二十名が入って来た。それを見たゲンドウは声を荒げて命令した。


『シンジを拘束して、エントリープラグに放り込め!! レイには怪我をさせるな!!』


 命令を受けた保安部員二十名が、シンジを取り囲んだ。一斉に飛び掛かって、拘束するつもりだ。


「へーーっ!! ネルフは北欧連合所属のボクを拘束する権限なんてあったっけ? 後でどうなっても知らないよ?」


 シンジは暗い笑みを浮かばせながら、管制室のゲンドウを見た。こうも思惑通りに動いてくれると、多少の罪悪感も湧いてくる。

 視線を受けて一瞬硬直したが、ゲンドウは強気の立場を崩さなかった。


『構わん。お前が自主的に協力したと言えば済む問題だ。早く、シンジを拘束しろ!!』


 シンジはレイを両腕で抱いており、反撃の手段は無いだろう。そう思って、保安部員は素早くシンジに向かって走り出した。

 酷い怪我を負わせないようにと、保安部員は銃は持っていない。警棒だけだ。

 二十人からの警棒の威力は一人で防げるものでは無い。

 そう考えて保安部員がシンジに近づいた瞬間、二十人全員がいきなりその場に倒れ込んだ。


「な、何をしたの?」


 リツコの声は震えていた。レイを抱いている状態で、シンジが二十人もの保安部員を倒せるはずも無い。

 だが、現実には二十人全員が床に倒れ伏している。リツコは有り得ないものを見るかのように、シンジとレイを見つめていた。

 シンジはリツコには答えずに、別の事を考えていた。


(MAGIの映像信号の横取り処理は大丈夫か。しかし、この子とのキスシーンを中継してしまった。

 ミーナに小言を言われそうだけど、言い訳はあるから良いか。

 それと保安部員を倒したところはあの鬚面のアップを映したから、問題無いだろう)


 最初はシンジの左目から見聞き出来る範囲を、国連総会と国連軍の参謀本部等に中継していた。(北欧連合本国は当然入っている)

 バッグに仕込ませておいた探査ロボット数体が、MAGIの信号ケーブルに取り付いて、ネルフ内の映像情報を送ってきたのは、

 レイの治療を始める直前だった。これでシンジがネルフから完全撤退する条件が整った事になる。


(これでボクが居なくても、ネルフの中継は可能になった。

 後は煙幕を張って、この子と一緒に転移すればOKかな。っとその前にやる事があったな)


 シンジはレイを抱きかかえながら、リツコの方に体の正面を向けた。リツコと視線が交差した。

 特定パイロットしか起動出来ない欠陥兵器しか開発出来ないにも関わらず、それを人類の切り札と吹聴して乗れと強要してくる。

 人類の為と言って、平然と嘘を付き、自分をモルモットみたいに見てくる。確かに緊急時であれば仕方無い事かも知れないが、

 シンジにそこまでリツコの状態を思いやる義理は無い。同じ科学者としてもリツコの態度に許せないものを感じていた。

 ネルフの暗部を穿り出す良い機会だ。それにリツコを利用する事にシンジは躊躇いを感じなかった。


「知りたいですか?」

「……ええ」


 リツコはシンジから視線を外さなかった。ここで視線を外したら、シンジに負けだと思っている。

 睨み合っていると、シンジの左目が紫から赤に変わってきた事に気が付いた。


(目の色が紫から赤に変わっているの!? 義眼と言ってたけど、何か仕込んでいるのかしら?)

 リツコはシンジの左目の色の変化を見ていると、自分の意識レベルが下がっていく事に気が付いた。


(まさか、催眠術!?)

 気が付いたリツコは必死で抵抗したが、既に体を自由に動かせない。舌を噛もうにも顎さえも動かせない。

 側にいるミサトからは、睨めっこしているようにしか見えないだろうかと思いながら、リツコは意識を手放した。


 シンジの左目の義眼には色々な機能がある。その一つが精神操作だ。対象の人間の精神に干渉し、自由に操る事が出来る。

 難点は対象の人間の精神に干渉するまで時間がかかる事だ。一瞬で出来るものでは無い。

 別の手段でリツコの精神操作も可能だが、今回は時間のかかる左目の力を使った。

 この場面は世界中に中継されているが、左目ならば知られても問題は無いと考えていた。


 リツコの意識を制御下に置いたシンジは、質問を開始した。

 勿論、世界中に中継されている事から、公開される事でネルフにダメージを与える内容からだ。

 それに腕の中のレイを解放する為に、リツコの口から真実を聞き出す必要があった。


「赤木さん。ネルフはこの少女に、洗脳処理をしていますね?」

「そうよ」


 虚ろな目をしたリツコが答えた。既にシンジの制御下なので、リツコは正直に答えざるをえない状態だ。


『なっ!! 待て!!』  「リツコ!!?」


 リツコが正直に返事をした事に驚いて、ゲンドウは慌てて中止を命令した。だが、それを素直に聞くシンジでは無い。

 今まで雑な扱いを受けてきた恨みもある。暗い笑みを浮かべながらシンジは質問を続けた。


「洗脳しろと命令したのは誰ですか?」

「碇司令よ」


 はっきりとリツコは回答した。この状況は国連総会を始めとして、様々なところに中継されている。

 その中でネルフの司令が、パイロットのレイの洗脳を命令した事をはっきり明言した。

 それも、ネルフの幹部たる”赤木リツコ”が、である。故に間違いだとか、勘違いとかの言い逃れは出来ない。

 後日、この事により、ネルフは様々な制限を受ける事になる。

 譲歩を引き出す為に、出来るだけネルフの非を明らかにする必要があった。パイロットを洗脳。これは十分にスキャンダルだ。

 そしてシンジが抱いている半睡眠状態の少女が、今の言葉を聞いた事も重要だった。

 今後の事も考え、ネルフがパイロットを洗脳している事を公にすれば、これから予定している交渉もし易くなる。

 ゲンドウがこれ以上の質問を止めさせようとした時、立っていられないほどの振動が格納庫を襲った。

 今まで微振動は数多くあったが、上にいる使徒の攻撃が地下まで届いたのであろう、これまでで最大の振動だった。

 管制室に居るゲンドウも、ミサト、リツコも衝撃で横倒しになった。(その他、多数も同じ)


『ぐっ』 「きゃあ」 「きゃあ」


 ゲンドウは横倒しになった時に頭でも打ったのだろうか、血を流していた。

 ミサトは右手の痛みの為に動きは鈍いが、それでも受身をとったので被害は無かった。

 リツコは催眠状態で横倒しになったので、腕を打撲していた。だが、その痛みで精神操作状態が解除され、一瞬で正気に戻った。

 精神操作中の行動は覚えている。その内容を思い出し、リツコは顔が青くなっていた。


「上だ! 危ない! 逃げろ!」

 整備員の叫びがリツコの注意を引いた。上から照明が、レイを抱いたシンジ目掛けて落ちてきている。

「シンジ君!!」


 シンジも落下してくる照明に気が付いている。レイを抱いているので素早い動きが出来ないシンジは、

 照明が落ちてくる瞬間を狙って、煙幕を張って転移しようと考えていた。

 煙幕弾はバッグの中にある。シンジの左目からの指示で起動する。

 煙幕弾の起動のタイミングを計っていると、何かがシンジと落下してくる照明の間に割って入り、シンジ達を覆い隠した。

 次の瞬間、照明が割れる音と同時に煙幕が広がった。

 そして煙幕が止むと、そこには拘束具を引きちぎり、手の伸ばしている初号機の姿があった。

 シンジとレイを守ったものを見て、リツコは驚愕の声を上げた。


「まさか!? ありえないわ!! エントリープラグも挿入していないのよ!! 動くはず無いのに!!」

「インターフェースも無しに反応しているの!? ……というより守ったの、彼を!? ……いける!!」


 ミサトは原因には拘らず、結果を重視する。専門技術的な事は分からない為である。

 今回はインターフェースも無しに初号機を動かす要因となったシンジに注目した。

 シンクロさせれば、問題無く起動出来るだろう。それで十分だ。これでネルフは、いや人類は救われるかもしれないと感じていた。

 ゲンドウは頭から血を流しつつも、初号機が動いた事に満足げな表情を浮かべていた。


 煙幕が消え去るのを待って、ミサトとリツコはシンジとレイが居た場所を見たが誰もいない。

 残っているのは落下した照明の残骸だけだ。慌てて周囲を見渡したが、二人の姿は無かった。


「えっ? いない。何処に行ったの?」

「そういえば、何で煙が出るのよ!! ……シンジ君が仕掛けたの!?」

『どうした?』

「シンジ君とレイが見当たりません。初号機が動いた時に、煙幕に紛れて逃げたものと思われます」


 リツコの報告にゲンドウは顔を顰めた。初号機が反応したのだ。シンジを乗せれば間違い無く動くだろう。

 なのに、肝心のシンジが居なくなるとはどういう事か!? ゲンドウは声を張り上げた。


『何としても探し出せ! 本部内にいる保安部と諜報部の全員で探し出せ!』


 保安部と諜報部に動員命令が掛かった。格納庫にいた整備部員は、率先して捜索に当たっている。

 リツコは付近のMAGIの操作盤に駆け寄って、この格納庫からの脱出ルートにある監視カメラの映像を確認したが、

 シンジとレイを見つける事は出来なかった。そうしている内に、発令所の冬月から連絡が入ってきた。


『まだ初号機は出せんのか? 日本政府が痺れを切らして、国連軍に出動を依頼したと連絡が入ったぞ!』

『何だと? ……問題無い!』


 どうせ国連軍では使徒を倒せない。それより優先すべき事がある。何としてもシンジを初号機に乗せなければならないのだ。


『それよりシンジを探せ! 発見次第、拘束してエントリープラグに乗せろ! 赤木博士と葛城作戦課長は発令所で待機しろ!』

「はい。分かりました」

「はっ。了解しました」


 使徒が迫っている状態で、何時までも格納庫にいる訳にもいかない。

 シンジの捜索を他の職員に任せて、リツコとミサトは発令所に向かって行った。

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 ネルフ:発令所

 ゲンドウはリフトで、発令所に上がって来た。

 シンジとレイの行方が分からないので、普段より機嫌が悪いのが冬月には分かっていた。


「状況を報告しろ」

「はい。使徒はジオフロントへの進入路を作るつもりか、地面を攻撃しています。

 先程の衝撃は、天井部エリアの一部が剥がれて、落下した衝撃によるものです」


 オペレータの日向が報告した。パイロットが行方不明という事もあり、声に僅かな焦りが込められていた。


「まだ二人が見つかった連絡はありません。格納庫周辺の監視カメラは全て確認しましたが、捕捉出来ません。

 現在、ジオフロント全域と地上エリアに探索エリアを拡大させています。

 国連軍から連絡が入りました。秘匿兵器を出すとの事です。第三新東京へ侵入すると連絡が入っています」


 マヤの報告を聞いて、ゲンドウと冬月は嘲笑した。使徒を倒せるのはEVAだけだと確信している。

 何が出てこようが、使徒はEVAでしか倒せない。それが周知されれば、国連軍もネルフを頼るしか無いだろう。

 それが、ゲンドウと冬月の強気の根拠であった。


 ミサトとリツコが発令所に入ってきた。

 ミサトは右手に怪我をしているが、止血処理は済んでいる。多少の痛みはあるが、戦闘指揮に支障は無い。

 日向から国連軍が迎撃すると聞いて、ミサトの目に湛えられている暗い光が強く輝いた。

 使徒を自分の力で倒したいが、自分ではEVAは動かせない。ならば戦闘指揮で使徒を倒すと誓っていたのだ。

 日向から聞いた国連軍の動きは、ミサトにとって承服し難い内容だった。ある意味、自分の敵だと認識していた。


「国連軍に連絡して。現在、指揮権はネルフに有り。使徒に攻撃するならネルフの指示に従えと」

「駄目です。日本政府が痺れを切らして、国連軍に出動を依頼しています。

 国連軍の出動には根拠が有り、こちらの要請は受け付けません」

「じゃあ、日本政府に国連軍への要請を取り消すよう指示を出して!」

「現在、広域の通信回線の異常が発生しており、日本政府に連絡が出来ません」

「止めたまえ!」


 ミサトと日向のやり取りに、冬月が介入した。ここで二人が言い争っても意味は無い。

 それより今のネルフに必要なのは、シンジを探し出す時間なのだ。


「取り合えずは、国連軍の好きにさせたまえ。それが時間稼ぎになる。その間にサードを探せば良いだろう」

「はっ。分かりました」


 時間稼ぎという事を理解したミサトは、シンジの捜索状況の確認を日向に指示した。


「レーダーに反応。南南東の方角より大型航空機が一機、小型航空機四機が接近中です。

 先程連絡のあった国連軍の秘匿兵器と思われます。最大望遠の映像をモニタに出します」


 マヤの報告を聞いた発令所のスタッフの視線は、中央の大型モニタに集まっていた。






To be continued...
(2009.01.31 初版)
(2009.02.21 改訂一版)
(2009.03.21 改訂二版)
(2011.02.26 改訂三版)
(2012.06.23 改訂四版)


(あとがき)

 この後書きは追記です。(2012.3月)  現在は51話を書いていますが、全体の見直しをかけています。誤字修正や表現方法の変更がメインです。



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