間章の二
presented by ガーゴイル様
――寒い。
葛城ミサトが最初に認識した感覚は、其れだった。
霞がかった脳に思考電流が走り、視界が光を得る。
先ずは緑。
眼に鮮烈な深緑が、自己主張して憚らない。
鼻は、噎せ返るような水と土と木の混在した臭いを捉える。
此処は――森だ。
木々の隙間から弱々しい光が漏れ、葉の擦れる静かな音が耳につく。
……此処は?
確か自分は、あの戦いの直後、センリという少女の下に向かい――
「鍛えてくれって、頼んで……」
其れから先の、記憶が無い。
軋む身体を、無理矢理起こす。
長時間寝ていた所為か、筋肉が固まり、節々が痛い。
鈍痛に軋む頭脳を押さえ、ミサトはゆっくりと辺りを見回した。
木、木、木、木。
豊かな緑葉を枝に蓄えた、数多の樹木が大地に聳えている。
そんな緑の碑の隙間に、黒い何かが立っていた。
「――目が覚めたようだな」
黒い何か――神狩センリ――は紅の隻眼で、何時もの射るような視線をミサトに向け。楽しそうにそう言うのだった。
「――早速だが、貴様には修行に入って貰う」
覚醒したミサトが何かを言う前に、センリは鋭利な口調で言う。
彼女は、手指で森の向こうを指し、
「簡単に言うと、山登りだ。――時間は幾ら掛かっても構わない。山頂に辿り着く、其れのみを考えろ」
叩き付けるように、言い切る。
――待て。
今彼女は何と言った?
ミサトは米神を押さえ、
「――ちょっと待って。……私は、戦略に関する教えを貴女に請うたのよ? 其れが何で山登り――」
「自慢じゃないが、私はこれでも貴様以上に生きている。――高々三十年も生きていない小娘が、私に意見出来るとでも? 私のやり方に従えないなら――野垂れ死ね」
暴言だ。
ミサトは、怒りを覚えるが――
「……解ったわよ」
感情を可能な限り制御し、立ち上がる。
見ると、此処に来るまでに着替えさせられたのか、眠る前と服装が変わっていた。
今の服装は――稽古着。
白い其れは、年月を経て少し色褪せてはいるが、丈夫そうだ。
「何て時代錯誤な……」
思わず不平不満が零れ落ちる。
センリはさらりと無視し、
「道程は、基本的に一直線だ。後――この山は“在る事情”により外部と隔絶されている為、色々と“棲んでいる”が……まあ、貴様なら平気だろう。精々、死ぬ気で生き残れ」
「何か今さらっと物騒な事言わなかった!?」
ミサトは半泣きで、センリに叫ぶように問い返した。
しかし、センリは答えず……
森の闇へと、その姿を溶け込ませ――消えた。
ミサトは、一瞬絶句し――
「……ちょっとおぉぉぉぉぉぉッ!!?」
――悲鳴が、蒼天へと響き……消えていった。
――あれから何時間経っただろうか?
ミサトは、山道――人が居ないにも拘らず、きちんと整備された“獣道”――を延々と登っていた。
常人なら兎も角、ミサトはきちんと訓練された軍人だ。
この程度、野戦訓練で慣れている。
……これが何の役に立つんだが。
真意を全く見せないセンリのやり口に苛立ちを覚える。
登る、昇る、上る。
傾斜を駆ける足は未だ衰えを見せず、肺腑には新鮮な空気が絶えず供給されていく。
しかし――思考は晴れない。
……ああもう腹立つ!
憤りを動力とし、ミサトは速度を上げる。
――その時だった。
「……もしもし、其処のお嬢さん……」
道端に、誰かが蹲っていた。
其れは、草色の着物を着た、上品そうな老婆だった。
老婆は、皺くちゃの顔に疲労を色濃く浮かべ、
「――すまないけど、背を貸してくれんかねえ。腹が痛くて、動けないんじゃよ……」
もう何て言うか見るからに怪しかった。
散々迷ったが、結局ミサトは老婆を背負った。
目茶苦茶怪しいが、いたいけな老婆を見捨てて行っては後味が悪い。
見た目よりも重い老婆の重さを背に感じ、ミサトは更に歩みを進めた。
「――もう少し行った先に、孫の居る山小屋があるんじゃよ。孫は変わり者でのう……暇さえあれば、山篭りをしてるんじゃよ」
「其れはまた随分野性的なお孫さんね。……武道家か何か?」
「書道家じゃ」
訳解らん。
思考を打ち切る。背に、中身の詰まった枯れ木の感触。
「せかんど・いんぱくとで息子夫婦を亡くしてのう……爺さんももう居らんし、身内と呼べるのはもうあの子しか居らんのじゃよ……」
寂しそうに言う老婆。
ミサトは、脳味噌に冷水を注ぎ込まれたような気がした。
――何だ。
「あたしと一緒か……」
背の老婆が、え? と聞き返す。
ミサトは苦笑を作り、
「――私も、親をセカンド・インパクトで……。尤も、思い出なんて余り無いけど」
あの災害が、全てを消し飛ばした。
家族も、思い出も、何もかも。
「……お嬢ちゃんも、大変だったんだねえ」
老婆が、ミサトの表情を察し、穏やかに言う。
枯れ木のように細い手指で、ミサトの頭を撫で、
「でもねえ――大丈夫だよ」
優しく、穏やかに、
「――ご両親の一番大切な“宝物”が、お嬢ちゃんが此処にこうしてちゃんと生きているんだから……」
老婆の言葉に、でも、とミサトが反論しようとする。
……父さんは……
老婆が、ふふふ、と吐息を漏らし、
「――亀の甲より年の功。これでも人の親だった婆が言うんだから、大方間違いは無いよ。どんな親でも――子供は大事な大事な宝じゃ。――時々ぶっ飛ばしたくなるがのう」
「後半部分は聞かなかった事にするわ」
何て、言っている内に――
視界に、みすぼらしいあばら屋が飛び込んできた。
人が住んでいるかも疑わしいが、周囲を見ても建造物と言える物はこれしかない。
「……ねえ、山小屋ってアレ?」
「おお、アレじゃアレ。ここまでで良いよ、すまんかったねえ」
老婆の言葉に、ミサトは足を止めた。
老婆は枯れ枝のような外見に似合わず、軽快な動きで飛び降り、大地に立った。
……動けるじゃん。
何ていうツッコミが脳裏に浮かぶが、口には出さない。
敬老精神万歳。
「有難うよ、お嬢ちゃん。お礼に、一ついい事を教えてあげようかのう」
振り返った老婆は、指を一本立て、
「――お嬢ちゃんには、強い“加護”の力が掛かっておる。誰かの強い想いにより、成り立っているものじゃ。心当たりが……あるじゃろう?」
――其れって……
「……父さん?」
最後に、自分を護ってくれた父。
おぼろげな記憶しか残っていない、父。
自分の復讐の根である――父。
ミサトの一言に、老婆はうんうんと頷き、
「お嬢ちゃんは気付いておらんだけじゃ。そして――思い込んでおる。自分一人で、何もかもが出来ると。他人には、頼れないと。――もう少し、視野を広げてみては如何かの? きっと、お嬢ちゃんの助けとなる者が、手を差し伸べてくれる者が居るはずじゃ。――偶には、静かに耳を傾けてみるんじゃよ……」
言うなり、老婆の姿が掻き消えた。
ミサトは何も言えず、暫しの間、その場に立ち尽くすのだった。
「……中々難儀な傷を抱えておるのう」
「だが、見込みは在るだろう」
遠く離れた断崖の頂点で、二つの影が言葉を交わした。
先程の老婆と、センリである。
「――ああ。面白い娘じゃ」
すると、老婆の姿が劇的に変化した。
全身にノイズが奔り、まるで壊れたテレビの画像のように姿が歪む。
ノイズが晴れると、其処には――年若き女性が立っていた。
見た目は二十代前半、目鼻立ちがはっきりとした、和風の美女。
特筆すべきは、その長い髪。
純白の絹糸のようなその髪は、ゆうに5mを超え、全身に巻き付けても未だ余る。
夏草色の着物を着た元老婆は、くくく、と笑い、
「秘めた力は一級……だが、使う者はまだまだ未熟。腕の見せ所じゃな、“観測者”」
「その呼び方は止めろ若作り人外婆が。――今の所、私は何もしない。全ては、あの女が頂上に辿り着く事により始まる。其れまで、私は何もしない」
「若作りはお互い様だこのギネス級セメント不老婆。――まあいい。わしは自分の棲家に戻るとしよう。全く、山神のわしを顎で使うとは……」
「いいからとっとと帰れ、山姥」
センリの憎まれ口に、元老婆――山神――は苦笑を返し、霧深き渓谷の中へと身を躍らせ――消えた。
さて、とセンリは遥か遠方――ミサトが疾走する山道――へと、目を向けた。
「この山は霊山……心に迷いが在れば、一生果て無き暗き道を歩み続ける。――気付かねば、貴様は一生此処から出られないぞ……」
センリの呟きは、果てし無き山の空へと溶け込み――誰にも届かなかった。
――オカシイ。
果てし無き道を走り続けるミサトは、何度繰り返したか解らない疑問を自らに問い掛けた。
今日で三日。
ミサトは三日間、この山道を走り続けていた。
この三日間、様々な事があった。
化物に追い駆けられたり、キノコに当たったり、食虫植物に喰われかけたり……
――勿論、適度に休息は取ったし、夜に為ればちゃんと眠った(つか不気味な吼え声が怖いので、火をガンガン焚いても碌に眠れなかったが)。
だが――どれだけ走っても、先が見えない。
まるで、始めからゴールが存在していないかのように。
「如何なってんのよ……!」
走る、走る、走る。
風景が流れる。
景色が切り替わる。
しかし――何時の間にか、
「またこの場所……」
立ち止まる。
其処は、巨大な鳥居の前。
奥にはみすぼらしいお社が見え、朽ちた道祖神が道端を見守っている。
ミサトは、何度もこの場所を通った。
つまりは――
「――ループしてるって、事……」
がくり、と四肢から力が抜ける。
「そーいや、今日は未だ何も食べてなかった……」
幸いにも、近くには川が在り、山の果実も生っている。
飢えを凌ぐべく、ミサトはフラフラと歩みを川辺の方へと向けた。
――クスクス。
笑い声が、聞こえた。
弾かれたように、ミサトは振り向いた。
「――誰ッ!?」
見回すが、誰も居ない。
――クスクス。
しかし、笑い声は絶えず響く。
だが――其れが、致命的。
今のミサトは、只のミサトではない。
たった三日間とはいえ、自然に生き、拙いが野生のスキルを身に付けている。
空腹も相成って、今のミサトの五感は極限にまで研ぎ澄まされていた。
耳を澄まし、眼を凝らす。
……見えた! 二時の方向!!
「――其処おぉぉぉぉぉぉッ!!」
足元に転がっていた、赤ん坊の頭ほどの大きさの石を二時の方角にぶん投げる。
――少し経って、鈍い音と共に何かが倒れる音が聞こえた。
――い、痛いです〜……
間の抜けた、のんびりとした声が、響いた。
「――ちィッ、仕留め損なった」
野生に揉まれ過ぎたのか、はたまた空腹の所為か、物騒な発言が目立つミサト。
握り拳程度の大きさの石を拾い、
「やられる前に……ヤル!」
狂戦士と化したミサトは、二時の方角――道祖神裏の茂み――へと、歩みを進めた。
鬱蒼と茂る、様々な草花。
石を片手に、ミサトは其れ等を掻き分ける。
すると、其処に誰かが蹲っていた。
年の頃は十代後半の少女。
年不相応に発達した肢体を薄い布のようなモノで隠した、うら若き乙女。
垂れ目がちなその青き瞳に大粒の涙を浮かべ、茶色のショートカットの頭を押さえて呻いていた。
側頭部から突き出た長い耳が、小刻みに震える。
「うう、痛い……。ちょっとおふざけしただけなのに――この仕打ちは無いと思いますよう……」
見ると、少女の真横に、大きな石が落ちていた。
先程、自分が投げた物だ
取り合えずミサトは、土下座して謝った。
「――……そーですかあ。大変でしたねえ――あ、其れ食べて良いですよー。牛乳と豚骨をベースにコーンとトロサーモンと蜂蜜とバナナと豚足とゴマラー油とデミグラスソースを適当に煮込んだシチューです。山では糖分補給が必須ですから、板チョコをトッピングしてみましたー。ボリュームタップリで栄養つきますよー」
「……味は如何なの?」
「些細な問題ですー」
場所を移し、お社前の広場で、ミサトと少女は鍋を挟んで向き合っていた。
何処から拾ってきたのか、大きな寸胴の中では、形容不可能な物体エックスが煮えている。
少女は其れを金属の器に掬い、何処からか取り出した板チョコを割ってふりかけ、ミサトに手渡す。
ミサトは意識的に其れを無視し、
「――ゴメンなさい。此処に来るまで、色々在った所為で、ちょっと気が立ってたみたい。……頭、大丈夫?」
「……何か言外に籠められた意味が気になりますけど、取り合えず大丈夫っぽいですよー」
ミサトは、あはは、と乾いた笑いを上げ、
「ゴメンゴメン。――で、今更だけど……貴女、何でこんな山の中にそんな格好で居るのよ? まさか、露出狂?」
「どっかの変態さんと一緒にしないで下さいよー。――わたしは、此処に住んでいるんです。あと、これは普段着ですよー」
少女の言葉に、ミサトは、は? と首を傾げた。
「こんな、山の中に? たった一人で? ――あ、もしかしてお婆さんの言ってた書道家で山篭りが好きな孫って貴女の事?」「? 知りませんよ、そんな人。――わたしは、一人で此処に住んでますよー」
ほら、と少女は行き成り、お社の向こうを指差した。
ミサトが目を向けてみると其処には――
天を突く、巨大な柱が聳え立っていた。
巨木と呼んでも未だ余る、雄大な大樹。
枝に数多の緑を茂らせ、その雄々しくも優しきオーラを森中に振り撒いていた。
――ミサトは、思わず絶句する。
「――あ、申し遅れましたあ。わたし、木霊の“ミネルヴァ・大樹”っていいます。一応、山神様の補佐で、この森の纏め役をしてますー。ちなみにあのでっかいのは、わたしの本体なんですよー」
脳天気な少女――ミネルヴァ――の声が、機能停止したミサトの脳を、意味も無く通り過ぎた。
――あの衝撃の出会いから、更に六日が経過した。
結局、ループ箇所より先に進む事が出来ず、ミサトは仕方なくミネルヴァの棲むお社跡に転がり込む事となった。
今日も今日とて、走るミサト。
だが、何時もの通り何時の間にか、この場所に戻って来てしまう。
……今日も無理か。
顔を上げると、紅く染まった空と日輪が目に飛び込む。
日が暮れかけている。
今日は此処までだ。
ミサトは出掛けにミネルヴァに渡されたタオルで汗を拭い、鳥居をくぐう。
入ると其処は直ぐに、広い境内。
砂利の敷き詰められたその中心に、七輪を団扇で扇ぐ暢気な少女の姿があった。
何の因果か同居する事となった、ミネルヴァ嬢だ。
ミネルヴァはミサトの存在に気が付くと、
「あ、お帰りなさい〜。今日は鰻とセロリの挟み焼きですよー。ミネラルたっぷり」
「……ふつー付け合わせで食べるんじゃないの? セロリは」
「えー? でもおいしいですよー」
半目のミサトをさらりと無視し、ミネルヴァは七輪上の奇怪な食物を、脇に置いてあった皿に盛り付けた。
箸を添えて、ミサトに手渡す。
「はい、熱いから気をつけてー」
「ありがと」
もむもむと、セロリが挟まった鰻の丸焼きを頬張る女二人。
――ミネルヴァと出会って六日。
適応能力が高かったのか、ミサトはすっかりミネルヴァとの暮らしに慣れてしまった。
常識人という事もあってか、初めの内は木霊とか山神とか、そういった非日常的単語の一つ一つに激しく反応を返していたが、今ではそうでもない。
……日常的に河童とか天狗とかが、お裾分けやお土産を持ってくる森……。たちの悪い妖怪漫画みたいね。
今の彼女なら、幽霊が目の前を通っても、ノーリアクションで流すだろう。
すっかり、超常的存在に慣れてしまったミサトだった。
「明日は河童さんからお裾分けして貰った胡瓜がありますから、海苔巻きにしますねえ」
「ん」
何時の間にか、すっかり仲良くなってしまった二人だった。
「……ミサトちゃん、そー言えば今日の修行はどうでした?」
「見りゃ解るでしょ。どーしても先に進めないのよ……全く、如何なってんのよこの山は!」
食事も終わり、傍の切り株を卓袱台替わりに寛いでいたミサトは、苛々と頭を掻き毟った。
質問を投げ掛けたミネルヴァは、
「この山は霊山ですからねえ。……何か原因が在ると思いますよ?」
「何よ、原因って?」
「わたし、難しい事解りません」
「……ミーちゃん、割り箸と仏像、どっちがいい?」
「た、珠のお肌に傷を付けないでえッ! ご、ごめんなさい……」
お社の中に落ちていたノミを構えつつ、物騒な事を呟くミサト。
身を刻まれる恐怖を覚え、ミネルヴァはその場で土下座して謝った。
全く、と嘆息し、ミサトはノミを茂みに放り投げ、
「――正直、ちょっちヤバイのよねえ。このままだと、一生此処で足止めされそうで……。早く戻らないと、更に迷惑かけちゃうわね……皆に」
脳裏に、様々な顔が浮かぶ。
リツコ、マコト、シンジ、レイ、センリ、マヤ、マコト、シゲル……ついでにゲンドウと冬月。
そして……
……加持。
かつての想い人を思い出すと同時、胸に軋みを感じた。
誰もが持っている、心の傷。
軋みを押し殺し、ミサトは深々と吐息を漏らした。
「――お友達が沢山居るんですねえ、ミサトちゃん」
ミサトの感情を察したのか、しんみりとミネルヴァが言う。
「――何言ってんのよ」
ミサトは呆れたように笑い、
「あんたも、友達でしょ」
一瞬、ミネルヴァは驚きの表情を浮かべ、
「……うん」
嬉しそうに、笑った。
何時の間にか、空は満天の星に彩られていた。
――ミネルヴァは、言う。
「ミサトちゃんは凄いですねえ」
空を見上げ、瞳に星を映し、
「毎日毎日、諦めずに走り続けて……転んでも転んでも起き上がって、前に進む事を止めない」
「其れしか、やる事が無いからよ」
向かいに座っていたミサトが、自嘲気味に言う。
しかし、ミネルヴァは首を振り、
「凄いですよお。本当は誰にだって出来る事ですけど……とても、凄くて誇らしい事ですよ。わたしが保証します、ミサトちゃんは――凄いです」
「あんたに保証されてもねえ……」
苦笑い。
しかし、ミネルヴァは微笑を崩さない。
だけど、と徐にミネルヴァは、言葉を続けた。
「前ばかり見ていたら、道端に咲く小さな花を見逃してしまいますよ? 少し落ち着いて、深呼吸でもしませんか?」
ミネルヴァは、う〜んと伸びをし。
「ミサトちゃんは頑張り屋さんだけど、もうちょっと肩の力を抜いてもいいと思いますよ。其れに……ミサトちゃんの周りには、きっと、力に為ってくれる人が居ますよ」
ミネルヴァの優しい言葉が、ミサトの胸に突き刺さる。
駄目だ。
駄目だ。
駄目だ。
「人には……頼れない」
「何でですかあ?」
ミネルヴァが首を傾げる。
ミサトは俯いて、拳を握り、黙り込んだ。
だって、だって、だって……
「私は……私は自分の都合で、我侭で、戦うような女よ。誰かに頼っちゃ駄目なの、だけど、私は戦えないから……子供達を戦わせるの。そんな卑怯なヤツが……頼っちゃ駄目なの……」
自己矛盾。
復讐の為に、子供を使って戦う事を容認する自分。
自分の復讐に子供を巻き込んではならないと、否定する自分。
今まで目を逸らしていた矛盾が、ミサトの心をぐちゃぐちゃにぶち壊し、侵食していく。
涙が止まらない。
悲しいのではない。
怒りでもない。
ただ――痛くて、痛くて涙が止まらなかった。
「シンジ君はボロボロに為っても、戦う事を止めなかった。護る為に、戦う事を止めなかった。例え、自分が死地に陥ろうとも……戦う事を止めなかった。――シンジ君は馬鹿よ、どんな時でも諦めないこの世で最高の馬鹿よ。……其れに比べて私は――覚悟も決断も出来ない、愚か者でしかない……」
痛い、痛い、痛い……
今まで溜め込んでいた闇が、噴出してくる。
ミサトは、子供のように泣きじゃくった。
痛みを堪えきれない子供のように。
痛みを背負い過ぎた子供のように。
只、泣き続けた。
「うぅ……ひぐっ……ぐす……」
顔が涙でぐちゃぐちゃになる。
その時。
「だいじょぶですよー」
何時の間にか背中側に回っていたミネルヴァが、泣きじゃくるミサトを抱き抱え、ぐりぐりと頭を撫でた。
「ミサトちゃんがどんな理由で戦いを望んでも、其れは悪い事じゃありませんよ。皆其々自分なりの意味を抱えて、戦いに臨んでいるんです。意味も立場も違っていても、皆さん同じ方向を走って、同じ目的を見ているもんです。だから……だいじょぶですよ」
ミネルヴァは言う。
ローマに由来する知と戦の女神の名を持つ木霊は、幼子の如き戦闘者に慈しみを以って言う。
「何事も適材適所。皆さん、多かれ少なかれ悩みや欠点――痛みや出来ない事を沢山知っているし持っています。だから、補うんじゃないんでしょーか? だから……人と人の間に生じる仲――“仲間”って言う言葉があるんじゃないんでしょーか?」
彼女は、流れる涙を自らの手指で拭い、
「多分、皆さん勝手に走ると思いますよ。そして……好きな風に自分勝手に、力に為ろうとするんじゃないんでしょーか。例えば、来いよ、って声を掛けたり、大丈夫? って心配したり、頑張って、って応援したり……」
彼女は、涙に濡れたミサトの瞳を静かに見つめ、
「こんな風に、大丈夫、って偉そうな事を言ったり」
笑う。
心に響く、笑いだ。
ミネルヴァは何時もののんびりとした笑顔を浮かべると、
「まあ、取り合えず小難しい事は考えず、今日はもう寝ちゃいましょうか。明日は明日の風が吹くですよー……って、あらぁ?」
気が抜けたのか、ミサトは糸が切れた人形のように首を落とし、眠りについていた。
ミネルヴァは愛しげにミサトを見つめ、
「心の膿を全部吐き出して、少し子供に戻っちゃったんでしょうか? ミサトちゃん、今まですっと頑張ってきたんですね……」
切り株の横にミサトを寝かせ、何時も寝る時に使う毛布を被せた。
幼子のようなあどけない顔で眠るミサト。
「――多分、明日になったら……」
ミネルヴァは、ふと“自分”を見上げた。
雄大なその姿を自らの瞳に焼付け――
「――頑張って、ミサトちゃん」
森の主は、少し寂しそうに、笑った。
――月が、雲に隠れる。
ミネルヴァは、本体の頂上に場所を移し、座り込んでいた。
全天に星が輝き、巨大な森と岩礫が隆起した大地を埋め尽している。
詠う。
木霊の歌声が、夜の静寂を微かに振るわせる。
音無き夜に、穏やかな歌が染み渡った。
「――いい歌だ。過去りし日々を、楽しかった日々を、そして――昨日の寂しさと明日への希望を籠めた、先へ進む者への賛歌。――彼女に贈る言葉ならぬ、贈る歌かね」
枝が軋む。
見ると、何時の間にかセンリが別の枝に座っていた。
――歌が止む。
ミネルヴァは、暢気な表情を浮かべ――
「ええ。多分、ミサトちゃんは明日行っちゃうと思いますから――せめてもの、贈り物ですよ」
「君らしいね。――先生だった頃の名残かい、“大樹先生”?」
「だーかーらー。“前”の私と“今”のわたしは違いますよう! そりゃ記憶は在りますが何と言うかその――……実感がないんですよねー。まるで映画や本の記録みたいで、自分だという自覚がないんですよー」
ミネルヴァは困ったように、
「覚えてはいるんですけど、私はわたしじゃないんですよ。わたしは“リール・大樹”じゃなくて“ミネルヴァ・大樹”ですよー。バージョンアップですよ、バージョンアップ」
「どちらかと言うとダウン――退化していると思うが。ぶっちゃけ全部」
「ひ、酷いですよう!」
ミネルヴァが、ひう、と泣き真似をするが、センリは無視。
彼女は、口端に何時もの笑みを作り、
「――楽しかったかい、彼女との生活は?」
「はい。久々に充実した生活でしたよー。けど……」
ミネルヴァは、空を見上げ、
「ちょっと、泣きたくなりますね……」
お別れしますから、とミネルヴァは空を見上げたまま、呟くように言った。
「――涙を見せない為に、溢さない為に、上を見る……か。君も、自由に動ければいいのにな」
「わたしは、其処まで力が在りませんから。この山から出る事は出来ません。わたしもまだまだですねー」
センリの言葉に、ミネルヴァは上を見たまま答える。
センリは、真摯な表情で――
「あの阿呆は、今時珍しい単純一途な向こう見ず馬鹿だ。――君に会いたくなったら、結界をぶち破ってこの山に突入する事も厭わないだろう。再会は、そう遠くないかもしれないぞ?」
「そうですね……ミサトちゃん、馬鹿ですから。最高に素敵な、馬鹿、ですから……」
言葉が途切れる。
何故なら、ミネルヴァは上を見上げたまま――
「……顔から出る物が、全部出ているぞ」
「……出るんだがらじよう無いじゃないでずが……」
――泣き声を上げて、泣く。
神を狩る者は、やれやれと肩を竦めた。
そして――
今度は、センリが歌い始める。
曲名は彼女にとって一番思い出深い曲――“清しこの夜”。
緩やかな旋律が、夜の山に静けさを与えたのだった。
――早朝。
日が昇ったその直後、既に起きていたミサトは身支度を整えていた。
荷物など無い。
だから、皿を洗い、鍋を洗い、――この六日間世話になった、ミネルヴァが何処からか調達してきた生活用具を丹念に近くの川で洗浄した。
「――よし、終わり。さて、と……」
食器類を切り株の上に運び、ミサトは濡れた手を胴着で拭った。
その時だった。
「あ、お早うございまふ〜」
眠そうに欠伸をしつつ、ミネルヴァがやって来た。
彼女は、涙の浮かぶ目を擦りつつ、
「――あ、食器洗ってくれたんですか? 今日ってミサトちゃんの当番でしたっけ?」
何時ものように間の抜けた事を問うてくるミネルヴァの顔を見て、ミサトは僅かに表情を曇らせた。
……言わなきゃ、駄目よね。
「――ミーちゃん、私、言わなきゃ……」
すっ、とミネルヴァの人差し指が、ミサトの口を制した。
彼女は、解ってますよう、と笑い、
「行くんでしょう? 先に進む為に、痛みを超える為に」
「――ええ。何だか解んないけど、今なら、進めそうな気がするの。――有難う、ミーちゃん。全部、あんたのお陰……」
「先に進むのはミサトちゃんです。わたしは、只偉そうな事を言っただけですよー。だから、感謝なんて要りません。ミサトちゃんが元気で満足気に行けるなら、わたしも無問題ですよー」
えへへ、とのんびりと笑うミネルヴァ。
「ミーちゃん……あたし、あたし……」
思わず、涙が流れる。
昨日で出し切ったと思った筈の、涙が。
とめどなく、熱い心の雫が、流れ出す。
「な、泣かないでくださいよう。折角、人がクールに極めて、極めて、きめ……ひ、ひあああ…………」
瞳の堤防が決壊したのか、ミネルヴァも泣き出してしまった。
……暫しの間、泣き声の二重合奏が、早朝の空に響いた。
――ミサトは走っていた。
目元が腫れていたが、表情は晴れやかなものだ。
一歩進む度に、何度も通った道の筈なのに、発見と驚きの意が彼女の神経を高ぶらせた。
道端に花が咲いている、あの木の上に鳥が巣を作っている、木陰の隙間から不気味に輝く獣の瞳が覗いている。
視界が拓ける。
今まで見えなかった小さなものが、感じられる。
耳元を風が通り過ぎ、詠うかのような心地良い音が残響として耳を打つ。
ミサトは軽い心で、ゆとりのある速さで、道を行く。
……これで先に行けなかったら、気まずいわね。
又会おうと、涙塗れで先程別れた友人を思い出し、ミサトは思わず苦笑。
でも、行ける。
足が進む。
胸が躍る。
風のように、ミサトは大地を駆け抜ける。
すると――
……コッチ、コッチ……
掠れた子供の声が、風音に混じって耳に響いた。
思わず、ミサトは真横を見る。
其処には――小道が、ぽつん、と口を開けて待っていた。
草花に彩られた、薄暗い小さな道。
考える前に、ミサトは既に道の中に足を踏み入れていた。
――加速、加速、加速。
ゆとりを得た、大疾走。
風を纏い、緑に護られ、ミサトは更に道を突き進む。
そして――とうとう、
目前に、小さな光明が見えた。
ミサトは迷わず、小さな光点に突っ込んだ。
――澄んだ空気が頬を撫でる。
清々しい高台の空気が、肺腑に満ち、全身に澄んだ血液が循環する。
――何時の間にか、ミサトは決して狭くは無い断崖の上に立っていた。
前方には、絶景と言うに相応しき緑の大森林が隆起状に広がり、森の中心には決して忘れる事が出来ない青樹が聳える。
空に最も近き場所。
地であって地ではない場所。
「……此処が、頂上」
感慨深げに、ミサトは漸く呟いた。
「――約十日か。おめでとう、歴代を差し置いて新記録だ」
此処十日程聞いていない、憎たらしい声が背後から響いた。
振り向くと、やはり其処に立っていたのは、センリだった。
「中々苦労したようだね。五体満足で、何よりだ」
取り合えず蹴りを一発。
難なく避けられた。
「――行き成り何をするんだ?」
「そりゃこっちの台詞じゃあぁぁぁッ!! あんたの所為でこちとら散々な目に遭ったのよ!」
そうかね? とセンリは白々しく言い、
「――其れ以上に、貴様にも得るものが在ったのではないか?」
う、とミサトは言葉に詰まった。
センリはくくく、と楽しそうに笑い、
「――さて、どうだった? この十日間、貴様は何を思い、何を得た?」
センリの問いに、ミサトは頭を捻り――
「辛い事、悲しい事、苦しい事、痛い事。散々悩んで、考えて――友達のお陰で、私は少し良い女になれたみたい」
言ったミサトの顔は、確かな凛々しさを感じさせるものだった。
精神的に、成長したという事か。
「――で、結局、この修行ってなんだったの?」
筋肉の付いた手足を擦り、半目で言うミサト。
センリは、うむ、と頷いて、
「一つは、肉体鍛錬。足腰を中心に、よく鍛えられたようだな。次に、精神鍛錬。――これもまずまずだ。更には、視点制御訓練。視野を広くする事で戦術に大きな幅を与える事が出来た。そして……」
センリは、紅い瞳で、ミサトを無感情に睨みつけ――
「これが、お前の力だ」
え? と聞き返そうとしたその瞬間、凄まじい破裂音が頭蓋を揺らした。
そして、衝撃。
見ると、センリの手には何時の間にか、小さな拳銃が握られていた。
銃弾を左胸に受けたミサトは、その場で小さく仰け反り――地に倒れ伏したのだった。
「――って、痛くない?」
がばっ、と何事も無かったかのように、ミサトは起き上がった。
見ると、弾丸が着弾した部分が焼け焦げてはいたが、肉体の方は完璧に無傷だった。
――よく見れば、拉げた弾頭が傍の地面に転がっていた。
「言っただろう、貴様の力だと」
手持ち無沙汰に拳銃をくるくると回し、呆れた混じりにセンリは言った。
「あのセカンド・インパクトを、カプセルという殻の助けが在ったとはいえ、爆心地にも拘らず耐え切った貴様の加護は並大抵ではない。――原理を説明するなら、この霊山内に漂う微弱な霊力が、貴様自身の中に眠る加護の力を無理矢理叩き起こしたという訳だ」
正確に言えば“与えられた”力だが、とセンリは付け加え、
「如何やら、貴様の遺伝詞には10th-Gのモノが含まれているようだ。所謂、先祖がえりというヤツだ。貴様の父も、恐らく同様だ。――無駄に頑丈なのは、遺伝か」
父という単語に、ミサトの心が一瞬揺らぐ。
だが、堪える。
センリは懐に拳銃を仕舞い、
「鍛えれば、その内神の力に匹敵する概念――“理力”――も使えるようになるだろう」
さて、と前置きし、
「――選択の時だ、葛城ミサト」
刃物のような気配が、放たれる。
――首筋に死神の鎌を向けられたような感覚。
……動けない。
威に圧されたミサトは、全身を硬直し、固まってしまった。
「一つは、このまま指揮の為の戦術修行に移る事。もう一つは――」
センリの言葉に、ミサトは思わず耳を疑った。
「貴様を前線で戦えるようにする為、戦闘修行に移る事だ」
つまり、ミサトが使徒と直接戦う。
不可能だ、とミサトが叫ぶ前に、
「――貴様になら出来る。十の異世界の内、最強と詠われた神の世界“10th-G”の遺伝詞を僅かに秘める、貴様なら。天使の模造品如きに、遅れは取らないだろう」
絶句する。
自分が、使徒と戦える。
ミサトの思考が、一瞬停止した。
「さて、如何する? ――葛城ミサト」
センリの無情な催促が、ミサトの全身を響かせた。
「んなの、決まってんじゃない……」
そう、始めから決まっている。
自分は……
「――戦うわ。指揮官ではなく、一介の軍人として、戦士として。シンジ君やレイ、そしてアスカ……子供達を支える力に為りに行くわ!」
「――いいのか? 折角得た地位や役職を棒に振るのだぞ? しかも、前線で戦うという事は……死ぬ事も在りえるという事だ。明日とも知れない終わりの日々に生き、未来を捨てるつもりか?」
「あたしを舐めんじゃないわよ、神狩センリ。司令達や日向君や人事部の人達には悪いけど……あたしは、意思を曲げないわよ。――其れに、あたしは死ぬ気なんてサラサラ無いわ。世界の未来を――子供達の未来を繋ぐ為に、あたしは終わりの日々に生き、始まりの夜明けまで生き抜いてみせるわッ!!」
そうだ。
誰かの助けに為るべく、自分は戦う。
自分の為に、誰かの為に。
……戦場で戦う、子供達の為に!
「選ぶわ、センリちゃん。――あたしを鍛えて。くそったれな天使をぶちのめす為に、掛け替えの無い子供達の背を支える為に……あたしを鍛えて、師匠」
師匠。
その言葉にセンリは眉を顰め、
「――十何年ぶりだろうか、その呼び方は。センリでいい、むず痒くなる」
と言って、何時ものニヤリとした笑みを浮かべると、
「良いだろう、葛城ミサト。望んで地獄に堕ち、天の使い走りをぶちのめすと言い切るとは……立派というものだ、葛城ミサト。その一途に馬鹿な思考とクソ度胸を買ってやろう、葛城ミサト。では、早速次のレッスン……」
センリは大地に転がっていたミサトの襟首を掴むと、崖の端まで引き摺る。
――あっという間にミサトの体の半分が、中空に晒された。
崖の下は急斜面。
普通の人間なら、先ずあの世行きだろう。
「此処から麓まで降りろ。何、今の貴様なら死ぬ事も無いだろう。精々……骨が二、三本圧し折れるぐらいだろうか。まあ、ご愛嬌という事で」
「ちょっと待てえぇぇぇぇぇぇッ!!」
待つ訳が無い。
センリはいい笑顔でミサトを突き落とし、
「――ゴートゥヘル」
「又このパターンッ!? た、タン――いいいいやあぁぁぁぁぁぁぁ…………ッ!!!」
ミサトはもう少し考えればよかった、と今更ながらもの凄く後悔するのだった。
……尚、これを皮切りとした“地獄の修練”は、第五使徒戦まで続けられる……
To be continued...
(あとがき)
ミサト修行編終了。
駄文乱文すいません。
しかし、ミサト参戦フラグはこれで立ちました。
早速、ラミエル戦からの登場です。
今回出てきたミネルヴァは、恐らく終盤まで出てきません……
後、ミサトは概念核兵器無しです(無くても強力すぎるので)
――では、第六話でお会いを!
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