人間の脳は、ヒトとウマとワニで出来ている。

ヒトの脳は新皮質、知性脳と呼ばれ思考と理性を司る。
ウマの脳は古皮質、情動脳と呼ばれ感情が支配する。
ワニの脳は旧皮質、生命脳と呼ばれ本能で動作する。

遠き昔から何かを手に入れる度にまるでバウムクーヘンのように層を増やし続けたニンゲンの脳。
本能を感情が覆い、その上に理性という膜が貼る、薄い薄い、まるで障子紙のように脆い皮。
それがニンゲンをヒトたらしめたる物ならば、ヒトと動物を分かつものがそんなに薄っぺらいものならば。
湧き上る本能が情動を揺るがし理性という薄い皮を引き裂く時、ヒトは容易に獣へと戻るのか。
脳幹の中、虚ろな瞳で横たわりながら、遠く太古から封じ込めたそれは今、何を見るのか。



ワニは、どんな夢を見るのだろう。






おねえさんといっしょう

presented by グフ様






「どっかで飯食っていきます? センパイ」

フロントガラスに貼りつく雨を流そうと、擦れたワイパーがせわしなく動く。
ひび割れたゴムから逃れた水滴が小さないくつもの川を作り下から上へと流れ出す。

「ちと旧市街経由してくんねえか、アオバ」
「へ? あっちで飯っスか」
「あー違う違う」

加持の手に携帯電話、モニターに浮かぶ不在着信のアイコン。

「下請けから連絡あってさ」
「何スかそれ」
「ないしょ」
「うわ水臭い!二人の間に秘密事は無しっスよ!」

なんだそのご勝手既成事実、と突っ込む気力も無く加持がため息。

「おめえ腹減ってるか?」
「実はさっきセンパイのパンも頂きましたからあんまり」

だよなあ、と加持が苦笑する。
だってさっきリスみたいに頬膨らませてたもん。

「アオバ、ちょっと頼まれてくれねえか」
「何だっちゃダーリン」
「マジで犯すぞ」
「どんと来い」
「ごめんなさい本当にごめんなさい」
「このヘナチン野郎。って何をやれば?」
「市役所行ってシンジ君の戸籍もう一回洗ってくれねえか。もちろん原戸籍で直系親族全部」
「あー、そんなら役所行かなくてもちょちょいのちょいで」
「ほほーう」

じとり、と睨む加持。あ、やばい、と目を逸らすアオバ。

「ま、いいけどな」
「あははははのは」

そして、ぼそりと呟く。

「戻してやりてえな」
「シンジ君の苗字、ですか?」
「ああ」

藤木には言えなかった。
もう手遅れです、とは。
脳裏を過ぎるあの姿。
あんなものに、あんなばけものに見初められたら、もう。
だが、それならばなお、せめて。

「センパイ」
「ん?」

にい、とアオバの唇が歪む。

「あなたが望むなら、何なりと」

ほう、いい顔するじゃねえか、と加持が笑う。
そうか、そうだったよな、お前も俺と同類だったな、と。

「アシがつかないように、な」
「わかったわダーリン」

不穏な語尾は華麗にスルー、聞かなかった事にする。
そうこれは仕事だ、楽しい楽しいお仕事だ、その御題目さえあれば俺達は。

「あ、そこの信号、横で止めてくれ」

加持の言葉に応え車が止まる。ドアを開けると雨。水滴が加持の肩を濡らす。

「センパイ、これ」

と窓から赤い傘を差し出すアオバ。

「なんかこの色、こっぱずかしいなあ」
「お似合いっスよ。んじゃ一旦戻ります。終わったら呼んでくださいねー」
「お前もほどほどにな」
「あい」

飛沫を上げ走り去る青い車を見送り、手にした傘を開く加持。
ばさ、っと水を弾く布、少し黒ずんだ朱、ぱらぱらと雨粒の音。

「まるで」

網膜を覆う色、赤。

「血の色だな」

加持の口から不意に出た言葉。
淀む視界を朱に染めて男が笑う。
体は覚えてるんだな、と。

十五年前、欠けた時間。

空白の一年間、一体何があったのか。
思い出そうにもやはり記憶は無い。
そう何も。全ては消された。

ただひとつ、感覚だけは。

紅い色。鉄錆びの匂い。熱く肌を濡らすもの。
飢えた喉に流れ込む、あの味。
何も思わず何も感じず、ただひたすらに何かを。
ただ、ひたすらに。

ハーメルン・ケース。

あの暖かい闇の中で彼に、否、彼等に起こった事。
加持がそれを初めてその記録を目にした時、不思議と驚きは無かった。
客観的にまるで、ひとごとの様に。ただ一人深く頷いた。
ああ、そうだったのか、と。なるほど、だからなのか、と。





俺は、ワニだったんだ。










【第四話】クロコダイルドリーマー ――T――










かつて栄華を誇った湯元の影は見る間も無く。
もう二度と開かないであろう土産物屋、シャッター街の中ぽつん、と暖簾をかける一軒の店。
薄汚れた布地に“立喰い処 マッハ軒”の文字。軒先で傘を畳み、立て付けの悪い戸をがらり、と開ける。
吹き出す湿った空気、鰹と醤油の匂い、薄暗い店内に裸電球の灯、トタン屋根にぱらぱらと雨音。
磨り減り黒ずんだカウンター、先客が一人、食べ終えた器の横で灰皿に煙を落とす。

「らっしゃい」

と、あまりやる気の無い店主の声が加持を招く。

「つきみ。そばで」

おやじさん、先に卵割ってくれねえか。その上から出汁を、な。
葱はいらねえよ、具など女の厚化粧。蕎麦は硬めに通してくれ。ああ、いい匂いだ。

「加持よお」

不意に加持の隣の先客、皺だらけのコートを着た男が紫煙を吐きながら口を開く。

「サマんなってねえよ、何その立喰師気取り」
「月見の加持と呼んでくれ」
「んじゃ俺は冷やし狸のノブ、かい?」

くく、くくく、とカウンターで肘つく二人。
やれやれ、と首を振り無愛想な親父がカウンターに湯気を立てた椀を乗せる。

「あ、おっちゃん、やっぱかき揚げ追加、葱どっちゃりで、あとちくわ天とコロッケも乗せて」
「おまえ最悪。なんだその胸糞悪いトッピング」
「うるせえよ」

チッ、とカウンター奥で親父が舌打ちしながら冷めた揚げ物を無造作に乗せる。
ずぞっ、ずぞっ、ずぞぞぞぞぞっ、と息つく暇無く掻き込む加持と、それをあきれ顔で見つめる男。

「加持、何だその顔は」

と、加持の顔、目元の隈を見て男が呟く。

「お互い様だろ、ノブさん」

違いねぇ、と同じく眼元に深い隈をした男、ノブが笑う。

「んで? どうだった」

加持の問いに答える様に懐から一枚のディスクを取り出し、カウンターの上へ。

「良く出来てる、というか」

器の中、溜息が冷えたツユに波紋を作る。

「お前の考え通り、かな」
「やっぱ掲示板は、改竄?」
「綺麗な仕事だよ」
「運営サイドが意図的にかい?」
「いや、あれは仕掛けだ。気付いて無いんじゃねえかな、乗っ取られてる事に」
「つまりは」
「ああ、介入されているよ」

一息ついてノブと呼ばれた男が続ける。

「まずこの件の疑問を書き込むとな、書き込んだ側へは普通に表示されるんだが」

皆様にお聞きしたいのですが、実は消えた常連さんの件で良からぬ噂が――と書き込まれた場合。

「他の奴が見るとな、まったく別の内容が表示されるんだ」

皆様の作品、常連様方々の御作品、いつも楽しみに見てます、頑張って下さい――と変換される。

「あのSNSはパスでユーザーを認識してるだろ?つまり書き込み側からは自分の書き込みはその通り表示されるが、
 他のユーザーから見ればまったく別の内容に挿し変わってる、だから応えようが無い、というかその質問すら存在しない。
 そして書き込み側のユーザーには自動的に“聞いた事が無い”“知らない”という返答が表示される、例えば――」

――それは聞いた事がないですね、お力になれずすいません。ところで話題は変わりますが、今回あの無能牛が

「この“ところで話題は変わりますが”迄がそれだ。パターンは約五十種類のテンプレートで構成されていて
 特定のワードを認識すると即応し、消去では無く挿入等の改変を瞬時に行い話題を“流す”、つまりスルー機能付きだな」
「つまり、そのユーザーに貼り付く、と」
「ああ。そいつが諦める迄、リアルタイムで応答し会話の流れを読みながら組み替え続ける。
 そんなのが走っている。お前も感じたんじゃないか? この掲示板は綺麗すぎる、と」

答えず、一気に平らげた器を置き加持がディスクを手に取る。

「会員登録フォームは?」
「至って普通、ちゃんとTLSも動いて表面上はセキュリティもオーケー。問題は」
「サーバーかい?」

ご名答、と笑うノブ。

「ちと割り出しに苦労したが、結局辿ってみるとD.R.C.Pバックアップ用隠しサーバーの一つ。
 その先はヘカトンケイレスに繋がってたよ」
「分散遷都計画(D.R.C.P)に専用バックボーン、か」

やはりな、と加持は思う。全ての情報は集約されこの街の地下へ。
これは文字通りネットだ。本当の意味での網(ネット)だ。
張り巡らされた中心に捕食者、そう蜘蛛の巣(ネット)。
捕まえた獲物をどの様に料理しようが全ては奴の胸三寸。

「加持よお、お前また」

暗く淀んだ瞳が加持を映す。

「アルカに手ェ出したんか?」

プロジェクト・アルカ。直訳すれば箱舟計画。
分散遷都計画はアルカへの資金供出、その隠れ蓑の一つに過ぎない。

「禁則事項です」

ちゅ、と人差し指を唇に添える。

「萌えねえ、全っ然お前じゃ萌えねえ」
「萌えられてたまるかよ」

髭面で笑う二人。

「ノブさん、チャットの方は?」
「そっちも同じなんだ、が」
「上手く動作していない?」
「何か別の奴に取られている、そんな感じかな」
「間に合わない、そんな感じ?」
「違うとは言い切れねえな」

掲示板と違い秒単位では処理が追いつかない、のか?
いや、それならば何故。

「なんでチャットログを残したのかな」

証拠となるような物を残すヘマを? ちぐはぐ過ぎる。

「罠、じゃねえか?」

罠? と加持が目を細める。

「ハエトリソウ、ムシトリスミレ、モウセンゴケ、そしてネペンテス、知ってっか?」
「ウツボカズラ? あそこの会員達は虫、餌って事か? 」
「餌、虫ねえ」

くくく、と唇を歪ませて哂うノブ。

「それは俺達も同じだろ? 加持」

片や、コンヴィクト、片や、あの女。

「冬月リツコ」

苦虫を噛み潰したように自嘲する。

「ヤバイ、と解っていても、いや、解っているからこそ」

うつろな瞳で加持を見る。

「その果てが、このザマだ」

澱んだ、まるでヘドロのような色。何を見てきたのか。何を見たらそんな目になるのか。

「なあ、ノブさん」
「ん?」
「もう充分だろ。足、洗ったらどうだ」
「そう思って早幾年、ってな」
「実家戻ってさ、寺継げばいいじゃねえか。まだ檀家残ってんだろ。
 一応住職の資格持ってんだし、落ち着いたらさ、奥さんと娘さんも、さ」
「もう、無理だ」

潰れた吸殻を指で戻し再び火を点ける。ちりちり、と黒い灰に灯る黄色い光。

「無理な訳無いだろ、あんたそれで」
「違う、違うんだよ、加持」

乾いた眼、何も映さないくすんだ瞳が笑う。

「思い出せねえんだ、どうやっても、何をしても思い出せねえんだ」

別れた妻と、去った娘。

「ぼんやりとは浮かぶんだ、だがよ、あんなに恋焦がれていた筈なのに、顔、思い出せねえんだ」

夢の中で妻の名を叫んだような気がする。同じ夢の中で愛しいあの娘を抱きしめたような気がする。
だが、その叫んだ筈の名も、抱きしめた筈の幼子も、顔も、声も、何もかもがあやふやで。

「俺は何処から来たんだ? 何処へ帰れるんだ?
 実家? 寺? それは一体何処にあるんだ? 女房? 娘? それは何処に居るんだ?
 なあ加持、俺は何時所帯を持った? 俺は何時子供を抱いた? 何時別れた? 何故別れた?
 なあ、なあ加持、俺は、俺は一体、誰なんだ」

加持の目が淀む。かつて“職人”と呼ばれた男の末路を目に映し。
そう、この男はかつて“マイスター(職人)”と呼ばれた。
何処からともなく必要な情報を抜き取り痕跡残さず仕事を終える。綺麗な、とても見事な仕事師だった。
しかし、一度きりの戯れが彼を壊した。そう“冬月リツコ”を洗う、という遊びを。その代償は高すぎた。

「どうやら俺は今、傭兵らしいぜ」

半年前はアングラポルノのゲーム屋だったのによ、とノブが自嘲する。
彼が負った代償、それは過去の改変。住基もデータベースも戸籍もネットで流れる噂も全て。
そう、全て。彼に関わり係わった全ては今も書き換えられ続けている。
まるでプレイヤーがジョブチェンジをするが如く容易に単純に簡単に。過去も人生も足跡すら。
昨日までの過去が今日更新され明日否定される地獄を延々と。
それこそが化け猫と呼ばれた魔女に掛けられた呪い。

「なあ、ノブさん」
「なんだ?」
「思い出したく無いだろうが、いいかい?」

ふと昨夜の一件を思い出し、かつてリツコに挑んだ男に加持が問う。

「あいつの仕掛けた罠、バラしていた最中にモデム、光ったかい?」

力無く首を振るノブ。

「そんなお優しいお嬢様なら、俺は今頃まだ」

あの猫は、暗闇でその眼を光らす事無く気付かぬ内に影へと潜り込む。
だから化け猫。喉切り裂かれて初めて気付く、鋭利な爪痕を首元に残し血溜りの中で思い知る。

「加持、居るのか?」
「ん?」
「光らせた奴が、そこまであの女に肉薄できる奴が、居るのか?」
「いや、聞いてみただけだよ」
「もしそんな奴が居たら」
「居たら?」

それの意味する所は、近い技量、もしくは同等のスキル。

「あの女、今頃泡食ってるぜ」

アオバ、お前何モンだ、と加持は思う。
昨夜見た明滅、モバイルPC、モデムの点滅。

「ま、いいけどな」

根元まで燃えたタバコを灰皿に押し付け男が手を伸ばす。
加持が懐に手を入れ、少し重い煙草の箱をその手に乗せる。

「まいど」

とノブが踵を返し戸を開ける。外は相変わらずの雨、冷えた風が流れ込む。

「なあ加持、お前は」

暖簾に手を掛け男は加持に問う。

「ノブさん?」

もどかしく動く唇、しかしその先を発する事無く首を振り。

「何でもねえよ、じゃあな」

男が消え、戸が閉まる。
沈黙が薄暗い店内を包む。
ぐつぐつ、と寸胴の中煮立つ音。

「おやっさん」

不意に沈黙を切る加持。

「おかわり、いいかい?」

あいよ、と新聞紙を畳み腰をあげる店主。

「いつものかい?」
「頼む」

と木箱の布を上げ蕎麦玉を取り出す。
いつもの――加持が頼むそれは、葱抜きの“かけ”に七味を五振り。

「ノブの奴、もう」

とカウンターの奥から小太りの店主が呟く。

「ああ」

先程加持が頼んだもの。月見にかき揚げ、葱どっちゃりで、ちくわ天とコロッケ追加。
それはかつて、あのノブと呼ばれる男が此処で必ず注文した品。
それを聞く度に店主と加持は揃ってチッ、と舌打ちをしたものだ。

「俺の所為だ」

冬月リツコ、その所在を探る様に依頼したのは他でも無い、加持本人。

「加持さんよお」

蕎麦を網に入れ湯にくぐらせながら店主が問う。

「ガラじゃあねえだろ」

後悔? そんな訳ないだろう、そんな人並みの感情をお前は、と垂れた目尻で店主が笑う。

「それがあんたの武器だ」

網を上げ、シャッ、シャッ、シャッ、と湯を切る。

「それがあんたを保証する唯一のカード」

温まった蕎麦を椀に落とす。

「あんたの銃弾、あんたの鬼札」

その上から注がれる鰹の効いた出汁。

「今更、手放すんじゃねえぞ」

とん、とカウンターに置かれた蕎麦を手に取り。

「ああ」

と一言返し、一気加勢に啜り込む加持。

「おい七味」

店主の声にも箸を緩めずひたすら、ただひたすらに注ぎ込む。
七味唐辛子は要らねえよ。辛過ぎた、今日は少し、辛すぎた。

「ごちそうさん」

手を合わし空いた椀をカウンターに置く。

「ああそうだ加持さん」
「うん?」
「エビの奴が会いたいとよ。眠り姫の件、と言えば解るってさ」

やっぱり絡んできたか、あのクソ中年、と加持の脳裏に浮かぶ顔ひとつ。

「悪いねおやっさん、色々と」
「なあに、最近やけに“街”が静か過ぎて暇してた所さ」

と、椀を流しに放り台所の奥、二階へ向かう階段に向け叫ぶ。

「おいキタ! 加持さん送ってやんな!」

一瞬の沈黙。
やがて階段の暗闇から音を立てずスッ、と現れた青年。

「初めまして、加持さん」

衣服の上下共に黒、銀色の髪を片手で流し、青と赤のオッドアイが微笑む。

「僕の名はザ・ノース。“全てを知る者”とお呼びくださ」

言い切る前にゴスッ! と店主が握るお玉が青年の額に炸裂。
その反動で吹き飛ぶ銀髪のウィッグ。頭を抱えうずくまる黒髪。

「ずれた! カラコンずれた! 痛い! 目とか頭とかすんごく痛いのお!」
「このクソ餓鬼! 早く車回せ!」
「い、いや、いいよおやっさん、表通りで車拾うから」

いきなりであんまりな厨キャラの登場に軽くドン引く加持。
というかこいつ、ずっとあのカッコで階段に潜んでたのか。

「いいっていいって、どーせ手伝いしねえでゴロゴロしてるだけなんだから」
「クッ、貴様が人間でなければ今頃はッ! や、やめろ影羅! 静まれ、静まれ俺の右手!」
「はははこやつめ。おやっさん、この愉快なクソ餓鬼ブチ殺していいですか?」
「すいませんごめんなさいもう二度としませんごめんなさい」

と、加持の笑わない瞳に睨まれブルブルと暖房切れた養豚場の子豚のように震えながら哀願する青年。
くるり、と振り返り店主に向け涙目でザ・ノースもといキタが叫ぶ。

「っていうか糞オヤジ! いやさ臥乱堂! 俺様の珠の顔になんて事しやがる!」
「どこが珠のツラだこのっ! ってかてめえ簡単に“屋号”で呼ぶんじゃねえ!この、このっ!」

スコン!スコン!と、お玉で連打されながら泣き叫ぶ青年を見て加持は察する。
おやっさんの“屋号”知ってるって事はこいつも――街師か、と。

「うおおおおおおおおおおっっっっっっっ!」
「テメェ泣く暇あったら早く行け、このっ!」

と勝手口から青年を蹴り出し、ぜえぜえと肩で息する店主。

「おやっさん、あいつが後継?」
「まだ見習いだ、解らんよ」

息を整え、ふうっ、と大きく溜息を吐く。

「俺はな、加持さん。あんたに継いで欲しかったんだ」
「無理だよ、それは」

街師――彼等は便宜上そう呼ばれているだけで、実際の所正体は定かではない。
古の時代から何か大きな事が起こると何処からか現れ集い瞬く間に作り上げ
そしてまた人の群れに混ざり溶けて消える謎の集団、それがTHE BUILDERS――街師。
現出する度にその時代の技術をも越える技を駆使し特に“街”を作り出す事に特化した職能集団。
記憶と経験を正確に親から子へ受け継ぐ一族、という者も居る。
DNAに刻まれた情報を蓄積させるスキルを持つ特殊な血族、と論じる者も居る。
今は失われた幻の島の住人、その末裔と考察する者も居る。
そして、彼等は世界中何処にでも居る。何かが起きるその時まで息を潜め技を研ぐ。

彼等は作り造り創り続けて来た。歴史の宵闇から薄暮を渡り歩きながら。

順(まつろ)わぬ民である彼等。「街に寄らずして街に仕える」者達。
そこから生じた幾つかの分派。「神殿に寄らずして神に仕える」一派も源流は彼等と同じ。

「海の向こうの大爺は、まだあきらめちゃ居ないようだが、な」
「大爺さん? あの人は分派だろうが」
「でもな、古参の中では一番発言力大きいし、それにあれだ」
「まだ引きずってんのか」
「しょうがねえだろうよ、何せ」

プロジェクト・アルカ提唱者――キール・ローレンツ。

「発端を切ったのは、あの人だからな」

クムラン洞窟群、第一洞窟"1Q"から第十一洞窟"11Q"より発掘されたクムランテクスト。
世紀の大発見“死海文書”の影でその存在を秘匿された第十二洞窟"12Q"――裏死海文書。

“別の種が来る、別のヒトが来る”

12Qの壁面を覆うように刻まれた記号。ヒトのDNA、その隙間を埋めるジャンクコード。
積み重ねられた歴史、培って来た知識、膨大な犠牲を払い築かれた叡智。それら全てを吹き飛ばす“シナリオ”。

“選ばれるのは一つ”

隠された玄室に足を踏み入れた時その男は思った。こんな事が、こんな事がありえる筈は無い、と。
ありえない。“これ”を何故私は知っている? 何故私の記憶に“これ”が或る?

“生き残れ”

第一始祖、黒と白の月、ADAM、LILITH、使徒、生命の実、知恵の実、ガフの部屋、S2、A.T.F、L.C.L、
種の限界、オメガポイント、器、ロンギヌス、エヴァンゲリオン、人類補完計画、サードインパクト――収穫。



“そしてひとつに”



ふざけるな。固く閉じられた彼の拳から血が滲む。
ふざけるな。運命、天命、宿命、我等を導くその全ては繰り糸だというのか。
ふざけるな。この得体の知れない設計図が我等のアリバイだというのか。
ふざけるな。笑顔も憎悪も涙も愛も昨日も今日も明日も過去も未来すらこの物語の為の小道具だというのか。
ふざけるな、ふざけるんじゃない。
我等はただお前達に喰われる為の豚では無い、お前達の物語を彩る為のガジェットでは無い。
我等を人形と蔑むのならばすればいい。操主無しでは何も出来ない哀れな人形と哂うがいい。
だが我等は糸を切る。切れた先から血が滴ろうが構わない。反吐を吐き無残な屍を晒そうが構わない。
そう我等は立上がる。己の手でこの繰り糸を引き千切り、物語をこの手に、必ずやこの手に取り戻す。

「やがてアルカは船底を開け」
「その荷を世界へ解き放つ、か」

プロジェクト・アルカ。
それはヒトという種に埋め込まれた物語の種を取り除き、定められた未来を回避するプログラム。

「なあ臥乱堂さん」

加持が店主に、否、街師の総主に問いかける。

「それすらも、もしかして」

鋼の瞳に写るのは何か。

「わかってるよ加持さん、だがな」

加持の眼を覗き、はあっ、と乾いた溜息を漏らす。

「俺等はこの街を作っちまった」

第三新東京市を、物語の舞台である黒き月の上に、招かれた贄達を抱いて。
街師、彼等の切望はただひとつ――“終わりの時迎える前、自らの街を造る”
それすらも、そう、それすらも、だ。

「いいのかい? 俺は壊ちまうかも知れないぜ」

この街を、この都市を、あんた達のカナンを、約束の地を。

「男は度胸、何でも試してみるのさ」

あのなあ、と言い掛ける加持を手で制し立ち上がる、サッと腕を胸に寄せ。

「王よ、それも宣(むべ)なるかな」

慇懃無礼な大根役者の様に頭を垂れる男。

「全ては王の思うまま、御気に召すまま、為さるまま」

男は加持を王と呼ぶ。世界の裏方、街師の総主が眼前の男を王と呼ぶ。

「時来たらば、ご存分に」

ぎりっ、と加持の奥歯が軋む。

「あんたらは」

口元から現れる犬歯。

「俺に、いや」

鋼色の瞳からどろりと滲む黒い塊。

「“俺達”に何もかも押し付けやがって」

答えず口の端々を歪ませ、にたり、と三日月の笑みを作る臥乱堂。
変質する空気、拮抗する大気、重く圧し掛かる湿気、まるで深き水底の様に。




「おまったせしやしたッ!」



ザ・ノースもといキタの威勢と共に開け放たれた戸が重く澱んだ店の空気を散らす。
流れ込む冷たい風と雨音、その中に混じるアイドリング音。
ポコポコポコポコと軽い排気音、ガソリンとオイルが焼ける匂い。

「って、何見つめ合ってんすか?」

と空気を無視するザ・ノースじゃなくてキタの声に苦笑する男ふたり。

「加持さん、やらないか?」
「ウホッ、いい親父」
「何やってんすかあんたらは! フケ専すか! サムすか! うま味紳士すか!」

何かと物知りなお年頃のザ・キタが後ずさりしながら半ば悲鳴にも似た声で叫ぶ。

「い、いきまひゅよッ!」

と、ちとアレな噛み方で店の前に止まる車、所々錆びの浮いた赤い軽自動車に飛び乗るキタ・ザ・ノース。

「ツケでいいかい?」
「あんたが金払った事あんのかよ」
「ははっ」

馴染みの顔に戻る加持と店主。

「エビに、たまにゃ顔出せって伝えてくれ」

わかったよ、と手を振り開け放たれた戸口から外に出ようとしたその時。

――なあ加持、お前は。

先程、店を後にする時、一瞬口澱んだノブの声が加持の脳裏に蘇る。

「どうした?」
「ん、何でもないよ、ごちそうさん」

笑いながら加持は思う。あの時ノブが言い掛けた言葉の続きは恐らく。





――お前は本当に、加持なのか?





さあな。






















静かな雨、午後の街。


「人、出てねえなあ」
「この雨ですからねえ」

さわさわと水のカーテンが街を包む。その中を進む赤い車。

「キタ君、だっけ?」
「赤い運命、超少年ノウスと覚えて」
「おまえ、まるかじり」

ガチガチガチガチと怯え歯を鳴らす青年を横目に、だったら言うなよ、と加持は思う。

「しかしまた、変わった車乗ってんなあ」
「あ、ああああありがとうございますっ!」
「いやあの、褒めてないん、だけどね」

狭い車内で溜息つけばフロントガラスに白い膜。
前世紀後期の軽自動車、座席は前の二脚のみで当然二人乗り、後ろに小さなはめ殺しのガラス窓。
その向こう、雨に濡れた荷台、中途半端なトラックとも自動車とも言えないスタイル。

「流石にオメガ高い、じゃなくてお眼が高い! いやぁー、解体屋で見つけたときは狂喜しました。
 このマー坊、あ、マイティボーイですからマー坊って言うんですが前期型で丸目しかもタイヤが10インチ!
 やっぱこのスタイル最高っスよ! ただ当然フロントドラムなんでミニ用10インチディスク加工して付けまして
 ベンチレーテッドなんでタイヤかなり出たんですがピロ入れて鬼キャンですよ!うは凶悪! んでもって
 ホイールはハヤシとかロンシャン考えたんですがここは敢えて鉄チン! 但し165入れたんでリム幅をですね」
「あのね、キタ君」

急に息を吹き返したキタに軽く引く加持。

「んでエンジンですが同系セルボのターボをポン付けしようと思ったんですがタマ数無いんで涙を呑んでここはあえて
 初期550ワークスの奴をマウント加工して乗っけたんですが配線合わなくて引き直してですね」
「うん、わかったからキタ君」
「でタコ足はワンオフなんですが当然鉄ですよ音考えたらステンなんて」
「キ、タ、く、ん?」
「あ、はい」
「少し、頭冷やそうか」
「魔王ッ !? 」

死んだ烏賊の様な加持の目を見てキタの顔が青ざめる。

「すいませんまた調子乗りました」
「次やったらリリカルにコロス」

言葉の消えた車内。
エンジンの振動と切れかけたゴムを引きずりワイパーがキイキイと音を立て拭き切れない水を残しせわしなく動く。
軽い既知感。ああ、そういえばアオバの車もこんなんだっけか、と思い出し加持が表情を崩す。

「あ、あの、加持さん」

表情の和らいだ加持を見計らい恐る恐る声を掛けるキタ。

「ん?」
「すいません実は出番待ちの時、盗み聞きしてたんですが」
「出番待ちかよ」
「まずはお詫びします。申し訳ございません」
「いいよ、臥さんとのよしみだ。それに君は外野じゃねえしな」
「見習い如きがこの件に関われる訳は無いんですが」
「前置きはいいよ、めんどくせえ」

では、とキタの顔から消える笑み。

「加持さんが今追っているのは」

無機質な、まるで人形のような顔。

「みさとさん、ですか?」

見習いと言っても次期総主、か。いきなり核心突きやがる。
道化の仮面を脱ぎ捨て現れた人形顔を見て、ああ、お前も同じかくそったれ、と加持は思う。

「続けてくれ」

一人称を“私”に代え街師次期総主は語る。

「私、現在ヲチ全般を任されてまして」

ヲチ。ウオッチより派生した隠語。街師でのそれは情報収集及び管理全般を指す。

「もちろんカフェ・エッジ並びにコンヴィクトも監視対象下だったのですが」
「だった?」
「はい。私の一存で下の者に引かせました。決して関わるなと」
「アルカと直結してるからかい?」
「それに関しては否定出来ません。友好関係では無いにしろ、暗黙の了解がございますから」
「相互不可侵か。まあスポンサーでもあるからな」
「それ以上では無いですよ、せいぜいお得意様レベルです」
「まあな、それで?」
「実は、既に加持さんもご存知でしょうが“みさとさん”はコンヴィクト開設直後から話題が出てまして。
 もっとも、話題が出たといっても水面では無く底の方で、なのですが」 
「それで探りを入れさせた、と」
「ご存知でしたか」
「伊達に何日もカンズメしてた訳じゃねえよ」
「お見それしました」
「世辞はいい、それで?」
「二人、喰われました」

車内を覆う一瞬の沈黙。

「そんなにヤバイのか 」
「はい。アルカに潜らせている管(クダ)からの話では、表面上平静を装っておりますが相当混乱している様で」
「と、いう事はアルカでは無い、と」
「むしろ向こうのスタンスもこちらと同一。監視から介入に切り替えたのが昨年の六月」

一年前の六月、あの少年、シンジが倒れた時期と符号する。

「つまり介入と乗っ取りは、隠蔽というよりも収拾を図って、か」
「はい。先程店に来られたマイスターが仰られた通り隠しサーバーに違いないのですが。
 ごく最近ですが次期主力機のゲーヘンYに切り替わってます。末端ですらこれですから」

本腰を入れなければ為らない事態に陥っている、という事か。
ウィルス? マルウェア? 違うな。その程度なら既に潰されている。いや待てそれならノブさんは。

「マイスターは大丈夫でしょう」

言葉の先を読みキタが告げる。

「彼が手を付けたのはフレーム類やプログラム方面だけでしょうから」
「そこじゃないのか?」
「加持さん」
「ん?」
「コンヴィクト、全て目を通されたんですよね?」
「ああ」
「あの膨大なテキスト群を読み尽くされたんですよね」
「俺はプログラムとかさっぱりだからな、そこから攻めるしかねえよ」
「いかがでしたか」
「吐き気がした。というより正直言うと何度か吐いた」
「ならば」

キタの言葉が詰まる。

「ならば何故、読破されたんですか」

問い詰める口調に違和感。この声は、感情が乗っている。
人形の顔から滲む激情が加持を追う。
何故ですか、何故あれを読み切る事が出来たのですか、と。

「仕事だからだ、それ以外に何が有る?」
「そう、です、か」

どうした? と言いかけて言葉を呑む。

「私達は、ご存知の通り知識経験というよりも感覚で仕事を行います。
 それは意識せずとも個々に囚われずに全体を俯瞰する能力を予め備えている、とも言えます」

加持は見た。キタの無機質な瞳が揺らぐのを。

「二人を亡くしたのは私のミスです、責を取り見習いに下げさせて貰いました」

道化の仮面を脱いだ次期総主の瞳ですら揺るがすもの。

「未熟でした。技能に酔い自身の血を軽視し過ぎた。
 私に流れる先代達より受け継いだ血が確かに警告した筈なのに」

それはたった一つの感情、恐怖。

「違和感、悪寒、絶え間なく浮き出る鳥肌。その正体の源を素直に受け入れておれば、私は」

やがて車が止まる。雨に濡れたガラスの向こう、真新しい巨大なビル。
入り口に刻まれた文字“科学警察研究所 法科学第一部 第一研究室付 第二分室”―― 通称“第二研”。

「加持さん、私は償いの為その後、再び度コンヴィクトに挑みました。持てる限りを込めて」

ギアを抜きサイドを引いた左手が静かに上がる。その手が自身の黒髪を掴む。

「ですが私は」

ずるり、と崩れ落ちる黒髪。その下から現れた色、白。

「全てを、読み切れませんでした」

色褪せた白髪の青年がそこに。














「あのテキスト達は、生きています」














おねえさんといっしょう
第四話/クロコダイルドリーマー/T/了


Can you follow?
Really?

All right.

Here We Go.

To the world that you hope.






To be continued...
(2008.12.06 初版)


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