南冥のハーキュリーズ

第弐話 墓場なき英雄

presented by HY様



 翌朝。リツコの家。
「ミサト、おはよう。」
「おはよぉ。」
 リツコは、リビングに欠伸をしながら現れたミサトに声を掛けた。
「朝、外食にする?」
「ん〜。睡眠不足で、ちょっち、食欲ないなぁ・・・。」
「明日は作戦本部会議。これまで私がやってたけど、今後はあなたが仕切ることになるのよ。引き継ぎ資料も全部執務室に置いといたから、今日は、自分の執務室でちゃんと仕事しなさいよ。」
「へいへい。」
 ミサトは欠伸を噛み殺しながら返事した。


 ネルフ、ミサトの執務室。
 リツコが置いた引き継ぎの資料がうず高く積み上げられている。
 ミサトが膨大な資料を絶望しながら眺めていると、マコトが執務室を訪れた。
「作戦本部長。戦自、新国連との間で、使徒襲来時の共闘協定に基づく細則についての協議が来週、行われます。この議題を明日の作戦本部会議に掛けたいと思いますが。」
 この業務は本来シゲルが主担当であったのだが、リツコの指示であえてマコトに引き継がせたものであった。マコトがミサトを食わず嫌いであると考えたリツコの判断である。
「分かったわ。あなたが原案を出してちょうだい。ブレーンストーミングするような内容じゃないから。」
「以前はいつも戦自から提案されていましたが。」
「それは私が交渉していたからよ。交渉では提案する側が有利なの。相手はこちらの提案を前提に検討してしまうから。提案したほうが、相手を自分の土俵の上に乗せられるわけ。ネルフが交渉事でいつも不利だったのはそのせいもあるわ。」
「分かりました。夕方までに原案を作ってきます。」
「よろしく。」


 その日の夕方。
 マコトは、ミサトに一言も文句を言わせまいと、周到に考えた原案をミサトに示した。
「これで、明日の会議に掛けるつもりですが。」
 その書類に目を通したがミサトは、やがて美しい顔を上げて、部下に言った。
「これで、よく考えたの? 日向君、この細則で一番大事なことは何?」
「いかにネルフのイニシアティブを確保するかです。」
「少し違うわ。使徒戦当初は、ネルフは指揮権を持たない。それは協定で決めたこと。大事なのはいつからネルフがイニシアティブを確保するかよ。」
「使徒戦において戦自と新国連の指揮権が強力なのは、作戦本部長が戦自におられた時に強引に決められたことだと、青葉から聞いています。」
「それがどうしたって言うの? 細則の定め方次第で、協定なんていくらでも骨抜きにできるわ。使徒戦当初に戦自が完全な指揮権を持ったって別に構わない。戦自では使徒は倒せない。私が保証してもいいわ。絶対に倒せない。ネルフへの指揮権移譲が遅れれば遅れるほど、被害は拡大する。だから、できるだけ早くネルフが指揮権を譲り受ける必要がある。大事なことは何?」
「指揮権を移譲する際の手続です。」
「そう。使徒襲来は非常事態。その時に冷静な判断ができるとは限らない。どのような条件があれば指揮権を移譲するのか、協定ではまだ玉虫色にしていたはずよ。その手続も含めてはっきりと書いておく必要があるわ。それが細則の意味よ。非常事態であることを理由に、指揮権の移譲はトップ二人の協議にさせればいいと思う。碇司令は言うに及ばず、万田長官はバカじゃない。でも、指揮系統を含めて、きちんと移譲の際の段取りを決めておかないと現場が混乱するわ。もっと書き込まないとだめよ。修正案を作ってみて。それを明日の会議で揉むから。」
「は、はい。」
「それと、あなたの原案では何を守って何を譲れるのか、はっきりしない。勿論、最初の提案は強気で構わない。最初から譲歩したら交渉がそこから始まってしまうから。後で譲歩する余地を残す位がちょうどいい。最終的には戦自に細かな指揮権は全部あげたっていい。指揮権移譲の点さえ守れればそれでいい。譲歩する場合の文言も考えておいて。」
「わ、分かりました。」
 マコトはミサトに言われたことを必死でメモしていたが、やがて、顔を上げてミサトに言った。
「ありがとうございます。勉強になりました。作戦本部長。」


 ある日のお昼。
 ミサトはまだネルフの宿泊施設に泊まっているが、その日はリツコと一緒に、ネルフの隠れ里で昼食を取っていた。
「ここの食事、行けるわね。」
「あなたが、食べ物をまずいって言ってるの、聞いたことないけど。」
「そう言えば、あんまり、ないかも・・・。」
「それでミサト。家はどうするの?」
「ん? ああ、今週末に探すつもり。」
「車もあったほうがいいわよ、この街は。」
「でも、先立つものがねぇ〜。」
「まあ、何買うか、先に決めたら。」
「あ〜、それは決めてあるの。」
「ふうん。」


 その週末。
 ミサトは新銀座にある不動産屋で物件を探していた。
「私が払うんじゃないから、高くてもいいんです。ゴージャスな所、ありません?」
「それなら、このコンフォート17、エリュシオンの8階というのはどうでしょう? ここ、元々は高級賃貸マンションなんですけどね。この街、訳ありで、かなり空いてるんですよ。」
「見せて下さる?」
「じゃ、今から行きましょう。」


 初老の不動産屋に紹介されたマンションは、ミサトの気に入った。
 ミサトは静かに言った。
「ここに、します。」
「ありがとうございます。」
「いつからでも入れますが、いつからにします?」
「今日から・・・。」
「分かりました。では、事務所に戻って契約を。カード・キーもお渡しします。」
「はい。」
 ミサトは、窓から第三新東京市の景色を見ながら、言った。
 使徒襲来の後、ミサトは、このエリュシオンで四人のチルドレンと共同生活を送ることになる。


 ミサトは、不動産屋で契約を終え、カード・キーを受け取って店を出ると、シャングリラという名前の、新銀座の片隅にある洒落た喫茶店を見つけた。ミサトが扉を開けると、扉に付けられた鈴が涼やかにチリンとなって、カウンターの向こうにいた、品の良さそうな初老のマスターがにこやかに笑った。
「いらっしゃいませ。」
「こんにちは。」
 ミサトは窓際の席に着いて、オリジナル・ブレンドを注文した。コーヒーは一杯までお代わり無料と書いてある。
 ミサトはコーヒーカップを口に運びながら、人類史上初めて使徒を殲滅して「英雄」となった戦自のパイロットのことを思い起こした。彼女にとっては、彼が使徒の殲滅に成功したかどうかということは、実際、どうでもよかった。
 彼女はただ、彼に生きて帰ってきて欲しかった。彼も生きて戻りたかった。
 それは神様が許してくれなかったことなのだが。


**********flashback/S**********

 2034年6月下旬。ミサトがネルフの作戦本部長として着任する二年余り前。
 厚木、戦略自衛隊第百部隊・震洋隊の司令室。
「葛城君。来週から、第三次南極遠征に向けて、我が隊に新たな幕僚が加わることになった。あの夕霧キミオ一尉だよ。」
 オリーブ色の戦自の軍服に身を包んだ葛城ミサトは、少し顔色を変えて、上司の岡田部隊長に確認した。
「夕霧って、新国連で今孔明とか言われてた、あの夕霧一尉ですか?」
「そうだよ。学生時代から騒がれていた鳳雛の君と並び称せられる戦自期待の新星、伏龍だよ。でも、君とは全く逆の経歴でね。第二京都大学の作戦科を3年留年した揚句、最下位で卒業。国防省にも最下位で入省。ところが世の中、分からないものだ。そんなどうしようもない奴が、出向先の新国連で抜群の戦果を上げ続けた。この五年余りの間に彼が幕僚として作戦を立てた17地域の局地戦は、すべて完勝だよ。最近、万田さんが本省から無理やり引き抜いたご自慢の幕僚だ。」
「ワケわかんない経歴ですけど、一体、どんな人なんでしょうね?」
「一度、会ったことがある。ちょっとマイペースで変わってるが、嫌みのない明るい青年だったよ。冴えない冗談をよく言うがね。我が隊は戦自の使徒対応特殊部隊だ。再来年には使徒襲来があるとも言われている。万田大将は勝ちたいと考えておられる。だから、南極戦線に夕霧キミオ、葛城ミサトという、戦自の伏龍と鳳雛を投入するわけだ。夕霧君も積極的に志願したらしいがな。これからいよいよハーキュリーズ構想が実行段階に入る。君たちに期待しているよ。」


 翌週月曜日の昼過ぎ、ミサトは呼ばれて司令室に入り、そこで他の将校たちと共に、その青年と初めて出会った。戦場においては知略を縦横に駆使する策士との評判だが、一見そんな風には見えない。少し寝癖の付いている頭、中肉中背、爽やかで優しそうな青年で、ミサトと同じオリーブ色の軍服を着ていた。
 若者はミサトを見ると、笑顔で言った。
「夕霧キミオです。あ、君がきっと葛城さんだね。よろしく。」
「葛城ミサト、よろしくね。あなた、私より年上みたいだけど、同期だから、タメで頼むわ。」
「了解。」
「でも、なんで私のこと、知ってるの?」
「戦自で一番綺麗な女(ひと)(ひと)が、この部隊にいるって、聞いて来たんだ。君以上に綺麗な女(ひと)なんて、まずいないだろうしね。」
「出会った早々、口説くつもり?」
「いや、昨日の送別会で飲み過ぎて、二日酔いでね。将来的課題にさせてもらうよ。岡田部隊長、皆さん、ちょっとまだ酒が残ってるんで、これで失礼してよろしいですか?」
 若者は手を上げて挨拶し、さっさと立ち去ろうとしたが、上司が引き止めた。
「バカ言いたまえ。まだ勤務時間中だ。葛城君、彼に施設を案内してやってくれないか。」
「分かりました。」


「えーと、外部者用の応接室はどこだっけ・・・。確かまた変わったような・・・。」
「もういいよ、葛城さん。案内図もあるし、大体、分かったからさ。」
 ミサトは作戦会議室、幕僚会議室、執務室、司令部、食堂、喫茶店やラウンジなどを案内して行ったのだが、彼女はやや方向音痴であるから、彼女の案内は少し頼りなく、行ったり来たりで、結果として余りキミオの参考にはならなかった。
「そう? 悪いわね。私も本部からここに配属されてまだ1年ちょっとだから。」
 キミオは、1年もここにいたら、ちゃんと分かりそうなものだと思ったが、何も言わなかった。
「じゃあ、住むとこくらい、ちゃんと案内するわ。あなたも寮でしょ?」
「もちろん。金欠だからね。」
ミサトは独身寮にキミオを連れて行った。震洋隊は女性が少ないため、男女別の棟にはなっていない。
「私は1102号室だけど、あなたは部屋番号、聞いてる?」
「ああ、そうだ。人事課から連絡があったんだけど・・・」
 キミオは手帳を取り出して確認しながら言った。
「1107号室だね。葛城さんと同じ階かな?」
「残念ながらね。」
 ミサトはエレベーターに乗り込んで、11の階をボタンで押しながら言った。
「実にラッキーだな。僕もここでようやく運が開けるかも知れない。」
「まあ、何か分からないことがあったら、いつでも聞いて。」
「じゃあ、君のフォルトゥーナ、番号教えてくれない?」


 フォルトゥーナとは戦略自衛隊で自衛官に支給されている携帯端末の名前だ。ちなみに、セカンド・インパクト後の世界中の悲劇と混乱は、人口減少による国力の低下のみならず、技術開発の停滞を招いた。さらに、来る使徒戦への準備は、技術開発を特定分野に集中させた。そのため、特に娯楽分野では技術と文化の進展が乏しく、現在と比べても、技術水準に本質的な差はない。ただし、使徒戦対応のために軍事技術は進んでいるから、フォルトゥーナは、例えば稼働時間、守秘回線や索敵など軍事面での機能は一般の携帯端末に比べて優れている。小型とは言え、現在の携帯端末に比べて、記憶容量がかなりあるから、これだけで、不自由なく音楽も聞けるし、テレビも録画できる。ミサトのそれは、上級士官用で、軍事機能も高く、高価なものだ。ちなみにネルフの携帯端末はエンディミオン、ゼーレのそれはハイペリオンという名前で呼ばれている。
 エレベーターを降りると、ミサトは腰につけていた真っ赤なフォルトゥーナを開いた。
「まあ仕事でも使うから、仕方ないわね。」
 キミオが出した携帯端末はヘリオトロープ色だった。
「あなたのフォルトゥーナ、きれいな色ね。でも、女の子用?」
「そうかなぁ。ヘリオトロープっていう色なんだ。僕の亡くなった母が好きだった色でね。」
「そうなの・・・。」
 キミオはミサトから聞いた番号を打ち込んで送信し、二人は携帯端末番号を共有した。
「これで何か、君とお近づきになれた気がする。」
「お生憎様、幕僚会議の全員が知っている番号よ。」
「そうなんだ。ところで葛城さん、これでだいたい案内は終わりだよね。もう5時だし、お近づきの印に夕食でも一緒にどう? 僕、君以外の人、知らないし、この街も知らないから。どこかいい店、紹介してくれない?」
 ミサトはどちらかというと、この若者に好感を持っていたが、彼女はその頃、およそ恋愛というものをする気がなかった。ミサトは心優しい女性であり、まだ右も左も分からない新参者に厚木の街を紹介してあげようとも思ったが、自分に好意を持ち始めているようなこの青年に誤解をさせて、可哀そうな想いをさせたくないし、また誰かに余りプライベートに立ち入って欲しくないと思った。
「悪いけど、メールしとくから、自分で行ってくれる?」
「つれないなぁ。」
 青年はひどく寂しそうな顔をして、言った。
「仕方ない。じゃあ、今日は岡田さんにでも泣きついて、奢ってもらうことにするよ。」
「いいんじゃない? あの人、飲むの、好きみたいだし。」
「そう?」
「それじゃ、夕霧君、また明日。」
「うん、また明日ね。いろいろありがとう、葛城さん。」


 青年が笑顔で去ると、ミサトは乱雑極まりない自室に入り、お湯を沸かし始め、積み上げてあるカップラーメンを取り出して、その蓋を開けながら、呟くように言った。
「お高く止まるキャラでもないし、一緒に行ってやったら、よかったかな・・・。
 あれ・・・?! まさか、私・・・彼のこと・・・意識、してるの・・・? 
 いえ、そんなバカなことあるわけないわね・・・。
 まあ、夕霧君も、ちょっち散らかってるこの部屋見たら、尻尾巻いて逃げだすでしょうけど・・・。」
 ミサトは社会通念から見れば、恐ろしく散らかっている部屋の中で、ラーメンをすすり始めた。


 その夜、厚木の繁華街。
「夕霧君、君は二日酔いじゃなかったのかね?」
「僕は翌日18時を過ぎると復活するタイプなんです。」
 気のいい部隊長は、部下として、高名な幕僚が配属されたことから関心もあり、キミオの誘いに乗って、厚木の繁華街にある焼鳥屋いぜやで、新しい部下に、早速奢らされていた。
 すでに四十本近い串が串入れに入っている。ビールジョッキも二人合わせて8杯だ。
「夕霧君、我が隊は戦自の中でも、最大の懸案事項に取り組む重要な部署だ。君のような優秀な人材が来てくれて、誠にありがたいと思っている。」
「まあ作戦は立てますよ。それが仕事ですから。でも、使徒のこと勉強したんですけど、不安でいっぱい、夜も眠れませんね。僕は通常戦の専門家ですけど、作戦立案とか戦闘指揮は、ある程度、攻撃できる兵器があって初めてできる話ですよね、当たり前ですけど。1次、2次遠征では、あのATフィールドを破ることができずに、赤い海で艦隊が全滅しました。攻撃ができないのに勝てって、言われてもねえ。僕がない頭、どう捻ってみたって、勝てない戦は勝てませんよ。魔法使いじゃないんですから。今のハーキュリーズの装備じゃ、奇跡でも起こらない限り、使徒を一体も倒せない。ただ、死にに行くだけですよ。年末までに戦果を上げるなんて、まるで無茶な話だ。」
「夕霧君、ハーキュリーズ構想にはすでに膨大な国家予算がつぎ込まれている。今更、後へは引けんのだよ。」
「昔からこの国はそうですよね。美しい国土を破壊して、バカの一つ覚えみたいに、無駄な道路とかダムとか作りまくって、国家財政が破綻しましたもんね。そんなことのために、まだ死にたくないですよ、僕。そろそろ結婚もしたいし。」
「君なら、葛城君とお似合いじゃないのかね?」
「え? そう思われます? うれしいなあ。僕も、あの女(ひと)(ひと)と出会った瞬間から、運命の女(ひと)(ひと)じゃないかなって、思ってるんですけどね。でも、彼女はそうじゃないみたい。ガードは結構、堅そうです。」
「確かに、賢くて明るい女性だが、誰が言い寄っても一切受け流して、全く相手にしていないな。みんな、高嶺の花だと諦めているようだ。」
「僕、初対面で鼻くそほじってたせいか、第一印象が悪かったみたいで、これからが大変ですよ。」
「そんなことはないさ。彼女も君のことは、来る前から知っていて、関心も持っていたしね。」
 年の離れた二人の軍人は気が合うのか、意気投合して、その後、四次会まで行った。

† 
 翌日、ミサトが食堂で済まそうと、自室を出ようとしたところ、彼女は、ちょうどエレベーターから降りて来たキミオと出くわした。キミオはジョギングをしてきた様子で、トレーニング・ウェア姿だ。
「やあ、葛城さん、おはよう。」
「おはよう、夕霧君。」
「葛城さん、食堂、行くんだね。朝食一緒にしようよ。今から即刻シャワー浴びてくるから、待っててくれない?」
「嫌よ。遅く行ったら、混むもん。それにそんなことが習慣化したりしたら、いやだしね。」
「葛城さんて、優しそうなのに、つれない人だなぁ。まあ、今日の昼は、会議弁当、一緒に食べられるから、いいか。じゃ、また職場で。」
「じゃ。」

**********flashback/E**********


 第三新東京市のどこかで、17時を知らせる鐘の音が聞こえると、ミサトは我に返った。ミサトは、二杯目の冷めたコーヒーを飲み干して、シャングリラを出た。
 すでに夕暮れの第三新東京市の青空は、どこまでも澄んでいた。



**********************
次回 第参話「厚木の夜」

夕霧キミオ
「ドッグ・ファイトと通常戦の作戦立案には自信がある。恋愛には、自信ないけど。」



To be continued...
(2010.02.27 初版)


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