南冥のハーキュリーズ

第伍話 波止場

presented by HY様



 ある日、ネルフ。
「リツコ、お昼、食べに行かない?」
「うん。ちょっと待って。このEメール、送ってから・・・。」
 執務室を出たミサトとリツコは、隠れ里に向かった。
「あれ? リツコ、手、どうしたの?」
 ミサトはリツコの右手に貼られた数枚の絆創膏に気付いて、尋ねた。
「ああ、昨日も、ネコとペンギンが喧嘩してね。止めに入ったら、ケガしたのよ。」
 リツコは痛めた手をさすりながら言った。
「それにしても、変わったペンギンよねぇ。」
「そうね。」
「でも、名前ないの、ちょっち、可哀そうじゃない?」
「そうかもね・・・。」
「ちょっと考えただけだけど、ペンちゃん、っていうのはどうかな?」
「いまさんね。捻りが足りないわ。」
「そう・・・。じゃあ、ペン吉。」
「ますますだめね。」
「じゃあ・・・ペンペン・・・っていうのは?」
「ミサト、いいんじゃない? それ。」
「そう・・・やっぱり・・・。なんか、そうなるんじゃないかって、気がしてた・・・。」
 呟くように言ったミサトの言葉の意味がリツコには分からなかったが、その日から、ペンペンは、そう、呼ばれるようになった。


 その晩、ミサトは、第三新東京市の中心街である新銀座の少し外れにあるバー、シェルブールで一人で飲んていた。やがて彼女は店を出て、エリュシオンに着くと、エレベーターのボタンを押した。
 彼女は、11階でエレベーターを降り、カード・キーを使って玄関の戸を開けようとしたが、開かない。当然だ。彼女は、厚木時代は11階だったが、今は8階なのだから。ミサトは間違いに気付いて苦笑すると、再びエレベーターの扉を開けて中に入り、8階のボタンを押した。
(割と長いこと、11階に住んでたもんね・・・。
 よく千鳥足で、厚木の繁華街から、ふたりで帰ったな・・・。)
 ミサトは、千鳥足で自室に戻ると、鍵を開けて中に入った。
(さて、命の洗濯でもすっかな・・・。)


**********flashback/S**********

「酔っ払うと、エレベーターって、ほんと、速いわよねぇ。」
「そうだね、戦闘機に乗ってる時より速く感じるよ。ところで葛城さん、よかったら、僕の部屋で、ちょっとだけ、飲み直さない?」
 やっさんたちとしこたま飲んだ日から2週間ほど経ったある晩、ミサトとキミオは、寮のエレベーターで11階に行き、千鳥足で降りた。
「ん〜? キミちゃん、まさか変なこと、考えてないでしょうねぇ。」
「もちろん、成り行き次第じゃ、とびっきり素敵なことが起こるかも知れないって、内心、期待してはいるけどね。」
「そんな野獣の待ち構えてる部屋に、一人じゃ行けないわ。」
「でも、きっととても優しい野獣だよ。ただじゃ来てくれないと思ってね。美しい牝羊にとびっきりのエサも用意してあるんだ。」
「何?」
「南冥の純米大吟醸、キンキンに冷やしてある。まだ開けてないんだ。大枚が吹っ飛んだ、とっておきのヤツなんだけど、君のためなら、清水の舞台から飛び降りて、今晩、開けてもいい。」
「南冥? それなら、危険を冒す値打ちはありそうね。じゃ、ちょっちしてから行くわ。」
「牙を研いで、待ってるよ。」
 二人はミサトの部屋の前で別れて、それぞれの家に帰った。


 キミオが部屋を片付けていると、しばらくして、チャイムの音が聞こえた。彼が玄関のドアを開けると、ミサトが目のやり場に困るような部屋着に着替えて、通路に立っていた。彼を本当に警戒しているのならそんな恰好をしないはずだが、一応信用してくれているのか、それとも相手にしていないのか、キミオは複雑な心境だった。
 彼は、ミサトを見て少し赤くなりながら、とりあえず言った。
「やあ、葛城さん。どうぞ。」
「おじゃましまぁす。あれ? 暗いわね・・・。何で電気、つけないの?」
「蛍光灯の明かりって、僕には眩し過ぎるんだ・・・。夜の明かりで飲むのも乙なものだよ。」
「ますます危なそうだけど、南冥のためだし、仕方ないか。」
 酔っ払っているミサトは玄関で靴を脱ぎ、窓から差す星明かりの中をそろりと歩いた。
「窓の方に座って。」
「うん。」
 ミサトはキミオの指さすベッドの脇に腰を下ろし、ベッドにもたれた。
「しばらくしたら、夜の光で、慣れるよ・・・。あ、グラス、1個しかないなぁ。」
「ん? 私と間接キスしたいための計画的犯行?」
「あ、その手があったよね。それでもいい?」
 歩けばすぐなのだが、ミサトの自室にグラスを取りに帰るのは面倒だった。
「だめ。そこにコーヒーカップ、あるじゃない。」
「これじゃ感じ出ないけど、ま、いいか。」
 キミオはミサトに冷蔵庫で冷やしていたグラスを渡した。
「はい。」
「ありがと。」
 キミオは冷蔵庫から一升瓶を取り出して栓を開けると、ミサトにつぎ、自分のコーヒーカップを取った。ミサトは一升瓶を取って、キミオのコップに注いだ。
「キミちゃん、何に乾杯する?」
「そうだなぁ・・・それじゃ、二人の健康と長寿を願って。」
「そうね。じゃ、乾杯!」
「乾杯!」
 グラスとコーヒーカップが触れ合う音が闇の中で響いた。戦自で将来を嘱望されていた二人の若手将校は、厚木基地に併設された独身寮の片隅で乾杯をした。二人が健康を願ったのは、もちろん彼らが飲み過ぎであるためだが、長寿を願ったのは、彼らの属する部隊が、望みのない遠征計画を立てているためだった。
 しかし神は、この夜、笑顔で乾杯した二人のうち、恋する女性に優しく微笑む若者のほうには、長寿を与えなかった。


 やがてミサトの目が夜の明るさにすっかり慣れて来た。
「ほんと・・・こんな感じも・・・いいわね・・・」
「うん・・・モノクロームの世界・・・悪くないよ・・・」
「・・・」
「・・・」
 寮の部屋は全室ほぼ同じ間取りであるが、ミサトは暗がりで、備え付けの本棚の上に置いてあるペンギンのぬいぐるみを見つけた。
「それ、可愛いわね。」
「ああ、ペンペンだね。」
「ペンペン?」
「うん。前に片思いだった女の人と水族館に行った時の記念なんだけどね。名前はペンペン。僕が付けた。いい名前でしょ?」
「うん。」
「時々、話し掛けるんだけど、答えてくれないし、動きもしないけどね。これ、動いたら、かわいいだろうなぁ。」
「動くわけ、ないじゃない。」
「おうい、ペンペン!」
 酔っ払ったキミオが声を掛けるが、やはりペンギンは動かないし、返事もしない。
「ま、仕方ないね。・・・ところで葛城さん、この夏、震洋隊に休みがないっていう驚くべき話、本当?」
「本当よ。」
「信じ難いね。僕、夏は無理してでも休みを取って、だいたい日本アルプスに登ってたんだ。今年は登れないのかぁ・・・。こっちに来てから、山、全然登ってないや。」
「へえ、夕霧君、山、やるんだ。」
「うん。今度、一緒に行かない?」
「山って、登って下りるだけなんじゃないの?」
「僕も最初は、そう思ってた。でも違うよ。雲を下に見る稜線歩きなんて、病みつきになるよ。」
「ふうん。」
「これまで行った山の中では、甲斐駒ケ岳が好きかな。摩利支天もあって素敵なんだ。君と行きたいなぁ。君と二人でテント張ってさ。満天の星空を見るんだ。」
「また変なこと、考えてない?」
「考えてないよ。だって、テントサイトって、周りはキャンパーで一杯なんだよ。そんなこと、出来っこないさ。」
「ふうん。面白い・・・かもね・・・。」
「それにしても、休みなしって、労働基準法違反じゃないのかな。誰かちゃんと調べた?」
「だって、12月には戦争するのよ。自分たちの命が掛かってるんだから、遊んでられないわよ。」
「そんなもんかな・・・。ま、その方がいいか。だって、その分、間違いなく葛城さんと一緒にいられるわけだし。」
 ミサトはもう、いちいち相手にしない。


 部屋には気の利いたジャズが流れている。
「この曲、いいわね・・・。誰?」
「ビル・エヴァンス。僕のテーマ曲。」
「そう・・・。」
「僕には、歳が離れてるけど、仲のいい兄さんが一人、いたんだ。その一人息子、つまり、僕の甥なんだけど、彼はとても可愛い奴だった。僕ととても気が合ってね。バッハが好きで、クラシック以外は音楽じゃないなんて言ってたから、彼にこの曲を聞かせたんだ。そしたら、自分もテーマ曲にするって、言ってたよ。まだ小学生だったけどね。」
 ミサトは、キミオが過去形で語ったことから、彼の兄と甥がもう生存していないのだろうと思った。
「お兄さんは・・・?」
「事故で亡くなったよ。甥と一緒にね。兄さんは内務省で諜報やってて、ゼーレに派遣されたんだ。兄さんはエヴァンゲリオン構想で人類を救うつもりだった。それもあって僕はハーキュリーズ構想の側についた。兄さんか僕か、どっちかが人類を救えればいいからね・・・。でも僕は、もしかしたら兄さんがゼーレに殺されたんじゃないかって思ってる。確証は何もないけどね。」
「そう・・・」
「優しくて面白くて、とてもいい兄さんだった。お互い、社会に出てからは、仕事が仕事だし、ほとんど会えなくなったけどね。でも、最愛の奥さんが、甥を生む時に亡くなったんだ。結局、兄さんは幸せな家庭を築けなかった・・・。でも最後に会った時、近いうちに誰か紹介したい人がいるって言ってたから、いい人を見つけてたのかも知れないな・・・。だから僕は、兄さんの分まで、幸せになりたいんだ・・・。て言っても、誰かが使徒を倒さなければ、誰の幸せもないんだけどね・・・。」
「キミちゃん・・・本気で、恋、したことある?」
 キミオはミサトのグラスに南冥を注(つ)ぎながら言った。
「そうだなぁ・・・。本気は本気なんだけどね。僕の恋は、だいたいパターンが決まってるんだ。僕が恋する女(ひと)にはいつももう、恋人がいてね。その恋人がきっとまた、いい人なんだろうな、これが。その女(ひと)も、僕のことを好きになってはくれるんだけど、どうにもならない。お互いがこれ以上傷付かないうちに別れる・・・そんな感じだね・・・。今、現在進行形の恋は、違ったらいいなって、思ってるけど・・・。」
「夕霧君・・・戦自に入る前・・・私・・・好きな人と・・・好きなのに・・・別れたの・・・」
「・・・・・・そう・・・」
「・・・その人のこと・・・本当に・・・好きだったのに・・・」
「・・・そう・・・なんだ・・・」
 ミサトは加持との恋を思い出しながら、静かに涙を流した。ミサトは恋愛が怖かった。心から愛し、愛された男を自分勝手な理由で捨てたという事実は、ミサト自身を苦しめ続けていた。自分には人に愛される資格などないし、人を愛する資格などないと思った。これだけ苦しいのなら、ミサトはもう恋愛などしたくないと思った。それがキミオに対するミサトの感情を大きく抑制して続けていた。
 ミサトの涙を見たキミオは優しく言った。
「葛城さん・・・本当に・・・その人のこと・・・好きだったんだね・・・。」
「ごめん、残酷よね・・・あなたに話したって・・・どうなるものでもないのに・・・。」
「・・・でも、光栄だよ・・・戦自兵が1万人くらい言い寄っても、決して手に入れられなかった高嶺の花、葛城ミサトさんから、そんな話を聞かせてもらえるなんてね・・・。」
「キミちゃん・・・。あなたは恋人じゃないけど・・・私の大切な・・・友達だと思ってる・・・。」
「友達か・・・それでもうれしいよ、葛城さん・・・。じゃ、もう一度、今度は、友情に乾杯しよう。」
「ええ。」
 二人はグラスとコーヒーカップを再び鳴らした。


 しばらく静かな時が流れた。
「そうだ、葛城さん、友情の印に、僕の必殺技、見せてあげようか? それで元気を出して。」
「え? 必殺技?」
「うん。」
 そう言いながら、キミオは、机の引き出しから何やら取り出した。
「何、それ? ルービック・キューブ?」
「うん。」
「ふうん。うまいの?」
「まあね。葛城さん、これ今、揃ってるけどさ、適当に回してくれる?」
 ミサトは適当に回して六面の色をごちゃまぜにした。
「じゃ、行くよ。」
 ミサトの目の前で、キミオはルービック・キューブを目まぐるしく回すと、六面すべてを素早く揃えた。
「すごい!」
 部屋は薄暗いが、夜明かりで色が揃っている事くらいは分かる。
「今度は、少し変えるよ。」
 そう言うと、キミオは再び、ルービック・キューブをシャカシャカと回し、六面の真ん中だけ色が違うようにした。ヘソ・キューブと言われるものだ。
「わあぉ!」
 調子に乗ったキミオはさらに回し始め、今度は交互に二色が混じり合う形に変えた。チェッカー・キューブと言われるものだ。
「キミちゃん、すごい!」
「そんなに褒めてくれた人、君が初めてだよ。それがどうした、っていう人、結構多かったんだ。」
「いつ覚えたの?」
「前に、一時期、甥と一緒に住んでいたことがあってね。その子がルービック・キューブに挑戦してたんだ。それで先回りして僕がマスターして教えてあげた。それ以来、すっかり僕に懐いてね。甥も上手になったけど。」
「へーえ。で、それ、何の役に立つの?」
「・・・女性を口説く時とか・・・使えないかな・・・。」

††
 ある日の幕僚会議室。
 この2カ月近く、ミサトとキミオは激務をこなしていた。
「それじゃ、夕霧君、来週月曜のプレゼンと資料準備、全部、任せていい?」
「もちろん。葛城さんのご命令とあれば、何でも。」
 彼は別にミサトの部下ではないし、同期の同僚なのだが、この部隊ではミサトが先輩だし、ミサトに恋しているので、彼女の頼みを断ったことはない。
「この頃、夕霧君が真面目に仕事してくれるから、ほんと、楽だわ。」
 仕事は真面目にすべきものだが、彼の仕事ぶりがミサトの想像していた以上であったために、彼女はこのような感想を述べたのである。
 第三次南極遠征は、日本だけでなく、米、露、中、EU、新国連も共同参加する大規模な軍事作戦だ。仕事は山のようにある。あのドッグ・ファイト以降、次第にミサトは、仕事のことを、何でもキミオに相談するようになっていた。キミオも、いつかミサトが過労で倒れたこともあって、雑用でも何でも引き受けてこなすようになった。ミサトは、キミオの処理能力に舌を巻いた。彼はミサトの依頼を迅速的確にこなすだけでなく、彼女が10求めると、彼からは20も30も返って来た。しかもミサトが気付いていない点までフォローし、先回りして仕事を済ませたりしてくれる。彼女は、彼が伏龍と呼ばれる所以が分かったような気がした。
 結果として、ドッグ・ファイトの日以来、二ヶ月近く、二人は大体いつも一緒にいた。全く同じ職場で働く、職能も同じ同僚だから当然と言えば当然なのだが、寮の階も同じだし、キミオがミサトの姿を見ればすぐに笑顔で話し掛けるので、結局、出張や外部会議で別行動を取る場合を除いては、だいたい、三食を共にすること、一緒に酒を飲むことが習慣となっていた。傍目から見れば、二人はもう交際していると見られてもおかしくなかった。だが実際には、キミオはまだ、ミサトの手も握らせてもらったことがなかったのだが。キミオは、いつかミサトから彼女の失恋について聞いた時から、彼女の気持ちを考えれば、この恋を急いではいけないと思っていた。彼女の方から自分に心を開くのを待たねばならないと思っていた。
 その晩、仕事を終えて寮に戻る途中、キミオがミサトに言った。
「葛城さん、明日、一緒にお酒の買い出し、行かない? おやじさんにトラックを借りるんだ。」
「いいわね。そろそろビールも切れるし。」
「じゃあ、1400に君の所に迎えに行くよ。車借りるお礼に、おやじさんにお昼、奢ることになってるから、」
「分かったわ。」


 おやじさんから借りたトラックの中。
 運転席にはキミオ、助手席にはミサト。
「夕霧君、ここんとこ、あなたとずっと一緒に仕事をして、あなたが震洋隊に志願した本当の理由が分かったわ。」
「分かっちゃった?」
 キミオの澄ました顔を見ながら、ミサトは言った。
「うん。あなたは第三次南極遠征を実現するために来たんじゃない。遠征計画をぶち壊すために、来たのね。どれだけ努力しても、今のハーキュリーズじゃ、使徒には勝てないってことを分からせるために。」
「さすがは戦自の鳳雛、その通りさ。僕は使徒の研究をして、真っ青になった。こんな無謀な作戦は止めさせるべきだと思った。それに、こんなに素敵な人だとは知らなかったけど、評判の幕僚に会ってみたかったしね。」
 ミサトは、キミオのいつもの求愛を受け流して、言った。
「でも・・・遠征を止めるのが難しいってこと、分かったでしょ?」
「うん。温厚篤実な責任者も、才色兼備の筆頭幕僚も、僕と同じように、遠征に望みがないと知って、それを覚悟の上で作戦を立てているんだって分かったからね。でも、諦めてはいない。」
 ミサトはキミオの横顔を凝視して尋ねた。
「勝ちに行くって、意味?」
「いや、使徒にはやっぱり勝てないよ。でも葛城さん、何とか延期、させられないかな。」
「・・・難しいわね。この遠征は、これまで何度も、何年も延期してきた。もう延期する口実がないわ。ハーキュリーズ構想を放棄してしまうなら別だけど。」
 キミオはハンドルをゆっくり右に切りながら言った。
「行っても負けるっていう理由が、一番説得的だと思うけどなぁ。」
 ミサトはそれには直接答えず、最も信頼する同僚に言った。
「夕霧君、この作戦を無理にでも実行するのは、万田さんを戦死させたいからでもあるわね。」
「うん。万田さんは敵を作り過ぎた。運よく撤退できて死なないとしても、使徒殲滅が出来なければ、この敗戦の責任を取らされる。」
「その後は、あの松永ね。」
「そう、口を開けば軍縮、平和主義っていうけど、本当は国のことも、世界のことも考えていない、目先の自分のことだけ考えてる奴。小回りだけの利く小賢しい小役人さ。」
「政治の空白と混乱、軍内部のつまんない権力闘争と、昔ながらの外圧のために、何人も死ぬのね。」
「そう。1次、2次遠征では日本もそれなりだったけど、軍事大国の米、露、中が大打撃を受けた。もう、使徒戦の主戦場になる日本が血を流さないで何もしないでいるわけには行かない。空木首相ならこんなことにはならなかったかも知れないけど、繋ぎのロートル、松岡が首相じゃね。指導者が変わるだけで国は大きく変わる。」
 空木(うつぎ)(うつぎ)一朗首相は、イチローの登録名で日米野球界に不滅の記録を残した打者であるが、セカンド・インパクト後の混迷の日本を短期間で奇跡的に立て直した偉大な政治家として名高い。しかし彼の急逝後、政治は混迷を極め、首相は短期間で幾人も交代し、今は高齢の世襲議員、松岡が繋ぎで首相になっている。
「夕霧君、人類が生き延びられるとしたら、方法は二つしかない。私はハーキュリーズを選んだ。だからハーキュリーズで行く。そう信じて、これまでやって来たんだもの。」
「だったら、僕も付き合うしかないな。」
 キミオは右手をハンドルの上に置き、前を見たまま言ったが、いつもの微笑みを浮かべてはいなかった。


 二人は郊外のディスカウント・スーパーで酒とつまみ類を大量に仕入れた。これで数週間は生息できそうだ。
 帰りの車の中。キミオが運転席、ミサトが助手席。BGMはやはりビル・エヴァンス。
「葛城さん、いつか僕、新横須賀で、特訓してたでしょ?」
「うん。」
「新横須賀に夕日がとても綺麗に見える波止場があるんだ。今日の天気で今の時間なら、最高だと思う。・・・寄っても、いいかな?」
「うん。寄って。」
 二人は新横須賀の波止場でトラックを降りた。すでに何組ものカップルが寄り添って夕暮れを眺めている。二人はその中に加わった。
「あの海の向こうに赤い海があるんだね。」
「そうね。12月1日のS作戦発動まで、あと3カ月を切ったわね・・・。」
 S作戦とは、第四使徒サンダルフォンの頭文字をとって命名された使徒殲滅作戦である。予言によれば、アダムを幽閉しリリスを防衛する第三新東京市に使徒が襲来するのは二年後のことだ。突如この星に存在することが明らかとなった未知の生命体、使徒。すでに南回帰線の向こうは使徒に支配される不可侵海域となっていた。人類の歴史を繋ぐために、第三次遠征が近く敢行される。
「葛城さん、僕が最近まじめに仕事をしているのは、守りたい人がいるからなんだ。前は人類を救いたいっていう抽象的な使命感で頑張っていた。それは今でもそうだけど、今はもっと具体的に、自分のそばにいる人を、命を懸けて守りたいと思うんだ。」
「・・・」
 ミサトは何も言わなかった。この夕暮れの波止場で、生きては還れぬ遠征計画を共に立案している同僚から、優しく言われた真摯な言葉を、ミサトはもう茶化したり、流したりするような気にならなかった。もうミサトに肉親はいない。ミサトを守りたいと言ってくれた人間は、彼で二人目だった。ミサトはその二人がどこか似ているような気がした。彼女は自分に恋している若者の気持ちが、今、素直に嬉しかった。
 若者はすぐそばに佇む美しい女性の優しい微笑を見て、彼が自分を守ることを、ミサトが許したのだと思い、満足して言った。
「・・・ま、いいか。こんな素敵な夕暮れに、仕事の話は・・・。」
 二人の距離は近い。肩と肩がぎりぎり触れ合わないくらいの距離だ。
 若者は恋する美しい女性に言った。
「葛城さん、僕、こんな最高の夕暮れ、見たことないよ・・・。」
 彼は生まれて初めて、命を賭けて恋することの出来る女性にめぐり逢えたと思った。その女性と一緒に見る美しい夕日が最高でないはずはなかったろう。
「ほんと・・・素敵ね・・・。」
「葛城さん、折り入って、お願いがあるんだけど・・・聞いてくれないかな?」
「何? 夕霧君?」
 ミサトは優しく尋ね返した。
「君の写真、撮らせて欲しいんだ・・・。」
「ん? ・・・いいわよ。」
 ミサトは夕日を浴びながら、その美しい顔に優しい微笑みを浮かべた。キミオは取り出したヘリオトロープ色のフォルトゥーナで、恋する女性の微笑みを写真に収めた。ミサトは輝くように美しかった。その喩えようもない美しさは、彼女がその時、恋をしている女性が放つ美しい輝きを持っていたためでもあった。
 ミサトが再び海のほうを見ると、キミオはもう一度夕日を浴びる女性の美しい横顔を見た。その顔は、彼の好きな優しい微笑みをまだ浮かべていた。彼は物凄い勇気を出して、自分のすぐ傍らに佇む、恋する女性の右手を、左手で優しく握った。
 ミサトは、拒まなかった。
 ふたりに、言葉はなかった。

**********flashback/E**********


 ミサトは風呂から出ると、冷蔵庫を開き、右手でエビチュを取った。しかし彼女は、少し考えてそれを元に戻した。そして、ゆっくりと自分の右の掌を胸の辺りまで持ってくると、それをじっと見つめた。あの時、自分を恋する若者が、そう、あの、口達者だが恋愛についてはナイーブでなかなか行動できない若者が、勇気を出して握った、その手を。
 ミサトはあの時、自分も彼の写真を撮っておきたいと思った。でも、彼への好意が恋であることをまだ認めていなかった自分には、それが言えなかった。だから、彼女は彼の写真を持っていなかった。
 夕霧キミオはただ、葛城ミサトの記憶の中に生きていた。


**********************
次回 第六話「イノセント・ワールド」

夕霧キミオ
「僕、遠征から生きて帰りたいもんでね。」



To be continued...
(2010.03.13 初版)


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