南冥のハーキュリーズ

第七話 誰か恋人を思わざる

presented by HY様



 ある日の昼休み、ネルフ。ミサトの執務室。
 ミサトは、ボーっとジオフロントを眺めていた。リツコが昼食に誘いに現れると、ミサトは我に返った。
 隠れ里へ向かう道すがら、リツコが話し掛けた。
「ミサト、ネルフのプール、行ったことないでしょ?」
「うん。」
「なかなか広くて快適なのよ。気分転換に今度、行かない?」
「え? ・・・うん・・・。」
「水着、ある?」
「持ってるけど、ちょっち、訳ありで・・・。」
「きついの?」
「違うわよ! ・・・」
「そう・・・。新しいの、買えば?」
「うん・・・。でも、見せる人、別にいないしなぁ・・・。」
「あなた、見せるために水着、着るの?」


 数日後の休日、ミサトは、リツコの運転で水着を買いに郊外へ出た。リツコがユスティティアのサイドブレーキを引いた時、ミサトは思い出したように、ハンドバッグを開けながら言った。
「あ、そうそう、リツコ。戦自にいた時、戦使研にいた・・・友達から、使徒の研究について非公式なデータをもらってたんだけど、もしかして役に立つかな・・・。」
 ミサトは「友達」という言葉を出すに当たって微妙な間をおいたが、リツコは別段気に留めなかった。
「ん? 一応、もらっとくわ。」
 リツコが「一応」と言ったのには理由がある。使徒研究で自分以上の人間がこの世にいるとは思えない、という自信があったし、戦使研の資料など役に立つとは思えなかったからだ。ミサトは真っ白なUSBディスクをリツコに手渡した。
「そのUSB、返してね。」
「分かったわ。」


**********flashback/S**********


 ある日、戦略自衛隊、厚木基地。
 土曜日の朝、ミサトの自室。
 今日は、毎朝、朝食に誘いに来るはずのキミオが来ない。キミオとの食事はもう習慣となっていたから、ミサトは少し寂しく思った。今日は休日だからゆっくりしているのだろう。彼は朝型だが、そうでもないミサトに気を使っているのかも知れない。これまでも彼が休日には誘いに来ないことがあり、ミサトから誘いに行ったこともあった。彼女は何気なく、机の上に置いておいた真っ赤なフォルトゥーナを開いた。すると、数件の着信があり、留守電が入っていたことに気付いた。熟睡していて気付かなかったのだろう。
 と、その時、彼女の携帯端末が、また振動した。
「夕霧君、おはよう。」
「おはよう、葛城さん。」
「何度も電話くれたみたいだけど、どしたの?」
「ちょっと困ったことになってさ。実は、ぎっくり腰になっちゃったんだ。」
「ぎっくり腰?」
 ミサトにぎっくり腰の経験はない。読者諸氏にもご経験がおありでない方もおられると思うが、これは一度やってしまうと一生付き合わされる難病である。そしてぎっくり腰になると数日くらい身動きが取れなくなる。
「お休みのところ、本当に悪いんだけど、とりあえず、僕の部屋に来てくれない?」
「分かったわ。」
「それで僕、玄関まで行けないんだけど、ドアは君のIDと認証パスワードで開けてくれる? パスワードは1208だから。」
「1208?」
「うん。」
「でも、なんで? 私の誕生日?」
「え? ・・・まあ、そうなんだけど・・・」
「・・・そう・・・」
 ミサトは少し驚いたが、とにかくキミオの部屋に向かった。


 ミサトがキミオの部屋の戸を開けると、中にはベッドの脇で横になって苦笑している若者がいた。
「本当にごめんね、葛城さん。」
「まったく世話の焼ける人ねぇ。で、どうするの?」
「うん。フォルトゥーナで調べたんだけど、第三新東京市に、怪しげな柔道の整体師がいるようなんだ。とにかく何とか来れば、すぐに歩けるようにはしてやるってさ。岡田さんに電話したら、車貸してくれるって。僕、タクシー代、払うほど、蓄え、ないんだ。それで・・」
「私に付き合えって、ことね。」
 ミサトは腰に両手を当てながら少し呆れ気味に行ったが、内心、嫌ではなかった。
「ごめん。」
「仕方ないわねぇ。でも、お昼、奢ってね。」
「うん。」


 ミサトは、岡田部隊長の自宅から燃料電池自動車デウカリオンを借り、寮の駐車場に停めた。彼女は、キミオの体を支えてあげながら、助手席に乗せて、自分は運転席に乗った。
 やがて哀れな病人は助手席で悲鳴を上げ始めた。デウカリオンもカーブのために悲鳴を上げていたが。
「葛城さん! ご、ごめん。もう少し、優しく運転してくれない? そんなに急いでないからさ。」
「あ〜、ゴミンゴミン。ところで、夕霧君、ぎっくり腰って、いつからなの?」
「前に、甥が2歳くらいの時、兄さんと同居してた時期があったんだけどさ。トレーニングのつもりで甥を背負いまくってたら、腰を痛めたんだ。それ以来、時々なるんだけど、この前、京都に出張した時、実家の本棚を整理してたら、腰を少し痛めてね。警戒してたんだけど。」
「実家って?」
「ああ、もう誰も住んでないけどね。京都にある。広い家で、本ばっかりあるんだ。父親が研究者だったし、兄さんもやたら本を買ってたからね。生意気に甥までやたらと買ってたから。」
「そう・・・。」
 二人は色々な話をしていたが、やがてデウカリオンは第三新東京市に入った。
「やがて使徒の襲来する主戦場か・・・。ハーキュリーズ、エヴァンゲリオン、いずれの構想でも、要は、この街を守れるかどうかで人類の命運が決まる。」
「そうね・・・。」
「葛城さんも誘われてない? ネルフに?」
「・・・断ったわ、はっきりとね。」
「やっぱり、嫌なの? エヴァが?」
「それもある・・・。それに私、失語症の時、3年ほど、ゲヒルンに収容されていたの・・・。今とは大分違うけど、それもあって、あんまりいい思い出、ないのよ。」
「そうだったんだ・・・ごめんね。」
「ううん・・・。それで、夕霧君はネルフに行くの?」
「・・・迷ってる。」


 気合を入れながら、腰や足を押したり捻ったりする、怪しげな整体師の診療室で、キミオは、「治療」を受けた。
「どうです? 歩けるようにはなったでしょ?」
 キミオは、苦痛に多少顔をしかめながらも言った。
「ほんとですね。まだ痛いですけど。」
「痛みは数日残りますよ。でも、とりあえず歩けるようになればね。」
「ありがとうございました。」


 治療を終えたキミオは、自力で歩いてデウカリオンの助手席に乗った。
「葛城さん、赤木リツコ博士って、知ってる?」
「うん。昔の友達。」
「え? そうなんだ。紹介してくれないかな?」
「確かに美人だけどね。」
「そんな意味じゃないけど、もしかして、嫉妬してくれてるの?」
「それはないっしょ。」
「使徒について意見交換でも出来ればって思ってね。」
「ネルフに行くの、彼女に断ったばかりだから・・・会うの、ちょっち、気まずいのよ。それに、昔の彼女とはずいぶん変わってたから・・・。」
 キミオは助手席をリクライニングさせながら、言った。
「そうか・・・。それじゃ、いいや。」
 たとえこの時、科学・技術における天才と軍事・戦闘における天才とがすれ違わずに邂逅していたとしても、既に動き出していた時代の歯車を変えることはできなかったろう。換言すれば、やはり第三次南極遠征と第伍使徒サキエル戦の悲劇がなければ、その後の歴史の展開はなかったし、ネルフで使徒戦を指揮するのが葛城ミサトであることは、すでに神が決めていたことなのだろう。
「じゃあ、葛城さん、金時山に向かおう。ここのガイドブックによると、中腹から街の様子がよく見えるようなんだ。どう?」
「行ってみましょ。」
 二人は、金時山中腹に着くと、デウカリオンを降りて、二年後には使徒が襲来すると言われる、宿命の戦場を眺めた。
「葛城さん、君と一緒なら、人類も救えそうな気がするんだ。・・・甘いかな?」
「まずは今度の遠征よ。まだ、私たちは使徒ときちんと戦える武器さえ持っていないわ。」
 二人は並んで、使徒戦に向けて造り直されつつある使徒迎撃専用要塞都市を見つめた。
 葛城ミサトは、この街で自分の大切な家族ともなるチルドレンたちと共に、エヴァを用いて使徒との死闘を繰り広げていくのだが、この時の彼女はまだ、そのことを知るはずもなかった。
 その後、二人は、第三新東京市郊外の壺天という店で遅めのランチを取った。
 ミサトはそれから数日、身動きのとりにくいキミオのために、甲斐甲斐しく身の回りの世話をした。ミサトはその行為が嫌ではなかった。キミオは、ミサトがまるで自分の妻のようにしてくれる、行為の一つひとつが嬉しくて仕方なかった。


 キミオの腰も通常に戻って数日後、ミサトとキミオは厚木の繁華街にある居酒屋「仙境」で飲んでいた。その日、3軒目だ。最近は、ミサトもキミオの窮状を理解し、キミオが恰好を付けて出すと言っても、厳密に割り勘にしている。
「キミちゃん、休日出勤も大概にして欲しいわねぇ。」
 ミサトは酔っ払ってくると、キミオのことを「夕霧君」ではなく「キミちゃん」と呼ぶ癖がある。キミオも同様に「ミサちゃん」と呼ぶことがある。
「賛成。でもミサちゃん、それよりさ。今度の代休、海水浴に行かない?」
「ん? キミちゃんと、ふたりっきりで?」
「もちろん。おやじさんのトラックじゃなくて、ちゃんとレンタカーを借りてゴージャスに行こう。ね?」
「いいわよ。」
 ミサトは余り迷わずに即答した。遠征計画が具体化し、近づくにつれて、どうせ死ぬのなら・・・そういう感情がミサトの恋愛への恐れを弱めていた。それに彼女は、いつしか、いつもそばにいて微笑んでくれる、この優しい若者に対する好意を、無理してまで抑え込まないようになっていた。
「やった! また、新しいミサちゃんと出会えるね。」
 酔っ払ったミサトは、酔っ払ったキミオに言った。
「キミちゃんってエッチねぇ。まあ、期待しといて。海水浴なんて何年も行ってないし、水着、買わないとね。」


 セカンド・インパクト後も多少の地軸の傾きは残っているから、常夏の日本も完全に四季が失われたわけではない。11月から2月ころに、短い秋、冬、春が訪れる。もちろん以前のように雪が降ったりはしないが。
 ミサトとキミオが海水浴に行った日は、代休の平日だったこと、10月だったこともあり、数組のカップルがいるくらいで、浜辺に人はまばらだった。
 ミサトは、真っ白なワンピースの水着を着ていた。彼女はセカンド・インパクトで受けた胸の傷を隠すために、セパレートの水着を着ないが、背中側は腰のすぐ上まで切れている、やや刺激的な水着を選んだ。ミサトはあまり迷わずに、キミオが乗っていたハーキュリーズの白を選んだ。キミオは紺の海水パンツだが、水に濡れると黒くなる。
 キミオは恋する女性の水着姿を初めて見て、真っ赤になった。ミサトも自分を恋している青年の、細身だが引き締まった体を見て少し赤くなったが、照れ隠しに笑うだけだった。
 お昼頃、キミオがミサトに言った。
「葛城さん、お昼にしようか? あの売店で買ってくるけど、何がいい? 焼きそばかタコ焼きか、そんなものだろうけど。」
 するとミサトは少し頬を赤らめて、言った。
「お弁当・・・作って来たんだ・・・。」
 キミオは感激して飛び上がった。
「え?! ほんと?!」
「食べよ、食べよ。」
「うん。車に置いてあるから。取って来るわ。」
 日陰に置かれた車の助手席から、ミサトはピンク色の手提げ袋を取りだしてきた。ミサトは、袋から包み紙を取り出して、恐る恐る開いた。中には、輸送中に少し形の崩れた三角のおにぎりが四個、きゅうりとソーセージ、卵焼きが並んでいた。別に大した料理ではない。でもミサトの生活無能力を垣間見ているキミオにしてみれば、これが、ミサトが相当の時間を掛けた苦心の作であることは一目瞭然だった。
「わぁお! 美味しそう!」
「そうかな・・・。」
「いただきます!」
 キミオは早速、恋する女性がその手で握ってくれたというおにぎりを頬張った。
「美味しい!」
 キミオは空腹だったこともあり、海辺で開放感にあふれていたこともあり、それに何より葛城ミサトの手製の食べ物を初めて食べたことから、嬉しくてたまらず、始終嬉しそうな顔で、「美味しい」を連発していた。
 ミサトは昔、加持とデートした時に手製のお弁当を作ったことがあったが、それ以来の作品をしつこく絶賛され、かえって恥ずかしく思っていた。でも同時に、自分が・・・幸せ・・・であると思っていることに気付いた。

 ふたりは浜辺に並んで青い空と青い海を見た。そして、海に入り、遊んだ。

 他にも何組かのカップルはいたが、このふたりは他とは違っていた。このふたりは、2カ月後にはおそらく生還できない遠征へと赴く。もう二度とこの浜辺に来ることはないだろう。
 もしもふたりが、そこにいた幸せそうな普通のカップルたちのように恋し合い、愛し合うつもりなら、残された時間はもう僅かしかなかった。



 海を楽しんだふたりは、海水浴場の近くの日帰り温泉に入って、体に付いた塩を流した。それから、水族館に行って、ありきたりだが愉しいイルカ・ショーを楽しんだ。ふたりはまるで恋人のように寄り添って、語り合い、微笑み合った。

 最後に、ふたりはいつか来た、新横須賀の波止場に来て、沈んでゆく夕陽を並んで見た。
「葛城さん・・・今日、君と過ごして・・・とても・・・とても、楽しかった・・・。」
「・・・私も・・・とても、楽しかったわ・・・。」
「今日、僕たち・・・デート・・・したんだよね・・・。」
「・・・・・・・・うん。」
「・・・よかった・・・。」
 若者はすぐ左隣に立つ恋する女性の左肩を優しく抱き寄せた。美しい女性がその頭を若者の右肩の上に乗せると、その藍色の髪から甘酸っぱいような香りがした。若者が、恋する女性に接吻(くちづけ)をしようと、もう片方の腕で恋する女性を抱き締めようとしたとき、彼の左腕に、彼女の肩の震えが伝わって来た。俯き加減のその表情は、長く美しい髪に隠れて、今の彼の角度からは、見えない。
「・・・」
 若者は尋ねた。
「葛城さん・・・どうして・・・泣いてるの?」
「・・・」
 ミサトにもう肉親はいなかった。ミサトは、行けば人生を終えるであろう遠征を控えたこの時期に、この若者に愛され、その温もりを感じられることが素直に嬉しかった。しかし同時に彼女は、今、自分を求め、自分を抱き締めようとしている優しい若者が、かつて自分が愛した加持によく似ていると思った。似ているからこそ、自分も彼に対して好意を抱いてきたのだと思った。
 しかし、もし自分が彼の恋を正面から受け入れ、自分の彼に対する恋を認めるならば、彼を深く愛してしまい、それゆえにいずれまた、加持と別れざるを得なかったのと全く同じ理由で、またこの青年を深く傷つけ、自分も傷つき、そして再び愛を失ってしまうのではないか・・・そうも思った。だからミサトの目にはどうしようもなく涙が溢れ出た。
 確実なものとして静かに近づいてくる死を目前にして、真摯な恋が生まれ出ようとする、その土壇場で、彼女は恋愛への強い怖れを改めて感じたのだった。
 恋愛恐怖症の美しい女性は、手で涙を拭いながら、優しい若者に、必死で言葉を絞り出した。
「・・・ごめんなさい・・・わからないの・・・。嬉しいのと・・・悲しいのと・・・いっぱい・・・ごっちゃになって・・・よく、わからない・・・」
「大丈夫だよ・・・葛城さん・・・。僕は君を待つよ・・・。いつも君のそばには僕がいる・・・たとえ僕たちが、もうすぐ死ななければならないとしても・・・その時にも僕が必ず君のそばにいる・・・。」
「ありがとう・・・夕霧君・・・よくわからないけど・・・はっきりわかっていることは、あなたに会えて・・・本当に・・・本当に、良かったって、こと・・・。」
 キミオはただミサトの震える肩を優しく抱き寄せた。そして、ミサトの藍色の髪に自分の頬を当てて優しく撫でた。
 ふたりは並んで、いつまでも夕暮れを眺めていた。


 それから数日後、作戦協議のために出向いた新横須賀から厚木基地への帰途、公用車を運転するキミオは、助手席のミサトに言った。
「葛城さん。万に一つくらいの可能性なんだけど、聞いてくれない?」
「何、夕霧君?」
「僕たちは統合幕僚本部の将校としてここに派遣されている。来週、京都で遠征前最後の全体会議があるよね。これまでのすべての議論の前提を覆す話になるけど、その会議で、この作戦の主担当幕僚である僕たちが、揃ってこの作戦に反対したら、どうなるかな?」
「何ですって?! まさに前代未聞の珍事ね。首相も、国防大臣も、万田さんの顔も全部、潰すわ・・・それも思いっ切り。懲戒、覚悟ね。」
「それはそうさ。でも、背に腹は代えられない。僕は赴任してから今まで、かなりこの作戦について検証した。確かに、君と一緒に、今の戦力を前提にしてこれ以上の作戦は無理だっていうぐらいまで仕上げたけど、僕たちがこの遠征で勝利する可能性は万に一つもない。僕たちのせいじゃない、まだ人類には使徒と戦うだけの力がないんだ。ハーキュリーズ構想では結局、無理なんだよ。」
「でも私たちにはそれしかない。オーナインと同じくらいの確率に賭けるしかない。それに使徒戦の経験は必ず何かをもたらすはずよ。ここまで来た以上、軍人は政治判断に従うしかない。」
「今度の会議が最後のチャンスなんだ。」
「でも、実務者協議も終わって、総理も出席するシャンシャンのセレモニーよ。時間もたった30分しか予定されてないわ。そこで、やるの?」
「そうさ。実務者協議で反対しても多勢に無勢、幕僚を外されるだけだ。だから、しなかった。この国にも一応、民主主義がある。それに賭けてみようよ。」
「悪いけど、考えさせて・・・。」


 その当時、カリスマ的英雄であった空木首相を失った日本は、1年ごとに首相が変わるような短命内閣が続き、政情は不安定となった。マスコミは首相が変わるたびに首相とその閣僚のスキャンダルを探し出しては失脚させ、大衆は観客となり、ただ彼らを批判した。そして現在の松岡首相は、数合わせの連立与党から妥協の産物として、スキャンダルにだけは無縁の、いかにも無難な中継ぎとして出された、世襲議員の老人であった。
 当初彼は、減税とバラマキによる人気取りの政策に努めたが、やがて大衆から軽蔑を買った。内閣支持率の低下に伴って、彼はこの遠征に拘り始めた。内政に行き詰まり、次の選挙前には退陣せざるを得ない自分の在任中に、せめて何か一つ歴史書に載るような事象を作りたかった、それから首相を辞めたいのだろうと言うのが専らの見方である。ゆえに彼は、特段記すべきものもない、その政治家としての最後を華々しく飾るために、自ら作戦本部長となって、長年先延ばしにされてきた、この第三次遠征の実現に躍起になって取り組んだのである。


 統合幕僚本部全体会議の前日、首都、京都。首相官邸。
 松岡は、万田に言った。
「万田君、来週の会議だが、遠征は12月1日をもって決行だ。大衆の不満を外に向けるためには外征しかない。この機を逃せば私の内閣ももたなくなる。せめて1年くらいは首相をさせて欲しいのだよ。」
「この遠征は恐らく失敗します。使徒は一体も殲滅できないと思われますが。」
 老人は掠れたような声で言った。
「それでもいいのだよ。遠征をしたという事実だけあれば、それでいいのだ。結果はどうでもいい。相手は人じゃない、怪物だ、負けても誰も文句は言わない。私は悲劇の宰相として辞任する。それでいいのだ。この国の大衆は今や観客だよ。どんな結果を出しても大衆は政治家に文句を言う。努力したことを分かりやすく世に示せれば、それでいい。私は最後に歴史に残る仕事をしてから政治家を終わりたいのだよ。」


 その頃、京都、三条河原町。
 ミサトとキミオは、第伍旭という気鋭のラーメン屋で夕食を済ませると、パラダイス・ローストというショット・バーに入った。ミサトの右隣りにキミオ。
「葛城さん、1本、ボトル入れて、空けようか。」
「うん。」
 ふたりはセブン・ローゼス・ブラックのボトルを1本入れて、ロックで飲み始めた。
「夕霧君、遠征を延期できないとして、もしも遠征から生きて戻れたら、どうする?」
「まず、結婚したいね。僕って、結婚願望、強いから。」
「それはいいわよ。それから?」
「実は、ネルフにいる叔父さんから、作戦本部長になってくれないかって、しつこく誘われてるんだ。飲み代に不自由しないくらいギャラを奮発して貰って、ネルフに移って使徒を倒すのも悪くないね。2年くらいで勝負がつくのかな。」
 ミサトはキミオのグラスに氷とセブン・ローゼスを入れながら、言った。
「ネルフか・・・。それからは?」
「そうだなぁ・・・。僕って戦争くらいにしか、役、立たないしね・・・。エヴァを使って、5年もあれば、世界の紛争を全部終わらせてやるよ。いよいよもって今孔明の出番さ。ねえ、もし世界を平和にできたら、僕って、歴史書とかに書いてもらえるかな? どう思う、葛城さん?」
「さあね。」
 ミサトは、大仰なことを言う青年だと思ったが、彼なら本当に出来そうな気もした。
「まあ、別に書いてもらわなくてもいいよ。好きな人と家庭を持てれば。」
 ミサトは受け流して、キミオに尋ねた。
「世界平和を実現した後は、どうするの?」
 キミオはロックグラスを飲み干しながら言った。
「それだけ働いたんだ。もう、引退させてもらうよ。たっぷり恩給をもらってね。そして、好きな人と幸せに暮らす。子どもは5人くらい、欲しいな。・・・君は?」
「ん? 分からない・・・。いろいろ、考えてるの・・・。」
「そう・・・。」
 ふたりはやがてボトルを飲み干した。


 パラダイス・ローストを出たミサトは、酔っ払ってキミオに言った。
「キミちゃん、もう1軒、行く? 京都、最後かも知れないし。」
「いや、明日の朝、珍しく、ヤボ用があってね。」
 ふたりは二次会で切り上げて、戦自の宿所に向かい、エレベーターに乗った。
「・・・あ、そうか、万田さんね。」
「うん。仁義は切っとかないと。」
「しかし大将がよく、一尉のあなたなんかに会ってくれるわねぇ。」
「あの人が三顧の礼で無理やり僕を引き抜いたんだ。会う位は会ってくれるさ。」
「あれ? キミちゃん、この階じゃないでしょ?」
「うん。君の部屋まで送って行くよ。襲われたりしたらいけないし。」
「キミちゃんに襲われたりしたら、嫌だな。」
「許可を得るまで襲わないよ。」
「キミちゃん、言っとくけど、私、やっさんより強いのよ。」
「うそ? そこまで強いの?」
「うん。厚木に来て、すぐにやっさんとトラブってね。決闘したのよ。」
「凄い人だなぁ。ますます憧れるね。ミサちゃん、襲われたら、僕、守ってね。」
「いいわよぉ。」
 ふたりがミサトの宿泊室の前に来ると、キミオは言った。
「あ、そうそう、君にも渡しておこうと思って、コピーしておいたんだ。良かったら、時間があるときに読んで、意見、くれないかな。」
 ミサトは、キミオがザックから取り出した真っ白なUSBディスクを受け取った。
「これ、何?」
「僕の使徒研究のすべてさ。間違ってることもたくさんあるだろうけど、僕が考えたことが全部、書いてある。」
「そう・・。」
「じゃ、明日は、手筈通りに。」
「了解。キミちゃん、おやすみ。」
「おやすみ、ミサちゃん。」


 翌早朝。
 京都、統合幕僚本部長室。
「夕霧君、君が来た用件は分かっている。ただし10分だけだ。」
「万田さん、10分もあれば10万の将兵の命を救えますよ。あなたが反対して下されば、まだ流れを変えられます。この遠征をこの期に及んで延期すれば大きな政治問題になりますよね。首相交代を待てば・・」
「延期して、どうするのかね? 使徒はやがて襲来する。このままの状態でどうすると言うのかね?」
「日化共がJAの開発を進めています。無人兵器でも使徒のデータは取れるはずです。」
「それでは遅いのだ。これ以上延期する説明ができんのだよ。」
「話が逆でしょう。勝てもしない戦に、人命も税金も注ぎ込む側が、遠征の勝算とその必要性を説明しなければいけないんじゃないでしょうか。」
「夕霧君、戦自は、すでにハーキュリーズ路線を選んだのだ。政治的に、今更もう、放棄はできない。戦争をする、しないは政治判断だ。軍人が決める話ではない。君や私は、どう戦争するかを考え、実行するのが仕事なのだ。」
「それで戦自兵5万、友軍の兵5万が死んでも、ですか?」
「夕霧君。君がどうしてもこの遠征に反対なら、軍人を辞めればいい。その位の権利はこの国でも保障されている。」
「分かりました。」
「どう、分かったのかね?」
「上官を説得できないのなら、民主主義を信じてみるってことですよ。」
 キミオは寂しげに微笑んで立ち上がると、一礼して部屋を出た。そこには、ミサトが待っていた。
「夕霧君・・・」
「葛城さん、朝食、まだ?」
 キミオは何事もなかったかのように、いつもの調子で微笑みながら尋ねた。
「うん。」
「行こうか?」
「ええ。」
 葛城ミサトと夕霧キミオは、食後のコーヒーを飲み終えると、ふたりを除く出席者の誰もが、シャンシャンのセレモニーで終わると考えていた、統合幕僚本部・全体会議が開催される会議室へ向かった。


**********flashback/S**********


 ミサトがリツコと郊外へ買い物に行った翌週の月曜日、彼女がネルフに出勤すると、リツコが執務室に現れた。
「ミサト、ありがとう。この前のUSBディスク、返しておくわ。」
「ありがとう。役に立った?」
「ええ、驚いたわ。正直、何も期待してなかったんだけど、戦自にもこれほど考え抜いている人材がいるとはね。これは相当使徒の研究をしていなければ書けない報告書よ。科学者でもないのに、実に素晴らしい洞察力だわ。門外漢なだけに、常識に囚われない型破りな発想で溢れている。私たちが悩んできた理論的な壁を突破できる、幾通りもの可能性を示してくれているわ。物凄く参考になった。これで、エヴァ起動とATフィールドの中和に向けた最後の難関をクリアーできるかも知れない。」
「そう・・・。私も見たけど、素人には数式なんて分からなくてね・・・。」
 ミサトは、最初はそうだったが、実際には、遠征から戻った後、この真っ白なUSBディスクのことを思い出すことさえ辛く、ネルフに来て所持品を整理するまで、その存在も忘れていた。
「この匿名の報告書の作者、あの遠征で戦死したのね?」
「・・・ええ。」
「実に惜しいわね・・・。でもミサト、この報告書の最後のページをクリックしたら、赤木リツコあてのメッセージが出たわ。」
「え? どういうこと?」
「あなたを通じて私にこのデータが渡ることが分かっていたみたいね。これを赤木博士がお読みなるのは、2036年12月ころでしょうか・・・なんて書いてあった。」
「え? そのUSBもらったの、あの遠征に行く前よ。・・・ああ、そうか、リツコが今頃読むってことまで、分かってたのか・・・。」
(そして自分がもう、その頃には生きていないってことも・・・。)
 ミサトは俯き加減で真っ白なUSBディスクを握り締めた。
「そう。そして、あなたがネルフの作戦本部長としてここに来ることもね。」
「・・・」
「ミサト。最後にパスワードの入力画面が出たわ。おそらく報告者からあなたへのメッセージ・ファイルが隠されているようね。パスワードが分からないし、私が見ちゃいけないと思って見てないけど、フォルダーの最後にあるわ。」
「そう・・・。」


 ミサトはリツコが立ち去った後、自分のPCに真っ白なUSBディスクを差し込んだ。リツコに言われた通りにすると、やがて隠れていたメッセージ・ファイルが現れた。ファイル名、mkml。ミサトがそのファイルをクリックすると、パスワード入力画面が出た。ミサトには、彼が設定したパスワードが分かっていた。
 ミサトが自分の誕生日である1208を打ち込むと、パスワードは認証され、静かなピアノの演奏が始まり、やがて1つの画面が現れた。

 それは、いつか新横須賀の波止場でキミオが撮影したミサトの写真。
 恋をしている女性の輝くような美しさが夕映えにますます輝いている、そんな、ミサトのポートレートが浮かび上がる。
 ビル・エヴァンスが静かに流れ、画面のミサトの長い髪が柔らかな風になびいている情景。
 画面の下のほうには、筆記体で、


  Misato Katsuragi, My Love


という文字が、ゆっくりと何度も描かれるアニメーションが用いられている。

 ミサトは呟くように言った。

「あなたの写真だったら、よかったのに・・・。」

 ミサトは頬杖をついて、あの懐かしい曲をいつまでも聴いていた。


**********************
次回 第八話「アイシテル(前篇)」

葛城ミサト
「勝ち目のない戦をやるのを、バカって言います!」



To be continued...
(2010.03.27 初版)
(2010.04.03 改訂一版)


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