暗闇の円舞曲

第三話

presented by 樹海様


 シンジが修行から帰って来た。
 既にシンジも10歳。思えば早いものだ。
 まだまだ未熟とはいえ、死徒としての成長は順調で、城でもそうそう負けないだろう。
 そう言って、城の死徒と勝負させてみた、本当に勝ってしまった。さすがに、リィゾやフィナ、或いはメイド長とかには負けたが、これは比べる相手が悪いだろう。
 ゼルレッチとの旅でデイライトウォーカーにまでなっていた。さすがに驚いて聞いてみたら、本当に泣きそうな顔で『御免なさい、思い出したくないんです、許して下さい』と謝ってきたので許してあげたけれど……ゼルレッチ、貴方何やった…まあ、これだけ使えるようになったのを考えて、そしてゼルレッチが弟子に普段どんな課題与えてるかとか与えられた家がどうなってるかとか思い返して、何となく分かったから聞かないであげる事にした。
 とはいえ、本当に凄い。と、考えている内にふと悪戯心が湧いてしまった。


 「お使いですか?」
 「そう、お使い」
 お仕事を与えてあげる事にした。これまで訓練というか修行というか。まずは力をつけさせる事が最優先と仕事と呼べるような事はさせてなかった。まあ、自分でお手伝いと呼べるような事はしていたようだが。
 「ああ、そうそう、向こうに着いたらね…」


 なんなのだ、この小僧は。
 それが白翼公トラフィム・オーテンロッゼの内心の声だった。周囲にいる部下達も苛立っているようだが、トラフィムが黙っている為にまだ行動は起こしていない。が、彼が一言命じれば即この子供を叩き出すだろう。
 白翼公は死徒の中でも最大の領地を有し、その権限は大きい。それこそ、その立場は死徒の姫君と呼ばれるアルトルージュ・ブリュンスタッドと張り合える程に。死徒として優れていればいい、という考えな為に死徒二十七祖第十七位に位置しているが、彼に面と向かってどうこう言えるような相手ともなればそうはいまい。実際同じ死徒二十七祖第六位のリィゾや第十六位のグランスルグ・ブラックモアなどと並び最古参の死徒でもあるのだ。
 それを、それをだ。
 この目の前の小僧は会うなり、『はじめまして、トラフィムお爺ちゃん。碇シンジです』と言って来たのである。
 
 どうしてくれよう、と最初は思ったトラフィムだったが、ある程度考えてふと疑問に思った。
 「少年」
 「なんでしょう?」
 周囲から放たれる殺気に怯えている様子だ。これを見て余計に確信を深めたトラフィムは一つ確信を得るべく尋ねた。
 「儂の事は何と呼べと言われたのかな?」
 誰に、とは聞かない。そんなもの分かりきっているからだ。
 「えと、あの…『お爺ちゃん』って呼んであげなさい、って…」
 やっぱりか、あの野郎。
 確信を持って、腹を立てたトラフィムだったが、ここでふと冷静になった。
 『待てよ?何故この小僧にあの女狐はそんな事を言わせた?』
 この子供を間接的に殺させる為?いや、それはない。そもそもこの子供を殺す訳にはいかない。仮にも死徒の姫君と呼ばれるアルトルージュ・ブリュンスタッドから正式に派遣された使者なのだから。
 腹立たしい事に現状勢力という面ではトラフィムの方が上だ。領地の広大さ、配下とする死徒の数など等、形式上の死徒の王と称されるのは伊達ではない。だが、戦力という面で見るといきなりそれは逆転する。何しろ相手には死徒二十七祖から第一位、第六位、第八位に第九位と最低でも二十七祖、それも上位十位に位置する者の内四体が揃っているのに対し、こちらは自身と第十五位のリタ二名のみ。自分がアルトルージュ、リタがリィゾを抑えれたとしてもプライミッツとフィナが残っては勝ち目などない。そうした意味では気に喰わないから、ただ『お爺ちゃん』と呼ばれた為に殺して開戦の可能性など引き起こす訳にはいかない。
 ここでトラフィムの頭に引っかかった事があった。
 トラフィムは頭が悪い、と称される事がある。無論、そんな事を堂々というのは袂を分かって以来関係最悪のヴァン・フェムとか秘宝コレクターでもあるメレム・ソロモンであるとか……要は同じ二十七祖ぐらいのものだ。
 けれど、彼らをしてこうも言わせる、馬鹿ではない、と。
 まあ、当然だ。馬鹿ではここまでの勢力を維持し続けられない。

 読めた。
 大体、トラフィムはアルトルージュの思惑を読み取った。別に繊細且つ複雑な戦略を仕掛けてきた訳ではない、おそらくは。
 『あ奴、わしが怒るのを楽しむ腹だな』
 たかだか『お爺ちゃん』呼ばわりされたぐらいで、激昂する。
 これは確かに笑い話のネタになる。自分とて、例えばアルトルージュが自身から派遣された若い死徒に『おばさん』と呼ばれた、それもトラフィムからそういう風に呼ぶよう言われて行った相手を即効消滅させれば、後で笑い話のネタにするだろう。 
 だが、ならばどうする。
 考えた結果、トラフィムが出した結論は……。
 
 シンジは別に殺気に怯えてはいなかった。
 確かに、目の前の人が出す気配はかなりの重圧を伴ったものだったが、周囲の面々が出すのは数ばかり多くても、殺気が混じっていても特に怖いとは感じなかった。
 これはある意味当然といえば当然な話で、訓練の相手が相手だったからだ。本気での殺気など出さなかったが、ある程度力を使いこなせるようになってからは、リィゾが、フィナが、そしてあの異世界探訪の日々ではゼルレッチは殺気を出さなかったが、もっと恐ろしいナニカの狂気やら何やらと遭遇してきたのだ。シンジの感覚はそういう意味では磨耗しきって、とんでもなく図太い代物になっていた。
 シンジが怖れているように見えたのは、『ああ、いきなりお爺ちゃんなんて言われたら怒るよなあ』と恐縮していたのだった。
 まあ、確かに年配のようには見えるが、お爺ちゃんと呼ばれる程高齢には見えない。まあ、あくまで見た目だが、壮年に見える。 
 『でも、お爺ちゃんって呼んであげなさい、って言われたし…』
 無論、そう呼ぶよう伝えたのはアルトルージュだ。

  「一つ訂正したまえ」
 トラフィムはちょっと区切って告げた。
 「トラフィムお爺ちゃん、だ」
 周囲の部下達から驚いたような気配が起きた。ちなみにシンジも驚いていた。


 シンジが帰った後で、部下からの問いかけにトラフィムは事前の説明を行った上で、こう答えている。
 「ならば、あの女の想定の外で返してやれば良い」
 実際、アルトルージュにとっても、このトラフィムの反応は予想外であったようで、シンジからこの話を告げられた後、しばらく手の紅茶を口に運ぶのも忘れていたぐらいだ。
 「……シンジ」
 「はい、アルトルージュ様」
 「今日からそれは禁止、姉さんとでも呼びなさい」
 しばらくして、彼女が告げた言葉にシンジは、いやシンジだけでなくその時傍についていたプライミッツは首を傾げ、フィナは「は?」とシンジ共々声を上げ、控えていたメイド達はさすがに外に出してはいなかったものの、驚いているのが気配から伝わってきた。
 「え、えっと……」
 「姫様、一体何を?」
 と問いかけがあったものの、少々不機嫌そうなアルトルージュには通じなかった。
 「返事は?」
 「あ、はい、ある…………姉さん」
 アルトルージュ様と口にしかけて、物凄い目で睨まれたシンジは慌てて言い直した。

 結局の所、トラフィムが呼称を容認した事で、アルトルージュとしても対策をとらざるをえなかったのだ。
 自身が自ら死徒とした相手を白翼公トラフィムが『お爺様』と呼ばせる。さて、これでは周囲、正確にはトラフィムの周辺からどう流れるだろうか?何もない、という可能性もあるが、下手をしたら煽られて『アルトルージュが自らの手で死徒にした相手をトラフィムが取り込んだ』と、更にそこから煽られかねない。
 杞憂かもしれないが、呼び方、対応の仕方次第でこんなものはどうにでも転ぶ。
 そして、ちょっとした天秤の傾きは最終的には巨大なものになりかねない。
 そして、この小さい意地の張り合いと駆け引きの応酬は双方とも引けなくなった。引いた側が負ける、そんな意地の張り合いが張り合いを呼び、結局シンジはアルトルージュを『姉さん』と呼び、トラフィムを『お爺ちゃん』と呼ぶ事になり……加えて、呼ばせているだけで配下と同じような扱いをしている、では相手に対して引けを取るとある程度の待遇をトラフィム側としても取らざるをえなくなり、結果としてシンジがトラフィム自らの教えを受けさせてもらい……その才能に関心したトラフィムが余計に熱心になるという一コマまであった。
 更に言うならば、死徒の最大規模勢力二つのトップから寵愛を受けている死徒、という観点は周囲からの手出しを控えさせ、更にはそれぞれのトップ周辺とてやがて慣れる。そして、こうした中もう一つの重要な役割がシンジに生まれていく。現状のシンジは妨害を受ける事なく、直接アルトルージュとトラフィムに話を伝える事が出来る、それもプライベートなレベルで。
 つまりは、互いの意志がトップ同士でダイレクトに伝えられる、という事だ。電話とか魔術はどうした、と思う者もいるだろうが、どうしたってこうした機械とかの部分に関しては協会や教会にある程度知られざるをえないし、知られる可能性が高ければ表だってはこうだが、裏では、というような打ち合わせも難しい。そこら辺をカバー出来る役割を持つ者としてシンジは互いのいわば勅使としての役割を担う事となっていった。
 何時しか、シンジはこう呼ばれる事になる。
 黒の姫君と白翼公の間に立つ者、すなわち灰色、『灰/アッシュ』と。


 だが、こうした役割を持つ者が存在する事を疎ましく思う者もいた。
 協会や教会ではない。
 協会は魔術師あがりの死徒が二十七祖に絞っても魔道元帥、黒翼公、白翼公、千年錠、既に滅んだが混沌やワラキアの夜、アカシャの蛇等多数存在しているように死徒という道は探求の為の可能性の一つとして見ているから(無論敵対する場合は多々あるが、死徒自体は魔道元帥の存在もあり受け入れている)、こうした緊張の緩和は現在の情勢もあり歓迎の方針だった。
 教会は不快ではあった。当然だろう、滅ぼすべき敵の親玉クラス同士が関係改善などいい気はしない。
 だが、現在の自分達の状況での抗争はありがたくない、とってもありがたくない。将来的にはともかく、現在としては彼らの関係改善による抗争の危険性低下の代償として見逃す方針だった。
 つまり。
 ここでシンジを睨む相手とはそれらとは関係のない第三勢力だった。
 すなわち、死徒を憎む者だった。


 シンジは高速で『歩いていた』。
 もっとも、普通の人間が見れば、それを歩いていたとは言うまい。認識阻害の魔術を纏い、仙術などで呼ぶ所の縮地の術式で歩くその速度は車での全速より尚速かった。シンジはこうした魔術を得意としており、それもまた勅使としての役割を果たすのに役立っていたが、こうした魔術が得意なのは別に変な理由はなく、ゼルレッチとの修行の旅に措いて、脅威から逃げる為だったというのがシンジらしい。というか、認識阻害で相手の目や感覚を誤魔化し、ひたすら足を速めて逃げなければ、それが出来なければ死んでいた可能性が大きかったとも言う。
 時速にして数百キロで『歩く』シンジはしかし、追跡してくる何者かの存在を感知していた。
 振り切れるかとも思っていたが、空を飛んでくる相手は執拗に追跡してくる。気配は分からない。大きいようでもあるし、小さいようでもある。これは相手がそれなりの戦闘巧者である可能性が極めて高い。気配を完全に隠しきれていないのは矢張りこちらの移動速度故だろう。
 シンジも飛ぶ事は可能なのだが……問題は撒いた所で自分を今後付け狙う事は簡単だという事だ。
 何せ、アルトルージュ派かトラフィム派、いずれかの拠点を見張っていればいずれ出くわす訳だから。加えて、下手に見逃し続けていたら、敵対行動を取られる時が怖い。そんな時は相手はまず間違いなく自分に有利な状況にして襲い掛かってくるだろうからだ。
 ならば、相手の正体を確かめる。
 シンジは術式の構築を弄ると、一瞬前方へと走り出して……次の瞬間急反転して後方、追跡者の方向へと走り出した。

 自身も追跡の為に加速しかけた所へ逆走された事で、追跡者は一瞬たたらを踏んだ。
 正直に言ってしまえば、まだ幼いとも言える死徒が自身を感知出来るという点、向かってくる点に関して自分で思っている以上に楽観してしまっていた。
 故に自分の油断に自嘲を自身の内で済ませると、大地へと降り立った。
 彼の名はエンハウンス。第十八位に位置する死徒二十七祖の一角である。
 
 復讐騎エンハウンス。
 この死徒は前第十八位を倒し、その地位についた訳だが、別名『片刃/エンハウンスソード』とも呼ばれ、他の二十七祖からは蔑まれている。その訳はこのエンハウンス、半死徒にして半人間という中途半端な死徒だからだ。半分のみ死徒=片刃という訳だ。
 右手に前第十八位より奪った魔剣アヴェンジャーを。
 左手には教会の武装である聖葬砲典を有するが……半死徒半人間故に死徒の為の魔剣を振るえば右手が壊れ、聖なる銃を撃てば左手が腐るという苦痛の中にある。
 だが、人間性をいまだ失っていない為にその行動力と精神力は二十七祖の中でも群を抜いている。
 二十七祖の一角でありながら、死徒を滅ぼす為に動く彼としてはアルトルージュとトラフィムの関係は悪い方が良く、出来れば双方の境界付近、ややこしい地帯で仕掛けられれば最善だった。
 「そう思い通りに動いてはくれぬか」
 そう思い、武装を構える。両手の武器からはいずれも自身を拒絶する力を感じ、使えば使う程自身は壊れていくが、なに、死徒を滅ぼすまで自身が持てばいいのだ。
 向かってくる相手は外見はまだ子供だが、メレム・ソロモンの例もあるし、死徒の年齢を外見で判断する程愚かな事はない。力の大きさに死徒の最大勢力二つ双方のトップに認められる存在、となれば実際は相当な年経た死徒だろう。そう判断し、エンハウンスは先手必勝とばかりに襲い掛かった。

 シンジにしてみれば、予想外の攻撃ではあった。まずは何故自身を追ってくるか、何者なのかを確認するつもりで、いきなり問答無用で攻撃してくるとは思っていなかったからだ。相手も死徒のようだと思えたから尚更だった。
 それでも回避しきれたのは、矢張りこれまでの経験が物を言った。確かに決して甘い攻撃ではなかったのだが、何せこれまでの相手が相手だ。とにかく、逃げる事ひいては回避に関してはかなりなものを有していた。というか、完全にシンジに逃げに徹されては最近ではリィゾでも多少は時間がかかる程だ。
 これまでの経験と直感、そして技術。その全てを動員して、シンジはエンハウンスの最初の一撃を回避し、対峙した。
 「何者ですか?」

 エンハウンスは警戒を強めていた。
 自身の攻撃は相手の攻撃を受けた時見せた一瞬の表情からして予想外のものだった筈。で、ありながらきっちりと回避した。
 「何者ですか?」
 その言葉を投げかけられた時、無視して攻撃を行っても良かったが、ふとした気紛れから名乗った。
 エンハウンス、と。
 
 アルトルージュの城で英才教育を受けたシンジは当然ながら、死徒二十七祖の名前ぐらいは覚えていた。
 死徒二十七祖第十八位、復讐騎エンハウンス。
 だから、その死徒が死徒殺しを積極的に行う忌み子である事を瞬時に悟った。
 話は通じない。
 自身を通常は守る現在の立場が、この相手に措いては正に仇となる。身構えたその様子に、エンハウンスも気付いたのだろう。そして、シンジの思惑に関しても。
 「賢明な判断だ」
 つまらなそうに呟くと、だが、全力でもって襲い掛かってきた。
 
 元よりエンハウンスは自身の力が死徒二十七祖としては弱い部類である事を知っている。だから全力で襲い掛かるし、不屈の精神力でもって強者の隙を狙い、隙を作り、腕が砕けようが腐ろうが相手を滅ぼすまで止まらない。
 だが。
 今回彼が想定していなかったのは、相手が完全な死徒でありながら、未だ死徒となって十年すら経ていない見た目通りの死徒であるという事実だった。故にその精神は未だ磨耗には程遠く、ようやく手に入れた『自分の居場所』を今手放したくはなかったし、死にたくもなかった。そして、シンジがまだまだ短いその死徒としての生に措いて、周囲にいたのは、そして自身を鍛え上げてきたのはいずれも絶大なる力を誇る死徒達だった。
 そう。
 エンハウンスは。
 その死徒としての生に措いて初めて、自身に負けない心の強さでもって上位の死徒に立ち向かってくる死徒という相手に遭遇したのだった。
 
 戦闘そのものは終始エンハウンスが圧倒していた。
 当然といえば当然の話だ。
 如何に訓練を受けてきたとはいえ、如何に異世界で命がけの修行をしてきたとはいえ、シンジとエンハウンスとでは死線を潜り抜けてきた戦闘経験に差がありすぎる。
 更に言うならば、武器の差も大きかった。
 シンジの保有する短剣はそれなりに強い魔術強化が施されてはいたが、所詮は普通の短剣だ。
 一方、エンハウンスが持つのは魔剣と聖典。攻撃力の差は明らかだった。
 「……よく粘る」
 むしろ、エンハウンスはそれでありながら、未だ生き延びているシンジの渋とさに感心していた。地面を這い、必死に回避し、その姿は既に泥だらけ傷だらけだが、エンハウンスはそれをみっともないとは思わない。当然といえば当然だ。それは自分の姿の映し身だからだ。だからこそ危険と判断した。
 最も恐ろしい相手とは何か。無論、立ち向かう事すら考える事の出来ない絶対的強者というものは存在する。自分が死徒二十七祖の頂点に立つプライミッツ・マーダーと対峙すれば、それこそ瞬時に抹殺されるだろう、いや、そもそもプライミッツは人という種の天敵ではあるのだが。
 だが、そうした点を除けばエンハウンスが最も怖れるのは諦めない者だ。
 例え、泥をすすり、下水を這いまわろうとも、最後の最後まで諦めず、相手の喉元に牙を突き立てる機会を滅びるその最期の瞬間まで諦めない者……それこそが最も恐ろしい。
 早々に仕留める。
 そう決意すると、エンハウンスはシンジへと仕掛ける。連撃を叩き込み、懸命に弾くシンジの意識が魔剣アヴェンジャーに向いたその瞬間。
 「これで終わりだ」
 聖葬砲典が火を吹き、シンジに肉体は粉々に散った。

 ……粉々?
 残心、というか本当に止めを刺したと確信出来るまで油断しない、特に死徒の場合、人間なら死んだような怪我でも襲ってくる事があるからだが……粉々になるというのに疑念を抱いた。確かに聖典である聖葬砲典は死徒に対して大きな破壊力を持つ武器だが、上位の死徒はそれでも滅びず向かってくるし、そもそも粉々になるというのは……。
 そこまで考えた時、気付いた。
 羽音。
 一つ一つは小さい。だが、それが群為すとなればまた話は別だ。
 はっとして視線を周囲に向けたエンハウンスに『それ』は襲い掛かった。

 固有結界、そう呼ばれる術式をご存知だろうか。
 それは各々の持つ固有の心象風景を現実に展開するものだが、それだけに千差万別である。
 或いは死徒二十七祖第一位プライミッツ・マーダーの『絶対王権』
 或いは死徒二十七祖第五位ORTの『水晶渓谷』
 或いは死徒二十七祖第八位フィナ・ヴラド・スヴェルテンの『パレード』
 或いは嘗ての第十位ネロ・カオスの『獣王の巣』
 或いは嘗ての第十三位ワラキアの夜の『タタリ』
 或いは第十六位黒翼公グランスルグ・ブラックモアの『ネバーモア』
 或いは赤き錬鉄の英霊の『無限の剣製』、英霊イスカンダルの『王の軍勢』や弓塚さつきの『枯渇庭園』……。
 魔法に最も近しい術式と呼ばれ、協会に措いては禁呪とされる術式。
 しかし、異世界を展開するが故に世界の修正力の影響を受け、死徒の膨大な魔力ですら数時間程度しか維持が不可能とされるこの術式に例外がある。
 「持って生まれた肉体と外界との遮断」は概念的に最も無理がないことを利用し、結界の範囲を自らの体内に限定するという手法をとることで、長時間の展開も可能だという事だ。それこそがほぼ常時展開を可能としていたネロ・カオスの『獣王の巣』。
 そして、今。
 新たな内に展開される固有結界がその牙を向いた。

 小さい。一つ一つは小さい。
 だが、数が多い。
 無数の蟲、それらによって構成された群。単なる羽虫ならばうっとうしくはあっても命に関わる事はない。だが、もし貴方がオオスズメバチの群に襲われたら笑っていられるだろうか?果たして、鋼すら食い千切る顎を持った無数の蟲に襲われた時、貴方はそれを「なんだ、蟲か」と言っていられるだろうか? 
 嘗て、この固有結界を初めて目にした時、アルトルージュは他ならぬ聖書からの言葉を引き合いに出した。
 『新約聖書』マルコによる福音書の5章9節にはこのような言葉がある。
 「そこでイエスが『名は何というのか』とお尋ねになると、『我が名はレギオン、大勢であるが故に』と応えた。」
 故に命名された碇シンジの固有結界、その名は『軍団/レギオン』。
 
 「があああああああああああああっ!?」
 エンハウンスが吼えた。
 武器を振るうが、このような無数の蟲相手に剣も銃もその効果は薄い。こうした相手には火炎放射器のような広範囲への攻撃を可能とする武器が適しているのだが、そんなものはない。魔術が使えれば使おうとしたかもしれないが、下手に口を開けば、そこから潜り込んでこようとする。
 距離を取ろうとするが、そうはさせじとばかりに蠢く蟲が退路を絶つ。元より移動の魔術と手段に長けたシンジ相手からエンハウンスが逃れる術はない。
 それでも懸命に手を振るエンハウンスの右手に灼熱が走る。
 ごとり、と何時の間に集ったのか。蟲が右手首から先を象り、先に叩き落した筈の短剣を持って、エンハウンスの右手を切り落としたのだ。当然、アヴェンジャーも共に落ちるが、拾っている余裕はない。元より魔剣たるアヴェンジャーは現在の持ち主たるエンハウンスが意識を向ければ瞬時に手元に戻るが、今はその余裕がない。一瞬手が止まった隙に目玉すら食い千切ろうとたかってくる。
 必死に先程とは逆に、今度は彼が生き延びる為に足掻いていた時、ふっと一瞬蟲の猛攻が緩み。
 固く閉じていた瞼を開いたエンハウンスの目に飛び込んできたのは。
 再構成された碇シンジの上半身と。
 その手に握られた魔剣アヴェンジャー。
 死徒の為に作られた魔剣たるそれは今ようやっと完全な死徒であるシンジの手に握られ。
 そして次の瞬間、前の主の肉体を切り裂いた。

 「……見事だ」
 倒れ伏したエンハウンスは静かに目の前の少年を讃えた。
 あれからすぐにシンジは再び自身の肉体を再構成した。成長期にある彼はまだまだ魔力も発展途上で、しかも固有結界の展開に慣れていない。おそらくあと数年もあれば完全に使いこなしているのだろうが、今はまだ短時間しか展開できないのだろう。
 だからこそギリギリまで粘った。
 自身に止めを刺しに来させ、その一弾を放たせ……しとめたかどうかを確認する為に一瞬動きの止まったその瞬間に襲い掛かった。
 最後の最後まで諦めず足掻き続けた故に勝利をもぎ取った。
 エンハウンスにこれで終わるのか、と思う事に悔しい思いがないではない。
 だが、それでも。
 「ああ……俺が負けたのがお前で良かった」
 圧倒的な力で蹂躙されたのではない。
 絶対的強者によって嬲られたのでもない。
 自分と同じ足掻き続ける者によって破れた。ならば、足掻き続けてきた自分が最期に油断故により足掻いた者に負けた。ならば許せる。
 「そいつは……お前にやろう」
 そう呟き。
 復讐騎と呼ばれた死徒エンハウンスは塵へと帰った。


 シンジは一つの墓を作った。
 散る前にかき集めた塵と聖葬砲典とを森の奥に埋め、一本の木を植えた。木の枝を立てても良かったが、それでは何時しか朽ちて消えてしまう、根付くかは分からないが、そうした方が良い気がしたのだ。
 やろう、と言われた魔剣アヴェンジャーは既に自身の肉体と同一化している。この魔剣は本来こうした収納が正しい方法だったのだろうが、振るうだけで腕が砕けていくエンハウンスにはそれは出来なかったのだ。もし、それが出来ていれば、あの時切り落とされた所で新たに生やした腕には再びアヴェンジャーがあっただろう。
 一度自身が作ったお墓に一礼してから。
 シンジは城への帰路に着いた。
 これより先、碇シンジは死徒二十七祖第十八位『灰/アッシュ』と呼称される事になる。


 そして、この時より更に数年。
 碇シンジの肉体が十四の時を迎えた時、アルトルージュの城に一通の手紙が転送で届いた。
 そして、この時より。
 死徒と使徒の戦争が始まる。



To be continued...
(2009.04.04 初版)


(あとがき)

当初はこの話を二分割する予定でした。
トラフィムの話で1話。
エンハウンスの話で2話。
けど、月姫の話ではなく、EVAが本編です。なので、ここらで区切って、EVAの話に進もうと考え、1話に纏めました。
その分、前よりは少し長めになっております。

次回は第三使徒サキエル編、いよいよEVA本編へと繋がります 



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