「はいこれ。読んどいて」 
 ミサトがそう渡した冊子を受け取る。カイムはすぐに開き、一文字も読みこぼさんばかりに目を動かし始めた。
 どういう訳か、文字を理解できるらしい。
 与えられた情報を消化すると同時に、その事実に感謝した。文字が読めるということは少なくとも本を使った情報収集ができるということだ。それにいざとなれば、意思交換の際にも筆談という形をとることができる。
(…何考えてんのかしら…?)
 一心不乱に資料を読みあさるカイムを見て、ミサトはわずかに目を細める。
「っと、そろそろね…シンジ君、渡しといて何だけど…ちょっち前向いて」
(?)
 ミサトがそう促し、カイムが顔を上げると同時にフロントガラス越しの視界が開ける。
「……!」
 カイムは思わず目を見張った。かつて警護した女神の城などいくつ入るだろうかと思われるほどの、あまりにも巨大な地下空洞が眼下に広がっていたのだ。
「ここがジオフロント。人類の砦となる所よ」
 息を呑むばかりのカイムに、ミサトは我が事のように誇らしげに言った。ちっとも子供らしくない少年のこの反応は、彼女をして満足させるに値するものだったらしい。
 だがその言葉がカイムの耳に届くことはなかった。感性を揺さぶられるような光景に、彼にしては珍しく完全に意識が浮ついてしまっていたのである…これが、本当に人が作ったものなのか、と。
 そうこうしているうちにミサトの車は、カートレインのリニアレールを外周伝いにぐんぐん下っていく。そうして基底部に降り立つと、車はとあるピラミッド状の建物に向かって動き始める。
 その建物は、人がネルフ本部と呼ぶものであった。



Endless Voyage of an Avenger

第一章 『来襲』
第二節 『戦場へ』

presented by 木霊様




「…これより本作戦の指揮権は君に移った。……お手並みを見せてもらおう」
「碇君。我々の所有兵器では、目標に対し有効な手段が無いことを認めよう」
「だが、君なら勝てるのかね?」
「…そのためのネルフです」

「……とはいえ、戦自もお手上げだ。どうするつもりだ?」
 戦略自衛隊の指揮官たちがさも悔しそうに去っていった後、ネルフ副司令の冬月は司令・碇ゲンドウにそう問うた。
 正直に言って、この状況を打破する策があるとは思えない。
 戦自最強の兵器N2爆弾をもってさえ、足止めをくらわすことがやっとの相手だ。それに対しこちらの所持する兵器は二機のみであり、しかもそのうち一つは実験中の事故により凍結中。
 さらに残った一機を動かしうる唯一のパイロットがその事故で重傷を負い、戦線から離脱…という、限りなく不利なのが現状であった。
「初号機を起動させる」
「パイロットがいないぞ。レイを使う気か? 戦う前に倒れる確率の方が高いと思うがね」
 冬月は釘を刺した。一人の女性を除き、他人を道具としてしか見ないような男である。重傷を負って明らかに戦闘が不可能なパイロットであっても、強制的に出撃させるだけのことはやりかねない。
 そしてそのパイロット・綾波レイもまた、彼の男の命令ならば何の疑問も持たずに従うであろう。
 別にパイロットの生命を案じているのではない。それで勝てるのならば冬月とて全く問題ないのだ。しかしどう見ても勝てない策には賛同しがたい、ただそれだけのことだった。
「問題ない。間もなく予備が届く」
 それがこれから来る彼の息子であることは、想像に難くなかった。
(この男は…)
 冬月は改めてこの男の冷酷さを実感した。自らの血を分けた子でさえも、何の迷いもなく道具扱いしたのだ、この男は。
『目標に変化は見られません』
『迎撃システム、稼働率低下…10%を割りました』
「引き続き警戒を続けろ。いつ動きだすとも分からん」
 さりとて冬月にも、ゲンドウを非難する資格はない。その野望を自らのそれと同じくして協力し、力を貸しているのは己の意志に因るのだ。
 溜息を一つついて、冬月は再びモニターに目をやった。使徒はただ静かに、焦土の荒野に佇んでいる。



「それにしても…とうとう来た、か。もうちょっち待ってくれるかと思ったんだけど」
 ネルフ本部に到着したカイムたちは、複雑に入り組んだ通路を歩き続けていたていた。
 もう既にニ十分は経っただろう。彼女の目的地には直通のエレベーターがあるのだが、このミサトがネルフ本部に配属されて間もなかったために随分と時間がかかってしまっていた。
 散々迷いに迷った揚句、そのエレベーターから出てきた女性・赤木リツコに救助され、今に至るというわけだ。大人の面子丸潰れである。
「あなたがそんなにのんびりなのが悪いのよ。どうせまたカンで来たんでしょ。案内板くらい見なさいよね」
「あはは…ゴミンゴミン」
「全く」
 …ミサトにはそんなもの、有りはしないのかもしれないが。
「で、初号機はどうなの?」
「B型装備のまま現在冷却中」
「…ホントに動くの? まだ一度も動いた事無いんでしょう?」
「起動確率は0.000000001%…09システムとはよく言ったものだわ」
「それって動かないって事?」
「あら失礼ね。0ではなくってよ」
「数字の上ではね。ま、どのみち動きませんでした、じゃぁもう済まされないわ」
 かつかつという靴の音と同時に、二人の女性の話が暗い通路に響く。
 そのままミサトたちに同行したリツコはカイムに簡単な自己紹介を済ませると、この同僚と二人話の華を咲かせ続けていた。内容は穏やかなものではないがミサトの楽観的な口ぶりを聞くと、それがどんなに困難でも多少楽になる所もあるのだ。
「……」
 そして蚊帳の外に出されたカイムはというと、これでもかと言わんばかりの苛立ちと怒りを込めた視線を撒き散らしていた。
 ミサトはどうなのか知らないが、彼女の先導によって全く同じ所をぐるぐると歩かされていたことに気付いていた。それでいて延々二十分、口に出すことができなかったのだ。
 せっかくの情報収拾の機会だからこそ抑えてはいるが、それでもカイムの苛立ちはもはや最高潮に達しようとしていた。
「…と、ところでミサト、ちょっと」
「ん?」
 呼び止め、耳を近付けるよう求めるリツコの背をたらりと何かを伝っているのは、気のせいではないだろう。
(…何であんなに怖いのよ! あなた何かしたんじゃないの!?)
(え…だ、だってあの子、会った時からあんな感じだったわよ?)
 耳を寄せたミサトに、リツコは漏れないように細心の周囲を払って口を開く。それに対しミサトも同様に細々と答え始めた。
 幾多の修羅場を越えてきた武人の殺気が、背後からとはいえ直接に向けられているのだ。怖いもの知らずと言っていいほど強気な性格をしているリツコでも、はっきり言って物凄く怖かった。
(それに、腰のアレって…どう見ても剣、よね?)
(…ま、まぁ、ね。たぶん…)
(…どういうこと?)
(あはは…それ、私が聞きたいわよ。こっちが聞いても、なーんにも話してくれないんだから)
 横目にカイムをちらちら見ながら問うリツコに、ミサトは曖昧な笑みを浮かべて答えた。
 彼女とて何も知らないのだ。カイムは車に乗っている間も、ネルフ本部に着いてからも全く言葉を発しようとはしなかった。カイムからすればそれはドラゴンとの契約の代償であり仕方がないのだが、ミサトたちがそれを知る筈がない。
 とにかくこの無口な少年が何故その腰に長剣を携えているのか、というのは全くの謎であった。
(…おかしいわね。報告書には、無口だなんて書いてなかったのに…)
 リツコがぼそりと独り言を呟く。
 碇シンジという少年の行動と成長は、碇ゲンドウらの目論むとある計画のためネルフ諜報部によって全て記録されている。
 そしてその報告によると、確かに『内向的』とはあったがここまで徹底して無言を貫くというわけではなかった。目上の人から何かを問われればきちんと答えを返す、そんな『従順』な子供であるはずだった。
 リツコは思案に耽る。諜報部の調査にミスがあったのだろうか、それとも彼が預けられていた第二新東京市からここまでの道のりで、彼の精神に影響する何かが起こったのだろうか。そのどちらも現実的ではなく、解答の出ない問題にリツコは内心頭を抱えた。
 だがそんなリツコは次のミサトの一言で、一気に現実へと覚醒することになる。
(報告書? 何それ?)
 瞬間、ピシリと周囲が凍った。
 絶対零度の空気の根源は、もちろんミサトの隣にいるリツコ嬢、その人である。
(……し、しまったぁ…)
 後の祭りと知りつつ、ミサトは後悔した。
 不用意な発言であった。レポートと書類にまみれて生活する生粋の科学者リツコと対照的に、彼女は生来デスクワークというものが大嫌いである。日々舞い込む数多くの書類の処理方法は抱え込む優秀な部下に任せるのが常であった。
 だがそんなミサトの仕事方法はオペレーターたちの負担になり、他の仕事の効率を低下させることになってもいた。そしてその影響はネルフ技術部を統括するリツコの仕事量にも及んでいる。いやそれ以上にミサトが書類に目を通さないおかげで、それを説明するという二度手間をかけさせられたことが何度あったことか。
(貴女…また資料読んでなかったのね…?)
(ご、ゴミン、ちょっち忙しくて…)
(ビール片手にテレビ見るのが忙しいなら、世のサラリーマンはきっと過労で全員死んでるわね)
(うぐっ)
 無駄とわかりつつも何とか言い逃れようとするミサトに対し痛烈な皮肉が突き刺さった。その語彙と知識と論理的思考をフルに活用したその恐ろしさは、ミサトも知るところである。
 そして、悟った…もはや、逃げ道はない。
(…この一件は後で指令に報告させてもらいます)
(り、リツコぉ〜〜)
 死刑宣告を言い渡すリツコの前で、ミサトはその肩に手をかけて泣き縋った。
 待っているのは、減俸か降格か。さすがに後者は無いかと思われるが、ミサトの職務怠慢はほぼ常習犯だ。少なくとも車のローンと修理費もあいまって、明日からのアルコール分摂取量が相当減少することは間違いないだろう。
 そして小声で会話する女性陣を前に、カイムはというと。
(…愚か者め)
 筒抜けだった。



「使徒、活動を再開…移動を開始しました!」
 オペレーターからの報告が発令所に響き渡った。
 使徒が驚くべき速度でN2爆弾で負った傷の自己修復を終え、再びこの場所へ向かって動き出したのである。
「総員、第一種戦闘配置」
 ゲンドウの指令を境に、とたんに発令所は慌ただしくなる。ネルフ誕生以来初めての実戦だ、無理もない。
「冬月、後を頼む」
 各部の責任者からの指示が飛び交う中、ゲンドウは静かに席を立った。冬月はそれを静かな目で見つめている。
「…三年ぶりの対面か」
 本来感動を伴うべきである親子の再会が、よもや戦場で、そしてあの化け物と戦わせるために果たされるとは…そんな思いを抱く資格など無いと知りつつも、冬月は言葉にそれをにじませずにはいられない。
 ゲンドウは答えず、そのまま踵を返す。冬月の考えの通り彼にとって息子とは、己の目的を果たすための道具でしかないのだ。
 だが、彼らはまだ知らない。
 これから出会うのが内向的で従順な少年ではなく、復讐を糧に戦場を戦い抜いた戦士であるのだ。



「着いたわ。ここよ」
 曲がりくねった通路の果て、リツコが立ち止ったのは薄暗い空間だった。
 カイムは腰の剣の柄に片手をあてがった。闇の向こうに異形の気配をひしひしと感じたのだ。
(…何だ? あの巨人に似ているが…)
 使徒と呼ばれた化け物と似通った気配であったが、いかにカイムの視覚が鋭いといえど視界ゼロの今は判別がつかない。いつでも抜剣できるように身構える。
 妙な気配はもう一つ地下からも感じることができるが、そちらはさほど強くはない。
 そうこうしているうちに、リツコの合図とともに一斉に明かりが灯る。
「!」
 毒々しいまでの紫色の肌に、オーガのそれにも似た長大な角…現れたのは、巨大な顔であった。
 血のように赤い池の上に顔を出したそれが、立ち尽くすカイムを微動だにせず見つめている。悪魔のようなその顔の向こうに、カイムは異変を感じ取った。
 危険だ。
「…っ」
 次の瞬間にはもう駆け出していた。
「…え?」
「なっ…」
 脇をすり抜けた影に、二人が思わず声を漏らす。それが自分の連れてきた少年であると気づいたのは、一瞬後のことであった。
 考えるよりも体が反応していた。幾度の死線を越えたカイムの本能が、盛大に警鐘を鳴らしたのだ。それをいうのならあの使徒もそうなのかもしれないが、しかしあれに殺戮そのものを目的とする意志は感じられない。それよりこの紫の巨人を改めて探知したカイムは、その気配に異常を感じ取った。
 魂がひとつでない。
 殺した敵の魂を取り込み、魔力として使ってきたカイムにはわかる。どういうわけか『あの中』には、魂の波動が複数種感じられた。無論そんなものが、正しく自然から生まれたはずはない。カイムはそれが使徒よりも己の生を妨げうると判断した。
 可能性として低いのかもしれないが、それでもあの使徒よりは高い。そして、芽は摘んでおかねばなるまい。ミサトたちの声を尻目に愛用の長剣を抜き放ち、走りながら脇構えに握りしめる。刹那のうちに足場の先端に到達したカイムは魔力を高め、両手で剣を振りかざす。
 カイムの足場と巨人との間には赤い池があり、一見全く剣の届く距離ではない…だが、カイムが放とうとしているのは単なる斬撃ではなかった。剣の振りに合わせて爆炎の魔法を解放し、剣速を加えた超高速の火炎弾を放とうとしていた。
「ま、待って、それは味方よ! 敵じゃないわ!!」
 だがそれが実際に巨人を破壊することはなかった。リツコの叫びが運良く届いたのだ。
(…何?)
 それはまったく偶然に、カイムの敵性判断の基準に適っていた。すなわち復讐の対象であるか否か、もしくは己の命を奪いうる敵であるかどうか、である。もしそれが単に停止を求めるものであったなら、カイムは何の躊躇もなく魔法を直撃させていただろう。
 いかにこの巨人が分厚い装甲に覆われていても、それは物理的におこりうる現象に対してのものである。天使たちとの戦いで蓄積した魔力をこれでもかと詰め込んだ火炎が、どれほどの損傷を与えるかはわかるはずもない。
「そ…それは兵器よ。人の造り出した、究極の汎用人型決戦兵器。人造人間エヴァンゲリオン初号機…我々人類の、最後の切り札よ」
 自身の行動に疑念と驚愕を抱きながら、リツコは言った。
 剣先すら届く距離ではなかったはずだ。なのに剣の軌跡を見て焦り、必死になって叫んだのは何故だろう。ロジックのみで思考をするリツコには、それに矛盾する己の行動が理解できなかった。
(兵器…だと、これが?!)
 リツコの思考を他所に、カイムは目を見開いて巨人を睨めつける。
 過去帝国は一つ目の巨人サイクロプスを繁殖させ拘束し、兵器として用いたことがある。青き丘陵でのその戦いには随分と苦戦を強いられた。巨人族とはそれほどに強力な力を持つのだ…完全に御そうなど、不可能な話である。
 何を考えているのだろう。あれを人間が支配できると思っているのか? それが愚かしい幻想だと、何故気付かないのか…
『久しぶりだな。シンジ』
 頭上から声が響いた。
 ケイジのはるか上、巨人の角の先を見やると、鬚をたくわえた黒眼鏡の男が立っているのが目に入った。
 ネルフ総司令碇ゲンドウが、管制室に到着したのである。
(…悪人面だな。この男がこいつの…イカリシンジとやらの親か? …だとするとこの餓鬼、随分母親の血が濃いようだな)
 その発言から彼が体の持ち主の肉親であると想像はつくが、それにしても余りに似ていない。カイムが親子関係を疑うのも無理はなかった。
「し、司令!」
 カイムの突然の暴挙に硬直していたミサトが、その声に反応してようやく覚醒した。
 だがその声には答えず、ゲンドウは淡々と指令だけを発する。
『ふ…出撃』
「しゅ…出撃!? 零号機は凍結中じゃ…まさか、初号機を使うつもりなの!?」
「他に方法はないわ」
 剣を納めたカイムを放り出して、再び二人の会話が始まった。だが先ほどまでの和やかな雰囲気はない。
「ちょっと! レイはまだ無理でしょ? パイロットがいないわ」
「さっき届いたわ」
「! ……マジなの?」
(…いい加減、叩き斬ってやろうか)
 再び苛立ちが募り始め、恐ろしいことを考えるカイム。だが彼を尻目に、会話はどんどんと続いていく。こうなったらなかなか止まらないのはカイムも学習していた。同時にうんざりもしていた。
 するとリツコが、沈黙を保つカイムの方を振り向き、そして言った。
「碇シンジ君。あなたが乗るのよ」
(…乗る?)
 カイムは逡巡した。
 乗るとは何だ、まさかあの巨人に乗るのか。
 しかし、どうやって乗るのだ。あれがサイクロプスと背丈が同じだとしても、肩に立つくらい誰でも出来るだろうに。
「でも、綾波レイでさえエヴァとシンクロするのに七ヶ月もかかったんでしょ? 今来たばかりのこの子にはとてもムリよ!」
「座っていればいいわ。それ以上は望みません」
「しかしっ!」
「今は使徒撃退が最優先事項です。その為には誰であれ、EVAとわずかでもシンクロ可能と思われる人間を乗せるしか方法は無いわ。わかっているはずよ、葛城一尉」
 思考を巡らせるカイムを他所に、女性二人は勝手に話を進めていく。
 やがて、ミサトが観念したようにうなだれる。そしてその数秒後には、覚悟を決めた強い光が瞳に宿り始めていた。
「…そうね…………乗りなさい、シンジくん」
(…何を言っている。だから一体、この巨人をどうしろというのだ…?)
 言葉が使えないのが、これほどもどかしいと思ったことはない。話が全く通じていなかった。
「エヴァに乗って、使徒と戦うのよ。あれの目的は人類の破滅…生き残るには、あなたが戦うしかないわ」
(何…?)
 殺戮意志がないことから敵性無しと判断していたカイムだが、この発言には目の色を変えた。
 このリツコという女が嘘をついているとは思えない。恐らく使徒の行動は、直接でないにしろ本当に人を滅ぼすのだろう。となっては黙ってはおれまい。己の生を脅かす者は、例外に漏れず彼の敵なのだ。
 だがいかんせん、するべきことがまだ飲み込めていなかった。魔法を知らないこの者たちが、よもや契約のことを口にしているとも思えない。次の行動を取りかねていた。
「シンジ君、何のためにここに来たの? 逃げちゃだめよ、お父さんから。何よりも…自分から!」
 焦れたミサトの発言が癇に障り、カイムはひそかに眉を顰めた。
(言うに事欠いて、俺に向かって『逃げる』とは…この女)
 カイムが戦うのは復讐のためだったが、もともと彼は連合国の一人の戦士であるのだ。その戦士に向かって『逃げる』とは侮辱も同然である。
 殺気を存分にこめて睨み返そうとしたが、それより先に爆発音がケイジに響いた。
「奴め、ここに気づいたか」
 天井を見上げた言動が苦々しげに呟く。本部への侵攻はこうしている間にも、着々と進行中であった。
「シンジ君、時間がないわ」
「乗りなさい」
 リツコとミサトが矢継ぎ早に言い放つ。
「急いで、人類が滅ぶ前に!」
「ちょっと、少しは何か言いなさいよ!」
 ――とうとう、堪忍袋の緒が切れはじめた。
「ひっ」
「う…」
 長剣の鞘の一端をリツコに、逆側をミサトの首筋にあてがい、カイムは烈火の如き憤怒の表情を浮かべた。
(…いい加減にしろ、貴様ら)
 もし心の中のそれが声に出せたとしたら、灼熱よりも熱く、しかし絶対零度に冷え込んでいたことだろう。
 黙って聞いていればこちらを無視して、随分と勝手な口をきいてくれたものだ。元来カイムは高圧的な相手の話を黙って聞くほど大人しい性格をしていない。突きつけた鞘は『これ以上は無い』という、カイムの最後通告であった。
 ぴくりとでも動けば躊躇なく斬り伏せるつもりだったが、彼女たちが怯えて微動だにしなかったのが幸いした。この怒りを収めるには時の経過を待つしかないのだと、もしかしたら本能的に悟っていたのかもしれない。
 その間彼女たちは、連合軍最強の契約者の殺気を、ある程度抑えたとはいえまともに浴び続けることになった。剣が下げられるとその背に大量の冷や汗が吹出する。
『…冬月、レイを起こしてくれ』
 息子の持つ剣、そして何よりその態度に小さくない戸惑いを抱きつつ、あくまでゲンドウは冷静を装う。
 内心とはいえ、狼狽するのも無理はない。報告によれば碇シンジは内気でやや自虐的な、己の計画にとって理想的な子供であるはずだったのだから…しかし、そんなことを口に出すわけにもいかない。ゲンドウはあらかじめ決めていたシナリオを押し通すことにした。
「……使えるかね?」
『死んでいる訳ではない』
「………わかった」
 ゲンドウのそんな内心は冬月にも伝わったのだろうか、返答にはたっぷりと間があった。

 カラカラという音に何事かとカイムが目を向けると、白衣を着た男女がベッドらしきものを運んでくるのが見えた。
 鬚の男がそちらに向かって言う。
「…レイ、予備が使えなくなった。もう一度だ」
 カイムがその言葉の―『予備』の示す意味を解しなかったのは、ゲンドウにとって全くの幸運としか言いようがなかった。
 ゲンドウが自分を道具として見ていない、それがわかる決定的な発言である。カイムが真意を知れれば間違いなく、全身膾切りの目に合っていたこと請け合いである。
「……はい」
 起き上がろうとする上半身を見て、カイムはそこに少女が寝ていたのだと初めて気がついた。
 蒼い髪の少女が、歯を食いしばって懸命に立ち上がろうとしている。抜けるように白い肩から腕、そして頭にまで巻かれた包帯が痛々しい。
(…嫌な目だ)
 時々覗くその赤い瞳を見て、カイムは露骨に顔をしかめる。
 帝国軍の兵士、イウヴァルト、そして司教マナ。彼らもまた赤い瞳の持ち主であったことが思い出される。あれらと同じ瞳、それだけでカイムは嫌悪を感じていた。
 そして感じ取ったものは、それだけではない。
(ヒトではないな…)
 人間の気配は確かにする。だが、使徒とやらと似た気配も、僅かながら感じることができる。
 人の手で作られたのか、はたまた天の悪戯なのか。そのどちらともわからないがカイムは、この娘が少なくとも人間でないことだけはとりあえず確信した。
(おまけに、感情の揺れも無い…この娘)
 呻く少女に向けて、カイムは氷のように凍てついた視線を投げやった。
 体を起こすのにも苦痛を感じるほどの重傷を負っている上、さらにベッドから自力で降り、そしてあの紫の巨人のもとへ向かえというのだ。
 あれが兵器である以上、その後にあの使徒との戦闘が待っているのは明白である。そして彼女の身体は、恐らく耐えられるような状態ではなかろう…どう考えても己の命を危険にさらす行為である。
 だのに、この少女は恐怖を感じているようには見受けられないのだ。
 かといって、死の恐怖を超える気迫があるわけでもない。そういった感情そのものが非常に希薄なのだ。頭にあるのはただ一つ、この悪人面の男の命令をいかにして完遂するかということだけであるようだった。
(……木偶人形め)
 己から多くを奪った帝国軍の兵士たちは一人の少女に操られ、そしてその糸を繰っていた元凶マナもまた神の操り人形だった。だからであろう。意志を持たず思考を止め、ただ主人の言いつけを守り続ける…そんな人形とも言うべき人間をカイムは嫌った。この少女も例外ではない。憎悪のそれとまではならなくとも、侮蔑と嫌悪の対象ではあった。
 レイがそんな視線に気づかぬまま半身をようやく起こした頃、使徒の攻撃がネルフ本部の真上を襲った。発令所全体が大きく揺れ、振動で天井の仮設ライトが外れて落下する。
「あっ…危ない!」
 ミサトの叫びも間に合わず、天井から照明の残骸がカイムに迫る――が、それが届くことはなかった。
 防御したのではない。カイムは文字通りその場から動いていないし、指一本動かしてさえいない。
 では、何が起こったか。
「まさか!? ありえないわ! エントリープラグも挿入してないのよ!!」
 初号機が動いたのだ。何の指示も、パイロットの搭乗すら無いままに。
 リツコは驚愕した。その言葉のとおりこの巨人は、パイロット抜きで動くことは不可能のはずである。だが事実、初号機の腕はカイムの直上にかざされ、そしてその身を守護して見せたのだ。
「インターフェイスもなしに反応している…というより、守ったの? 彼を…」
 同じ驚きに目を見開いたミサトが、揺れる手すりにしがみ付きながらぽつりと漏らす。いくら書類を読まない彼女であっても、自分の指揮する兵器の情報にはさすがに目は通している。だからこの事態がどれだけ異常なことかも理解できた。 
(この巨人…面白い)
 カイムはというと、振動によりベッドから落下した少女を一瞥だにすることなく、ただ目の前の巨人を見据えていた。
 どうして自分を守ったのか。
 何故、魂の波動が複数あるのか。
 興味が泉のようにこんこんと湧いてくるのを感じた。こんな感覚も久しぶりだ。このように好奇心を最後に刺激されたのは、自分が故郷・カールレオンの王子だったころ…まだ平和で、剣の訓練よりも好きな勉学に勤しんでいた、あの時だっただろうか。
「え…?」
 カイムはケイジの通路を横切り、赤い池と初号機を結ぶ橋の上を歩き始めた。
 唖然とする大人たちを尻目に跳躍、その肩の上に着地する。
 早くしろと言わんばかりに、剣を鞘ごと振りかざした。
「あ…! ぱ、パイロット登場準備! 急いで!」



『冷却終了』
『右腕の再固定終了』
『ゲージ内全てドッキング位置』
(…何をしているのだ、俺は…)
 着々と進んでいるらしい準備の声を聞き流しながら、カイムはそう溜息をついた。
 戦場を駆け、殺すことで生き延びてきた自分が、その殺すべき相手とともに違う世界に渡り、そこで好奇心から巨大な兵器に乗り込むなどと…これほど奇妙な人生を歩んだ人間が、果たしてこの世にいるだろうか。
『停止信号プラグ排出終了』
『エントリープラグ挿入』
『プラグ固定終了』
『第一次接続開始』
 人間で言う脊髄の位置に、エントリープラグが挿入される。
(これが…巨人の腹の中か)
 食われているわけでもないのだが、そう考えると何となく嫌な感覚だ。
『エントリープラグ注水』
「!?」
 突然足もとから赤い水がせり上がり、カイムは珍しく狼狽を顔に出した。
「心配しないで! それはLCL。それで肺が満たされれば直接酸素を取り込んでくれます」
 初号機と対面した時のように、また剣を持って暴れられたらかなわない。そう判断したリツコが早目に説明すると、モニター内のカイムはしぶしぶ席に着いた。
『主電源接続』
『全回路動力伝達』
『第二次コンタクトに入ります』
「喋らないわね…彼」
 オペレーターの報告が舞い込む中、リツコは浮かない表情をしたまま、隣に立った親友に話しかける。
「うん…」
 少年がLCLの味に顔を顰めるのを見ながら、ミサトも答えた。
 その声はリツコ同様に、どんよりと暗い。
「…嫌われちゃったわね、私たち」
「……かもね」
 考えてみれば、彼女たちは未だに少年の一声すら聞いていなかった。原因は契約の代償であり全く違うのだが、二人はそれを自分たちへの不信のあらわれと受け取っていた。
 何の前触れも無しに呼び出した揚句、子供であるにもかかわらず戦場へ送り出す…己の行為の理不尽さが、そのうえ今更ながらに二人の良心を締め付けた。剣を突き付けられても無理はない、それだけのことをしているのだと思った。
『A10神経接続異常なし』
『思考形態は日本語を基礎原則としてフィックス』
『初期コンタクト問題なし』
『双方向回線開きます』
 そんな二人の思いなど関係なく、戦いの準備は進んで行く。
 巨大なモニターは目まぐるしく切り替わり、次々と巨人のデータをデータを映していく。その一コマを見たリツコの片腕伊吹マヤが、驚嘆の声を上げた。
「シンクロ率、41.3%!」
「……すごいわね」
 マヤ報告に、リツコは素直に感嘆の声を上げる。たいした整備もしていないというのに、この数値ははっきり言って優秀過ぎるほどの出来だった。
『ハーモニクス、全て正常位置。暴走ありません』
『発進準備!』
『第一ロックボルト外せ』
『解除確認』
『アンビリカルブリッジ移動開始!』
『第二ロックボルト、外せ』
『第一拘束具を除去』
『同じく第二拘束具を除去』
『一番から十五番までの安全装置を解除』
『内部電源充電完了』
『内部用コンセント異常なし』
『エヴァ初号機、射出口へ』
『進路クリア! オールグリーン!』
『発進準備完了!』
 とうとう全ての準備が終わる。落ち着いた様相の少年を済まなそうにちらりと見、ミサトは背後を振る。
「…かまいませんね?」
「無論だ。使徒を倒さぬ限り、我々に未来はない」
 子供を、しかも己の息子を戦場へ出すことへの確認。ミサトの視線の先にいたゲンドウは、迷わずそれを承認した。
「発進!」
 巨人の体が射出口から撃ち出されると同時に、強烈なGが襲う。
 だがカイムは、かつてドラゴンの背に乗ったことでもう慣れていた。それはさほど苦痛を伴わず、巨人はすぐに停止する。
(…馬鹿め、真正面に出す奴があるか!)
 開けた夜景を背景に、仮面のような使徒の顔が出現する。カイムは声に出さず叱責した。
 だがいくら思っても、状況は変わらない。
 直ぐに諦め、目の前の巨人に意識の全てを傾ける。
 戦うこと、生きること以外は思考から排除する。逃さぬよう、朽ちぬよう、ただ敵を殺し続けるのみ。
 モニター越しのその瞳の、あまりに深い漆黒に発令所の面々は戦慄した。その向こうにどんな過去があるのか…そんな興味と畏怖を、またある者はその態度に疑念を抱き、黒髪の戦士の顔を見つめ続ける。
 戦意が高揚するもカイムはどういうわけか、いつものように嗤う気にならなかった。



To be continued...


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