「結果は異常なし。記憶の混乱も見られなかったわ」
 サードチルドレン碇シンジの精密検査の分析を終えたリツコは、自室に戻るや否や急き込んで尋ねてくるミサトにそう答えた。
「精神汚染は?!」
「…異常なしだって言ったでしょ。大丈夫、その兆候はゼロよ」
「あ…そ、そう。よかった…」
 その答えに、ミサトは脱力して椅子にへたりこんでしまう。どうやら本当に心配していたようで、小声でよかった、よかったと繰り返す。
 加地君や日向君が見たら妬くかもねと、この親友に未練たらたらの元恋人とひそかに想いを寄せるオペレーターを思い出す。だが子供を戦わせた自らを責め続けた、ミサトのこの安堵は尤もなはずだ。
「…はい。どうせ何も飲んでなかったんでしょ?」
 自動抽出機に残っていたコーヒーを氷の入ったマグカップに注ぎ、ミサトの目の前に持って行ってやる。
 この部屋にストローは無いが、ミサトがそんなことを気にすりはずもなく。
「ありがと……ん。やっぱリツコのは一味違うわね」
「おだてても何も出ないわよ。直接煎れたわけじゃないし…それに結構時間経ってるから、酸化してると思うけど」
「うちのよりは美味しいけど…」
「…ミサトにまともなコーヒーが作れるとは思わなかったわ」
 何ですってと詰め寄る家事不能者をあしらいつつ、リツコはやれやれとデスクに向かう。
 手にする極秘と印の付いた封筒を開けるとクリップで束ねられた多くの書類とともに、一枚の薄い紙切れが目に入る。走り書きのドイツ語が所狭しと連なったそれは、エヴァパイロットから採ったばかりのカルテであった。
『身体上は異常なし。ただし精神的負担を問診への返答態度に確認、静養を要する』
 概要はそのようなものである。
「…精神に負担、か」
 無理もないわねと続ける。
 敵を目前にした時のあの殺気はともかくとして、戦闘時の行動に言動、どれをとってもまともな精神状態を示唆するものではなかったのだ、彼は。
 ようやく喉が潤い活力を取り戻したミサトにカルテを渡すと、穏やかだった表情がみるみるうちに難しいそれに変わっていった。あの人類と使徒の初めての対峙、いや二度目の邂逅を、思い出しているのだろうか。



Endless Voyage of an Avenger

第二章『別離』
第一節『凍てついた声』

presented by 木霊様




 …地上に出てからの初号機の動きは、発令所の想像を遙かに超えた。
 能力を把握しきれていない敵の正面に出てしまった今、すべき行動はこちらから先の先を取るか、距離をおいて敵を分析しつつ後の先を取るかであったが、カイムは前者を選んだ。後者が性に合わないのは自覚している通りだし、何より目の前の巨人は戸惑っているのか、攻撃を躊躇っている。
 説明によるとこの巨人は、考えるだけで動かすことが出来るらしい。それならばと、地を蹴り間合いを詰める自分の姿をイメージする。
「シンジ君、まずは歩くことを……なっ!」
 ミサトがモニターを見上げた時には、もう既に初号機はサキエルに肉迫していた。
 はっとしたようにサキエルが両の触手を動かすも、やすやすと喰らってやるほど甘くはない。突き出された腕をかい潜り、渾身の右拳をその仮面に放つ。
 一閃。巨身の力を存分に溜め込んだ一撃が使徒の仮面を見事に捉えた。
(…馬鹿かこの女? 敵の目の前で何をさせる気だ)
 吹き飛ぶ巨体が付近のビルを崩壊させていくのを見ながら、カイムは内心そう毒づく。どうやら指示らしき発言のようだが、内容としてはあまりにもお粗末だ。
 敵の目前で悠々と歩いていられるほど戦場は甘くない。その認識を欠いた者の指示を受ける気などさらさら無かった。
 使徒は小高い山の中腹に衝突してようやく停止した。初号機との直線上には巨大な瓦礫の山が築かれ、その下からは粉塵が吹きあがってきている。
(逃がすか!)
 土埃が視界を覆い尽しているも、追撃を決意。何やら喚いている発令所の通信を無視し、その場から跳躍する。
(…これは…想像以上だな)
 その巨体が羽のように宙に浮くのを感じながら、カイムは内心そう呟く。
 カイムは余裕があれば、戦闘中は常に魔力で身体強化を行っている。それをこの巨人にも試してみたのだ。
 これがどうやら上手くいったようだ。イメージとしては全身の力を脚部の筋肉に集束し、爆発させる感じだ。思ったより簡単に操縦できるものだ、大したものではないなと、リツコあたりが聞いたら烈火のごとく怒り狂いそうなことを思う。
 内的思考もそのあたりで切り上げ眼下を見下ろす。都合のいいことに今は夜だ。上空は暗闇に包まれており、地上からは迫る初号機には気づくことはない。逆にこちらは昼夜を問わず戦場を駆けた身…異常なまでに夜目が利くし、竜騎士の経験で培った索敵能力は並大抵のレベルでない。
 カイムの読み通り、使徒はあっさりと見つかった。山の地面に体をめり込ませていた巨人ひようやく抜け出し、先ほど初号機と対峙した場所まで移動しつつあった。速度が低下したところを見ると、先程の攻撃は効果を上げていたらしい。しめた。
 このまま全体重を乗せて踏み抜けば勝ちだ。そう判断して右足を伸ばす。落下速度をプラスした飛び蹴りだ、正に『隕石直撃メテオストライク』と言ってもいいその威力は十分なはずである。三秒後には直撃した使徒が再び山間に叩き付けられ、余程のことが無ければその屍を拝むことになるはずだった。
(っ?!)
 しかし、その『余程のこと』が起きてしまった。
 使徒とて甘くはなかった。仮面がこちらを向き、瞳から妖しい光を発しはじめた。闇雲でも偶然でもない。その気配からは戸惑いが消え、敵意の威圧ががひしひしとにじみでていた。
 ここでカイムははっとした。失念していたのだ。リツコとやらに説明を受けていたが、この巨人にはエネルギーを供給するコードが背に連結していた。機体が飛び上がれば当然コードも舞い上がり、それを視線で辿っていけば見つかることなど自明の理であった。
 己の迂闊さに愕然としながらぞくりと悪寒を感じて体を捻るも、さすがに空中では動作に限界がある。直後放たれた怪光線は何とか掠り傷程度にかわしたものの、初号機は着地のバランスを崩してしまう。
 そして使徒もその隙を見逃さない。立ち上がろうとする右肩を光のパイルで叩き、穿ち、貫き、そのまま後方のビルに縫いとめる。
「……!!」
 貫通した部分、鎖骨の辺りに走る激痛にカイムは驚愕した。
 当たり前の話だが、攻撃を受けたのは巨人の腕であって自分のそれではない。どういうことだ。『契約』を交わしたわけではないのに。感覚が連動しているとでもいうのか。
 反応が一瞬遅れる。残った一本のパイルが放たれるも、カイムにそれを避ける余裕はなかった。
『…し、シンジ君逃げて!』
 ミサトがはっと我に返って叫ぶも、時すでに遅し。光の槍は身をよじる初号機をあざ笑うかのように、今度はその左胸を貫通する。
「!」
 痛恨の一撃。
 当たったのが四肢のどれかだったらまだよかったのだが、場所が悪かった。初号機のコアは直撃してなくとも、そこは人間にとっての急所だったのだ。
 ビルを背にゆっくりとうなだれる初号機。発令所の悲鳴をよそに、敵を磔にした使徒は静かに近寄っていく。

『強い…』
 リツコのその声は初号機パイロットに向けられたのか、それとも使徒サキエルに向けられたものなのか。
 一瞬で使徒を吹き飛ばし、直後遥か上空まで跳躍した初号機。アンビリカルケーブルがあったからとはいえそれを探知し迎撃、逆に手痛いダメージを負わせたサキエル。そのどちらもがリツコの予想を遙かに上回っていた。
「両腕部破損、パイロット応答ありません!」
「シンクロ率低下! 心音微弱!」
「初号機、沈黙しました!」
 そんな声も、オペレーターたちのの悲鳴にかき消される。今や発令所は蜘蛛の子を散らしたような騒ぎだった。未経験の戦闘に加え、唯一且つ最大の戦力の危機である。飛び交う報告と計算に人が縦横無尽に疾走し、ネルフ本部は混乱を窮めていた。
 リツコとて単に怠けているわけではない。手を出そうにも出せないのだ。緊急により初号機パイロットが着の身着のまま出撃したため、リツコの管轄である強心剤投与・心臓マッサージ機能を備えたプラグスーツを着て行かなかった。
「か、勝手なことをっ…!」
 モニターを見つめていたミサトは、沈黙した初号機をモニター越しに見つめてそう呟いた。その拳はぎりぎりと握りしめられて震えている。自分の命令を聞かず特攻した餓鬼に対し、どうやら相当お怒りのようだ。
「あら、あの状況にしては最高の判断だったと思うわよ?」
 あくまで冷静にリツコは自分の意見を述べる。ミサトが作戦部の長である以上こういうことは自分で気付くべきだが、使徒絡みとなると頭に血が上る彼女にはなかなか難しいものがあるだろう。
 本来部署の違う自分の役目ではないのだけれど、と内心苦笑したリツコに、ミサトは振り返る。
「何よ! あれの何処がよかったって言う訳?!」
「貴女の命令を聞いて、敵の真正面をのうのうと闊歩してるよりはいいと思うけど?」
「っ……で、でも…!」
「咄嗟の判断で先制攻撃、そして夜空の闇に紛れた急襲…惜しむらくは背中の電源コードね。パージしていれば位置もばれなかったでしょうに」
 うっと一つ唸ってミサトは沈黙する。
 そうなのだ。彼はいきなり戦場に出されたというのに、敵を撃滅する最も高い可能性を選択し実に迅速正確に行動したのだ。
 愚かな指示をしたのが自分の方だと気付き、ミサトはそれ以上何も言えなくなった。しかし発令所の誰も、碇司令や冬月副司令さえも指摘しなかったのだ、リツコとて更に追及する訳にもいくまい。
「あ…も、目標内部、エネルギー上昇!」
 モニターがうなだれた初号機から使徒に切り替わる。映し出されたサキエルの瞳には鈍い光がかすかに点り、それは次第に少しずつ強さを増し始めていた。
「まさか…あのまま撃つつもり?!」
 その意図は誰の目にも明らかだった。ビルごと貫かれ固定された初号機に、至近距離から光線を浴びせるつもりなのだ。一撃で大地を震わせ、地下深くにあるネルフ本部をも揺らしたあの光線を。
「位置は胸部中央……上昇、止まりません!」
「パイロット依然として応答無し!」
 焦る職員。だが為す術はない。喚いてもどうにもならないのだ。
(…どうなさるつもりですか、司令…?)
 リツコはコクピットに倒れたパイロットの実父であり、呼び出した張本人である碇ゲンドウを見上げる。愛する男は相変わらず手を口の前で組み、隠れた口元は窺い知れなかった。
 これも『シナリオ』の一部なのか? 口に出せない問いを胸の内にしまい込む。そんなリツコの隣で、ミサトはモニターに向かって悲鳴を上げ続けていた。



 ――…カイムよ
 鼓動が弱まり、薄らいだ意識でコクピットに突っ伏すカイムの脳裡に、あの竜の音無き声が蘇る。
 懐かしい『声』だ。
 傷つき倒れそうになるといつも、決まって奴は話しかけてきた。そのお陰で命長らえたことが、一体何度あっただろうか。
 ――お前の力はそんなものか?
 喧しい、といつものように悪態を返す。無論だが声は出ない。
 だがそれでも、立ち上がることはできなかった。心臓への衝撃はいかに契約者とはいえ容易に回復できるものではない。
 間違いなく行動不能の現状では、いずれにせよ何もできまい。このまま待ち一刻も早く回復させるべきだ。そう思いそのまま沈黙を続ける。
 が。
 ――……貴様と契約したのは見込み違いだった
 いつもの檄とは違う、明らかな叱責の言葉が響く。
(何…?)
 訝ると同時に、カイムの中でどす黒い感情が渦を巻き始める。自分の能力を把握した上での行動なのだ、見込み違いとされる云われはないし、未熟者呼ばわりされる筋合いもない。
 ともに戦う中で変わったものの、ドラゴンは初めは憎しみの対象だった。その時に近い感覚が、怒りが、蘇っていく。
 ――ここまで腑抜けとは思わなんだぞ…我は何故、この様な愚か者と契約したか…
(…黙れ…!)
 ――正に我が最大の汚点よ。そのまま朽ち果ててしまうがいい
(黙れ!)
 次々と浴びせられる『声』。しだいに蓄積する憤怒。
 そして…
 ――軟弱者。女神を死なせたのも無理はないな!
「…!!」
 古傷を抉られ激昴したカイムは、何と。
 叫んだ・・・


「五月蠅い!!」


 …轟いた怒号に、発令所は水を打ったように静まり返る。
 沈黙していたはずの初号機からの通信、その鬼気迫る威圧感。圧倒されたネルフ職員たちは驚きの余り声すら出せず、しばし呆然として眼前の巨大モニターを見つめた。
 画面に映る紫の巨人は依然としてぴくりとも動かない。では何故。今のは何だ。衝撃から醒めない発令所は畏れと困惑に包まれる。
『あ、アンタ! 生意気言うのもいい加減にしな…さ……?』
 熱しやすく冷めやすいとはよく言ったもので、一番に我に返ったのはミサトだった。
 彼女はカイムの怒声を発令所に対してのものだと解釈し、初号機復活を歓喜するより先に烈火の如く激怒した。戦場に送りだしたのがこちら側であるとは言え、サポートの為に奔走する自分たちを罵倒する理由にはならない。そこに自分の命令を聞かなかったことへの怒りも再燃して混ざり、誰よりも早くミサトは口を開いていた。
 だがその言葉は尻すぼまりになって消えた。続けて回復した初号機内の映像が映し出され、思わず口をつぐんでしまった。
 蒼白になった少年が目を見開いたまま、かたかたと震えていたのだ。怯えを孕んだその表情は絶望に彩られ、出会いがしらに巨人に斬りかかったあの剣士のそれとはとても思えぬものだった。
「……馬……鹿、な…」 
 漏れる小さな呟き。獣の子のような震え。声が出たという事実が、カイムを絶望のどん底へ突き落とした。
 ドラゴンとの契約によって声を失ったカイムは、契約が実効を持つ限り声を出すことはできないのだ。その口が言葉を紡ぐことは、有り得ないはずなのだ。
「……」
 理解した。
 契約は確かに現在でも効力を持っている、では今声が出たという事実は何を意味するのか…答は一つ。
 『母』の光の扉が自分と、契約で結ばれたドラゴンを引き裂いたのだ。
 同じ世界に存在してさえいれば、それこそヴェルドレ契約したドラゴンのように、石化などにより魂の形が変わる・・・・・・・ようなことが起きない限り、契約した人間は代償を支払わなければならない。それが発生しないということは即ち、自分とドラゴンは全く異なる世界に別れてしまったとしか考えられない。
「……そう、か…」
 そして恐らく、もう逢えまい。大天使『母』の膨大な魔力があってこその転移魔法であったのだ、人間であるカイムが再現するのはもう不可能だろう。
 思い返せば、別におかしな話ではないのだ。確かに。
『母』の扉が特定の二点を繋ぐ単なる通路のような物だとは限らないのだし、切れぬはずのドラゴンとの通信が途切れた時点でその可能性は十分有り得た。なのに何故気付かなかったか。カイムは昏い笑みを唇に貼り付ける。
 大切なものを奪った帝国への、『母』への、神への憎しみが蘇る。向ける相手が目の前にいない憤怒の激情は、頭上で瞳に不気味な光を湛え続けている使徒に向けられた。
 後のリツコの推測だが、この時サキエルは両腕の槍を初号機の拘束に使っていたため、エネルギーの関係で溜めに時間がかかっていたらしい…それを、何の前触れも無しに蹴り飛ばす。
 無防備だったサキエルは直撃を受け、彼方のビルまで叩き飛ばされる。
 怒りとも悲しみとも狂気ともつかない漆黒なる意志がカイムの体を突き動かしていた。竜と出会う前、いや出会ってからも暫くはそうだったが、憎しみのみを糧に戦った魔剣士の顔がそこにあった。
『しょ…初号機、再起動…』
 突然の反撃に唖然と固まる発令所。マヤがようやく出した震え混じりの声がその静寂の中に小さく響く。内容は職務に従った報告だが、驚愕と本能的な恐怖から思わず声が漏れたというのが事実だった。
 それを皮切りに、凍結していた職員たちが慌ただしく動き出す。止まった時が動き出したように再び、ネルフ本部は喧噪に包まれた。
『…勝ったな』
『ああ』
 小声で呟くのは最上席に座るゲンドウと冬月だ。二人の頭の中にははじめから、事の行程のシナリオが緻密に正確に構築されている。
 サードチルドレン碇シンジに、使徒との戦闘で肉体的ないし精神的な負荷をかける。そうすれば傷ついたパイロットを守るため、初号機、いや正確には初号機の中に眠る存在が暴走を起こし、圧倒的なまでの力で確実にサキエルを殲滅するのだ。そしてこの暴走は自分たちの望みにとって必要不可欠な過程である…という、正に一石二鳥の完璧な計画だった。
 パイロットが深刻なダメージを負ってなお再起動したことを、彼らは暴走の兆候と捉えたのである。シナリオ通りに進む現実の展開に勝利の確信を深め、その唇には余裕の笑みすら浮かんでいた。
 だがその予想はすぐに裏切られることになった。それもそのはず、演じる役者が配役通りでないのだから当たり前であるが。
『初号機が攻撃を再開しました。シンクロ率52…いえ、56.4パーセントに上昇!』
『心音安定、暴走ありません! 初号機は完全にサードチルドレンの制御下です!』
『…何?』
『何だと?』
 復帰したオペレーターの報告に正副両司令が思わず声を漏らす。
 発令所の機能が回復していたのが彼らにとって幸運だったと言えよう。職員たちに聞かれていれば疑惑の眼差しを向けられるとも解らなかった。
 その二人の眼前では紫の巨人が完全に立ち上がっていた。ビルの瓦礫の中に倒れ伏したもう一人の巨人を雄然と見下ろしながら。
 と、初号機は使徒が立ち直る前に右の拳を引き、地面を蹴る。助走をつけた強烈な一撃を見舞う気だ。その威力は開戦直後の一撃で証明されている。
『あれは?!』
 猛然と迫る初号機を前にしたサキエルの直前に、淡いオレンジ色の壁が突如出現した。
『ATフィールド…やっぱり、使徒も持っていたのね』
 驚くミサトとは対称的にリツコは静かに呟く。
 Absolute Terror Field、略称ATフィールド。それは使徒と人造人間エヴァンゲリオンのみが持ち得る最強の防御手段だ。
 展開されたそれは通常兵器で破ることできず、辺り一帯の土地を消し飛ばすN2爆弾の衝撃波からでさえ本体を守りきるほどの代物である。エヴァが強力とはいえ直接攻撃で粉砕できるはずがない。
『駄目よシンジ君! フィールドを中和しない限り、エヴァの攻撃は……』
 届くまい。そう判断したリツコはまずこの壁の方をどうにかすべきと考え指示を出そうと通信を開くが、次の瞬間初号機は更に加速する。
 限界まで引き絞った右拳を最後の踏み込みとともに解放する。テレフォン攻撃もいいところだがサキエル側の反撃はなかった。突然の加速に反応出来なかったのだろうが、もしかしたらフィールドで守られているからというのもあったかもしれない。いずれにせよそれはサキエルにとって致命的な間違いであった。
 起こったことは実に単純だった。初号機の拳に接触した瞬間、フィールドが砕け散ったのだ。
 壁を破った拳は使徒のコア上部を叩き割ってボディに命中、その内側にまで突き刺さる。
 貫通には至らないものの、初号機の右腕は肘の辺りまでが使徒のボディに隠れることになった。受けたサキエルはびくりと痙攣を見せるが反撃行動を取る事もなく、そのまま不気味な色の体液を吹き出してだらりと垂れ下がる。
『…し…使徒、沈黙しました…』
『……』
 口をつぐんだのは喋っていたリツコだ。他のネルフ職員も凍り付いているが、驚愕の度合いは彼女の方が遥かに大きかった。巨体とはいえ単なる拳の一撃が、N2爆弾でも完全に破ることが出来なかった防御壁をあっさりと破壊したのだ。
 拳だからこそ力が一点に集約され、威力が拡散する爆弾のそれを上回ることはあるかもしれない。しかしそれがよもや人類最強の破壊兵器を凌駕するとは。リツコは製作に携わった人間の一人として喜びを抱いたが、自分の知識や常識をいともたやすく超えたそれに一種の畏れをも感じていた。
「…死ね」
 沈黙した巨人の躯から腕を引き抜くと、初号機は仰向けに倒れたそれを膝で踏み付け殴りかかる。当たった箇所から硬いなにかが削れ、球形の表面にひび割れが走った。
「死ね、死ね、死ね、死ね!」
『ひっ』
 唖然としたネルフ職員がモニター越しに見詰める中、カイムが悪鬼羅刹の如き憤怒と狂気の表情を浮かべる。
 怨念と迸る殺気にあてられたオペレーターの一人が、恐怖の余り悲鳴をあげた。その顔は蒼白で血の気が引いていたがそれは発令所の面々にも共通して言えている。
 通信の向こうで自分を見つめる者の存在など忘れたかのように、初号機は呪詛の声を撒き散らしながらひたすらに使徒の仮面を、コアを、両の拳で目茶苦茶に殴りつける。
 殴る。殴る殴る殴る。殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る、びくり。
「え?」
 拳が当たったコアが半壊したころになって使徒がようやく反応を見せた。しゅるりと四肢が伸び、のしかかる初号機迫る。
 狙っていたのか偶然か、それは正に完璧なタイミングだった。拳とともに振り抜かれた腕、使徒を押さえ込む膝、どれをとっても初号機に回避の可能性は皆無のはず。そう思い、リツコは回線を開く――
「なっ」
 ―しかし、回避命令が告げられることはなかった。触手が初号機にからみつこうとした正にその瞬間、その巨体はその届かない場所にまで後退していたのだ。
 人間から見て神憑り的な反応速度と洞察力がなければ不可能な芸当である。
 開いた口が塞がらないリツコをよそに、初号機は取り付く標的を見逃したサキエルを空高く蹴り上げる。
「消え失せろ!」
 そして上空から為す術もなく舞い落ちる巨体に、魔力をこれでもかと流し込んだ右腕を突き出す。
 直撃と同時に魔力を解放。半壊したコアが砕けると同時に、内部からの爆発がその身体を細切れに爆砕する。
 刹那、閃光。
「…自爆…した…?」
「パターン青消滅……モニター、回復します」
 再び映し出されたのは、紅蓮の炎を背負って佇む初号機。装甲が剥げて至る所から素体がむき出しになっていたが、それでもその巨人はその荘厳さを失わず、ただそこに立ち尽くす。
 震慄する職員たち。彼らがエントリープラグ内のカイムの表情に気付くことは、終ぞなかった。



 ――網膜を灼く白い病院の廊下、カイムは色のない硝子窓に手をかけたまま顔を伏せる。
 激戦から一夜明け、カイムは眠ることもできぬまま朝を迎えていた。早朝ネルフの構成員らしい白衣を着た男が問診を執り行ったが、それすらよく覚えていない。
 喪失感だけが心と体の内にあった。
 虫たちの声が窓の外に騒がしい。季節は夏。本来最も生物が活動的になる時期だが、今のカイムにとっては単に五月蠅いだけ。
 そう、音など要らないのだ。
 …心の底から、カイムは思う。声など要らなかった。
 あの竜さえいれば、それだけでよかったのだ。
(不思議な…ものだ、な)
 俯いた顔を、熱い滴が伝っていく。誰にも見せたことのないそれは頬を滑り、ぽたり、ぽたりと床を叩く。
 妹の死にすら零さなかった涙。それが両親の仇である竜族との別れになって、今更のように溢れてくるのだ。
 自分の傍にはもう、誰もいないのだ。優しかった両親、美しい歌声の親友、心から愛した妹、誰もが皆この世から旅立ち、二度と見えることのない異界の住人となってしまった。
 そして命という根本的なものを分け合った、心を許せる最後のの戦友とも…もう、逢うことはできない。
 やけに晴れた空は今にも落ちてきそうだ。カイムの生きた世界にはなかったそれが逆に憎々しくて仕方がなかった。自分の悲しみなど塵芥にも等しいとでも云わんばかりに、何事もなく回っていく世界。それがさらにカイムの悲哀と憎悪を掻き立てるのだ。ともにやり場のない感情であるそれは、消えることなくカイムの心に落ち、ただ刻々と積もってゆくばかりで。
「…あなたは」
 そして…通り過ぎようとした移動式のベッドから少女が口を開いても、カイムは一瞥だにしなかった。
 対し声をかけた綾波レイは彼女にしては珍しく、その光景に驚きと興味を僅かながらに抱いていた。
 大粒の涙が彼の頬から零れ落ちるのを、確かに見たのである。
(……涙……?)
 人間の悲哀が頂点に達したとき、目の内寄りにある涙腺から涙と呼ばれる体液が分泌されるのは知識として知っている。だが実際に目撃するのはこれが初めてで、それは新鮮な感覚であった。ヒトならざる存在である自分が憧れ、そして願う存在である人間は、このように泣くものなのか。
 この少女が声を発した、その事実はベッドの両脇に陣取るネルフ医療スタッフにとって、思わず立ち止まり顔を見合わせてしまうには十分だった。ベッドの移動は止まり、車輪の金属音も止む。その空間は静寂に包まれた。
 相変わらず喧しい、蝉の鳴き声を除いては。
「…何が、悲しいの?」
 純粋な興味だった。
 無感動・無表情・無関心を地で行く彼女を知る者がその場にいれば、しばし自分の目と耳の正常を疑っただろう。ほんのわずかではあるが、『あの』綾波レイが好奇心と言って差し支えないものを表に出したのだ。
 しかし、それは今のカイムにとっては禁句だ。傷口をナイフで抉られてさらに塩を塗りこむようなものなのだ。
 そしてその意図があろうがあるまいが、『人形如き』にそんなことを言われて黙っているわけがない。 
「黙れ」
 視線さえ向けず、カイムは静止したベッドの脇を通り抜ける。顎を引いて見つめる少女に、去り際にこう言い残した。
「木偶人形め」
 その言葉の意味を理解したレイが何をする間もなく、彼の後ろ姿は曲がり角の向こうに消えた。



To be continued...


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