葛城ミサトがサードチルドレンのカルテを見ながら険しい顔をしているころ、ネルフ総司令碇ゲンドウはとある薄暗い部屋にいた。
 人類補完委員会。
 超法規的武装組織ネルフを直属として抱える、秘密と謎に包まれた組織。その会議が行われている一室である。
 出席者は六人で、席にはそれぞれ割り振られた色の灯りがともっている。その各々に浮かび上がるホログラムは、ゲンドウを除いて皆明らかに外国人風の容姿であり、そして皆彼の方に目を向けていた。
「……使徒再来か。あまりに唐突だな」
 その一人が口を開き、それをきっかけに他の参加者たちも話を始める。
「…十五年前と同じだよ。災いは何の前触れもなく訪れるものだ」
「幸いとも言える。我々の先行投資が無駄にならなかった点においてはな」
「そいつはまだわからんよ。役に立たなければ無駄と同じだ」
 口々に論を述べていくが、その内容は再び訪れた厄災に対するものとしては違和感がある。取れば、彼らは災いに対して『投資していた』というのだ。
 撃退に成功したとはいえ、第三新東京市の受けた使徒の被害は甚大だ…シェルターに避難していた人々の中には負傷者もいる。少なくともそれに対して使う言葉ではなかろう。
 『補完』というのはどうやら必ずしも、地球上の人間を使徒という外敵から『守ること』というわけではないらしい。
「さよう。いまや周知の事実となってしまった使徒の処置、情報操作…ネルフの運用は全て適切かつ迅速に処理して貰わんと困るよ」
「…その件に関しては既に対処済みです…ご安心を」
 己の率いるネルフに関する話を振られ、ようやくゲンドウもそこに参加した。
「ま、その通りだな…しかし碇君。ネルフとエヴァ、もう少し上手く使えんのかね?」
「零号機に引き続き、君らが初陣で壊した初号機の修理代。国が一つ傾くよ」
「聞けばあのおもちゃは、君の息子に与えたそうではないか」
「人、時間、そして金。親子そろって幾ら使えば気が済むのかね?」
 口に薄っぺらい笑みを貼り付かせ、小言を並べ立てる参加者たち。
 手を口元で組むゲンドウ独特の格好は、こういうところでも有用なのかも知れない。いくら激しく唇を歪めようと相手にそれと悟られることはない。いついかなる時でも、少なくとも見かけはポーカーフェイスを貫けるのだ。
 しかし今、それが活きているのは別の方面であった。現在ゲンドウの頭の中にあったのはパイロットとして召喚した息子シンジの余りにも異常な変貌と、彼の支配の下で鬼神の如き戦いを見せた初号機、そしてその中に眠る、自分のシナリオ通りに行けば覚醒するだった愛しい妻・碇ユイだけであり、目の前で愚痴を垂れる男たちに注がれる意識は幾許ほどのものでしかなかったのだ。
 つまり簡単に言えば彼の格好は、注意が他に逸れている(それでも話の内容が頭に入ってくる分、彼の能力の高さがうかがえよう)ことを気取られないよう働いていた。僥倖と言えよう。
「それに君の仕事はそれだけではあるまい…人類補完計画。これこそが君の急務だぞ」
「さよう。その計画こそがこの絶望的状況下における唯一の希望なのだ。我々のね」
「いずれにせよ、使徒再来における計画スケジュールの遅延は認められん……予算については一考しよう」
 そう釘を刺すと、会議の場には一定の納まりがつきはじめた。ゲンドウを揶揄するのもひと段落がついた様子で、中には請求された莫大な資金の捻出方法を考えながら、既に小さく溜め息をつく者さえいた。
「では、あとは委員会の仕事だ」
「碇君…ご苦労だったな」
 やっと漏れた労いの言葉とともに、参加者たちの席から照明が落ち、陰湿な笑みを貼り付かせたホログラムも消えていく。
 そして最後、議長キール・ローレンツとゲンドウのみがテーブルの両端に、相対して残ることになった。
「…碇。後戻りはできんぞ」
 間をおき、明らかな含みを持たせたその発言を最後に、キールの席からも光が消た。部屋には静寂が訪れ、暗い空間にはゲンドウ一人となる。
 彼が口を開いたのは、ずいぶん時間が経ってからのことだった。
「…ユイ、シンジ……何を考えている?」



Endless Voyage of an Avenger

第二章『別離』
第二節『剣の行方』

presented by 木霊様




 移動ベッド上の少女に冷たい言葉の数々を浴びせたカイムは、病院敷地内の庭を何をするでもなく彷徨っていた…途中医療スタッフらしき白衣の男がやんわりと外出を止めたのを、殺気を込めた視線で黙らせて。
 したいことがあったわけでも、行く宛があるわけでもなかった。騒がしい蝉の声から離れたいという消極的な理由である。
 何もする気も起きないくらい心身ともに疲れ果てていたのだが、それを差し引いても、これほどまでにすべきことがない状況を味わう機会は未だかつてなかった。
 今までずっと、前向きにも後ろ向きにも全速力で生きてきたのだ。幼少は王子としての勉学や鍛練に明け暮れ、国が滅んでからは憎しみで剣を振るい続けた…それを今、共に剣を取る仲間も、向ける相手さえも失って。
 何かに没頭したい、少しの間だけでも忘れていたいと感情が訴えるが、醒めた理性がそれを冷たく切り捨てているのがわかる。もう自分には何も無いのだという声が内側から聞こえ、それがカイムの心の中により虚ろな空間を広げていた。
「……シンジ君?」
 病院に駆け付けた葛城ミサトが、ふらふらと歩くその姿を見つけて呟いた。
 だが彼がこちらを向く気配はなく、走り寄りながらもう一度
「シンジ君!」
呼びかけてようやく視線だけを静かに投げて寄越した。
 別に無視しようとしたのではない。単純に自分の名前と呼ばれたそれが一致しなかったのだ。そう彼は今『カイム』ではなく、『イカリシンジ』であった。
 …名前まで無くしたかと思うと、暗い笑みが口元に張り付いた。
「……」
「はぁ、はぁ…さ、捜した、わよ、シンジ、君」
 立ち止まったそこは、敷地の植え込みからはかなり離れたアスファルトの上だった。灰色の地面からじりじりとした熱気が、全速力で駆けて来たばかりのミサトの身体を容赦なく焦がし、否応なしに汗を流させ、そして声を切れ切れにさせる。
 ご丁寧に自分の立場を思い出させ、今は膝に手をついている女のその様子を興味なさ気に眺めるカイムは暫くして、八つ当たりめいた怒りに諦めを混ぜた調子で、言った。
「何の用だ」
 今更と付け加えたほうが、今のカイムの語気は伝わるだろう。
 何せ使徒との戦闘時に利敵行為としかとれないような目茶苦茶な指示を出した張本人なのだ。彼からすれば、もうこの女とは係わり合いになりたくないというのが本音であった。
 だがそんなカイムの内心も知らず、声をかけられたミサトが逆に驚き、硬直した。
「…何だ」
 見開かれた瞳から伝わる混じりっ気のない驚愕に、訝しげに声を返す。
 そして聞いたミサトはやがて、安堵と喜びの微笑を浮かべ、こう言った。
「…やっと、喋ってくれたね」

「…………、」
 虚ろだった心に、怒りの火炎が再びふつふつと燃えていく。『言葉』の話題は今のカイムにとって禁句なのだ。
 何故だ。この世界の連中はなぜ、こうも他人の心に土足で踏み込んで遠慮なく掻き回すのか。先ほどの人形女といいこの馬鹿女といい、もう限界だ。
「失せろ!」
 本当にその首を絞めてしまわないうちに、霧散しかけていた殺気をありったけに纏ってその言葉を叩きつけた。
 十四歳の少年には到底ありえぬはずのそれを受け、ミサトは底の知れぬどす黒い衝撃に全身を戦慄かせる。軍人である自分でさえ足元にも及ばない威圧感。絶対的な恐怖に、身も心も凍りつく。
 数瞬の硬直の後ではっと振り返ると、少年は彼女の傍らを通り過ぎて病院のゲートの方向に歩みを進めていた。
「……ま、待って! 何処に…」
 慌てて追いすがり、背を向けて歩くその腕を引き寄せようとした。だがどういう訳か、びくともしない。子供らしい細さを残しているにもかかわらず、どれだけ引いても固定したかのように動かなかった。
「……し、シンジ君には、まだ、やることが…あるでしょう…?」
「…何?」
 震える声で言うと、目の前の少年はどういうことだと言わんばかりの怪訝な視線を投げかけてきた。と同時に殺気だった気配も少しだけ和らぎ、ミサトの緊張も薄れて舌の動きが回復してくる。
「聞いて、なかったの?」
「何のことだ」
「あ、あの使徒は、これからまだ、沢山現れるの。だから…」
 と同時に、思考にもだんだんと色が戻ってきた。
 今話に出たのは、もう既に司令から連絡が行っているはずのものである。どこかで不手際でもあったのかしらと推し量り、ミサトはこの少年を止められなかった、医療スタッフに扮したネルフ保安部の男を思い出した。不手際の繋がりである。
 しかし、当初こそ子供を取り逃がすなど、と頭の中で罵詈雑言を浴びせかけていた身ではあったが、彼が顔面蒼白で腰を抜かしていたという報告はようやく納得が行き始めていた。あの強烈さは命をやり取りしたものでなければ跳ね返せぬ代物である。直接受けたことを考えれば、今では同情の念すら湧いてくるというものだ。
「……」
「え?」
 カイムは顔を伏せ、何やら口元で呟いていた。よく聞こえない。何を言っているのだろうと耳を寄せる。
 すると次に耳に聞こえたのは、こうだった。
「…殺し合い、か」
 どこの世界にいても、結局やることは同じだな―そんな自嘲が、闘いの歓びを孕んでカイムの中にわき起こる。自然と、口の端がにいっとつり上がっていた。
 その笑みの壮絶さに、ミサトの背筋を冷たいものが貫いた。



 親友からサードチルドレンの確保、というより説得して病棟に戻ってもらっただけであるが、その一部始終を聞いたリツコは苛つきと憤怒を撒き散らしながら病院の白い廊下を闊歩していた。
 ハイヒールの異様に硬い音を聞いて、何事かと振り返った看護士たちが彼女の纏うその雰囲気に慌てて道を開ける。それに気付かないほどにまで苛ついていた。蓄積しきって溢れたそれが、彼女から視界を奪っていたのだ。
(今日という今日は…!)
 怒りの矛先は愛しい男碇ゲンドウ、足が向くのは彼が訪れているだろうファーストチルドレン綾波レイの病室である。
 ただその表情からは愛人との逢瀬の喜びは伺えない。やがて廊下は階段となり、目的地である特別病棟はもはや間近になってきていた。
 『シンジ君、使徒がまだ来るって知らなかったみたいだけど』…怒りの火を点けたのは、ミサトのその電話だ。戦闘終了とともに着替えさせた彼の服から零れた手紙を見たリツコには、その報告の意味が直ぐにわかった。
 手紙にはただ『来い』とだけ書かれていたのだ。
 最初は追って何らかの連絡をしたのだろうと思っていたが、それが否定されたということだ。つまりあの無口で威圧感だけはたっぷりの男は、息子を何の説明もなしに遥々第二新東京市から呼び付けた揚げ句、これから(半強制的にであるとはいえ)協力してもらう立場であるにかかわらず、十分懇切丁寧な説明をするどころか完全無視して放置したのである。
 こういうことが一度や二度ならまだ許せる。だが彼の副官たる白髪の老人からは週に一度は必ず愚痴が零れ、そして自分もそのフォローに帆走したことが幾度となくあるのだ。
 それに、だ。加えて、彼の怠慢の犠牲がシンジであったことが、彼女にとって余計に腹立たしかった。
 確かに、かの子供に剣を抜かれそうになったのは事実。しかし彼は同時に先の戦闘で、完璧なはずの己の計算と知識をいとも容易く踏み潰して見せたパイロットでもあるのだ。拳の一撃でATフィールドを粉砕するという、有り得ない筈の奇跡を体現してみせたのだ。彼は自分の頭脳の届かぬ領域にいる…もしくは、自分の知識が未だそこに足りないのだと、リツコはそう直感的に悟っていた。
 それをああまで、邪険に扱うとは!
 リツコ自身カイムに罵声を浴びせたのは、てっきり彼が全て事情を知っていると思い込んでいたからなので仕方がない。だが碇ゲンドウは違う、むしろ全ては彼が原因なのだ。
 科学者にとって好奇心の対象は紛れも無く宝であり、彼は間違いなくそれに値する。それを無下にし自分に、ひいてはネルフに非協力的になる要因を作ってしまうとはいかに愛する男であれ言語道断、今までの職務怠慢へのフラストレーションも相俟って、彼女にとって今のゲンドウは不具戴天の敵であった。
(ああ、もうっ! 着いたっ!)
 到着すると、そのままノックもせず扉を開いた。
「ゲンドウさん! 今日という今日ははっきり言わせてもらいま…あれ」
 目に飛び込んできた真っ白な病室。ところがリツコの訪ね人はそこにいなかった。代わりにこの一室の主の視線が、唐突な侵入者に向けられる。
 室内の静けさの中で暫し経って、ようやく頭の熱が冷えてきた。ノックもせずに何をやってるんだろうと、らしくもなく苛ついていた自分に反省して口を開く。
「いきなり御免なさい、レイ……司令は?」
「……居ません」
 驚きも不快さも感じられない表情、そして声色であった。
「おかしいわね。てっきりここにいると思ったんだけど……」
 気にしてはいないようだと結論付け、リツコは室内をぐるりと見回した後、隠れる場所も無さそうだと思い一つ唸って腕組みをしてみせる。
 あの・・レイが嘘をつくとは到底思えない。万が一碇司令からのお達しがあったのならその可能性も有りかも知れないが、彼が自分の怒りをもう察しているとは考えにくい。ということはこの病室は完全に『シロ』だろう…その上でとんとんと動き続ける指が、どうにも不満げではあるけれども。
 それにしても、相変わらず静かな病室である。
 当たり前だがこれは全ての病室についても当てはまる事柄である。だがしかしその主が綾波レイであるという事実が、この空間の静謐さと無機質さをじわりと増していた。心象的なものである。
「……」
 そして当のレイは一端は顔を上げたものの、直ぐにまた伏し目がちな視線へと戻っていた。
「……レイ?」
 そこに感ずる所があって、リツコはふと声をかけた。
 様子が変だという訳ではない。この少女に感情があまりにも希薄すぎる事、落ち込んだりふさぎ込んだりするはずがない事はネルフの他の職員の誰よりも知っている。それは間違いなく事実であり、今も感情の兆しが見られた訳では決してなかった。
 しかし、確実に今、そこに何かがあったのだ。
 何と言うべきか……揺らぎ…だろうか。
 そう、きっとそれだ。リツコは結論する。確かな証とは違う、しかしながら平坦ではなく、無感情とも異なる『揺らぎ』。自分が読み取ったものは、まさにそう呼ぶに相応しいと思われた。
「………赤木博士…」
「え…?」
 俯いたまま話し出したその事実はリツコにとって内心驚愕ものだった。無理もない、碇総司令以外に対してどんな行動を示そうともしなかったあの無関心なレイが、あろうことか自分に向かって話しかけたのだ。
「私は……」
 が。
「レイ、怪我は…」
 がちゃり、と。
 言おうとしたちょうどその時、再びノックもせずに乱入者が現れた。
 視線を隠すサングラス、その下を覆った黒い口髭。表情を読ませず強烈な威圧感を常に放出するその男の名は、ネルフ職員において知らない者はいない。
 碇ゲンドウ、その人だ。
「…何をしている、赤木博士。持ち場に」
「それはこちらの台詞です、一体今までどこをほっつき歩いていたんですか?!」
 しかし威圧感たっぷりのはずのゲンドウの言葉は、彼の姿を視認しそれと認めたリツコによってかき消された。
 その口調の激しさに、ゲンドウは思わずひるんだ。本来上官に当たる彼の発言を遮ることは多分に軍紀を乱すものであるのだが、そんなことは承知の上だと言わんばかりのその態度に押された。
「……問題な」
「いいえ大有りです! いつもいつも毎回毎回そうやってはぐらかさないでください!」
 再び彼の言葉は遮られた。息も荒くリツコは続ける。
「シンジ君宛ての手紙を拝見させていただきました。一体何を考えているのですか! 説明もなしに無理矢理乗せるなんて愚の骨頂以外の何物でもありませんわ! こちらのイメージをわざわざ下げてどうなさるつもりですか!」
 空気が震えているのは、そして背後に巨大な業火が見えるのは気のせいだろうか。いいやきっと幻覚だ。背中に冷汗をだらだらと流しながら、リツコの怒声を受ける碇ゲンドウはそう結論付けた。
「…も、問だ」
「まだおっしゃいますか! 早く持ち場に戻って仕事をなさい、さもないと…」
「わ、わかった」
 どんなに言われても返す台詞を変えようとしなかったゲンドウも、目の前の女性が頭に血を上らせて白衣の内ポケットに手を滑らせたのを見てようやく折れ、そそくさと病室のドアから逃げ帰っていった。
 彼女が日頃そこに何を入れているか知っていたが故の、回避行動であった。溜飲が下がる思いで戻っていくリツコの手の中には半透明の怪しげな小瓶が握られており、案の定と言うべきかなんと言うべきか、そのラベルには黄色や赤の三角形で警告マークが数多く描かれていた。
「ふうっ、全く……あ、御免なさいねレイ。何だったかしら?」
 完璧に思考の彼方に追いやっていた少女の存在を思い出し、リツコは表情を和らげてそう問い直す。
 するとレイは、向けていた視線を下げて、
「…いえ……何でもありません」

 これがその日赤木リツコが聞いた、ファーストチルドレンの言葉の最後となった。
 結局もともと少なかった話題も尽き、リツコは明日の見舞いを約束して病室を去っていった。司令を仕事に蹴りだしたとはいえ彼女にもやることは山のようにある。面会時間ぎりぎりまで留まっていられるほど余暇があるのではなかったのだ。
 誰もいなくなった病室で慣れ親しんだ沈黙の中、レイはリツコたちの…いや正確には、リツコのあの行動を思い出さずにはいられない。
 人間があれほど開けっ広げに感情を発露させることができるのだという事実が、彼女たちの前で顔には出さなかったが大いに新鮮だった。間違いなく彼女と、そして自らが唯一信ずる司令の間には大きな絆があるのだと、そう実感させるには十分であった。
 別に嫉妬したとか、羨ましかったとかそういうことではない。いやそれももちろん含まれるのだが、それよりもむしろ自分にも豊かな感情があったなら、あの少年に人形と罵られることもなかったのだろうか…という思いの方が大きかった。誰よりも冷たく厳しい声をかけてみせたあの少年が、もしかしたらもっと別の何かをくれたのではないかと、それだけが気になって仕方がなかった。奇妙な話だが、唯一信じる男よりも嫌いな言葉を吐くあの少年の方が、心の中に大きく占めていたのだ。
 でもそう思ってみても、またそれを誰かに話したとしても、それらが自分にとってあまりにも遠いものだということには気づいていた。
 それを得るにはあまりに不適な育ち方をしている、という自覚は何とはなしにあるし、それに何よりも彼にあんなことを言われてなお明確な『怒り』でなく、針がちくりと胸を刺す程度の痛みしか感じていないというのが…自分が人形なのだという、彼の言葉を証明しているような気がして。
 だから最後、去り行くリツコにそのことを話さなかったし、話せなかった。



「っ……く……」
 病室に帰ったカイムがベッドに戻るや否や、突如としてそれは体内に現れた。
 異質な力が身体に重なり、そして溶け、一つに雑ざってゆく感覚…それに伴い身を内側から裂かれるような異常な苦痛が、激流となって体中を駆け巡った。
 …一つだけ心当たりのあるカイムが思い起こしたのは、あの悍ましい赤子の天使たちを初めて斬った時のこと。
 人を刈る為に神が創りし異形、その股下から頭頂までを一気に裂き、自分のものでない鮮血が髪に塗れるのを感じた。背に紫電を迸らせる程の巨大な魔力を帯びた、今まで殺戮したどんな敵とも違うあの異様な血肉の質感を生々しくも覚えている…そのしばし後に、地獄の苦しみがやってきた。今まで蓄積したそれに匹敵するほどの力が、無理矢理にカイムの身体に割り入ろうとした副作用だった。
 この場合、力というのは魔力に他ならない。そしてその魔力とは、即ち魂である。
 或いは命というべきかも知れない。いや魂が変質せしめられたのが、魔力なのだと言った方がいいだろうか。それはつまり体の内から生じるものではなく、呪術を内包する武器が命の灯を消した時、それを取り込んで使い手に与えたものなのだ。そしていかに神の使いとてその例外には漏れず、その息が絶えて暫くすると、やはり置換された魂はカイムの体に飲み込まれたのである。
「……ぐ………ぅっ……」
 今回の魔力の流入が、どう言う理由で日付を挿むほど遅れているのかはわからない。だが今カイムの身体に起こっているのも天使の時と同じで、侵入してくるものに対して体が悲鳴を上げているのだ。
(…あの…巨人の、魔力が……これ程重い・・とは……っ…)
 しかし同じ現象であっても、その激しさは前回とは桁違いだ。
 それもその筈、カイムの世界の天使が群れを成したのに対して、使徒は単体にして完全なる生命体…その魂の大きさ・濃度を始め、そこから精製される量も、その質も天使共の比ではない。魔力が全くのゼロの状態であったならともかく、すでに質の異なるのそれが体内に蓄積していたことで、いわゆる一つの拒絶反応が起きた。つまり量的は負担に加え、異世界の使徒に由来するという『異質さ』による反発をも引き起こしたのだ。
 この時カイムが知る由もなかったが、使徒の魂は人間や天使たちのそれに比べてあまりにも巨大であった。そのため魔力に変化して吸収された分は全体からすると大した規模ではなく、修復を経て次の使徒へと受け継がれるのである――
「…っは……はぁ、っ」
 実際には五分程度の時間だったが、本人にとってはまるで時が止まったかのように永く感じられた。
 全身から噴き出した汗を吸った病人着がじっとりと張り付いていて気持ち悪い。それを意識できるまでに苦痛の波が収まったところで、カイムはようやく呼吸を整えることができた。
 だがこの苦痛も、恐らくはこれきりであろうとカイムは確信する。
 最初は身を裂くような痛みを伴うものであったが、天使の魔力も二度目に加算された時には何の不快感もなかった。それと同様に考えれば使徒の魔力は確かに質の違いをもつものの、それが一端自分のそれと混じり合った後はさほどの負担にはならない筈だ。確証はないが、幾度も魔法を行使してきたカイムにはなんとなくそんな気がしていた。
(……)
 それにしても。
 皮肉なものだな、とカイムは思う。戦うことはおろか、何をする気力も失ったと悟った途端戦場に舞い戻る理由を得て、そのための新たな力さえもが同時に宿ったのだ。
「全ては…殺す為に、か」
 思わず呟いた言葉がまさに自分に相応しく思えて、久しく無かったベッドの柔らかさを背に受けながら自嘲の笑みが浮かんだ。憎むべき『神』と呼ばれる存在が本当にいて運命を操作しているとしたら、きっと余程自分を戦場の血と炎の中に縛り付けていたいのだろう…しかし、それでも構いはしない。
 生き抜いてみせる。
 どこまでも深い漆黒の瞳から、失われた意志の光が急速に戻っていった。結局のところ、することは以前と変わらないのだ。生きるため、殺すために戦い続けるのみ…ただ一つ違うのは、その時傍らにいたあのドラゴンと、再び共に並び立つことが恐らくないだろうということだけ。
 それだけだ、悲しみに暮れることは、自分には許されないのだ。
 ――たとえ闘いの業火がこの心を焼き尽くそうとも、孤独の涙が地を濡らそうとも。



To be continued...


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