贖罪の刻印

第三話

presented by ミツ様


  NERV本部・第七ケイジ

 

エヴァンゲリオン初号機を収納した第七ケイジでは、使徒の肉片がこびり付き、返り血で真っ赤に染まった装甲の洗浄処理が行われている。

誰もが皆、陰鬱な気持ちで作業を行っていた。

むせ返るような血の臭い。

どのような化学変化によるものなのか……既に腐敗臭すら漂う肉片。

ここに居る者達の殆どは、暫くミートソースは食べられそうに無いだろう。

だが、地上の作業班よりは数倍マシだ。連中はこれ以上の陰惨たる光景を目の当たりにしていることだろう。

……文字通り、死体の回収なのだから。

しかし、それで自分達の気が癒されるワケではない。

誰もがこの作業を投げ出して帰りたいと思っている。

ケイジ内全員の心にあるものは等しく。

 

怯え……。

 

皆、恐ろしいバケモノを無惨に葬り去った紫の鬼神に恐怖を感じていた。

いつ何時この拘束具を引き千切り、自分達に襲い掛かってくるとも限らない…と。

事実、あの戦闘以来、NERV総務部には退職を希望する職員の数が急造していた。誰も自分の命が惜しいのだろう。

考えてみればおかしな話ではある。

此処に居る者達は皆、人類の命運を掛けて戦う”正義の味方”ではなかったのか。

覚悟が無かった…と言えばそれだけかも知れないが、人類を護るべき組織であるはずなのに、護る対象の子供を戦場に駆り出しておいてそれを疑問とも思わない……そんな疑問が生んだ醜態劇のようだった。

そして、その矛盾を一手に引き受ける象徴のような女性…葛城ミサトは、ケイジの上の管制室から腕を組み、憎憎しげに初号機を睨んでいた。

「……んで、少しは解ったのかしら……?」

傍らでコンピューターのディスプレイを操作しているリツコに硬い口調で話し掛ける。

だが、答えは返ってこない。堪り兼ねてもう一度声を上げた。

「ちょっとリツコ、聞いてんの!?」

「…聞いてるわよ……」

そう言いながらもリツコはコンピューターの画面から目を離す事はない。

片手に持ったまま短くなった煙草からは紫煙が立ち昇り、天井にまで達している。

邪険に扱われ一瞬顔を険しくするミサトだったが、一つ溜め息を吐いて頭を振ると顔を摺り寄せ、リツコの見ている画面を見詰めた。

先の第三使徒戦に関する戦闘データである。そこには先程から同じ結果表示しか出していない。

画面には血に飢えたケモノの如き戦いを見せるエヴァ初号機の姿…。

 

有り得なかった。

 

「…これが、エヴァの本当の姿……」

「…………」

ミサトの呟きにリツコは何も答えない。イラついたように煙草を灰皿に揉み消す。

灰皿には赤いルージュの付いた煙草の吸殻が山のように積まれていた。

「学生の頃から変わんないわねぇ。イラつくと煙草の量が増えるのは…」

ミサトの何気ない一言に、ピクリと身体を震わせるリツコ。

 

変わらない?

 

…そうだ。何も変わらないはず……。

過去に戻って来てもゲンドウもミサトも変わっていなかった。

自分だって…。

変わる事など出来ない弱い生き物。

愚かな連鎖を繰り返すだけ…。

だから、どうでも良かったのだ。

生きている事さえ…。

どうだって……。

 

でも…。

 

それなのに…。

 

何故、私はこんなに真剣に解析をしているのだろう?

何故、心が狂ったように昂ぶるのだろう?

久しく忘れていた。この気持ちは一体…?

答えの出ない感情の昂ぶりに何故か無性にイラつき、再び胸ポケットから次の煙草を取り出し火を点ける。

既にこの部屋に来て二箱を軽く消費したリツコを見て、ミサトは咎めるように言った。

「ちょっと、あんた吸い過ぎよ」

「…別に、それで誰かに迷惑をかけているわけじゃないわ……」

ミサトの言をにべもなく一蹴するリツコ。

「アタシにかけてるってーーーのっ!」

「なら、別にここに居なくても良いのよ。あなただって自分の仕事が残っているでしょう?」

「うっ…いや、…ほらウチには日向君がいるし、今んとこアタシがやる事って無いのよね。…タハハ……」

冷や汗を掻きながら誤魔化すミサト。

ウソである。

いかに戦闘時にしか仕事の無い作戦部と言えども、残務処理は残っている。

各部署からの被害報告・意見書などを検討し、今後、効果的・有効的な作戦を立てる為の計画書を作成しなければならないし、又、始末書の類も無いワケではない。

特に、今回の戦闘において作戦部は何ら指示を出せなかったという批判が各部署から上がっているのは事実だ。

そして、遅れに遅れている兵装ビルの中間報告なども聞き、有効な作業効率の提案等も行わなければならない。

本来なら作戦部の長たる者…こんな処にいる暇は無いのだが、それらの雑務をミサトは全部日向に押し付けてやって来たのだ。

…彼の、自分に対する好意を少しだけ利用して。

リツコは、実らない恋に生きる不幸な眼鏡の青年に同情の念を感じなくもないのだが、今はそんな事に構ってなどいられなかった。

今、もっとも彼女の関心を買うのは……。

 

(碇シンジ……)

 

リツコは手許の資料に添付してあった写真を食い入りように見詰めた。

MAGIによって戦闘に得られたデータからは、初号機が使徒の三倍強のA.T.フィールドを発生させた事が検知されている。

そして今画面に映し出されている使徒の身体を切り刻んだ初号機の攻撃…。

「そうそう、リツコに聞きたかったのよ。この時の初号機の攻撃……一体何なの?」

ミサトも同じ疑問に行き着いたのだろう。紫煙を手で払い除けながら尋ねてきた。

「…これはA.T.フィールドを細い刃状に凝縮させて目標に撃ち込んだのよ……」

「凝縮?」

「そう、あなたの頭にも解るように説明すれば、ホースの水を想像してもらえれば理解出来るわ。ただ垂れ流すのと先端を摘んで放出するの…どちらが強力か解るでしょう?」

「…あんた、アタシを馬鹿にしてない?……でも、A.T.フィールドがそんな事出来るなんてアタシ聞いてなかったわよ?」

ミサトが咎めるような口調でリツコに言う。

「…それは仕方ないわ。レイはもとよりドイツのアス…セカンドチルドレンにおいても未だA.T.フィールドの展開実験は成功してなかったのよ。データが無ければ答えようもないわ」

実際は第十四番目の使徒の際、リツコはA.T.フィールドの攻撃手段の現象を目撃しているわけだが、そのような未来の出来事をここで言えるわけが無かった。

「じゃあ、何であの子にそんな事が出来たのよ?」

「それに関しては、未だ不明……」

リツコがそこまで話した時、机の上のインターフォンが鳴る。

「はい、赤木です。………ええ……そう、分かったわ」

「どったの?」

「シンジ君の意識が回復したそうよ」

その言葉で、ミサトの目の色が変わる。

 

ミサトは戦闘終了後、引き止める日向マコトを押し退け一目散にケイジまで駆けて行ったのだ。

その顔は鬼女と見紛うほど怒気に満ちており、誰も彼女を止める事は出来なかった。

ミサトがケイジに向かった理由はただ一つ。

自分の命令を無視した少年を問い詰める為である。

だが、シンジがエントリープラグから降りてきたところを怒鳴りつけようとした瞬間、目の前で少年はいきなり倒れてしまったのだ。

そして現在は病室で治療を受けている。

よって、ミサトは胸に溜まった憤激を解消出来ずに今に至っているのである。

 

「私は少し彼に会ってくるわ。確かめたい事もあるし……」

「待って、アタシも一緒に行くわよ!」

いきり立つように席から立ち上がったミサトだが、リツコは静かに首を振った。

「ダメよ…」

「チョッ…何でッ!?」

「…あなた、戦闘時の彼の行動を直接病室で問いただす気でしょう?」

「当然じゃない!指揮官として命令を無視した理由を聞く権利があるわ。これは遊びじゃないのよ!全人類の未来が掛かってるんだからッ!!」

怒鳴り散らすミサト。彼女にしてみれば指揮権を蔑ろにされた事に対する当然の感情なのかもしれないが……。

「分かってないわね。…だから、ダメなのよ」

「だからどうしてよッ!」

冷静に話すリツコをミサトは睨み付けた。

「…いいこと、シンジ君はケイジで倒れた。初めての搭乗…脳神経や身体にどれだけの負担が掛かったのか分からないわ。そんな状態の彼に、感情に走ったあなたを連れて行けるはずが無いでしょう?これは医者としての見解よ。……少し、頭を冷やす事ね」

「………っ」

そう言われると黙らざるを得ない。

元々素人の少年、戦闘において冷静に命令を聞く事など出来よう筈も無い。

そもそも子供を戦いの場に駆り出したのは自分達大人の方なのだ。

それでも戦って勝った結果に苦言を呈するのは、筋が違うという事は十分に分かっている。

しかし、理性では納得出来ても感情が付いていかない。

ミサトの目的はあくまで自分自身の手で使徒に復讐を果す事であって、ただの傍観者になる為にNERVに入ったのでは無いのだから…。

これは先程”人類の為”とのたまった台詞と矛盾してる事なのだが、本人にその自覚は無い。…いや、あったとしても、それは”仕方が無い”ことで片付けてしまうだろう。

『建前と本音との欺瞞』…それを『自己正当化』というオブラートで包む。

使徒による歪んだ復讐心でそうなったのか、それとも本来の気質が与えられたファクターによってそうなったのか……それは誰にも分からないが。

「…でも、……だからって……」

まだ納得がいかないようなミサトの表情に、リツコは冷たく言う。

「それともあなた、彼がもう乗らなくなっても良いの?…使徒はまだ来るのよ」

「うッ……分かったわよっ」

リツコにそう脅され、ミサトも渋々といった感で頷いた。

「それじゃそろそろ自分の仕事をしなさい。いつまでも日向君に任せてるんじゃないの」

心底嫌そうな表情を見せたミサトを無視して、リツコは管制室を出て行った。

 

 

 

  NERV本部附属病院

 

カッ…カッ…カッ…カッ…

 

嫌味なほど白く清潔な通路にハイヒールの音が響く。

リツコは病院から連絡を受けた後、残務をマヤに任せてここに足を運んだ。

病室に向かう途中、リツコの頭に渦巻くのは数多くの疑問、疑問、疑問……。

 

碇シンジ。

マルドゥック機関が選考したサードチルドレン。

NERV総司令碇ゲンドウと、遺伝子工学の権威でありエヴァの基礎理論を創り上げた碇ユイとの間の一人息子として誕生。

三歳の時、親戚の家に預けられ、十四歳までの十一年間をそこで過ごす。

学校の成績は中の上、クラブ活動には所属せず。

性格は内向的で内罰的、他人とのコミュニケーションを極端に苦手とする。

趣味は音楽鑑賞、幼少の頃から個人的にチェロを習っている。

 

これがシンジに関する報告書の内容で、リツコの記憶もそれに一致する。

これだけ見れば、少し内気だがどこにでもいる普通の少年だろう。

だが……あの少年が只の少年であろうはずが無い。

使徒戦で見せた驚異的な戦闘能力…。

獲物を狩り取った獣の雄叫びにも似たあの光景…。

そして、モニター越しに見せたあの狂気を帯びた微笑…。

恐怖で凍りつき、画面に釘付けになっていたマヤは気付かなかったが、パイロットの状態を逐一観測していたリツコには解った。

……脳波、脈拍共に正常。

つまり…あれは暴走ではなく、シンジが初号機を完全にコントロールして自らの意思で使徒を殲滅させた事になるのだ……。

 

……すべてが異常だった。

 

こんな動きは今日はじめてエヴァを見た者に出来る動きではない。

そう、自分の知っている”碇シンジ”には……。

そしてリツコが最も疑問に感じたのは、初号機ケイジでの出来事。

再会した父ゲンドウに対して見せたシンジの無機質な眸の事だった。

 

リツコ達に伴われケイジに到着したシンジは、管制室の窓から見下ろすゲンドウをただじっと見詰めていた。

何の感情もぶつける事なく……。

視線の先にたまたまソレがあったかのように……。

そこには父親に向ける情などまったく無い。

そう…まるで路傍に転がる石ころでも見ているような視線。

ゲンドウも不審に思ったのだろう、怪訝な表情を浮かべていた。

それも当然だ。もっと自分に怯えるか、縋ってくるものと考えていたのだから。

だがゲンドウは、予想外の息子の反応に少々調子を狂わされながらも頭ごなしにシンジに命令する。

「初号機に乗って人類の敵と戦え」と…、怪我をしたレイを脅迫のダシに使ってまで。

ミサトも最初は反対していたが、人類の存亡が掛かっている、とゲンドウに諭されてからは寧ろ率先してシンジに搭乗を促していた。

”エヴァに乗らなければあなたは此処では用の無い人間なのよ”

”逃げちゃだめ!”

”傷ついたあの子を乗せてあなた平気なの?”

”何の為に此処に来たの!?”

”自分を情けないとは思わないの!?”

続けられるミサトの自分よがりの説得。

それが子供を戦場に送る事と分かっていながら、あえて目を瞑って……。

 

……醜い欲望を剥き出しにした醜悪なる喜劇。

 

酷く顔が歪んでいた。

リツコはそんな二人から視線を逸らした。

嫌悪感が露わになる……まるで、昔の自分の姿を見ているようで。

(私も、あんな顔をしていたのね……)

この後は更にシンジを精神的に追い詰め、エヴァへの搭乗を促すような心理操作が行われるだろう。

そして、自分にそれを止める術は無い。

第一…罪に塗れたこの手で何が出来るというのか?

変わらない。

何も変わらないのだ。

世界も…人間も…。

しかし、少年の反応はリツコの予測とは違っていた。

業を煮やしたミサトが肩を揺すぶっても、ゲンドウが罵詈雑言を浴びせても、まったく耳を貸す事なく……ただ静かに佇んでいる。

リツコはその姿にまた違和感を覚えた。

こんな処に訳も分からず連れてこられて、いきなり「正体不明のバケモノと戦え」などと言われても普通の人間が承諾出来るわけがない。

状況に付いて行けずパニックに陥るか、理不尽だと騒ぎ立てるかのどちらかだ。

事実、”かつて”のシンジは激しく抵抗した。

しかし、この不可解な雰囲気を持つ少年は、使徒の攻撃による衝撃でストレッチャーから投げ出されたレイを無表情に抱え上げるとリツコに視線を向け静かにこう言った。

「操縦法を教えて下さい」…と。

何の感情の爆発も無く…。

ただ、どこか道でも聞くかのように…。

その無機質な冷たい視線を受けたリツコは、戸惑いを覚えながらもシンジをエントリープラグへと連れて行った。

この時点では、ゲンドウもミサトも己の欲望が達成される事への歓喜に満ち溢れたに違いない。

だが…結果は誰の予想をも越えるあの惨劇。

使徒の返り血で赤く染まった初号機を見たときは、オペレーターのマヤなどは吐き気を堪えるように蹲っていたし、他の発令所の面々も多かれ少なかれ同じ様に恐怖を感じていた。

そう、我々人類最後の希望のはずだった決戦兵器に……そして、その希望の象徴たるべき僅か十四歳の少年に。

それほど異常な光景だった。

これはミサトやゲンドウにとっても不本意な結末だったに違いない。

復讐を誓う女は自分の指揮で使徒を倒せなかったが故に。

傲慢な男は生贄による使徒殲滅など望んでいなかったが故に。

すべてがたった一人の少年の手によって狂わされたのだ。

分からない事が多過ぎる。此処は本当に自分の知っている世界なのか?

 

知りたい!

あの少年は一体何者なのか!?

 

それを確かめる為にも、一緒に行くと言うミサトの同行を拒否して一人でシンジの病室までやって来たのである。

 

 

 

  NERV本部附属病院・301号室

 

コンコン…

 

シンジの病室の前まで来たリツコは軽く扉をノックする。

「…はい……」

扉越しに声が聞こえた。

ゴクリ…と、息を呑む。

…この先に彼がいる……。

リツコは漠然とした不安と共に、胸の奥に蠢く…突き動かされるような衝動を抑える事が出来なかった。




To be continued...


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