第四話
presented by ミツ様
NERV本部附属病院・301号室
ノックをし、扉を開けたリツコの目に最初に飛び込んできたのは、
通路と同じ真っ白な壁と…
病室の窓から吹き零れる風にたなびく白いカーテン…
薬品の匂いの漂う、清潔で無機質で無個性な部屋だった。
そして…その中央の白いシーツのしかれたベッドに彼がいた。
漆黒に澱んだ眸をこちらに向けて
……碇シンジがいた。
NERV本部・作戦部執務室前
「あっ、葛城さん!」
ミサトが重い足取りを引き摺りながら仕事をすべく自分の執務室の扉に差しかかると、後ろから彼女を呼び止める声がした。
「あら…日向君」
そこには彼女の部下である日向マコトが一抱えもある書類を持ちながらやって来た。
「……何よ、ソレ?」
「何って…各部署から回されてきた書類ですよ」
「マジッ!?…そんなにあんのぉ〜〜……」
ミサトが情けない声を上げた。
「あっ、でも一応僕が纏められるところは纏めておきましたから。後は葛城さんの許可が必要なものばかりです」
「……それでも、こんだけあんのね………」
トホホ顔で肩を落とす。どうやら持病の『仕事やりたくない病』が再発したらしい。
どうやってこの雑務から逃れるか、必死で頭をフル回転させる。
「…あのぅ……それでどうでした?シンジ君の様子は……」
何やら唸るように考え込んでいるミサトに、日向が恐る恐る尋ねてきた。
先程、頭に血が昇った彼女がケイジに向かうのを止めようとして、襟首を掴まれ吹き飛ばされたのだから無理は無いかもしれない。
「…え?あぁ〜……やっぱ、病み上がりの身体に事情を聞くのはちょっち酷かと思ったから、止めにしたわ…」
ポリポリと鼻を掻く仕草で誤魔化すミサトに、日向は朗らかな笑みを浮かべた。
「そ、そうでしたか……流石は葛城さん、やっぱり優しいですね」
「…そ、そうかしら?…ハ、ハハ……」
本当はリツコに諌められて不本意にも止められたとは今更言えず、嘘をついたことに少しばかり罪悪感を覚える。
「あっ、そう言えばレイちゃんの容態も安定に向かったようです」
「えっ……レイ…?」
「はい、先程連絡がありました。良かったですよね、取りあえず一安心です」
「…そ、そうね……」
そう言われたミサトの表情は硬かった。
日向に言われてはじめて、満身創痍でケイジに連れ込まれた蒼銀の髪の少女の事を思い出したのだ。
自分の迂闊さに僅かに恥じ入る。
リツコに言われるまでもなく、自分達が年端もいかない子供に大人の理屈を無理強いしていることは自覚していた。
だからといって止めるわけにはいかない。エヴァは子供達にしか動かせない…そして、自分の目的の為にはその力がどうしても必要なのだから。
護るべき対象の子供すら利用する……このジレンマに心を痛めていたはずだった。
だが、日向に指摘されるまでレイの存在が頭から綺麗に抜け落ちていたということは、本当は子供達の事など考えていなかったのではないか、自分に都合の良い道具としか思ってなかったのではないか、と自己嫌悪に陥ってしまう。
それはミサトにとって絶対に認めたくない事だった……己の良心を守る為にも。
「どうしました、葛城さん?」
急に黙り込んだミサトを怪訝に思った日向が尋ねてきた。
「…う、ううん……アタシ、今の今までレイの怪我の事忘れてたの…」
「え?」
「…ちょっち落ち込むわ。負傷したパイロットの事も頭から抜けてたなんて……アタシって指揮官失格よね……」
「そ、そんな事ないですよ!葛城さんは立派な人です!」
日向が慌ててフォローを入れる。
「…良いのよ日向君、慰めてくれなくても。シンジ君にしてもそう……右も左も分からないまま一生懸命戦った子供に、アタシは命令を聞かなかったって事だけで怒鳴りつけようとしてたんだから……ホント、自分が嫌になるわ…」
「それは……葛城さんの責任感の強さがそうさせた事ですよ。みんな分かってます!」
女の涙には弱いと言うが、憧れの上司が相当落ち込んでいるのを見て、日向は何とか元気づいてもらおうと必死だった。
「……でも……」
「葛城さんが今やらなきゃいけない事は、落ち込む事じゃなくて子供達の負担が少しでも減るように頑張る事です!僕も及ばずながら一生懸命お手伝いしますから!」
「…そうね……ありがとう、日向君」
日向の励ましで漸く心の負担が軽くなったミサトは、微かに微笑みかける。
その笑顔を見て再び心ときめかせる眼鏡の青年……彼はきっと幸せなのだろう……。
NERV本部附属病院・301号室
「……おはよう、シンジ君。どう、具合は?」
少年から受ける視線の強さに呑まれたのか、幾分硬い口調で話し掛けるリツコ。
何故これほど緊張しているのか……自分でも分からない。
「…ええ、僕はどうしてここに?」
静かに答えるシンジ。その落ち着いた声に多少気持ちがほぐれたリツコは、一つ頭を振るとシンジのもとに近づいて行った。
「座っても良いかしら?」
「構いませんよ」
シンジはベッドから上半身を起こしながら答え、リツコはそれに誘われるように丸椅子に腰をおろして脚を組んだ。
「あなたは戦闘後、ケイジで倒れたのよ。その後、この病院に運ばれたの」
「…そうですか」
僅かに呟く。
「そうよ、あなたは見事エヴァを操って使徒を倒した。…覚えているでしょ?」
シンジはそれには答えず、傍らに座るリツコを見上げるように視線を向ける。
あの闇に沈んだ眸で…。
(この目……)
小さくリツコが呟いた……やはり自分が知っている碇シンジではない。
あの子はこんな眼で人を見る事はしなかった……。
「どうかしましたか?…赤木さん」
シンジの言葉で我にかえる。
「あ、いえ…何でもないわ。それと私のことは『リツコ』で良いわよ。疲れているところ悪いんだけど、今回の戦闘に関して少しシンジ君に質問したい事があるの。……良いかしら?」
「僕で答えられることなら…」
「ありがとう」
リツコは眼鏡を掛け、持っていたグリップボードにボールペンで何か書き込む素振りをしながら少年を観察する。
「じゃあ…まず初めてエヴァに乗った時の感想から訊こうかしら…?」
「感想…ですか?そう言われても、いきなりあんなものに乗せられてどうしたら良いのか解らなかった、というのが本音です……」
「なら、戦っていた時はどうだった?圧勝に見えたけど…怖くはなかった?」
「勿論、怖かったですよ」
「………そうかしら、そうは見えなかったけど?」
「買い被りですよ。…あの敵を見た瞬間、怖くて後のことは良く覚えていないんですよ」
シンジの言葉にリツコの瞳が眼鏡の奥で鋭くなったが、すぐに緩むと再び視線をボードに戻した。
「まあ、良いわ。…次に、A.T.フィールドについてだけど、あれはどうやったか分かる?」
「…何です、それは?」
「あら、説明していなかった?エヴァや使徒が使っていた障壁の名称よ。私達はそれを『Absolute.Terror.Field』…略してA.T.フィールドと呼んでいるわ。位相空間を発生させ、物理的な攻撃を跳ね返すほどのエネルギーを持っているわ」
リツコはボードに文字を書き込みながら細かく説明するが、シンジは興味無い様に呟く。
「さあ…咄嗟にやった事なので良く覚えていません……」
「あなた自身は何も解らない。…そう言う事?」
「はい。そうなりますね」
『覚えていない』の一言で、のらりくらりと質問をはぐらかす少年の態度に流石に気分を害したようにキツイ視線を送るリツコ。するとシンジが可笑しそうにクククッ、と笑ってきた。
「…何が、可笑しいの?」
努めて冷静に語ったつもりだが…自信は無い。
少年の唇の端がゆっくりと吊り上がる。何の感情も篭らない…見る者の心を凍てつかせる様な微笑。
リツコはこの不可解な少年に気圧されている事を自覚していた。
「リツコさん……本当は別の事が訊きたいんじゃないですか?」
「…例えば、どんな?」
動揺を悟られまいと必死に無表情を装うリツコ。
「そうですね。例えば……僕の事、とか?」
「あら、随分自信過剰ね?残念だけど、年下に興味はないわ」
「フフ…そう言う意味で言ったんじゃありませんけどね……」
艶っぽいリツコの挑発を軽く受け流すと、シンジは心持ち貌を近づける。
「…貴女は僕を疑っている。それこそ、初めて会った時から……違いますか?」
その闇夜の眸はしっかりとリツコを捉えていた。
我知らず心臓の鼓動が速まるのを感じる。
……一体、このプレッシャーは何なのか?
「…そう取ったのなら謝るわ…ご免なさい。科学者として疑問に思った事は無視出来ない性格なのよ。最初、シンジ君が私の持っていたイメージとは違うものだから、つい……」
リツコはそう誤魔化し、「ミサトも何か言ってなかった?」と、シンジに訊いた。
「葛城さんですか?そう言えば言ってましたね、『何か報告書と違う』…とか」
「でしょう?あなたには不快な思いをさせて悪いと思っているわ…」
謝罪をするリツコだったが、少年はゆっくりと首を振る。
「…でもね、僕が言いたいのはそんな表層的な事じゃない。貴女から受ける感情は葛城さんとはまったく別種のモノだった。……違和感?そう言い換えてもいい。まるで旧知の人間が変わってしまったのを訝しがるような…そんな表情を浮かべていましたよ」
リツコは何も答えない。ただ無言でシンジを見詰めている。
空気が重い…まるで自分の周囲だけ固型化されたように身体に纏わりついてくる。リツコは背中に流れる汗を止める事が出来ないでいた。
「…貴女は僕を知っていた…それもかなり前からだ。だから僕に不可解な点が多過ぎると思い、それを確かめる為に此処に来た……違いますか?」
それはもはや質問ではなく断言だった。リツコはこれ以上の誤魔化しは不可能と判断し、正面突破と試みる事にした。
「……そう、なら話は早いわ。シンジ君の言うとおり、私はあなたを疑っています。何故なら、あなたが『碇シンジ』では有り得ないからよ」
「ほう…それはまたどうして?」
シンジが面白そうに訊き返す。
「それを答える前に…まず、コレを読んで貰えるかしら?」
リツコは予め用意していたファイルを取り出した。
「…これが、どうかしましたか?」
「見てのとおり、先程話したあなたの報告書…。あなたが第三新東京市に来るにあたって、ウチの諜報部が調べたものよ」
「へぇ…」
興味深げに書類をめくるシンジ。
「シンジ君はそれを見ておかしいとは思わない?NERVが事前に調べたあなたと、今、私の目の前にいるあなた…明らかに印象が違うわ」
「”百聞は一見にしかず”…まぁ、報告書なんてあまり当てにはなりませんよ。見る角度、置き換える場所によってどうとでも変わるものです」
「……そうね。そう言う可能性も否定は出来ないわ」
リツコはあっさり引き下がると、今度は別のファイルをボードから取り出した。
「それじゃあ…今度はコレを見てくれるかしら?これは戦闘時のあなたの脳波や脈拍の経緯をグラフ化した資料よ」
シンジはファイルを無言で受け取る。その表情は心持ち冷たいものに変わった。
「見て貰えれば分かるけど、まったく乱れていないわ。シンジ君…さっき言ったわね?『戦闘中の事は怖くて何も覚えていない』…って?」
「……ええ………」
「でも、この数値を見ればあなたは冷静に物事に対処し、自分の意思で使徒を倒した事になる。……それとも、これは機械の故障とでも言うつもりかしら?」
シンジは何も答えない。ただじっとリツコの瞳を見返している。
「他にもあなたには説明出来ない事が多過ぎる…。こちらの予測からは大きくかけ離れた行動……何故初めて乗ったエヴァであんな戦い方が出来たのか?そして、教えてもいなかったA.T.フィールドを発生させ、尚且つその応用までして見せた……これは、何故?」
「……偶然、とは考えられないんですか…?」
「ジェット機を”偶然”赤ん坊に操縦する事が出来て?これはそんな言葉で説明出来る事じゃないの。……それにね、報告書がどうこうと言う事だけじゃない…”私は知っているのよ”あなたが『碇シンジ』であるはずがない、って……」
ある意味危険な言葉である。
相手の真意が測れないまま、殊更コチラの手の内を晒す事など普段の彼女からは考えられない行動だ。しかし、どうしてもこの少年の正体が知りたい……この焦燥感にも似た欲求にリツコは勝てなかった。
「…私はね、それであなたをどうこうしようって気は無いの。その証拠にこの部屋の”目”は潰してあるわ。…だから、正直に答えて欲しいの、……あなたは、一体何者なの?」
もっとも、MAGIを操作して自分の研究室へのホットラインだけは生かしてあるが、その事は口にはしなかった。
リツコが出来る…せめてもの『保険』である。
しかし、矢継ぎ早に詰問をぶつけるリツコにシンジが示した態度は軽く肩を竦めただけ。
リツコが僅かに眉をひそめる。
「…答えた方が身の為よ。すぐ此処に保安部を呼び寄せる事だって出来るのよ?」
「”詰問”、”懐柔”……その次は”恫喝”、ですか?」
シンジが皮肉げに笑みを浮かべる。その不遜な態度が益々リツコを苛立たせた。
「いい加減に…」
「…『内向的で内罰的。他人と出来るだけ揉め事を避ける為に極力他人の言う事には従う。それが彼の処世術』…でしたっけ?」
「!?」
シンジの突然の発言に驚きを隠せないリツコ。
「あ、あなた…っ!何故それを……!?」
「確か…『ヤマアラシのジレンマ』とか言ってましたよね……リツコさん?」
それは、かつてシンジの人物像に関してリツコがミサトに語った言葉…。
ショーペンハウエルの寓話から取り出した人間関係のアンビバレンスを表した言葉…。
だが、この世界ではまだ一度も口にしていない。
そもそもシンジとの直接の会話はこれが初めてだ。
それを何故、目の前の少年が知っている?
まさか…?
まさか……!?
「あなた!もしかして…キャッ!?」
声を荒げてシンジに詰め寄ったリツコだったが、その後を続ける事が出来なかった。
シンジがいきなり手を伸ばし、彼女の白衣の上から乳房を掴んだからである。
「な、何をッ!?……ひィッ!!」
思わず怒りに駆られ手を払い除けようしたが、次の瞬間に起きた現象に我を忘れたような情けない悲鳴を上げた。
しかし、誰がそれを責められよう……。
【ズリュ…】
何と、シンジの手が自分の乳房を突き抜け、身体の中に埋まっていったのだ!
「アッ!?ああぁぁ…っ!は…ぁん……」
突然、快感にも似た痺れがリツコの全身を襲う。頬が上気して下腹部が一気に熱くなる。
まるで全身の性感帯を一斉に刺激され、愛撫し、責め立てられるような感覚。
リツコは立っていられなくなり、腰をもぞもぞとくねらせながらそのままシンジにもたれるように身を預けた。
「……この魂の波動…やはりそうか……」
しかし…シンジはそんなリツコの痴態にお構いなく突き入れた右手を引き抜いた。
「くふっ!あぁんッ!!………はぁ、はぁっ、はぁぁ………っ」
瞳を濡らし喘ぐリツコ。そんな彼女をシンジは横目で見ながら面白そうに呟く。
「驚いたな…”リリス”も面白い事をする。とんだ”イレギュラー”だよ……」
「はぁ…はぁ……あ、あなた…?」
身体を痙攣させながら、ようやくそれだけを口にするリツコ。
「……”アンチA.T.フィールド”。
人と人との垣根を無くす力…世界を滅ぼした忌まわしい力。
もう分かってるんでしょ、リツコさんにも?
僕も貴女と同じだと言う事が……」
シンジが唇を歪めて笑い掛ける。
”リリス”…?
”アンチA.T.フィールド”…?
”世界を滅ぼした”…?
”私と、同じ”…?
霧のように霞みがかった脳裏に次々と送り込まれる単語…。
パズルのピースがカチリとはまるように導き出される答え…。
それに辿り着いた時、リツコの瞳は大きく見開かれた。
そんな…そんな事!?
リツコが驚愕の表情で少年を見上げると、彼の背中から眩いばかりの紅い光が溢れ出す。
「…っ!?」
慄然とする彼女の目の前で、光が結晶のように凝縮し、ある姿を象る。
まるで…死神が振るう禍禍しき鎌のような……。
神話に登場する…天界を裏切った天使の様な……。
真っ赤な血の色をした、片翼だけの光の翼を……。
「そ…それは……っ!?」
今度こそ本当に言葉を失うリツコ。
「僕は…貴方達大人のエゴにより、欠けた心を世界の依代とされた
『贄』……」
少年の貌が近づく。
「人類滅亡の引鉄を引いた
『大罪人』……」
歪んだ唇から赤い舌が覗く。
「そして、第十八番目の使徒……
『リリン』……」
「あ…ああッ!あああッ!!???」
壮絶な微笑を浮かべた少年に、リツコは恐怖で凍り付いた。
「『碇シンジ』です……」
それは…翼をもがれ地に堕ちた、美しくも禍禍しい堕天使の姿だった。
To be continued...
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