贖罪の刻印

第五話(通常版)

presented by ミツ様


リツコは目を逸らせられなかった。

碇シンジ……。

この少年の存在自体から感じる圧迫感に全身の感覚が奪われていく。

そして、千切れた様に片翼しかない光の翼……。

それは狂気に満ちた美しくも禍禍しき紅い光を放っていた。

まるで、神に叛逆し地上に堕とされた一柱の堕天使のように……。

「……どうして、あなたまで…?」

リツコは震える声を抑えられない。

そんな彼女に唇を歪めながら少年は言った。

「どうして?…それはコッチの台詞ですよ。最初はまさかリツコさんまで時を遡って来たとは思いませんでした。……まあ、いくつか予想は出来ますけどね……」

シンジのその言葉に金縛りが解けたようにリツコが身を乗り出す。

「ッ!?教えて頂戴!どうしてこうなったの!?私達は一体……」

ここ一ヶ月ずっと疑問に思ってきた事だ。

時間遡行など科学者として到底信じられる事象ではない。

次元因果律はどうなる!?

質量等価の法則は!?

様々な矛盾点が頭の中を駆け巡っていた。しかし、どんなに物理法則を無視した怪現象といえども、自分が経験した以上信じる他は無い。

そして、信じたならばその原因を解明したい。

リツコは根っからの科学者なのだ。

 

だが……。

 

 

「…教えてだって?……ふふ…クックックッ………あーーーーーっははははははははははははははははははははははははははッ!!」

 

 

部屋中に響き渡る哄笑。

「シ、シンジ君……!?」

突然嗤い出したシンジ。

狂った、としか形容しようがないその嗤いはその後数分続いた。

身を捩り、身体をそり返して嗤うその姿に言い知れぬ恐怖を覚える。

リツコは無意識に一歩後退した。

 

……恐ろしい。

 

本能の叫びが頭の中で木霊する。

眼の前の少年は、自分の知っている『碇シンジ』ではない。

あの気弱で内罰的な子供はもういない。

ココにいるのは……。

 

大人のエゴによってココロを壊された狂気の堕天使……。

 

「……クク…可笑しな事を言う。どうして僕が貴女に教えてやらなきゃならないんです?」

ようやく嗤いを収めたシンジは、ニタリと口の端を吊り上げてリツコを見やった。

「僕達を動物実験のように扱い、愛人に捨てられた腹いせに綾波のクローンを壊す様を見せ付けた貴女なんかに……」

憎悪と嘲笑の篭った少年の眸。

そこには一片の暖かみも無い。

「……っ!?」

「御自分のして来た事をよく省みるんですね。僕が過去に戻って来たのだって、普通だったら貴女達に復讐する為だとか考えた方が自然じゃないんですか?」

その時になってリツコは漸く気付いた。自分がこの少年に対して犯してきた罪を……。

そう、この少年は私の罪の象徴……。

許されない。

許されるはずもない。

この少年の心を壊した一端を、自分も担っていたのだから。

「わ…私は……」

崩れ落ちるように座り込むリツコ。

声を失ったまま膝をつき、ガタガタと震え出した。

 

思い出す…。

 

己が今まで犯してきた悪行。

割り切っていたつもりだった…人の情けなど、捨て去ったはずだった。

人の道を踏み外し、ただただ、一人の男に捨てられないように手を汚してきたのだった。

 

だが……。

 

返ってきたのはその男による裏切り。

残されたのは薄汚れてしまった自分。

忘れられるはずは無い…例え過去に戻って来たとしても、それは一層自分を強く蝕む。

リツコは両肩をかき抱くように蹲った。

震える歯の噛み鳴らす音が、カチカチと小さく響く。

そこには表層的に纏っていた冷たき仮面はすでに無く、本来の心病んだ女の姿があった。

そんなリツコを、まるで虫ケラでも見下ろすようにシンジは言う。

「貴女達は僕からすべてを奪った。だから、今度は僕にすべてを奪われる番だ……そうは思いませんか?そうされても仕方が無いことを、貴女達はしてきたんですから……」

蹲るリツコの髪を掴んで自分の方を向かせる。

しかし、彼女の視点はまるで焦点が定まっていないように虚ろな光を浮かべていた。

シンジはそんなリツコの醜態を見て、何か思い立ったかのように唇を歪める。

「…もっとも、リツコさんは経験者でしたねぇ。父さんに純潔を奪われたあの日から……」

ビクッ!と震えるリツコの身体。

その言葉に反応するように、徐々に正気を取り戻す。

だが、その表情には怯えの色が窺えた。

胃の中が氷結し、皮膚が粟立った。嘔吐感が込み上げる。膝が震え、姿勢を保つ事が出来なくなる。

リツコの脳裏に過ぎるのは、忌まわしい過去の記憶だった。

 

 

 

子供の頃から遠巻きに囁かれていた…科学者として高名な母親を通してしか見られない自分。

”あの”赤木博士の娘……。

その言葉が嫌で、いつか追い越そうと志した同じ道。

裏を返せばすれ違いばかりの母ナオコに、自分を認めてもらいたかったのかもしれない。

だが…母は振り返らなかった。

その時、母は”女”になっていたのだから。

リツコは、ナオコがゲンドウと情事を重ねていた事を知っていた。

『本当に良いのね?』

『…ああ、自分の仕事に後悔はない』

『うそ…、ユイさんの事、まだ忘れられないんでしょ?…でも、私は良いの……』

そう言って唇を重ねる二人…。

あの時の衝撃…胸の苦しみ…心の昂ぶりを忘れる事が出来ない。

そして、心の奥底に眠るどす黒い欲情が鎌首をもたげてきたのを自覚したのもあの時だった。

ナオコの死後、ゲンドウにはじめて犯された時、身を切られるような屈辱感と共に母の”男”を奪う背徳感…女としての優越感が込み上げてきたのを確かに感じていた。

”科学者”としての母を越える事は出来なかった…。

でも、”女”としてなら……。

…いびつに歪んだ母への愛憎。

そしてリツコはゲンドウに屈した……。

自らの下らないプライドを守る為、この男を愛しているのだと思い込んだ。

肉欲に屈した浅ましい自分を認めたくなかった。

愚かだった………。

 

 

 

「そう…貴女は結局良いように利用されていただけだった……」

シンジの冷たい声がリツコの鼓膜に響く。

「父さんの目は常に綾波…いや、彼女を通しての母さんしか見ていなかった……」

発せられる言葉一つ一つが鋭い刃のようにリツコの胸を切り裂く。

「…そう、貴女は死んだ人間や、代わりの人形にすら勝てなかったんだ……」

 

「……………いや………」

聞き取れない程のか弱き声……そこに”鉄の女”と評された赤木リツコの姿は無い。

蹲り、震えている彼女の頭に、自分の中の冷めた部分が囁く。

(そんな事…分かっていた筈でしょう?あの男は私を愛してなどいなかったなんて……)

酷薄な微笑を浮かべて語りかけるもう一人の赤木リツコ。

そう…私はあの男の計画の為のただの”駒”だった。

 

「……そんなこと、…………そんな…こと………」

思わずいやいやと耳を塞ぐ。

だが、もう一人の自分は更に己の心を蝕んだ。

(でも、例え幻想でも縋るしかなかったのね…自分の弱い心を隠す為に……)

 

いつも冷たい仮面を付けていたのは、そんな自分の心を覗かれたくなかったから?

知られてしまえば、蔑みをもって見られてしまうのが分かっていたから?

……嫌になるくらい薄汚れた己の心を……

 

「………わ、私は……」

(”科学者”として及ばなくても、”女”として勝ちたかった。……その結果がこれ?笑わせるわね……)

結局誰も越える事は出来なかった……浅ましく中途半端な自分。

 

本当は誉めて貰いたかっただけなのにね?

自分を見て貰いたかっただけなのにね?

ダレニ?

 

 

「…ち、ちがう……違う…違う…違う違う違違う違う違う違う違う違違う違う違う違う違う違違う違う違う違う違う違違う違う違う違う違う違違う違う違う違う違う違違う違う違う違う違う違違う違う違う違う違う違違う違う違う違う………」

リツコは耳を抑えたまま狂ったように頭を振る。

だが、もう一人のリツコは冷厳に今の自分を見下ろして言った。

 

 

 

(無様ね………)

 

 

 

「嫌ぁぁぁぁああぁぁあぁぁぁあああああぁぁぁぁああああぁぁあああッッ!!!」

 

 

 

絶叫し、泣き崩れるリツコ。

冷静冷酷な仮面はヒビ割れ砕け散った……そして、ただただ…痛いほど愚かで哀れな人間がそこにいた……。

「…おっと、これくらいで壊れないで下さいよ?…僕達が世界に対して犯した罪はあまりにも大き過ぎる。…報いは、受けなければなりません……」

シンジは侮蔑を篭めた視線を変える事なく、崩れ落ちるリツコの身体を支える。

だが、それでもリツコは哭いていた。シンジの胸に縋りつき…まるで幼子のように哭き続けた。

シンジは何も言わず、ただじっと彼女の哭くがままにさせている。

見詰める漆黒の視線は、不気味なほどの闇を湛えていた…。

どれくらいの時が過ぎただろうか……?

震え…蚊の鳴くような微かな声で何事か呟くリツコ。

 

「………………すれば……の………」

 

「…何の事です?」

聴こえてきたその言葉に、シンジは訝しげに聞き返す。

「……どうすれば………どうすれば、償えるの…………?」

「償う、とは……?」

僅かに細まる少年の眸。

その言葉の真意を探るように…鋭い光を放つ。

「私達は……私は、あなた達に酷い事をした。………決して許されるものじゃ無い事くらい判っているわ。…でも、償いたいの……!お願い、教えてッ!どうすれば良いのッ!?どうすれば償えるのッ!!?私は……わたしはぁぁぁッッ!!!」

嗚咽を繰り返して咽び泣く。

膝はガタガタと泣き、両腕にも力が入らない。

ともすればそのまま失神しそうになりながらも、リツコは必死にシンジにしがみ付いた。

しがみ付いて訴えた。

まるで…主に救いを求める哀れな罪人のように……。

帰る家を見失った幼子のように……。

シンジはその顔に手を当て、ゆっくりと持ち上げていく。

後悔…

懺悔…

自責…

嫌悪…

あるいはそのすべてか…

複雑な光で濡れたリツコの瞳を、シンジの眸が捕える。

 

 

「………………………………どんなことでも、しますか………?」

 

 

囁かれたシンジの言葉に、リツコは弾かれたように顔を上げた。

「するわッ!!」

「……………だったら………」

 

そう語った少年の漆黒の眸が邪悪に光ったのを、その時のリツコは気付かなかった……。




To be continued...


(あとがき)

こんにちは、ミツです。
この第5話にはR指定版があります。
これは+αというか、リツコさんの心理部分をより深く描いたものです。
ただ、性的描写が含まれますので、その手の話に嫌悪感を感じる方や興味の無い方は見なくても通常版のみで大丈夫なつくりにはしてありますが、見てみたい方は私の方までご一報ください。
では、次回も頑張ります。

作者(ミツ様)へのご意見、ご感想は、メール または 感想掲示板 まで