贖罪の刻印

第八話

presented by ミツ様


  NERV本部・技術研究室

 

広い造りの部屋には、各種機材や研究資料等のデータがあちこちに置かれており手狭な感がするが、決して散らかっているという印象は受けない。

リツコの性格上、それぞれが用途別項目別に分類され、整理されているからであろう。

いかにも実利的な研究室という感じだが、中央の事務机の周りに置かれている猫の置物が個性を出していると言えばそうなるだろうか。

この研究室に、リツコとシンジが座っている。

ゲンドウとの会見が終った後、少年はリツコをこの部屋で待っていたのだ。

「何か飲む?」

「ええ、頂きます」

椅子から立ち上がった彼女はコーヒーメーカーに向かい、珈琲を淹れる。

「大方あなたの希望通りになったわ…」

マグカップをシンジに手渡しながら先程のゲンドウとの会話の内容を告げた。

シンジは、「そうですか」と言ってカップに口をつける。

そんな何の関心も無さそうな態度に溜め息を吐きながら、リツコは先程からの疑問を口にした。

「…でも、意外ね」

「何がです?」

「あなたが出した条件よ……」

シンジがリツコに正体を明かしたとき、彼女に要求したのは『本部施設内の居住』だった。

つまり、公務室でリツコが提案したのは実はシンジからの指示だったということになる。

ただ、ケンドウとの会見で余計な懸念を抱かせない為にリツコからの提案という形にしたのだが、それにどのような思惑があるのか…リツコは聞いていなかった。

「自分の計画通りに事を進めたかったら、戦闘中における判断優先権くらいは主張してくると思ったんだけど……?」

はっきり言って、今回作戦部は何の役にも立っていない。的確な指示を出す事も出来ず、ただの傍観者に成り下がっていた。

もっとも、シンジが指揮する暇すら与えなかった事もあるのだが、そんなことは弁明にはならないだろう。

彼女達は戦闘のプロの筈なのだから…。

シンジが作戦部の能力に疑問を抱いて、自身の身を守る為にそれらの権利を要求したとしても無理な話ではないように思えた。

しかし、少年からの答えは意外なほどあっけないものだった。

「”権利”を主張するには”義務”を伴う必要があるんですよ……」

「…権利と義務?…………そうか……成る程ね」

リツコは、その台詞だけでシンジが何を言わんとしているのかを察する。

「…つまり、そんなものを要求したら戦闘に関しあなたが責任を取らなくちゃならなくなる……そういう事ね?」

「ご名答…、責任というものは上司が取って頂かないと……」

そう言うと少年は、意地の悪い笑みを浮かべた。

その人を食った表情に鼻白むリツコだったが、考えてみればシンジの言う通りなのだ。

NERVはその為に様々な特権を国連から得ており、給料も貰っているのだから。

そして、いかに有利だろうと、指揮権を寄越せなどと一介の中学生が考えつく事ではなく、ゲンドウ達に余計な不信感を抱かせない為にも、その方が賢明なのかもしれない。

「でも、副司令の方はかなりあなたに不審の念を抱いていたわ。どこかの組織のスパイじゃないかって……」

「でしょうね…」

可笑しそうに声を殺して笑うシンジ。

その姿を横目で見ながら、リツコは病室での出来事を思い出していた。

 

 

 

  〜三時間前〜NERV附属病院・301号室

 

「…もし貴女が、御自分の罪を償いたいと仰るなら……」

シンジがリツコに能面にも似た無機質な貌を近づけた。

「僕に協力しませんか…?」

「きょ、協力……!?一体、どんな………?」

思わず顔を上げる彼女に、少年は薄く笑いかけると、

「…その前に一つ伺いますが、リツコさんは一体どこまで覚えているんです?」

「…………わ、私は……」

リツコは言葉に詰まる。

ターミナルドグマでのカスパーの裏切り…そして、ゲンドウに衝きつけられた銃口。

思い出したくもない忌まわしい記憶。

俯き、項垂れるリツコに皮肉気に唇を歪めながらも、シンジは小さく囁いた。

「サードインパクトが起きたんですよ……」

「…ッ!?」

リツコは驚愕で目を見開く。

サードインパクトが…起きた!?

今、シンジは確かにそう言った。

 

サードインパクト。

使徒が地下に眠る白い巨人に接触すれば起こるとされた人類最後のカタストロフィ。

だが、リツコはそれがフェイクだという事を知っている。

剣から銃、ミサイルから核兵器へと…

歴史を見ればわかるように、人を…世界を滅ぼす手段を講ずるのはいつだって人間なのだ。

 

「………そう、じゃあ”人類補完計画”が発動したのね……」

SEELEかゲンドウか…あるいは両者の野望が遂行されたのだ…リツコはそう判断した。

しかし、シンジから返ってきた答えは彼女の予想とはまた別なものだった。

「ええ……但し、不完全なカタチでね」

「どう言うこと…?」

意味深な発言に、リツコは訝しげに尋ねた。

「最後の…”使徒”を倒した後、SEELEの白いエヴァがNERVに攻めて来ました」

「SEELEの事まで知っているの……!?」

白いエヴァとは、現在世界各国で建造中の量産機の事だろう。

「はい…目的は初号機を依代にしてサードインパクトを起こし、自らが神になること。その生贄として心の欠けた僕を使うのは都合が良かったんでしょうね……」

そのシンジの自虐的な笑みを見てリツコは沈んだ顔をのぞかせる。

知っていた事だ…自分もその計画に加担していたのだから。

「……ええ、そして司令もまた………」

彼女が顔を伏せると、少年から意外な言葉が返ってきた。

「違いますよ……」

「え…っ?」

一瞬、怪訝な表情を浮べる。

「…あの男は自分の欲望の為だけに、SEELEとはまた違ったシナリオを用意していたんですよ」

凍らせた毒酒にも似た冷笑を浮べ、シンジは静かに語った。

 

ゲンドウの真のシナリオ…!

 

「そ、それは何!?一体何なのッ!!」

リツコは思わず身を乗り出した。

それが一番知りたかった事だった。何の為に上位組織であるSEELEを裏切ってまで己の補完計画を押し進めたのか……利用していた自分にも本筋のところは一切語ってはくれなかった。

シンジは一瞬意外そうな顔を浮かべたが…やがて納得したように、

「……そうか、リツコさんは最後まで分からなかったんですね。…考えてみれば貴女にすべての計画を打ち明けるワケもないか……」

「…………」

そう独り言つシンジの言葉に、顔を顰めながら俯くリツコ。

「…良いでしょう、教えてあげましょう、”真実”を……。あの男が企てた計画のすべてを……」

少年が天使の様な美しい微笑を浮かべる。だが、その眼はまさにイヴに禁断の果実を食させた毒蛇の如き残忍な光を帯びていた。

歪められた唇がそっと近づき、口元が妖しげに動く…。

 

 

 

「碇ゲンドウの補完計画……それは、最後の刻に自分の妻、碇ユイに巡り逢うこと……」

 

 

 

ふいに齎された真実の果実…。

その言葉を聞いたとき、リツコは一瞬呆けたような表情を浮かべた。

何…?

今……何て言ったの?

動悸が激しい。

思考がついていかない。

シンジの告げた言葉の意味を一瞬理解出来なかった。

最後の刻に妻に逢う…?

額からつっと汗が流れた。

「な、何よ…………それ……」

己の声を搾り出すように小さく呟くリツコ。

うそ……だって、あの時……?

リツコを己の計画に誘った時のゲンドウの言葉が思い浮かぶ。

 

『…人の心は根源的に不完全に出来ている。不完全故に人は心の闇を恐れ、他人を疑い、自分を嫌う…。人には絶対的な心の充足が必要なのだ。人が革新するための神への挑戦…それが人類補完計画だ…』

 

『…SEELEは己が神となる補完計画を遂行しようとしている。だが、それで救われるのは一部の選ばれた民だけだ…、ヤツ等の傀儡以外に存在を許されない世界に何の意味がある?』

 

『…俺は老人達の計画を乗っ取る。……リツコ、この俺に手を貸せ…』

 

そう言って私の身体を抱き寄せたあの時の顔。

冷たいながらも、真っ直ぐにこちらを向いた瞳。

 

 

あれが、すべて偽り……?

 

 

あの男の本当の目的。

ただ自分の妻に逢う為だけに…。

私はその為の道具に過ぎなかった……。

冷たい汗が背中をつたう。

 

「これがリツコさんも知らなかった碇ゲンドウの”人類補完計画”の全容です。…何てことはない、ただ妻恋しさに耐え切れず人類無理心中を諮ろうとしただけなんだから……」

シンジが静かに語りかけるが、呆然としているリツコの耳には届いていない。

「ただそれだけの為に貴女を利用し…、ただそれだけの為に綾波を使い…、ただそれだけの為にアダムとリリスの禁断の融合を果そうとした……。もっとも、それで逢えたのは自分の心の中に棲む理想の人。何も傷つけない、裏切らない、ただ微笑みだけを浮かべてくれる虚構の人格…。枕に顔をうずめて写真でも抱えて寝れば誰でも夢で見れる程度の幻のようなシロモノでしたけどね……」

吐き捨てる様なシンジの発言。その声は明らかに侮蔑の色が見てとれた。

身内の…それ故に湧き起こる深い憎悪の念だろうか。

しかし、今のリツコにはそんな言葉など頭に入らなかった。

「……それが、人類を………世界を滅ぼした、理由なの……?」

震えながら呟く。

信じられない…信じたくない!

…だが、これですべてが繋がる。

初号機への執着も、レイへの拘りも…。

そして……すべてはこんな下らない欲望の為に!!

 

 

 

ギリッ!

 

 

 

悔しさに歯軋りが鳴る。

一体自分は何の為に尽くしてきたのか?

己の手を血で染め、人の道を踏み外してまで?

そんな下らないものの為にこの身を汚してきたのか…!?

(無様ね…本当に道化じゃない……)

リツコは頽れる。ずるずると、指先で壁を引き摺るようにして床に崩れた。

冷たい感触が頬を伝わった。

抑え切れない感情が堰を切って溢れ出る。

後悔などいつでもしてきた。

涙なんてとうの昔に枯れ果てたはずだった。

だったら何故…?この零れ出る滴は何を意味する……?

「……信じていた者に裏切られる気持ち、僕にも良く分かりますよ……」

少年の声が鼓膜に響く。

シンジは、先程とは一転して優しげな声でリツコに話し掛けた。

「リツコさんがどんな結末を辿ったか…大方の予測はつきます。そして、このまま進めば確実に再来する事もね……」

「…ッ!?」

一瞬浮かべたリツコの表情の変化に自然と唇が歪み、その端から白いものを覗かせた。

「いいんですか、そんな事で…?貴女の人生を狂わせたあの男の良いように利用されて……」

少年の瞳がリツコを囚える。

すべてを凍りつかせるような昏い深淵の闇…。

 

 

ファウスト博士を誘ったメフィスト・フェレスもこんな表情を浮かべていたのだろうか…?

 

 

こんな……凄惨な眼光を湛えた美しい魔性の貌を。

 

 

悪魔の力と契約の鎖…。

 

 

その代償に必要なものは……確か…?

 

 

リツコはシンジの眸を真正面に受け止めながら、そんな思いが頭を過ぎった。

(…確か……悪魔に魂を売った人間は、未来永劫地獄の炎に灼きつくされるというけど……)

…だが、それも良いだろう。

…どうせ地獄に堕ちるのなら、とことんまで堕ちてしまおう。

…自分を汚した男に対する復讐の”鋏”を目の前の少年が持っている。

…ならば、自分はその為の”糸”を紡ぎだせばいい……。

ゾッとするほどの沈黙が落ちた後、リツコは負の感情に支配された眼差しでシンジを見上げた。

少年は、天使のような優しげで残酷な微笑を浮かべ続けている。

…ひょっとすると、私はずっと望んでいたのかもしれない。

…心の奥底に…自分でも気付かぬ内に、どろどろと醜く蠢くものを育てていたのかもしれない。

…そして、それをこの少年が解き放ってくれる。

…その先に待つものが、たとえ破滅であろうとも……。

その想いは歪んだ自己破壊欲と同時に、得も言われぬ歓喜の波動をリツコの全身に疾らせた。

 

 

「…………それで?あなたは私に何をさせたいの?」

 

 

リツコは熱に浮かされたような声でようようと言った。

頬が小刻みに震えている。声が出ること自体、不思議だった。

リツコの声を聞いた少年は、一瞬その瞳を見返し眼を細め唇を歪める。

「……良いですよ、…今のリツコさん。凄く良い瞳をしている……」

そう言って、心底面白そうに嗤いかけた。

「おべんちゃらは良いわ。あなたは私の力を利用したいんでしょう?私も同じ…。あなたを利用させてもらうわ、私の為にね……」

傲然と言い放つリツコ。

狂った神との汚れた契約……。

その呪われた契約書に心病んだ女科学者は自ら印を押す決意をしたのだ。

シンジはその言葉に満足したように頷くと、リツコの耳元に顔を近づけ、そっと囁いた。

「それは……………」

 

 

 

  NERV本部・技術研究室

 

「…でも、良かったの?ミサトと暮らすものとばかり思ってたんだけど…?」

リツコは自分のマグカップに口を付けながら、チラリとシンジを見詰めて言った。

「僕が?…冗談でしょ」

「家族……だったんじゃなかったかしら?」

自分でも白々しいとは思いながらも、少年の心の一端が知りたくてつい口にした。

だが、シンジは興味無さそうに呟く。

「忘れましたね…そんなこと……」

その眸には一切の暖かみも感じられない。

まがいなりとも以前は一緒に共同生活を送ってきたのである。

たとえそれが幻想だったとしても……。

だが、その表情からは人間らしい感情を読み取れる事は出来なかった。

「…そんな事より、手筈の方は?」

シンジは今の会話など忘れたようにリツコに向き直る。

「ええ……あなたの言うとおりに細工を施すわ。今度の点検は一週間後だから十分間に合うと思うけど……。それから、これがあなたのパスよ」

そう言って、懐からNERVのIDカードを取り出す。

「見た目は以前と変わらないけど、司令と同等のレベルにしてあるわ」

「これがあれば本部で僕が行けない処は無いという事ですね?」

シンジは受け取ったカードを指先で弄びながら言った。

「…ええ、MAGIへの直接アクセスも可能よ。それに、十分間だけだけどログにも記録されないようにしたわ」

「ありがとうございます。さすがリツコさん、仕事が早い……」

「……でも、本当に良いの?」

「どう言う意味です…?」

「今回の件…もし発覚したら私だけじゃない、あなたまで命を奪われるわよ。司令やSEELEはシンジ君が考えているほど甘くはないわ……」

「甘くは見ていませんよ。いくら『リリン』の力に目覚めたとはいえ、大した力を持っているワケじゃありませんからね……」

「そうなの?」

知的好奇心が刺激されたのか、リツコが聞いてきた。

「僕は補完から抜け出した存在。所詮は『リリスの出来損ないの子』ですから……。アンチA.T.フィールドだって精々リツコさんにやった程度で、とても生命体をLCL化させるなんて出来ませんしね…」

「…………ぁ……っ」

病室での快感を思い出し、顔を赤めるリツコだったが、シンジは構わず続けた。

「A.T.フィールドの強度だってたかが知れている……良くも悪くも”群体”として生きるしかなかったんですよ、人間は……」

その程度の生命体で何が神か?…そんなモノになりたかったのだろうか、SEELEは…と、シンジは皮肉げに唇をゆがめるしかない。

「なら、余計に危険なはずよ……。それでも、やるの…?」

「黙って従う道を選ぶなら、今此処にこうしていませんよ。……それに言ったでしょう?我々が犯してしまった過ちはあまりにも大き過ぎたと…、その報いは受けなければなりません。SEELEも、NERVも、僕も、そして貴女も……」

更に反駁しかけたリツコだったが、シンジの鋭い眼差しに射竦められ言葉を失う。

眸の奥底から垣間見える、底冷えするほどの熱く…そして、冷たい光。

少年の凄愴な眸が、気丈なリツコの心まで一塊の煙に変えたようだった。

……この少年はやるだろう。

たとえ相手がどれだけ強大な力を持っていようとも。

彼の想いを打ち崩すことは出来はしない。

そして、その苛烈なまでの意志は自分自身すら許してはいないのだ。

リツコは血も凍る思いで目の前の少年を畏れた。

ふと、シンジの眸がチカラが急に緩んだ。そして思い出したように呟く。

「……”ミサト”さんもね…自分の心を誤魔化す、なんて事なかったら……」

(シンジ君………?)

そう呟いた少年の貌は、この世界に来てはじめて見せたリツコの知っている”以前”のシンジのものだった。

 

繊細で…

 

脆くて…

 

ガラスのように透きとおった儚げな眸…

 

しかし、それも一瞬の事だった。すぐに冷たく澱んだ眸の色に戻る。

「ま、そこがリツコさんと”葛城”さんの違い…ってヤツかな……?」

「残念です」と言ったシンジの顔は、その台詞とは裏腹にとてつもなく嬉しそうな…それでいて禍禍しい表情を浮かべていた。

漆黒の炎を宿した眸を見開き、狂気を湛えたその姿にリツコは戦慄を覚える。

この少年は狂ってしまった。

人類に…世界に絶望して……。

そして、勝手に押し付けられた人外の力。

もはや人間という枠組みからも外された存在。

どのような言葉もこの少年を慰撫することは出来ないし、どのような人間もこの少年を理解することは出来ないだろう。

人の姿を纏いし、人に有らざるモノ……。

怖い…でも、何故か魅入られたように目を逸らす事が出来ない。

……魂までも奪われる愉悦。

シンジの冷笑を見詰めながら、リツコは胸を締め付けられる息苦しさと同時に、痺れるような圧迫感をも味わっていた。




To be continued...


(あとがき)

こんにちは、ミツです。
この「贖罪の刻印」では、リツコさんはゲンドウ氏の画策するサードインパクトの本当の目的は知らされていなかったという設定にしています。
個人的な見解で申し訳ありませんが、今まではSEELEの計画を自分達が横から奪い取るとだけ教え込まれていたと解釈してください。

でもまあ、それはともかく……リツコさん、相変らず外道な人間に弱いようですね。(^^;
良いんでしょうか、こんなんで?(^^;

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