第九話
presented by ミツ様
第三新東京市
傾きかけた太陽が緋色の光を芦ノ湖に投げかけている。
遠くに見える尾根の線、湖に写し出された長尾峰が美しく幻想的な色彩を放ち、それは光と闇の刹那の邂逅を演出していた。
その黄昏時の紅の中を一台の黒いリムジンが、メインストリートを抜けて郊外の方向へ向かって走っている。
いつもならこの時間帯はラッシュアワーの渋滞で混雑しているところだったが、その日の通りは全く車や人の姿は見えなかった。
まるで死の街のように閑散と静まる街並み。僅かに輝くイルミネーションの光だけが、まだそこが人の棲む存在の証である事のように瞬いていた。
「…戒厳令か、埒も無いことだな……」
滑るように進むリムジンの後部座席に深く身を沈めながら、碇ゲンドウは冷たい視線を窓外に向けていた。
使徒の襲来を受けた第三新東京市の議会は、市街地と近隣付近に期限付きで通行制限令と外出禁止令、そして一部報道統制令を発令した。
対内的にも対外的にも緊急時の治安維持の為、止むを得ない処置と説明しているが、これにはいくつかの裏がある。
何故なら、この戒厳令はNERVの筋書きのもとに、冬月が議会を介して布告させたものなのだ。
もっとも、国内外の反発を避ける為、『戒厳令』などという言葉自体は慎重に控えてはいるが、”事実”を隠蔽し、都合よい”真実”を捏造する為には多少の時間を有するという計算に基づいての判断だった。
しかし、ゲンドウは所詮このような処置など無駄である事を知っている。
……隠し通すには”事実”が強烈過ぎたのだ。
犠牲にされた一つの街…焦げ付いた大地や破壊された建物の傷跡がすべてを物語っている。
そして何より、この街に住む全員が”あの”獣のような咆哮を聞いてしまった。
避難勧告が解除され、今でこそ虚脱状態から抜け切れず唯々諾々と従っている市民だが、数日のうちに不満や真実を求める声が爆発するであろう事は容易に予想出来た。
そしてその矛先が議会、ひいてはNERVに対して向けられる事も……。
本来ならば何らかの有効な対策を講じなければならないのだろう。だが、後部座席に座した男はそんな事など瑣末な雑事であるかのように流れ過ぎる街並みを見つめていた。
事実、ゲンドウには何の関心も無かった。
最先端科学技術の粋を結集して建造されたこの要塞都市も…、
ひたすら流れる時の中に、茫漠とした豊かさを求めて日々を生きていく人々の行く末も…、
男には何の価値も為さない。
すべてが無味乾燥な俗事として、ただ脇を通り過ぎて行くだけだった。
彼にとって、この世に映るものなど遠く霞み掛かった幻のように儚げなものなのかもしれない。
碇ゲンドウ…
対使徒迎撃特務機関『NERV』の総司令を勤める彼は、世界を裏で操る秘教組織『SEELE』の中でも一際鋭利な能力を備えていた。
実際、この若さでゲンドウは実質的にNERVを動かす中心となっており、さらにその手腕は豪腕と謳われている。
だがその一方で、他人を無機物のように扱う傲慢な態度が、彼を一層冷たく近寄り難い存在に見せているのも事実だった。
何故それほどまでにまわりのものを強固に拒むのか。
ビルの反射光の光を受けて浮かび上がる男の顔には、人を思わせる感情は何一つ読み取れなかった。
サングラス越しの瞳には地に穿たれた無限の洞窟のように深く沈んでいる。
ゲンドウは遠い闇の彼方から、身じろぎもせず夜の街を見続けていた。
NERV本部。地下電算室
各種コンピューターが無機質な樹木の如く起立している広大な部屋。
暗蒼色の薄暗い光沢に比例するように部屋の温度も低く、吐く息も白い。
そこのMAGIと直結されたデータバンクの前で、シンジは端末を操作していた。
勿論、リツコから受け取ったIDカードを使ってだ。
この魔法のカードを使えば難解なセキュリティやパスワードも、まるで蝶番の外れた扉のように次々とクリアされていく。
「…流石に大したものだ」
少年は軽く感嘆の表情を浮かべてコンソールを動かす。
そして何千万単位の項目の中から、必要なインデックスを探し出し閲覧してはディスクに落としていった。
「……成る程、これがセカンドインパクトの真相…そして、アダム接触実験の全容か……。”ミサト”さんはこの為に呼ばれたんだな……」
今シンジが見ているデータは、秘匿レヴェルSランクにあたる歴史に隠された闇の真実…。
葛城調査隊が犯した人類最大の愚行だった。
…南極で発見された光の巨人。
それは大気汚染や地球温暖化によって、融け始めた南極の氷を調査している最中に起きた偶然の出来事だった。
積層重粒子測定の結果、その巨人は数十億年前に宇宙の何処からか地球に飛来した異星文明の結晶である事が判明、人類は神を拾った事に狂喜した。
何故なら、歴史学大発見はもちろんの事、その巨人の抗生物質のサンプルを調べた結果、人類にとってまったく未知の物質が検出されたからだ。
さらに科学者の興味を大きく惹いたのが、その物質がそれ自身、膨大な情報を内包し、しかもその情報を処理しながら状況に合わせ進化的に自らの構造を変えていく事が出来るといった、まさに信じられない特性を持っていると推察される点であった。
これが真実なら、その謎を究明すれば生命のメカニズムを解き明かす鍵ともなる。
それが人類にとってどれほどの恩恵をもたらすか…子供にも解る理屈だ。
病気、怪我、ひいては寿命まで……人間がもつあらゆる根源的な恐怖から人類は開放されるかもしれないのだから。
そしてその事実は、人類限界説を説いていたSEELEにも同様に、あるいはそれ以上の衝撃が走った。
それまでは先祖の世迷言程度にしか思っていなかった『裏死海文書』が真実だと知ったからである。
”この巨人を意のままに操る事が出来れば、自らが新時代の神にもなれる”
そう考えた彼等は、巨人を目覚めさせる為にあらゆる方法を試みた。
電気的なショックをはじめ、高エネルギー波や宇宙線の照射……様々な角度から集中的な研究が行われたが、それは科学者の努力を嘲笑うかのように一向に目覚めようとはしなかった。
何の成果も得られないまま徒に日々が過ぎていったとき、科学者陣はこの巨人には何か決定的に欠けている部分があるのではないかと考え始めた。
人間の場合もそうだが、生命において未だにほとんど技術的成果を得ていないのは意識の領域だ。
この巨人も、もしかしたら肉体的には完全でも、肝心の意識の部分が抜け落ちているのではないか。
ならばそれを代替する措置が必要と考えたのは、ごく自然な流れだったろう。
科学陣はこれに対して一安を講じる事になる。
人間の脳を流れるA10神経…それを投射する事により”意識の伝達”を生じさせ、半強制的に巨人を覚醒させようというものだった。
だが、ここにも問題が生じた。
意識の強制接続による被験者の精神汚染の問題。そして何より、まったく異なる環境下の生命体同士のコミュニケーションが本当に成立するかどうか?…という事だった。
前者はヘタをすれば人道問題にも発展する危険性があり、後者のコミュニテーションとて、もし成立するとしても、言語・文明・倫理観・その他様々な概念…それら一つ一つの検証には更に膨大な作業が必要となってくるだろう。
しかも、もし目覚めたとしてもそれが我々人類に敵対する生命体だったらどうする?
それに対抗する手段は?対策は?
あまりにも不確定要素が高い中、実験に対して慎重論が主流を占め始めた時、一人の科学者が暴走した。
見たいものを見たい…、知りたいものを知りたい…、その欲求のみがすべてに優先される男だった。
本来なら一蹴される意見だった。しかし、問題はその男が科学陣のリーダーを務め、裏には国連すら動かすSEELEの働きかけがあったところにある。
実験は半ば強引に行われた。そしてその被験体に使用したのは自分の娘だった。
接触実験においてはより感受性の高い子供の方が結果が顕著に現れるというのが表向きの理由だったが、内実は、身内なら口止めも容易く、世論を上手く誤魔化せるだろうという姑息な配慮からである。
データの中には膨大な量の研究資料と共に、身体中にコードを繋がれ、測定器の前に横たわった少女の画像も添付されていた。
その人物とは推して知るべしだろう…。
異生命体との意識レヴェルでのシンクロ実験。
当時14歳の少女…葛城ミサト。
つまり彼女は人類最初の『チルドレン』という事になるのだ。
「…何も知らないのは本人だけか……。元々見当違いの復讐だったが、これでは喜劇にすらならない……哀れだね」
自分の父親にモルモットのように扱われている少女の映像を灰色の表情で見詰めるシンジ。
この実験の結果、引き起こされた暴走事件。
唯一の生存者である葛城ミサトが事件の直後、重度の言語失調症に陥った事は知っている。
現実を拒否し、孤独の中で生きた少女は、そこで事実を自分の都合の良いように歪曲して構成していったのだろう。
知識欲・名誉欲の為だけに自分を利用した男は……仕事に忙しい、でも不器用で優しかった父に。
家庭も省みず、研究の事しか頭に無かった男は……最後の最後に自分を助けてくれた父に。
まるで実験動物のように扱われたという現実は色を失い、幼い少女にとってその空想が自分の中の真実となった。
そして大人になった彼女は決意する…”自らの手で父の復讐を果す”と……。
己の…いや、世界の運命までも狂わせたのが誰なのかも知らぬままに……。
だが、忌まわしき過去は深層心理として本人も意識せぬまま深く心の奥底にこびり付いていたのかもしれない。
その父への屈折した愛憎が、使徒に対する歪んだ憎悪となって溢れているのだとしたら……。
数奇な運命に翻弄された”元”家族。
何故、こうも人は肉親に対して特別な感情を抱くのだろう…。
自らを傷つける”最初の他人”でしか無いのに…。
シンジがそんな愚にもつかぬ事を思考していた時、視界の端に別のデータが飛び込んできた。
「ん?…不可視属性ファイル……バグか?」
カスパーの中に圧縮されたかなりの容量のデータ…しかし、まったくアクセスを受け付けない。
リツコのIDを使ってもそのファイルを解凍する事は不可能だった。
「…これでも開かないのか……」
僅かながらに焦りを感じる。
このIDの効力は十分間……それが一秒でも過ぎてしまえばシンデレラの魔法は解け、MAGIにログを残す事になってしまう。
もうあまり時間が無い。
おそらくリツコもフォローしてくれるだろうが、今の段階でヘタに痕跡を残すのは拙い…。
(今回はここで引き上げるか…)
シンジがそう思い立った途端、ふとある事が思い出された。
それは、コンピューターに侵入する使徒を撃退した晩、ミサトがその経緯を酔ったついでに話してくれた事だった。
『今日MAGIに潜った時に偶然面白いもの見つけちゃったのよ〜〜…実はさぁ……」
何か大変な秘密を見つけた子供のように嬉しそうに語った言葉。
シンジはその文字を操作ボードに打ち込んでみた。
《イ・カ・リ・ノ・バ・カ・ヤ・ロ・−》
カスパーに残されていたという悪戯書き。
勿論、そんな戯言でパスワードが何とかなるとはシンジも思っていなかったが、カスパーに圧縮されたデータというのが引っかかった。
するとどうだろう。打ち込んだ瞬間に突然プロテクトが解除され、モニターに一連のインデックスが表示された。
どうやら正解だったようだ。
あまりの馬鹿馬鹿しさと妙な感心とが交互に湧き上がり、苦笑いにも似た表情を浮かべたシンジだったが、そこに表示された内容を素早く一読し、訝しげに呟いた。
「………『PROJECT・GENESIS』…?」
聞き覚えの無い単語だった。
しかし、提唱者の項目を見た途端、少年の顔に驚愕の色が浮ぶ。
そこには栗色の髪をした一人の女性の映像と、その下に『碇ユイ』という名前が添付されていたからだ。
「……か、母…さん……?」
喉元から震える声が薄暗い電算室に響く。
今まで一度たりとも逢った事が無かった母親の姿……。
それが今、過去の映像とはいえ少年の目の前にいた。
第三新東京市郊外・合同霊園
どこまでも続く膨大な数の墓標が並ぶ霊園。
セカンドインパクトで失われた人々を供う場所である。
どれも同じ簡素な墓、だた黒い棒が差してあるだけの広大な造りの一画にゲンドウは立っていた。
そこには『IKARI YUI 1977〜2004』という名の墓碑銘が刻まれている。
「…ユイ」
暫くその墓を見つめていたゲンドウが静かに呟いた。
底冷えする深海のような深く冷たい鉄の声が辺りに響く。
その言霊には、狂気にも似た希求の想いが篭められた。
だが、それも一瞬の事…。
「待っていてくれ、全てはこれからだ……」
男はそう言うと、すぐにいつもの冷厳な表情に戻り、その場を後に立ち去っていった。
To be continued...
(あとがき)
こんにちは、ミツです。
今回と次回の話でシンジ君の内面を少し掘り下げてみようと思っています。
彼は一体この世界で何をしたいのか?
そして、妻の墓前に佇むゲンドウ氏の画策するものとは?
この二人の絡みも、もうちょっと書いてみたいですね。
では次回も頑張ります。
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