涼やかな風が靡く木陰で、女性が乳飲み子を抱きかかえている。

どうやら授乳をしているらしい。

その傍らには一人の男性の姿があった。

『…セカンドインパクトの後に生きてくのか、この子は……この地獄に……』

男が呟いた。

『いいえ…』

女性は静かに首を振る。

『生きていこうと思えば、何処だって天国になるわ…』

そう言って、自分の乳房を吸う赤子を見下ろした。

『だって生きているんですもの。誰だって幸せになるチャンスはあるわ』

『そうか…そうだな……』

小さく呟いた男に、にこやかに微笑を浮かべて女が尋ねた。

『決めてくれた?この子の名前……?』

陽光を受けて宝石の様な蒼い煌めきを見せてる湖の辺で男女が静かに佇んでいた。

女性の横にはベビーカーが置かれており、その中の赤ん坊がしきりに小さな手を動かしている。

遠くに朦朧と立ち込める陽炎を見詰めながら、壮年の男がゆっくりと口を開いた。

『今日も変わらぬ日々か…。この国から秋が消えてしまった事は寂しい限りだよ。……SEELEの持つ”裏死海文書”…、それによれば数十年後には必ずサードインパクトが起きる……』

『それもこれも、人類の最期を回避する為ですわ。その為の組織がSEELEとGehirnなのです』

傍らで聞いていた女性が赤ん坊をあやしてながら答えた。男はその様子を眩しそうに見つめる。

『私はキミに賛同する。SEELEにではないよ』

『先生…、あの封印を世界に解く事は大変危険なんです』

『わかっているよ。個人で出来る事ではないからね。資料は全て六分儀…いや、碇に渡してある。もうあんなマネはせんよ』

そう言って視線を女性に向けたが、ふと、ノースリーブの隙間から垣間見える胸元が目に止まって慌てて視線を逸らした。

『…それに、それとなく警告も受けている。連中にすれば私を消すのは造作も無いことらしい……』

『生き残った人々も同じですわ…。簡単なんですよ、人が人を殺すなんて……』

『……ユイ君………』

思った以上に硬い口調で答える女性に、男が苦汁に満ちた表情で呟く。

『だからと言って、キミが被験者になる事もあるまい』

『…すべては流れのままに、ですわ。それにこれは私の望みでもあるんです。その為に私はSEELEに身を置いているんですから……』

  箱根 地下実験場

様々な配線が雑多に置かれた研究室に、小さな子供が興味深くガラス越しに映る光景を見詰めている。

眼下には身体中にコードを打ち込まれた巨人が聳え立っていた。

その様子を見つけた壮年の男が訝しげに訊ねた。

『…何故、此処に子供がいる?』

『所長の息子さんですわ…』

白衣を着た女性が冷たい口調でそう言った。

『碇、此処は託児所じゃないんだぞ。今日は…』

事務机に座る男を咎めるが男は何も答えない。そこに、スピーカーから別の女性の声が聞こえてきた。

『ご免なさい、冬月先生。私が無理を言って連れてきたんです』

『…しかし、今日はキミの大事な実験なんだぞ』

『だからなんです。…この子には人類の明るい未来を見せておきたいんです』

……その言葉を最期に、女性はこの世界から姿を消した。

 

 

 

そして運命は狂いだす。







贖罪の刻印

第十話

presented by ミツ様







  NERV本部・地下電算室

 

少年の眸が画面の前で釘付けになる。

無機質なモニターの中に映っていたのは……。

 

碇ユイ。

 

母親…でも、初めて見る人。

知っている…でも、夢の中でしか逢った事のない人。

郷愁

忌避

悲哀

憐憫

さまざまな想いが交錯して頭の中で揺れていた。

この世界に来て以来、初めて見せる表情だろう。其処には闇の衣が剥ぎ取られ、ただただ動揺する一人の少年の姿があった。

「…母さん……」

もう一度小さく呟くシンジ。

苦悩にも似た沈痛な表情を浮かべかけた瞬間、

「…ッ!?」

データ内のファイルの中身が眼に止まった。

クローズアップしたワークステーションの画面に映っていたのは、生化学分析の実験手順のフローチャートや蛋白質分子の構造図、DNAやアミノ酸の塩基配列データ…そして、いくつかの神経マップ。

これらの事からおぼろげながら人体に関するレポートである事がわかる。

動悸が激しくなる。

そうだ…考えてみれば当然だ。ユイはかつてSEELEに所属していたのだ。

三賢者の一人とも称えられた天才的な頭脳……組織の計画の根幹に関わっていたとしても何ら不思議ではない。

では、母は一体何をしていたのだ……?

更にデータに目を通すうちに、そこに記録された予想を遥かに超える内容の重大さにシンジは愕然とした。

 

 

  『PROJECT・GENESIS』

碇ユイが進めていた計画の総称であり、来るべき近未来に起こり得る災厄をも生き延びる新人類を誕生させる為のプロジェクトである。

…環境汚染、自然災害、生物災害、ウィルスによる伝染病被害。

自然形態の変化か、それとも傲慢な人間に怒りを覚えた神々の最期の審判なのか……人類を蝕む危機は確実に迫ってきていた。

それらの災厄に対し、ヒトの身体はあまりにも脆弱だ。

人類はこのままただ漫然と滅びを待つしかないのか?

否!

それらを乗り越える為の手段が必ずあるはず。

そう考えた彼女はその答えを人間の遺伝子に求めた。

DNA…あらゆる細胞の核に存在する遺伝子情報を蓄えた高分子。

1989年から世界的にヒトゲノムの全塩基配列の解析が行われていたが、人のDNAの32億塩基の内、実にその90%以上が非コード領域として使われていないという報告がなされた。

何故そのような領域があるのかは今まで謎のままとされてきたが、彼女は此処にこそ求める答えが存在すると推測した。

Sanger-dideoxy法、Dye-terminator法、Maxam-Gilbert法…、その他まだ試されていないあらゆる観測方法を用いて様々な検証実験を行っていったが、しかし、計画は難航を極めた。

さしたる成果も挙がらず、今世紀末には計画自体を中止しようという動きが具体的し始めていた時、情勢が一気に転換する事態が起こった。

それが15年前に南極で発見された光の巨人の存在。

その巨人の固定波形パターンを調べた結果、構成物質の違いはあるものの、信号の配置と座標は人間のそれと99.89%も酷似していたのだ。

人間と最も近いとされるチンパンジーでさえ類似点は97.5%である。99.89%であれば遺伝子構造上殆ど人間と同じと考えても差し支えはなかった。

碇ユイはこれこそが人類の求める進化の姿であると確信した。

彼女は何かに取り憑かれたように研究に没頭していく事になる。

だが、およそ科学を志す者ならば当然かもしれない。

世界の真理に到達し、森羅万象の理を暴く為の手段が…

神の領域へと人を導く為の理論が…

この光の巨人には隠されているのだから。

しかし、いくら人間の遺伝子を弄ったところで、巨人に近づくことは出来なかった。

徒労に終った実験の数々…。だが、そこで彼女はまた一つの仮説を立てる。

ヒトの遺伝子には元々欠損した部分があるのではないか?

ならば、不完全なヒトの身体を捨ててしまえば人類は次なる段階へ進む事が出来るかもしれない。

新しい、完全な器さえあれば……。

そう……あの巨人の様な……。

こうして人の飽くなき探究心は、ついに禁断の領域まで迫って行ったのだ……。

 

 

「これはッ!?まさか………っ」

シンジが急かされる様に操作パネルを動かす。

そして、インデックスを確認しては、最も重要と思われる部分をディスクに落としながら、その一部に目を通す。

 

『人工進化に関する第七次報告書』

 

『形態発生学の遺伝子転移コンピューターシステム』

 

『DNAの覚醒変革に伴う複数体同時励起実験・中間結果』

 

『Type-Mの生体観測データ』

 

画面に次々と表示されていく情報

点と点が次第に線で結ばれていく…。

碇ユイの研究レポート。

その内容から導き出される解は……?

一つの最悪な結論が少年の中ではじき出された。

「…これは……”人類補完計画”のプロトタイプ…ッ!?」

シンジの貌が驚愕に彩られる。

間違いない!これは人が神へと至る道…人類補完計画の根幹である人の遺伝子レベルでの変換に関するデータだ。

一気に全身から汗が噴き出す。

こめかみが小刻みに震える。

…これはッ!

…こんな事がッ!?

…これが本当に人間の所業なのかッ!?

そこに記録されていたデータのあまりの衝撃に声を失ってしまう。

資料の中には、進化の名の下に行われた人体実験の数々が…

人間の持つ悪意のすべてが…

いや、果てしなき欲望そのものが篭められていたからだ…。

何故こうまで人間は愚かになれるのか…ッ!?

何故こうまで人間は傲慢になれるのか…ッ!?

眼差しに危険な光を混ぜながら、モニターを食い入るように睨みつける。

MAGIにログが残る危険性も忘れ、シンジはただじっと立ち尽くしていた。

どれほど時間が経過しただろうか……。

「…クククッ……そうかッ!…そういう事だったのか………っ!」

虚無ともいえる沈黙の後、少年の唇からゾッとする低い呻き声が洩れる。

…それは地の底から滲み出る様な狂気の響き。

闇に沈んだ者だけが見せる眸が殺伐とした空気のすべてを灰暗色に覆い込み、狂った様にシンジは嗤い出した。

全身の血液が沸騰したように感情の爆発を抑える事が出来ない。

玲瓏な容貌が醜く朱に染まった。

そしてもう一つ、抑え切れないものがあった…。

冷たい…底無しの暗闇を縦横に駆け巡るどす黒い感情。

…殺意だ。

薄暗い空間に毒素の篭った禍々しき空気が充満する。

まるで酸素自体がそのまま固形化したような圧迫感が周囲を包み込んだ。

もし、此処に他の人間がいてこの少年と向き合えば、その者は精神失調に陥るか…悪ければ発狂してしまうだろう。

それほどの禍気をシンジは放っていた。

「…クハハハハ……ッ。成る程ね………此処にこんなものが残っていたという事は、赤木ナオコの仕業か……恐るべきは女の怨念と言ったところだね……だけど……」

漸く嗤いをおさめたシンジの口元が歪む。

まるで、慟哭を堪えるかのように……

少年の心に一瞬過ぎ去った光は……

限りない憎悪と、深い哀しみだったのかもしれない。

「揃いも揃って本当に度し難いな、碇という人種は……そして、そのなれの果てがこの僕という事か……」

自分が嵌められた運命の歯車を呪い、眼差しに凶暴な光が宿る。

「お前達の描く未来がそれか……ッ」

拳を握り締め、吐き捨てる様にシンジは唇を開いた。

少年の身体の芯は紅蓮の炎の如く熱くなり、狂気にも似た感情が渦を巻いて昂ぶっていく。

もはやそこにあるのは、人間性の片鱗も無い一匹の獣の姿だけ……。

「……だったら僕は………」

獣の口から闇間を這いずり廻るような深く嗄れた声が響き、その手がコンピューターの操作ボードを叩く。

続いてモニターに表示された二人の人物を、彼は昏い表情で見やった。

亀裂のような笑みが少年の貌を切り裂いていく。

 

光の篭らない漆黒の眸…その先に映っていたものは……

 

銀月の雫が夜空に零れ落ちた様な”蒼い髪”と、太陽の光が地上に降りそそいだ様な”紅い髪”が特徴的な二人の少女…

 

ファーストチルドレン…綾波レイ。

セカンドチルドレン…惣流・アスカ・ラングレー。

 

運命によって仕組まれた生贄の女神の姿があった……。




To be continued...


(あとがき)

こんにちはミツです。
ユイさんが遂行していた『PROJECT・GENESIS』
その真相を知ったシンジ君はさらに深い狂気の闇に堕ちていってしまいました。
そして、二人の少女を見詰める彼の目的とは…?
それでは次回も頑張ります。

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