第十四話
presented by ミツ様
NERV本部附属病院・403号室
見慣れた天井。
無機質な壁。
白いシーツにしかれたベッド。
窓の隙間から風を頬に感じながら、蒼い髪の少女は外の景色を眺めていた。
だが、その瞳は風景を映してはいない。
レイは思考の内にあった。
絵画のようにじっと動かないまま、すでに数時間が経過している。
トントン。
ノックの音。
顔を横に向け、病室に姿を現した人物を確認した瞬間、紅い瞳に警戒の色が見てとれた。
扉の前に立っていた少年…。
先ほどからレイの思考の中心を占めていた少年だった。中性的なよく響く声が、口の端から紡ぎ出される。
「やあ、具合はどうだい?……”リリス”」
「わたしはそんな名前じゃないわ」
少年…シンジの挨拶に対するレイの第一声がそれだった。
「ああ…そうだったね。ファーストチルドレン”綾波レイ”。エヴァ零号機専属パイロット。ID番号は0001-225-09……で、良かったかな?」
シンジの揶揄の混じった言葉にも、少女はその鉄のような表情を変える事はなかった。
「…あなた、誰……?」
「あれ?自己紹介は済んだはずだけど……?」
黒髪の少年はそう言って、皮肉げな笑みを浮かべてベッドに近づいてくる。
「…そういう事を聞きたいんじゃないわ」
「じゃあ、どんな事?」
「何故……」
レイの唇が止まる。
そこから先の言葉が続かない。
彼女には珍しい事だが、この時、僅かに躊躇いという感情が芽生えていた。
この少年に踏み込んではいけない…踏み込んだら、何か大切なものが失われてしまう……そんな、意味のない寂寥が少女の胸をしめる。
だが、シンジはそんなレイの逡巡など意に介していないように代わりに口を開いた。
「『何故、あんなことを言ったの』……かな?」
「………」
レイはこたえない。シンジは頬に薄に笑みを貼り付かせる。
「それはキミが人間じゃないからさ」
「…わたしは……人間よ…」
「”人形”の間違いじゃない?」
「わたしは、人形じゃないわッ!」
キッと鋭い眼光で少年を睨みつけるが、彼の眸の奥に蠢くモノを見て凍り付く。
それは人間の眼では無かった……ただただ限りなく深い闇が存在し、そこに禍々しい漆黒の炎が揺れていた。
「……ただ命じられたままに生き、ただ命じられたままに死ぬ、そう言うのを意思の無い人形って言うんだよ……」
「………!」
少年から発せられる氷の如き冷たい刃。
少女は直感で感じた。
この少年はきけんだ!
この少年はわたしの存在をこわす!……と。
身体が震える。強く肩を抱き締めそれを抑え付けようとしたが無駄だった。
彼女の本能が、目の前に立つ少年に恐怖を覚えていたのだ。
「もっとも、それがキミの望みというなら別に構わないけどね…」
「…それが……わたしの望みよ……」
「本当に…?」
少年の顔が少女の眼前まで迫る。
見詰める眼…あらゆる感情を喪失した機械のような無機質な眸が蒼い髪の少女を捉えた。
「……あなたが何と言おうと、わたしが信じられるのは碇司令だけ。そして司令の望みを叶える………それだけよ」
震えながらもレイはそう言って言葉を搾り出す。たったそれだけの事でも背中に汗が流れ落ちた。
「それで……その後キミはどうするの?」
「無に還るわ…」
「何故?」
「…それがわたしの望みだから……」
「本当に?」
「本当よ」
「……ふ〜〜ん、そう。……キミは無に還りたいんだね」
シンジは面白そうに訊き返した。
「…でも、だったら何で今そうしないんだい?」
「それは……」
レイは口篭る。
…あの人がまだ必要としてくれるから。
…あの人がまだ死なせてくれないから。
「死のうと思えばいつだって出来るさ。例えば、ほら……」
シンジはそう言って、トレイに置いてあった果物ナイフをレイの胸元へ差し出した。
「これで胸か咽喉を一突きすれば…それでキミの人生は終わる」
「………ッ!?」
レイは僅かに瞳を見開いて目の前の少年を見上げた。
見詰める表情にはにこやかな笑みさえ窺える。
だが、なんということだろう…。
この黒髪の少年は天使のような微笑を浮かべながら、ベッドに横たわる少女に「死ね」と言っているのだ。
如何なる精神回路がそのような言葉を発っせさせるのか…?
「死ぬのが望みなら……出来るはずだよね?」
包帯の巻かれていない方の手にナイフを握らせる。レイは紅い瞳でじっとそれを見詰めた。
微かに身体が震える。ナイフの刃先が壊れたメトロノームのように揺れていた。
…これで胸を刺せばわたしは無に還れる。
…代わりがいても、それは今のわたしじゃない。
…これがわたしの望みだったはず。
…でも、
…身体が動かない。
…何故?
…わたしは……
…死ぬのがコワイの……?
「どうしたの……何故やらない?」
「ッ!?」
シンジがレイの腕を掴んで力を込める。
反射的に振り解こうともがいた瞬間、ナイフはシンジの手の甲を切りつけた。真っ白なシーツに鮮血が舞う。
飛び散った血の一滴がレイの頬に貼り付いた。
「ぁ……」
レイが怯えたような声をあげ、震える手からナイフを床に落す。
シンジは傷口にそっと舌を這わすと口元を歪めた。
紅い唇がさらに朱を増し、文字通り血の色を湛える…。
「何故死を拒む…?それがキミの望みじゃなかったのかい?」
「…………」
レイは答えられなかった。黙ったままじっと俯き項垂れる。
「死ぬ覚悟も無いのに、何故死を望む?」
「それは……」
「あの男に言われたから…。”約束の刻にお前は無に還る”…そう言われたから……違うかい?」
「!?」
驚愕の瞳をレイは少年に向けた。自分と司令しか知らない秘密を何故こうも知っているのだろう…。
「そんなに大切かい…?碇ゲンドウとの絆が……」
「わたしが信じられるのは、碇司令だけだから……」
少女が力無く答える。
「もしそれが”偽りの絆”だとしても?」
「………どうして、そういうことを言うの?」
レイがシンジを再び睨んだ。
だが、その瞳には力は無く、泣き出しそうな幼児のように見える。
「別に…ただ、キミが信じているほど司令はキミを信じているのかな?」
「…………」
レイは答えない。司令との絆を信じているはずなのに…その言葉を発することが出来ないでいた。
「…『ひょっとしたら、私は”誰かの代わり”でしかでしかないのかもしれない』……」
「ッ!?」
少年の口から出た言葉にギョッと目を剥く。
「…『私を通して誰かを見ているだけなのかもしれない』……」
「…………」
「……そう思った事は無いかい?」
レイの心に亀裂が入る。そして、その亀裂に沁みわたるように這入り込むシンジの言葉。
それは薄汚れた讒言…人の絆を断ち切り、心を腐食させる毒に満ちていた。
レイは心理的な弱点を突かれた。
これまでゲンドウとの絆のみを心の拠所と感じ盲信していたのに、得体の知れない少年の言葉に動揺してしまったのである。
少女の心の変化に気付いた少年は薄く笑って、そっとレイの耳に囁きかけた。
「知りたくないかい?…キミの本当の秘密……」
硬直したようにレイの身体が小さく揺れて、暗く湿った空気を波立たせた。
言葉の意味が、聴覚を伝わり脳神経に届きレイの全身を圧し包む。
「これを使うと良い…」
シンジはそう言って懐から一枚のIDカードを取り出し、レイの膝元に放った。
「…これは?」
無花果の葉を模した形に『God's in his heaven All's right with the world』(神は天に在り、世は全てこともなし)というロゴが描かれたカード。
それは赤い血の色をしていた…。
「食べてみるといい…エデンの園に実った甘い誘惑の果実を……。それですべてがわかる。あの男の望み…そして、キミが何故存在するのかも……」
甘い甘美な言葉が蜂蜜に包まれて少女の前に差し出された。
ゲンドウの思惑を調べろ、とシンジはレイに使嗾しているのである。
その表情はイヴに禁断の果実を食させようとする魔界の毒蛇のようにも見えた。
レイの紅い瞳が…いや、その裡に秘められた強い想いが包帯越しに光を放ち、掻き抱くようにIDカードを手元に引き寄せた。
ゲンドウに対する忠誠心は変わってはいない……でも、その心の裡を知りたい。少女の行動はそんな欲求の裏返しなのかもしれない。
「…あなた、何者なの?」
微かな声でレイが問い掛ける。
先程と同じ問いを…
先程とは違う感情で…
「キミは分かってるんだろう?…僕はキミと同じさ……」
問われた少年は、ただはぐらかすように薄い笑いを浮かべるだけ。
「…あなた、何を知っているの?」
「すべてを……」
「…すべて?」
「そう、すべて。キミの本当の願いも…何もかも……」
「…わたしの、ねがい……」
数瞬の無言の後、シンジは満足した笑みを浮かべて踵を返した。
「邪魔したね。近いうちにまた来るよ」
「…………」
少年が去った後も、少女はただじっと血の様に赤く染まったカードを見詰めていた。
ターミナルドグマ・人工進化研究室
リツコは昇降エレベーターに乗り、セントラルドグマの更に下層ブロックを目指していた。
途中の通路では誰ともすれ違うことはない。
それも当然だ。此処はランクSSSの最重要機密のある特別区画。通常の職員では存在すら知らされていないし、司令クラスのパスでもなければ足を踏み入れる事も出来はしない。
チンッ…というレトロな音がし、エレベーターの扉が開く。
一体地下何千メートル降りたのか…?
閃暗い長い通路を進んだ先には、更にセキュリティチェックを必要とする扉があった。
彼女は横からIDを取り出してキー・スリットに通し網膜照合を済ませると、歩を止める事無く奥に進む。
そこは高さも床面積もかなりある広大な空間だった。
人工進化研究室…。
そして、ダミーシステムの製造工場…。
リツコが、この時代で初めて目覚めた場所だった。
ライトが落とされて暗い部屋のスイッチを入れると、壁がスライドしその中からオレンジ色の水槽が現れる。
そして…その中に漂うは、綾波レイの姿をしたモノたち。
リツコは、彼女たちをじっと見詰める。
「……憎むのかしら?”二度”も貴女達を壊す私を…」
彼女の瞳に篭められた微かな憂い…。
だが、目の前にたゆたう少女達は白痴のような笑みを浮べ、こちらを見詰めているだけだった。
「そんな感情すら無いんだったわね……」
リツコは冷たい表情でバルブに手を掛ける。
無数の紅い瞳が一斉にリツコの手を見た。
それは、ただ単に動いたものに瞳が反応しただけの”反射行動”だったのであろうが、リツコには彼女達が自分に向ける怨嗟の念にも、憐憫の情にも感じた。
バルブを一気に回す。
見る見る水槽の水の色が赤く変色し、沸騰を始めた。
泡立つ液体。
次々とレイであったモノの五体がバラバラに崩れて落ちていく…。
腕が…
脚が…
眼球が…
内臓が…
脳漿が…
まるで、接着剤が融解し繋ぎ目が外れていくその様はマネキンの解体現場を思わせた。
それらの吐き気を催すような壮絶な光景をリツコはじっと見詰めていた。それは、かつて綾波レイであったモノが完全に破壊されるまで逸らされる事はなかった。
……どれほどの時間が経過しただろうか。
「…ごめんなさい。今度、生まれてくるときは……」
震える唇から発せられたその呟きは、頬を伝わる一筋の光の雫にのまれて暗闇の世界に流れていった。
To be continued...
(2005.12.03 初版)
(2005.12.10 改訂一版)
(あとがき)
こんにちは、ミツです。
リツコさん、レイちゃんのクローンを破壊してしまいました。
いかにダミー開発をすべて任されているとはいえ、バレたら只じゃ済まない気が…。
そんな事を私が言ってちゃダメダメなんですが。(^^;
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