新緑香る初夏の昼下がり、木漏れ日の中に佇む二人の男女がいた。
『人が神を似せてエヴァを造る…、これが真の目的かね』
抱きかかえた幼子をあやすユイの姿を眩しそうに見つめながら冬月が言った。
『はい、ヒトはこの星でしか生きられません。でも、エヴァは無限に生きていられます。その中にあるヒトの心と共に』
『それが、キミの補完計画なのか…』
僅かに苦渋の表情を浮かべる冬月。だが、ユイは晴れ晴れとした笑顔を向けてこう言った。
『たとえ50億年経って…この地球も月も、太陽すら無くしても残りますわ。たった一人で生きていけるなら…。とてもサビシけれど、生きていけるなら…』
『人の生きた証は永遠に残る、か……』
泣き出したいくらい透きとおった青空を見上げた二人の背中に、蝉の啼き声がいつまでも遠くで響いていた。
第二十五話
presented by ミツ様
NERV本部・ターミナルドグマ
「………こ、この娘は…もしや『Type−M1』……!?」
蒼髪の少女を見て怯えたように叫ぶユイ。
(『たいぷ・えむわん』?……何?…それがわたしの名前なの……?)
訝しげな表情を浮かべたレイはシンジを見やった。
「人の持つ欲望には際限がない……母さんもまた世界の真理を探究する一人だった。葛城博士とはまた別の方法でね……」
「別の方法…?」
「…そう、”完全なるヒトの創造”。それが母さんの目指したモノだった」
シンジは氷のように済んだ冷たい視線でユイを見つめたまま静かに語り始めた。
人は心に絶えず不安を抱き、死に恐怖してきた。
そして不安は他者に対する恐怖を生み、恐怖は無理解へと続き、人々は互いを理解出来ぬまま、憎み合い、傷付け合いをただ繰り返してきた。
ヒト…。
それはこの世で最も愚かな生き物。
そしてこの世で最も脆弱な生き物。
だが、それを乗り越える術がきっとあるはず。
心の不安を消し去り、争いを無くし、奇病や伝染病を克服し、死にすら蓋をしてしまえるような…そんな高次元の存在になれる可能性がきっとあるはず。
ユイは至高の人類を求めて研究を重ねていったが、それは天才と謳われた彼女にとっても非常に困難を極めるものだった。
ヒトの魂を新生する為には塩基分子30億対の組み合わせだけでは圧倒的に情報量が足りなかったからだ。
”しかし…それでは何故ヒトは存在する?”
彼女の明晰な頭脳は再び思考を繰り返す。
物質は形と波動に起因している…形が波動を、波動が形を互いに作り合うのだ。
だが、それだけでは単なる『不完全な肉の塊』にしか成り得ない。
原子、素粒子、クォーク…様々なレベルで完成してるプログラムと、それ全体を統合する”何か”があるのだ。
そう、時間も空間も飛び越えて存在しうる”何か”が……。
だがそれは当時の科学水準では到底計測不可能なことだったのかもしれない。
だからこそユイはその答えを無限の情報量を持つ巨人の生体構造に求め、細胞組織を分析し、人体への組換えを試みたのだ。
それは人の飽くなき欲望の果てか…MAGIのコンピュータには、過剰ともいえる薬物投与を受け廃人と化した青年や、脳髄を破壊され生きる屍となった老人、そして未知の細胞を植え付けられ人の原型すら留めなくなった赤子など、進化の名のもとに行われた非人道的な実験に関する資料が記録されていた。
「母さんの実験で犠牲になった人たち……人類新生を謳うM計画とは、呪われた狂気の計画の総称なんだ……」
青褪めた表情を浮かべるユイ。
「でも実験は成功しなかった。元々不完全な存在…いくら”継ぎ接ぎ”を繰り返したって完全な設計図なんか出来るはずがない。……でも母さんは諦めなかった。『ヒトが不完全なシロモノならば、ヒトになる以前に造り直せばいい』と考えたんだ」
「ヒトになる以前…?」
「そう、母さんは自分の卵子を提供した。そして数多の研究データを基にして、ついにリリスの細胞と自分の遺伝子を組み入れた22体のクローンを作り出したんだ。それが『Type−M1』…キミはその一人。……母さんの予備のパーツなんだよ」
「碇ユイ博士がわたしを造ったという事はMAGIのデータバンクで見たわ。でも、予備って……?」
レイの言葉を聞いたとき、ユイの身体がビクンと跳ね上がる。母の様子を視線に捉えながら、シンジは淡々とした口調で答えた。
「綾波……キミの名前どおりの意味だよ。キミは”零”なんだ……」
「…?」
意味が分からず小首を傾けるレイ。
「”零”つまり”無”と同義語のモノ。そして”唯一”のモノを補完する存在……。母さんは自らが高次元の存在になる為に、脳だけを移植してキミの身体を使うつもりだったんだよ…まるで着せ替え人形のように……」
「ッ!?」
愕然としてその忌まわしい言葉を聞くレイ。
それでは自分はゲンドウにとっての予備としてではなく、ユイにとっても予備だったという事になる。
「…でもね、キミの身体もまた欠陥品だったんだ」
「…欠陥品」
レイの呟きにシンジが頷いた。
「そう、完全なるヒトの創造にはついに至らなかった。だから封印された。父さんが補完計画の要としてキミにリリスの魂を移植するその日まで…。知っているかい?『Type-M1』の”M”は”MISS-CREATION"……”出来損ない”って意味らしいよ……」
”出来損ない”
”着せ替え人形”
人形……
それがわたしの存在していた理由…。
レイの胸のうちが奇妙にささくれ立つ。
こんな惨めな事があるだろうか…。
ここまでわたしの存在を弄ぶ資格が人間にあるというのか…。
レイが刺すような冷たい視線をユイに向ける。良心の呵責に耐え切れなくなったのか、ユイはその視線を見返す事が出来ない。
「………り、倫理的に問題があったとこは認めるわ。…でも、進化の隘路に迷い込んだ人間には他に術が無かったの。このままでは来るべき世界の脅威に対して人類は滅んでしまう……だから………」
必死の抗弁も少女の耳に届くことはなかった。
どんな綺麗なお題目を並べられても、所詮は切り捨てる側の理屈である。
切り捨てられる者にとって、そんな言葉は偽善以外のなにものでもないだろう。
案の定、レイは言いようの無い不快感を味わっていた。
…何、この気持ち?
…ザラザラした嫌な気持ち。
…キモチワルイ。
…まつで泥を口の中に放り込んだような。
…そんなかんじ。
…碇ユイ。
…司令の求めている人。わたしには無いもの。
…でも、わたしはこの人を見ていると嫌な気持ちになる。
…わたしは……わたしは………。
「…わたしは……」
搾り出す様な細く小さなレイの声。
紅い瞳がつり上がる。
はじめての感情の昂ぶりが彼女の裡に湧き上がった。
「わたしはあなたの人形じゃないっ!!」
そう叫んでレイはユイを睨みつける。
涙が零れた。
悲しくもないのに涙が流れた。
両頬を伝わるその滴…
それは誰に対して向けられたものか…。
運命を歪められた自分自身へか。
それとも、ついに日の光を見ることもなかった分身たちへか。
わからない…。
しかし、それは少女がはじめて発露させた『怒り』という感情の迸りでもあった。
「あなたが私を憎む気持ちは良くわかる。許してくれとは言わないわ。でも聞いて、『Type-M1』……いえ、綾波レイ…さん……。誰かがやらなくてはいけない事だったのよ。人類の未来の為に…たとえ己の手を汚してでも……」
ユイの言葉を聞いてシンジの唇が奇妙に歪む。
「貴女のような人間、僕知ってますよ。…仕方ない、仕方ないと言って周りの者を傷つけてしまう人を……」
「わ、私も…そうだと言うの……?」
「今更取り繕わなくても良いでしょう?…だって母さんの望みは”人類の未来の為”なんてご大層なものじゃ無かったんだから……」
「ち、違うわっ!私は本当に人類の未来の為に…!だからエヴァを…!!」
「では何故綾波レイは生まれた…?」
思わず叫んだユイを、シンジの氷雪のような言葉が遮った。
「何故セカンドインパクトは起きた…?あの大災害で死んだ人間には未来は無かったと…?」
「………そ、それは……」
「そして、何故エヴァが生まれた…?」
言葉に詰り答えられないユイに、シンジは更に畳みかけた。
「欲望が人を縛り人を壊していく…。貴女もまた人類補完計画を利用し、自分の欲望を果そうとした人間だった……」
少年の闇に沈んだ眸が細く母をとらえた。
その感情の篭もらない鉛の様な視線に、ユイは全身の血が冷たくなるような恐怖に襲われ震えだした。
恐ろしい…。
身体の芯から込み上げてくる震えに我知らず両腕をかき抱く。
「貴女は使徒と自分の遺伝子を組み入れた虚ろなる肉体を造った。……でも、そのクローン体は不完全なものだった。定期的に薬物投与を行わなければその体組織を保つことが出来ないほどに……。だから別の手段を講じた……」
シンジは装甲が罅割れ、満身創痍のエヴァンゲリオン初号機を見つめた。
「それが『アダム・カダモン』への道……ヒトの器が不完全ならば、神の器たるエヴァの身体に永遠に留まることを選んだんだ。そうすれば未来永劫に生き続けられる、ってね……」
「わ、私は……」
震え、掠れた声が紅い世界に響く。
世界の真理に到達したかった…。
森羅万象の理を手中におさめたかった…。
神の領域へと立つ為の手段を求めていた…。
「都合が良かったんだろうね。裏死海文書の解読により使徒が現れる事はわかっていたから。人類救済の名目で貴女は研究を推し進めていった。…でも、貴女の思想は危険過ぎた。ヒトの身体を捨て新たな器に魂を宿す…それは神の具現化を嫌うSEELEの教義にも反していたからだ」
「あ、あなた…SEELEの事まで!?」
「彼等は母さんを排除したかった。それに加担したのは赤木ナオコだ。彼女は実験中の事故に見せかけて貴女を処分した…したつもりだった。…そう、それこそが貴女の真の思惑とも気付かずに……」
「…ッ!?」
ユイの表情が驚愕に歪む。
彼女は悟った。
この子はすべてを知っている…。
自分達の犯してきたおぞましい行為のすべてを…。
ガクリと両手をついて項垂れるユイ。何も言い返せない彼女を、シンジは冷たく見下ろした。
「…………わかってしまったの……」
沈黙が霜雪のように降り積もるほどの時間が経ったとき、静寂を破って彼女が言葉を紡いだ。
「裏死海文書を解読したとき、人間こそが地球にとって『招かれざる客』だという事を…。怖かった。自分達の歴史、存在、価値、すべてが否定されたようで……。だから私はエヴァを造ったの。何億年を経てもエヴァだけは滅びない…、私は人の生きた証を残したかった。たとえヒトの身体を捨てたとしても……」
だからワザと失敗確率の高い起動実験に志願した。
エヴァに自らの魂を封じ込める為に…。
そう、すべては最初から仕組まれていた事だったのだ。
「…シンジ、どうするの?…私を、殺す……?」
項垂れたままのユイがシンジに静かに語りかける。
「……母さんの命なんかに興味はないよ。僕の質問に答えてもらったら後は好きにするがいいさ。もっとも、此処での記憶は消させてもらうけど…」
「そんなこと、出来るはずが………ッ!?」
そう言ったユイだったが、次の瞬間に見た光景に言葉を失う。
彼女が見たもの…。
それは、少年の背中から顕現した光り輝く片翼の翼だった。
「…出来るさ、この力を使えばね」
冷たい口調で答えるシンジを、ユイは信じられない思いで見つめていた。
…光の翼!?
…まさかA.T.フィールド!?
シンジ……あなたは一体!?
「シンジ!?…あなた、ひょっとして『リリン』の力を手に入れたというの!?」
興奮した面持ちで叫ぶユイ。
それはそうだろう、目の前に生きた貴重な研究資材がある。
彼女の心はまるで無尽蔵のダイヤモンドの鉱脈を掘り当てた鉱夫の様に踊っていた。
「素晴らしいわ!まさに私の目指した”完全なるヒト”の姿よ!」
母の発した不必要な発言。
その言葉にシンジの言葉が震える。
「素晴らしい、だと……」
低く、篭もったような様な声。
パキンッ、と……
何かの砕ける音がした。
少年の中で……
今……確かに何かが壊れた。
シンジの雰囲気が変わった。
周りの温度までもが冷気を帯びはじめる。
レイは、まるで空気そのものが固形化したような圧迫感に思わずシンジを見つめたが、眼の前の事実に有頂天になったユイは気付かない。
「何故こんな現象が起きたの?エヴァによるシンクトの副産物…?いいえ、そんな事よりこの力のシステムが解明されれば、人類は新たな進化を遂げる事が出来る。そう…心の不安を消し去り、争いを無くし、奇病や伝染病を克服し、死にすら蓋をしてしまえるような……」
眸を輝かせ、尚も興奮した口調で語り続ける。
シンジの身体が揺らいだ。そして、母親の白い喉元に少年の手がゆっくりとかけられたのだ。
「シ、シンジ…ッ!?」
振り返ったユイの顔が恐怖で引き攣った……。
To be continued...
(2006.06.03 初版)
(2006.06.10 改訂一版)
(あとがき)
こんにちは、ミツです。
この『贖罪の刻印』では、レイクローンはゲンドウ氏ではなくユイさんが造ったという設定です。
それをゲンドウ氏が己の補完計画の為に利用していたとなっています。
原作と違い、いろいろと異論のある方もいるとは思いますが、そう言う事で一つ……。(^^;
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