贖罪の刻印

第二十六話

presented by ミツ様


  NERV本部・ターミナルドグマ

 

身体が重い…。

吐き気がする…。

辺りがやけに不鮮明だ…。世界が灰色にくすんでいる。

柔らかい感触が手に触れた。腕の中に…何かいる。

力を、力を入れて……誰かがそう囁いた。

少年はゆっくりと指先に力を込める。

ずぶずぶと肉が食い込んでいく感触…。

眼の前に自分を見つめる二つの瞳がある…そこには怯えの色が見てとれた。

「や、やめて……シンジ!」

遠くで女が叫んだ。

(だれだ…?)

女が何か言っているが聞こえない。まるで無言劇を見ているように…どこか現実感が無かった。

(僕は…何をしている?)

夢遊病患者のような虚ろな表情で女の咽喉を絞め続ける少年。

(此処で、何をしている?)

女の端正な顔が苦痛で歪む。

(今…此処で何を?)

ゼイゼイと呼吸が鳴る。

(一体、何を…?)

女の表情が次第に不鮮明になっていった。

今や、少年の身体に重く粘りつく感覚は最高潮に達し、全身の感覚を奪いつつあった。

この不快感を止めるには眼の前の存在を消すしかない…なかば強迫観念にも似た考えに囚われた少年は更にその手に力を込めはじめる。

あとコンマ数ミリ指が食い込めば女の首が折れる。しかし、その状況を救ったのは意外にも一人の少女だった。

「死んで、しまうわ…」

蒼髪の少女の冷たい手が、そっと少年の腕に触れる…。

少年の意識は急速に覚醒に向かった。

「……あやなみ………」

虚ろな声で呟くと同時に指の圧力が抜けた。首を絞められていたユイはその場に崩れ落ち、空気を求めようとむせ返るような咳を繰り返す。

「…ゴ、ゴホッ…!ゴホッ…!……シンジ…どうして……ッ!?」

喉元を抑え、涙を浮かべながらユイが苦しそうに言葉を発する。

息子のした事が信じられないといった面持ちだった。

少年は母親を冷たく見下ろすと、鉛の様な固い表情で答えた。

「………ヒトを捨ててまで、こんな力が欲しいの……?」

「何を…言っているの?あなたのその姿は『人類の可能性』よ。本来私達がな成り得たはずのもうひとつの姿…きっと誰もがそれになりたいと望むわ。ヒトを超えたヒト以上の存在…肉体なんてかりそめの姿でしかないの。意思と意思だけが永遠に生き続けられるのよッ!」

シンジの心に過去と現在が班の様に混ざり合う。

幼少時代…

第三新東京市…

捨てられた自転車…

化け物との戦い…

橋の下…

壊れた傘…

泣いている自分…

笑っている自分…

紅い海…

友人たち…

嫌いな人…

好きになった人…

好きになれたかもしれない人…

 

 

すべてをこの手で………殺した……!

 

 

「こんな力を手に入れたところで何も変わらない。心の闇は消えたりはしない…」

絶望的な光景が胸を締め付けるように圧し包み、少年の意識を溶かしていく。

「でもその傲慢さが人類の悲劇を生んだ……」

深い闇に沈んだ眸が怪しく光る。

「世界を終焉に導いた……」

憎悪を含み毒に澱んだ唇を歪ませる。

その迫力に圧倒され空気すら怯えたように鎮まった。

「僕はこんな力など欲しくはなかった…選ばれたくなどなかった……僕は、僕はただ……」

血を吐くように絞り出された言葉。

シンジが何を言っているのかユイには完全には理解出来ない。

だがそう発した言葉の奥底に深い哀憫の情が隠れているのを彼女は感じ取った。

(シンジ……あなたは一体…?)

息子が垣間見せた胸中の一端……だがそれも一瞬のことだった。再びユイを見つめるシンジの表情には能面の様な無機質な翳しかなかった。

「……いや、もういい。もうそんな事はどうでもいいんだ。……僕が聞きたいのは一つだけ、答えてもらうよ…母さん」

シンジは薄く嗤う。その笑みは酷く異界じみており邪悪の根幹を思わせる魔性の微笑である。

「裏死海文書……呪われし古代経典の更に闇の部分、語られてはいけない真実の歴史…始まりの人のことを……」

「そ、それって…ッ!?」

シンジの口から零れる呪詛の様な言葉に驚愕の声を上げるユイ。

その時…背後に蠢くものの存在に気付くものは誰もいなかった。

「きゃぁッ!!」

突然、レイの叫び声が聞こえた。咄嗟に振り返ったシンジ達の眼に映ったのは十字架に晒された巨人…リリスの胎から蠢き出ている白い触手の様なものだった。

それがまるで何千という蛇がのたくるように這いずり廻ってくる。

「そんな、リリスは休眠状態だったはずよッ!?」

ユイが恐怖に陥って叫んだ。

周囲が異様な気配を帯び、闇が帯電したようにぴりぴりとささくれ重く澱んでいく。

リリスの四方から塔とも球体ともつかぬ…あるいはその全てを融合させた器官が一斉に迫ってきた。

(まさか……綾波を狙ってッ!?)

シンジは自らのA.T.フィールドを全開にして咄嗟にレイを庇う。

だが、触手は予想に反した行動に出た。

盛り上がり、あるいは括りながら襲い掛かってきたそれは、シンジ達には目もくれず全裸で倒れているユイの元へ伸びて行ったのだ。

「なッ!?」

予想外の事態にシンジの反応がコンマ数秒遅れた。

ユイの右手首に触手が絡みつく。それを振り解く間もなく触手は四肢に、首に、しなやかな腰に巻き付いた。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」

ユイの身体は絡め取られた蝶の様に一気にリリスのもとへと引き込まれる。

全身を襲う悪寒とうねるような感触。

彼女の半身は、すでにリリスの下腹部へ溶け込んでしまった。

女性器を象った隆起物のなかに、まるで炎で繋いだみたいに溶けあい、ぬめぬめした青白い表皮が瘤状の組織と融合していく姿は、一種のエロチズムをも彷彿とさせる。

ユイの表情が歪んだ。

それは、痛みだったろうか。身体は炎に焼け爛れるかという灼熱の地獄を味わいながらも、身体に食い込んだ器官からはえも言えぬ快楽が押し寄せてきたのである。

脳を貫く激痛に呻き、ついで全身に染みる快感に唇をわななかせた。

形容し難い苦痛と快楽を交互に体感し白濁する思考。

ユイは溺死寸前の人の様に口をぱくぱくと開いていた。

触手が更にゆっくりと全身をねじ込ませていく…。

溶ける!

溶かされていく!

肉が!

骨が!

私のすべてが!

「…ッ!?」

生きながら身体が溶けていく……この恐怖が精神を一時的に覚醒させたのか、彼女はまだ自由な身体をそれこそ狂った様に暴れさせた。

「イ、イヤァァァァッ!!助けてッ!……ダ、ダメぇぇッ!…今リリスと一体化する事は出来ない!助けてッ!!たっ、ダスけてェェェェッ……助けテぇエェッ………シィんジぃ……し…ぃ………!!」

常人が聞いたら発狂したかと思うような叫び声。

もがき苦しむその姿は蟻地獄から這い出ようとする昆虫の様だった。

「世界が…せかいが滅びてしまうッ!!あぁ……あぁああ………ダメぇぇぇェェ…ッ!」

「何を…言っているんだ?」

呻くシンジだがどうする事も出来ない。

リリスの持つ圧倒的な力の前に、まるで金縛りにでもあったように身体が動かないのだ。

いや、たとえ動けたとしてもユイを助ける事など不可能だ。”リリン”としても不完全なこの身体では、助けに入ったところで逆に自分の方が取り込まれてしまうだろう。

それほど強大な力だった。

徐々に融合されてゆく母を怨嗟と悲哀の綯い交ぜになった表情で睨みつけるシンジ。

レイもまた、それを黙って見守るだけだった。

やがて…彼女の足掻きも虚しく、空を掻き毟るように喘いでいた身体が糸の切れた操り人形の如くだらりと下がり、その後、大きく痙攣するように一瞬ビクンと撥ねたかと思うと、そのまま動かなくなった。

瞬く間に奇妙なオブジェと化した肉体はリリスと完全に溶け合い、それと相呼応して白き表皮が妖しく息づきはじめると、周囲に鳴り響いていた鳴動が嘘のように止む。

……そして、辺りは静寂に包まれた。

 

 

 

「クッ!………はぁ、はぁ……」

がっくりと膝をつき、息を荒げるシンジ。

胃の奥から苦い味が込み上げ、引き攣るように咽喉を鳴らす。

尋常ならざる力の顕現を前にし、シンジの精神力はその殆どを消費してしまっていた。

それに加え、傷口もまた開いたのか滴り落ちる血が下に血溜りをつくっている。

頬が削げ、眼が窪み、肌の青さは血の赤さと相俟って少年の表情は死者のそれを彷彿させてた。

まさに満身創痍といったところだが、いまだ意識は繋ぎ止めている。

先程から湧き上がる疑問が、彼の意識を失わせる事を許さないのだ。

(何故、綾波ではなく母さんを狙ったんだ……?)

そう…自らの魂であるレイを無視して、どうしてユイを自分の体内に取り込む必要があったのか?

それが一体この巨人に何の意味があるというのだ?

シンジはすでに動かなくなったリリスを見上げる。

十字架に晒された白い巨人は今は何も語らない。

偶然…?

いや、違う。

そんな事はあり得ない。

ならば、これには何かまだ自分の知らない重大な真実が隠されている、という事なのか…?

(もしかしたら……)

「………碇くん」

そこまで思考を進めたとき、横合いから自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

シンジはゆっくりと声のした方に視線を送る。

そこには蒼髪の少女が紅い瞳をじっとこちらに向けて佇んでいた。

「綾波……」

少年は少女を静かに見詰め返す。

レイの、この死の世界と同じ色をした瞳はいつもと変わらない。

だが、その無表情な瞳の奥で一体どんな思いで自分を見ているのだろう。

右手で血で濡れた口元を拭う。

塗りたてのペンキを撫でたような感触がした…。

「…………キミはもう、帰るんだ……」

思った以上に固い口調でそう言ったシンジは、ゆっくりと先程まで碇ユイであったものの残骸を振り返った。

おぞましい色彩の堆積と化したそれは、肉とも骨ともつかぬ皺だらけの器官の蠢きを生の残火として、すでに人間の形を失っていた。

唐突に、えも言えぬ嘔吐感が胸の内から湧き上がってくる。

シンジは両手両膝をついて蹲り、堰を切ったように吐瀉物をぶち撒けた。

ありったけの胃物を吐いた。

それでも足りずに胃液も吐いた。

「大丈夫?」

心配して身を寄せるレイ。そこに映ったのは少年の無機質な眸から零れ落ちる一滴の涙だった。

「…泣いているの?」

「……哀しくなくても涙は出るものだね」

シンジはそう言って自嘲気味に唇を歪める。

「いいの…これで?」

「いいんだ…」

氷の塊を胃の芯に押し付けられたように身体が重いが、シンジは何とか立ち上がった。そして他人のものの様に感じる四肢を辛うじて引き摺り再び白い巨人に視線を送る。

「綾波…」

「…なに?」

「僕はね……」

その視線にどのような感情を篭めていたのか、じっとリリスを見詰めていた少年が静かに口を開いた。

だが…

「…いや、何でもない。……さあ、行くんだ」

「…………」

紡がれるはずだった言葉は途中で途切られる。

レイもまた後ろ髪を引かれる思いを感じながらも黙ってその場を後にした。

静寂に包まれる闇の中…。

そこに佇む少年の後ろ姿は、まるで泣いている幼子のように小さかった。

 

 

 

「不幸」よりぞこの竪琴は生まれたる。

 

その外枠は「苦悩」につくられ

 

その弦は「悲哀」の手に張られ

 

そがこまは「憎悪」にまわされて

 

鉄の爪、鈎の指せる冥府の子らは

 

………また一つ、罪を重ねる。




To be continued...


(あとがき)

こんにちは、ミツです。
とりあえず第四使徒戦はここで終了です。
次回からはNERV側の戦後処理の顛末をお届けします。
……またまたジミィ〜な話が続く予感。
最後に、こんな作品に感想メールを送ってくださった皆様。
ありがとうございます。感謝感激です。
ではでは。

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