贖罪の刻印

第二十九話

presented by ミツ様


  ???

 

たゆたうようなまどろみの中で、少年は瞼を開いた。

眼前には血の様な紅い海が広がっており、瓦礫と化した鉄屑と十字架に晒された巨人像が、まるで地獄の底に迷い込んだかのような陰惨な錯覚を覚える。

そんな世界の中心で、碇シンジは呆然と立ち尽くしていた。

世界が終焉を迎えた日からどれほどの刻が流れたのか……疲弊した華奢な身体からは生命力が失われかけており、ひたすら無気力な姿をそこに晒している。

少年の心は限界だった。立っている事すらままならない有り様だ。

思考は薄れ、苦痛も、悲しみも、恐れも、虚しさも、すべての感情が失われかけていた。

このまま倒れ、目を伏せてしまえば二度と立ち上がる事は出来ないだろう。

…死ぬのか、僕は……

少年はそう理解する。もはや息をすることすら億劫だ。

…もう…疲れた……

身体が揺らぎ、シンジはその場に崩れ落ちた。

鉛の様な重たい身体がゆっくりと紅い海に沈んでいく。

…このまま楽に……

心が折れかけたその時だった。

突如、眩い光が彼の身を包み込んだ。

「ッ!?」

神経が焼き切れてしまうほどの強烈な痛みを感じ、続いて吐き気を催す浮遊感と凍えるほどの寒気が全身を襲う。

身体がバラバラに砕けそうだった。大渦に飲み込まれる木の葉のように翻弄されていく。

不意に暴力的な圧力が止んだ。

(一体、此処は…)

苦痛に歪む表情で辺りを見渡したシンジは、その想像を絶する光景に思わず声を失った。

そこは深淵の闇が支配する世界。

すべてが溶け合い、すべてが拒絶する混沌の空間。

果てしない星星の海が眼前に広がっていたのだ。

宇宙を漂っている…!?

理解し難い事態に、これが現実なのか、それとも死の間際に見る幻覚なのかと穿っていたシンジだったが、突如、強烈な神気にあてられ全身が硬直するのを感じだ。

訳も無く身体が震え、魂に氷柱でも浴びせられたかのような衝撃が駆け抜ける。

周りには誰もいない。

ただ孤独な真空の世界が広がっているだけだ。

…しかし、感じるのだ。

…無限の虚空の彼方から”何か”が此方を見ている。

…人智を越え、狂気をも従えた領域から”何か”が此方を覗っている。

その”何か”を知覚しようと、シンジは神経を研ぎ澄まし、混沌なる宇宙の深遠へと意識を集中させた。

途端に襲い掛かる圧倒的な重圧。

戦慄!

畏怖!

恐怖!

「くっ………!」

様々な負の感情が彼の心を蝕み、思わず呻き声を漏らす。

ともすれば自我の存在など消し飛びそうなほどの衝撃が脳内を駆け巡るが、シンジは苦痛に耐えながら意識の触手を広げていった。

(も…もう少し……)

そして、魂がズタズタに引き裂かれ心が霧散していく瞬間……。

拘泥していく意識の中で……。

少年は”ソレ”を見た……。

 

 

 

  第三新東京市・総合病院

 

………光、闇、光、闇、光……相反する二つの世界が交互に意識を支配している。

海底から一気に水面に浮かび上がっていくように、シンジは夢想から現実へと引き戻される自分を感じた。

強い光が放つ熱い感触が瞼の奥に伝わってくる。

焦点の定まらない眸を通して蛍光灯のライトが煌煌と光を放っているのが見えた。

頚動脈に何か管のようなものが挿し込まれていた。痛みは無いが押さえつけられているような違和感が喉元を包んでいる。

視界の片隅には脳波や身体機能の状態を示す機器類が置かれていた。どうやら此処は病院の治療室のようだった。

ゆっくりと上半身を起こすシンジ。

身体に力が入らない……かなり衰弱しているらしい。浮き出た助骨と頬の扱け具合が雄弁にそれを物語っていた。脳波アナライザーの規則的な点滅に浮かび上がる顔色は、まるで死人の相のように蒼白い。

「………また、あの夢か………」

呻くように少年が呟く。

暗い病室には他に誰もいなかった。窓から見える景色から此処がジオフロントではなく地上の施設であると気付く。

患者の精神的なケアの為にと、大方ミサトあたりが気を利かせたつもりなのだろうが、赤や海老茶色の塗料を大量に塗りたくったような夕日と破壊された街並みは、寂寥感を弥が上にも積もらせていった。

街景から眼を逸らし煩わしそうに点滴を引き抜いたシンジは、ふと管を持った掌をじっと見やる。

あの時……母の首を絞めた手だ。

あの時……母を掴めなかった手だ。

変わらない現実。

変えられない自分。

割れるように頭が痛む。

窓から吹き込む風の音が、死んでいった者達の断末魔の叫びの如く脳裏に響く。

”助けてくれ!”

”熱い!”

”何故俺が死んだんだ!”

”苦しい!”

”何故私が死ななきゃならないの!”

”何故お前は生きている!”

”痛い!”

”何故お前はそこにいる!”

”バケモノのくせに!”

”人間じゃないくせに!”

”お前が殺したんだ!”

”俺達を殺したんだ!”

”人殺し!”

”ひとごろし!”

”ヒトゴロシ!”

浴びせられる呪詛の声。

亡者は次第にすべての顔が母の姿になっていった。

”たすけて…シンジ……”

血みどろのユイが全員でこちらを見詰めている。

”ここは暗くて寒いわ……”

”助けて…”

”タスケテシンジ……”

「くッ!」

纏わりつくように迫ってくる影を乱暴に振り払うと、右手が傍らに置かれていたガラスの容器に激しくぶつかった。

点滴が破壊音を立てて床に砕ける。

「…………」

気付くとそこには誰もいない。ただ零れ落ちた水滴が黒い沁みのように広がっていく様を、少年は凍てつくような氷の眼差しで見詰めていた。

 

 

 

  NERV本部・会議室

 

《第一直上作戦聴聞会》

暗闇の中からスポットライトを浴びてミサトの姿が浮かび上がる。

室内は不必要に暗く、天井は高い。

空調も僅かには効いているのだが、熱気の篭もった室内には殆ど効果は無く、汗で湿り気を帯び始めた制服が彼女の不快感を増大させていた。

本来ここはNERV各支部長が会議を行う為に使われる場所である。

壁の四方には大型HDTVが装備されており、衛星放送を介したオンライン通信が引かれていた。そのスクリーンを通して、現在彼女を取り囲むように九人の男が見下ろしている。

ミサトは権力や権威といった類のシロモノに高い価値を見出すタイプではないのだが、物理的威圧感をも考慮された演出に精神的圧迫感を感じずにはいられなかった。

『代理人、葛城一尉…』

上座正面に座っている男が長い沈黙の末言葉を発した。

かなり老齢の人物のはずだが、顔半分を覆うバイザーの所為で表情までは窺い知れない。

『今回の聴聞の当事者である初号機パイロットの出頭を拒否したそうだな、葛城一尉』

「はい、その通りです」

『理由を聞こう』

「はい。初号機パイロットは先の戦闘の際、外的負傷を含め極度の栄養失調状態に陥っております。今回の聴聞には不適格と作戦部長の権限で判断致しました」

『栄養失調?どういう事かね…』

「技術部が総力をあげて鮮明に取り掛かっておりますが、未だ原因は不明です」

『…………』

一瞬の沈黙。

触れれば斬れるような緊迫した空気がモニターからも伝わってくる。一瞬、気を呑まれるミサトだったが、大きく息を吸い込むと老人のバイザー越しの視線を受け止めた。

『本人の体調が不良ならば仕方ないのでは…キール議長?』

突然、左隅のスクリーンの男が口を開く。

キールは一瞬そちらに視線を送るが、それ以上は何も云わず沈黙を通した。

ミサトは男に視線を向ける。

議長であるキールの詰問を遮ったところからミサトを庇った様にもみえるが、コチラを滑付ける瞳は決して彼女を養護しての言葉とは思えなかった。

『サードチルドレンが出頭しない事は残念だが、キミの方にも聞きたいものが山ほどあるのだ。私は人類補完委員会のゲーリッヒ・エイクシル、今回の議事進行を務める。…着席したまえ、葛城一尉』

「はっ」

敬礼を施したミサトは、いわれるままに椅子に腰をおろすと、脇のサブスクリーンに第四・第三使徒戦の映像が映し出された。

『…すでに前回と今回における戦闘報告書は受け取ったが……なかなか見事な指揮振りだったな、葛城一尉………』

明らかに皮肉と侮蔑の篭もった言葉である。

その頭ごなしの台詞に嫌悪感を抱くミサトだったが、ゲーリッヒは彼女の抱く感情などまったく鑑みる事なく議事を進行していく。

『これよりキミから正確な情報、及び証言を得ていきたいと思う。…まず【ファイル1】、第三使徒侵攻におけるサードチルドレンの徴集状況から報告してもらおう』

「はい…」

ミサトは硬い表情で説明を始めた。

「西暦2015年5月1日。第三の使徒襲来す。特務機関NERVは同日招集したサードチルドレンをエヴァンゲリオン初号機のパイロットに任命、迎撃にあたらせるが失敗…ただし4分26秒後、初号機暴走により敵を殲滅……」

その時、周りから嘲笑にも似た失笑がさざ波のように広がったが、ミサトはあえて無視した。

「…同年5月22日。第四の使徒襲来。エヴァ初号機による迎撃は失敗…敵、要塞都市の迎撃体勢を突破し本部施設に侵攻を開始するも再び暴走した初号機により辛くもこれを撃破する……」

淡々と説明を続けていく内、結局何も出来なかった自分の不甲斐なさを思い出し忸怩たる思いを巡らすミサト。

そんな彼女に対し、他の委員会のメンバーからも次々と批判の声が上がった。

『素人に決戦兵器を委ねるだけとは…』

『その結果が暴走による勝利…。一体キミ達はこの十年、何をやっていたのかね?』

「そ、それは…」

『弁解する必要は無い。キミはありのままに事実だけを語ればよいのだ』

「……はい」

一括され、項垂れるミサト。

確かに作戦部長である自分が戦闘時にエヴァを自分のコントロール下に置けなかったのは失態だ。反論する事など出来はしない。しかし、次に委員会の面々によって発せられた言葉は、彼女の神経を逆撫でするのに十分だった。

『今回の件は国連内でも問題になっておる…』

『NERVの特権を廃しようという動きまで出ておるのだよ』

『左様…尻拭いをする我々の身にもなってもらいたいものだ』

『まったく、この体たらくでは本部の人材もたがが知れるな…?』

「我々が無能……そう仰りたいのですか?」

震える口調で声を荒げた。

『落ち着きたまえ、葛城一尉。我々は何もすべてキミに非があったと云っているワケではない…』

『左様…過酷で制限された状況の中、実によく頑張ったものだと思っておるよ…』

皮肉のスパイスが篭もった労いの言葉が嘲笑を伴ってミサトの耳に響いてくる。

『だが、キミ達の指揮・運用能力にいささかの懸念が生じているのもまた事実…』

『この度の件を踏まえ、国連から特務機関NERVに監察官が派遣される経緯もある。……我々の云いたい事はわかって貰えると思うが…?』

粘着質な口調で説き伏せる上層部の面々を見返し、ミサトはぐっと怒りを堪える様にきつく拳を握り締めた。

 

 

 

  NERV本部・技術研究室

 

「ったく、ムカつくったら無いわよッ!!」

数時間後…技術研究室にやって来たミサトの開口一番の言葉がそれだった。

不機嫌の極みにある彼女に、先程まで整備の指揮を取っていたリツコは溜め息を漏らす。

「ミサト…愚痴は自分の部屋でして頂戴。私はあなたのメンテナンスまで担当してないわよ?」

「あによ、冷たいわねぇリツコは…」

不貞腐れた様にミサトは頬を膨らませた。

今の今まで聴聞会と称する精神的リンチを受けてきた身としては、もう少し優しい言葉があっても良いのではないか、と思ってしまう。

聴聞会にしても、本陣を攻められたのは不名誉の至りだが形としては撃退出来たのだ。死んだ職員の遺族に罵られるなら兎も角、ただ後に隠れているだけのお偉いさんにネチネチと文句を云われる筋合いは無い……それがミサトの本心だった。

「…で、初号機の破損状況はどうなの?」

とにかくリツコに対し不満を発散させ多少は溜飲の下がったミサトは、早速目の前に抱えている問題に対処し始めた。

「芳しくないわね…」

リツコはそう言ってデスクのモニター画面を開く。

調整槽に屈んだ状態のまま映っている初号機は、羊水の中に浮かぶ胎児の様に見えた。

「裂傷の激しい装甲板は交換すれば良いけど……損壊した頭部と右腕部の再生にはかなりの時間を要するわ」

「そこも部品交換で何とかならないの?」

「無理よ、エヴァはロボットではなく人造人間なのよ。形態形成システムによってある程度の自己修復は可能だけど…」

「けいたいけいせい………なにそれ?」

聞き慣れない言葉に疑問を口にしたミサトだったが、リツコからは呆れた声が返ってきた。

「ちゃんと報告書を読みなさい。簡単に言うと、受精卵が卵割を繰り返して組織や器官を形成しながらその生物特有の形態を造っていく過程の事よ。…エヴァの場合、損傷を負ってもマイトーシス(細胞分裂)作業やアポトーシス(細胞死)作業を繰り返す事で特有の形態形成を行っているの…」

「今回はそれを超えちゃってるってワケね……。戦力の増強、マジで急がなきゃ拙いわね…」

ミサトは改めて深刻な状況を突きつけられ、溜め息を吐きながら考え込む。

山積みしていく難題。

一向に改善されない現状。

ここ数日まともにベッドに寝たためしがない……不眠不休が続いて体力的にも精神的にも限界を迎えていた。

それは他の職員も同様で、現時点で使徒が侵攻してきたら本部はひとたまりもないだろう。

思わず弱音を吐きたくなるミサトだったが、次にリツコの口から告げられた報告に勢い込んで身を乗り出した。

「それに関しては良い知らせがあるわ。ドイツの弐号機の配備が1ヶ月早まったそうよ」

「ホントッ!?」

「ええ、それからアメリカで建造されていた3号機も同様。…ロールアウト次第こちらに届くわ」

「助かるわぁ〜、一気に戦力倍増じゃない!」

一対一の戦闘では作戦部が立てられる戦術など限られていたのだ。これで少しはマシになるかもしれないと素直に喜びをあらわすミサトに対して、リツコは若干浮かない顔を覗かせていた。

…少しずつだが確実に歴史は変化しつつある。

それを望んではいるはずなのだが、同様に言いようのない不安も感じていた。

時々思う事がある…。

刻の流れには何か意味があるのではないのか、と…

例えそれが滅びの道標だったしても…

決してヒトが侵してはならぬ聖域だったのかもしれない…

もしその流れを妨げる異分子が現れたとしたら…?

歴史はそれを排除しようと動き出すのではないか…?

そしてそのとき排除される対象とは………

無論、それが埒も無い考えだと解かってはいる。

しかし、湧き上がる不安は、頭の隅に引っかかる棘の様にこびり付いて離れないでいた。

 

『PPi…!PPi…!PPi…!』

 

突然、部屋に通信音が鳴った。

VDT画面には≪保安部からの電話です≫とメッセージが出た。リツコは思考を止め、机の上の受話器を受け取る。

「はい……………え!?」

「どったの?」

リツコの上げた声に只ならぬ雰囲気を感じたのだろう、怪訝な表情を向けるミサトだったが、リツコはそれを無視して電話の内容に聞き入っていた。

「そう……ええ、ええ………わかったわ……」

「リツコ…?」

電話を切ったリツコに再度尋ねるミサト。

「………シンジ君が……」

「シンジ君が、どうしたの?」

何やら考え込むように黙り込んだリツコは、やがて独り言を呟くように語った。

「シンジ君が病院から姿を消したそうよ……」

「な、何ですってッ!!?」

驚いたミサトの声が研究室に響いた。




To be continued...


(あとがき)

こんにちは、ミツです。
ここまで執筆してみて今更ながら思ったんですが、まだTV版の三話程度しか進んでいないんですね……。
自分の遅筆さは自覚していたんですが、流石に青くなりました。これじゃ完結まで何話かかることやら…。
まあ一歩でも歩かなきゃ先に進めないわけですし、なんとか頑張っていこうと思います。
ではでは。

作者(ミツ様)へのご意見、ご感想は、メール または 感想掲示板 まで