第三十一話
presented by ミツ様
第三新東京市・新歌舞伎町
男達は全身を駆け巡る悪寒に震え上がっていた。
肌が総毛立ち、身体中に這いずり廻るようなおぞましい感覚が正気を奪い去っていく。
その理由は一つ。
男は少年の眸を見たのだ。
そこには大渦巻きの中心部のようにすべてを吸い寄せ飲み込む貪欲な闇が広がっていた。
無限の虚無と呼ぶべきか…誰もが子供の頃に一度は見た悪夢をそのまま具現化させたような、人間が無意識に心の奥底に閉じ込めていた原初の恐怖が、抑圧を食い破ってそのまま一気に噴出してきたような、そんな暗い力を感じさせる。
恐ろしい…。
男の顔に冷たく流れるものがあった。界面活性剤にも似たねっとりとした汗が、額から幾筋にも溢れてくる。
逃げろ…男はそう自分に命じた。
コイツは危険だ…理性ではなく、本能がそう告げている。
しかし、全身が麻痺したように指一本動かすことが出来ないでいた。はじめて彼等は目の前の少年が自分達とはまったく違う人間であることを悟ったのだ。
人間…?
いや、違う…。
コイツは違う。
そんなものじゃない。
そんなものであるはずがない。
もっと違う……違う”何か”だ…。
少年の面貌が動いた。
唇の線が両端から吊り上がる。
微かに響いてくる嗤い声。
居並ぶ誰もが、その嘲笑を耳にした。不良達の心胆をも凍てつかせる悪魔の嗤いは、云うまでもなくシンジの口から漏れ出したものだ。
周囲全体が息をするのも苦しいくらいに静まり返る。
到底聞こえそうにない位置にいるトウジ達まで息の呑んだのは、その声に人間以外の響きが篭もっていたせいだろうか。
それほど壮絶な笑みだった…。
「ヒ、ヒィィィィィィィッ!!」
恐怖に恥じも外聞もなくなったのか、男が引き攣ったような悲鳴を上げ、その場を走り去っていった。女達も慌てて後を追うように逃げていく。
暴力の渦が過ぎ去った街頭。
そこに、取り残されたように一人佇む少年。
一体、不良達はこの半病人の少年に何を感じたのか…?
だが呆然と見守っていた聴衆の中、少年はふいに糸の切れた人間の様に、ぬかるんだ泥濘の中に倒れこんだ。
「お、おいッ、テンコウセイ!?」
慌ててトウジが駆け寄ったとき、シンジは完全に意識を失っていた。
NERV本部・ラウンジ
碇ゲンドウと綾波レイは地下ラウンジにおいて遅めの夕食を摂っていた。
本来ならレイは地上の旧市街に位置する団地に帰宅している時間帯なのだが、上層部の指示により本日付で本部詰めの辞令を受けていた。
二人が食しているものは、塩茹でし大蒜で風味付けしただけの具の無いパスタに野菜スープ。肉類は一切無い。
NERV本部総司令や人類の希望を担うツルドレンとは思えない程の質素なものだった。
一切の会話も無い食卓。
食器の鳴らす音だけが静かに響く空間。
それが半ばまで差し掛かったところで、ゲンドウが言葉をかけてきた。
「調子はどうだ?」
主語を省いた問いに「…問題ありません」と応えるレイ。
「そうか…」
ゲンドウもそれだけ聞くと何も言わずに食事に戻る。しかし、暫くして珍しくレイの方から口を開いた。
「…あの……」
一瞬言い澱んだ彼女だったが、意を決したようにその後を紡ぐ。
「碇くんは……まだ見つからないのですか?」
シンジが病院から行方不明になった事をどこかで知ったのだろう。レイから出た言葉に僅かに眉を動かすゲンドウだったが「…今、捜索させている」とだけ簡潔に応えた。
再び訪れる沈黙。その時、携帯の着信音が鳴った。
「…私だ」
携帯電話を懐から取り出したゲンドウは、電話の内容に二・三頷いた後、食事を中途しておもむろに席を立つ。
「レイ、急用が出来た…」
そう云って立ち去ろうとしたが、一瞬、レイを視線の端にとらえると静かにこう告げた。
「…シンジが発見されたそうだ」
振り返る少女の顔を確認せずに、NERV総司令はその場を後にした。
???
少年は夢を見ていた。
もちろん楽しい夢などではない。
悪夢…いや、凶夢といってもよかった。
少年の眼の前に拡がる濃く深い闇。まるでタールで空間を塗り潰したような漆黒の色をしていた。
その中に少年はいた。
他には誰もいない……だが、何も無い空間から声が聞こえてくる。
いや、声ではない…直接少年の脳に沁み込んでくる不快な音のような響き。
それは情報、と言い換えてもいいのだろうか…その発信源は周囲を取り囲む闇そのものだ。
闇が謳う…。
”最後の刻が近づいている”
闇が嗤う…。
”人の終わりの刻が来た”
闇が跳梁する…。
”お前は呪われた存在だ”
闇が蹂躙する…。
”生まれ、育ち、滅び…そして、また生まれる”
闇が弾ける…。
”それこそが世界の在るべき姿”
闇が跋扈する…。
”輪廻の蛇の理”
闇が抱く…。
”お前はそれを犯した”
闇が貪る…。
”大いなる意思に逆らった”
闇が吼える…。
”呪われよ”
闇が貫く…。
”裁きの炎に焼き尽くされよ”
闇が舐る…。
”罪科の罪を受けるがいい”
”永遠に…”
”永遠に…”
”永遠に…”
シンジは呻き声とともに眼を開いた。
眸に最初に映ったのは見知らぬ天井である。
”夢か…”
疲れたように呟く。薄く全身に汗をかいていた。
どうやら布団に寝かされていたらしい。身体の上に載っているタオルと背に当たっているシーツの柔らかい感触があった。
「おい、気が付いたか?」
どこからか訊きなれた声がした。
黒く渦を巻く深淵の底から浮かび上がった意識を声のした方向に向けると、自分の右上からこちらを覗き込んでいるトウジの顔に焦点があった。
朦朧とした意識が徐々に覚醒され起き上がろうとした瞬間、全身に激痛が走る。
「まだ動かない方がいいな」
僅かに顔を歪めるシンジに人の良さそうな笑顔を浮かべながら熊野タツミが話しかけた。
「このボウズに感謝するこった。キミが路上で倒れた時、担ぎ上げて自分の家まで運んでくれたんだ。…良い友達を持ったな」
「…えっ?……いや、別にトモダチちゅうワケでは………」
トウジが慌ててそう答えるが、熊野は気にした風もなく興味深そうにシンジの顔を覗き込んだ。
「それにしても驚いたな。キミみたいな子供があんなに強いとはね……。どこかで格闘技でも習ってたのかい?」
「…誰です、貴方は……?」
不躾な質問に不快感を示すように、シンジが冷たさを秘めた視線を向ける。それには人の心の奥底をも見透かすような光が宿っているが、熊野は気にせず大口を開けてあっけらかんと笑った。
「ま、通りすがりのお節介焼きさ。もっとも、そんな必要もなかったみたいだがね」
もちろんその言葉ほど熊野に余裕があったわけではない。少年の獲物を見定めるような眸が自分に向けられたとき、思わず背中に冷や汗を滲ませたほどだ。
(…この俺がここまで気圧されるとはね……)
少年の胆力に内心舌を巻くが、尚その笑みが崩れる事はなかった。
一見しがない中年にしか見えないこの男の精神…いかなる構造の成せる業なのか。
しばらく黙って見詰め合っていた二人だったが、シンジは機先を削がれたように視線を外すと、ゆっくりと立ち上上がろうとする。
「お、おい…無茶せんほうがエエで」
心配げに声をかけるトウジ。
「ボウズの言うとおりだ……と言っても、お迎えさんが来たようだ」
「へっ?」
熊野の言葉に素っ頓狂な声を揚げたトウジだったが、彼の耳にも安アパートの階段を昇ってくる幾つかの足音が聞こえてきた。
玄関のチャイムが鳴る。
トウジが扉を開くと、そこには黒服を着た数人の男が整然と並んで立っていた。物腰やいでたちからして一般人ではない。あきらかに全員何がしかの訓練を受けた人種だった。
「なんや、アンタら……」
彼等は不審がるトウジを押し退けるように居宅に侵入し、ベッドにいるシンジの前に立った。
「碇シンジ君だね」
先頭にいたサングラスをかけた男が話しかける。
「…そうです」
少年からの返事を確認すると、男は懐から一枚の髪を取り出した。
「NERV保安条例第8項の適用により、君を本部まで連行する。いいね」
「ちょっ、マテや!アンタら人の家に勝手に上がって何ぬかしとんねん!コイツ怪我してんやど!」
トウジがシンジと黒服の男の間に割って入ろうとする。しかし、その肩をまた熊野につかまれた。
「止めたほうがいいな…」
「オッチャン…!?」
「彼等はNERVの人間だ。ヘタに逆らったらボウズの方が逮捕されるぞ」
そう言われ鼻白むトウジの前を、シンジは黒服の男達に囲まれるようにして連行される。少年の意思を無視した横暴な態度にも見えるが、シンジも別に抵抗するつもりもないのか黙って連れて行かれようとしていた。
「テ、テンコウセイ……」
そんな様子を見て、トウジが躊躇いがちに声をかける。
保安諜報部の連中が現れてからずっと沈黙を続けていたシンジだったが、トウジに一瞥をくれると何を思ったのか黒服の男の一人に話しかけた。
「…少し、時間を貰えますか?」
「……良いだろう」
男はちらりと腕時計を見つめたが、小さく頷いた。
少年はトウジの方へ向かう。
「何だい…?」
低く感情の篭もらない声を聞いたとき、トウジは一瞬言葉につまる。不器用で頑固な性格の彼は、やや不機嫌な表情のまま暫く黙り込んでしまった。
重い沈黙が広くもない部屋に流れる。
一体自分は何故この少年を呼び止めたのだろう…?
頭の中で疑問を繰り返した。
事の始まりは最初の化け物がこの街に襲来してきた時だ。
自分の妹が戦闘時に巻き込まれ怪我を負った。
それがかなり重い症状で、回復の見込みは殆ど無いという事を担当医から聞かされたとき、トウジは憤った。
どうして自分の妹が、そう思った。
変われるものなら変わってやりたい、そう願った。
トウジは戦いを憎んだ。そして妹に怪我を負わせた者達を憎んだ。
それはたった一人の妹を守ってやれなかった無力な自分自身に対する悔しさの裏返しなのだが、未熟な彼の心ではそれを理解する事は出来ず、徒に捌け口を求めていた。
そこに現れたのがこの少年だった。
最初から気に入らないヤツだった。
学校に裏庭に呼びつけて殴りかかった。
バカな事をしたと思っている。
彼を殴っても妹が喜ぶはずがないというのに…。
「碇…」
沈黙を続けていたトウジが少年に対し深々と頭を下げた。
「…その、二発もどついたりしてスマンかった!」
それが自問自答の末、彼が導き出した答えだった。
しかし、当のシンジは頭を下げたトウジをただ無表情に見詰めるだけだった。
「何故、謝るんだい?」
「な、何故って…」
意外な言葉に戸惑うトウジ。黒髪の少年は更に無機質な言葉を紡いだ。
「キミは僕が許せなかったんだろう?妹さんを傷つけたこの僕を。だから殴った、憎いから……違うのかい?」
「それは……」
そう言って口篭るトウジを見て、シンジは氷の様な冷たい視線でこたえた。
「体裁を慮った謝罪など欺瞞以外の何物でもない。つまらないね…自分のした事に責任すら持てないのか……」
酷薄とも取れる言葉だ。謝罪を口にした者に大して浴びせる言葉ではない。トウジも一瞬ムッとした表情で少年を睨み付けたが、再び視線を落すとポツリと小さく呟いた。
「…確かにワシはつまらん男かもしれん。考えなしの大バカモンや…。けど、自分が間違ったと思ったら素直に謝らなアカン…アカン思う。……それがワシなりの”ケジメ”ちゅうモンや」
それはトウジの嘘偽らざる気持ちだろう。そしてその言葉を聞いたとき、少年の眸からは先程までの冷酷さとは違う感情…どこか悲哀と郷愁を綯交ぜにしたような複雑な表情が浮かんだ。
「そうだったね、キミはそういうヤツだった……」
「碇…?」
シンジの口から出た、まるで既知の友人に語りかけるような言葉に違和感を覚えるトウジ。
だが、更に言葉を続けようとしたとき、黒服の男が「…時間だ」と二人の間を遮るように立ち塞がった為、トウジは立ち去る少年の姿を黙って見送ることしか出来なかった。
第三新東京市・外輪山付近
深夜。
闇の中で風が騒いでいる。
夜の暗黒淵から山の斜面を吹き上げてくる風は、渦を巻くように上空に舞い上がっていた。
渺渺と冷え切った空気。真の静寂に包まれた森の中。
遥か上空、月の銀光を覆い隠すように黒雲がたなびいている。
その雲の中、中心部から何かが染み出してきた。
赤い…赤い光だ。
はじめは針で突いたような小さな光だったが、点滅を繰り返し、まるで血がしたたるかのように徐々に雲全体に滲んでいく。
奇妙な光だった。
硬質な色彩を放ちながら、どこか生機的な生々しさをももっている。
突如、雲が裂けた。
そこから現れ出でたもの…。
驚く事にそれは飛行機でも飛行船でもなかった。赤い光が眩しく、ほとんど細部を見てとることが出来ないが、強いてあげるなら石板のような長方形の物体を更に異質に、歪にした”何か”だった。
”それ”が音も立てずに上空に静かに浮かんでいる。
”それ”は何かを観察しているようであった。
”それ”は何かを検閲しているようであった。
ふいに、赤い光が強まった。キィンと耳に突き刺さる金属音が夜空に響くと、”それ”は物理的法則を無視した慣性運動をもって東の空へ高速で飛び去っていった。
あとには冷たい暗黒だけがしんと拡がっていた。
To be continued...
(あとがき)
こんにちは、ミツです。
やっと31話をUPできました。
新年に入ってからやたらと仕事が忙しい。身体が二つ欲しいです。
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