贖罪の刻印

第三十三話

presented by ミツ様


  第三新東京市・鈴原宅

 

心地よい朝だった。

地軸の変化により常夏となった今の日本においても、この時期の明け方はまだ涼気の粒が街に吹きつける。

それでも朝日が昇り始める頃には、初夏の光が気化した水晶のように降り注ぎ、木々の梢から零れ落ちた緑が大地に命の呼吸を息づかせていくだろう。

目覚まし時計の音が鳴り、トウジは目を覚ました。

もっとも、脳細胞の活性化にはほど遠く、まだ身体がだるい。昨日の件でのモヤモヤが尾を引いているのか、夜はなかなか寝付けなかったからだ。

それでもそろそろ起きなければならない。今日は朝から妹の見舞いに行く予定だった。遅れて行けばあの口やかましい妹のことだ。どんな文句が飛び出すか堪ったものではない。

ぼんやりと頭を掻きながら身を起こすトウジだったが、それでも思考の大半は昨日の少年のことだった。

「…アイツ、今頃ナニしてんやろ……」

何故こうもあんなヤツに拘るのか、自分でも理解出来ない。

カリがあるからなのか…案外それだけでもないような気がする。

 

グゥ…

 

急にお腹の音が勢いよく鳴った。

「アカン…ハラ減った……」

自分の腹を抑えて情けない声を上げた。

もともと深く考えるのは性に合ってない。そう云えば昨日もほとんど食事らしい食事は摂っていなかった。トウジは眠気の覚めないその足で、台所に向かって歩いていった。

冷蔵庫を物色して卵とハムを取り出す。卵の賞味期限が少々気になったが、まあ何とかなるだろう…。

フライパンに油をしき火を点けようとした時だった。廊下の電話がけたたましく鳴り響いた。

(こんな時間に誰や…?)

一瞬、父親か祖父かとも思ったが、ここ数日は研究所勤めが忙しく、碌に連絡などくれたためしがない。

訝しむトウジが電話を取ると、受話器の向こうからケンスケの安堵した声が聞こえてきた。

『ト、トウジか!?良かった、居てくれて…』

「なんやケンスケか。どないしたんや?さては、ま〜た”さばいばるげーむ”なんぞに行っとるんか?いくらガッコが休みかて…」

『それどころじゃないんだってッ!いいか、よく聞けよ……』

欠伸を噛み殺しながら電話にでていたトウジだったが、ケンスケが話す内容に途端に目がさめた。そしてそのまま受話器を放り出すと玄関から駆け出していく。

後には、調理しかけの食材だけがむなしくデーブルの上に取り残されていた。

 

 

 

  新箱根・湯本駅

 

街の郊外にある、ひっそりと静まり返った駅。

街路道の蝉の泣き声だけがその存在感を示している。明け方の涼気はなりを潜め、照りつける太陽があらゆる風景を陽炎の如くゆらめかせていた。

その中をトウジは必死で自転車を走らせていた。

駅に到着すると、そのまま鍵もかけずに自転車を投げ捨ててホームへ入っていく。

「トウジ!」

専用ホームの渡り通路付近でケンスケの声がした。そしてその傍らに見知った人影を見つける。

「イインチョッ!!」

トウジは叫んで二人のもとへ駆けつけた。

「!?…鈴原……」

「い、一体…どういうこっちゃ……」

驚いているヒカリに、息を切らせながら尋ねるトウジ。ヒカリは悲しそうな表情を曇らせた。

「私ね、引っ越すことになったの…」

「な、なんでや……」

トウジが問い掛ける。少女は今にも泣き出しそうな表情を浮かべると、小さく言葉を紡いだ。

「…………妹が……」

「妹?」

「…ノゾミが、この前の戦闘の犠牲になって……」

「ッ!?」

そのまま嗚咽を堪えきれず涙を流すヒカリ。

トウジは言葉を失った。ケンスケも沈痛な面持ちで顔を伏せる。

自分達が取った軽率な行動がどんな影響を周りに与えてしまったか…頭では理解していたつもりだった。しかし、こうして身近な友人の不幸を知らされたとき、それすら浅はかな考えだったのが身に沁みて思い知らされたのだ。

「…それでお父さん、凄くショックを受けて。もう、こんな街から出たいって……」

ヒカリは漸くそれだけを言って、ホームの隅のベンチに項垂れて座っている父に視線を向けた。

白髪交じりのその髪は、所々がほつれ額に垂れている。疲れた表情と深い皺からは、年齢よりも更に老け込んでいるような印象を与えている。

「お姉ちゃんは就職が内定して無理だから、私だけでも付いててあげないと……」

お父さん、駄目になっちゃいそうで…そう少女は言った。

俯き項垂れるトウジ。

ヒカリの妹を直接死なせた原因は自分達にはないかもしれない。

しかし、戦場を混乱させてしまったのは紛れもない事実なのだ。もし自分達が勝手な行動を取らなければ助かった命があったかもしれない。

ヒカリの妹も死なずに済んだかもしれない。

あの転校生の顔を思い出す…。

自分は妹の怪我をシンジの所為にした。

殴って罵倒した。

しかし、自分にそんな資格などあったのか?

今まで後悔したことは何度もあった。だが、ここまで自分を情けないと思ったことはなかった。

トウジは思わずその場で土下座をする。

「スマン…スマンかった……ッ!」

嗚咽の混じった声で何度も何度も謝罪の言葉を搾り出した。周りの人間の奇異な視線も気にならなかった。

「………何で鈴原が謝るの…?ヘンだよ……」

戸惑いながらヒカリも泣いた。一緒になって泣き崩れた。

ポタポタとコンクリートの床に零れる涙。遥か遠くから電車の警笛が聞こえてきた。

「…ごめん、もう行かなきゃ……」

泣きはらした瞳を拭うと、ヒカリはベンチに座っている父親の方へ歩き出そうとする。しかし、ふと立ち止まるともう一度トウジに視線を送った。

「……あ、あのね、鈴原……」

「なんや…」

顔を上げた少年の顔を、少女はじっと見つめる。

…不器用で、頑固で、やや時代遅れなところがあった少年。

…だが、一本気で義理堅く、妹思いの優しい心を持っていた少年。

…彼に対して胸に秘めていたものがあった。

一瞬、恥らう乙女のような表情を浮かべたヒカリ。だが、首を一つ振ると、

「…ううん、何もない。……それじゃ二人共、元気で…」

少女は胸の裡を告げず、微笑みながら父親を伴いゲートをくぐっていった。

ケンスケが真面目な顔で敬礼をした。

トウジは黙ってヒカリの後姿を見つめていた。

駅に到着した電車が、再び警笛を鳴らして発進する。

それが陽炎の彼方に走り去っていくまで、二人の少年は口を噤んだままだった。

蝉の泣き声だけが、降り注ぐ驟雨のように辺りに響き渡っていた。

 

 

 

  第三新東京市・旧市街地

 

ダダダダダッ!と既設埋設物解体のジャイアント・ブレーカーの耳を劈く大騒音。

ここはかつて都市建築計画に従事していた人々が暮らしていたマンモス団地。

しかし現在はその役目は終わり、無人と化した建物の半分以上の解体工事が進められており、夕暮れ時ともなると棲みついた鴉の鳴き声と相俟って退廃した雰囲気を醸し出している。

そんな廃墟の様なビル群の一画に、綾波レイは入っていった。

ブザーも壊れた自宅の郵便受けには何年も放置されているであろうメールの山が溢れ返っていたが、彼女はそんなものには関心を示さず無造作にドアノブを回す。

鍵すら掛けられていないのだろう。ドアは軋んだ音を立ててゆっくりと開いていった。

暗く湿った感じの玄関。そしてそれ以上に暗く、がらんとして、まったく情緒というものが感じられない室内。

調度品はベッドと冷蔵庫と小さなチェスト、そして薄汚れたテーブルだけ。部屋の隅には段ボール箱が積み上げられたままだ。

壁にはモルタルの地肌が無残に露出しており、天井は暖房事故でも起こしたのか、黒い煤が広範囲に拡がっている。

年頃の少女が住む場所としては殺風景…いや、殺伐といっても過言ではない部屋だ。もしこの部屋の光景を精神科医や心理学者が目撃したら、即本人の入院を勧めるだろう。

しかし、レイはまるで気にした風もなくチェストの中から下着を取り出しバックの中に詰め込んでいった。

本日付けでこの団地からNERV本部宿舎への転居を命じられている。

その命令を受けたときも別段何の感慨も沸かなかった。

普段も実験等で本部に泊り込むことは何度もあったし、この部屋に特別に愛着があったわけでもない。

ただ命令されたから此処に居ただけなのだ。

レイは段ボール箱からも数冊の本を取り出すと後はゴミ箱へ投げ捨てる。ゴミ箱には血で汚れた包帯が散乱していた。

時間にして一分ほど経ったろうか、作業は終了した。

これが彼女の所持品の全てだった。

他には何も無い…。

窓から風が入ってきた。

お座なりのように掛けられた黒く薄汚れたカーテンが揺れている。

レイはカーテンを開けると夕日が沈む黄昏時の街並みを見つめた。

黄金色に彩られた空の下に、同一規格に設計された建築物が整然と起立しているその姿は、無限のベースペクティブをもって眼前に拡がっており、それは建物に幾重にも反響している破砕音と相俟って不思議なカノンを奏でていた。

じっと見つめていた少女の瞳が微かに揺れる。

街…

ヒトの作り出したモノ…

エヴァ…

ヒトの造り出したモノ…

ヒトは…?

ヒトは神様が創り出したモノ…

じゃあわたしは…

わたしはナニ…?

わたしは綾波レイ。綾波レイと呼ばれるモノ…

でも、それは本当のわたしじゃない。

 

 

”ホントウノワタシッテ…?”

 

 

自分を模っていたものが霞のように消え去っていく…。

自分を支えていたものが音を立てて崩れ落ちていく…。

わたしはナニ…?

私はナニ…?

ワタシはナニ…?

孤立感に苛まれるようにカーテンを閉めるレイ。

その瞳にあるものが映った。

テーブルの上に置いてあるレンズの割れた眼鏡。

フレームも僅かばかり変形していた。

そっと眼鏡を手にする。

浮かび上がる碇司令の顔。

そして…

何故か無性に胸が苦しくなった彼女は、無意識に手に力を込めていった。

歪むフレーム。

ミシリッ、という音がしたとき、慌てて手を離すレイ。

そこには壊れたままの眼鏡だけがあった。

他には何も無い。

自分には、何も…。

流れる一粒の滴。

「…これは涙、何故……?」

レンズの上に落ちた水滴を見つめながら、少女はただただ嗚咽を繰り返した。




To be continued...


(あとがき)

こんにちは、ミツです。
大型連休も終わりましたが、休みボケがなかなか直りません。
そろそろシャンとしないとなぁ…。

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