贖罪の刻印

第三十四話(通常版)

presented by ミツ様


  NERV本部・自動販売機前

 

「ホントかい、それ?」

休憩を取っていた日向と青葉は、MAGIカスパーのオペレーター・大井サツキからの情報に危うく手に持ったコーヒーカップを落としそうになった。

「ええ、私も総務部の友達に聞いたんだけど、何やら国連の方からお偉いさんが出向してくるみたいなの。それと民間からもマスコミが派遣されるそうよ」

サツキの手には食堂で購入したサンドイッチがある。どうやら徹夜続きの二人に差し入れを持って来てくれたらしい。

「そりゃ、総務の連中も大童だな」

日向が差し出されたチキンサンドをつまみながら呟いた。

「でも何だってこんな時に来るのかしら…?」

「多分、こんな時だからだろ」

サツキの疑問に青葉がこたえた。

「当初の予測を大幅に超える被害結果を出したNERVの作戦行動能力に、国連の上の連中や世論が疑問をもったってことさ」

「つまり、野球選手がオーナー側と観客双方から一斉にクレームを付けられたってカンジかい?堪んないなぁ…」

「ホントよね。私たちだって一生懸命やっているのに…」

日向達のボヤきを聞きながら、青葉は前戦闘後に見せた日本に対する各国の反応を思い起こす。

「もっとも、別の可能性も考えられるけどね…」

「と、言うと?」

「知ってのとおり、NERVはオーバーテクノロジーの塊だ。その技術を狙っている組織は星の数ほどいるってことさ」

「連中自体がフェイクってことか…?」

「なんか、イヤね。そういうの……」

サツキが顔を顰めた。

姉御肌な外見からは意外だが、彼女もマヤと同じ潔癖症のきらいがある。だがロシア系のハーフでもあるサツキには、そのような表情でもエキゾチックな色っぽさがあった。

「国連からの出向というのも額面通りに受け取らない方が良いかもしれないな」

青葉は頬張っていたハムサンドの残りを一気にコーヒーで流し込むと、カップを片付けながらそう言った。

 

 

 

  NERV本部・実験制御室

 

最上アオイは、先程から部屋に張り詰めた空気が流れているのを感じ、理知的な眉を顰めていた。

原因はリツコだ。

主任席に座る彼女は、アオイの目からは別人のように映った。

休息をほとんど取っていないのか、眼の下には隈ができ頬もやつれている。一心不乱にキーボードを打ち込んでいるときもあるかと思えば、時折放心したように生気を失いぼうっとモニターを見つめ続けるのを繰り返していた。

そんな、普段の彼女からは想像できない姿に、他の職員はまるで腫れ物を扱うかの如く遠くから見守っているだけだった。

もともとアオイは他人の機微に対して無頓着な方である。しかし、彼女は資料を揃えると物憂げに考え事をしているリツコのもとへと向かった。

「博士…、零号機の再起動実験の修正プランが出来上がりましたが……」

リツコはその言葉にはじめて気がついたようにアオイの方を見上げた。

「…ああ、ごめんなさい。ご苦労様、あなたも少し休んでらっしゃい」

「大丈夫です。それより博士の方が…あの、失礼ですが何だかお疲れのように見えます」

「いいえ、私は…」

自分なら大丈夫、と言いかけてリツコは思いとどまった。

恐らく誰の目からも明らかなくらい疲労の色が出ているのだろう。職員達の表情を見れば一目瞭然だ。

「私がこんな事を言うのも何ですが、少しはお休みにならないと…」

アオイにそう告げられ、リツコは部下に心配されていたら世話ないわね…と、皮肉げな笑みを浮かべて席を立った。

「ありがとう。…そうね、そうするわ」

「はい」

リツコの言葉に微かに微笑むアオイ。

制御室も一斉に空気が和んだ。

その所為か、誰もリツコの瞳の奥底に浮かんだ翳を見極められた者はいなかった。

 

 

 

  NERV本部・地下F区6-24号

 

蛍光灯の白銀色の光がうっすらと照らす長い廊下をリツコは歩いていた。

目的の部屋の前まで辿り着くと、そこには先客がいた。

レイだ。

彼女は部屋の扉の前に佇んでいた。

「…どうしたの、レイ?」

少女は何も答えない。ただ黙って首を振るだけだ。

「…シンジ君……?」

こくり…と頷く。

そう、ここはシンジの部屋の前だ。

二日前、身柄を確保されてからずっと此処に篭っている。レイなりにシンジに関心があるようだが、扉の音を叩いてはいない。

どうやら感情表現が稚拙な彼女は、今の思いをどう表現したらよいのかわからず、持て余しているようだった。

「そう……あなたは自分の部屋に戻っていなさい………」

少女の感情の変化に僅かながら興味を示したリツコだったが、そう云って扉のボタンを押す。

レイはその後姿をただじっと見送っただけだった。

紅い瞳が微かに揺れていた。

 

 

「…シンジ君、入るわよ」

リツコは部屋の中に入った。

薄暗闇の空間は殺風景な部屋だった。

あまり広くない間取りにベッドだけが置かれており、他に家具らしいものといえば小さなテーブルと椅子があるだけである。

奥にあるもう一つのドアは、バスルームになっていて便器と洗面所が設置されている。

他には何も無かった。

何も無い部屋の中央に少年がいた。

包帯だらけで満身創痍の痛ましい姿を晒している。

「勝手に病院から抜け出すのは感心しないわね。…みんな心配していたわよ」

シンジは無言のままだった。リツコもまた他にかける言葉を見失い、二人の間には重い沈黙が澱んだ。

(レイのことは言えないわ…、私も人付き合いが苦手だものね……)

そう自嘲気味に唇を歪めるリツコ。

事実、今日までシンジのもとを訪れなかったのは、彼女自身の躊躇いからに他ならなかった。しかし、酸欠の苦しさにも似た時間を破ったのは、意外にもシンジの方だった。

「……出て行って、くれませんか…」

感情を押し殺したような言葉で見つめられた瞬間、背筋に悪寒が走った。

粘々と這うように澱む昏り…。の部屋の空調は完璧のはずだ…。しかし、佇む少年の周辺だけは暗く濁った空気に包まれていた。

粘々と這うように澱む昏りが辺りに漂う…。その中でシンジの眸だけが傲然と冷たい光を放っていた。

しかし、身の凍るような圧迫感に晒されながらも、何故かリツコは安堵していた。心などとうに壊れてしまった思われていた少年にも、僅かながらの逡巡が見てとれたからだ。

「今日は、ご機嫌斜めみたいね…」

「出て行って下さい。…そう言ったはずです」

「碇ユイ博士……、お母さんのことは残念だと思っているわ」

「…残念?」

語彙に危険な響きを感じながらも、少年の正面に立つと勤めて冷静な口調でリツコは話し始めた。

「リリスが何故、碇ユイ博士を狙ったのか…?その理由は現在調査中よ。事態が事態故に極秘裏にしか出来名けど……、でも、それが解明されればサルベージ計画にも少しは希望が…」

その時、シンジの冷たい眸がリツコの言葉を遮った。

「リツコさんは何か勘違いしていませんか?」

「…どう言う事?」

「母さんがどうなろうと、僕は何とも思っていない…。初めからそんなものに期待も絶望もしていない…」

「シンジ君…」

リツコは痛ましいものでも見るかのように少年を見つめた。

「母さんにも、父さんにも……僕は何も求めていない。初めから、僕には何も無い……」

抑揚に乏しい声で嗤う少年。だがその表情の奥にはリツコにもはっきりとわかる険があった。

笑みでも消せない凶相の部類に属するものだ。もともとが中性的な顔立ちをしているだけに、その相は異様な雰囲気を本人に与えている。

リツコは溜息を一つ吐くと、哀れみの篭った視線をシンジに向けた。

可哀想な人。父に拒絶され…、母に拒絶され、世界に拒絶され…、そしてあなたもまた全てを拒絶している…。でも…それでも生きていかなければならない……哀れな人……」

その時、無機質で彩られた少年の貌が、ビクンと震えた。

「貴方は、ただぬくもりが欲しかっただけなのに…」

リツコが更に言葉を紡ぐ。

「ただ、『おはよう』と言い合える家族が欲しかっただけなのに…」

「…貴女に…、何が解るんです……」

少年の眸…その奥の無明の闇から、どろどろとした粘着質のような黒い炎が揺れていた。

「解らないわ。私はあなたじゃないもの」

少年の殺気に押されながらも、冷然と言い放つリツコ。

「ヒトがヒトを完全に理解するなんて出来っこないもの。でも、あなたは自らの手で物語の第二幕を開けてしまった。狂気と悪夢、そして殺戮と絶望とが綴る無限の輪舞曲を…。あなたにかけられた呪いはまだ……、いいいえ、あるいは永遠に解かれることはない……」

「…煩いッ!!」

はじめてシンジが怒りに声を荒げた。

リツコの腕を乱暴に掴み、そのまま首を絞めつける。まるで万力の様な力だ。

触れてはいけないものに、触れられた…少年の眸には、そんな形容し難い怒気が宿っていた。

心臓を鷲掴みにされるような壮絶なプレッシャーが襲い掛かる。抑えようとしても全身の毛穴から汗が噴き出し、肌に纏わりつく。

胃が逆流する。意識が歪む。

しかし、不思議と恐怖は感じなかった。

今ならわかる。

シンジから吹き上げる圧倒的な狂気の炎…だが、その裡には巨大な深い穴が存在していた。

底の知れない闇に沈んだ空洞。

それは哀しみに満ち満ちていた。

”科学者”である母に裏切られたシンジ。

”女”であった母に見捨てられたリツコ。

互いに母親というものに幻想を抱いていた二人。

似ているのだ…自分達は。

ふいに、リツコの中に言いようのない感情が溢れ、涙となって頬を伝わった。

それが単なる哀れみからきたものなのか、それとも別の何かなのか…それは今はわかrない。

自分を殺そうとしている人間を愛しく想う。

狂ってしまったのかもしれない。

そう思った。

それでも良かった。

シンジの抱いている闇を少しでも癒したかった。

このガラスの様に繊細で脆い少年が、今は何よりも女の慰撫を求めていることに気付いてしまったのだ。

リツコは首を絞められた状態のままシンジを見つめた。

涙に溢れた瞳…。苦しみもなく、怒りもなく、哀しみと憐みの表情だけが浮かんでいた。

その涙に我に返ったように手を離すシンジ。

途端にリツコは膝をつき、思わず大きく咳き込んだ。

「……帰って下さい。貴女と話すことは、今は何も無い……」

冷静な中に、何かを圧し込めたような小さな声で少年は言った。

危険な響きだ。今までの彼女だったら、黙って従っていたかもしれない。

だが……。

「嫌だと…、そう言ったら?」

臆することのないその言葉に、シンジの表情がみるみる剣呑さを増す。

(もしかしたら、ここで殺されるかもしれない…)

リツコの頭の中の誰かが呟く。

薄氷を張った池のような緊張が二人を包んだ。ここで髪の毛一本でも動かせば確実に死ぬだろう。

永劫にも続くかと思われた時間……禍々しい鬼気がすっと消えた。

「………何を、望むんです」

「え?」

思いがけない言葉に思わず聞き返すリツコ。

少年は小さな声で搾り出すような呟いた。

「…これ以上、僕に何を望むんです。使徒は殺した…。そして、父さんと母さんの補完計画はもう成就しない…。あなたの復讐は叶ったんだ。……もう僕に拘る必要なんてないじゃないか!」

「シンジ君…」

「自分に免罪符なんて求めない…そんな資格もない。優しさだけでは何も出来ない、何も救えない。何かを犠牲にしてでも成さねばならないことがあるから……。その為なら僕はいくらでもこの手を血に染めてやる。……その為にこの世界に還ってきたんだ!」

噴き上がる強い思い…だが、それは怒りではなかった。

シンジが発した剥き出しの感情。

断罪の堕天使でも、狂気の鬼でもない。『碇シンジ』としての、剥き出しの感情。

ずっと隠し持っていた本当の心。

道を失い悲しみに震えている幼子のような姿がそこにはあった。

「あなたが背負ったもの…その全てを知る事は私には出来ない。…でも……」

リツコはそっと少年の頬に手を当て、包み込むようにかき抱く。

「…私が受け入れてあげる。たとえ世界のすべてがあなたを拒絶しようと、私だけは傍にいてあげる……」

シンジは驚いた様な…それでいて泣いている様な貌を浮かべた。

厚く、冷たく閉ざされた表情が僅かに揺れる。

片翼を無くした哀しい魂…、それは互いに溶け合い惹かれ合うものなのかもしれない。




To be continued...


(あとがき)

こんにちは、ミツです。
この34話にもR指定版があります。
興味のある方は連絡下さい。お送りします。
ではまた次回に。

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