すでに陽は西の果てに沈み、薄暮が忍び寄ってきていた。

黄昏時に世界が静まり返るはずの時刻だが、厚雲に覆われた空にはおびただしい数の探照灯と、人々の怒号が響き渡っていた。

第五の使徒の襲来を受けた第三新東京市。とりわけDエリアは壊滅的な被害にあった。

建物という建物全てが破壊され、燃え、燻り、歯が欠け落ちたような残骸が墓標のようにいくつも歪に突き出している。

焼け爛れた残骸の下には逃げ遅れた人々の死体で溢れ、肉片と血で大地を濡らしていた。

まさに地獄があるのなら、ここが地獄なのだろう。

だが、その被害の中心には、周りの喧騒とは隔絶した空間が広がっている。

血の様な紅い海。吐く息すら凍りつく様な静寂なる死の世界。そこに、特殊ワイヤーで雁字搦めに晒された紫の巨人の姿が不気味な沈黙を守って佇んでいた。

装甲も剥げ落ち、鬼曝け出されたコアが無残にも潰され無数の罅が走ったその姿は、まるで神の怒りをかい地獄の底に囚われた罪人の様であった。

サードチルドレンを回収に来た救護班の面々も、そのあまりにも異質で惨憺たる光景に魂を奪われたように固まっている。

「何をしている!こっちだ、急げッ!!」

諜報部の剣崎キョウヤの号令が響いた。管轄外の仕事だが、チルドレン保護の名目で救出の指揮を上から受けていた。

剣崎の声で我に返った救護班は急いで回収作業に移る。彼達の前には、とてつもない圧力によってひしゃげたエントリープラグが転がっており、所々から蒸気のようなもの立ち昇っていた。

「バーナーでハッチを焼き切れッ!!」

剣崎の指示で、いびつに歪んだハッチがこじ開けられた。

溢れ出すLCL。血のような液体の流れ出たプラグの中は想像を絶する悲惨な有様だった。

計器類はすべて破損していた。まともに機能しているものなど一つもない。そのどれもが火を噴き、紫電が散り、爆ぜていた。

「これは…………い、いたぞ!」

潰れたコックピットの隙間に蹲っていたパイロットを確認し、その無残な姿に絶句する救護班。

頭部の裂傷を始め、鎖骨、肩甲骨、胸骨に至るすべての骨という骨がコントロール機器に押し潰されている。折れた骨が内臓を傷つけたのか、口から喀血しており意識は無かった。

「ひ、酷ぇ……脚が半分千切れてる………」

「左膝蓋骨破損、大腿骨中間広筋断裂……右手根骨圧破……」

あまりにも凄惨な光景に口元を押さえる者もいる。いち早く我に返った剣崎が蒼褪めた表情で怒鳴りつけた。

「何をしている!!止血が先だ!早く身体を固定しろ!!」

「救護班、タンカだ!」

「緊急ルートを確保!C-18からB-5の全面閉鎖を要請!!」

慌ただしくプラグから救出される少年の姿を、紫の鬼神は不気味な沈黙をもって見守っていた。







贖罪の刻印

第四十二話

presented by ミツ様







  ???

 

『このような事態に陥るとはな……』

暗褐色の空間の中、闇の中に浮かぶ数人の影。

フォログラムを通してSEELEのメンバーが長テーブルに鎮座している。

第五の使徒襲来に対する問題が提議されているのだが、一同の表情が一様に硬いのは、何も部屋の所為ばかりではないだろう。

『”力”と”音”……その両方の能力が付与された使徒の出現…』

『こんな事は、我々のスケジュールには予想もされなかった事象だ!』

『このイレギュラーの修正…容易ではないぞ!!』

口々に飛び交う不安混じりの怒号。

古今東西、どんな時代であっても予測出来ない事柄に関してはパニック以外の手段を持たないのが人間というが、それは人類の旗手を自称する彼等とて例外ではなかった。

不安があるから怖れを抱き、怖れを抱くが故に攻撃性を増す。これはヒトの哀しき本能。

老人達もまた、その本能に従い、攻撃の矛先を末席の男に集中した。

『碇……、初号機及びサードチルドレンに対する処分は以上だが、何か申し開くことはあるかね?』

委員の一人がゲンドウに皮肉げな視線を向ける。

『わかっているとは思うが、今回の件は全てキミの失態だよ』

『エヴァ全機大破、加えて第三新東京市の甚大な被害……一体どれほどの損害を我々が被ったか、解っているのかね!』

『中東ではすでに万単位の餓死者が出たと聞く。そして…これは全世界に波及していく傾向だ』

『まったく…キミの首ひとつで片付く問題ではないぞ』

嘲りを含んだ罵倒が幾度も末席に座るゲンドウに浴びせかけられるが、彼は何の反応も示さない。相変わらず腕を顔の前に組み沈黙を守っている。

だが、最後にメンバーの一人が発した言葉には、サングラスの奥の瞳が僅かに揺れた。

『いや……何より重い罪は、あそこで”アレ”を引き起こしかけた事だ…』

場の空気も一瞬で固まる。

先程から各々のモニターには第五使徒戦の戦闘画面が繰り返し映し出されている。

巨人同士の戦いは一方的な展開になっていた。いや、もはやそれは戦闘と呼べるものではない。あるのはただの虐殺だけだった。

荒れ狂う遥か黙示録の破壊神。

打ち砕かれ、踏み潰され、貫かれ、ついに大地にひれ伏す使徒。初号機が使徒の頭部を踏みにじり、おぞましい雄叫びを上げながら、残った腕をも引き千切った。

凶暴なまでの力。恐怖に凍り付く伽藍の瞳。恐れを抱くはずの無い神の遣いが、今始めて抱く感情だろう。

必死にその場から逃れようとする哀れなる躯に無慈悲に舞い降りる光の翼…、それが使徒の見た最後の光景だった。

 

だが、戦闘はここで終わったわけではなかった。

 

旋回を続けていたVTOL機が突然、不自然な動きを見せて墜落した。

見ると、初号機が発生させていた光の翼が不自然な形に捩じくれ、膨張を繰り返し肥大化し始めている。泡立つ光の雫…。恐らく、この光に触れたVTOL機のパイロットは一瞬にしてLCLへと還元してしまったに違いない。

NERV上層部はここに至って事の重大さを認識した。初号機を取り巻く強大なエネルギーの流れが、遂に暴走を引き起したのだ。

もはや一刻の猶予もない。司令の号令のもと、初号機の暴走を止める為に残存するすべての戦力が投入された。おびただしい数のミサイルが炸裂し、爆発する。電磁ネットが展開される。特殊ワイヤーが打ち込まれる。

炎と黒煙が幾筋も上がる中、獰猛な獣のようにそれらを引き千切る初号機。更に十重二重に巻きつけられるが、破壊の鬼はなおも足掻くのを止めない。

ワイヤーが身体に食い込み、肉を引き裂き、血に塗れる。そのおぞましく鬼気迫る姿に戦慄を覚える一同。

やはりこの化け物を止める手段など存在しない…誰もが絶望感にとらわれたその時だった。

不意に、唐突に、初号機の動きが止まった。

あれほど荒れ狂う破壊神と化した鬼は、まるで彫像のように立ち尽くし、大気を引き裂く闘気すら消え失せ活動を停止させた。

原因は不明。

しかし、皆は自らの命が助かった安堵感よりも、最悪の災害を引き起こしかけた存在に恐怖を覚えた…。

『いかん。早い、早すぎる!』

『ロンギヌスの槍も無いまま、危うくすべてが終わるところだったのだぞ!』

老人達が口々に青褪めた表情で呻く。

『世論に対してもそうだ。わかっているのかね。現時点で、計画の一端が洩れるのは非常に拙いのだよ…』

『この不祥事に関するキミの責任は重いぞ』

『まったく、何故こうも死海文書に逸脱した事ばかりが起こるのか…?』

他の者も関を切ったように不満をぶちまける中、右端の席に座る男が口を開いた。

『果たして…そうでしょうか?』

全員の視線が向く。

SEELE6番目の席に名を連ねる事となったゲーリッヒだ。いつもならゲンドウ叩きの急先鋒が、今回は何故か沈黙を守っていた。

『どういうことかね?』

『我々は裏死海文書の記述をもとに、長い年月を懸けさまざまな遺跡を発掘し、貴重な遺物を収集してきました。これはまさに、この古文書が歴史の真理であり、我々SEELEこそが人類の真の導き手であることの証明でもありましょう…』

『まわりくどいな…。だから、それがどういうことだと聞いている!』

胡散臭いほど華美な表現に委員の一人が苛立ったような声を上げると、ゲーリッヒは軽く手のひらを持ち上げさえぎった。

『既存のどの文明にも該当しない謎の文字で書かれた預言書の解読には、想像を絶する困難さがつきまとうものです。解釈の違いは勿論、多少の相違などあって当然、いや、無い方がおかしい』

そこで一呼吸おいたゲーリッヒは、薄い笑みを浮かべながら言った。

『ただ…ここで問題なのは、この中で“裏死海文書の原本”に接触したのは唯一、キール議長お一人という事です』

狡猾そうな視線が、滑上げるように周囲を見渡す。委員の面々も互いに顔を見合わせた。

独自の教義内容から、異端視され、闇に生きる事を強いられたSEELEは、その長い歴史を覆し、自らの教義を証明するに足る事物を求めていた。

それこそが『裏死海文書』であり、彼らは謎の文字で書かれた古文書の解読を進め、荒唐無稽ともいえる内容を逐一検証した結果、これが人類の未来を予言したものだという確証を得るに至った。

彼等の勢力はそれを機に飛躍的に拡大し、全世界規模へと発展していったが、その原本だけは組織の歴代の長のみが所有を認められ、古参のメンバーにも全容を明らかにされることはなかったのである。

勿論、それに異を唱えた者など今まではいなかった。

しかし、長い年月をかけ、皆の心に燻っていたわだかまりではあった。

ゲーリッヒの言葉には、人間の心の暗部を突く奇妙な響きがあった。それを強く意識しながら男が更に言葉を続けようとした、その時である。

『何が云いたい…』

上座からキールの声が響いた。

殊更語彙を強めた訳ではないが、ゲーリッヒを始めとするメンバー全員の息を呑む気配が伝わった。豪胆なゲンドウですら、額に冷たい汗を滲ませている。

『私が、同胞である諸君達に虚偽の罪を犯していると…?』

『そ…そうは申しておりません。ただ、今回のアダム移送に関しても、本来の予定には無かった事…。我々にも納得のいく説明をと……』

ゲーリッヒは尚もしつこく喰らいつくが、キールのバイザー越しの視線を浴びると、怯んだ様に口を閉ざした。

『3号機及び4号機の追加配備に関しては一考しよう。補助パイロットはマルドゥック機関に一任する。…以上だ』

そう告げると、キールはまるでゲーリッヒの存在なぞ無いかのように一方的に会議を打ち切った。

他のメンバーも戸惑ったような視線を交わすが、次々とテーブルまわりから消えていく。

再び暗い闇が訪れ、ゲンドウだけがその場に残された。

 

 

 

会議を終え、地下の秘密部屋にやって来たゲーリッヒは、壁に飾ってあったワインを引っ掴むと中央のソファーにどかりと腰をおろす。

全身から汗が噴き出していた。

心臓を締め付けられるようなキールの眼光は物理的な圧力さえ感じたが、その屈辱を洗い流すようにワインを一息にあおる。液体が咽喉を伝わり、はらわたまで染み込むとようやく人心地がついた。

「フン…そうそうコチラの思惑通りにはいかんか…」

忌々しそうにゲーリッヒが呟く。

独・英・米・露・仏の5カ国の有力者からなっていたSEELE最高幹部。その権限は同等なはずなのだが、今まで彼等が議長であるキールに不平を言う事や、逆らう事などいなかった。これはキールが長たるに相応しい実績、人格、能力を持ち合わせていた事の証でもあるのだが、ゲーリッヒが議長に対して示した態度はその磐石の体制に一石を投じた形となった。

「だが…不信の種を植え付ける事は出来た。後はそれがどのような実を結ぶか……」

この小石が生んだのは小さな波紋かもしれない。しかし、その波紋は大渦となり嵐を呼ぶ可能性を孕んでいる。

ヘタをすれば自身すら滅ぼす危険性をも……。

「いや、何も恐れる必要はない。神はワシのもとにあるのだからな…」

ゲーリッヒが、再び杯にワインをなみなみと注ぐ。

本来なら有り得ないSEELE最高権力者6番目の席。

そこに名を連ねるまでになり果せたのも、神の導きがあればこそだ。

乾杯する仕種で杯を目の前に持ち上げると、それは手の中で、血の赤さをたたえたようにゆらゆらと揺れていた。

 

 

 

  NERV本部・集中治療室

 

レイは目が覚めた。

最初に目に入ったのは薄暗い天井。そしてガチガチに固められた右手のギブス。

レイは上半身を起した。周囲を見渡す。病院の治療室の一つだ。白い壁や脳波アナライザーが不自然なストロボ光によって点滅を繰り返している。

ベッドの隣に据え付けられていたコンピュータ端末には、レイの脳波が3Dグラフで表示されており、脳から伝わる電気信号の変化を秒単位で刻んでいた。

「生きている…」

骨折した右腕を見ても何の感慨も無いようにレイは呟き、身体の各部に取り付けられているチューブや注射針を無造作に引き抜くと、ベッドをおり裸足のまま部屋を出て行く。

自分がこうして生きて治療を受けている事を考えれば、使徒との戦闘には勝利したのだろう…しかし、その時の記憶はない。

だが、それ以上に気になるのはあの少年の事だ。

レイは廊下を進んでいく。

ジオフロントに注ぐ自動偏光ガラスの光量では正確な時刻は分からないが、多分真夜中だ。それが証拠にレイが廊下を歩いても誰一人としてすれ違う者はいなかった。

もっとも、誰かと会っても声をかけてくれる者などいないだろう。

彼女はずっと一人だったからだ。だが、それは周囲の者の責任ではない。レイ自身が周りとの繋がりに必然性を見出していなかった。自分に価値を見出していなかった。

でも、あの少年が言ってくれた。

キミはキミだと…。

他の誰でもない。綾波レイという一個人なのだと…。

使い古された陳腐な台詞かもしれない。

しかし、あの生死を賭けた状況で投げかけられた言葉は、少女にとって真実の響きを持っていた。

あの少年は知っていたのだろうか。

自分の秘密を…。

もう一度、声を聞きたかった。

右に曲がり左に折れ、奥に続く一室へと歩を進めていく。

そこは集中治療室となっていた。真夜中にもかかわらず明かりが灯っている。

廊下側の窓から中を覗くと、中央に円筒形の大型タンクがあり、そこかしこに大小のパイプ数十本が蛇のように絡み付く生命維持装置が設置されていた。

少年はその中で眠っている。

傷つき、横たわる身体の足元が、奇妙な形にへこんでいる。

それは少年の右脚が永遠に失われたことを意味していた……。




To be continued...


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