暁の堕天使

聖杯戦争編

第十四話

presented by 紫雲様


第3新東京市、未明―
 時計の針が日付を変更したばかりの頃、横になっていたアスカは、嫌な胸騒ぎを覚えて体を起こしていた。
 妙に早く鼓動を刻む心臓。全身から流れ落ちる冷や汗。そして左目に走る痛み。
 就寝前に飲んだ筈の睡眠導入剤が全く効果を発揮してくれない事に苛立ちを覚えながら、少女はベッドから身を起こした。冷蔵庫の中に冷やされていたジュースを飲み、とりあえず喉の渇きを癒す。
 その後、未だに鈍痛を訴える左目を良く見ようと、アスカは洗面所へ向かった。
 灯りをつけ、鏡に自身の顔を映す。
 
 深夜の葛城邸に、アスカの悲鳴が迸った。

冬木市、早朝―
 太陽の光が地平線の彼方から昇って来た頃、安全の為に結界内で一夜を過ごしていた加持達は、衛宮邸の玄関先にその姿を見せていた。
 深夜遅くに出かけて行った仲間達の出迎え。だが由紀香は『朝食の準備をしておいてあげたいの』と出迎えを断り、それに楓が『1人で準備するのは大変だろう』と手伝いを買って出ていた。
 衛宮邸の門前で、加持・一成・綾子・鐘の4人は帰還を待っていた。
 やがて、朝日を背に複数の人影が見えてくる。
 その中に見覚えのある人影を見つけ、一成は走り出した。
 「宗兄!?どうしてここに!」
 「一成か、すまないが詳しい事は後回しだ。いいな?」
 葛木の言い分に、首を傾げる一成。そこへ美綴と鐘は走り寄り、一成の叫び声を聞いた由紀香と楓も外へと出てきた。
 「遠坂!無事か?」
 「・・・そうね、私は無事よ」
 その歯切れの悪い言葉に、嫌な予感を覚える綾子。
 行く時にはいなかった筈の、桜や慎二、初めて見るギルガメッシュ達を順繰りに、顔を確認していく。
 その顔が止まったのは、蒼銀の髪をした、赤い瞳の少女だった。
 その顔に、加持が驚きで顔を引き攣らせる
 「レイ!レイじゃないか!」
 「レイ?・・・まさか、綾波レイですか?」
 「一成、済まない!それも後回しにさせてくれ!」
 親友の言葉に、ますます嫌な予感を強めていく一成達。その顔が強張ったのは楓の声だった。
 「・・・なあ、言峰はどうしたんだ?どうして、アイツがいないんだ?」
 顔を強張らせる凛。その場にいた全員が、顔を俯かせる。
 「おい、遠坂。何か言ってくれよ。衛宮、お前でも良いからさ、何か言ってくれよ・・・言峰は、言峰はどうしたんだよ!」
 「・・・マスターはここだ」
 一番後ろから、赤い槍を背中に背負ったランサーが歩み出てきた。その両腕に抱かれた人影。その顔を見た瞬間、楓達の顔が強張った。
 あまりにも大きなショックに、加持が不安そうに近寄っていく。
 「シンジ君、冗談だろ?君は罪を償うんじゃなかったのか?その為に第3新東京市へ帰るって言ってたじゃないか・・・アスカを置いて逝ってしまうのか?君は・・・」
 「加持さん・・・シンジは・・・」
 「士郎君。これは夢なんだよな?シンジ君は殺されなけりゃいけないほど、悪い人間じゃないんだぜ?君もそう思うだろ?そうだよな?」
 そこには、冷たくなった言峰シンジの姿があった。

NERV本部発令所―
 「状況は?」
 「昨夜、いえ、今朝の0時過ぎになります。宇宙空間を漂っていた筈のロンギヌスの槍が、突然、姿を消しました。MAGIによれば、光速を遥かに超える速度でロンギヌスは地球へ到達。その速度を維持したまま地上へ落下した事が報告されています」
 シンジによって召喚されたロンギヌスの槍。その一件は、平和を謳歌していたNERV本部へ激震をもたらしていた。
 使徒戦役以来、3年ぶりとなる緊急招集に、職員達は混乱の極みに達していた。そもそもロンギヌスは、使徒を撃破する為の武器として、一般職員や上級職員達には認識されている。だからこそ、使徒が再来したのでは?と緊迫していた。
 エヴァが一機も無い状況で、どうやって使徒に勝つのか?
 そんな不安が、職員達をパニック寸前にまで追い込んでいたのである。
 「ロンギヌスの落下地点はどこか分かるか?」
 「はい、日本の北海道、冬木市になります。人工衛星からの映像と、冬木市の地理の形状を比較した結果、冬木市にある柳洞寺というお寺の近辺であると判明しています」
 「なるほどな、碇」
 「冬月、任せる」
 「分かった。諜報部へ緊急通達。至急、調査チームを3チーム編成し、冬木市へ飛ばせ!定期連絡は一時間毎に行わせろ」
 諜報部へマヤが冬月の指示を伝える。そこへリツコが白衣姿で入ってきた。
 「赤木はか・・・いや、すまん。碇博士」
 「赤木博士でも構いませんわよ、副司令。それより、アスカの件ですが」
 その言葉に、冬月とゲンドウが厳しい表情を作る。
 「現在、アスカの体に起きている異常は1つです。左目の色素変化。アスカは白人特有の青い瞳ですが、これが黄色人特有の焦げ茶色の瞳へと変化しています。念のため、網膜の細胞を採取し、検査してみた所、興味深い事実が判明しました」
 小脇に抱えていたレポートを、リツコがそっと出す。
 「それは遺伝子の比較検査結果です。結論から申しますと、アスカの左目は彼女の物ではありませんでした。アスカが左目の移植手術等受けていないのは、御二人も御承知だと思いますが、これは事実です」
 「確かに、おかしな事実ではあるな。だが事実は事実として受け止めねばならん。それで、彼女の左目が他人の物だとすれば、本来の持ち主は誰なのかね?」
 「はい。それが・・・MAGIは5%の確率で、碇司令を支持しております」
 「・・・5%?」
 首を傾げる冬月。ゲンドウも困惑気味である。
 「・・・博士、何故5%という低確率にも関わらず、報告をしたのか。その説明をして貰いたい」
 「はい。まずMAGIが出した確率の中で、もっとも可能性が高い者として挙げたのが2人おりました。その1人が碇司令です」
 「・・・それで、もう1人は誰なのだ?私と同じ、5%の確率で弾きだされた人物の名前は?」
 「それが・・・碇ユイ博士なのです」
 今度こそ、ゲンドウと冬月は固まった。こんな所で聞くとは思っていなかった名前に、お互いに顔を見合わせる。
 「実は、その件で追加報告があるのです」
 「ふむ、言ってみたまえ」
 「はい。これは私の勘ですが、碇司令と碇ユイ博士との間に生まれた子供がいた場合、その子供は対象になるのかどうか比較してみたのです」
 改めて、レポート用紙を取り出すリツコ。それを目にしたゲンドウと冬月の顔が、明らかに変わった。
 「MAGIは94.7%、±3%の誤差範囲内の確率で、アスカの左目の持ち主であると断定しました」
 「だ、だが碇博士!サードチルドレンは!」
 「はい、副司令の仰るとおりです。サードチルドレンは、すでにこの世におりません。ですからあり得ない筈なのです」
 「・・・そうか・・・博士、ご苦労だった。とりあえずはロンギヌスの報告が来るまで、アスカ君の面倒を頼む。葛城一佐が着いていれば問題は無いとは思うが」
 ゲンドウの言葉に、リツコが頷く。
 「葛城一佐が傍にいるおかげで、彼女は落ち着きを取り戻しております。ですが、彼女から何か違和感を感じるのです。これはチルドレンの健康管理を行ってきた者としての勘なのですが、彼女は何かを隠しているように感じました」
 「そうか。ではアスカ君に負担をかけすぎない範囲で、そちらの調査も頼む」
 「了解しました。では何か判明次第、また御報告に伺います」
 退出するリツコ。その背中を見送った後で、冬月がオペレーター席に座っていた青葉に声をかけた。
 「青葉君。私と碇は司令室にいる。何かあったら連絡を入れて貰いたい」
 「了解です」
 直属の部下から返事を受けると、冬月はゲンドウとともに司令室へと向かった。

NERV本部、司令専用執務室―
 愛用の椅子に、ゲンドウが腰を深く沈める。そのゲンドウを、冬月が正面から見つめる。
 「碇。どうするつもりだ?」
 「・・・」
 「黙っているな!お前の息子の事だぞ!ロンギヌスの事といい、アスカ君の左目の件といい、間違いなくシンジ君が関わっているんだぞ!」
 冬月とゲンドウ。彼ら2人は、本当はシンジに関する記憶を取り戻していたのである。その原因は、加持と同じく、アダムの運搬が発端となっていた。
 「先生。ならばどうしろと言われるのですか?シンジは自らの意思で姿を消している。それも『自分は死んだ』と正式な記録を残してまでです。具体的にどうやったかは分かりませんが、それが事実なのです」
 「お前は実の父親だろう!碇!」
 「・・・その通りです。私はシンジが怖かった。成長するに従い、ユイの面影を色濃く残すシンジを、正面から見られなかった。シンジは・・・あまりにもユイに似ていた」
 ゲンドウが机の引き出しから、写真立を取り出す。そこには若かりし頃のゲンドウとユイ、そしてユイの腕の中で静かに眠る、赤子のシンジの姿があった。
 「人類補完計画。その罪故に、私はシンジを見られなかったのです。あれに慕われるほど、私は自分の罪を深く自覚せざるをえない。幻のユイと会う為に、実の息子を供物とする。その罪深さが、私を苦しめる。だからシンジを傍におけなかった」
 「・・・それは私も知っているとも・・・」
 「だから私はサハクイエルの時しか、シンジを褒められなかった。直接会っていなかったからこそ、私は初めてシンジを褒める事ができた・・・」
 ゲンドウの視線は、ジッと写真に注がれていた。
 「私はシンジを傷つける事しかできません。私は、シンジにどう向き合えば良いのか分からないのです」
 「お前の気持ちは理解できない訳ではない。だが放っておく訳にはいかない問題だ」
 「ええ、分かっています。まずは加持元一佐と連絡を取るつもりです。恐らく彼は、冬木市にいる」
 ゲンドウが手元のキーボードからMAGIを操作する。やがてある情報がプリントアウトされた。
 「今から約2年前の4月、彼は冬木市へ出張している。理由は『使徒戦役による孤児達のその後の追加調査』という名目ですが、何故、冬木市にだけ行ったのでしょうか?」
 「確かに奇妙だな」
 「それに葛城一佐との婚約解消後、彼はNERVを辞め、姿を消している。ですが、彼の姿が、その後、空港で目撃されています。彼が乗った飛行機は、北海道の新千歳空港行きでした」
 ほう?と呟く冬月。
 「これが偶然とは思えません。それに彼だけは、私達同様、アダム運搬に関する矛盾の当事者です。以上の事から推測すると、我々よりも早く、シンジの事を思い出していたと考えられる」
 「確かにあり得るな。シンジ君は彼の事を兄のように慕っていた。彼にしてみれば、年の離れた弟のように感じていたのかもしれん。意外に、面倒見の良い男だったからな」
 「ええ。私も同感です」
 写真立が、そっと引き出しの中へ仕舞われた。

衛宮邸―
 聖杯戦争の関係者、加えて一成達も含めた全員が、居間に集合していた。
 その片隅には、布団に包まれたシンジが横になっている。
 さらに枕元には、14歳のままの綾波レイが座り込んでいた。
 「・・・それが・・・事実なのか?」
 レイの口から、更には加持の口から語られた、使徒戦役の真実。
 それは言峰シンジ―本名、碇シンジであり、サード・インパクトによって滅んだ世界を再構成した19番目の使徒ルシフェルを名乗る少年の歩んできた歴史でもあった。
そのあまりにも悲惨な過去に、少女達の啜り泣く嗚咽が聞こえてくる。
「・・・加持一佐、お願いがあるの」
突然のレイの言葉に、加持が顔を上げる。
「どこか適当な隠れ家が欲しい。これだけの騒ぎになった以上、間違いなくNERVは調査に来る。その前に姿を隠したいの」
「その気持ちは分かるが・・・」
「私が碇君の傍に一生ついてる。私も碇君と同じ使徒だから、何も食べなくても生きていける。だから、私がずっと碇君を守るの」
「・・・綾波さん、1つ良いかしら?」
凛の言葉に、レイが顔を向けた。
「貴女の話を聞いていると、言峰君が生きているように聞こえるんだけど?」
「・・・碇君は生きているわ。でも死んでいるとも言える」
「詳しい説明をして貰えないかしら?」
「碇君は魂が吹き飛ばされてしまっている。本来ならATフィールドのおかげでそんな事は起きないのだけれど、ロンギヌスが碇君のATフィールドを弱めてしまった。そのせいで碇君は魂を失ってしまったの」
「それじゃあ魂を取り戻せば言峰君は蘇る、そういう事?」
レイが黙って頷く。その言葉に、凛とルヴィア、更にはキャスターが額を突き合わせて、喧々諤々の論争を始める。
その光景をみていたレイだったが、3人の間に彼女は割って入った。
「お願いだから、碇君を起こさないで」
「どうして!」
「碇君は、やっと休める時が来たの。碇君は心も体も傷つきすぎたわ。またこの世界へ戻ってきても、碇君には苦しみしか残っていないもの」
反論しようとする凛だったが、レイの赤い双眸に光る物に気付いてしまった。
「お願いだから、もう止めて。第3へ帰っても、あそこには弐号機パイロットがいる。彼女は碇君を憎んでいるわ。きっと辛い思いしかしない」
「・・・本当にそう思っているんですか?」
突然の桜の言葉に、レイが振り向く。
「私は言峰先輩の想いを聞きました。言峰先輩は、好きだったアスカさんを助ける為だけに、世界を再構成したと言っていました。アスカさんを守りたいから、言峰先輩は人類全ての精神へ干渉して、自分のアスカさんに対する好意を分けた、と言いました。そこまで言峰先輩に想われていた人が、そんなに悪い人だとは思えないんです」
「でも私は見てきたわ。あの赤い世界で、碇君は半年以上も、弐号機パイロットの看病を続けていた。でも彼女は一度もお礼の言葉を言わなかった。それどころか悪意と侮蔑、暴力で碇君に応えていた。碇君がどれだけ辛い思いをしていたのか。私だけはそれを目の当たりにしてきたの」
さすがにそこまで言われてしまっては、桜も黙るしかない。凛もルヴィアもキャスターも、同じように反論を封じられてしまった。
「・・・けどさ、綾波さん。それでも俺は、シンジを助けたいんだ」
「どうしてなの?」
「シンジが俺の親友だからだ。シンジはさ、ずっとハッピーエンドを願っていた。なのにシンジが欠けちまったら、全然ハッピーじゃないんだよ」
衛宮士郎という存在は、綾波レイも良く知っていた。レイはシンジの中で眠っていたが、
意識が無かった訳ではない。
 言峰シンジとしての経験。それをレイもシンジを通して共有していた。だからこそ、士郎がシンジにとって信用できる親友である事も、彼女は理解していた。
 何があっても、決してシンジを裏切らない親友。そしてシンジの苦しみの一端を理解しながら、それでも離れていかなかった稀有な存在。
 「でもさ、綾波さんが不安になる気持ちも分からない訳じゃないんだ。綾波さんが見てきた光景は本当の事だろうから」
 「それが分かっていて、碇君を目覚めさせたいの?」
 「ああ。それにね、彼女は変化してきていると思うんだ」
 士郎の脳裏に浮かぶ、碇ユイの墓での一幕。あの頃は、何故、アスカがお墓参りに来ていたのか、その理由が分からなかった。
 だが今なら分かる気がした。
 母親を通してのシンジへの謝罪。本当にシンジを憎んでいるのであれば、お墓参りに等来る必要は無い。それも僅しかないプライベートタイムを使ってまで来たりはしない。それが士郎の意見だった。
 「だからさ、綾波さんが自分で確かめてみると言うのはどうかな?」
 「私が?」
 「そう。別に綾波さんに第3まで行って様子を見てこい、なんて言ったりはしない。綾波さんはこの家で、シンジの面倒を看ていればいい。もしこの先、惣流=アスカがこの家を訪ねてくる事があったら、その時は綾波さんが自分で彼女の事を判断すれば良いと思うんだよ」
 その意見は、レイに取って受け入れやすい意見であった。レイにしてみれば、アスカはシンジを憎んでいる。そんなアスカがわざわざここまで捜しに来る事があるとは思えないからであった。
 「・・・そうね、でも迷惑ではないかしら?」
 「問題ないよ。綾波さんが住んだ所で、どうせ今さらだからね。それに、この家ほど安全な場所は無いよ」
 この屋敷には凛とルヴィア、イリヤが実質的に常駐しており、週の半分以上を桜が過ごしている。そうなると、彼女達が契約しているサーヴァントも、必然的にこの屋敷にいる事になる。加えて士郎自身のサーヴァントであるセイバーや、シンジのサーヴァントであるランサーまでいるのだ。今の衛宮邸は冗談抜きで、地球上でもっとも堅固な要塞と化していた。
 「分かった、その提案を受け入れるわ」
 「ああ、じゃあこれから頼むよ。とりあえず、あとで部屋に案内するから」

第3新東京市―
 簡単な診察と、精神安定剤をリツコから手渡されたアスカは、ミサトとともに葛城邸へと帰宅した。
 だがドアの前に、見覚えのある影が立っていた事に気付く。 
 「ヒカリ?それに2馬鹿コンビまで、どうしたのよ?」
 「なんや、その言い方は!」
 「鈴原!今はそんな事言ってる場合じゃないでしょ!」
 夫婦漫才の勃発に、ミサトが笑いながら口を挟む。
 「外で喧嘩するのは迷惑だから、中へ入りなさい」
 「「「ありがとうございます!」」」
 リビングルームへ通される3人。通いの家政婦とアスカの自発的行動により、リビングは文明圏に属するぐらいには綺麗に整頓されていた。
 紅茶を注いで手渡しながら、アスカが口を開く。
 「それで、何かあった訳?ヒカリはともかく、アンタ達が来るなんて、珍しいじゃないのよ」
 「ああ、ちょいと真面目な話でな・・・」
 言いづらそうなヒカリとケンスケ。その様子にミサトが気を利かせて退室しようとする。
 「ミサトさんもここにいて下さい。間違いなく、ミサトさんも関係してるんですわ」
 「そうなの?それならいるけど・・・」
 再度、腰を下ろすミサト。そこでトウジが口を開いた。
 「惣流、それにミサトさん。2人に聞きたいんや。センセはどうしてるんや?」
 その言葉にアスカは凍りつき、ミサトは首を傾げた。
 「センセ?センセって誰?」
 「エヴァンゲリオン初号機のパイロットでサードチルドレンの碇シンジの事や。ワイがセンセのツラをぶん殴って、その後でシェルターを抜け出して以来、ずっと付き合いのあった碇シンジの事や!いつもこの家で食事やら掃除やら洗濯やらしてた、ワイとケンスケのダチや!」
 「碇・・・シンジ・・・痛ァ!頭が・・・」
 頭痛を感じて、頭を押さえるミサト。だがすぐに顔を上げた。
 「・・・そうよ、シンちゃんよ!シンちゃんは、シンちゃんはどこに行ったのよ!」
 「それが分からんから、ワイら相談に来たんです。ワイら3人、昨日まではセンセの事をすっかり忘れとったんや。この3年間、ただの1度も思い出せなかったんや。それが今朝になって、急に思い出したんや!それに・・・ワイの足や!記憶が正しければ、ワイの足は義足のはずなんや!なのに、この足は本物なんや!」
 「・・・今日、バレンタインですよね。私チョコを用意しながら考えてたんです。アスカは誰に贈るのかなって・・・そしたら碇君の事を思い出して・・・」
 「それだけじゃないんですよ、ミサトさん。実はシンジのデータがどこにもないんです」
 ケンスケの言葉に、ミサトが『詳しく説明して』と返す。
 「俺はシンジの写真をたくさん撮ってきました。俺にはその記憶があるんです!でもシンジはどこにも写っていないんだ!これを見て下さい!」
 バサッと広げられる複数の写真。だがそのどこにもシンジの姿はない。
 「ミサトさん、教えて下さい!一体、シンジに何があったんですか!アイツはこの3年間、どこにいるんですか!」
 その答えを持たないミサトにしてみれば、答えられる訳もない。必死で記憶を手繰り続けるミサトから視線を外したヒカリは、アスカの顔の異常に気が付いた。
 「ねえ、アスカ。貴女、どうして左目の色が変わっているの?」
 友人として心配するからこその質問。だがそれは、今のアスカにとっては決してされたくない質問でもあった。
 全身を細かく震わせるアスカを見かねて、ミサトが助けを出す。
 「理由は分らないんだけど、夜遅くに左目に痛みを感じて起きたらしいのよ。それで鏡で確認してみたら、こうなっていたと言う訳。原因は全くの不明だそうよ」
 「・・・じゃない・・・」
 アスカは覚えている。サード・インパクトの起きた、赤い世界。あの世界で、アスカは感情の赴くままに行動していた。そしてその犠牲となった少年がいた事を。少年の名前も、性格も、どんな人間でどんな事を自分にしてきたのかも、今のアスカははっきりと思い出していた。
 そんな少年が、去り際に自分へ残した物。隻眼となった自分へ、押し付けるかのように眼球を移植した少年。
 「・・・アスカ?」
 「不明じゃない・・・アタシ、知っているの・・・この眼の理由を・・・」
 驚きに目を見開くミサト。
 「この眼は、馬鹿シンジの目なのよ!アタシの為に眼球を押し付けて行った、あの馬鹿の物なのよ!」
 「アスカ!一体、どういう事!?詳しく聞かせて!」
 「・・・無理よ。アタシ『さよなら』って言われた・・・」
 「アスカ!しっかりしなさい、アスカ!・・・本部、すぐに救急車を!それからリツコをスタンバイさせて!」
 「・・・もう・・・手遅れなのよ・・・」
 携帯電話で本部に連絡を取るミサトは、痛ましげに妹分を見つめていた。

NERV本部会議室―
 ミサトからの緊急要請を受けて、会議室にはゲンドウを筆頭とする上級幹部が全員集合していた。
 そして最後に入ってきたのは、ミサトとリツコ。リツコの手はアスカが座る車椅子を押している。その後ろには、ヒカリ・トウジ・ケンスケが続いていた。
 「葛城一佐。どうして部外者を連れ込んだのかね?」
 「はい。それも含めて説明します。今回は緊急事態と言う事もあり、このような強硬を行いました。後ほど、改めて謝罪は致しますので、どうか話だけでも聞いてください」
 いつになく真面目なミサトの言葉に、冬月が苦言を飲み込んでゲンドウへ判断を委ねる。
 「良いだろう。まずは話を聞こう」
 「はい、ありがとうございます。では、鈴原君。さっき、私の部屋で言った事を、もう一度話してくれるかしら?」
 「は?ワ、ワイですか?・・・分かりました、それじゃあ・・・」
 トウジの口から語られる碇シンジの話を聞いた幹部達の顔に、驚愕が浮かんでいく。マヤ・青葉・日向・リツコ、彼女達も話を聞くうちに、碇シンジの事について記憶を取り戻していた。
 「ど、どういう事ですか!?先輩!」
 「落ち着きなさい、マヤ!」
 パニックに陥る後輩を、リツコが慌てて窘める。
 「・・・そうか、君達も思い出したのか」
 「司令?まさか・・・」
 「そうだ。私と冬月は、もっと前に思い出していたのだよ、シンジの事を」
 その言葉に、ミサトが噛みついた。
 「だったら!どうしてシンジ君を探そうとしなかったんですか!」
 「・・・シンジがそれを望んでいなかったからだ。方法は分からんが、シンジは自分が生きていた痕跡をすべて消し去り、あまつさえ4歳で交通事故死という記録まで作り上げた上で姿を消していた。それが何を意味するのか、君に理解できない訳ではないだろう、葛城一佐」
 「で、ですが・・・」
 「それよりも大きな問題がある。何故、今日になって、このような事態が起きたのか?それを究明しなければならん」
 ゲンドウの言葉に、全員が背筋を正す。トウジ達高校生トリオも、部屋の隅で直立不動の体勢をとる。
 「アスカ君。君に訊きたい事がある。何故、君の左目がシンジの目なのか?その説明をして貰いたい」
 ビクッとアスカが身を震わせる。
 「答えて貰いたい。そこに解決の糸口がある筈なのだ」
 「・・・嫌よ・・・思い出したくない・・・」
 「アスカ君!」
 「嫌よ!アタシはシンジに『さよなら』なんて言われてないんだから!」
 車椅子から立ち上がり、アスカが絶叫する。彼女は自分が別離の言葉をかけられた事を誰よりも良く理解している。同時に、それを認めたくない自分がいる事も理解していた。その矛盾による混乱が、勝気な瞳からボロボロと涙を流させた。
 「・・・そうか、その左目はシンジの置き土産だったか」
 「違う!シンジは・・・シンジは!」
 「甘えるな、アスカ君。確かに我々は、君達チルドレンに対して負い目を持っている。それは事実だ。だが、だからと言って何でもかんでも受け入れる訳ではない。一体、君とシンジに何があったのだ!」
 誰も見た事がないゲンドウの一喝に、全員の視線が集まる。普段からゲンドウと他者との調整役を務める冬月ですら、口を挟めずにいた。
 「第3使徒サキエル以来、最後まで前線に立ってきたのはシンジだった記憶が私にはある。だが残されている記録では、君が戦い続けてきた事になっている。この矛盾は何なのだ?どうして、こんな事になってしまったのだ?」
 「・・・嫌・・・思い出したくない・・・」
 「アスカ君!」
 「司令、落ち着いてください。お気持ちは分りますが、彼女も混乱しております」
 リツコの介入に、ゲンドウが素直に引き下がる。
 「アスカ。お願いだから力を貸して。今回の件、どう考えてもおかしいのよ」
 「・・・リツコ?」
 「貴女の目と言い、記憶と記録の矛盾と言い、全てにシンジ君が関係しているのは間違いない。それぐらいは私にも分かる。それは今まで上手く行っていて、何も問題は無かったわけよね?」
 コクンとアスカが頷く。
 「だったら、どうして急にこんな事になってしまったの?もしシンジ君が全てに関係していると仮定したら、当事者であるシンジ君の身に何かがあったと考えるのは、それほどおかしな事かしら?」
 「・・・シンジに・・・何か・・・あった?・・・」
 「そうよ。貴女には伏せられていたけど、実はもう一つ、異常事態が起きていたのよ」
 リツコがゲンドウへ振り向く。そのリツコに、ゲンドウは黙って頷いて見せた。
 「ロンギヌスが地上へ落下したのよ。本日0時過ぎに」
 「ロンギヌスが!?」
 「そうよ。これが偶然とは思えないわ」
 アスカが呆然とする。そんなアスカに、リツコに代って冬月が言葉を続ける。
 「量産型戦の最中、ロンギヌスは初号機の呼びかけに応えて、宇宙から初号機の元へと呼ばれた実績がある。これはロンギヌスが初号機、ひいてはシンジ君を己の主として認めていたのではないかと思うのだ」
 「ロンギヌスの主?シンジが?」
 「うむ。そのロンギヌスが落下した。いや、私の予想が正しければ、ロンギヌスをシンジ君が呼び出したのではないかと思うのだ。これが意味するところ。それはロンギヌスを必要とするほどのアクシデントに、シンジ君が見舞われたのだと私は考えている」
 今度こそ、アスカの顔が恐怖で凍りついた。冬月の言葉の意味を理解できないアスカではない。最悪、シンジが死んだかもしれない可能性に気づいたのである。
 「アスカ君。お願いだ、君の知りうる限りの真実を教えて貰いたい。量産型戦の最中、サード・インパクトが起きた事までは私も思い出せた。その後、一体何が起こったのか?それが分からないんだ」
 逃げ場の無くなったアスカの口から、その後、半年間にわたる赤い世界の出来事が語られた。

 アスカの口から語られた赤い世界での出来事に、列席者達は言葉もなかった。
 その気になれば、アスカは自分に都合の悪い事だけを脚色して説明する事もできた。だが彼女はそうしなかった。
 自分がシンジに対して行った仕打ちについても、正直に口にしていたのである。
 それを聞いた大人達は、誰一人としてアスカを責めなかった。
 彼らも自覚していたのである。子供達をそこまで追い込んでしまった原因が、本当は自分達にある事に。ゲンドウや冬月にとっては、特に痛い言葉であった。
 嗚咽を漏らし続けるアスカを、懸命に慰めるヒカリ。トウジは拳を握りしめ、シンジに襲いかかった理不尽な運命に怒りを覚えていた。ケンスケはシンジの支えになってやれなかった事に後悔をしていた。
 突然の呼び出し以来、最前線で戦ってきたシンジを見てきた大人達も項垂れていた。世界の再構成後、マヤは青葉と、リツコはゲンドウと結婚し、それぞれ幸せな家庭を築いている。そんな幸福の陰で、一番辛い思いをしていたシンジが、現在進行形で苦しみ続けているかもしれない事に気づいた今、それを知らなかった事にはできなかった。
 日向はまだ相手がいないが、それでも今の平和を謳歌している。ミサトも加持と破局となったものの、それなりにアスカと楽しく生活してきた。
 だがシンジはどうなのか。それを考えると2人の心に暗雲が垂れこめていく。
 「・・・事情は分かった・・・辛い事を思い出させて、すまなかった。アスカ君」
 「・・・良いんです・・・アタシはもう・・・シンジの傍にはいられないから・・・」
 ガックリと項垂れるアスカは、もう顔を上げようともしなかった。
 「アスカ、本当にそれでいいの?碇君の事、諦めちゃうの?」
 「ヒカリ?」
 「碇君はアスカの為に世界を創り直したんでしょう?そこまでアスカの事を大切に想っていたんだよ?自分の目をアスカにあげても平気なぐらい、大切に想っていたんだよ?それなのに、アスカが諦めちゃうの?」
 親友の励ましに、アスカが疲れきった瞳でヒカリを見つめる。
 「間違えたのなら、やり直そうよ!碇君優しいから、きっと許してくれる。だから、元気出してよ!」
 「・・・でも、シンジにはファーストがいるもの・・・」
 「綾波さんがいるから諦めちゃう訳?アスカにとって、碇君はその程度の人だったの?」
 視線を落とすアスカ。その頬に痛みが走ったことに、アスカは遅れて気が付いた。
 「顔をあげなさい!アスカ!」
 「・・・ヒカリ?」
 「甘ったれるな、アスカ!碇君の想いを、今の貴女は踏みにじっているのよ!それが理解できないアスカじゃないでしょ!」
 「・・・そうだね・・・アタシ・・・馬鹿だった・・・アタシはいつも・・・大切な物を忘れちゃうね・・・」
 徐々に瞳に光を取り戻していくアスカ。その光景に、ゲンドウが声を張り上げる。
 「葛城一佐!」
 「は、はい!」
 「アスカ君を連れて自宅待機せよ。何かあれば、すぐに動けるようにな」
 「了解です!」
 何事かと訝しげな視線が、ゲンドウへと集まる。
 「この件に関して、すでに我々より先んじて動いている者がいる。この件に関して、我々はその者と接触を図っていく」
 「司令、それは誰なのですか?」
 「加持元一佐だ」
 今度はミサトの顔が凍りついた。
 「これは推測だが、彼は2年以上前にシンジの事を思い出していた可能性が高い」
 「アイツがですか?」
 「そうだ。君との婚約破棄といい、NERVの突然の退職の件と言い、何か裏があるとは思っていた。だがシンジが関係していたとすれば、全てに筋が通る」
 「それでは、アイツは」
 「自分一人、のこのこと幸せになれるような男ではないだろう。そういう男だからな」



To be continued...
(2011.05.07 初版)


(あとがき)

 紫雲です。今回もお読み下さり、ありがとうございます。
 暁の堕天使・聖杯戦争編は今回で最終話となります。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
 ですが話は終わりではありません。次回より、暁の堕天使・hollow編が開始となります。主人公はリタイヤしたシンジに代って、アスカが主人公を務めます。
 舞台となるのは聖杯戦争終了から約1月後の冬木市。リタイヤしたシンジに代わり、アスカが主人公を務めます。シンジを取り戻す為、繰り返される4日間を駆け抜ける少女にもう少しの間お付き合い下さい。話数としてはプロローグ・本編10話前後・後日談2話の合計13話ぐらいで終了の予定です。
 それでは、また次回も宜しくお願い致します。



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