堕天使の帰還

27祖編

第一章

presented by 紫雲様


 「・・・ここは・・・」
 ふと気がつくと、碇シンジは暗闇の中にいた。いや、正確に表現するなら、そこは完全な暗闇ではなかった。少し離れた場所には、街灯が時折切れかけるように点滅を繰り返している。彼がいるのは、人通りのない暗い路上だった。
 「綾波の言った通り、過去に戻れたのか・・・でも、今はいつなんだろう?」
 暗い夜道には、全く人通りは無い。だからといって立ち止っていたとしても、誰かが通りかかってくれるようには、全く思えなかった。
 心の中に大きな不安を感じながら、彼は歩き出した。10分ほど歩くと、彼の視界に大きな公園が飛び込んできた。
 「ここ・・・知ってる・・・間違いない、先生の近所にあった公園だ」
 その公園は、彼の記憶と全く同じ姿を留めていた。叔父夫婦の家に引き取られていた頃の彼は、疎外感に耐えられず、夜遅くまで一人この公園で遊んでいたのだ。同時に、「妻殺しの息子」と蔑まれ、虐められてきた場所でもあった。
 駅のホームへ置き去りにされた幼い自分・・・悲しみの記憶。
 叔父夫婦に愛されない自分・・・孤独の記憶。
 蔑まれ、虐められていた自分・・・苦しみの記憶。
 幼い頃の記憶は、彼の心を苦しめていく。『内罰的』と少女に評された彼の心は、間違いなく、この頃に形成された。
 そして、心の底から湧きあがってくる、なんとも形容しがたい不快感。それは不快感を彼にもたらしていた筈なのに、どこか受け入れやすい面を持ち合わせていた。
 自分自身の内面を持て余してしまい、激しく顔を横に振る。
 「・・・そういえば、明日香はどうしたんだろう?ひょっとして、過去のドイツへ戻ったのかな・・・」
 本音を言えば、彼は少女に会いたかった。だが、それは許されない。何故なら『碇シンジという存在は彼女に相応しい人間ではない』そう思い込んでしまっていたから。
 暗闇の公園は、負の感情を持て余す少年の心を、今まで以上に激しく揺さぶり始めた。
 「・・・明日香を傷つけ・・・綾波を犠牲にして・・・そんな僕に、本当に生きる価値があるんだろうか・・・」
 「・・・奇妙な気配を感じて来てみれば・・・随分と自虐的な悩みを抱えているのね」
 ふと聞こえてきた、からかう様な女性の声。顔をあげたシンジは、その声の持ち主を目の当たりにした瞬間、間違いなく凍りついていた。
 雲の切れ目から、その顔を覗かせた、白い満月。その月明かりに照らされた女性は、非常に整った顔立ちと、足首まで届く紅茶色の髪の毛を持つ少女だったのだから。彼女の顔立ちは間違いなく美少女と呼ばれるものであり、年齢的にも彼と同年齢のように見える。
 「明日香・・・」
 シンジは茫然としていた。彼が求める最愛の少女が、そこに立っていた。

 「まあ、私に見とれてしまったのは許しましょう。これでも、私は寛大な心の持ち主なのよ。幼い子供の心を占領してしまうほど、美しい私こそ責められるべきなのです」
 その言葉を聞いた彼は、心の中で確信していた。
(絶対に、この女の子は明日香じゃない。明日香とは違った方向へ、突き抜けた性格をしている・・・ん?幼い?)
 「えっと、一応確認したいんだけど、多分、僕と君は同い年だと思うんだよ。これでも僕は14歳なんだけど」
 「・・・14歳?どうみても小学生にしか見えないわ」
 「ちょ、ちょっと待ってよ。確かに僕は決して大きい方じゃないけど、小学生は言いすぎだと」
 彼の言葉は、途中で凍りついていた。目の前に立っている少女は、間違いなく長身の部類には入らない。異常があったのは、彼の視線であった。間違いなく、彼は少女を見上げていた。
 嫌な予感。背筋に走った寒気。
 「一つ、質問してもいいですか?」
 「いいわよ。今日の私は良い気分なの。珍しい『拾い者』がありましたし」
内心で『ひょっとして』と最悪の事態を予想していた彼は、少女の微妙なアクセントの差異には、全く気付いていなかった。
「今は西暦何年でしょうか?」
「変な質問ね。でもいいわ、教えて差し上げます。西暦2010年ですわ」
「・・・2010年?本当に?」
唖然とするシンジ。2010年というのが事実なら、当時の自分は10歳、小学4年生である。
改めて自分の体を見直してみる。記憶にあるより、両手が小さいように見える。試しに靴を脱いでサイズを確認してみた。靴底に書かれていたサイズは、まちがいなく小学生の靴の大きさ。
彼の脳は、処理速度こそ遅かったが、それでも確実に現実を認識しようとしていた。
『体は小学4年生。でも心は中学2年生』
その場に座り込み、額に指を当て、グリグリ押しつける。しばらく経つと、とりあえずは折り合いをつけることに成功したのか、彼は再び立ち上がった。
「えっと、教えてくれてありがとうございました・・・その・・・」
「アルトルージュ。アルトルージュ=ブリュンスタッド。それが私の名前。ところで、あなたの名前は何と言うのかしら?」
「碇シンジと言います」
「・・・いたって普通の名前ね・・・幻想種なのに・・・」
首を傾げている少女。
「そういえば、この子も紹介してあげないといけないわね。おいでなさい」
少女の背後から、ぬっと巨体が現れた。その巨体は真っ白な毛並みに覆われており、美しさを通り越して、畏怖すら感じさせるほどである。
一言で表すなら、その巨体は犬であった。もっとも、体長が2メートル近い犬など、この世に存在しないが。
シンジも驚きのあまり、体が硬直していた。その驚きがあまりにも強すぎて、犬の登場の不自然さに、全く気付けないほどに。
「この子の名前はプライミッツ=マーダー。私を守ってくれる護衛です」
アルトルージュの表情は笑っていた。だが彼女の眼だけは、全く笑っていなかった。その眼は、まるで碇シンジという存在を値踏みするようである。
「・・・ごめんなさい、思わず驚いちゃいました。えっと、プライミッツ=マーダーだよね。僕は碇シンジと言います。よろしくね」
シンジの台詞は、アルトルージュの顔を強張らせるに値する物であった。
本来、人間という存在は、プライミッツ=マーダーを見れば、間違いなく凍りつく。それは『霊長の殺人者』『ガイアの怪物』と呼ばれるプライミッツ=マーダーに対する本能的な恐怖なのだ。
だが、アルトルージュの驚愕は、ここからが本番であった。
「奇麗な、白い毛だね。触ってもいいかな?」
手を伸ばすシンジ。慌てて止めようとするアルトルージュ。人間如きが触れようとすれば、プライミッツ=マーダーは間違いなく、その人間を殺す。彼は死徒27祖第1位たる存在。その誇り高さは、ある意味アルトルージュ以上なのである。自らに触れていいのは主であるアルトルージュ唯一人。それが彼女の護衛である、彼の誇りなのだ。
けれども、シンジに触れられた『ガイアの怪物』は、気持ち良さそうに目を細めているのである。
「あなた、この子の事が怖くないの?」
「うーん、本当の事を言えば、驚いたよ。冷静に考えてみれば、この子が一体どこに隠れていたんだろう?とか・・・でも怖いとは思わなかった。たぶん、今までに非常識な体験をしてきたせいかな・・・それよりも、ヌイグルミみたいでフカフカしてそうだから、触ってみたいと思ったんだ」
長い年月を生きてきた彼女だが、プライミッツ=マーダーをヌイグルミと同列に扱う人間など、一度も見たことがなかった。
あまりの衝撃に、彼女の両目は驚きで見開かれていた。
「・・・たしか、シンジと言ったわね?」
「うん」
「ついてきなさい」
歩き出すアルトルージュ。いつのまにか姿を消している白い護衛。
「あれ?あの子は?」
「ふふ。あとで全部説明してあげる。これから楽しくなりそうね」

「「おかえりなさいませ、姫様」」
そこは豪奢な部屋であった。シンジは見たことなど一度もなかったが、彼がいる場所はロイヤルスイートと呼ばれるホテルの一室である。
厳選された調度品、壁に掛けられている絵画、片隅に置かれている花瓶には生花が活けられており、僅かな香気を部屋に放っている。
そして二人(というよりアルトルージュをだが)を出迎えたのは二人の青年であった。一人は漆黒のスーツに身を包み、シンジを剣呑な視線で見つめている。もう一人は純白のスーツに身を包み、こちらはシンジに好意的?な視線を向けていた。
(・・・何でだろう?何でカヲル君を思い出したんだろう?)
かつての親友の事を思い出すシンジ。その横でアルトルージュが口を開いた。
「この子はシンジ。碇シンジ。散歩の途中で見つけた拾い者よ」
相変わらず微妙なアクセントなのだが、幸か不幸か、シンジはその事に全く気付いていない。
「姫様、発言をお許しください。このような事は言いたくなどありませぬが、捨て犬を拾う様な真似は、なさらぬがよいかと存じます」
シンジ=捨て犬。ある意味ピッタリな連想ではある。
「リィゾ。シンジは私が見つけてきたのよ?」
「は、申し訳ありませぬ。差し出がましい事を申し上げました」
「いいわよ、それがリィゾの仕事なのだから」
リィゾと呼ばれた黒スーツの青年が、一礼をしたあと、スッと後ろへ下がる。
「姫様。質問がございます」
「何?フィナ」
「その少年は、私へのお土産なのでしょうか?」
フィナと呼ばれた白スーツの青年の発言に、シンジがビクッと身を震わせる。本能的な恐怖を感じたのだろうか?
「そうね・・・シンジを抱きしめる事ができたら、私より先に飲んでもいいわ」
何を飲むんだろう?そうノンビリ考える暇は、シンジには与えられなかった。理由は単純。目を血走らせたフィナが、行動に移ったからである。
「いやだ、こないで!」
「何、安心したまえ。私は経験豊富だからな、全てを私に委ねたまえ」
思わず逃げようとしたシンジだが、いつまで経ってもフィナはそれ以上の行動をとってこない。恐る恐るフィナを見ると、そこにフィナはいなかった。
「・・・僕を助けてくれたの?」
シンジの目の前にいたのは、純白の体毛に身を包んだ巨大な犬、プライミッツ=マーダーであった。その巨体から繰り出された両の前足の下には、フィナが背中を押さえつけられている。ちなみに彼の頭部がプライミッツ=マーダーの口の中に消えているように見えるのは、気のせいではなく事実である。間違いなく、フィナは頭を噛まれていた。
「ありがとう!プライミッツ=マーダー」
シンジのお礼に気を良くしたのか、プライミッツ=マーダーはフィナから離れると、シンジの顔を、その巨大な舌でもって舐めはじめた。
「くすぐったいってば」
にこやかに笑うシンジ。じゃれつく『ガイアの怪物』。そのありえない光景に、沈着冷静かつ勇猛果敢、忠節無比でならしたリィゾが、失礼だとは思いながらも、主である少女へ無言の説明を求める。
「見てのとおり、プライミッツ=マーダーはシンジのことがお気に入りなの。それよりもリィゾ、4人分のお茶を用意しなさい」

「えっと・・・つまりみなさんは吸血鬼と呼ばれる存在で、その中でも特に偉い人達―死徒27祖と呼ばれる存在なんですね?でもアルトルージュさんがお姫様だったなんて」
紅茶を口に含み、説明された内容を思い出すシンジ。鼻孔をくすぐる紅茶の香りは、茶葉の質だけではなく、リィゾの技術も高かったのか、とても素晴らしい香りであった。
「私がお姫様なのが、おかしい?」
獲物を捉えた猫を連想させる笑みを浮かべるアルトルージュ。その表情は、シンジに最愛の少女の姿を思い出させた。
「そ、そんなことはないです!ただ、知り合いの事を思い出しただけです」
耳元で大きな声をあげられて驚いたのか、プライミッツ=マーダーがシンジの顔を見つめている。
プライミッツ=マーダーは本来、アルトルージュの命令には完全服従するのだが、今だけは命令を無視していた。説明の間、アルトルージュは隠れているように命じていたのだが、それに対して首を横に振ると、ソファーに座っていたシンジの膝に顔を乗せて、目を瞑ってしまったのである。
もしプライミッツ=マーダーが人間の少女だったら、それは非常に絵になる光景であっただろう。だがそれを見る3人は、それぞれ葛藤していた。
アルトルージュは僅かな苛立ちを。リィゾは自分が夢でも見ているのでは?と。フィナは嫉妬のあまり、本気でプライミッツ=マーダーを睨んでいた。
「知り合いねえ・・・そういえば、シンジの事も説明してほしいな。私があの場所にいたのは、大きな力を感じたからなの。たぶん、あなたが関係しているはず」
「僕も上手く説明できる自信はありませんが、最初から説明します」
シンジの口から語られる驚愕の事実。2ndインパクトは問題ない。それは27祖である彼女達も体験してきた事実なのだから。
だが、エヴァンゲリオン・ネルフ・使徒・ゼーレの説明から始まり、シンジが3rdインパクトの起きた未来において第18使徒となり、さらに過去へ移動してきたという話は、27祖の中でも最上位と言っていい彼女らをもってしても、信じがたい話であった。
「正直、信じられないわ・・・使徒の存在は、今まで発見されなかった幻想種なのだと思えなくもない。でも時間移動なんて・・・」
「姫様、発言をお許しください」
許可を与える視線を向けられると、リィゾは口を開いた。
「君の発言が真実かどうかは私には分らない。だが、君に尋ねたいことがある。君は、これから何をしたいのだ?」
「・・・僕は3rdチルドレンとして戦いました。大人たちにとって、僕は3rdチルドレンという名前の部品でしかなかった。父さんにとっては母さんを取り戻すための生贄、ミサトさんにとっては復讐のための手駒、リツコさんにとっては父さんに対する当てつけ・・・だからかな、心の底から、人類を守りたいとは思っていない」
シンジの視線は、残り少なくなった紅茶の表面を、ジッと見つめていた。
「僕が守りたかったのは、本当に一握り・・・綾波、トウジ、ケンスケ、委員長、そして僕が一番守りたかった明日香・・・たった5人、僕が守りたかったのは、たった5人だけだった」
顔を上げると、シンジは挑みかかるかのようにリィゾを見た。
「僕はあんな結末を許せない!もしあれが神様の決めたシナリオだというのなら、そんな神様は殺してやる!」
シンジの瞳に宿る強い意志。そこに混じっている、小さな違和感に気づくことなく、リィゾは満足げな表情を浮かべた。
「私もシンジ君に共感するね」
フィナの発言に、その場の視線が集中する。
「すべての美少年が失われる世界など、我が固有結界『パレード』をもってすれば・・・」
そのまま崩れ落ちるフィナ。その背後には、いつのまにか移動していたアルトルージュの姿があった。姫という称号に相応しい、たおやかな両手には、どこから持ってきたのかは不明だが、アルトルージュより大きな壷が抱えられ、その底は赤く染まっていた。
「とりあえず、あなたの事情は理解できたわ。そこで提案なんだけど・・・シンジ、死徒になってみない?あなたにとっても悪い話ではないはずよ?」
「それって吸血鬼になるってことですよね?でも昼間に出歩けなくなるのは・・・」
「それについては問題ないわ。死徒の中にはデイ・ウォーカーといって太陽に平気な者たちもいるの。私もその一人だから、私の血族になれば、あなたもデイ・ウォーカーとなれるの」
 考え込むシンジ。その原因は、やはり人間でなくなること、その一点にあった。
 4年後に再会するであろう友人達に、化け物呼ばわりされたくなかった。何より、自分が想いを寄せた少女に化け物と呼ばれたら・・・そう考えた瞬間、シンジは思い出した。
 『自分は明日香に相応しい人間ではない』
 自らの意思で、自身の心に刻み込んだ傷跡が、例えようもない苦しみをもたらした。
 「僕を死徒にしてください。例え、みんなに化け物と罵られても構わない。あんな世界を見ないで済むのなら、僕は化け物になります」
 アルトルージュが静かに近寄る。間近で見たアルトルージュの顔は、シンジに明日香と交わしたファーストキスを思いださせた。
 首筋に潜り込む牙。何かが体から吸われていく感覚。ゆっくりと失われていく意識。シンジの口が、明日香と動いた事に、アルトルージュだけが気づいていた。



To be continued...
(2010.01.09 初版)


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